「ユニーク・難解…「学士」増殖、700種類」という記事にぶつかった。大学を卒業すると学士という称号を授与される。明治時代に出来た大学制度、当時は数えるほどしかいなかった大学卒業生も今では年間何十万人にのぼる。学士の称号は、1991年まではある程度規制されていたために数に限りがあったが、自由化されてからはうなぎ登りに増え続けた。ユニークさという点ではいい事のように聞こえるが、問題はその内容だ。卒業生自身、専門性を説明できないものが多くいるという。特に海外留学する人は、留学先で説明しなければならないが、自分が学んでいる学部をうまく表現できない。
大体、外部の人だって学部の名称を見て直ぐに何が専門なのか解らない場合が多くある。ユニークさを売り物にしたい大学は競って他の大学に無い名称を付けるようになる。従って、何が専門なのか絞れない。想像をしてもよく理解できない。そんな学部を卒業した人は、自分が何を学んだのかしっかり説明できるのだろうか。昔は確かに縦割りのような名称だった。専門性を伺うことが出来た。とはいえ、それだからといって文学部、法学部、経済学部、商学部、工学部、理学部、医学部、薬学部、などを卒業した人が、専門家になっているかといえばそうでもない。
その道の専門家は、それこそ博士号を持っているとか、国家資格(弁護士、会計士、税理士、司法書士など)を持っていれば専門性があると認められる。普通の勤め人ということになるだろう。学士の称号が、どの程度専門性を語れるのか非常に難しい面がある。最近は、学部を跨いだ学問が必要な場合も多く見受けられるからだ。例えば、医学と法学、医学と工学、化学と法学、など全く異なる分野の学問を習得することで、別の意味の仕事が生まれてくる。テレビドラマではないが、化学と警察などは切っても切れない仲になる。
学士の称号がこれほど多くなってくると、そもそも学部とは何か、ということも関心が出てくる。東大には教養学部というのがある。他の大学には見られない学部である。新しい学部を作ることで、大学では何を狙っているのか。他の大学と差別化を図る、ということだけでは全く意味が無い。名前だけユニークだったとしても、その中身が問題である。寄せ集めた学問をただ修得するだけでは、世の中に対応することは出来ないだろう。独自性というが、それが何をすることに繋がるのか。学問だけが先行しても、世の中に対応できなければ、4年間学んできたことが無駄になってしまう。社会との繋がりを考えて学問を修得することが必要なのではないか。
だからといって、世の中のためにならない学問は必要ない、ということではない。文学、歴史学、天文学、理論物理学、古生物学などは、それなりに必要な学問なのである。これらと乱造された学部とは基本的に異なる。どんな学部を卒業しても、社会でどのように活躍するか、である。勉強したことが直ぐに役立つ、などということは夢のような話で、社会での様々な経験と勘が必要になる。一般社会では、学校や学部など問題ではなく、人間性である。