MR.コールマンの挑戦日記

セカンドライフを迎えて趣味のランニングや街歩き、スケッチ水彩画、地域活動などの日常のあれこれを綴っています。

福井大空襲の日

2015年07月19日 | うんちく・小ネタ
戦後70周年を迎えて、先の大戦における痛ましい戦災レポがいろいろ報道されているが、今日7月19日は忘れもしない「福井大空襲」の日です。

戦争末期となった昭和20年7月19日には満6歳になったばかりで、当時住んでいた大阪から戦火を逃れてふるさと福井へ疎開していました。
父は、軍需工場に努めていたので、戦地には行っていなかったが、機会を見つけて福井へ戻り空襲を受けたら如何に対処するかを考え、約1.5mの地下防空壕を庭の隅に設けて対処方法を祖父母に伝えていたのです。

7月19日その日には、神奈川の工場へ戻ったばかりの夜でした。
記憶に残る想い出や父から聞いていた話を今振り返りながら、綴ってみました。
あの夜は10時ころ空襲警報が発令されて大急ぎで、祖父母や母・兄弟、親戚、近所などと共に9人が、父の造った防空壕へ逃げ込んだのです。

防空壕に逃げ込んでまもなくB29が127機襲来して福井市内中心部に焼夷弾を投下して集中攻撃され火の海と化したようです。
我が家は福井城東部にありましたが、焼夷弾が火の雨となって投下されたのが目に焼き付いている。
庭の竹林が燃え上がり家もあっという間に炎に包まれたが、祖父が家宝の軍刀を取りに戻って危うく火に包まれる寸前だったと聞いている。

防空壕にいた我々家族たちも蒸し焼きになる寸前だったようであるが、防空壕内にあった貯水槽の水で全身を拭いながら生死の境を彷徨っていたのです。

投下された10万本以上(865トン)の大量の焼夷弾により、市街地の95%が焼け野原となり罹災者8万5千人、死者1600人と莫大な被害を受けて何故この地方都市が襲撃されたのかと今も疑問が残るが、米軍の戦略があったのでしょうか
その福井市の被害状況は語りつくせないものだったようである。

火が治まってから戦火を逃れた市内北部の母の実家へと向かったが、途中福井城址のお堀や荒川には水を求めて飛び込んだ人の姿が見られ今も脳裏に焼き付いています。
今は美しい福井のシンボルとなっていますが、悲惨な歴史が刻まれています。

福井は、戦後の復興まもなく昭和23年6月28日に「福井大震災」によって市街地は大火に見舞われ、さらに相次ぐ水害に逢うなど大きな被害を受けていたが、あれから70年、戦後・震災後の復興が進み、現在は幸福度ランキングでNo.1になっています。

我が福井には、フェニックス(不死鳥)に因んで、毎年夏に「フェニックス祭」が開催されているが、長い苦難の時期を乗り越えた復興の希望の祭りとして未来へ繋ぐモデルになって欲しい。



福井のランドマークである足羽山には帰福時には必ずジョグ&ウオークで出かけるが、「足羽招魂社」には、福井の靖国神社と言われ かつての大戦の思いが詰まっています。

戦後70年を振り返ると共に、現在の日本を取り巻く国際環境は激変しており、新たな70年を安全で豊かな我が国を如何に守っていくか、国民の意識改革が必要であると考えねばならない。

コメント
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