ヤンマ探索記

トンボの観察記録です。

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勿論、ヤンマが優先です。

昭和40年代前半の鉄道写真(46・近鉄)

2015-03-21 | 昭和40年代の鉄道(近鉄)

<近鉄>京都特急

昭和41年、18200系が登場。大和八木での乗換を不要として京都と伊勢を直通する伊勢特急2往復の運行を開始した。
当時の京都線、その延長の橿原線は600Vであり、1500V両用の複電圧車両を製造して対応することになった。

18200系は、スナックカー12000系に1年先行して大出力180kwの主電動機を搭載、MT比1対1で設計された。
宇治山田寄りからモ18200、ク18300の2両が1編成で、パンタグラフは各車両に分散して設置している。

大阪線特急車との併結を予定していたため、本系列では特急及び行先の表示板の位置を変更して前面のデザインが一新された。
前述した旧ビスタカーの事故復旧車モ10007もこの様式が採用されていた。
41年に2編成が製造され、翌年に3編成を増備した。1次車と2次車では後記のとおり前面スタイルが若干異なる。

前面窓に桟がないモ18200の1次車先頭の2連、京都発宇治山田行特急


新デザインの特急及び行先表示板、低くした屋根のパンタグラフ

1967.3 松阪駅

42年、短絡線が開通して従来のスイッチバック運転を解消、大和八木で橿原線から大阪線に直結することになった。
大和八木・宇治山田間は大阪線乙特急との併結運行となり、18200系を組み込むとアンバランスな編成になっていた。
京都線、橿原線の車両限界により、全長が短いのみならず車体幅が狭いためである。

増備の2次車は、前面窓に桟が入り、貫通扉の装飾の位置が微妙に変えられている。

モ18200の2次車先頭の2連と新エースカー4連併結の宇治山田行特急  


最後尾モ18200の宇治山田方面からの回送

1969.1 明星・明野


京都と橿原神宮を結ぶ有料特急は、38年に合併した旧奈良電気鉄道から引継いだ車両を改装して39年に運行を開始した。
その680系の増備として翌40年及び41年に18000系モ18000の2両1編成とする2編成が新造された。

新造とはいえ44年に完成する京都、橿原線の1500vへの昇圧が検討されるなかにあって旧車両の電気機器を流用した。
本格的な特急車の外観ながら吊掛駆動車である。18200系は、2次車竣工と同じ年のうちに製造されたことになる。

1500V狭軌の南大阪線で数ヵ月先行して運行開始した吉野特急16000系と同様の外観で、前面も同じ塗分けであった。
橿原神宮駅では吉野特急と連絡するダイヤが組まれていた。

旧塗装時代のモ18000の2連特急の回送

1966.3 西大寺駅


<近鉄>あおぞら号

37年、私鉄唯一の修学旅行用団体専用車である20100系が登場。赤とクリーム色に塗装され、あおぞら号の愛称が付された。
ビスタカーの連接構造は採用せず、全車2階建てのモ20100、サ20200、モ20300の3両固定、5編成15両を製造。
中間車のサ20200の階下は機械室で、主要機器を集中配備、パンタグラフ2基を搭載している。

当時、名古屋の小学校の修学旅行は京都、奈良が定番であり、デビュー間もないあおぞら号に乗るのを心待ちにしていた。
一方、年末年始の臨時特急迎春号としても運行され、伊勢参りの特急が設備の劣る本系列に当たって落胆した思い出がある。

宇治山田に向かう後部モ20100のあおぞら号、左右非対称の前面形状は受継がれていた


上本町に向かう後部モ20300のあおぞら号

1967.3 松阪駅


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