ヤンマ探索記

トンボの観察記録です。

タイトルはヤンマですが、トンボなら何でも撮ります。
勿論、ヤンマが優先です。

昭和40年代前半の鉄道写真(64・中央西線電化の記録③)

2015-11-30 | 昭和40年代の鉄道(中央線他)

名古屋・多治見間   DC急行の系譜

急行用気動車キハ58系は、昭和36年10月のダイヤ改正に向けて開発され、中央西線にも早々に投入された。
キハ55系から置換えの急行"しなの"と新設の急行"信州"にヘッドマークを取付けて新車両をアピールしたようである。
"信州"は名古屋・長野間の最速列車であったが、38年に第2"しなの"に改称された。

大型のヘッドマークをつけた下り急行"信州"の発車待ち

1962年頃 名古屋駅

名古屋・長野間の急行"しなの"は中央西線を代表する列車であり、34年にDC化されていた。
43年10月のダイヤ改正で特急に格上げされると、以降急行の名称は"きそ"に統一された。

下り急行"第1しなの"8両編成

1965.7 名古屋駅



急行"ちくま"は34年に大阪・長野間の準急として登場、36年10月のダイヤ改正でDC急行に格上げされた。
同時期、前述した急行"信州"と急行"あずみ"が運転を開始している。

上り大阪行急行"ちくま"

1965.6 名古屋駅

アプト区間対応用に開発されたキハ57、キロ27が"ちくま"で運用されていた



1966.1 名古屋駅

急行"赤倉"は名古屋・長野間の準急"きそ1号"と長野・新潟間の準急"あさま"を統合して誕生した。
37年、名古屋・新潟間の長距離の直通運転を開始した。
名古屋発着のDC急行は、その後41年に大糸線信濃森上に直行する不定期列車"つがいけ"が設定された。
同列車は、3往復に増発された"しなの"に併結して運行した。

名古屋機関区から回送中の"赤倉" 大阪寄りまで進み方向転換して中央線ホームに入線する 後方は新幹線ホーム

1965.12 名古屋駅

到着した上り急行第1"しなの"とDD13ー132 作業の詳細は不明

1967.8 名古屋駅

東海道線拡張工事中の名古屋駅を出発する急行第2"しなの"

1967.8 名古屋駅


キハ91系の投入

キハ181系試作車の位置付けの91系は42年の製造で、41年にキハ90-1、キハ91-1が先行試作された。
それぞれが出力の異なるエンジンを搭載して房総で性能試験運転を実施、91系の量産試作に至った経緯がある。
先行2両は大型曲面ガラス、前照灯埋込式の独特の前面形状で、車体断面は丸みがあり側面の赤帯の塗り分けも異なる。

量産試作車は10両が製造され、キハ90-1は後にキハ91-9に改造、91系は最終的に12両となった。
新製の91系が名古屋機関区に配属されるのを機に、先行試作車も千葉気動車区から転属してきた。

名古屋機関区に姿を見せたキハ90-1



1967.5 名古屋機関区

42年10月のダイヤ改正により、第2"しなの"はキハ91系で運行する予定とされていた。
しかし、新型エンジンの初期トラブルが続出し営業運転の開始が度々延期された。結局、10月中の置換えはなかった。

キハ91系を目当てに11番線に集まった鉄道フアンと58系で運行された急行第2"しなの"

1967.10 名古屋駅

本来は営業運転をしているはずの91系が試運転で走る姿を見せた。

キハ91系の下り試運転

1967.10 新守山駅

43年10月のダイヤ改正で、いよいよ中央西線に特急が登場した。投入されるキハ181系の試運転である。

キハ181系特急"しなの"試運転



1968.9 名古屋駅

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昭和40年代前半の鉄道写真(63・中央西線電化の記録②)

2015-11-28 | 昭和40年代の鉄道(中央線他)

名古屋・多治見間   電化前後の名古屋駅中央線ホーム

昭和40、41年の瑞浪電化前後の名古屋駅で撮影。

電化前の旅客列車は、名古屋、稲沢第一、中津川機関区いずれかのD51が牽引していた。
名古屋駅を出発する中央西線のD51は当たり前過ぎる存在で、フイルム代節約のため殆ど撮っていない。

半戦時型、カマボコ型ドームのD51- 898[中]牽引の下り長野行829ㇾ発車待ち

1966.3 名古屋駅

名古屋到着の普通DC、最後尾キハ25


先頭はキハ17

1965.11 名古屋駅

41年、名古屋・瑞浪間約50キロの複線化及び電化が完成した。
7月に営業運転を開始、名古屋・多治見間から蒸気機関車が姿を消し、旅客、貨物列車ともにEF60が牽引した。
この頃は1次量産車(3~14)の全車が稲沢第二機関区の配属であった。
一時期、一部の列車をEF58が牽引していたが、写真はない。

EF60-122牽引の下り普通列車入線風景 5次量産車(100~129)


EF60-123牽引の稲沢操車場発下り貨物列車が中線を通過する


列車は多治見で機関車付替えをしたが、電車は瑞浪まで直通した。主力は横須賀線からの70系で大垣電車区の配属。
地元マスコミは電車化の快適性を盛んに謳ったが、使い古された車両の投入であり違和感を禁じ得なかった。
勿論、所要時間は大幅に短縮。蒸気機関車時代は多治見まで1時間10分以上要したが、50分前後になった。

クハ76先頭の下り普通電車


後尾は関西から転属のクハ68形

1966.10 名古屋駅

クハ68形を先頭に入線

1967.10 名古屋駅

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昭和40年代前半の鉄道写真(62・中央西線電化の記録①) 

2015-11-26 | 昭和40年代の鉄道(中央線他)

中央西線電化の記録

中央西線と称される名古屋・塩尻間の電化は、昭和48年の全線完成に至るまで三段階で進行した。
41年の瑞浪電化、43年の中津川電化がその区切りで、主に各区間の電化前を記録した約5年間の写真である。

瑞浪電化前後の名古屋・多治見間に始まり、中津川電化までのD51、中津川以北は45年までのD51で終わる。


名古屋・多治見間   電化前の千種駅

生家から一番近い国鉄駅は千種で3キロ程の距離にあった。駅方向の部屋では蒸気機関車の汽笛がよく聞こえてきた。
千種は貨物駅としての役割が大で旅客扱いは少なく、日本通運の黄色いボンネット型トラックが多数駐在していた。
幼少時、祖父母に頼んで名古屋まで列車に乗ったり、県境近くの観光地である定光寺まで行くことが楽しみであった。

昭和36年9月、千種駅は中央西線の複線化工事に合わせて北に移転、先に開通していた市営地下鉄駅と接続された。
37年に千種・大曽根間、金山・千種間が相次いで立体交差化され、同時に複線化が完成した。

鉄道写真を撮り始めた頃、トンネル内の煤煙で皆が嫌っていた蒸気機関車には全く興味がなかったのが実態である。
しかし、いざ身近な場所で電化工事が始まると、撮れるうちに撮っておこうという気になった。

40年10月、電化に向けてコンクリートポールが建てられた千種駅下りホームを発車する旅客列車。

D51-827[中] 牽引の木曽福島行835レ

1965.10 千種駅

千種に進入する列車を撮ったが、暗いとスピードについていけずピンボケ、当時のカメラでは当たり前であった。

D51-663[名]牽引の上り名古屋行の到着

1965.12 千種駅

年明けて41年2月、いよいよ7月の電化が迫る。赤色ナンバープレートの名古屋機関区のD51が下り旅客を牽引。

D51 ー663[名]牽引の下り木曽福島行835レの千種到着 駅付近は未整備


発車

1966.2 千種駅

市内の幹線道路である広小路通から撮った写真 。昼間の利用客は学生ぐらいであった。

D51-850[稲一]牽引の上り中津川発名古屋行634レの千種到着


発車

1966.2 千種駅

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昭和40年代前半の鉄道写真(61・無煙化が進行する高山線美濃太田⑤)

2015-11-23 | 昭和40年代の鉄道(高山線他)

太多線のC58

太多線は中央西線の多治見・美濃太田間を結ぶ岐阜県内の18キロ足らずの路線である。

昭和43年3月当時、美濃太田の高山寄りでは、多治見に向けて出発する太多線の上り貨物列車が見られた。
牽引するのは美濃太田機関区のC58で、貨車編成は短くせいぜい15両までであった。

C58-142[美]の美濃太田駅構内の貨車入換作業




太多線を出発


C58-280[美]の貨車入換作業

1968.3 美濃太田駅


真夏の牧峠

太多線の根本・姫間の牧峠の前後は最大20‰の勾配区間である。
43年7月14日、真夏で煙は期待できないものの、峠に向かうC58を撮りに行った。

S字カーブを登ってくる上り貨物列車を狙う予定であったが、場所を探しているうちに列車が来てしまった。
臨機応変に対応できず、中途半端な写真が残っていた。兎に角暑い日であったと記憶している。
美濃太田発の貨物列車が13時台に2本運行されていたが、この日は後発が運休。撮り直しもできなかった。

C58-169[美]牽引の太多線上り貨物



1968.7 太多線 姫・根本

多治見で折り返してきたC58―169の下り貨物   小泉で上りDCと交換待ち停車中

1968.7 太多線 小泉駅

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昭和40年代前半の鉄道写真(60・無煙化が進行する高山線美濃太田④)

2015-11-20 | 昭和40年代の鉄道(高山線他)

高山線の気動車

昭和43年3月当時、高山線の急行は全て気動車で、普通列車も大半が気動車であった。
10月の岐阜・高山間の無煙化後にDD51が牽引していた客車列車は、翌年に気動車化されて姿を消した。

美濃太田に入線する上り急行"ひだ"2号    最後尾は長大編成対応のキハ58-1050

1968.3 美濃太田駅

キハ58系、55系の混成11両の上り臨時急行"ライン"

1968.3 美濃太田・坂祝

名古屋発着の定期急行は"加越"、"ひだ"、越美南線北濃行の急行"おくみの"が名古屋・美濃太田で"ひだ"に併結された。
この他に、大阪・高山間に"のりくら"、循環列車の"しろがね"、"こがね"が設定されていた。

この年10月のダイヤ改正でキハ82系による特急"ひだ"が運行を開始、以後、急行は"のりくら"に統一して改称された。






1967.10 名古屋駅

岐阜から美濃太田を経由して太多線に入り多治見に向かう気動車は、当時から運行されていた。

キハ30先頭の下り太多線多治見行普通DC

1968.3 坂祝・美濃太田

キハ58系、55系、35系混成上り岐阜行普通DC


美濃太田から越美南線に向かうキハ17系4連普通DC    前部58系2連は急行"おくみの"用増結車と推定される

1968.3 美濃太田駅

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