ヤンマ探索記

トンボの観察記録です。

タイトルはヤンマですが、トンボなら何でも撮ります。
勿論、ヤンマが優先です。

昭和40年代前半の鉄道写真(75・中央西線電化の記録⑭) 

2015-12-29 | 昭和40年代の鉄道(中央線他)

多治見・中津川間   廃線前の旧線

瑞浪・釜戸・武並・恵那と進む。
瑞浪から先は、昭和43年10月の中津川電化開業まで残っていた非電化区間になる。

瑞浪・釜戸・武並間は駅間に信号所を設置して複線化工事が進められた。
即ち、信号所が工事完成区間と未完成区間の境界になっていて、これらの信号所は工事完成後に撤去された。

瑞浪・釜戸間は7.4キロでやや長い。瑞浪から3.2キロの下畑信号所までは瑞浪電化時にすでに複線化済であった。
その先は土岐川右岸沿いに曲線の連続区間があり、釜戸手前まで複線で別線が建設された。旧線は43年に廃止。

写真は、この区間の瑞浪方面の展望で左手に土岐川に架かる名滝橋、右手に旧線と国道19号線が見える。
旧線は瑞浪に向けて直線が続いているが、写真手前の地点から先が曲線区間になっていた。
新線は写真の直線区間の先の辺りで左手に分岐して、蛇行する土岐川を2回渡りトンネル1ヵ所を抜ける。



42年6月4日、瑞浪・釜戸間の旧線で撮影。
フイルム取出しに失敗して何枚か没になった。当時よく経験したことである。

D51牽引 後補機付の下り貨物653レ


重油併燃装置付D51-636[中]の後補機 この頃は逆向きで連結されていた


D51-827[中]牽引の上り松本発名古屋行826レ


キハ58系下り急行第2"しなの" 後尾から

1967.6 瑞浪・釜戸

42年9月、白狐温泉辺りの曲線区間で撮影。多数のケーブルがあって先頭はまともに撮れなかった。

D51の後補機の上り貨物6654レ 土岐川沿いを行く


キハ58系下り急行第1"ちくま" 後尾から釜戸方面を望む

1967.9 瑞浪・釜戸

半年後の43年4月1日の撮影。
武並・恵那間で撮影後、路線バスで国道19号線を南下、竜吟滝で降りて旧線沿いに釜戸・下畑信号所間を歩いた。
まずは釜戸直前の20‰の上り勾配。短区間であり、平坦区間から緩い勾配を加速してきたD51の煙は期待外れ。

D51牽引の下り貨物655レ


D51の後補機


右前方は建設中の新線


キハ58系下り急行第1"ちくま" 後尾から


下畑信号所近くまで来て瑞浪方面を望む。左手前に見える築堤は東に分岐して建設中の新線。
下り旅客牽引のD51が緩い上り勾配を高速でやって来た。

D51牽引の下り塩尻行831レ






ここからしばらくは平坦区間 右前方は国道19号線の路線バス


キハ58系上り急行第1"ちくま" 白狐温泉辺りの曲線区間に戻って撮影

1968.4 瑞浪・釜戸

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昭和40年代前半の鉄道写真(74・中央西線電化の記録⑬) 

2015-12-27 | 昭和40年代の鉄道(中央線他)

多治見・中津川間   電化区間のD51

多治見・土岐市・瑞浪と進む。
土岐市は、昭和40年に土岐津から駅名を改称した。前述したとおり瑞浪電化後もD51が走った区間である。

多治見・土岐市間は 7.0キロ。下り列車は虎渓トンネルを抜けると、北から東に進路を変えて土岐市内に入る。
その先に連続する4基のトンネルを抜けて土岐市に到着。この線区は複線化後の上り線として使用されている。

複線化で建設された下り線は、北側に延長1455mの新久尻第1トンネルを新設して一直線で市境を越える。
旧線と並行する同第2トンネルを出ると、すぐ先は土岐市駅である。

42年4月23日、第2久尻トンネル土岐市側坑口付近で撮影。
架線が張られた多治見・瑞浪間では殆ど撮っていない。

D51-402[中]牽引の下り中津川行621レ 絶気で新トンネルを出る


上り中津川発名古屋行548D キハ17を先頭に2両目にキハ18を連結


キハ58系下り急行"赤倉"


右前方に土岐市に停車中の上り貨物列車が見える


D51-274[中]牽引の上り貨物652レ


D51-630[中]の後補機


D51牽引の上り松本発名古屋行826レ

1967.4 多治見・土岐市


土岐市・瑞浪間は6.9キロ。ほぼ平坦の緩い上り勾配で土岐市から瑞浪市に入っていく。42年9月、同区間で撮影。

D51牽引の下り塩尻行831レ



1967.9 土岐市・瑞浪

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昭和40年代前半の鉄道写真(73・中央西線電化の記録⑫)

2015-12-25 | 昭和40年代の鉄道(中央線他)

多治見・中津川間   中津川電化目前の多治見

瑞浪電化から2年3ヵ月が経過、昭和43年10月、ヨンサントオと呼ばれた白紙ダイヤ改正で中津川電化が開業した。
このダイヤ改正で無煙化が大幅に促進され、全国各地で多くの蒸気機関車が姿を消すことになった。

「9月30日14時4分、最後の蒸気機関車D51-777が下り列車を牽引して多治見駅を発車」と地元紙が報道。
この電化開業までの間、家から比較的近い多治見・中津川間には何度もD51の撮影に行く機会に恵まれた。
電化に備える無粋なコンクリート架線柱は随所で見るものの、東濃路の急勾配に挑む迫力ある姿は今でも忘れない。

43年7月14日、中津川電化を目前にして1年ぶりに多治見近辺で撮影。
駅北側の跨線橋から土岐市方面を望む。D51が牽引してきた上り列車は多治見でEF60に機関車を交換する。

D51-528[中]を先頭に重連で到着する上り松本発名古屋行826レと待機するEF60 


虎渓トンネルの上から見た多治見市街の風景。複線化で新設の下り線トンネルに向かいD51が20‰勾配を登ってきた。

D51牽引の下り中津川行621レ


汽笛を鳴らしてトンネルに入る


キハ91系が定着した下り急行"第2しなの"


新虎渓トンネルに向かう 後尾から

1968.7 多治見・土岐市

機関車交換のため上下線とも旅客列車の多治見停車は7、8分、長いもので9分。土岐市側の跨線橋から多治見駅構内を望む。

D51-827[中]の機関車付替え作業


D51-827[中]に機関車交換して発車する下り長野行829レ


D51牽引の上り中津川発名古屋行628レの到着


この頃、長野工場式集煙装置を付けたD51が目立ち始めた。

集煙装置取付けのD51牽引の下り塩尻行833レの発車


集煙装置取付けのD51-265[中]牽引の上り長野発名古屋行828レの到着


中津川機関区のナンバープレートは青地塗装。煤けて機番が明瞭でないのはトンネルが多いので当たり前のことであった。


1968.7 多治見駅

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昭和40年代前半の鉄道写真(72・中央西線電化の記録⑪)

2015-12-22 | 昭和40年代の鉄道(中央線他)

多治見・中津川間 瑞浪電化と多治見     

多治見・中津川間の写真は、主に昭和42年春から43年秋の中津川電化までである。

多治見から先、土岐市・瑞浪と続く。
41年7月の電化開業で瑞浪まで電車運転を開始したが、列車は瑞浪で付替えができない機関車を多治見で交換した。
そのため旅客、貨物列車ともに多治見から瑞浪の約14キロ間は、中津川電化完成まで架線下をD51が走行した。

旅客を牽引した名古屋機関区の7両のD51は、瑞浪電化で3両が北海道に転出、4両が中津川機関区に転属した。
稲沢第一機関区からも4両が転属して多治見・中津川間は中津川機関区のD51に統一され、在籍は30両を数えた。

42年3月19日、多治見駅で撮影。

D51-686[中]牽引の下り長野行829レ 多治見発車


多治見機関区 キハ35系気動車とD51(当時は多治見機関区の配属なし)


瑞浪電化開業時に一部の旅客は多治見以北も無煙化され稲沢第一機関区DD51が牽引。多治見でEF60から付替えた。

多治見以北担当のDD51-47、機関車交換待ち

1967.3 多治見駅

待機していたDD51が下り旅客を牽引してやって来た。20‰の上り勾配で市街地を抜けて新虎渓トンネルに入る。

 DD51-47牽引の下り塩尻行833レ

1967.3 多治見・土岐市

多治見構内で待機するEF60と暖房車マヌ34


D51-549[中]牽引の上り中津川発名古屋行628レの到着


ぶどう色のEF60-95(4次量産車)に付替えた628レ 多治見の停車時間は7分


釜戸から先の急勾配区間に備えて、定期貨物列車に多治見でD51の後補機を付けていた。
この時期は、下り列車の補機は逆行で連結されていた。いわゆる双頭列車である。

重油併燃装置を付けたD51-636[中]牽引の下り貨物 多治見停車中


風向きが悪く、この後は大変なことになったが、写真の出来より何よりも煙が大事であった。

先程、上り旅客を牽引してきたD51-549[中]が下り貨物の後補機を務めて逆行で出発


下り中津川行DC 最後尾キハ52

1967.3 多治見駅


同年の夏、D51が牽引する急行"きそ"を撮るため多治見を目指した。列車の到着は5時47分である。
家から行く手段は自転車のみで30キロ以上走ってぎりぎり駅近くに到達。カメラを出した途端に列車が滑り込んできた。

目的はこの列車のみで、見事に失敗した。重連の先頭は準戦時型の煙室扉上部切欠き、長野工場式デフのD51-862。
木曽福島機関区の名物機である。"きそ"の牽引に限られたのか、同区のD51のこの区間の仕業は初めて知った。

D51-862[木]とDD51の重連、上り急行"きそ"

1967.7 土岐市・多治見

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昭和40年代前半の鉄道写真(71・中央西線電化の記録⑩)

2015-12-19 | 昭和40年代の鉄道(中央線他)

名古屋・多治見間   愛岐トンネル

高蔵寺・定光寺・古虎渓・多治見と進む。
定光寺・古虎渓間が県境で、古虎渓は岐阜県多治見市になる。

多治見までの複線化は、昭和37年の市街地の立体交差を伴う金山から大曽根間に始まり、39年に高蔵寺までが完成。
その先は遅れ、瑞浪電化開業が迫る41年3月に完工した。定光寺手前からの峡谷区間が難工事であったことによる。

急勾配はないものの、旧線の高蔵寺から多治見間の玉野川、土岐川沿いには13基ものトンネルが設けられていた。
トンネル群は明治33年の名古屋・多治見間開業時の建設で劣化、地形上からも別ルートの新線建設が不可避であった。
この区間12キロに6基のトンネルを新設して、大部分を複線の新線に付替える工事が進められた。
定光寺・古虎渓間に中央西線最長2910mの愛岐トンネル、古虎渓・多治見間に1332mの池田町トンネルが建設された。

写真は、複線化され電化開業直前の架線下を定光寺から高蔵寺に向かうD51牽引の貨物列車である。

D51―203[稲一]牽引の上り貨物

1966.6 定光寺・高蔵寺

42年8月、電化後の高蔵寺・定光寺間で撮影。高蔵寺を過ぎて濃尾平野から丘陵地帯に入ると車窓の景色が一変する。

キハ58系上り急行"第1ちくま"


下り中津川行547D 後尾キハ20系

1967.8 高蔵寺・定光寺

玉野川沿いの定光寺は、名古屋近郊の観光地として戦前に大いに賑わったとされる。

定光寺を発車するEF60牽引上り名古屋行旅客

1967.4 定光寺駅

新トンネル間の橋梁を行くEF60牽引の下り旅客



旧線のトンネル13基は、高蔵寺・定光寺間に2基、定光寺・古虎渓間に6基、古虎渓・多治見間に5基があった。
開通当初は14基で名古屋寄りから番号が付された。うち9号トンネルは旧池田信号所(古虎渓)開設時に廃止された。

蒸気機関車時代、トンネルの連続を知らない乗客がトンネル間で窓を開け、車内がパニックになることがままあった。

定光寺の南、岩盤に掘削された2号トンネル跡、高蔵寺側坑口

1967.4 高蔵寺・定光寺

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