関西線名古屋近郊のD51(その1)
昭和40年から43年、関西線名古屋近郊での貨物列車の写真。
稲沢操車場から亀山操車場に向かう貨物列車は、名古屋駅を通過すると笹島貨物駅を経由して関西線に入っていった。
この区間の牽引は稲沢第一機関区のD51が担当していた。最初は40年6月、初めて撮った蒸気機関車である。
D51-468牽引の上り貨物 桑名から木曽三川の橋梁に向かう
1965.6 関西線 桑名・長島
D51-701牽引の下り貨物 八田を出て庄内川鉄橋に向かう
1966.3 関西線 八田・蟹江
日常の光景であったD51の集団 沿線の名古屋機関区のD51は中央線の旅客列車用で他区のD51も待機していた
1966.4 名古屋機関区
下り貨物を牽引する形式入り旧ナンバープレートのD51-823 右は近鉄名古屋線
風は強いが、珍しくよい煙できた
だ
長良川・揖斐川を渡る
1968.1 関西線 長島・桑名
D51―208牽引の上り貨物 八田を出発してすぐ先の笹島貨物駅に向かう
1968.3 関西線 八田・笹島
笹島貨物駅の光景 先程の貨物列車を牽引して到着したD51-208が貨車の入換作業中
1968.3 笹島駅
名古屋市内を最後まで走った蒸気機機車
昭和43年の名古屋港線、西名古屋港線の写真。
稲沢操車場から名古屋港に向かう、いわゆる臨港線の貨物列車は稲沢第一機関区のD51が牽引した。
当時は、名古屋からしばらく中央線を走行して山王信号所から分岐する名古屋港線に入っていった。
名古屋港線と、もう一方の臨港線の西名古屋港線は、名古屋市内で最後まで蒸気機関車が見られた路線である。
無煙化されたのは46年であった。
名古屋港に向けて山王信号所の先を行く貨物列車 逆行で牽引するD51-679
後方に中日球場のナイター照明塔
1968.1(推定) 名古屋港線 山王信号所・名古屋港
稲沢に向けてガス工場地帯を行く貨物列車 D51-850牽引
1968.3 名古屋港線 山王信号所・名古屋港
DD13と名古屋港駅の光景
C50と艀
貨車入換作業のD51-679
1968.1 名古屋港駅
名古屋港線とは別に、貨物駅である笹島駅を起点とする西名古屋港線があった。名古屋港から自転車で同線に移動した。
現在は第三セクターの名古屋臨海高速鉄道あおなみ線の路線となっている。
西名古屋港に向かう貨物列車 逆行で牽引するD51-155
1968.1 西名古屋港線 笹島・西名古屋港
名古屋駅を通過していく蒸気機関車
昭和42年から43年、名古屋駅で撮ったD51の写真。
名古屋駅では、稲沢から笹島に向かう貨物線及び名古屋港に向かう貨物線を通過していくD51が見られた。
46年、名古屋港線、西名古屋港線を最後に無煙化されるまで稲沢第一機関区のD51が貨物列車を牽引していた。
稲沢・笹島線を行くD51-5 第1次形(1~85、91~100)は半流線形ナメクジドーム 後方は新幹線0系
1968.3 名古屋駅
笹島から稲沢に向かうD51重連の貨物列車
1967.10 名古屋駅
D51-571とD51の重連回送
1967.10 名古屋駅
稲沢から笹島に向かうD51-369牽引の貨物列車 後方は新幹線ホーム
1967.12 名古屋駅
稲沢から名古屋港線に向かう貨物列車 逆行のD51-5
独特のフォームのメクジドームは格別の存在であった
1966.3 名古屋駅
炎天下のハチロク
8620形テンダー式蒸気機関車は、大正から昭和初期にかけて量産され、ハチロクと呼ばれた。
キュウロクと同世代の旅客用機関車であり、広く全国に配備された。
、
昭和43年7月、竜華機関区のハチロクを撮影。廃車が進みつつある時期であった。
ハチロクと言えば花輪線であったが、名古屋の高校生が行ける場所はせいぜい関西線の竜華操車場が限界であった。
正午のサイレンが鳴る頃、久宝寺駅のベンチで汗を拭っているとハチロクの貨車入換作業が始まった。
目の前が操車場であり、目的のハチロクを2両撮影した。翌年にはいずれも休車になり最後の撮影機会であった。
キュウロクも稼働していた時期であるが、見ることはなかった。
78680の貨車入換作業
68657の貨車入換作業
竜華機関区の集煙装置付D51-452
竜華機関区の集煙装置付、戦時型ドームD51-1045
1968.7 竜華操車場
稲沢操車場のキュウロク(その3)
昭和43年10月の白紙ダイヤ改正が迫った8月の暑い日、3回目になる稲沢操車場のキュウロク撮影に行った。
来たるダイヤ改正では大幅な無煙化が計画され、当地から蒸気機関車が消えるのも時間の問題とされていた。
実際にはディーゼル機関車への置換えが順調に進捗しなかったので、その後の約3年間はキュウロクが活躍した。
4軸のディーゼル機関車DD13形では制動力が不足し、重量貨物のハンプ作業に不向であったことによる。
ゆえに、41年から製造されたDE10形が本格的に配備されるまで同操車場のキュウロクは生き残った。
44年から46年にかけて徐々に廃車されたが、北海道に転戦していく車両もあった。
キュウロクはD51に次ぐ車両数が製造され、この時代でも全国でナンバーツーの稼働車両数を保っていた。
蒸気機関車終焉まで残っていたのはキュウロクである。
真夏の操車場ではこの日も変わらぬ日常が待っていた。小さな動輪のキュウロクが小走りするかのように動き回る。
煙のなか、真夏の稲沢操車場
19653はじめ4両が写っている
19653の貨車入換作業
29643の貨車入換作業
79643に続いて高山機関区から転入した79642 名古屋鉄道管理局内でキュウロクが走るのはここのみになった
見たくなかったDD13とのショット
1968.8 稲沢操車場