ヤンマ探索記

トンボの観察記録です。

タイトルはヤンマですが、トンボなら何でも撮ります。
勿論、ヤンマが優先です。

昭和40年代前半の鉄道写真(50・近鉄)

2015-03-31 | 昭和40年代の鉄道(近鉄)

<近鉄>大阪線初の特急専用車

戦災復興で延期されていた伊勢神宮の式年遷宮が昭和28年の実施に決定。近鉄は参拝客の大幅増に備えることになった。
急遽、大阪線、山田線では初の特急専用車になる2250系、狭軌の名古屋線用には6421系を新造して投入した。

両系統は統一仕様で製造され、近代的なスタイルで時代の先端を行く豪華車両の電車として一世を風靡する存在であった。
張上屋根、前照灯埋込式、ノーシル・ノーヘッダー全鋼製の軽量車体であり、全席転換クロスシートを採用していた。
32年には当時として画期的な冷房装置を備え、同年中に全車にシートラジオ、一部車両には公衆電話を取付けている。

2250系は、モ2250形とサ3020形のMTの2両の組合わせを基本として4連編成で運行を開始した。
28年中に1次車各4両、2次車各2両、計12両が落成。30年に3次車モ2250形4両、サ3020形3両を増備。
1、2次車は両運転台、3次車は片運転台である。2次車のモ2255以降、前面窓はHゴム仕様になった。
3次車の付随車サ3020形の製造が1両少ないのは、前回記したとおり旧貴賓車のサ2600を組込むためであった。
最終的にモ2250形10両、サ3020形9両が出揃い、増結の2227形と組むこともあった。

新ビスタカー登場の翌年の35年に一般車格下げを開始、まずモ2250形の5両、サ3020形の3両が3扉化された。
この時、最初の改造車モ2255、57は各々2247、48に改番されている。

サ3020形の残る6両3024~29は、制御車不足に対応して特急車のク3120形3121~26に改造された。
残存の2250形とともに、新エースカー登場の38年まで伊勢中川・宇治山田間の短距離準特急等で運用されたようだ。

鉄道雑誌で見て憧れの的であった2250系特急を撮りたかったが、時すでに遅く写真は格下げ後の全車3扉化後である。
撮影当時は、上本町・宇治山田間の急行主体の運用で名古屋線では見られず、出会う機会も殆どなかった。

3扉化されたク3123先頭の2250系4連と後方2200系2連の上本町行急行

1969.1 明星・明野

2次車以降(2255~60)前面窓枠がHゴム仕様のモ2255、木枠の1次車は撮っていない

1969.1 明星検車区

モ2250形で最初に3扉化され、一般車に格下げされたモ2247(旧モ2255)

1968.7 上本町駅

特急時代は前照灯と冷房ダクトが一体化した特異な形状であったク3120形、ク3125

1966.8上本町駅


1968.7 上本町駅

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昭和40年代前半の鉄道写真(49・近鉄)

2015-03-27 | 昭和40年代の鉄道(近鉄)

<近鉄>名阪有料特急の元祖

参宮急行電鉄の通称2227形(新モ2200形)は、2200系の増備車として昭和14年及び16年に20両が製造された。
昭和15年が紀元2600年で橿原、伊勢神宮参拝客の増加が見込まれ、その輸送増強策としての増備であった。

形式番号は、デ2200形を受け継いでデ2227~46。旧2200形と同一性能の鋼製20m車である。
外観は、溶接技術の向上によりリベットが大幅に減り、張上屋根を採用、客用扉が中央に寄って側面の形状が一変した。
両運転台車であることに変わりはないが、車内は、中央部のみに転換クロスシートが採用された。

戦時体制下、省線東海道線の代替路線が計画されていた事情で、狭軌転用の改造を可能とする前提での製造であった。
そのため、狭軌仕様のモーターを搭載したことで旧2200形より車両の床面が高くなっている。

16年、両運転台の制御付随車である3110形が5両製造された。ク3110~14で、便所は設置されなかった(除14)。
これとは別に、15年、紀元2600年を記念して貴賓車2600が製造された。

戦後の22年、伊勢中川乗換で名阪間初の有料特急が設定された。大阪線用の特急車は2227形から抜擢されている。
デ改めモ2227形となった2両に中間付随車旧サ3000形を組入れた3連で、床面はじめ不揃いの新旧混合編成であった。
車内設備を有料特急用に改装してクリームとライトブルーに塗色され、まず2編成がデビューした。
ク3110形でなくサ3000形が使用されたのは、前者が戦中、戦後の混乱期にロングシート化されていたためである。

初代はモ2227形5両、サ3000形2両の改装であったが、翌23年の伊勢特急の運行開始によって増備が始まった。
モ2227形は、過半の車両が順次特急車に格上げされた経歴を有している。

28年の2250系特急の投入以降、徐々に一般車に格下げされていくが、30年代初期に新たに格上げされた車両がある。
モ2231等(不詳)が前照灯埋込み式、前面窓枠がHゴムの形状の特急車に改造された。

貴賓車2600はサ2600に改造、改番され、28年から2250系、その後上記改造車と組んで特急車として使用された。
2200系が特急運用から完全に外れたのは、新ビスタカー登場の翌年である35年であった。

初期形は雨樋が前面外付け 一番車のモ2227先頭の宇治山田発中川行普通

1969.1 明野・明星 

雨樋の外付けはモ2230までのようで、埋込式にされたモ2233

1968.7 上本町駅

モ2227形はイコライザー式の大型台車を採用 モ2245

1969.1 明星検車区

旧モ2200形と同様、パンタグラフ非設置側の運転台横に便所が設置され、片窓の前面形状であった。

両運転台の片側の前面形状が片窓のモ2232

1966.7 伊勢中川駅


以下は、43年7月、上本町駅で撮影した大阪線の区間急行等の写真。

23年、戦後最初に大阪線用に新造された2000系。20m車であるが、復興期の製造で2200系に大きく見劣る。

両開扉に改造されたモ2001先頭の区間急行

1968.7 上本町駅

4年、大軌桜井線開通を機に製造された大型19m車、3扉の区間車旧デボ1000形、モ1002の準急


5年、大軌初の20m車として増備、3扉の区間車旧デボ1300形、モ1311の区間急行

1968.7 上本町駅

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昭和40年代前半の鉄道写真(48・近鉄)

2015-03-24 | 昭和40年代の鉄道(近鉄)

<近鉄>参急の名車

昭和5年から6年にかけて、参宮急行電鉄により当時としては画期的な高水準である長距離高速電車2200系が製造された。
桜井・宇治山田間が全通し、大阪電気軌道桜井線と接続して大阪、伊勢間直通運転を開始するに合わせての新造であった。

青山峠をはじめとする33‰の連続勾配での高速運転のため、150kwの大容量の主電動機と発電ブレーキを装備していた。
これにより最高速度は110km/h、最大上り勾配でも65km/hの走行を可能とする能力を有した。半鋼製20m大型車である。
外観は、両端にある客用扉の間に狭窓が並ぶ端正なスタイルであり、車内は固定クロスシートが採用された。

デ2200が27両、デト二2300が8両、ク3100が5両、サ3000が17両、合計57両が製造されている。
デト二2300を伊勢方向の先頭にして、デ2200を3両とサ3000を2両連結した最大6連編成で運行されたといわれる。
急行として登場したが、戦前の特急としても運行され、一方、デ、デトニは両運転台で、区間車の単行使用もあったとされる。

2200系は、日本の電車史上語り継がれてきた名車であり、往年の電車好きであれば誰もが知る存在であった。
戦後は大阪、山田線の急行を中心に運用され、40年代も活躍中であったので幸い何度か2200系に乗車する機会があった。
青山越えにさしかかった急行電車の唸るモーター音とダブルタイフォンといわれた警笛音は脳裡に焼付いている。

40年代前半の撮影時は、衝突事故に備えて設置されたアンチクライマーが撤去されていて、3扉化の改造が進行中であった。
名古屋線でも運用されており、まだ2、3両残っていた2扉車を狙って度々撮りに行っていたが、出会うのは運次第であった。

2扉のモ2206(39年の改番後、以下同じ)最後尾の宇治山田方面回送


モ2206先頭の6連上本町行急行


区間用増備として片運転台で製造されたク3100形、3扉化後のク3102先頭に宇治山田からの回送

1969.1 明星・明野

3扉、片運転台化されたモ2204(改番前のモ2200)が最後尾の名古屋行急行

1968.2 桑名・近鉄長島

3扉、ロングシート化後のモ2217の大阪線普通

1968.7 上本町駅

モ2200形(旧)の最終番車 3扉、片運転台、ロングシート化後のモ2226


デトニ2300形は、荷物室に続く2室のコンパートメントを備えた一般車との合造車で、伊勢方面の先頭車で運用された。
また、戦後24年、改番後のモ2303は改造され、レクリエーションカーとして一時期有料特急に連結したとされる。

モニ2300形、片運転台化後のモニ2302

1969.1 明星検車区

モニ2306最後尾の上本町行急行

1969.1 明野・明星

両運転台車の2200形は、パンタグラフ非設置側の運転台横に便所を設置して片方の前面窓がない特異な形状であった。
撮影当時は片運転台化への改造も進行中であり、名物の片窓の先頭車に出会うのは2扉車よりさらに稀であった。

3扉化後も両運転台のモ2210先頭、名古屋線中川行急行

1965.5 近鉄長島・桑名

両運転台の一方に便所設置した2扉時代のモ2207 事故による車体焼失の復旧車で全溶接構造

1966.4 米野検車区

シュリーレン台車に変更された3扉、ロングシート化後のモ2222


サ3000形の一部は、22年の有料特急運転開始の際、後述するモ2227形と組んで特急専用車として使用された。

サ3000形は軸ばね台車を採用、3扉化後のサ3007

1969.1 明星検車区


1968.8 名古屋駅

38年の事故で車体焼失した旧モ2204は、機器を流用して高性能通勤型モ1460形に準じた両開3扉の軽量車体になった。

旧モ2204(改番前)の復旧車モ1421

1967.3 桑名駅

モ1421の単行回送   

1968.2 近鉄長島・桑名

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昭和40年代前半の鉄道写真(47・近鉄)

2015-03-23 | 昭和40年代の鉄道(近鉄)

<近鉄>吉野特急

昭和40年、阿部野橋・吉野間の特急に16000系が登場。狭軌の南大阪線、吉野線における初の本格的特急車である。
モ16000、ク16100の2両1編成で2編成が製造されて6往復で運行を開始。翌41年に1編成を増備した。

16000系は、当時主流であった新エースカー11400系を基本に、同線の車両限界に合わせて設計されている。
特急の表示板は従来仕様のものであるが、前面の塗分けは異なっていた。同時期に登場した18000系も同様である。

以下は、43年7月に阿倍野橋駅で撮影した写真。

当初の塗分けク16100先頭の2連の吉野行特急


ラビットカーと呼ばれた6800系。32年製造の南大阪線用、両開4扉の高加減速の高性能通勤車である。
登場時はオレンジバーミリオンに白線の塗色であったが、すでに近鉄標準色に塗替後であった。

ヘッドライトの間隔が狭い1次形モ6811の準急

1968.7 阿倍野橋駅


<近鉄>奈良線の無料特急

奈良線は、大正3年に近鉄の前身である大阪電気軌道が開業した上本町・奈良間の標準軌600Vの路線であった。
31年に上本町・布施間を複々線化、大阪線が奈良線から分離して昇圧化されるまで、同区間は大阪線と共用された。
以前の大阪線の電車は、この600V区間において低速走行を余儀なくされたといわれる。

43年7月、上本町駅で撮影した8000系特急の写真。奈良線は44年に1500Vに昇圧され、その直前になる。
8000系は、39年の新生駒トンネルの完成に合わせて製造された通勤形大型車で、両開4扉の20m車である。
奈良線の特急は、当時の近鉄で唯一特急料金が不要であった。

鹿のヘッドマークを付けたモ8046の奈良行特急




新型通勤電車の当初の塗色、ベージュに青帯のモ8029の普通

1968.7 上本町駅

41年3月、大和西大寺駅で撮影した800系の写真。
800系は、30年製造の600V用初の高性能通勤形電車で、2扉の18m車である。
非貫通流線形でマルーン塗色にステンレス帯の外観。上本町・布施間の複々線化を機に奈良線初代特急に使用された。

西大寺駅停車中のモ809の準急

1966.3 大和西大寺駅

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昭和40年代前半の鉄道写真(46・近鉄)

2015-03-21 | 昭和40年代の鉄道(近鉄)

<近鉄>京都特急

昭和41年、18200系が登場。大和八木での乗換を不要として京都と伊勢を直通する伊勢特急2往復の運行を開始した。
当時の京都線、その延長の橿原線は600Vであり、1500V両用の複電圧車両を製造して対応することになった。

18200系は、スナックカー12000系に1年先行して大出力180kwの主電動機を搭載、MT比1対1で設計された。
宇治山田寄りからモ18200、ク18300の2両が1編成で、パンタグラフは各車両に分散して設置している。

大阪線特急車との併結を予定していたため、本系列では特急及び行先の表示板の位置を変更して前面のデザインが一新された。
前述した旧ビスタカーの事故復旧車モ10007もこの様式が採用されていた。
41年に2編成が製造され、翌年に3編成を増備した。1次車と2次車では後記のとおり前面スタイルが若干異なる。

前面窓に桟がないモ18200の1次車先頭の2連、京都発宇治山田行特急


新デザインの特急及び行先表示板、低くした屋根のパンタグラフ

1967.3 松阪駅

42年、短絡線が開通して従来のスイッチバック運転を解消、大和八木で橿原線から大阪線に直結することになった。
大和八木・宇治山田間は大阪線乙特急との併結運行となり、18200系を組み込むとアンバランスな編成になっていた。
京都線、橿原線の車両限界により、全長が短いのみならず車体幅が狭いためである。

増備の2次車は、前面窓に桟が入り、貫通扉の装飾の位置が微妙に変えられている。

モ18200の2次車先頭の2連と新エースカー4連併結の宇治山田行特急  


最後尾モ18200の宇治山田方面からの回送

1969.1 明星・明野


京都と橿原神宮を結ぶ有料特急は、38年に合併した旧奈良電気鉄道から引継いだ車両を改装して39年に運行を開始した。
その680系の増備として翌40年及び41年に18000系モ18000の2両1編成とする2編成が新造された。

新造とはいえ44年に完成する京都、橿原線の1500vへの昇圧が検討されるなかにあって旧車両の電気機器を流用した。
本格的な特急車の外観ながら吊掛駆動車である。18200系は、2次車竣工と同じ年のうちに製造されたことになる。

1500V狭軌の南大阪線で数ヵ月先行して運行開始した吉野特急16000系と同様の外観で、前面も同じ塗分けであった。
橿原神宮駅では吉野特急と連絡するダイヤが組まれていた。

旧塗装時代のモ18000の2連特急の回送

1966.3 西大寺駅


<近鉄>あおぞら号

37年、私鉄唯一の修学旅行用団体専用車である20100系が登場。赤とクリーム色に塗装され、あおぞら号の愛称が付された。
ビスタカーの連接構造は採用せず、全車2階建てのモ20100、サ20200、モ20300の3両固定、5編成15両を製造。
中間車のサ20200の階下は機械室で、主要機器を集中配備、パンタグラフ2基を搭載している。

当時、名古屋の小学校の修学旅行は京都、奈良が定番であり、デビュー間もないあおぞら号に乗るのを心待ちにしていた。
一方、年末年始の臨時特急迎春号としても運行され、伊勢参りの特急が設備の劣る本系列に当たって落胆した思い出がある。

宇治山田に向かう後部モ20100のあおぞら号、左右非対称の前面形状は受継がれていた


上本町に向かう後部モ20300のあおぞら号

1967.3 松阪駅

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