ヤンマ探索記

トンボの観察記録です。

タイトルはヤンマですが、トンボなら何でも撮ります。
勿論、ヤンマが優先です。

昭和40年代前半の鉄道写真(103・加太越え③)

2016-11-27 | 昭和40年代の鉄道(関西線他)

加太越え   昭和43年10月(その3)

昭和43年10月27日、初めての加太越えの続編。

加太から中在家信号所までの状況を一応把握して、いよいよ大築堤に戻っての撮影である。
高台に登って撮影ポイントを探った。13時半過ぎ、まずは後補機付の上り貨物が築堤を下って行く。

D51後補機の上り貨物788レ


14時前に大築堤を登ってくる下り貨物が本番である。少し移動して準備を整え、迫力あるD51の勇姿を待った。
ところが、不定期貨物は運休でD51の単機回送。何とも締まらない結末となってしまった。

D51の下り単機回送6785レ 国道25号線架道橋の上を行く




下り単機回送と中在家信号所で交換した上りDC急行が大築堤を下っていった。

上り714D急行"くまの"、"志摩"2号併結 キハ55、キハ58系の混成7連 後部から


次の下り貨物までは1時間半近くある。大築堤にいたのでは帰りの列車に間に合わない。仕方なく加太に戻り始めた。
板屋川橋梁まで来ると下りDC急行が峠に向かっていく。

下り2203D急行"かすが"2号 最後部キハ58系


15時近く、下り急行と中在家信号所で交換待ちの後補機付上り貨物が25‰を下ってきた。

D51牽引の上り貨物790レ


上り普通DCが続行。この日見たのはすべてキハ35系、当地での通勤型はいかにも違和感のある存在であった。

キハ35系2連上り亀山行342D 柘植発車は14:54


加太に数百mの地点まで来て、15時20分頃に加太を発車する下り貨物列車を待った。
12‰の上り勾配であるが、この先の急勾配に備えて発車後に加速をつけD51が力行してきた。

D51-393[竜]牽引の下り貨物263レ



1968.10 加太・中在家信号所

加太まで戻ってきた。15:52発の上り旅客列車が進入。この列車で亀山に向かい、加太越えの初日が終了した。
関西線の普通旅客は気動車化されていたが、草津線に直通する列車は客車でD51かC58が牽引していた。

D51-750[亀]牽引の上り京都発亀山行724レ

1968.10 加太駅

当時、亀山機関区には入換専用のC50が2両配属されていた。先程の亀山到着の客車を逆行で押していく。

C50-76[亀]の入換作業



1968.10 亀山駅

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和40年代前半の鉄道写真(102・加太越え②)

2016-11-20 | 昭和40年代の鉄道(関西線他)

加太越え   昭和43年10月(その2)

昭和43年10月27日、初めての加太越えの続編。

C57の下り単機回送を撮影した後、中在家信号所に向かった。
同信号所は加太・柘植間のほぼ中間、加太からは4.6キロにある。大築堤の外れから線路伝いに1キロ半歩いた。
切通しを抜けると、南側の眼下に田園風景が広がってくる。キハ35系上り亀山行336Dが峠を下りていった。
上りDCと交換待ちの下り貨物列車の加太発車は12時10分頃。歩を止めて撮影場所を探した。

下り貨物は、柘植から先関西線を行く列車と草津線に入る列車があり、後者の列車番号は700番台が付されていた。
草津線で草津に抜けるルートは名古屋から東海道線を行くより距離が短く、貨物列車のバイパスの役割があった。
新幹線開業後も、その運行は大きく変わっていなかったようである。

やがて、数両の貨車を牽引してD51が25‰を上ってきた。短い編成でそのまま関西線を行く列車である。

D51牽引の下り貨物261ㇾ


右の集落の先に40年に開通した名阪国道が見える


中在家信号所は加太方からの25‰上り勾配区間の途中にあり、スイッチバック方式である。
列車交換のために加太方に引上線、柘植方に2本の発着線が設けられていた。

信号所の手前まで行くと、下り貨物との交換で引上線に待避していた上り臨時旅客列車が動き始めた。
平坦の引上線をバックして発着線に向かう。左下に本線がある。

D51牽引の上り臨時旅客


12時20分頃発車。柘植方の発着線から本線に向かう。引上線から信号所を展望した。





下り列車は中在家信号所を発車、あるいは通過して25‰の上り勾配を行き、数百m先の加太トンネルに入る。
柘植方から撮りたかったが、この時間帯は上りが続き、下り列車を待たずに断念。その後も撮影機会がなかった。

13時前、上り貨物が引上げ線で待避して下り湊町行335Dと交換。普通DCを通すのに大変な作業を強いていた。

D51牽引の上り貨物264ㇾ 引上線からバックして柘植方の発着線に向かう






発車して25‰下り勾配の本線に入る


この後、信号所を後にして大築堤に戻った。10分程歩くと上り荷物列車が下り勾配を駆け抜けていった。

D51-211[奈]牽引の上り荷物44レ

1968.10  加太・中在家信号所

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和40年代前半の鉄道写真(101・加太越え①)

2016-11-14 | 昭和40年代の鉄道(関西線他)

昭和40年代前半の鉄道写真を再開しますが、残るは関西線の加太越えのみ、フイルム数本で終了します。


加太越え 昭和43年10月(その1)

加太越えは、鈴鹿山脈南端より南に位置する関西線の加太・柘植間を頂点とする峠越えである。
峠の加太トンネルは延長930m、前後に25‰勾配が連続し、蒸気機関車時代は同線の最大の難所であった。
撮影当時は奈良運転所、亀山、竜華機関区のD51、亀山機関区のC57、C58が往来していた。

加太・柘植間は8.9キロと長く、トンネルの加太方にスイッチバック方式の中在家信号所が設置されていた。
加太を出た下り列車は、やがて25‰の急勾配区間を行き同信号所手前でR300mの大築堤に差し掛かる。
ここでの展望は古くから鉄道雑誌で紹介され、後補機付の蒸気機関車の撮影ポイントとして知られていた。

D51は、撮影者がいない中央西線で専ら撮影していたが、中津川電化開業により撮影地が遠くなった。
それまでは他の撮影者がまず避けられない当地を敬遠してきたが、遅ればせながら出かけてみることにした。
実際に行ってみると、この頃は2、3人がいる程度であまり障害になることはなかった。

昭和43年10月27日、かくして初めて加太越えの撮影に行った。
名古屋から下り湊町行331Dで加太に9:39下車、交換待ちの上り貨物列車の発車を見届け、西に歩く。
目指すは大築堤。国道25号線大和街道を進み築堤入口まで約3キロ、結構距離がある。

1キロも行かないうちにドラフト音が聞こえ、先程、加太に停車していた下り荷物列車がやってきた。
重油併燃装置、集煙装置付のD51が、この先の峠に備えて加太川沿いの12‰勾配を加速していく。

D51牽引の下り荷物41レ






荷物列車の20分後に下り貨物列車が加太を発車する。大築堤の定番ポイントまでは間に合わなかった。
短い編成であるが、後補機付である。よい煙で大築堤前の25‰勾配を上ってきた。

D51牽引、後補機付の下り貨物783レ


振り向くと大築堤。初めて見る大築堤を上って行くD51の後姿はなかなかの迫力であった。

D51の後補機


先に進み、中在家信号所寄りから大築堤方面を見る。加太発10:56の下り普通気動車が来た。

キハ35系下り亀山発湊町行333D


しばらくして、C57の下り単機回送が大築堤を登ってきた。改良された機関士側の前面窓が目立つ。
何の回送か不明、全く予期していなかった。一つ得した気分で中在家信号所に向かった。

重油併燃装置付C57-121[亀]の下り単機回送



1968.10  加太・中在家信号所

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする