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音楽全般について 素人臭い能書きを垂れてます
プログレに特化した別館とツイートの転載もはじました

Wizardry 生命の楔 26階奥のペリカンに玉砕(笑)

2010年02月11日 23時53分20秒 | GAME
 予想通り(笑)、本当のボーナス・ダンジョン、ラスト・フロアである26階の探索。出てすぐ遭遇するボスには楽勝だったとはいえ、扉の向こうの雑魚敵はかなり強い(これまで出てきた中ボスが総登場)、勝てることは勝てるのだが、連戦がしんどい、かなり死ぬ、灰になったりすること何度かあった、おまけにドレインを仕掛けてくる相手もいるので、その時はリセットしてやり直しといった感じで、一進一退で進みながらも、やがてそれほど手こずらずにほとんどのエリアを踏破(北西のエリアはモンスターが出ない、そのかわりトラップが沢山あったけど)。しかし、長かったのは実はここからだ。

 唯一アクセスできない部屋(本当のラスボスが待っている)に入るには、「そうきゅうのリボン」が必要、そして未だ村正も出ていないことから、こうなれば意地とばかりに、北東の部屋を何度も周回し、延々と、本当に延々と戦い続けていくことになった。もともとこういう無意味なレベル上げをシコシコと続けていくのが嫌いでない私も、さすがにうんざりとしてきたところで、ようやくエクスカリバー、村正、そうきゅうのリボンとポンポン出始めた(ドロップにもレベル補正してるのかな、出るときは立て続けである)。気がついてみると、当初50代後半だったったトップのレベルはもう90を超えてしまっていた。実に不毛な作業ではある。さて、そうきゅうのリボンが出たところで、試しに本当のラスボスである「アイォーグ(俗称:ペリカン)」と対決してみた。

 事前情報によれば、通常攻撃で600とか出るため前衛のHPは700~800はないと苦しいらしい。幸いに前衛は全て700オーバーとなっていたので勝機があるかもと思っていたのだが、数回やって諦めた。運にもよるだろうけど、各ターン毎回誰か死ぬようなパターンにはいると薬品を使ってもMPが足りなくなってしまうのだ。これはやはり前衛が全て999とかで、蘇生魔法もふんだんに持っているようなパーティーでないとなかなか安定して勝負できそうもない。そんな訳でこのゲームもそろそろ終わりとしようか、「世界樹」の方はボーナス・ダンジョンを全くやらなかったので、こちらはけっこうやり込んだと思う。開始当初はけっこう違和感もあったが、なかなかおもしろいゲームだった訳だ。
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JAN AKKERMAN / Heartware

2010年02月11日 17時52分02秒 | ★ Progressive Rock

ヤン・アッカーマンは私が大好きなギタリストだ。元々彼が所属していたフォーカス自体を大昔から好きだったせいで、その縁で彼のことも追いかけるようになったのだが、フォーカス脱退前後の頃ならいざしらず、さすがに最近のものについては、あまり網羅的に聴いていないのが実情だ(同様にタイスvレアーのことも好き)。一応未聴のアルバムを見つければ、たいていは購入するようにしているのだが、彼のソロ活動の変遷をクロノジカルに把握するというところまでは行っていない。

http://blogout.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/jan-akkerman-he.html

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ブラームス ピアノ四重奏曲 第1番(シェーンベルク編)/ラトル&バーミンガム市響

2010年02月11日 00時07分42秒 | ブラームス
 この曲はしばらく前にロバート・クラフトの演奏を2種類聴いたばかりだが、気が向いたので、久しぶりにラトルとバーミンガム市響の演奏を聴いてみた。前にも書いた通り、私はこの曲をこの演奏で知り、以来四半世紀もシェーンベルク編曲のピアノ四重奏曲第1番といえば、これを聴き続けてきたせいもあって、やはり一番しっくりとくる違和感がまるでない演奏だ(クラフトの2番目の演奏も良かったが)。冒頭から実にブラームスらしい響きが充満しているし、全体にテンポや表情も実に的確で、常に男らしくありたいと思い続け、傍目にもそう振る舞いながら、時にふと遠くを見て、うつむいてしまう優柔不断なロマンチストという側面が複雑に絡み合ったブラームスが思い浮かぶような演奏なのである。多少雑ないい方をすれば、前に聴いたクラフトの演奏が「シェーンベルクがブラームスをどう料理したか」をポイントにしたものだったとすると、ラトルの方は「他人の手が入ったブラームス作品をいかにも純正ブラームス作品に近づけるか」を主眼にした演奏という風にもいえるかもしれない。

 なにしろ冒頭、木管に続く弦が入ってくるあたりの響きが素晴らしい。しつこいようだがブラームスそのものである。またそれをいくらか遅めにじっくりと歌う間合いというか呼吸感のようなものは、新ロマン派的な感性、あるいはマニエリスム的なディテールへのこだわりを感じさせるものだと思う。おそらく、古い指揮者だとここまで、歌い込んでロマンティックに演奏してしまうのはおそらく気恥ずかしく感じるのではないだろうか。ラトルという指揮者は、当時未だ20代後半、しかも、この曲(版というべきか)が今ほどポピュラーではなく、手あかのついていない素材だったから(慣例や常道的な解釈が存在していなかったので)、こういうやや身振り手振りの大きい、いってしまえばフルトヴェングラー的な指揮ができたのだろうとも思ったりする。やや遅めの解釈した最終楽章なども、ハンガリー的な色彩はほどほどにして、ブラームス的な行きつ戻りつしながら盛り上がっていく、調度交響曲の第二番の最終楽章のようなハイライトを形成しているのも、そう考えると納得できるものだ。とりとめがなく地味になりがちな、真ん中のふたつの楽章を、ここまで情感豊かに、しかも元から交響曲のパーツであるかのような演奏しているのも出色だ。
コメント (2)
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