昨日おおきなスーパーに行きました。買い物を済ませて店の片隅で一杯100円也のコーヒーを紙コップで飲んでおりましたら、ちかくにあったタバコ売場の大きなショーケース、何十種類ものタバコが並べられているのが目に入りました。何となく眺めておりましたら、その中に、まるで日の丸のような大きな赤い丸の中に英語の名前が記されているタバコがあるのに気がつきました
そのタバコを目にしたとたん、GGIは思わず「おお~、懐かしいなあ、君、まだ生きていたのかあ・・・」とつぶやきました。タバコの名前はラッキー・ストライク、すなわちLUCKY STRIKE・・・封にはBORN IN U.S.Aと記されています
懐かしさのあまりこのタバコを衝動買い、そのあとGGIはしばらくおばさん店員二人を相手に、ラッキー・ストライク物語について延々と講釈を垂れてしまいました
「あのなあ、このタバコ、むかしなあ、日本が米軍に占領されていた頃…そう、この湖都にも米軍がいたのや、昭和30年代ごろまでは米軍がいた、そのころは「米軍」や「占領軍」とは言わんかった、「進駐軍」と言うてた。比叡山の麓、今の市役所があるあたりに大きな基地があったのや、フェンスの向こうは広大な青い芝生に将校用の住宅が点在、海洋博のとき沖縄に初めていったのやけど、そのとき目にした沖縄の米軍基地の光景とわが湖都にあった米軍基地の光景がそっくりやったのに驚いた、まるでタイプスリップしたみたいやった・・・
基地と言っても、湖都にあったのは戦闘部隊の基地ではなく司令部、西日本を占領している米軍を管轄する基地やった、それでなあ、ヤンキーらが基地やその周辺で、このラッキー・ストライクをスパスパ吸ってたんや、ヤンキーというのは街角の不良っぽい少年のことやない、当時、米兵のことを日本人はヤンキーと言っていたんや、
ラッキー・ストライクは当時の貧乏日本人からすれば、すなわち大半の日本人にとっては、世界一豊かな国、米国の象徴やった、憧れやった、このタバコ、敗戦直後は高価でビンボーな日本人には高嶺の花やった、米軍の空爆で焼野原だらけになった日本では、もう日の丸なんてお呼びじゃない、そんなモノどうでもよろしい、そのかわり米国の豊かさの象徴、大きな赤い丸がトレードマークのラッキーストライクが大人気というわけや!
つまりなあ、「むかし戦争に敗けたころ、日本の日の丸はラッキー・ストライクやった、わっかるかなあ、わかんねんだろうなあ・・・」というわけ、それぐらいラッキー・ストライクという米国製の日の丸が日本を席巻していたのや、日本人はこの新たな米国産の日の丸をもろ手を挙げて大歓迎したんや
あのなあ、オレが大学に入ったころ、敗戦から15年後の1960年ごろ、喫茶店のモーニング・サービスに「ラッキー・ストライク二本付き」というのがあってなあ、それでラッキーストライ目当てによく喫茶店に行ったもんや・・・
なに?「わっかるかなあ、わかんねえだろうなあ」って何のことや、そんなこともかわかんねえのか、そんなことも知らんのか、むかしなあ松鶴家千とせ(しょうかくや・ちとせ)というオモロイ漫談家が使っていたギャグのフレーズや、70年代半ばころの話や、このオッサン、童謡の「夕焼け小焼け」の曲をバックに、「シャバダバダディ〜!、イェーイ!、俺が昔、夕焼けだった頃、弟は小焼けで、父さんは胸やけで、母さんは霜やけだった。わかるかなぁ、わかんねぇだろうなぁ〜」と歌って大人気やった・・・
(この歌?をお聞きになりたい方はユーチューブをご覧くださいませ)
などとオバサン店員さん二人を前に大講釈、そうしましたら、オバサンたち「そういえば、このあいだラッキー・ストライクを買いに来たオジイサンもいろんな話を長々としていかはった」・・・・
谷内六郎という絵描きさんは以前「週刊新潮」の表紙の絵をながいあいだ描いていました。その中の一枚に、東京と思われる焼け野原の中を米軍のジープ一台が走って来る光景を描いた作品があるのですが、ジープの背後には、地平線の彼方に、ラッキー・ストライクが大きく描かれていました。朝日(夕日?)の代わりにラッキー・ストライクを描いたのでありませう・・・敗戦直後の人々の心象風景を描いた心に残る優れた作品です、貴重な作品であり、GGIはとても好きです。ラッキー・ストライクが与える印象は、圧倒的に豊かなアメリカの印象は、この絵のように当時の日本人にとっては鮮烈だったのです・・・
今日の写真は谷内六郎さんのラッキース・トライクの絵を撮ったものです(新潮文庫の表紙)。ぜひクリックしてご覧くださいませ
なもあみだぶ・なもあみぶ・なもあみだぶ・・・
グッドナイト・グッドラッキーストライク!
そのタバコを目にしたとたん、GGIは思わず「おお~、懐かしいなあ、君、まだ生きていたのかあ・・・」とつぶやきました。タバコの名前はラッキー・ストライク、すなわちLUCKY STRIKE・・・封にはBORN IN U.S.Aと記されています
懐かしさのあまりこのタバコを衝動買い、そのあとGGIはしばらくおばさん店員二人を相手に、ラッキー・ストライク物語について延々と講釈を垂れてしまいました
「あのなあ、このタバコ、むかしなあ、日本が米軍に占領されていた頃…そう、この湖都にも米軍がいたのや、昭和30年代ごろまでは米軍がいた、そのころは「米軍」や「占領軍」とは言わんかった、「進駐軍」と言うてた。比叡山の麓、今の市役所があるあたりに大きな基地があったのや、フェンスの向こうは広大な青い芝生に将校用の住宅が点在、海洋博のとき沖縄に初めていったのやけど、そのとき目にした沖縄の米軍基地の光景とわが湖都にあった米軍基地の光景がそっくりやったのに驚いた、まるでタイプスリップしたみたいやった・・・
基地と言っても、湖都にあったのは戦闘部隊の基地ではなく司令部、西日本を占領している米軍を管轄する基地やった、それでなあ、ヤンキーらが基地やその周辺で、このラッキー・ストライクをスパスパ吸ってたんや、ヤンキーというのは街角の不良っぽい少年のことやない、当時、米兵のことを日本人はヤンキーと言っていたんや、
ラッキー・ストライクは当時の貧乏日本人からすれば、すなわち大半の日本人にとっては、世界一豊かな国、米国の象徴やった、憧れやった、このタバコ、敗戦直後は高価でビンボーな日本人には高嶺の花やった、米軍の空爆で焼野原だらけになった日本では、もう日の丸なんてお呼びじゃない、そんなモノどうでもよろしい、そのかわり米国の豊かさの象徴、大きな赤い丸がトレードマークのラッキーストライクが大人気というわけや!
つまりなあ、「むかし戦争に敗けたころ、日本の日の丸はラッキー・ストライクやった、わっかるかなあ、わかんねんだろうなあ・・・」というわけ、それぐらいラッキー・ストライクという米国製の日の丸が日本を席巻していたのや、日本人はこの新たな米国産の日の丸をもろ手を挙げて大歓迎したんや
あのなあ、オレが大学に入ったころ、敗戦から15年後の1960年ごろ、喫茶店のモーニング・サービスに「ラッキー・ストライク二本付き」というのがあってなあ、それでラッキーストライ目当てによく喫茶店に行ったもんや・・・
なに?「わっかるかなあ、わかんねえだろうなあ」って何のことや、そんなこともかわかんねえのか、そんなことも知らんのか、むかしなあ松鶴家千とせ(しょうかくや・ちとせ)というオモロイ漫談家が使っていたギャグのフレーズや、70年代半ばころの話や、このオッサン、童謡の「夕焼け小焼け」の曲をバックに、「シャバダバダディ〜!、イェーイ!、俺が昔、夕焼けだった頃、弟は小焼けで、父さんは胸やけで、母さんは霜やけだった。わかるかなぁ、わかんねぇだろうなぁ〜」と歌って大人気やった・・・
(この歌?をお聞きになりたい方はユーチューブをご覧くださいませ)
などとオバサン店員さん二人を前に大講釈、そうしましたら、オバサンたち「そういえば、このあいだラッキー・ストライクを買いに来たオジイサンもいろんな話を長々としていかはった」・・・・
谷内六郎という絵描きさんは以前「週刊新潮」の表紙の絵をながいあいだ描いていました。その中の一枚に、東京と思われる焼け野原の中を米軍のジープ一台が走って来る光景を描いた作品があるのですが、ジープの背後には、地平線の彼方に、ラッキー・ストライクが大きく描かれていました。朝日(夕日?)の代わりにラッキー・ストライクを描いたのでありませう・・・敗戦直後の人々の心象風景を描いた心に残る優れた作品です、貴重な作品であり、GGIはとても好きです。ラッキー・ストライクが与える印象は、圧倒的に豊かなアメリカの印象は、この絵のように当時の日本人にとっては鮮烈だったのです・・・
今日の写真は谷内六郎さんのラッキース・トライクの絵を撮ったものです(新潮文庫の表紙)。ぜひクリックしてご覧くださいませ
なもあみだぶ・なもあみぶ・なもあみだぶ・・・
グッドナイト・グッドラッキーストライク!