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トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

JR早島駅を訪ねる

2021年01月31日 | 日記
昭和31(1956)年に建設された鉄骨造りの早島駅です。
岡山市と倉敷市の間に位置する岡山県都窪郡早島町にあるJR宇野線の駅ですが、令和2(2020)年4月11日から無人駅になりました。 JR西日本岡山支社管内では、他に、山陽本線の鴨方駅と西阿知駅が、同じ日に無人駅になっています。
駅舎内に入りました。駅舎の左側に自動券売機と運賃表、閉鎖された窓口が見えます。開設されていた「みどりの窓口」は無人駅となる前日に閉鎖されたそうです。早島駅は、明治43(1910)年6月12日、宇野線の岡山駅と終着駅の宇野駅間が開通したときに開業しました。早島町内にあった「説明」によれば、開業当時は「貨客混合の列車で、岡山駅と宇野駅を1時間半ぐらいで結んでいた」そうで、当時の運賃は「1等 87銭 2等 51銭 3等 29銭だった」そうです。

右側のスペースは、待合室になっています。木製の細長いベンチの表面には、早島町の伝統産業である、い草で織られた上敷が使用されています。

待合室の一角には、地元の人が生けられたと思われる生花が飾ってありました。

早島駅の1日平均の乗車人員は、平成30(2018)年には1,238人だったそうです。 改札口からホームに出ます。 宇野線が開業した日、宇野港と対岸の高松駅を結ぶ宇高連絡船も運航を開始し、玉藻丸と児嶋丸が就航しました。それ以後、宇野線は、四国への玄関口へ向かう路線として、多くの人々に利用されて来ました。宇野線も早島駅も、開業からすでに110年が経過しています。

駅舎側の1番ホームから見た改札口です。駅名標が見えます。早島駅は岡山駅側の備中箕島(びっちゅうみしま)駅から1.4km、宇野駅側の久々原(くぐはら)駅から1.7kmのところに設けられています。宇野線は、現在、久々原駅と早島駅間1.7kmだけが複線区間になっています。

早島駅は相対式2面2線のホームになっています。改札口の正面の2番ホームにあった待合室です。駅名標とベンチが見えました。右側の「2」のマークの下には、建物資産標がありました。「建物資産標 鉄 停骨 待合所 1号 平成27年12月」と記されていました。

ホームのようすを見てみることにしました。駅舎寄りの1番ホームを宇野駅側に向かって歩きます。1番ホームは、岡山方面に向かう列車が停車することになっています。長いホームの先に六の割踏切が見えました。 
ホームに隣接して変電設備がありました。宇野線が電化されたのは、開業から50年後の昭和35(1960)年10月1日のことでした。
快速マリンライナーが2番ホームに到着しました。岡山駅から、瀬戸大橋を経由して香川県の高松駅との間を1時間程度で結んでいます。この先、宇野線の途中駅である茶屋町駅(所属は宇野線)を起点とする本四備讃線(茶屋町駅~宇多津駅)、予讃線(坂出駅~高松駅)を通って高松駅に到る列車です。実際の運用は、宇多津駅を経由しないで、瀬戸大橋から短絡線(通過線)で、直接、坂出駅に乗り入れています。

マリンライナーが出発して行きました。 瀬戸大橋(本州四国連絡橋)の構想が具現化したのは、昭和30(1955)年5月11日、濃霧の中を出港した宇高連絡船の紫雲丸が、同じ宇高航路の大型貨車運航船、第3宇高丸と衝突して沈没、修学旅行の小・中学生を含む168人が死亡した事故がきっかけでした。多くの犠牲者を出した悲惨な事故から30年余が経過した、昭和63(1988)年、瀬戸大橋を渡る本四備讃線が開通しました。
JR西日本は、平成28(2016)年3月26日から、駅の案内放送等で、マリンライナーが走る岡山駅から高松駅間を「瀬戸大橋線」と、宇野線の茶屋町駅から宇野駅間を「宇野みなと線」と、愛称で呼ぶようになりました。
1番ホームを引き返します。駅舎に隣接しているトイレ付近から見た岡山駅側です。駅舎前のホームを覆う上屋と、茶屋町・児島・高松・宇野駅方面に向かう列車が停車する2番ホームとを結ぶ跨線橋が見えました。
跨線橋より岡山駅側の1番ホームから見た2番ホームです。駅名標の向こうに「上敷ござの早島」と書かれた角柱の看板が見えます。側面には、「花ござの早島」と書かれています。駅舎内にあったベンチの上敷を思い出しました。

跨線橋に上がりました。跨線橋の上から見た駅前広場と早島の家並みです。

駅前の岡山駅寄りには白壁の観光センターと早島駅への取付道路(県道185号 早島停車場線)が見えます。取付道路は、国道2号(旧2号バイパス)の無津交差点と早島駅を結ぶ4車線の道路で、平成11(1999)年に改修されました。

4車線の取付道路と早島町の中心部のようすです。


跨線橋から見た宇野駅方面です。ホームと駅舎、待合室と駅名標があるだけのシンプルな駅の姿が見えます。
跨線橋から見た2番ホームの裏側(南東方向)の光景です。はるか向こうに円錐形をした常山(つねやま 標高307m)が見えます。常山は、その姿から「児島富士」とも呼ばれています。
戦国時代、早島から東に接する箕島(みしま)、妹尾(せのお)地域の南側には、”吉備の穴海”が広がっていました。この地を支配していた戦国大名、宇喜多秀家は、南に広がる干潟の干拓を思いつき汐止めのための堤防、"宇喜多堤(うきたつつみ)"を築きました。この宇喜多堤の築造から昭和30年代まで、南に広がる”吉備の穴海”を干拓する工事が進んで行きました。今では、広い干拓地が常山の麓から左側のあたりまで広がっています。

早島駅は早島町の前潟地区にあります。「前潟」の地名は、「前にある干潟を干拓してできたところ」ということから名づけられたといわれています。
前潟地区の干拓は、江戸時代前期の寛文7(1667)年に始まりましたが、宇喜多堤の度重なる決壊や干拓のための資金の不足など、大変な苦労を重ねて、延宝7(1679)年に完成しました。町内の前潟地区にある神社には、前潟干拓250周年を記念して、大正7(1918)年に建てられた「開墾記念碑」がありました。この写真は、神社にあった前潟干拓の「説明」の中に載せられていたものですが、「説明」には「早島戸川家の第13代当主、戸川安宅(やすいえ)氏も訪れている」と書かれていました。前列のシルクハットの男性が、早島(旗本領3400石)の領主、戸川家の”お殿様”だった戸川安宅氏だそうです。

1番ホームに普通列車が到着しました。早島駅を出た宇野方面に向かう列車は、この後、かつての海岸線に沿って走り、常山の左側の山麓を宇野駅に向かって進んでいくことになります。

駅舎から外へ出ました。駅舎前には「早島駅前広場」が整備されています。
公園内には、早島町の歴史や文化など町のようすを伝える「いま むかし」という「説明」がいくつかつくられていました。その中の一つに、「早島町の人々は干拓で生まれた新たな土地に、い草を植え、”早島表”と呼ばれる畳表を織り、”い草と畳表のまち 早島” の名声を得るまでになりました。”早島表”は近くを流れる汐入川を下り、児島湾から瀬戸内海を経て大坂や江戸に運ばれ、全国の人々に親しまれていました」と書かれていました。

早島の町並みを歩くことにしました。白壁の早島町観光センターの脇から、4車線の駅への取付道路を進み松尾坂交差点に着きました。この先、道路は松尾坂への登り坂になります。左右の通りは県道倉敷妹尾線(県道152号)で、”吉備の穴海”の干拓のために築かれた長さ50町(約5.5km)ともいわれる”宇喜多堤”があったところにつくられた道路だといわれています。 

交差点の左側にあった「説明」には、この先にある松尾坂から「町筋に入る道路は、坂の途中から南に下り、横町を通り駅筋に出ていた」と書かれています。 その道をたどって早島駅に戻ることにしました。交差点を直進し、松尾坂に向かって歩きます。「通学路」の標識の向こう側の電柱に、「金毘羅往来」と書かれた白地に横長の案内標識が掲げられています。

「金毘羅往来」の標識があるところで左折して進み、さらにその先の三差路を左折して進みます。

左折すると正面に灯籠がありました。灯籠の正面に「金毘羅大権現」と「市場村講中」、右側面に「吉備津宮」、左側面に「氏神両社」、裏面に「文化十四年丁丑 夏五月建立」。また、右側にある道標には、正面に「右 ゆかさん こんひら 道」、右側面に「左 きひつ宮 をかやま 道」と刻まれていました。

灯籠と道標の間にあった「説明」には、「海の神として信仰を集めている金毘羅宮への参詣が、全国的に流行したのは江戸時代後期の文化・文政時代(1804年~1829年)頃からで、由伽山との両参りで多くの参詣者を集めた。早島も金比羅宮への参詣道(金比羅往来)が経由していたところで、町内には宿や道標、灯籠がつくられ旅人の便宜を図ってきた」と、書かれていました。 灯籠には、遙拝所の機能もあったようで、二つの氏神(吉備津宮・金毘羅宮)の神社の名前が刻まれたところに向かって礼拝するようになっていたようです。
灯籠と道標の前を右折して進むと、右前に洋風の住宅が見えました。早島町指定文化財(平成6年11月15日指定)の清澄邸です。町内で唯一の明治の洋風建築だそうです。「明治の雰囲気を今に伝える貴重な建物」と「説明」には書かれていました。

清澄邸の角で左折して、早島駅に戻ることにしました。県道倉敷妹尾線を渡ります。写真は先ほど右側から左側に渡った松尾坂交差点方面です。
県道を渡ってしばらく歩くと、通りの先に早島駅が見えるようになりました。この道は「駅筋」と呼ばれています。「この通りには、い草や畳表の問屋や、旅館、食べ物屋が軒を連ね、大いに賑わっていた」と、「説明」には書かれていました。多くの建物が建て替えられていましたが、往事の雰囲気を残すお宅も残っていました。 
駅筋は、早島駅の正面につながっていました。

早島駅を訪ねるためにやって来た早島町でしたが、町内には歴史や文化に関する丁寧な説明が設置されており、早島の町についても十分理解することができました。楽しい旅になりました。





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