トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

JR常山駅と友林堂

2021年02月09日 | 日記

岡山市灘﨑支所の前の道路から見た常山(つねやま)です。標高307m。この近辺では、金甲山、怒塚山に続く3番目に高い山だといわれています。その秀麗な姿から、地元の人々からは「児島富士」とも呼ばれています。
この通りをまっすぐ進んだ常山の左側の裾野に、JR常山駅があります。

常山駅への入口に来ました。前方左側には、国道30号の高架橋が見えます。
JR宇野線は、明治43(1910)年6月12日、岡山駅・宇野駅間の全線(全長32.8km)が開業しました。同じ日、宇野港と香川県の高松港を結ぶ宇高連絡船も運航を開始しています。それからは、本州から四国へ向かう多くの人々に利用されて来ました。宇野線の電化が完成し電車の運行が始まったのは、開業から50年後の昭和35(1960)年10月1日のことでした。

駅前広場のホーム寄りにつくられていた駐輪場です。自転車がぎっしりといっていいほど並んでいます。平成30(2018)年の常山駅の1日平均の乗車人数は452人だったといわれています。この自転車の数を見ると高校生や大学生の利用が多いのでしょう。 駐輪場の屋根の上にホームの待合室が見えました。

駐輪場からホームの左側に出ました。 長いホームが見えます。 
順調に発展してきた宇野線が、四国へのメインルートの地位を失ったのは、昭和63(1988)年の本四備讃線(茶屋町駅・宇多津駅間)の開業により、岡山駅と高松駅間を1時間程度で結ぶ、快速マリンライナーの運行が始まったことがきっかけでした。この時、宇野線の開業と同じ日に運航が始まった宇高連絡船も、高速艇の運航を除いて廃止されました。そして、その高速艇も平成2(1990)年には運航休止、その翌年の平成3(1991)年には廃止となりました。

常山駅は、昭和14(1939)年1月に開業しました。開業からすでに80年が経過しています。 ホームへは、常山踏切の手前から入る構造になっています。
平成28(2016)年3月26日から、場内放送等では、岡山駅から茶屋町駅・児島駅・高松駅方面に向かう路線を「瀬戸大橋線」と、茶屋町から宇野駅に向かう路線を「宇野みなと線」と愛称で呼ぶようになりました。同じ宇野線でありながら、茶屋町駅・宇野駅間はローカル線のような路線になっています。

常山踏切から見た1面1線の常山駅のホームです。宇野線の茶屋町駅・宇野駅間では唯一、交換設備のない駅になっています。ホームには、ICOCAの精算機、使用済み切符の収納箱、史跡名勝の案内看板、駅名標、待合室などが並んでいます。

ホームの待合室の手前に、"La Malle de Bois SETOUCHI"(ラマルドボア 瀬戸内)の幕が張られています。 令和2(2020)年度も、「旅行かばん」を意味する観光列車が、毎週土曜日に岡山駅・宇野駅間で運行されています。

岡山駅の5番乗り場で出発を待っている”La Malle de Bois"  です。本四備讃線の開業時に快速マリンライナーとして使用されていた213系電車を改装した観光列車です。

観光列車の側面にも、”La Malle de Bois"と書かれています。
昭和50(1975)年に建設された鉄骨造り、広さ1坪ぐらいの待合室です。宇野線の茶屋町駅の次の駅、彦崎駅から宇野駅までの駅には、このような装飾を施された待合室やホームがつくられています。 ホームの先に国道30号の高架橋が見えます。
常山駅は、茶屋町駅側の迫川駅から1.3km、宇野駅側の八浜駅から2.5kmのところにあります。常山駅は、宇野線の開業から29年後の昭和14(1939)年に開業しました。当時の所在地は、児島郡荘内村宇藤木(うとうぎ)でした。玉野市に編入された昭和29(1954)年4月1日から、現在の玉野市宇藤木になっています。
ホームから見た、駅前広場です。公園風のスペースです。
常山駅があるあたりは、かつては、文字通り「児島」という島でした。児島の北側には”吉備の穴海”と呼ばれる海が広がっていました。「岡山県の三大河川」といわれる高梁(たかはし)川、旭川、吉井川によって堆積された土砂のため、干潟が広がっているところも多く、江戸時代初期から干拓が行われて来ました。こうして、かつての児島は、本州と陸続きの児島半島となり、”吉備の穴海”の東側は児島湾になったといわれています。常山のある旧児島郡は、この児島半島を中心にした地域の郡名でした。 
駐輪場の向こうに、常山の山裾にある玉野市宇藤木の集落が見えます。

宇野駅から来た茶屋町駅行きの普通列車(213系電車)が到着しました。
かつて、快速”マリンライナー”として岡山駅と高松駅間を往復していた時と同じ塗装のまま、普通列車として運用されています。宇野線の列車は、通勤・通学時間帯には岡山駅・宇野駅間で列車の運行がされていますが、昼間時間帯には宇野駅と茶屋町駅間での運行が中心になっています。
ホームにあった史跡・名勝の案内板の常山駅周辺です。常山の山頂には、戦国時代、常山城がありました。城主は上野隆徳、妻の鶴姫は備中松山城を本拠地とする三村元親の妹でした。三村元親は安芸国の戦国武将、毛利氏と結んでいましたが、毛利氏の要請に応えて、備前国の宇喜多直家と戦った”明禅(善)寺の合戦”(永禄10年=1567年)で、三村方が敗れたことから、後に織田信長と結ぶようになりました。その結果、裏切られた毛利氏の憎しみを買うことになってしまいました。
毛利方は小早川隆景(毛利元就の二男)を総大将に、天正2(1574)年10月から翌3(1575)年にかけて、三村氏の本拠地である備中松山城の周辺にあった、三村氏と結ぶ城の攻撃を始めました。三村氏の分家が拠る成羽城(旧川上郡成羽町)や、猿掛城(小田郡矢掛町)、国吉城(旧川上郡川上町)、佐井田城(旧上房郡北房町中津井)、新見城などが、次々に落城して行きました。

茶屋町行きの電車が、次の迫川(はざかわ)駅に向かって出発して行きました。

三村元親の拠点、備中松山城は、周囲の城が落城したことにより、毛利方に包囲され孤立無援の状態になりました。毛利方は、天正3(1575)年3月7日、高梁川と成羽川の合流点に近い広瀬・玉村で攻撃を開始しました。しかし、緒戦でかなりの犠牲者を出す結果となり、毛利方は兵糧攻めに戦法を切り替えました。そのため、三村方には退散する者や毛利側と内通する者が絶えず、同年5月22日、備中松山城は落城してしまいました。そして、同年6月2日、城主、三村元親は毛利氏の検視を受けて城下の松蓮寺で切腹し、備中一の勢力を誇った三村氏はここに滅亡しました。

常山駅の周辺を歩いてみることにしました。
常山踏切から、正面に見える常山に向かって歩きます。

毛利氏の前に三村氏は滅亡しましたが、三村氏と縁のある武将がまだ残っていました。常山城主の上野隆徳でした。彼の妻は三村元親の妹でした。上野隆徳を討伐するため、小早川隆景(”三本の矢”で知られる毛利元就のニ男)は総大将として南下し、常山城を包囲しました。上野方には300余人の兵力しかなく、圧倒的に劣勢でした。常山城は、孤立状態となり、城から抜ける兵も多かったといわれています。
天正3(1575)年6月4日から毛利方の攻撃が始まりました。上野方の多くは傷つき、全員が討ち死にを覚悟しました。そのとき、城主上野隆徳の妻である鶴姫は、城内の侍女たちとともに、山麓に陣を張っていた毛利方の浦野兵部宗勝(乃美宗勝)の軍に突入しました。しかし、討ち死にする者や負傷する者が後を絶たず、城内に引き揚げ自害しました。上野隆徳も自害した常山城は、6月6日、落城しました。 
常山の山頂には、鶴姫や侍女たちを祀る、34基の「女軍の墓」がつくられ、上野方の人々の勇敢な、そして悲惨な最期のようすを今に伝えています。

写真は、常山に登っていく通りの右側にあった石碑です。昭和14(1939)年に建てられたこの石碑には「常山城址友林堂」と刻まれています。 石碑の脇にあった「友林堂 0.1km」と書かれた道標にしたがって進みます。急斜面の坂道です。

右側に白壁の土塀が見えました。友林堂です。
落城した常山城は豊臣秀吉の時代には宇喜多秀家の所領となり、宇喜多直家の重臣だった戸川秀安が城主として入城しました。戸川秀安は、岡家利、長船貞親と並ぶ”宇喜多三老”の一人でしたが、2万5千石を領し、宇喜多家一の重臣となりました。

戸川秀安(以下「友林」)は、宇喜多直家の死後、家督を子の戸川達安(みちやす)に譲り、”友林”と号して隠居しました。そして、慶長2(1597)年に亡くなりました。「説明」には、友林堂は「友林の位牌を安置する霊廟であり、文化2(1805)年に、撫川(なつかわ)、早島、帯江、妹尾知行所(旗本領)の戸川四氏によって建立された」と書かれていました。
友林堂です。唐破風入母屋造りの拝殿です。正面の唐破風の上に千鳥破風を乗せています。「荘重で優美な外観」と「説明」には書かれています。瓦には「三本杉」の戸川家の家紋がついていました。
友林堂から一つ上の段に上がります。豊島石でつくられた二つの五輪塔がありました。左側が日賢の墓(高さ137cm)、右側が日教の墓(高さ124cm)だといわれています。二人は「友林の重臣と伝えられている」(説明板)そうです。「戸川氏は日蓮宗を保護していたので、仏門に入ってからの名前が伝わっているのでは・・」と、友林堂を管理しておられる方が教えてくださいました。
日賢と日教の五輪塔の左側に、玉垣で囲まれた五輪塔がありました。友林の五輪塔(高さ245cm)です。 近くにあった説明には、「墓守の則武氏(のち大塚氏)代々が友林の位牌を祀っていたが、文化2年、戸川氏が霊廟を建てたので、そこに安置した」と書かれていました。
少し上から見た友林堂の全景です。友林の五輪塔と家臣の日賢と日教の五輪塔、その下に、友林の位牌を祀る霊廟である友林堂が見えました。 その向こうにある岡山市藤田地区の干拓地と児島湖に注ぐ鴨川、そして、児島半島の山並みを眺めることができます。

その後、常山城は、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いの後、宇喜多氏に替わって岡山藩主となった小早川秀秋の所領となり、家臣の伊岐真利が城主となりました。慶長8(1603)年、小早川秀秋が病死し改易になると、池田忠継が新たに岡山藩主となりました。
そして、常山城は、その池田忠継によって廃城とされました。

JR宇野線の常山駅を訪ねる旅は、常山にかかわる歴史を訪ねる旅になりました。ご説明をいただいた友林堂を管理されている方に、お礼を申し上げます。