トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

大岡越前守の陣屋町と二十七曲がり

2012年10月30日 | 日記
旧東海道岡崎宿を歩こうと思ったのは、「二十七曲がり」に興味を惹かれたからでした。秋の一日、旧岡崎宿の東にある大平町から宿場の西の矢作橋まで、旧岡崎宿を歩いてきました。スタートは、国道1号線の「大平東」の交差点でした。

江戸寄りの藤川宿方面から、「大平町東」の交差点で国道1号線を渡ります。

すぐ右側に薬師寺がありますが、その石垣の下に「東海道」の石碑がありました。

旧東海道をさらに西に向かって進みます。右側の岡崎大平郵便局の前に「ようこそ東海道、西大平藩陣屋跡」の案内板がありました。

郵便局の先を右折すると、すぐ土塀と門が目に入って来ました。
西大平藩、あの、大岡越前守忠相の陣屋跡でした。

大岡忠相は、江戸南町奉行として有名です。その後、寛延元(1748)年、72歳のとき奏者番兼寺社奉行に就任して、三河国宝飯(ほい)郡、渥美郡、額田郡内に4080石を加増され、1万石の譜代大名に列します。しかし、大岡忠相は、大名になって3年後の宝暦元(1751)年に亡くなり、相模国堤村(茅ヶ崎市)の浄見寺に葬られました。後を2代目忠宣が次ぎ、廃藩置県まで7代にわたってこの地を治めました。

大岡忠相は、参勤交代のない定府大名であったため、この地に来たことはありませんでした。この陣屋は領国の管理のためにつくられたもので、説明によれば、ここにいた家臣は「郡代1人、郡奉行1人、代官2人、手代3人に郷足軽4、5人ぐらいだった」ということです。うかがったときは、ちょうど登校時間帯で、ご近所の方が児童の「見守り」をされていました。門と土塀の中には大岡稲荷神社がありましたが、陣屋の建物はなく、全体的には公園風に整備されていました。

郵便局そばの旧街道に戻り、さらに西に向かいます。
左側の土盛りの中に榎の木が見えました。大平一里塚です。ここは、江戸からちょうど80里のところだそうです。本多成重(田中吉政の次の藩主である本多康重の子)が建てたものです。塚の榎は大木でしたが、昭和20(1945)年の台風で倒壊し植え替えられたそうです。現在、一里塚の高さは2.4m、底部は縦7.3m 横8.5m。 菱形をしているようです。

一里塚の右側の松が植えられていた塚は、昭和3(1928)年の道路改修により破壊され、現在、道路になっていました。道路の脇には、昭和9(1934)年4月建立の秋葉常夜灯がありました。秋葉常夜灯は江戸末期から明治にかけてつくられたものが多いのですが、ここは昭和になってつくられた新しい常夜灯でした。

一里塚をさらに西に進むと、再び国道1号線と合流します。この先、歩行者は道路の右側の細い道を迂回して進むようになっていました。時間をかけて歩いて、分岐点の20mぐらい先の国道1号線に戻りました。1号線の右側にある松林の中を進んでいきます。

道路の右側に「東海道」の石碑がありました。
さらに、道なりに進みましたが、この道が旧東海道であるという自信が持てませんでした。幾度も、引き返そうか、道を変えようかと思いました。

この道をとにかく歩き続ける、間違ったら引き返せばいいと、腹をくくることにしました。すると、右側に、民家の脇に隠れるように建っている秋葉常夜灯を見つけました。
ほっ! よかった!  この道は旧街道に間違いない!

ほっとしていると、すぐ左側に「二十七曲がり」の碑がありました。やっと着きました。これを探してずっと歩いて来たのです。
ここは欠町(かけまち)。ここで岡崎宿に入ります。

天正18(1590)年、岡崎城に在城していた豊臣秀次(秀吉の甥)が尾張に移封された後、三河国5万4千石を与えられた田中吉政が岡崎城に入りました。

光線の具合で見えにくいのですが、碑に書かれていたのが「二十七曲がり」の道筋です。
田中吉政は、将兵を容易に入らせないために、鍵型に曲がった道をつくり、東海道を岡崎城下に引き入れることにしたのでした。これが「二十七曲がり」です。

先に進みます。前の通りに斜めに突き当たったら右に進みます。

田中吉政は豊臣秀吉の家臣でしたが、関ヶ原の戦いでは東軍の主力として活躍し、戦いの後、筑後一国を与えられ柳川に封じられました。

しばらく進むと正面に、わらじのついた木製の道標が立っていました。このあたりは、投町(なぐりまち)。19世紀初頭には、家数117軒で、綿打商や穀商、酒屋、茶屋などが並んでいました。特に茶屋は多く、豆腐にあんをかけて食べる「あわ雪」が有名でした。
「これより、次の両町角まで 650m い」。二十七曲がりの案内碑でした。

その奥に、「欠町より投町角 岡崎城東入口」と書かれた石碑がありました。南から西に曲がります。ここから、二十七曲がりが始まります。この道標と石碑は、この先二十七曲がりを歩くときの目印になりました。ただ、後になると、道標の方はなくなり石碑だけになったりしましたが・・・。道標のあるあたりは、現在、若宮町と呼ばれ市民病院の跡地だといわれています。

「い」の道標から次の両町角の道標まで西に向かって進みます。すぐ右側に「岡崎げんき館」がありました。保健所のような建物でしたが、中からは幼児の声も聞こえてきましたので、子育て支援のための施設もあるようです。

途中で、家康の子の松平信康が、天正元(1573)年の初陣のとき祈願して戦功をあげたという根石観音堂を見ながら、さらに西に進みます。

「これより両町角まで 310m ろ」の木の道標です。さらに西に進みます。

「これより次の伝馬町角まで 80m は」の道標と「両町より伝馬町角」石碑がありました。ここで右折(北行)します。

曲がるとすぐ右側に両町公民館がありました。その脇のお堂の中に「秋葉山永代常夜灯」が安置されています。寛政2(1790)年建立の常夜灯。昭和20(1945)年の7月の空襲で災禍にあいましたが、昭和47(1974)まで原型をとどめていたそうです。

すぐに、ガソリンスタンドにぶつかります。ここは、伝馬町。旧街道はこの三又路を左折(西行)します。名前の通り岡崎宿の伝馬役を担った岡崎宿の中心地でした。

早朝から歩き始めてやっとここまで来ましたが、時刻はもう昼前になっていました。

旧東海道二十七曲がりを歩こうとやってきた旧岡崎宿でした。
江戸幕府の8代将軍徳川吉宗に重用された江戸南町奉行、大岡越前守忠相が、後に大名になったことは私も知っていましたが、旧岡崎宿の隣に陣屋を構えていたことを、ここで初めて知りました。楽しい時間を過ごしました。










三朝温泉に行ってきました!

2012年10月18日 | 日記
三朝温泉に行ってきました。

倉吉市の白壁、赤瓦の町並み近くのバス停から、日の丸バスで、三朝温泉に向かいました。

道路の両側に温泉旅館が並ぶ道を進んで、三朝川にかかる三朝橋を渡ります。

昭和9(1934)年に完成した、青御影石つくりの趣ある橋です。国の登録有形文化財に指定されています。

三朝川南詰めにある三朝温泉観光商工センターで、バスを降りました。

中の観光案内所で、観光パンフレットをいただきました。
「三徳山投入堂を世界遺産に」が掲示されていました。ここからバスで15分ぐらい入ったところに、投入堂に続く参道があります。

センターの脇に、「たまわりの湯」がありました。昼過ぎの時間でしたが、入浴のためにのれんをくぐる人もかなりおられました。

渡ってきた三朝橋の向こう側に、旅館、万翠楼がそびえています。クリーム色の建物が鮮やかでした。

さらに、三朝川の上流に建つ依山楼岩崎。大正9(1920)年創業。三朝温泉でも歴史のある老舗旅館だそうです。この三朝川に沿った道には、大規模旅館が軒を連ねています。

三朝橋の手前にあったのが、昭和4(1929)年の映画「温泉小唄」の男女の主人公のブロンズ像でした。

三朝橋の南詰から三朝川の川原を見たら、何人かの男性が入浴されていました。露天風呂の「河原風呂」です。衝立の手前には足湯「河原の湯」があり、こちらにも若い二人連れの姿がありました。

「温泉小唄」のブロンズ像の道路をはさんだ反対側に、平成22(2010)年の映画、「恋谷橋」の記念館がありました。映画の制作に協力した地元の方々にとっても思い出深い記念館になっています。上原多香子が演じた主人公、島田朋子は老舗旅館大橋の次女という設定でした。

島田朋子は東京のデザイン事務所で働いていましたが、不景気を理由にリストラされ三朝温泉に帰ってきます。往時の活気を失ってしまった旅館大橋の若女将になるのか、夢を追って東京に戻るのか、人生の岐路に立った女性の揺れ動く心情を描いた作品なのだそうです。残念ながら、私は、ここに来るまで、映画「恋谷橋」のことはまったく知りませんでした。

大規模温泉旅館の並ぶ道に、旅館大橋があります。昭和7(1932)年に建築された建物は、大部分が国の登録有形文化財(平成9年)に指定されています。
写真は、裏から見た旅館大橋です。美しい和風旅館です。

恋谷橋は、三朝橋の一つ上流にかかる橋です。

橋の上には、絵馬が掛けられていたり、三朝の名物「かじかがえる」の像が飾られたりしています。

これは、カップルが記念撮影をするときのカメラ置き場でした。
なかなかの演出です。

温泉街を歩いて見ようと思い、温泉本通りに入りました。「三朝小唄」のブロンズ像を左側に見ながら狭い通りを歩きました。

温泉地によく見られる、風情ある通りです。

通りの左(三朝川寄り)側に、「ニューラッキー」という建物がありました。ここは、山陰地方に2ヶ所しかないヌードスタジオがあったところです。しかし、経営者が亡くなり後継者がいないためそのまま残されていますが、この建物の活用に地元の方々は知恵をしぼっておられるようです。

その向かい側にあったのが、温泉地に多かった射的のお店です。現在は営業されていないようでした。

さらに、歩きます。

緑色の屋根が美しい木屋旅館です。明治元(1868)年創業の老舗旅館です。平成22(2010)年に、国の登録有形文化財に指定されてされました。

写真の右側の屋根の下にあるのが、足湯・飲泉の「薬師の湯」です。
さらに、進んでいくと、恋谷橋からの道路とぶつかります。その道を、右に折れて300mぐらい行ったところで左折して進みます。

「株湯」です。入って左にある飲泉場では、朝早くからポリタンクに温泉を入れて帰る人がたくさんおられました。

右には、三朝温泉の起源を表す像がつくられています。

大久保左馬祐(源義朝の家臣)は、主家再興を祈願しに三徳山にやってきました。その途中の三朝の里で、年老いた白い狼を見つけました。左馬祐は自慢の弓で射ようとしたが、白狼は神の使いかも知れないと思い見逃しました。その夜、妙見大菩薩が夢枕に立ち、「古い楠の木の根株を掘ると霊泉が湧き出るから、病苦の人に使うといい。」と伝えました。
掘ってみると、熱いお湯が出てきたので、この地を「株湯」と名づけたとのことです。今から約850年前、伝説では長寛元(1163)年のことだそうです。

株湯は三朝温泉発祥の地です。

源泉があったところには、外湯「株湯」がつくられていました。

三朝温泉は、映画やドラマの舞台になっているように、日本中に広く知られています。しかし、なんといっても三朝温泉の魅力は、泉質の良さだと思います。ラジウムとラドンが含まれている、世界一ともいわれる放射能泉です。岡山大学三朝医療センターが設置されているように、病気の治療にも使われてきました。昔から、湯治のために滞在する人が多かったところです。

世界一のラジウム泉で、登録有形文化財に指定された温泉旅館や魅力的な外湯がある、恋谷橋などの様々なアイデアや、たびたび映画やドラマの舞台にもなったことなど、三朝温泉は楽しいところでした。国宝の三徳山投入堂の世界遺産登録をめざす活動と一体となって、さらなる活性化を図ってほしいと願っています。



三徳山投入堂に行ってきました!

2012年10月13日 | 日記

急勾配の岩山の断崖絶壁のわずかな窪みに張り付くように建てられたお堂があります。鳥取県の三徳山三佛寺投入堂(みとくさんさんぶつじなげいれどう)です。三徳山三佛寺は、天台宗修験道の古刹として知られています。
江戸時代には、寛永10(1633)年、藩主池田光仲が100石を寄進し(幕末まで続く)、天保10(1839)年には、当時の藩主池田斉訓(なりくに)が本堂を再建するなど、鳥取藩の厚い支援を受けていました。

三朝温泉観光商工センターの壁には、「三徳山投入堂を世界遺産に」というメッセージが掲示されていました。家人とともに三朝温泉に行く機会がありましたので、合わせて三佛寺を訪ねることにしました。JR山陰線の倉吉駅から三朝温泉。さらに、三朝温泉から定期バスで15分余り。三徳山の参道前で下車しました。

石段を登り、三佛寺の参詣者受付案内所に向かいます。

ここで、入山料400円を支払って境内に入ります。「投入堂に行かれますか?」と聞かれて、「はい」と返事はしたのですが、心配なことがありました。

向かいのお店で、100円で軍手を買いました。参道に沿って、山内寺院が三寺ありました。お店の隣にある皆成院(かいじょういん)。石段をあがった上の段の左側にあった正善院。

正善院の向かい、山門から本堂に向かって、12支の石仏が並んでいる輪光寺。いずれも、宿坊です。

さらに石段を登った左側に宝物殿。

石段を上がって左に曲がって進むと正面に、三佛寺本堂がありました。慶雲3(706)年、役行者(えんのぎょうじゃ)によって、修験道の行場として開かれ、嘉祥2(849)年に、慈覚大師、円仁によって、本尊釈迦如来、阿弥陀如来、大日如来を安置され、「浄土院美徳山三佛寺」と称したことに始まります。当時は美徳山と書いたようです。標高899.6mの三徳山全体を境内としているようです。本堂の手前の左側に、地蔵堂遥拝所と書かれた案内板がありました。三徳山を見上げると屋根が見えていました。

本堂の右側から奥に入ると、投入堂への登山参拝事務所があります。私が心配していたのは、一人では登山できないといわれることでした。家人は、このところ体調がよくなく同行は難しいと言っておりましたので・・・・。登山されますね?」、「はい」。「二人で登られますね?」、「はい」と言ったのですが、ここで、目の前の担当の方が「あそこにおられる男性の方が一人なので一緒に登ってくださいませんか?」。家人は「じゃあ、私は残ります」。 心配事が解決しました! これで私は登ることができ、家人はここで待つことができます。そして、かの男性も登ることができます。よかった! よかった! 「登山者名簿に名前と連絡先、出発時間を書いてください」。「たすきをお渡ししますから、下山したときここに返して、到着時間を記入しておいてください」。「200円いただきます」。これで、登山手続き完了です! 14時17分、出発です。

ちなみに、ご一緒することになった方は。靴が滑りやすいものだったようで、ぞうりに履き替えておられました。

登山参拝事務所を出て下に降りていきます。登山道の入口です。

宿入橋(しくいりはし)から登り始めます。下の川には、すぐ右の小さな滝から流れ落ちた水が流れていました。

「忌穢不浄輩禁登山」の碑を見ながら登ります。「私はいいのかな?『忌穢不浄輩』ではないのか?」と一瞬思いましたが、登りたいという気持ちのままに先に進みました。

これは、「山にはどこにもある注意喚起だから」と思ったら、さっそく難所です。
感覚的にはほぼ垂直の壁に、土からはみ出した木の根が続く「かずら坂」でした。下山する団体客とのすれ違いになり、比較的楽そうな道は下山客が使っています。そう言えば、この登山道は修行の道と教わりました。これも修行です。そのまま、「かずら坂」を登ります。一箇所、はみ出した木の根の下の土が掘られていて、ゆらゆら揺れている木の根に脚を掛けて登るところがありました。でも、なんとか、無事通過です。

ほどなく、大きな木組みの横を登ります。文殊堂を支えるための庇柱(ひさしばしら)の下に入りました。下山されている方がくつろいでおられました。

文殊堂の脇のむき出しになった岩場をくさりで登ります。「くさり坂」です。岩場の上に立ってくさりを引いて登ると楽でした。登り切ると文殊堂です。文殊堂は、入母屋造、柿(こけら)葺き。桃山時代の建築といわれてきましたが、永禄10(1567)年の墨書きが出てきたことから、室町時代後期の建築と考えられています。

文殊堂を過ぎると、露出した岩場の脇を通る道です。岩場の左の細い道のところに「滑落現場」という標識がありました。下を覗くと深い谷。それほど危険な感じの道ではなかったのですが、標識を見てぞっとしました。「一人での登山は禁止」というのは、実は事故の防止だけでなく事故が起きたときの情報を得るという意味もあるんだと、近くを登っていた人が話しておられました。滑落した場所がわからないと搜索もできません。事故だけでなく自殺のようなケースもあるのだそうです。

一緒に行動している男性がスムーズに登っていかれるので、私もいいペースで登ることができました。ここは、やはり岩場の上に建つ地蔵堂です。入母屋造り、柿葺き。 室町時代後期の建築だそうです。

周囲についている縁側に上がることができます。こちら(裏)側はいいのですが、反対側は断崖絶壁、足がすくみます。

これは、縁側から見た西方の景色です。幾重にも連なる山なみの向こうまで見渡せます。すばらしい眺望です。

登山道のスタート地点の下にあった本堂の脇に、「地蔵堂遥拝所」がありましたが、そこからこの地蔵堂が見えていましたが、下からはこの写真のように見えていました。

さらに登ります。右側に鐘楼堂がありました。「合掌、単打、合掌」とありました。連打はいけないようです。私も、合掌して、一度だけ鐘をならし、合掌しました。

下ってくる方々が「もうすぐですよ」と声を掛けてくださるようになりました。納経堂です。ここも、急勾配の窪地に建てられていました。平成13(2001)年から翌年にかけて行われた用材の「年輪年代測定法」の結果から、平安時代後期の建築とされています。

納経堂から10mぐらいで、観音堂です。そして、この先を右に曲がって、投入堂を見上げる位置に着きました。三佛寺の奥の院です。投入堂は、標高約470mのところにあります。登山参拝事務所から約700mの登山道を50分ぐらいかけてあがってきました。一緒に登った男性は、ぞうりのはなおがくいこんで痛いと言って、はなおのところにティッシュペーパーを挟み込んでおられました。投入堂を見上げると、想像していたより小さい印象でした。

岩の上から長い庇柱が伸びて、投入堂を支えています。 投入堂は、流造の檜皮葺き。正面の桁行(間口)5.4m、奥行3.9m。よく見ると、左側に愛染堂がくっついています。

投入堂の建築年代については、納経堂の建築年代を推定した用材の「年輪年代測定法」により、平安時代の建築と推定されています。また、比較的最近では、大正4(1915)年に、正面向かって右手前(西北隅)の庇柱を取り替え、平成18(2006)年には屋根の葺替えの修理が行われたようです。また、平成18(2006)年建築史家の窪井茂氏の調査により、柱などの主要な構造部材が朱色に、壁が白色に、垂木の先が金色に彩色されていたことが明らかになりました。国宝なのです!

帰りに、登山道で見つけた役行者(えんのぎょうじゃ)の像です。役行者(えんのぎょうじゃ)が、3枚の花びらを「仏に縁のあるところに落ちろ」と空になげると、1枚目は石鎚山、2枚目は吉野山、そして3枚目が三徳山に落ちました。役行者は三徳山に来て堂を建てる場所を探し、飛騨国から大工を呼んで堂をつくりました。役行者は、その前で一心に祈り、エイッ!と掛け声をかけると、堂は空に浮かび岩堂におさまったということです。これは、三朝温泉の薬師湯の近くに掲示されていた、投入堂に建設にまつわる伝説ですが、まさにこの通りつくられたのではないかと思うほど、ぴったりおさまっています。現在でも、建設方法に関しては、はっきりしていないようです。帰りはみんな表情もリラックスしていて、ゆったりと歩いておられました。本堂の裏にある、登山参拝事務所に着いたのは、16時10分でした。たすきをお返しし、登山者名簿に、到着時間を記入しれ、下山後の手続きは完了です。

もう一つ、訪ねたいことろがありました。本堂から登ってきた道を下って、参詣者受付案内所から参道前のバス停に戻ります。

「投入堂遥拝所」です。バス停からバス道を少し登り、10分ぐらいで着きました。道路の反対側には、投入堂を見ることができる無料の望遠鏡が置かれていました。

肉眼では、写真の中央の白く見えるところに投入堂が見えていました。

ズームして写した投入堂です。ここは、三佛寺の奥の院を遥拝するところでした。美しい姿だけでなく建築方法の神秘性など、世界遺産への登録を推進する方々のお気持ちがよくわかる投入堂でした。三朝温泉観光商工センターの壁にある掲示を思い出しました。

行ってみたいとずっと思っていた投入堂を、ついにこの目でみることができました。満足感と達成感で一杯でした。しかし、この翌日から3日間ほど、足の痛みに悩まされることになるとは、このときは想像もしていませんでした。


藩校の敬業館が残る陣屋町、林田

2012年10月09日 | 日記
城郭図鑑をめくっていたら、兵庫県で唯一つ、藩校が今も残っているという陣屋町がありました。兵庫県西部の林田藩の陣屋町でした。

JR姫路駅前から、林田経由山崎行の神姫バスに乗って林田を訪ねました。

姫路から35分ぐらいで、林田バス停に着きました。「林田陣屋跡」と「三木家住宅」の案内板がありました。

道路から左側をみると、後方の山の手前に、かつて陣屋が置かれていた丘の木々が見えていました。案内板にしたがって、林田の信号を左に折れて進みます。

林田川にかかる新町橋の上から上流を見ると、「ヤエガキ」という文字だけ読める白いビルがありました。写真では中央の白く見える部分です。

新町橋を渡り、さらに進むと50mぐらいで姫路市林田出張所(林田公民館)の建物にぶつかります。

「藩校敬業館敷地跡」の石碑が林田出張所の入口にありました。そこを道なりに左折して5mぐらいでさらに右折して20m進み、中学校の敷地の手前で再度右折して進みます。
聖ケ丘保育所の裏側を通って陣屋跡の丘に登っていく道です。

現在、聖ケ丘公園になっている丘の上に林田陣屋はありました。

林田藩は、元和3(1617)年、大坂夏の陣のとき、建部政長が、摂津国尼崎城を守り抜いた功により江戸幕府から1万石を与えられ、この地に入封したことに始まります。かれは、戦国時代に窪山城跡のあったところに林田陣屋を建てました。高さ20m、東西200m、南北100mの独立丘陵の上でした。

建部氏は、政長の後、明治維新を迎えるまで10代に渡ってこの地を治めることになります。歴代藩主の中、3代目藩主の建部正守は伏見奉行をつとめた後、焼失した京都御所の復興に尽くし、寺社奉行まで昇進しました。


陣屋跡にあるトイレの裏(南)側に、当時の石垣が残っていました。写真の白い建物の右にある石垣がそれです。

陣屋の東にあたるところにも、石垣の跡が残っていました。

建部氏を祀る建部神社から中学校の脇を通り、藩校、敬業館に向かいました。

敬業館は、姫路市林田出張所の建物の並びにありました。ここは、7代目藩主、政賢(まさたか)が、寛政6(1794)年に建設しました。当時は、ほかに聖廟や練武場、文庫もあったようですが、現在はこの講堂だけが残っていました。

講堂への入口は3つありましたが、右の式台から入りました。
正面の「敬業館」の額は、寛政の改革で知られる松平定信の手になるものです。

正面には、寛政12(1800)年、7代藩主政賢が定めた心得、「示」が掲示されていました。ここでは、藩士の子弟は8歳になると必ず入学し16歳で卒業したそうです。また、
武士だけでなく庶民の志願者にも入学が許可されるなど、士庶共学として全国的にも珍しい藩校だった」と説明には書かれていました。

幕末の文久3(1863)年、火災にあいましたが、すぐ再建されたそうです。財政的に厳しい時期だっと思いますが・・・。教育にかける林田藩の意気込みが伝わってきます。

先ほどの「敬業館敷地跡地」の碑の前の道を10分ほど進んでいくと、「三木家住宅」に着きます。

敷地、1266坪(4178㎡)という広く大きな屋敷が見えてきます。林田藩の大庄屋であった三木家の屋敷です。白漆喰の長屋風の建物と茅葺きで煙り出しのついた主屋に圧倒されます。

屋敷に沿って道なりにすすみ、右に回って長屋門の前に向かいます。
長屋門の西には、藩主が出入りする御成門もありました。

大庄屋三木氏は、秀吉の播磨攻めで天正8(1580)年に落城した英賀城主、三木氏ゆかりの旧家で、林田では陣屋の門前に居住していました。多くの牛馬が出入りするため糞尿で汚れるということで、3代目の定久の代(1603~1675年)に、現在地に移ってきたそうです。

「絵図や建築様式から、17世紀後半をくだらない」建物で、大庄屋層の主屋としては、兵庫県最古のものだそうです。

林田藩でも17世紀の半ばから新田開発が進み、村は40数ヶ村(かつての25ヶ村から)になり、村をいくつかの組に分けて統治することになりました。その組を統括したのが大庄屋で、林田藩には4家がありました。大庄屋は、苗字帯刀が許され、藩から役儀を申し付けられる場合は家老宅で奉行や大目付などとともに列座して受けるなど、庄屋とは別格の扱いだったといわれています。「1万石の藩に3つの1万石の大庄屋がいた」と伝えられています。驚くべきことです。

三木氏の屋敷の東方に済水寺がありました。ここは、藩主、建部家の菩提寺で、大庄屋三木氏が寄進して建立したものです。境内にある五輪塔には「寛量院殿荼毘所之塔」と刻まれています。6代藩主、長教のことで、明和元(1764)年、林田で没しています。

写真は、三木氏の屋敷に掲示してあった林田陣屋町の絵図です。写真の中央部に門が描かれていますが、この門は町口門です。絵図の門の上部が武家屋敷町、下部が町人町と、町を区切る門でした。ここは、現在「藩校、敬業館敷地跡」の石碑が立っているところにあたります。

また、絵図の町口門の下に高札場が描かれています。馬と人が描かれた右のところです。

高札場が描かれているところは、新橋を渡り姫路市林田出張所(公民館)に向かう道の途中にある矢野スーパーマーケット付近です。スーパーの脇に道標がありました。

「右」と「すぐ」の字以外は荒れていてよく見えませんでした。しかし、「右」は新橋の方から来た人が見やすいように立てられています。ちなみに「すぐ」は「まっすぐ」を表しています。

林田とつなぐ街道は、スーパーの手前を「右」に進んでいっていました。

姫路方面へは、新橋を渡ってすぐ左に曲がり、林田川西岸沿いに下流に向かって行くことになっていました。したがって、姫路から来た旅人は、新橋の西詰めで左折して、このスーパーの手前を右折して北に向かっておりました。ちなみに、江戸時代には、新橋が架かっているところに橋はなく船渡しになっていました。

街道に沿って20分ぐらい進むと、右側にヤエガキ技術開発研究所の建物があります。酒造会社の研究所です。新橋の上から林田川の上流に見えた「ヤエガキ」の白い建物はここだったのです。元禄3(1690)年創業、屋号「材木屋」、天保3(1839)年から「生諸白」を製造した長谷川家の酒造場でした。「諸白」ですから、清酒だったのだと思います。

その先にあった住宅です。

屋根に煙出しのついた本瓦葺き、一階部分は格子で覆われた商家建築がありました。

また、他の商家には1階の屋根の下に木でつくられた軒庇がつくられています。

前面だけでなく、両端は箱型になっていました。
六九谷市場(むくたにいちば)といわれるこのあたりには、伝統的な民家が今も残っているところでした。

兵庫県下で唯一、江戸時代の藩校が残る林田町には、兵庫県内最古の大庄屋の主屋が現存し、街道沿いに当時の面影を残す商家も残っていました。1万石の小さな陣屋町でしたが、藩主の教育にかける意気込みも伝わってくる魅力的な町でした。各地に残る陣屋町の中には目立たなくても素晴らしいところがあるのだと実感した一日でした。