トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

仁堀航路の連絡駅だった、JR仁方駅

2019年04月15日 | 日記
太平洋戦争後の昭和21(1947)年、本州と四国を結ぶ国鉄の新しい航路が開かれました。戦後の混乱期、物資の輸送力の増強のために、広島県の仁方(にがた)港と愛媛県の堀江(ほりえ)港間に開かれた仁堀航路でした。その仁方港への連絡駅としての役割を果たしていたのが、国鉄の仁方駅でした。この日は仁堀航路の面影を求めて、現在はJR西日本の駅になっている仁方駅を訪ねることにしました。
JR呉線の仁方駅です。昭和10(1935)年に開業しました。今年、開業してから84年目を迎えています。仁方駅は、呉市仁方本町2丁目にあります。
JR仁方駅を訪ねるため、呉線の起点である三原駅の1番ホームに向かいました。ホームには、三原駅発11時31分発の広(ひろ)駅行きの列車が出発を待っていました。JR西日本広島支社の最新車両、227系電車の2両編成、ワンマン運転の列車でした。
11時55分頃、終点広駅の一つ手前にある仁方駅の2番ホームに到着しました。数人の乗客とともに下車したホームには、真新しいガラス張りの待合室がありました。そして、その先の広駅方面には新しく出口がつくられ自動改札機が設置されていました。列車は、その脇を、次の広駅に向かって出発して行きました。
下車したホームを広駅方面に向かって進みます。跨線橋がありましたが、撤去工事が進んでいるようです。跨線橋に上る階段部分は骨組みだけになっています。対面する1番ホーム側の跨線橋は、橋桁を支える支柱だけになっていました。
ホームの広駅側の端から見た仁方駅の全景です。2面2線の長いホームが見えます。右側が広・呉駅方面に向かう列車が停車する2番ホーム。三原駅方面に向かう列車が停車する左側の1番ホームに接して、トイレと広島銀行のキャッシュコーナー、そして、駅舎がありました。撤去中の跨線橋の先に見えるのは呉市が設置した仁方歩道橋です。
ホームを引き返して2番ホームのガラス張り上屋のついた出口まで戻りました。自動改札機も設置されています。その先が待合室でした。このとき、手に、集めた飲料の缶を持った高齢のボランティアの男性とお会いしました。「待合室などは、完成してから1週間ぐらいしか経ってないんだ。朝夕は、30人ぐらいの人が乗車されるから、雨の日の待合室は大変だ。昔は、このあたりに荷物の取扱所があったんだ。やがて駅舎も新しくなる予定だよ」とのこと。仁方駅は駅の改修が進んでいるようでした。
2番ホームの出口から広々とした駅前ロータリーに出ました。「昔は、駅前からこのロータリーの左側、今はマンションになっているあたりに枕木をつくる工場があって、そこまで引き込み線が敷かれていた」と、教えていただきました。
広場から見たホームと駅舎方面です。満開の桜の向こうにホームへの入口と駅舎の屋根が見えました。
仁方港にいってみることにしました。広場からまっすぐ進みます。その先の右側に、呉市立仁方中学校のグランドのフェンスが見えました。その手前にある交差点を左折します。
左折して「桟橋通り」(県道261号・仁方港線)に入ります。桜並木が続きます。通りの左側に「弘法桜」の石碑がありました。平成18(2006)年に、「桜による仁方活性化会議」の方々が整備された桜並木のようです。
通りの右側にあった案内図です。中央の左右の通りが桟橋通りです。通りの周囲は工場が並ぶ地域になっています。その中に「鑢(やすり)」「ヤスリ」と書かれた工場が目につきました。
写真は、ヤスリを製造している会社です。ヤスリは鋼(はがね)の表面に目立てをして(小さい目、突起を刻んで)焼き入れした、金属仕上げの工具のことですが、仁方で製造される「仁方のヤスリ」は、全国シェア90%を超える特産品になっています。江戸時代の文政年間(1818年~1829年)、大阪で製造技術を習得した仁方の町民によって伝えられたことに始まるヤスリの製造は、大正時代に機械化されてから発展したといわれています。
桟橋通りを進みます。通りの正面に、「仁方桟橋」と書かれた緑の屋根、玄関ポーチのついた建物が見えました。太平洋戦争後の昭和21(1946)年5月1日、当時宇高連絡船しか無かった本州と四国を結ぶ輸送力の増強のために新設された、仁堀航路の桟橋があったところです。
仁方桟橋の建物です。仁方駅から、歩いて15分ぐらいかかりました。当初は他の航路からの転属船で運行していた仁堀航路でしたが、昭和50(1975)年初めての新造船、瀬戸丸が就航しました。その6年後の昭和56(1981)年、フェリー瀬戸丸(399トン)は、仁方港から堀江港までの37.9kmを1時間40分かけて結んでいました。廃止の前年には、1日2往復が運行され、1日平均、乗客119人、自動車10台が利用していたそうです。しかし、昭和57(1982)年7月1日に、赤字を理由に廃止されてしまいました。運行便数が少なかったこと、駅から桟橋までが、離れていたことが主な原因だったとされています。
玄関から内部に入ります。ベンチが並んだ広い待合室と改札口、左側に桟橋の事務室の跡が残っていました。
仁堀航路が廃止されてからは、この桟橋は近くの島々を結ぶ航路の発着場になっていました。その時代の名残の時刻表がそのまま残されていました。近くにおられた方のお話では、「安芸灘大橋が開通してから、島への航路は廃止された」とのことでした。下蒲刈島と本土とを結ぶ安芸灘大橋が開通したのは、平成12(2000)年のことでした。
現在の仁方桟橋です。近くにおられた方にお聞きしますと、今は、近くの島々から産業廃棄物を回収するダンプカーを運ぶフェリーが発着しているとのことでした。
仁方桟橋から見た安芸灘大橋です。その後ろは蒲刈島、右側の島は下蒲刈島です。現在では、車で安芸灘大橋を渡って、下蒲刈島の見戸代(みとしろ)に渡り、その後、下蒲刈島から蒲刈島へ渡るのが、メインルートになっているそうです。
桟橋の近くに石碑がありました。「仁堀航路跡 局長 石井幸孝」と刻まれています。仁堀連絡船は、昭和31(1956)年4月から広島鉄道管理局の所管になっていました。石井幸孝氏は広島鉄道管理局の局長だった方だと思われます。
JR仁方駅前のロータリーまで戻ってきました。駅前広場の三原駅側に、呉線を跨ぐ仁方歩道橋が設置されていました。仁方歩道橋を通って、駅舎側に向かいます。
仁方歩道橋の駅舎側から下ります。ちょうどその時、三原駅行きの列車が1番ホームに入ってきました。下りきったところに「仁方歩道橋 1983年3月 呉市」と記されたプレートありました。
仁方歩道橋から下りたところの三原駅方面です。ボランティアの男性は、三原方面に向かう線路の外側には「貨物側線が一本敷かれていたよ。その先には日通(日本通運)の事務所と倉庫があった。今は住宅になっているところに倉庫と保線区員の詰所が並んでいた」とおっしゃっていました。そうすると、写真の通路があるところに貨物側線が、左側の住宅のあるところに日通の倉庫と保線区の詰所が並んでいたようです。
駅舎の正面に回ります。呉線は、明治36(1903)年に、海田市駅と呉駅間が開業したことに始まります。呉線の東の起点である三原駅からは、昭和5(1930)に、三呉線として、三原駅と須波駅間が開業し、その後、西に向かって延伸開業して行きました。そして、昭和10(1935)年に、三津内海(みつうちのうみ、現・安浦)駅と広駅間が開業して全通し、呉線と改称しました。仁方駅はこのときに開業しました。仁方駅は、平成15(2003)年から無人駅になっています。駅の入口の向こう側は、駅事務所があったところです。
駅舎への入口です。右側の柱に建物財産標がありました。
「日本国有鉄道 建物財産標 財 第9号 鉄 本屋 昭和10年11月」と記されています。開業時の駅舎が現在も使用されているようです。
駅舎に入ります。左側に駅事務所と出札窓口、正面にホームへの出口がありました。写真では見えませんが、左側には、1940円区間までの自動券売機が設置されています。
右側には3脚のどっしりとした3人掛けのベンチがあり、ベンチの右側には自動販売機が設置されています。
駅舎寄りの1番ホームに出ました、広駅方面から見た駅舎です。駅舎の手前にトイレと広島銀行のキャッシュコーナーがあります。駅に来られる人の多くが、キャッシュコーナーを利用されていました。
ホームからのトイレの入口です。ホームからキャッシュコーナーの脇から入って行くようになっています。
ホームの三原駅方面です。旅客上屋が見えます。上屋を支える柱の最も三原駅寄りの一本に建物財産標がありました。
「日本国有鉄道 建物財産標 第10号 鉄 旅客上屋 昭和10年11月」と読めました。ホームの上屋も、開業時につくられたもののようです。
駅舎に掲示されていた「仁方駅改修工事の案内」です。ホームで出会ったボランティアの男性は「やがて、駅舎も新しくなる」といわれていました。この「案内」で、その概要がわかりました。老朽化対策として、跨線橋の撤去、駅舎の上家解体と新設、トイレの外壁改修」の工事を、2018(平成30)年9月12日から、2019(令和元)年6月末日までに行う計画になっていました。2019年の4月11日には、駅前の広場からまっすぐトイレに入れるようになるそうです。
駅舎前からのキャッシュコーナーとトイレです。4月11日からは柵が撤去されて、こちらからトイレに行くことができるようになっているはずです。

かつて、国鉄仁堀航路への連絡駅として、物資や人の交流が行われていたJR仁堀駅ですが、老朽化対策として、2番ホームの待合室や自動改札機の新設が行われていました。今後、トイレや駅舎の改修も行われることになっています。
新しく生まれ変わった仁堀駅を見るために、また、訪ねてみようと思っています。


JR福塩線の秘境駅、中畑駅を訪ねる

2019年04月08日 | 日記
平成26(2014)年4月にJR武田尾駅を訪ねました(「トンネルと鉄橋の駅、JR武田尾駅」2014年4月30日の日記)。牛山隆信氏が主宰されている”秘境駅ランキング”で、当時200位にランクインしている”秘境駅”だったからです。ところが、2019年度の”秘境駅ランキング”を拝見すると、武田尾駅がランクアップしていて、その次にいくつか新しい駅がランクインしていました。その中に、199位にランクインしているJR福塩線の中畑駅がありました。この日は、その中畑駅を訪ねることにしました。

福塩線はJR山陽本線の福山駅が終起点になっています。福塩線が発着している福山駅の8番ホームに向かいました。ホームからは、満開の桜の奥に福山城の天守閣が見えました。絵のように美しい光景でした。

福塩線は、福山駅と塩町駅を結ぶ路線ですが、実際の運用は三次駅が終起点になっています。府中駅までは、平成29(2017)年からJR西日本岡山支社の管轄になっています。また、府中駅までは電化区間でもあります。JR西日本岡山支社管内の指定カラーであるイエローの105系電車が入線して来ました。そして、14時09分、定時に出発しました。

2両編成の電車は、福山駅を出発してから約40分後の14時50分に、府中駅に到着しました。府中駅から三次駅の間は、非電化区間です。到着した向かいのホームの三次駅方面に、JR西日本広島支社のキハ120系デイーゼルカー(以下「DC」)が出発を待っていました。このDCは、府中駅を15時05分に出発する三次駅行きの列車です。平成3(1991)年からワンマン運転になっています。福塩線の運行本数は、府中駅から先で極端に少なくなり、臨時列車を除いて1日6往復の運行になっています。この列車の一つ前の列車は午前8時11分発の三次駅行きで、7時間前に出発しています。その間、1本の運行もありませんでした。車内には、20人ぐらいの方が乗車されていました。

府中駅を出てからは、時速25kmの制限速度の区間がかなりありました。昨年(2018年)7月の西日本豪雨による災害のため、福塩線は全線が運休となりました。12月13日に全線が復旧しましたが、その影響が残っているのでしょうか、列車はゆっくりと進んでいきます。次の下川辺(しもかわべ)駅で2人が下車され1名が乗車されました。その先の大迫山トンネル(全長200m)を抜けると中畑駅です。15時21分に到着しました。中畑駅は、1面1線のホームで、三次駅方面に向かって右側にありました。地元の方とご一緒に2人で下車しました。ちなみに、中畑駅の1日平均乗車人員は平成28(2016)年には3人だったそうです。

ホームの三次駅側の端で下車しました。列車は、ホームのすぐ前にある踏切を越えて、河佐(かわさ)駅に向かって出発して行きました。福塩線は、大正3(1913)年、両備軽便鉄道株式会社が、軌間762ミリの軽便鉄道を両備福山駅と府中駅間で開業させたことに始まります。両備軽便鉄道は、大正15(1926)年に社名を「両備鉄道」に改称し、翌年の昭和2(1927)年には、両備福山駅・府中駅間の電化工事を成功させました。その後、昭和8(1933)年には、両備福山駅と府中駅間が国有化され福塩線となりました。

福塩線が終点の塩町駅まで延伸開業したのは、昭和13(1938)年のことでした。中畑駅は、下川辺駅から3.9km、次の河佐駅まで3.1kmのところにあります。中畑駅が開業したのは、昭和38(1963)年のことでした。

狭いホームを府中駅方面に向かって進みます。駅名標の他には、待合いスペースの上屋があるだけのシンプルなつくりになっています。

上屋の内部です。

3脚のベンチの間に、白い箱が見えます。中を引き出してみると、秘境駅によく置いてある「駅ノート」が出てきました。失礼ながら読ませていただきました。昨年の2月には、「山へ逃げるサルの集団を発見した」こと、8月には「大雨被害で不通になっていた」こと、12月には復旧を祝うメッセージが書かれていました。その中で、「いい感じの駅だった」と書かれた訪問者のことばが最も印象に残りました。

時刻表です。12時48分発の三次行きと13時48分発の府中行きの列車は、臨時列車になっています。

時刻表の脇に、臨時列車の運行日の案内が掲示されています。4月は8日(月)、9日(火)、20日(土)、21日(日)の4日間、5月は14日間運行されることになっています。

桜の花が咲いているホームの府中駅側です。

こちらは、三次駅方面のホームです。山の斜面の狭いところにつくられた駅で、ホームの向かいには上の集落に上っていく道があります。駅舎もなく上屋があるだけの”秘境駅”らしい姿でした。

引き返して、下車したホームの三次駅側に戻りました。ホームへ上がる階段の左側に細い道が見えます。

10メートルほど進むと、雑草に覆われた今にも崩壊しそうな木造の建物がありました。ドアは破れ、柱もいたんでいましたが、トイレの跡でした。今は、とても使えそうにありません。

周囲のようすを見てみることにしました。ホームの先にあった中畑踏切です。山の上の集落に上っていく踏切を渡って進みます。

集落への道から見た中畑駅のホームです。満開の桜です。

駅の後ろに広がる山の斜面に民家が点在しています。いい風景でした。道を下ります。

引き返して、渡ってきた中畑踏切を渡ります。その先は福塩線に沿って進む道になります。

正面に集落が見えました。集落の手前で右折して、福塩線に平行して流れる芦田川に架かる橋を渡ります。

芦田川の下流(府中駅)側です。福塩線の起点である福山市で瀬戸内海に注ぐ川です。福塩線はこの川に沿って敷設されています。山の斜面に集落が広がっています。

上流(三次駅)側です。この先に八田原(はったばら)ダムがあり、その麓に河佐峡(かわさきょう)があります。「キャンプ、川泳ぎ、釣りを楽しむ家族連れで賑わう」ところだそうです。中畑駅は八田原ダムや河佐峡を含む府中市河佐町にあります。河佐町の面積は、6,029平方メートル超。平成31年4月1日現在、109世帯250人の人々が居住されている(府中市市民課の資料による)そうです。

前を走る県道に出ました。府中駅方面です。山里の雰囲気が伝わって来ます。この道は主要地方道24号です。府中市父石(ちいし)町から、府中市上下町井永とを結ぶ県道です。府中市上下町は、平成16(2004)年に府中市と合併した、旧甲奴郡上下町です。江戸時代には代官所が置かれ、幕府直轄領(天領)の中心地として、石見銀山で産出する銀が運ばれた石州街道(銀山街道)の宿場町として、繁栄したところです。以前、訪ねたことがあります(「銀山街道の宿場町、上下」2013年3月9日の日記)。

16時17分発の府中行きの列車に乗車するつもりでした。芦田川に架かる橋を渡って駅に引き返します。

線路に時速25kmの制限速度区間を示す標識がありました。帰りもゆったりとした普通列車の旅になりそうです。


「秘境度1ポイント(P)、雰囲気2P、列車到達難易度1P、外部到達難易度1P、鉄道遺産指数2P、総合評価7P」で、秘境駅ランキングの199位。秘境駅ランキングを主宰されている牛山隆信氏は、中畑駅をこのように評価されています。
山里の雰囲気に包まれた自然豊かな駅。桜の季節の駅周辺の美しさには心を奪われます。「駅ノート」に書かれていた「いい感じの駅」という、ことば通りのいい駅でした。

























京都府にある”秘境駅”、JR山陰線立木駅

2019年04月05日 | 日記
牛山隆信氏が主宰されている”秘境駅ランキング”。2019年度、京都府からは3駅がランクインしています。80位の辛皮(からかわ)駅(京都丹後鉄道)、153位の保津峡駅(JR山陰本線)、そして、165位の立木(たちき)駅(JR山陰本線)の3駅です。この中の保津峡駅はすでに訪ねました(「橋梁上の”秘境駅”JR保津峡駅から、トロッコ保津峡駅へ」2016年12月29日の日記)。「青春18きっぷ」の季節でしたので、JR山陰線の立木駅を訪ねてみることにしました。

JR立木駅です。平屋建ての白壁の駅舎です。JR山陰本線の福知山駅と園部駅の間にあります。この駅をめざして、岡山駅を8時09分に出発するJR山陽本線の相生駅行きの列車に乗車しました。

相生駅から姫路駅行きの列車を乗り継ぎ、姫路駅からは播但線の列車でJR山陰本線の和田山駅へ。和田山駅から、山陰本線の列車で福知山駅へ。福知山駅から、園部駅行きの列車に乗車。舞鶴線が分岐する綾部駅から次の山家駅を過ぎ、上原トンネル(全長91m)を抜けた先に、立木駅がありました。到着は13時24分。岡山駅を出発してから、乗り継ぎ時間を含めて、5時間18分の普通列車の旅でした。乗車してきた、223系2両編成、ワンマン運転の電車は、行き違いのため2番ホームに停車しています。

時刻表を見ると京都駅発の”はしだて5号”との行き違いのようです。京都丹後鉄道(丹鉄)の車両がやって来ました。福知山駅から丹鉄を経由して豊岡駅に向かう列車でした。

園部駅行きのワンマン運転の電車は、次の安栖里(あせり)駅、その次の和知(わち)駅に向かって出発して行きました。山陰線の線路と電車を跨いでいる道路は、京都縦貫道(丹波・綾部道路)です。

立木駅は、京都府船井郡京丹波町広野北篠にあります。通ってきた山家(やまが)駅から3.5km、次の安栖里駅間まで4.8kmのところにあります。

到着した2番ホームを山家駅方面に向かって歩きます。長いホームの途中に柵が設けられ、先に進めないようになっています。柵の手前から見た山家駅方面です。立木駅を含む綾部駅から園部駅間のローカル駅はY字分岐のままで、いわゆる”1線スルー”にはなっていません。そのため、園部駅・京都駅方面に向かう列車はすべて2番ホーム側の線路を通過していきます。

2番ホームの端から見た立木駅の全景です。2面2線の長いホームと、ホームをつないでいる跨線橋が見えます。右側のホームは、綾部駅や福知山駅方面行きの列車が停車する1番ホームです。

2番ホームを跨線橋に向かって歩きます。跨線橋の手前にはホームの上屋が設けられており、待合いのスペースになっています。晴れ渡った空の青さと、周囲の山の緑、駅舎や道路の高架の白さが調和した、明るい雰囲気の駅になっています。

向かいの1番ホームに「JRたちき」という看板がつくられています。駅の存在をPRしておられるようでした。背後に、山の斜面にある集落が見えました。

1番ホームに移動します。上屋の下から跨線橋を上ります。JR山陰本線は、明治30(1897)年に二条駅・嵯峨(現在の嵯峨嵐山)駅間が開業したことに始まります。その後、延伸されて、立木駅がある園部駅・綾部駅間が開業したのは、明治43(1910)年8月15日のことでした。しかし、このとき、立木駅は駅の設置が行われませんでした。昭和8(1933)年、最後に残っていた須佐駅・宇田郷駅間が開業し山陰本線は幡生駅まで全通しましたが、このときにも、立木駅は設置されていませんでした。太平洋戦争後の昭和21(1946)年に立木信号場が開設されましたが、旅客や貨物を取扱う「駅」に昇格したのは、翌年の昭和22(1947)年のことでした。

跨線橋を歩きます。この地域は、江戸時代には広野村と呼ばれ、園部藩の領地になっていました。明治22(1889)年、町村制が敷かれてからは船井郡下和知村となりました。昭和30(1955)年には上和知村と合併して船井郡和知町になっています。面積の90%が山地で、わずかに、河川に沿ったところや山の斜面に集落が広がっているところでした。そして、平成17(2005)年、船井郡内の和知町と丹波町、瑞穂町が合併し、現在の船井郡京丹波町になりました。

立木駅が開業してから14年後の昭和36(1961)年、立木駅は貨物の取扱いが廃止となりました。さらに10年後の昭和46(1971)年には無人駅となりました。現在は、西舞鶴駅が管理する無人駅になっています。跨線橋を渡って1番ホームに降りると、ホームの上屋がありました。「1番ホーム」を示すマークの脇の柱に、建物財産標が貼ってありました。

建物財産標には「旅客上家1号 本屋側乗降場上家 昭和58年1月」と書かれていました。上屋がつくられたのは、昭和58(1983)年だったようです。

跨線橋の下に倉庫がつくられていました。ホームからは直接行くことはできませんが、ドア付近に「建物財産標」が見えました。

建物財産標には「倉庫1号 跨線橋下倉庫 昭和58年1月」と書かれていました。ホームの上屋を整備したときに、合わせて倉庫もつくられたようです。

そのまま進み、1番ホームの端まで歩きます。端から見た駅舎方面です。ホームに接して白い駅舎の建物と渡って来た跨線橋が見えます。駅舎の手前側にはトイレが設置されています。

駅舎に入ります。入った左側には待合室。その外側にはトイレが設置されていますが、待合室からは直接行くことができない構造になっています。この駅舎について、平成13(2001)年9月4日に、この駅を訪ねられた牛山隆信氏は「駅舎が撤去されてしまった跡地に、小さなカプセル型の待合室が建っている」と記されています。この「カプセル型の待合室」がいつ建てられたのか、資料がなくてはっきりしません。ホームの上屋や倉庫が建てられた昭和58(1983)年に一緒に整備されたのかも知れませんが、見た印象では、それより新しいのではないかとも感じました。

待合室の内部です。リサイクルボックスとベンチ。京丹後町町営バスの待合室にもなっているようです。驚いたのは「ホームにサルが出没しています。ご注意ください」の掲示でした。山間の人の動きの少ないところにある駅だと改めて実感させられました。

駅舎の通路に掲示してあった時刻表です。平日には、快速列車も含めて、1時間に1本の列車が停車しています。”秘境駅ランキング”を主宰されている牛山隆信氏は、立木駅について「秘境度3ポイント(P)、雰囲気2P、列車到達難易度2P、外部到達難易度2P、鉄道遺産指数2P」という評価をしておられます。列車到達難易度を2Pと評価されています。牛山氏の評価の割りには、停車する列車の本数は多いと感じました。こうした評価を見ていると「周囲を山に囲まれた、自然豊かで、人の動きが少ない」という駅周辺の雰囲気が大きく影響していることがわかりました。ちなみに、立木駅の1日平均乗車人員は、2016年には8人だったそうです。

駅舎から駅前広場に出ました。白い壁に黒色で「立木駅」と駅名が書かれています。すぐに、沢の音が聞こえてきました。駅の周辺を歩いてみることにしました。

駅前を走っているのは府道59号(主要地方道 市島・和知線)です。写真の先の兵庫県丹波市市島町につながっています。通りの左側の山の斜面に集落がありました。右側の倉庫風の建物は自転車駐輪場です。この日は春休みの期間中でしたので、3台ほどの自転車が見えました。

周囲を山で囲まれた、面積の90%が山地という旧船井郡下和知村や上和知村は、農業や林業を営む人が多い地域でした。米を中心に木材、クリ、松茸、椎茸、木炭などの生産が盛んでした。明治になってからは、養蚕が盛んになり、明治20(1887)年に器械製糸工場を創業しました。この工場は、明治43(1910)年に綾部市の郡是製糸会社(グンゼ)に買収され、同社の和知工場として、昭和23(1948)年まで操業していました。 府道59号を福知山方面に向かって歩きます。その先に、石碑がありました。

二つの石碑が並んで建てられていました。右側の「樋口良一君殉死の碑」が気になりました。昭和41年11月1日、立木駅振興会が建立した石碑でした。石碑の背面に建立の経緯が刻まれていました。「樋口良一さんは、和知町広野の万吉さんの二男として生まれた17歳の青年でした。立木駅の建設工事が始まった昭和21(1947)年4月27日、駅舎建設予定地の掘割の奉仕作業中に、突然土砂が崩落し下敷きになって亡くなってしまいました。翌日の28日に、地元の人たちが永遠の別れを悲しんだといわれています。この尊い犠牲は地元の青年たちを奮起させ、11月1日に立木駅が開業する運びになりました。開業20周年を迎えるにあたり、殉死の碑を建立し樋口良一さんの冥福を祈ります」(要約)というものでした。当時の立木駅長の撰文を、和知町長の字で刻んだものでした。鉄道の敷設に期待を寄せた地元の人たちと工事の犠牲になった青年の姿を、今に伝えています。

このとき、立木駅を出発した福知山駅行きの普通列車が出発して行きました。

牛山隆信氏が主宰する「秘境駅ランキング」の165位にランクインしている山陰本線立木駅は、周囲を山に囲まれた、いかにも秘境駅らしい駅でした。牛山氏は、この駅を訪れた時の印象を「事前に得た情報をもとに降りてみると、そこには、日常の煩わしさを忘れさせてくれるような、長閑な空間が広がっていたのである」と書かれていますが、そのコメントは、立木駅で私が受けた印象と共通していました。
この駅に来て、駅から見える風景を見ていると、おだやかな、長閑な気持ちになってくる、そんな雰囲気のある駅でした。