トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

JR庭瀬駅と庭瀬城跡を訪ねる(2)

2021年06月08日 | 日記
JR庭瀬駅前にあった史跡案内図です。
庭瀬駅から比較的近いところに撫川城跡と庭瀬城跡が描かれています。
また、赤で示されたルートは庭瀬往来で、江戸時代に、岡山城下から西の鴨方・笠岡に向かう街道として整備されました。案内図では、庭瀬駅前の北から右(東)側の部分が途切れていますが、まっすぐ庭瀬東踏切に向かっていました。
この日は、庭瀬東踏切から、撫川城跡と庭瀬城跡を訪ねて来ました。
内濠に囲まれた庭瀬城跡です。

こちらは、撫川城跡です。現在は、「撫川城址公園」になっています。
城跡といえば、近世の城郭があったところと思いがちですが、庭瀬城も撫川城も、江戸時代にそれぞれの地を統治した大名と旗本の陣屋があったところです
スタート地点のJR山陽本線の庭瀬東踏切に来ました。 踏切の北側から南東部を撮影しました。山陽本線の起点、兵庫県の神戸駅から「149K629M」のところにあります。

庭瀬東踏切を渡って南側に来ました。歩道に「庭瀬往来」と書かれた案内板がありました。その先の掲示板の隣に「大覚大僧正」の石碑や「南無妙法蓮華経」の題目石が見えました。街道筋らしい雰囲気を感じます。

庭瀬往来は、江戸時代に、備前岡山藩が、岡山城下を中心に放射状に整備した岡山六官道の一つ、鴨方往来の一部とされています。鴨方往来は、岡山城下と鴨方を結ぶ街道といわれていますが、その先の笠岡や備後国の福山までも含めて鴨方往来と呼ぶ説もあるそうです。 西に向かう街道といえば、山陽道(西国街道)がよく知られていますが、山陽道はもっと北の内陸部を通っていたのに対し、鴨方往来は海岸に近いところを通っていたため、「備中浜街道」とも呼ばれていました。

民家との間にあった北向地蔵菩薩のお堂です。このお堂は、「平成27(2015)年に南に移されて」(説明)現在の地に祀られているそうです。   「境の神」とか「道の神」といわれる道祖神は、峠や村境、分かれ道や辻などの街道の路傍に祀られていて、村の外からやって来る疫病や悪霊を防ぐ神とされています。この北向地蔵菩薩は、そんな「道祖神の役割を果たしてきた」と「説明」には書かれていました。

「庭瀬往来」の説明板が立つ前の通りが、かつての「庭瀬往来」です。江戸時代、岡山城下町をめざす旅人は、写真の左側(踏切)から、左折してこの通りに入り、向こう側に向かって進んでいました。

庭瀬東踏切から庭瀬往来を通って庭瀬城跡に向かうことにしました。踏切を左から右へ渡るとすぐ左折して、線路に沿って進みます。庭瀬往来は、鉄道の橋梁に「折違川開渠」と書かれたところから線路を離れて進むことになります。

通りの右側、消防団の「吉備第一分団(平野)」と書かれた消防機庫の脇に、庭瀬東踏切にもあった「大覚大僧正」の石碑と題目石がありました。 ”備前法華と安芸門徒”といわれるように備前の国は法華宗(日蓮宗)の信徒の多いところです。備前の国に法華宗の教えを初めて伝えたのが大覚大僧正でした。

消防機庫の前に神社がありました。ふり返って撮影しました。

神社の拝殿の前に、「従是西備中国・・・」と刻まれた国境石がありました。下の部分は植物に覆われていて読めませんでした。 庭瀬も撫川も、備中国の村でしたが、備前と備中の境(境川)はもっと東にあり、移設されたものと思われますが、ここに置かれている経緯を、確認することはできませんでした。

庭瀬往来をさらに進みます。旧街道の雰囲気を感じながら進むと、駅前の交差点に着きました。

交差点の左側です。JR庭瀬駅の白い駅舎が見えました。

交差点の右前方にローソンがありました。通りの左側には道標がありました。道標の「庭瀬城跡・撫川城跡・庭瀬往来」と書かれている西方向に、まっすぐ進んで行きます。 

ローソンの駐車場を過ぎると、右前方に駐車場のマークと、その手前に横断歩道が見えました。
横断歩道から見た右側のようすです。すぐ脇に「観音堂」がありました。庭瀬往来は、ここで右折して、庭瀬城や撫川城を迂回するために北に向かうルートになっていました。 「説明」によれば、観音堂は、江戸時代の寛文年間(1661年~1672年)の古地図には「堂」と書かれているそうです。観音菩薩をお祀りしており道祖神の役割を果たして来たそうです。入口にある「観音堂」の揮毫は庭瀬藩士、岩月氏の末裔の方の手によるものだそうです。
庭瀬城跡へは、通りをまっすぐ進み、枡形になっているところを過ぎて進むことになります。また、撫川城跡へは、庭瀬城跡からさらに西に進み、南に迂回して進むことになります。
庭瀬往来との分岐点からまっすぐ進み、枡形になっているところに着きました。ここで右折し、すぐ先で左折して進みます。通りの右側の住宅の裏には、お寺や墓地(寺中屋敷)が広がっていました。
正面に、庭瀬城の内壕と庭瀬城跡に建つ神社が見えるようになりました。
庭瀬城は、戦国時代に備中で勢力を伸ばしていた備中松山城主、三村元親(生年不詳~天正3年6月2日=1575年7月9日没)によって、備前の宇喜多直家の侵攻に備えて築かれたと伝えられています 。

庭瀬城は、天正10(1582)年の羽柴秀吉の備中高松城水攻めの時、毛利側の「境目七城」の一城として、毛利氏の家臣が守っていましたが、激戦の末に秀吉軍に敗れました。その後は備前の宇喜多氏の領有となり、重臣である岡利勝が入城しました。庭瀬城は、現在の撫川城址のあたりまであったといわれており、その時に整備された「本壇(ほんだん)」は現在の撫川城跡で、庭瀬城跡は二の丸として整備されたそうです。江戸時代以前には、本丸を「本壇」と呼んでいたようです。 
壕に架かる橋を渡って庭瀬城跡に入ります。
その後、関ヶ原の戦いの後、宇喜多秀家(直家の子)は改易となり、慶長7(1602)年、宇喜多家の重臣だった戸川肥前守達安(みちやす)が、庭瀬藩主(2万9200石)としてこの地に入りました。達安は、宇喜多家で国政を任されていた重臣でしたが、宇喜多秀家の下で起きた”お家騒動”(宇喜多騒動)により、宇喜多家を辞し、徳川家康の家臣となっていました。そして、関ヶ原の戦いでの戦功が認められ、この地を治めることになりました。達安は、それまでの撫川城の二の丸(庭瀬城跡)を改修し、清山(すがやま)神社の南側に庭瀬陣屋(居館・藩庁)を設け、この地を治めました。

庭瀬城は、足守川の河口に広がる沼地に築かれました。付近の地名から「芝場城(こうげじょう)」ともいわれています。 寛永4(1627)年に庭瀬藩の初代藩主、戸川達安が没し、寛永5(1628)年に戸川正安が2代藩主に就任すると、弟(達安の第三子)の安尤(やすもと)に早島3400石、弟(達安の第4子)の安利に帯江3300石を分知しました。さらに、寛文9(1669)年に、3代藩主を継ぐ安宣の弟の安成にも、妹尾1500石を分知しました。その後、4代藩主になった安風も、延宝3(1675)年に弟の達富(みちとみ)に1000石を分知しました(撫川城址整備委員会・下東城之内町内会作成のパンフより。以下「パンフ」)。 安風は、延宝3年当時は5歳であり、分知は本人の意思ではなかったと思われますが・・。 
こうして、庭瀬藩主戸川家は、4代藩主安風の時代には、2万石の大名になっていました。

神社前には、「庭瀬城址」と刻まれた大きな石碑がありました。また、神社には「八幡宮」と「辨(弁)天宮」と書かれた額が架けられていました。
庭瀬藩の4代藩主、戸川安風は、延宝7(1679)年に9歳で没し、戸川家は嗣子がなく改易となりました。 そのため、この地は天領となり、倉敷代官所の支配を受けることになりました。
その後、戸川家では、安風から1000石を分知されていた弟の達富(みちとみ)が、4000石加増されて5000石の交替寄合(旗本)として名跡を継ぐことが、江戸幕府に認められ、撫川城跡に陣屋(撫川陣屋)を設けて治めることになりました。
「八幡宮」「辨天宮」の額がある神社の先は公園風の広場になっており、そこに、もう一社、史跡案内図に「清山(すがやま)神社」と書かれた神社がありました。戸川達安は、この地に入ったとき、清山神社の南側(現在は住宅地なっているところ)に庭瀬陣屋を設けていました。清山神社の本殿の背後に収蔵庫と思われる白い建物がありました
一方、戸川安風が早世し、嗣子がなく改易された後、天領となり倉敷代官所の支配になっていた庭瀬藩には、天和3(1683)年に久世重之が上総国関宿藩から5万石で入封し、再び庭瀬城跡に陣屋を構えました。

しかし、久世重之は、3年後の貞享3(1686)年に丹波国の亀山藩に転封となりました。その後、元禄6(1693)年に、松平信通が大和国興留藩から3万石で入封しましたが、4年後に出羽国上山藩へ転封となりました。そして、元禄12(1699)年、板倉重高が2万石で庭瀬藩主となり、上総国高滝から、庭瀬陣屋に入りました。 板倉家は、その後、明治の廃藩置県まで、庭瀬陣屋を舞台に、11代172年間にわたって、この地を治めることになりました。

板倉重昌・重矩を祭る清山神社に来ました。右側に「庭瀬城址」と書かれた石碑が見えます。 庭瀬往来にあった「町並み歴史ギャラリー」にあった神社仏閣の「説明」によれば、庭瀬藩板倉家の3代藩主の勝興が、寛政5(1793)年に板倉家中興の祖、板倉重信・重矩を祀る清山神社を建立し、歴代の遺品を収蔵しました。収蔵品は、現在、岡山市立吉備公民館に移されているそうです。神社は「東向きで、拝殿、幣殿、本殿の2棟に分けられ、本殿は宝物を保管していたので、白壁・土蔵造りにしている」(説明)そうです。 

板倉家は、徳川家譜代の大名で、清山神社に祀られている板倉重昌は、慶長14(1614)年の大阪冬の陣のとき、豊臣方との交渉にあたったことでよく知られています。また、寛永14(1637)年の島原の乱では、乱鎮圧の上使となって、嫡子、重矩とともに出陣しました。翌年、総攻撃の命令を出し、自ら板倉勢を率いて突撃したとき、銃弾があたり戦死したことでも知られています。
嫡子の板倉重矩は、その後、老中や京都所司代をつとめるなど、幕府の中枢で活躍した人でした。 

庭瀬の町の中にあった案内図の一部です。説明には「庭瀬城周辺を古地図から想定し現在の地図に重ねた図」と書かれていました。地図中にある「戸川土佐守」は庭瀬藩2代藩主の戸川正安であり、正安の時代の庭瀬陣屋を表しています。陣屋は、六つの建物からなり、南側には池のある庭園や茶室が設けられていたようです(町にあった説明より)。
しかし、陣屋があったところは、今は住宅地になっており、当時の面影を伝えるものは、「庭瀬城址」の石碑だけになっていました。

撫川城跡に向かうことにします。図の中で「清山神社」と書かれているところから西に向かい、法万寺川の先で南に迂回して進んで行きます。
上の案内図に「清山神社」と書かれている通りに出ました。
庭瀬城跡の内濠の中に「大賀ハス」の植栽がありました。庭瀬地区の北にある川入地区出身の大賀一郎氏は、昭和26(1951)年、千葉県検見川の旧東京帝大厚生農場の泥炭層から、2000年前の古代ハスの実を3粒発見し、その中の1粒の発芽に成功しました。「大賀ハス」と命名された古代ハスは、翌年の7月18日に大輪の花を咲かせたのです(説明より)。大賀ハスは、「日本三名園」一つ、岡山市の後楽園で保存植栽されていますが、ここ庭瀬城内壕でも、季節になると美しい花を咲かせています。

法万寺川は庭瀬と撫川との境界になっています。法万寺川を渡って撫川に入りました。 正面のお宅の手前のカーブミラーに「行き止まり」と書かれた看板がありました。左折して、南に迂回して進みます。

南に向かいます。突きあたりを右折して進みます。その先の突きあたりで右折すると撫川城址への入口に行くことができます。

撫川城跡の前まで来ました。撫川城にあった「撫川城址整備委員会・下東城之内町内会」が作成されたパンフによれば、「撫川城は永禄2(1559)年、毛利氏配下の備中松山城主、三村家親(生年不詳~天正3年6月2日=1575年7月9日没・三村元親の父)が備前の宇喜多直家に備えて砦を築いたのが最初」と書かれています。天正3(1575)年の三村氏が毛利氏に滅ぼされると、庭瀬城とともに毛利方の「境目七城」の一つになり、毛利氏の出城となりました。
天正10(1582)年の羽柴秀吉の備中高松城の水攻めの際には、秀吉軍との激戦になりましたが、周囲が沼地であったため、攻めあぐねた秀吉軍が攻撃をあきらめたため持ち堪えることができました。しかし、戦後は、秀吉軍に参加していた宇喜多氏の城となり、宇喜多氏はその後、20年間、城番を置いていたそうです。 
左に進み、撫川城を囲む壕を見ることにしました。

撫川城の西側から見た壕と石垣です。自然石をそのまま積み上げた野面積みの石垣が残っています。そのため、昭和32(1957)年、岡山県指定史跡の第1号に認定されています。この石垣は、天正14(1586)年頃から、宇喜多氏の重臣、岡利勝が、安土城の築城法を学んで築き始めたものです。 野面積みの石垣は、16世紀の戦国時代に多くつくられ、排水性に優れている一方で、すきまや出っ張りが多く、敵が登りやすいという欠点があったといわれています。

北西部の石垣です。一部が壕に向かって外にはみ出しています。
岡利勝は、その後、天正18(1590)年、秀吉からの要請により、主君の宇喜多秀家が岡山城の大改造をすることになり、その改造に着手したそうです。岡山城にも、このときに築かれた野面積みの石垣が残っています。

撫川城址公園の前に戻って来ました。撫川城跡は、東西77m、南北57m、幅15mの壕で囲まれています。沼地につくられていることから、別名「沼城」とも呼ばれています。
城址公園の入口から入ると、正面に、明治になってから祀られた三神社がありました。「竜王(水の神)」と「八幡神社(武勇の神)」、「稲荷神社(農耕の神)」をお祀りしています。 
庭瀬城跡のところでも書きましたが、戸川氏の4代目藩主安風が9歳で早世し、嗣子が無く改易となり、安風から1000石を分知されていた安風の弟達富(みちとみ)が名跡を継ぐことになったとき、撫川城跡に撫川陣屋(居館・藩庁)を設けて知行所を治めることになりました。

一方、庭瀬陣屋には、その後、元禄12(1699)年、板倉重高が2万石の大名として入り、庭瀬藩の領地を治めることになりました。
こうして、板倉家、戸川家の両家は、庭瀬城と撫川城を舞台に、それぞれの支配を、明治維新まで続けることになったのです。

撫川城跡の北西の隅です。石垣が壕に向かって張り出していたところです。櫓台があったところだそうです。 
撫川城址公園への入口にある門は、明治の時代になってから 、撫川知行所の総門が移設されたものです。
地元では、かつては、「撫川城址」を「ごほんざん」と親しみを込めて呼んでいたそうです。江戸時代以前は本丸を「御本壇」と呼んでいたため、「ごほんだん」が訛って「ごほんざん」と呼ばれたためだといわれています。

JR庭瀬駅に近いところにあった二つの城跡を訪ねて来ました。
町の中にあった「説明」によって、二つの城跡にまつわる歴史に触れることができました。 

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