兵庫県西部の中心都市姫路市と、岡山県津山市を経由して岡山市西部の新見市を結ぶJR姫新(きしん)線。実際の運用は、姫路駅・佐用(上月)駅間、佐用(上月)駅・津山駅間、津山駅・新見駅間で、それぞれ区間運転を行っています。その中の、津山駅・新見駅間には個性的な駅舎が並んでいます。久しぶりに、姫新線の駅舎を訪ねることにしましたが、列車ですべて回るのは時間的に難しいため、今回は車で回ることにしました。
津山駅で出発を待っている姫新線の新見行き車両です。現在は、すべて、キハ120系のワンマン運転の車両が運用にあたっています。津山駅から新見に向かう姫新線は、作備線として開業し、「姫新線」と呼ばれるようになったのは、昭和11(1936)年のことでした。
JR津山駅を出て最初の駅、JR院庄(いんのしょう)駅に着きました。JR姫新線は、大正12(1923)年8月21日、津山駅・美作追分駅間が作備線として開業したことに始まります。院庄駅もそのときに開業しました。現在では、大正時代の駅舎の待合部分だけが、駅舎として残されています。木造平屋建て。駅舎の前には、乗客の自転車が整然と並んでいます。かつての駅舎にあった「駅名板」は、「昭和60(1985)年に無人駅になったとき姿を消した」(「岡山の駅」日本文教出版発行)のだそうです。
駅舎から見た駅前広場です。中央のロータリーの脇にタクシーが停車しています。形のいい樹木には見とれてしまいました。ここは、津山市二宮。激しい誘致合戦の末、津山駅と次の美作千代(みまさかせんだい)駅のほぼ中間地点に設置されたそうです。駅名の「院庄」は、鎌倉時代から室町時代にかけて、美作国の守護の館(院庄館)が置かれていたことに因ります。現在、そこには作楽(さくら)神社が鎮座しています。
駅舎の内部です。広くはありませんが、掃除が行き届いた清潔な待合室でした。
ホームから見た津山駅方面の風景です。1面1線の単式ホームです。平成26(2014)年度の乗車人員は34人だそうです。
院庄駅から4.8km、次の美作千代駅です。ローカル線にぴったりの趣のある懐かしい駅舎です。大正12(1923)年6月に建設されたときの姿で、今も現役としてがんばっています。木造瓦葺き、黒い下見板張りで貫禄ある姿です。手書きのような駅名板からも年月を感じることができます。それでも衰えは隠せず、入口の2本の柱は風化していて脇に新しい柱をつけて支えているようです。
駅舎の全景です。郵便ポストも懐かしい。新しいポストが使われていたのを、このレトロなポストにわざわざ取り替えたとのことです。写真の左端の電柱も、かつての雰囲気を残すために、木製のものにしたそうです。この駅を支えている人の思いが伝わってきます。
駅舎に入ります。出札口の窓枠がサッシになっているなど少し手が加わっていますが、それでも往事の雰囲気を感じとることができます。駅舎の入口にあった「建物財産票」には「鉄停 駅 本屋1号 大正12年8月」と書かれていました。
これもこの駅を愛する人がなさったのでしょう、「国鉄乗車券発売所」の掲示物も飾ってあります。無人駅になった今では、出札業務は残念ながらありません。1日の乗車人員は50人(2014年)だそうです。
ホームに出ました。ホームから見た津山駅方面の光景です。”秘境駅”のような雰囲気を感じます。現在は1面1線のホームになっていますが・・。
向かい側のホームが残っています。かつては、相対式2面2線のホームだったようです。線路も撤去され、その跡には、柵で仕切りがされていて、畑になっていました。女性が草取りに忙しくされていました。
向かい側のホームに残っていた構内踏切の階段の跡です。
ホームから見える駅舎内に「切り絵」が見えました。池田泰弘さんの作品です。
切り絵と同じアングルの駅舎です。美作千代駅は、鉄道路線が地方に次々と広がっていた時代につくられました。駅舎の設計の手間を省くために、鉄道省工務局は、昭和5(1930)年に「小停車場本屋標準図」を作成しました。駅舎の標準的な寸法等が示されていて、この時代につくられた地方の駅舎は、ほとんどこの標準図に従ってつくられていました。美作千代駅は、その典型的な姿を今に伝えてくれています。
事務所の中のようすです。かつて、駅員が常駐していた頃の、そのままの姿で残されています。だるまストーブもそのまま残っていました。これも古きよきものを大切にする地元の人たちのアイディアではないでしょうか?
別棟のトイレの壁に掲示してあった「久米仙人」のキャラクターです。美作千代駅は津山市領家にありますが、この地は、平成の大合併の前は久米郡久米町でした。久米町は仙人の里で知られています。「ある日、久米仙人が飛行の術を使い空を飛んでいたとき、川岸で洗濯をしていた若い娘の太ももが目に入り、墜落してしまいました。やがて、久米仙人はこの娘を嫁にし、後に久米寺を建てた」という話があります(今昔物語巻11)。地元の久米商工会が実施した「村おこし事業」のキャラクターです。「仙人のようにいつまでも若々しく健康的な生活が送れるように」という願いが込められているそうです。
美作千代駅から4.8km、坪井駅に着きます。津山市中北上にあります。この駅も、大正12(1923)年に美作追分駅までの区間の開業と同時に開設されました。昭和61(1986)年11月1日に無人駅になりました。その後、開業以来の木造駅舎が撤去され、駅舎というより待合室の方がふさわしい駅舎に替わっています。新見駅に向かって左側に設置されています。
ホームから見た津山駅方面の光景です。2面2線のホームの端に、構内踏切が設置されています。津山駅方面への列車に乗車するには、ここで線路を横断して反対側のホームに進みます。
これは、以前、出雲街道の坪井宿を訪ねたとき(2012年3月3日の日記「車で2分」の小さな小さな宿場町)に撮影したキハ120系の新見行きの車両です。1日平均の乗車人員は22人(2014年)だそうです。
坪井駅から歩いて5分ぐらいのところにある、「出雲街道坪井宿」の入口の案内板です。出雲街道は美作国では土居宿、勝間田宿、津山城下町、坪井宿、久世宿、高田(勝山)宿、美甘宿、新庄宿の美作七宿(津山城下町は含まない)を通って、伯耆(ほうき)国(鳥取県)に入っていました。
坪井宿の現在のようすです。広い通りが残っています。慶長8(1608)年、森忠政が藩主として津山に入り、参勤交代の道として整備したことに始まる宿場町です。街道の中央に、七森川から引いた用水をつけ、両側にそれぞれ2間(3.6m)の道をつくりました。そして、北側の道を出雲街道として旅籠や家屋が並ぶ通りとし、南側の道は里道として、庶民が通行する通りにしていました。
坪井駅から5.6km、美作追分(みまさかおいわけ)駅に着きました。美作追分駅は、真庭市上河内にあります。大正12(1923)年、津山駅からこの駅まで開業したときに開設された駅でしたが、翌、大正13(1924)年5月1日に作備線は、久世駅まで延伸することになり、途中駅になりました。
モダンな印象を受けます。平成8(1996)年3月、駅の管理を担っていた旧真庭郡落合町が駅舎の改修にあたりました。そのとき、駅舎に併設して、イベントの時に開設する”キリタローの館”も建設したそうです。
正面から見た”キリタローの館”です。”キリタローの館”はどんなことに使われているのかと、何人かの子ども連れの方に、お聞きしたのですが、「トイレをお借りしに来ただけなので・・」という返事が返ってきただけでした。あまり、イベントも多くないのかもしれません。
駅舎の中に入ります。正面に柱状のものが立っています。単なる装飾品ではなく、柱のようです。上の梁を支えていました。施設は立派なのですが、無人駅で自動券売機もありませんでした。
ホームに出ました。写真は、1面1線のホームの津山駅方面の光景です。この駅も、かつては2面2線の相対式ホームだったようです。向かいにホームの跡が見えましたが、線路はすでに撤去されていました。この駅の1日平均乗車人員は26人(2014年)だそうです。
ホームから見た”キリタローの館”です。キリタローの家族の絵が描かれていました。このあたりは標高200m。霧が深いところで、信号機の取扱いに苦労してきたそうです。それを逆手にとって、霧を町のシンボルとして、町の活性化に利用しているようです。道路沿いの各所に立っているキリタローの家族が「福祉の村 河内」などと、住民に呼びかけている姿を見ることができました。
駅の広場の向かい側の丘には、「河内村立追分公園」の碑が建っています。ツツジの名所という案内もありました。「道が分岐するところが追分、川が合流するところが落合だ」といわれますが、JR姫新線は、この追分駅と落合駅が並んでいるめずらしい路線になっています。
美作追分駅から、7.0km、次の美作落合駅に着きました。真庭市西原にあります。合併前の真庭郡落合町で、落合町の市街地は旭川をはさんだ対岸にあります。落合町は、その名の通り、旧上房郡から流れてくる備中川が、本流の旭川に合流する地域に発展していました。美作落合駅は、大正13(1924)年に作備線が久世駅まで延伸したときに開業しました。
駅舎には多目的室が併設されており、この日は、岡山県知事選挙の真庭市第16投票区の投票所として使われていました。この美作落合駅は、当初、作備線の鉄道路線に入っていませんでした。当時の落合町長は、上房郡の人々の応援を受けて運動を続け、現在のルートになったといわれています。美作落合駅の先で北に向かって90度の急カーブになルートになっているのは、そのためです。作備線の計画が進んでいた大正時代の中期には、落合の人々が岡山市に出るには、高瀬舟で旭川を福渡まで下り、そこから、中国鉄道(現在のJR津山線)に乗り換えて行くのが唯一の方法でした。大正時代の末には、岡山市へ向かう乗り合いバスが通じていましたが、運賃が高くだれもが乗れるものではなかったようです。それだけに、作備線が開通した時の落合の人たちの喜びは、大変なものだったのではないでしょうか。
駅舎内に入ります。JR乗車券発券所です。美作落合駅は簡易委託駅になっており、事務所では女性が勤務しておられました。この駅舎は平成17(2005)年に建設されました。待合室の上に時計塔がつくられています。この駅もモダンで上品な印象を受けます。
待合いのスペースを抜けてホームに出ます。2面2線のホームです。向こう側のホームとは跨線橋でつながっています。写真の左のホームは新見方面行きの列車が停車しますが、その向こう側に、かつてはもう一本線路があり、2面3線のホームになっていました。
右側の線路が新見方面行きの線路です。ホームに設置された待合室には、太陽光発電装置が取り付けられています。デザインだけでなく装備もモダンな駅なのです。
駅舎内の天井部分、あの時計塔の部分です。空間になっていますが、照明装置が集中して置かれていて、待合室全体を明るく照らしています。
待合室にあった絵です。現在の駅舎になる前の大正時代の駅舎です。あの時代の小規模駅舎の典型的な形式の駅でした。
駅前広場から見たJR美作落合駅の全景です。この駅の1日平均乗車人員は、223人(2014年)だそうです。この先で、JR姫新線は、旭川に架かる落合橋の手前で、右に90度カーブします。旭川に沿って北に向かって進んでいきます。
美作落合駅から3.7km、古見(こみ)駅に着きました。真庭市落合町古見にあります。一般県道329号から20mぐらい入ったところに古見駅のホームに上がる階段がありました。
ホームに入ってすぐ左に待合室があります。鉄骨づくり平屋建て、屋根はスレート葺きの簡素な待合室です。その前に1面1線の単式ホームがあります。周囲は収穫の終わった田んぼが広がっています。古見駅は、昭和33(1958)年4月に新設・開業しました。姫新線の中で最も新しく、最も簡素な駅でした。1日の乗車人員は、61人(2014年)だそうです。
古見駅の次は久世駅。真庭市の政治の中心地で、真庭市役所が置かれています。
古見駅から4.3km、久世駅に着きました。大正13(1924)年、美作追分駅から久世駅まで延伸開業したとき開設され終着駅になりました。しかし、翌大正14(1925)年3月15日に中国勝山駅までが開業したため、通過駅になりました。
久世駅は、真庭市久世にあります。国の重要文化財に指定されている遷喬(せんきょう)小学校で知られています。久世駅の入口にあった門には、遷喬小学校と早川太鼓が飾られています。
これは、以前、旧出雲街道久世宿を歩いたときに撮影した写真です。雪の積もった寒い冬の日でした(2012年2月26日の日記)。岡山県工師の江川三郎八の設計によるルネサンス風の校舎で、明治40(1907)年に、3年の工期を経て完成しました。総工費1万8千円は、当時の久世町の年間予算の3年分にあたるものでした。久世の将来を担う人材の育成に込めた町民の強い思いを感じます。校名の「遷喬」は中国の古典「詩経」の「出自幽谷 遷于喬木」(鳥が低い谷間から出て高い木に遷(のぼ)る)から、幕末の漢学者で備中松山藩の藩政改革にも携わった山田方谷が命名したといわれています。
真庭市役所です。平成の大合併で真庭市が新たに誕生したとき、久世町に市役所が置かれました。
久世駅からまっすぐ商店街に向かう道の右側に早川八郎左衛門正紀(まさとし)の胸像が建っています。早川正紀は、天明12(1787)年に久世代官として、この地に赴任して来ました。当時の久世は、津山藩主森家の改易(家名断絶 家財没収)により、幕府領となっていました。赤子間引きの禁止、庶民教育の振興、吉岡銅山の再興、ベンガラ生産の保護、虎班竹(トラフダケ・天然記念物になっている)の保存などに力を尽くし、領民から慕われた名代官でした。転任に際しては、4度の留任願いが出されたそうで、14年間に渡って久世代官をつとめた人です。早川代官の胸像は、代官が死去してから2年後の文化7(1810)年に、代官を慕う領民が建立したものといわれています。駅の入口にあった「早川太鼓」も、代官を慕う人々によって名づけられたものでしょう。
駅舎の中に入ります。簡易委託駅で事務室には男性の方がつとめておられました。
待合いのスペースです。椅子には座布団が置いてありました。その奥の部屋の入口には「真庭ライオンズクラブ」の看板が見えました。
ホームに出ました。新見方面を撮影しました。2面2線の相対式のホームで相互に跨線橋で結ばれています。写真の右側にあるゴミ缶の右に見える木製のベンチは、駅舎と一体化した造りになっています。
ホームの津山寄りから見た駅舎とホーム。市役所の所在地の玄関にしては、寂しすぎる雰囲気が印象に残ってしまいました。正面の一部の窓が欠けているところは、ホームの待合室になっています。ちなみに、1日の乗車人員は211人(2014年)だそうです。
駅舎に戻ったときに気がつきました。ホーム寄りの明るい日差しが注いでいるところに、「自主学習スペース」が設けられていて、国語辞典や漢和辞典も置かれていました。
ここまで、JR姫新線の院庄駅、美作千代駅、坪井駅、美作追分駅、美作落合駅、古見駅と久世駅と訪ねてきました。大正期の駅舎が残る美作千代駅、”キリタローの館”が楽しい美作追分駅、モダンな美作落合駅など、個性あふれる駅が楽しい路線でした。 中国勝山駅から先は、次回にまとめたいと思っています。
津山駅で出発を待っている姫新線の新見行き車両です。現在は、すべて、キハ120系のワンマン運転の車両が運用にあたっています。津山駅から新見に向かう姫新線は、作備線として開業し、「姫新線」と呼ばれるようになったのは、昭和11(1936)年のことでした。
JR津山駅を出て最初の駅、JR院庄(いんのしょう)駅に着きました。JR姫新線は、大正12(1923)年8月21日、津山駅・美作追分駅間が作備線として開業したことに始まります。院庄駅もそのときに開業しました。現在では、大正時代の駅舎の待合部分だけが、駅舎として残されています。木造平屋建て。駅舎の前には、乗客の自転車が整然と並んでいます。かつての駅舎にあった「駅名板」は、「昭和60(1985)年に無人駅になったとき姿を消した」(「岡山の駅」日本文教出版発行)のだそうです。
駅舎から見た駅前広場です。中央のロータリーの脇にタクシーが停車しています。形のいい樹木には見とれてしまいました。ここは、津山市二宮。激しい誘致合戦の末、津山駅と次の美作千代(みまさかせんだい)駅のほぼ中間地点に設置されたそうです。駅名の「院庄」は、鎌倉時代から室町時代にかけて、美作国の守護の館(院庄館)が置かれていたことに因ります。現在、そこには作楽(さくら)神社が鎮座しています。
駅舎の内部です。広くはありませんが、掃除が行き届いた清潔な待合室でした。
ホームから見た津山駅方面の風景です。1面1線の単式ホームです。平成26(2014)年度の乗車人員は34人だそうです。
院庄駅から4.8km、次の美作千代駅です。ローカル線にぴったりの趣のある懐かしい駅舎です。大正12(1923)年6月に建設されたときの姿で、今も現役としてがんばっています。木造瓦葺き、黒い下見板張りで貫禄ある姿です。手書きのような駅名板からも年月を感じることができます。それでも衰えは隠せず、入口の2本の柱は風化していて脇に新しい柱をつけて支えているようです。
駅舎の全景です。郵便ポストも懐かしい。新しいポストが使われていたのを、このレトロなポストにわざわざ取り替えたとのことです。写真の左端の電柱も、かつての雰囲気を残すために、木製のものにしたそうです。この駅を支えている人の思いが伝わってきます。
駅舎に入ります。出札口の窓枠がサッシになっているなど少し手が加わっていますが、それでも往事の雰囲気を感じとることができます。駅舎の入口にあった「建物財産票」には「鉄停 駅 本屋1号 大正12年8月」と書かれていました。
これもこの駅を愛する人がなさったのでしょう、「国鉄乗車券発売所」の掲示物も飾ってあります。無人駅になった今では、出札業務は残念ながらありません。1日の乗車人員は50人(2014年)だそうです。
ホームに出ました。ホームから見た津山駅方面の光景です。”秘境駅”のような雰囲気を感じます。現在は1面1線のホームになっていますが・・。
向かい側のホームが残っています。かつては、相対式2面2線のホームだったようです。線路も撤去され、その跡には、柵で仕切りがされていて、畑になっていました。女性が草取りに忙しくされていました。
向かい側のホームに残っていた構内踏切の階段の跡です。
ホームから見える駅舎内に「切り絵」が見えました。池田泰弘さんの作品です。
切り絵と同じアングルの駅舎です。美作千代駅は、鉄道路線が地方に次々と広がっていた時代につくられました。駅舎の設計の手間を省くために、鉄道省工務局は、昭和5(1930)年に「小停車場本屋標準図」を作成しました。駅舎の標準的な寸法等が示されていて、この時代につくられた地方の駅舎は、ほとんどこの標準図に従ってつくられていました。美作千代駅は、その典型的な姿を今に伝えてくれています。
事務所の中のようすです。かつて、駅員が常駐していた頃の、そのままの姿で残されています。だるまストーブもそのまま残っていました。これも古きよきものを大切にする地元の人たちのアイディアではないでしょうか?
別棟のトイレの壁に掲示してあった「久米仙人」のキャラクターです。美作千代駅は津山市領家にありますが、この地は、平成の大合併の前は久米郡久米町でした。久米町は仙人の里で知られています。「ある日、久米仙人が飛行の術を使い空を飛んでいたとき、川岸で洗濯をしていた若い娘の太ももが目に入り、墜落してしまいました。やがて、久米仙人はこの娘を嫁にし、後に久米寺を建てた」という話があります(今昔物語巻11)。地元の久米商工会が実施した「村おこし事業」のキャラクターです。「仙人のようにいつまでも若々しく健康的な生活が送れるように」という願いが込められているそうです。
美作千代駅から4.8km、坪井駅に着きます。津山市中北上にあります。この駅も、大正12(1923)年に美作追分駅までの区間の開業と同時に開設されました。昭和61(1986)年11月1日に無人駅になりました。その後、開業以来の木造駅舎が撤去され、駅舎というより待合室の方がふさわしい駅舎に替わっています。新見駅に向かって左側に設置されています。
ホームから見た津山駅方面の光景です。2面2線のホームの端に、構内踏切が設置されています。津山駅方面への列車に乗車するには、ここで線路を横断して反対側のホームに進みます。
これは、以前、出雲街道の坪井宿を訪ねたとき(2012年3月3日の日記「車で2分」の小さな小さな宿場町)に撮影したキハ120系の新見行きの車両です。1日平均の乗車人員は22人(2014年)だそうです。
坪井駅から歩いて5分ぐらいのところにある、「出雲街道坪井宿」の入口の案内板です。出雲街道は美作国では土居宿、勝間田宿、津山城下町、坪井宿、久世宿、高田(勝山)宿、美甘宿、新庄宿の美作七宿(津山城下町は含まない)を通って、伯耆(ほうき)国(鳥取県)に入っていました。
坪井宿の現在のようすです。広い通りが残っています。慶長8(1608)年、森忠政が藩主として津山に入り、参勤交代の道として整備したことに始まる宿場町です。街道の中央に、七森川から引いた用水をつけ、両側にそれぞれ2間(3.6m)の道をつくりました。そして、北側の道を出雲街道として旅籠や家屋が並ぶ通りとし、南側の道は里道として、庶民が通行する通りにしていました。
坪井駅から5.6km、美作追分(みまさかおいわけ)駅に着きました。美作追分駅は、真庭市上河内にあります。大正12(1923)年、津山駅からこの駅まで開業したときに開設された駅でしたが、翌、大正13(1924)年5月1日に作備線は、久世駅まで延伸することになり、途中駅になりました。
モダンな印象を受けます。平成8(1996)年3月、駅の管理を担っていた旧真庭郡落合町が駅舎の改修にあたりました。そのとき、駅舎に併設して、イベントの時に開設する”キリタローの館”も建設したそうです。
正面から見た”キリタローの館”です。”キリタローの館”はどんなことに使われているのかと、何人かの子ども連れの方に、お聞きしたのですが、「トイレをお借りしに来ただけなので・・」という返事が返ってきただけでした。あまり、イベントも多くないのかもしれません。
駅舎の中に入ります。正面に柱状のものが立っています。単なる装飾品ではなく、柱のようです。上の梁を支えていました。施設は立派なのですが、無人駅で自動券売機もありませんでした。
ホームに出ました。写真は、1面1線のホームの津山駅方面の光景です。この駅も、かつては2面2線の相対式ホームだったようです。向かいにホームの跡が見えましたが、線路はすでに撤去されていました。この駅の1日平均乗車人員は26人(2014年)だそうです。
ホームから見た”キリタローの館”です。キリタローの家族の絵が描かれていました。このあたりは標高200m。霧が深いところで、信号機の取扱いに苦労してきたそうです。それを逆手にとって、霧を町のシンボルとして、町の活性化に利用しているようです。道路沿いの各所に立っているキリタローの家族が「福祉の村 河内」などと、住民に呼びかけている姿を見ることができました。
駅の広場の向かい側の丘には、「河内村立追分公園」の碑が建っています。ツツジの名所という案内もありました。「道が分岐するところが追分、川が合流するところが落合だ」といわれますが、JR姫新線は、この追分駅と落合駅が並んでいるめずらしい路線になっています。
美作追分駅から、7.0km、次の美作落合駅に着きました。真庭市西原にあります。合併前の真庭郡落合町で、落合町の市街地は旭川をはさんだ対岸にあります。落合町は、その名の通り、旧上房郡から流れてくる備中川が、本流の旭川に合流する地域に発展していました。美作落合駅は、大正13(1924)年に作備線が久世駅まで延伸したときに開業しました。
駅舎には多目的室が併設されており、この日は、岡山県知事選挙の真庭市第16投票区の投票所として使われていました。この美作落合駅は、当初、作備線の鉄道路線に入っていませんでした。当時の落合町長は、上房郡の人々の応援を受けて運動を続け、現在のルートになったといわれています。美作落合駅の先で北に向かって90度の急カーブになルートになっているのは、そのためです。作備線の計画が進んでいた大正時代の中期には、落合の人々が岡山市に出るには、高瀬舟で旭川を福渡まで下り、そこから、中国鉄道(現在のJR津山線)に乗り換えて行くのが唯一の方法でした。大正時代の末には、岡山市へ向かう乗り合いバスが通じていましたが、運賃が高くだれもが乗れるものではなかったようです。それだけに、作備線が開通した時の落合の人たちの喜びは、大変なものだったのではないでしょうか。
駅舎内に入ります。JR乗車券発券所です。美作落合駅は簡易委託駅になっており、事務所では女性が勤務しておられました。この駅舎は平成17(2005)年に建設されました。待合室の上に時計塔がつくられています。この駅もモダンで上品な印象を受けます。
待合いのスペースを抜けてホームに出ます。2面2線のホームです。向こう側のホームとは跨線橋でつながっています。写真の左のホームは新見方面行きの列車が停車しますが、その向こう側に、かつてはもう一本線路があり、2面3線のホームになっていました。
右側の線路が新見方面行きの線路です。ホームに設置された待合室には、太陽光発電装置が取り付けられています。デザインだけでなく装備もモダンな駅なのです。
駅舎内の天井部分、あの時計塔の部分です。空間になっていますが、照明装置が集中して置かれていて、待合室全体を明るく照らしています。
待合室にあった絵です。現在の駅舎になる前の大正時代の駅舎です。あの時代の小規模駅舎の典型的な形式の駅でした。
駅前広場から見たJR美作落合駅の全景です。この駅の1日平均乗車人員は、223人(2014年)だそうです。この先で、JR姫新線は、旭川に架かる落合橋の手前で、右に90度カーブします。旭川に沿って北に向かって進んでいきます。
美作落合駅から3.7km、古見(こみ)駅に着きました。真庭市落合町古見にあります。一般県道329号から20mぐらい入ったところに古見駅のホームに上がる階段がありました。
ホームに入ってすぐ左に待合室があります。鉄骨づくり平屋建て、屋根はスレート葺きの簡素な待合室です。その前に1面1線の単式ホームがあります。周囲は収穫の終わった田んぼが広がっています。古見駅は、昭和33(1958)年4月に新設・開業しました。姫新線の中で最も新しく、最も簡素な駅でした。1日の乗車人員は、61人(2014年)だそうです。
古見駅の次は久世駅。真庭市の政治の中心地で、真庭市役所が置かれています。
古見駅から4.3km、久世駅に着きました。大正13(1924)年、美作追分駅から久世駅まで延伸開業したとき開設され終着駅になりました。しかし、翌大正14(1925)年3月15日に中国勝山駅までが開業したため、通過駅になりました。
久世駅は、真庭市久世にあります。国の重要文化財に指定されている遷喬(せんきょう)小学校で知られています。久世駅の入口にあった門には、遷喬小学校と早川太鼓が飾られています。
これは、以前、旧出雲街道久世宿を歩いたときに撮影した写真です。雪の積もった寒い冬の日でした(2012年2月26日の日記)。岡山県工師の江川三郎八の設計によるルネサンス風の校舎で、明治40(1907)年に、3年の工期を経て完成しました。総工費1万8千円は、当時の久世町の年間予算の3年分にあたるものでした。久世の将来を担う人材の育成に込めた町民の強い思いを感じます。校名の「遷喬」は中国の古典「詩経」の「出自幽谷 遷于喬木」(鳥が低い谷間から出て高い木に遷(のぼ)る)から、幕末の漢学者で備中松山藩の藩政改革にも携わった山田方谷が命名したといわれています。
真庭市役所です。平成の大合併で真庭市が新たに誕生したとき、久世町に市役所が置かれました。
久世駅からまっすぐ商店街に向かう道の右側に早川八郎左衛門正紀(まさとし)の胸像が建っています。早川正紀は、天明12(1787)年に久世代官として、この地に赴任して来ました。当時の久世は、津山藩主森家の改易(家名断絶 家財没収)により、幕府領となっていました。赤子間引きの禁止、庶民教育の振興、吉岡銅山の再興、ベンガラ生産の保護、虎班竹(トラフダケ・天然記念物になっている)の保存などに力を尽くし、領民から慕われた名代官でした。転任に際しては、4度の留任願いが出されたそうで、14年間に渡って久世代官をつとめた人です。早川代官の胸像は、代官が死去してから2年後の文化7(1810)年に、代官を慕う領民が建立したものといわれています。駅の入口にあった「早川太鼓」も、代官を慕う人々によって名づけられたものでしょう。
駅舎の中に入ります。簡易委託駅で事務室には男性の方がつとめておられました。
待合いのスペースです。椅子には座布団が置いてありました。その奥の部屋の入口には「真庭ライオンズクラブ」の看板が見えました。
ホームに出ました。新見方面を撮影しました。2面2線の相対式のホームで相互に跨線橋で結ばれています。写真の右側にあるゴミ缶の右に見える木製のベンチは、駅舎と一体化した造りになっています。
ホームの津山寄りから見た駅舎とホーム。市役所の所在地の玄関にしては、寂しすぎる雰囲気が印象に残ってしまいました。正面の一部の窓が欠けているところは、ホームの待合室になっています。ちなみに、1日の乗車人員は211人(2014年)だそうです。
駅舎に戻ったときに気がつきました。ホーム寄りの明るい日差しが注いでいるところに、「自主学習スペース」が設けられていて、国語辞典や漢和辞典も置かれていました。
ここまで、JR姫新線の院庄駅、美作千代駅、坪井駅、美作追分駅、美作落合駅、古見駅と久世駅と訪ねてきました。大正期の駅舎が残る美作千代駅、”キリタローの館”が楽しい美作追分駅、モダンな美作落合駅など、個性あふれる駅が楽しい路線でした。 中国勝山駅から先は、次回にまとめたいと思っています。