トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

日本で最初の鉄道トンネル、石屋川トンネルの跡地を訪ねる

2016年06月19日 | 日記
日本で最初の鉄道は、明治5(1872)年に新橋・横浜間で開業しました。その2年後の明治7(1874)年、大阪・神戸間の鉄道が開通しました。

これは、日本で初めての鉄道トンネルの跡地に展示されていた地図ですが、その中に3つの「隧道(トンネル)」の名がみえます。東から、芦屋川隧道、住吉川隧道、そして、石屋川隧道です。すでに、芦屋川トンネル(2016年6月3日の日記)と住吉川トンネル(2016年5月27日の日記)は訪ねてきました。

これも、最古の鉄道トンネルの跡地に展示されていた石屋川トンネルの写真です。このトンネルが、明治3(1870)年に着工し、翌明治4(1871)年に完成した、日本最古の鉄道トンネルです。他の二つのトンネルと同じ天井川の下をくぐるトンネルでした。今はその姿を見ることはできません。大正8(1919)年の複々線工事の時に解体されて、他の二つの天井川トンネルとともに消滅しました。

この日は、石屋川トンネルの跡地を訪ねるため、JR住吉駅からJR東海道線の高架に沿って、西に向かって歩きました。

JR住吉駅から20分ぐらいで、跨線橋のようなトンネルが見えました。どうやら、ここがかつての石屋川トンネルがあったところのようです。

トンネルをくぐって、西側の出口に出ました。出口付近に「石屋川トンネル 灘百選」と書かれた掲示がありました。天井川の川底を走るトンネルの説明が書かれていました。

トンネルの西側を左折して進みます。道路の左側に、トンネルの上に向かう道が続いています。

道は徐々に登り坂になり、「介護老人保健施設 すばる」の建物の前で斜めに上がっていきます。

トンネルの上に向かう道に出ました。2車線の道路の向こうに橋が見えました。やはり、跨線橋の上を川が流れているようです。

車道を渡って左美也(さみや)橋を渡ります。「架昭和38年2月」というプレートが見えました。

左美也橋から見た北側の風景です。水量は多くありませんでしたが、石屋川が、跨線橋の上から流れ落ちていました。はるかに六甲山系の山々の姿が見えました。

石屋川の川床と、JR東海道線の高架が見えました。東海道線は昭和51(1976)年から石屋川の上を高架で跨ぐ形になっています。

左美也橋の東側(石屋川左岸側)には石屋川公園がありました。こちらも水の公園のようですが、水量は多くはなかったようです。暑い日でしたので、憩う人の姿は見えませんでした。

石屋川と石屋川公園の間の遊歩道を登っていきます。かつて、石屋川は天井川でした。標高900mを超えたあたりの六甲山系に源流をもつ石屋川は、上流から多くの土砂を運んで来て、流れが緩やかになったところに堆積していました。そのため、周囲の平地より高いところに川床がある天井川と呼ばれる川になっていました。

現在の川床です。切り石を張りつめてつくられていました。

遊歩道を上りつめたところに、石屋川トンネルの説明を展示した掲示板がありました。

これが、その表面です。「日本で最初の鉄道トンネル 旧石屋川隧道記念碑」と書かれていて、たくさんの写真が掲示してありました。

掲示されていた写真です。これには、「線路敷設前の明治4(1871)~5(1872)年ごろの撮影」と書かれていました。完成しているトンネルの姿が見えます。その上を石屋川が流れているはずです。線路を敷設する前の状況がよくわかります。

この写真には、現在の複々線のJR東海道線とかつての石屋川隧道があった場所を示しています。4本ある線路の南から2本目の線路(神戸方面への内側の線路)の下に、長さ61mの石屋川トンネルがあったようです。

これは、石屋川トンネルの東からの入口を、現在の高架に合わせて説明したものです。高架を支える4本の高架柱の南側から2本目の位置に、東側からのトンネルの入り口があったようです。

この写真は、大正8(1919)年に行われた複々線化工事のときの様子を撮影したものです。解体中の石屋川トンネルと、背後にある線路を跨ぐ水路橋です。新しい線路は右側に敷設されています。

この写真は、石屋川トンネルを撤去した後、線路を跨ぐ水路橋の新設工事のとき、川の流れを変えるための仮水路を支えていた足場を撮影したものです。左側から、足場を撤去しているところです。

「石屋川鉄道記念碑」があるところからすぐ左前に見えた、JRの高架です。高架下に入ります。

写真の説明にあったとおり、JRの高架を4本の高架柱で支えています。右側から2本目の柱の下にかつてのトンネルの東側からの入口があったようです。

右側から一本目と2本目の高架柱の間に「旧石屋川隧道跡」の案内が張り付けられていました。なければ、パスしてしまっていたかもしれませんね。

表示の奥の水路橋の法面(のりめん)に、「日本で最初の鉄道トンネル 旧石屋川隧道跡」の石碑が建っていました。

高架上の線路を見上げて撮影しました。かつての天井川の下をくぐっていた石屋川トンネルは
南側から2本目の線路付近にあったそうです。白く見えるのが一番南側の線路。その次が、かつてのトンネルがあった2本目の線路です。この下に石屋川トンネルがありました。

線路の下を抜けると、すぐ綱敷天満神社へ下りる石段がありました。上から見た神社の全景です。遊歩道には、この神社の幟が立てかけられていました。

ちょうど、北側の線路上を電車が通過していきました。急いで、振り返って撮影しました。

その先で、石屋川に架かっていた八色橋(やぐさばし)から、北の方向を撮影しました。ここからは、石屋川の右岸を南に向かって、引き返します。

石屋川の右岸側の歩道を南に向かうと、JRの高架に沿って、上ってくる道路がありました。

道路の下には、神戸市交通局の石屋川車庫(営業所)がありました。広い駐車場でしたが、駐車しているバスはさほど多くはありませんでした。多くのバスが営業に出ているのでしょうね。

石屋川の右岸を、左美也橋を超えてさらに進みます。国道2号線が石屋川を越えるところにあった石屋川橋。東詰めの北側には、改修中の御影公会堂がありました。石屋川橋の東側は東灘区、西が灘区、石屋川は東灘区と灘区の境界になっているようです。石屋川橋には、「大正15年6月架」のプレートがかかっていました。

石屋川橋からみた下流(南)側の写真です。右側の3階建ての建物の2階のあたりに、阪神石屋川駅の駅舎の一部が見えました。「石屋川の上にある駅」(2016年1月30日の日記)です。

再度北に向かい、最初にくぐったトンネルに戻りました。右側にある、JRの高架柱の下の駐車場にお邪魔しました。

高架下の駐車場から撮影しました。南から1本目と2本目の高架柱の間に、石碑がありました。
先に上から見た「日本で最初の鉄道トンネル 旧石屋川隧道跡」碑です。こちら側には「建立 西日本旅客鉄道株式会社 平成15年3月吉日」と読めました。


山地の多いわが国では、鉄道といえばトンネルがつきものです。日本で最初にできた鉄道トンネルはどこだったのだろうと調べていたら、石屋川トンネルに行き着きました。日本で最初につくられたトンネルは、山地を貫くトンネルではなく、天井川の川底を越えるトンネルでした。トンネルがつくられた頃の蒸気機関車では、天井川の上を越える鉄橋に上るだけの馬力がなかったということも要因の一つだったようです。今ではありえない事情でしたが、そのため、他の同じようなトンネルの芦屋川トンネル跡、住吉川トンネル跡も訪ねることができたのは、ラッキーでした。明治の創世期の鉄道を訪ねる楽しい旅になりました。










もう一つのJR東海道線天井川トンネル跡

2016年06月03日 | 日記

写真は阪神電鉄芦屋駅です。以前、鉄橋の上にある駅を巡っていたとき(「芦屋川の上にある駅」2016年2月19日の日記)に、駅の下を流れる芦屋川の河川敷から撮影しました。この日は、この駅の上流部にある天井川トンネル跡を訪ねました。

これがその跨線橋です。JR神戸(東海道)線の芦屋駅の西にあります。前回は、JR神戸(東海道)線の住吉跨線橋の上を流れる住吉川を見て来ました。源流の六甲山系から南に下り大阪湾に注ぐ住吉川は、急流のため勾配が緩やかになると、上流から運んで来た多くの土砂を、川床に堆積してきました。多くの年月、こうした営みを繰り返した結果、周囲の住宅地よりも高くなった川床をもつ川ができました。このような川は天井川と呼ばれてきました。現在のJR神戸(東海道)線は、複々線になるまで、天井川の川底につくられたトンネルで住吉川を越えていました。

JR芦屋駅南口です。ここから、大正8(1919)年につくられた複々線の線路に沿って歩いていきます。この先にある跨線橋の上を、芦屋川が流れているはずです。

JR芦屋駅南口から5分ぐらいのところの光景です。右前方に、線路を渡る跨線橋が見えました。

白く塗られた跨線橋を越えてさらに進むと、前方左側に芦屋市民会館の建物が見えてきました。道はかなりの傾斜で上って行きます。自動車が走る跨線橋の芦屋橋が見えました。

その先にあったふれあい橋の跨線橋です。これがめざす跨線橋で、この線路部分に、天井川トンネルである芦屋川トンネルがありました。線路の上を芦屋川が流れているはずです。かつての芦屋川トンネルは、アーチ式のトンネルだったそうです。跨線橋の橋桁の奥に、かすかにアーチの名残のようなものが見えていますが・・・。どうなのでしょう?

この跨線橋はふれあい橋と呼ばれていました。跨線橋の中央を、芦屋川が右から左に向かって流れています。芦屋川の向こう側(芦屋川右岸)に芦屋仏教会館の建物が見えました。昭和2(1927)年に、丸紅の初代社長、伊藤長兵衛の出資で完成したそうです。片岡安(やすし)の設計でつくられた洋館ですが、阪神淡路大震災のとき、周辺の洋風建築が倒壊するなか、軽微な被害にとどまったといわれています。震災後、建物を西に2.5m曳いて移動させたそうです。

これは、芦屋川右岸(西側)から見た芦屋仏教会館の正面です。道路から入口まで少し距離があります。もとは道路に面して建てられていたのでしょう。

ふれあい橋の左岸(東側)から、芦屋川の下流方面を撮影しました。中央に、国道2号に架かる業平(なりひら)橋が小さく見えています。

これは、国道2号から見た大阪方面の写真です。業平橋の西詰から東に向かって撮影しました。業平橋は、あの在原業平(ありはらのなりひら)から名付けられたものです。百人一首の「世の中に たえて桜のなかりせば 春の心は のどけからまし」で知られる歌人で、業平橋の東側(芦屋川の左岸)の業平町(なりひらちょう)に、かつて、彼の別荘があったといわれています。

業平橋から見た芦屋川の上流方面です。正面に六甲山系の山々が見えます。芦屋川が、手前に向かってかなりの段差で下っています。跨線橋の天井部分が川底になっています。

再度、芦屋川を上流に向けて歩き、ふれあい橋に戻りました。跨線橋の下を走る、神戸、三ノ宮方面からやって来た列車です。

大正橋です。線路の北側で、芦屋川に架かっている橋です。

大正橋から見た芦屋川の上流(北側)です。両岸に遊歩道がつくられている、広々とした川です。

ふれあい橋の北詰にあった松ノ内緑地。正面の石碑には「世の中にたえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし  在原業平朝臣」と刻まれていました。

芦屋川の天井川につくられた芦屋川トンネルが撤去されたのは、大正8(1919)年のことでした。それから、もう97年の月日が経過しています。当時の面影を残すものを見つけるのは困難でした。しかし、跨線橋の上を流れる川に出会うのは、鉄橋の上にある駅を見るよりも、はるかにエキサイティングなことでした。明治初期、天井川をくぐるトンネルをつくりあげた人たちのご苦労に、思いをはせながら歩いた旅でした。