トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

梅小路蒸気機関車館に住まう栄光のSLたち(2)

2011年09月28日 | 日記
梅小路蒸気機関車館には、7両のSLが動態保存されていました。
C56160号機、C571号機、C612号機、C622号機、D51200号機、
8630号機、B2010号機の7両です。

静態保存のSLでは、お召し列車風に展示されていたC51239号機とC581号機、
客車(オハ4613)を牽引する形で展示されていたC621号機とD511号機の重連。

これ以外に、静態保存のSLは、8両が展示されていました。

1080号機(1070形)
明治34(1901)年、イギリスから輸入されたD9形651号機でした。
明治時代の代表的な機関車で、急行列車を牽引していました。
大正15(1926)年、1070形1080号機に改造され美濃太田機関区で活躍した後、
日鉄鉱業に移り、石灰石の運搬を昭和54(1979)年まで続けました。
日本で、80年近く現役を続けた、小柄ですがタフなSLでした。
10番機関庫、B2010号機の後ろが終の棲家です。

9633号機(9600形)
大正3(1914)年、川崎造船製。小樽機関区から移動してきました。
大正2(1913)年から大正15(1926)年にかけて、770両が製造されました。
日本で初めての本格的な標準形国産車です。愛称「キュウロク」。
梅小路蒸気機関車館の、9番機関庫で体を休めています。

D50140号機(D50形)。
大正14(1925)年、日立製作所製。直方機関区から移動してきました。
D50形は、大正12(1923)年から昭和6(1931)年にかけて380両が製造された、
大正期を代表する蒸気機関車。9600形を上回る性能を備えていました。
現役時代、東海道・山陽本線で活躍していました。愛称は「デゴマル」。
この140号機は、D50形で最後まで動いていたSLだそうです。
16番機関庫に展示されていました。

C1164号機(C11形)
昭和9(1934)年に川崎車両で製造され、会津若松機関区から移って来ました。
C11形は、昭和7(1979)年から24(1949)年までに、支線や区間運転用に
381両が製造されました。
炭水車のついていないタンク車として、最も多く製造され、
使い勝手がよかったので、日本の各地で使われました。愛称「Cのチョンチョン」
C1164号機は、梅小路の8番機関庫で展示されています。

左の19番機関庫のC5345号機(C53形)。
C5345号機は、昭和3(1928)年汽車製造製。
昭和36(1961)年から交通科学博物館に展示されていたそうです。
運転席が開放されています。
乗ってみると、運転席は狭く前方の視野もきわめて狭い、加えて、
運転席の大部分は石炭をくべる窯が占めており、
暑さも尋常ではなかったはずです。
厳しい環境の中、安全運転を義務づけられた機関士の方の苦労がしのばれました。
C53形は、昭和3(1928)年から昭和5(1930)年にかけて、
97両が製造されました。

右の20番機関庫のC551号機(C55形)。
昭和10(1953)年川崎車両製。
旭川機関区から交通科学博物館を経てやってきました。
C55形は、昭和3(1928)年から昭和5(1930)年にかけて97両が製造されました。
東海道・山陽本線で特急列車を牽引していました。
その1号機です。

C59164号機(C59形)。
18番機関庫の住人です。
このSLは、戦後の昭和21(1946)年日立製作所製。
糸崎機関区から奈良運転所を経て移動して来ました。
C59形は、昭和16(1941)年から昭和22(1947)年までに、
173両が製造されました。
東海道・山陽本線で、特急つばめ、かもめ、富士、さくらなど
当時の代表的な花形特急列車を牽引した、花形蒸気機関車でした。
長さ、21.575m、最長のSLでした。
C59形の最後に製造された最新の機関車がC59164号機でした。

D52468号機は、昭和21(1946)年、三菱重工業製、五稜郭機関区から
移動してきました。D52形は、昭和18(1943)年から昭和21(1946)年にかけて、
285両が製造されました。
戦時中の石炭等の輸送力の増強のために、D51形の1000トンの牽引を上回る、
1200トンの牽引をめざして設計されましたが、戦争の終結のため、
昭和21(1946)年に285両で製造が打ち切られました。
このような経緯のため、欠番が多く、285両しか製造されていないのに、
468号機となっています。
また、D51が全国で活躍したのに対し、D52形の活躍の場は、主に
山陽本線と函館本線に限定されていました。
D51形(デゴイチ)を性能的に上回る、日本最大で最強の蒸気機関車でした。
17番機関庫の住人です。


梅小路蒸気機関車館に移築されている旧二条駅舎の中の展示資料を
見ていたとき、興味深い説明に出会いました。そこには、

SLの代表的な存在であるD51形(デゴイチ)は、
1km走るのに40kgの石炭が必要でした。
その火力を最高の状態にするためには、広い火室の中に石炭を均等に投入し
完全燃焼させることが必要でした。
ショベルで、7分30秒間で150杯(1杯約2kgなので300kg)の石炭を
ばらまくように投げ入れなければなりません。
機関助手の見習者は、1日5~6回の練習を約1ヶ月間続けて
機関助手をめざしたと、説明されていました。

高い性能を持ったSLの力を発揮させるのは、やはり人の力だったのです。
栄光の蒸気機関車を眺めながら、それを支えた人々の存在に、
思いをはせたひとときでした。



梅小路蒸気機関車館に住まう栄光のSLたち(1)

2011年09月25日 | 日記
初めて梅小路蒸気機関車館を訪ねました。


平成16年度に国の重要文化財に指定されました。
扇形をした機関庫、引き込み線を含めて指定されています。
1から20までの番号が付けられた機関庫に、かつて日本の陸上交通を支えたSLが、
ゆったりと体を休めています。

機関車庫に憩うSLを見ながら、不謹慎ながら、
お馬を連想してしまいました。
かつて、煙や蒸気を吹き上げて牽引していた力強い姿から、
厩舎で憩うサラブレッドを思い浮かべました。しかし、よく考えると、
ソリを引いて走る「ばんえい競馬」の「ばんば」のイメージかもしれません!

蒸気機関車の形式は、昭和3(1928)年に規定された車両称号規定によっているそうで、
動輪の軸の数をアルファベットで表したものと、数字を組み合わせています。
Aは1軸、Bは2軸、Cは3軸、Dは4軸のものを表しています。
アルファベットの次の数字の、10-49はタンク機関車(炭水車がついていない機関車)を表し、
50~99は、テンダ機関車(炭水車がついている機関車)を表しています。
その次の数字は、機関車の製造順に付けられています。

蒸気機関車の魅力は、何と言っても煙をはいて走る姿です。
いつでも走れるのが動態保存のSLです。
ここには動態保存されているSLが7両ありました。

まず、この日「スチーム号」を牽引していたC612号機。
昭和23(1948)年、三菱重工製。宮崎機関区から移ってきました。
D51のボイラーに、C57の足回りを組み合わせてつくったといわれています。
C61形は、昭和22(1947)年から昭和24(1949)年にかけて、
急行列車用に33両が製造されたそうです。

二つ目は、C622号機。
この日は11番機関庫におりました。
昭和23(1948)年日立製作所製、小樽築港機関区から移って来ました。

デフレクターにつばめのマークがついています。
かつて、特急つばめや急行ニセコを牽引していました。
C62形(愛称シロクニ)は、昭和23(1948)年から昭和24(1949)年に、
49両が製造されたようです。
長さ21.675mという日本最大で最強の旅客用機関車で、
最も人気のある蒸気機関車でした。

三つ目は、D51200号機。
昭和13(1938)年、鉄道省浜松工場製。中津川機関区から移ってきました。
この日は、3番の機関庫にいました。
3番の機関庫付近は、ススでかなり汚れていました。
住まいというより、整備工場として機能しているところです。
D51200は、スチーム号の牽引の仕事をしているときもあるそうです。
D51形(愛称デゴイチ)は、戦時中の貨物輸送のため、 
昭和11(1935)年から昭和25(1950)年までに1,184両が製造されたSLの雄。
愛称「デゴイチ」はSLの代名詞になっています。
われわれ岡山県人は、かつて、
伯備線で貨物列車を3重連で牽引していた雄姿をすぐ思い出すことができます。

これは、D511号機。D51形の1号機です。これは動態保存ではありません。
初期に製造された95両には、機関車のボイラー部分の上におおいがついており、
「ナメクジ形」と呼ばれています。

四つ目は、8630号機(8620形)
愛称「ハチロク」
大正3(1914年)汽車製造製。弘前機関区からやってきました。
この日は、6番機関庫に頭から奥に入っていましたが、
スチーム号の牽引の仕事もやっているそうです。
8620形は、昭和3(1928)年の車両称号規定以前の製造のため、
以前のままの形式で表されています。
日本発の国産旅客用テンダー蒸気機関車として、鉄道院(鉄道省の前身)が設計したそうです。
大正3(1914)年から大正12(1923)年まで、732両が製造されました。
台湾や樺太で活躍した仲間もいました。

五つ目は、B2010号機(B20形)
昭和21(1946)年、立山重工業製。鹿児島機関区からやってきました。
動輪2軸のSL。全体の形と大きさから、大正時代製だと思いましたが、
実は戦後に製造された機関車でした。
10号機は、姫路や鹿児島で活躍したそうです。
10番機関庫の住人で、後ろにいた1080号機と同居していました。
B20形は15両がつくられ、主に構内での入れ替え輸送に使われたたそうです。

動態保存のSL7両のうち、現在、2両が出張中でした。

C571号機(C57形)です。愛称「シゴナナ」または「貴婦人」。
山口県で、土・日曜日と祭日に、JR山口線の「SLやまぐち号」を牽引しています。
昭和12(1937)年川崎車両で製造され、
新津機関区から佐倉機関区を経てここにやってきました。
C57形は、昭和12(1937)年から昭和28(1953)年までに215両が製造されました。
「貴婦人」と呼ばれるように美しい機関車です。

もう1両は、C56160号機です。
昭和14(1939)年川崎車両製。上諏訪機関区からやってきた機関車です。
SL北びわこ号として、また、JR山口線のイベント列車の牽引機として、
今も現役機関車として活躍しています。
C56形は、昭和10(1935)年から昭和14(1939)年にかけて、
160両が製造されたそうです。
C56160号機は、その1番最後に製造された最も新しい機関車です。
愛称は「シゴロク」または「ポニー」。
残念ながら写真がありません。
次に、各地での仕事が終わって帰って来たら、
梅小路蒸気機関車館を訪ねて会いたいと思っています。  





梅小路蒸気機関車館に行ってきました

2011年09月21日 | 日記
梅小路蒸気機関車館に行きました。
JR京都駅から歩きましたが、近づくにつれて、
「ぼおー」というSLの汽笛が大きく聞こえるようになりました。
いよいよ、SLの展示場です。気持ちが高まります。

JR嵯峨野線(山陰線の愛称)の高架をくぐって入ります。

入り口にある「碑文」です。
「鉄道100年にわたる蒸気機関車の栄光をたたえ、ここにその雄姿を永く保存する」
            昭和47年10月10日  日本国有鉄道

寺社風の建物が迎えてくれます。
これは、明治30(1897)年に開業した京都鉄道の二条駅、本社も兼ねていました。
伊東忠太氏の設計によるもので、京都を意識して寺社風にしたとか、
また、当時評判の高かった国鉄宇都宮駅に模ったものとかと言われています。
京都鉄道は、明治40(1907)年に国有化され、
明治45(1912)年には山陰本線になりました。
そして、JR二条駅が高架になった、
平成8(1996)年にここに移ってきました。
明治時代の和風の駅舎では、現在唯一残っている建物です。

旧二条駅舎のSL展示館を過ぎて進み、
二条駅時代にホームがあったところに出ると、
扇形をした機関庫の裏側にぶつかります。
SLスチーム号の体験乗車の案内放送が聞こえてきました。

この日のスチーム号は、C612号機が牽引しています。
C612号機は、昭和23(1948)年製。
(「あれっ!」 私と同い年なんだ。 よく頑張ってるなあ・・・。)
宮崎機関区からやって来たそうです。
ここには動態保存されているSLが7両あるそうですが、そのうちの1両です。
後ろに、2両のトロッコ列車風の客車を牽引しています。

SLに近い1両目は黄色を、2両目は緑色を基調にしています。
2両目の側面の青いプレートにはカシオペアが描かれていました。
思わず、あの超人気特急「カシオペア」を思い出しました。
屋根の部分はスタイルこそ違いましたが、
どちらも、ススで黒く染まっていました。

「出発の時には大きな汽笛が鳴るので、ご注意ください。」
場内放送が続いています。

「煤煙のしぶき」に注意を促す掲示板も。
昔は、汽笛も煤煙も当たり前だったのにね。

出発です。

汽笛が鳴って、SL列車は後ろに向かって出発しました。
すぐに左方向にカーブします。
向かって右側の運転席では、機関士さんの目で安全確認することはできません。
機関士さんは、前と後ろに目配りしながら運転しておられました。
乗客は家族連ればっかり、笑顔を見せているのはみんな大人でした。

南口までの500m、それを往復する1km、10分のコースです。
大人1人200円は、さほど重い負担ではありませんよね!

後ろ(南)には、道路をはさんで待避線が広がっていますが、
その一番手前に、
C621号機とD511号機の重連がオハ4613の客車を引いた形で、展示してありました。
(はっとしましたが、スチーム号はC612号機、展示されているのはC621号機、
ナンバープレートはよく似ていますが、もちろん別のSLでした。)
C621号機は、昭和23(1948)年の日立製作所製、広島第2機関区で廃車になりました。
D511号機は、昭和11(1936)年、川崎車両製、浜田機関区からやってきました。
どちらも、静態保存です。
ぶどう色のオハ4613は、塗装が激しく痛んでいました。
長年、風雪に耐えて来たことを全身で表現していました。

扇形の左側の機関庫の近くに、「お召し列車」仕様のSLが2両展示されています。
手前がC51239号機。昭和2(1927)年の汽車製造製、
新潟機関区で廃車されたそうです。
左には、C581号機。昭和13(1938)年製、北見機関区からやって来ました。
これには、側面に鳳凰のマークがついています。

スマートで美しいSLです。

振り向くと、スチーム号が乗り場に帰っていました。
放送が「次は13時30分の発車です!」と伝えています。
何往復したのかな?
私が、ここに着いてから確か3往復したと思います。
お疲れ様!

スチーム号の先に、待避線の関空特急「はるか」の白い車体が、
その先に、東寺の五重の塔が見えました。
  
構内には、D51の車軸等が展示されていたり、石炭置き場があったり、
休憩用の客車があったりしています。
体験乗車ができるスチーム号や展示されているSLが主役とすれば、これらは脇役。
でも、鉄道ファンやSLファンにとっては、どちらもなくてはならない、
見ていて楽しい光景でした。

家族連れが多い梅小路蒸気機関車館、
一番にぎやかなのは、おじいちゃんでした。
孫の写真を撮りながら、「いいだろう」「すごいだろう」と、
興奮して、孫に話し続けていました。

市松模様の魅力、東福寺方丈庭園

2011年09月12日 | 日記
国指定の重要文化財である「東司(とうす)」をじっくり見ようと、東福寺を訪ねましたが、東司以上に印象に残ったのが、東福寺の庭園でした。
 
中でも、東福寺の方丈の周囲の庭園が、特に印象に残っています。
 
その中でも一番印象に残ったのが、方丈の北側にある庭でした。敷石とウマスギゴケで市松模様を構成しています。敷石の大きさを微妙に変えることで、奥行きを表現していると言われます。昭和14(1939)年に重森三玲氏によってつくられた庭園です。

これは、方丈の北西の庭園、ここにも市松模様が見られます。白壁と、白砂と丈の高い緑の樹木のコントラストに、気品のある美しを感じます。

市松模様は、他にもありました。
  
開山堂庭園の、普門院前の白砂も市松模様でした。

比較的単純な模様なのですが、ほんとうに美しい。日常生活の様々な場面で出会う市松模様。元禄時代からある模様なのですが、それに輝きを与えたのが、重森三玲氏の卓越した審美眼だったのでしょう。
 
方丈庭園の東側の庭です。高さの異なる7つの円形の置物でつくられた「北斗七星」。
  
これは、方丈南側の庭園です。巨石と築山を配置した枯山水の庭園です。

方丈とは、お寺のご住職が生活する場です。室町時代中期以降は、方丈に仏像や祖師像が安置されるようになり、本堂の役割を担う建物になりました。

東福寺のご住職は、日夜、この庭を見ながら思索の日々を、送っておられることでしょう。








皇室の御香華院、御寺泉涌寺

2011年09月07日 | 日記
「御香華院」とは、「香を焚き花を供える場所」、すなわち「先祖が眠る寺」という意味で、「皇室の菩提寺」という意味だそうです。
また、この寺の公式サイトには、
「応永7(1374)年1月、後光厳院をここで御火葬申してから、以後9代の天皇の御火葬場となり、御水尾天皇から孝明天皇までの、江戸時代のすべての天皇、皇妃の御陵もここに造営された。さらに明治維新の後は、他山奉祀の歴代天皇、皇妃の菩提寺、『御寺(みてら)』として尊崇されるようになる」と書かれています。
「天皇家の菩提寺」という泉涌寺に、急に行ってみたくなりました。

JR奈良線の東福寺駅からスタートしました。

東大路通りを進んで泉涌寺口のバス停から泉涌寺道に入り、総門にむけてゆるやかに上っていきます。

振り返ると民家の間から、京都タワーが見えました。

総門からは、静かな参道を進みます。

泉涌寺山内にある寺院では、それぞれ七福神を祀ってあります。毎年の成人の日には、「七福神めぐり」の多くの参拝者でにぎわうとか・・

総門前にあった即成院の福禄寿は1番、2番戒光寺は弁財天、・・・  6番悲田院は毘沙門天、7番法音院は寿老人。そして、泉涌寺楊貴妃観音は番外だそうです。

写真は、弁財天を祀る戒光寺の身丈1丈8尺の観音「丈六さん」の碑。運慶と湛慶父子の手になる釈迦如来像、国指定の重要文化財。大きな仏像を「丈六」と呼んでいたから名付けられたものです。

緑と静寂の中を進むと、天皇陵への参道に入ります。

この写真は、泉涌寺の紹介でよく使われているアングルです。仏殿と舎利殿が並んでいます。東門の近くの参道からの姿です。

さらに参道を上ります。
 
 
一番最初にある天皇陵、後堀河天皇観音陵に着きます。坂をのぼって右手の、鳥居の先に御陵がありました。静寂の中をお参りしました。坂道から泉涌寺の伽藍が見えました。

引き返して、泉涌寺東門から拝観料を支払って境内に入ります。「ここから入ると正面に泉屋形があります。泉涌寺の名前の由来になったところで、今も泉が湧き続けています。」「月輪陵(がちりんりょう)へは、霊明殿の前を歩いて行ってください。」
僧形の男性のていねいで、落ち着いた説明でした。

正面の山裾に水屋形がありました。

水屋形に向かって、左手に仏殿、右手に大門が見えました。仏殿前から見ると大門は坂の上の方にありました。下は白砂利。静浄な雰囲気です。このお寺は、大門から入ると仏殿に向かってくだって行くつくりになっています。

鎌倉時代、月輪大師俊芿(がちりんだいししゅんじょう)が開いた泉涌寺。舎利殿は、俊芿の弟子、湛海(たんかい)が南宋慶元府の白蓮寺から請来したといわれる仏牙舎利(釈尊の歯)を安置しています。

説明板には、謡曲「舎利」の話が書いてあります。「足疾鬼が舎利殿に飛び上がり舎利を奪って虚空に跳び去ったところ、この寺を守る韋駄天がこれに追いついて取り返す」という「太平記」の説話に基づく逸話が紹介されていました。

仏殿、舎利殿の脇をとおって、本坊に向かいます。

本坊の入り口の菊のご紋、皇室の菩提寺らしい雰囲気です。皇室の御紋は16花弁、ここは15花弁の菊の御紋でした。拝観料を払って入ります。「どうぞ、ゆっくりご覧になってください」と、丁寧に頭を下げられた僧形の職員の方。思わず、私も姿勢をただして頭を下げていました。

本坊から御座所に向かって順路が定められています。御座所は、皇室の関係者がお参りに来られた時に使われます。一番尾印象に残っているのは、御座所庭園に面した玉座の間。天皇、皇后が来られた時の休息所として使われます。玉座は畳や上敷で4段に分かれていて、一番上には菊のご紋がついていました。御座所内部はもちろん撮影禁止でした。

本坊を出ると、本坊・御座所の並び、舎利殿の後ろに霊明殿が見えます。「歴代天皇の尊牌(位牌)をお祀りしているところ」、檜皮葺で、すべて尾張産の檜材でつくられているとのことです。昭和天皇の尊牌もここにお祀りされているようです。

霊明殿の前を通って霊明殿の裏に回ると、月輪陵に着きます。ここには歴代天皇ら25陵、5灰塚、9墓が営まれているそうです。

この泉涌寺が皇室と深いかかわりができたのは、仁治3(1242)年からのようです。「四条天皇が12歳で崩御されたとき、当山で御葬儀が行われ、御陵が開山大師御廟近くで営まれ、当山に天皇の御影や尊牌が奉安されて、皇室の御寺としての寺格が備えられた」(泉涌寺公式サイト)とあります。

ここからゆるやかな坂をのぼって大門脇の楊貴妃観音堂に向かいました。

楊貴妃観音の参拝を終えて、トイレをお借りしようと、大門の拝観受付の脇を通ったとき、窓口にいた高齢の男性はていねいな会釈をしてくださっていました。

参拝者を大事にしてくださる、感じのいいお寺でした。

東口の受付でも、本坊でも、そしてここ大門でも、礼儀を尽くして参拝者を迎えてくださったことに感謝しています。



国の重要文化財のトイレ、東福寺東司

2011年09月02日 | 日記

嘉禎2(1236)年、九条道家によって建立され、奈良の東大寺と興福寺から一字ずつを取って名付けられた、京都市東区の慧日山東福寺。
 
応永32(1425)年に再建されて、現存する禅寺として日本最古の三門(国宝)や、貞和3(1347)年に再建された、最古で最大の禅堂(国指定重要文化財)で知られています。足利氏の時代には「京都五山」の禅寺として、第4位に位置づけられていました。
私がこの寺に行ってみようと思ったのは、「東司(とうす)」を見たかったからです。
 
「東司」は、「西浄」とともに、禅宗寺院の「トイレ」を表しています。禅宗では、トイレも大切な修行の一つであり、七堂伽藍の一つでした。
 
東福寺の三門の南西、禅堂の南に、「東司」はあります。東福寺では、多くの修行僧が一斉に用を足すため、「百雪隠(ひゃくせっちん)」とも呼ばれていたそうです。室町時代につくられた日本で最古の、そして最大のトイレの遺構です。国の重要文化財に指定されています。

妻入りの扉は閉鎖されていて、今は中には入ることはできませんが、建物の両側には、外からのぞけないところに、格子がついた窓がありました。向かって左側には、その窓の下に木製の2段階段がついていて、その上にあがれば、背伸びをしなくても内部が見えるような配慮がなされています。
私は、その段に上って中を覗くことにしました。内部の写真は、その段の上で格子の中にカメラを入れて撮影したものです。

妻入りの扉から入った中央に通路が着いています。手前が入り口から見ると左側の方になります。

目の下に九つの小便用の壺が埋め込まれていました。

東司の中にある案内板には、「もとの設備は、どのようなものであったか、今少し定かではないが、便壺・・・を辿り、腰貫のほぞ穴も多少の入組の乱れはあるが、浄厠、手洗の間・・・画面とし旧に復元してみた」と書かれています(・・・は読み取れなかったところです)。もちろん、小便用の壺はすっきりしており使われた形跡はありません。

9つの小便壺の先(写真の手前)には、手洗い用の壺が1つ埋め込まれています。

これも、近くで見ると、まったく使われた痕跡はありません。

中央の通路の向こうには、少し大きめの大便用の壺が9個並んでいます。通路より少し低くなっていて、はっきりとは見えませんが、その先には、6カ所の手洗い用の壺が埋められているそうです。
   
中には、かつては公開されていた頃に使用されたと思われる、説明板や絵が残っていました。

中の説明板には、「東司使用の作法」が説明されています。遠いのと暗いのとで、中の文字は肉眼では読み取れません。

撮影した写真には、説明板の上下が一部写っていなくて、残念ながら、やはり完全に読み取ることができませんでした。読み取れる範囲では、「手洗いの作法」について、次のように書かれていました。

「(前略)右手に灰匙をとり瓦石・手をとぎ洗う具で、魚形のものも・・・におきて、滴水、とぎ洗うこと三度、つぎに土をおいて水を点じて三度洗・・夾(たちばな実を粉にしたもの)をとり、水に浸してもみ洗う。大桶の水を小桶にうつし腕に至らんとするまでよく洗う。洗い終わると公界の手巾を用いて拭い洗浄が終る。」(・・・は写っていない部分です)

まず、法衣を脱いできちんとたたんで、黄色の土団子を用意しておく。水桶をとって右手にさげて厠の前で「蒲鞋」(わらじ風のもの?)に履き替える。厠の上に「蹲踞(そんきょ)」して、排便をする。あたりを汚したり、笑ったり、つばをはいたりしてはいけない。用が済んだら、へらで拭く。右手で水を散らさないで、小便と大便をよく洗う。手洗い所で、水で手を三度洗い、灰で三度、土団子で三度、「夾」で三度もみ洗いする。(その後は、上の作法のとおりとなります) なお、この「へら」は、24cmぐらいの木製のもので「ちょうぎ」というそうです。

厳しい修行に明け暮れる禅宗の僧たち、まさに世間を超越したような生活の連続ですが、食事と排便は、人間である限り避けては通れない営みです。きわめて人間的な営みを、厳しい作法を決めて修行に転化することで、「通常の人間の行為を越えるもの」にしていったのでしょう。

東福寺からでる排泄物は、京の野菜づくりに携わる人々に売られ、おいしい京野菜をつくる肥料として使われ、お寺にとっても、貴重な現金収入をもたらしたと、「東司」の外にあった説明には書かれていました。