トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

岡山市の地名由来碑を歩く(3) 西川筋 旧七軒町  

2010年12月30日 | 日記

岡山市街地の真ん中を南北に流れる西川。今は、緑道となり多くの人に親しまれています。

たくさんの芸術作品に囲まれた緑多い空間になっています。西川は、岡山城下町の発展によって、外堀の西に、武家地や町屋が広がったため、城下町の西を画する施設が必要になって、農業用水路を改修してできたということです。岡山藩主、池田忠雄が江戸時代初期の元和年間に、整備したものといわれています。

西川沿いにある下石井公園の前の西川に面したところに、「西川筋」の地名由来碑が建てられています。

説明にもあるように、江戸時代には武家地が広がっていたところです。現在では、川の両岸に道路が走っていますが、当時は西側の通りだけが、下流まで続いていたということです。

江戸時代、西川には、12の橋が架けられていました。「絵図で歩く 岡山城下町」を手に、城下町の南の端である岡山市立中央図書館から、それぞれの橋をたどりながら、北に向かって、西川筋を歩きました。

中央図書館のあるところは、江戸時代には鋳銭所があったところです。
寛永15(1638)年、職人を京都から招き、京都の天野屋宗入とともに、
岡山の二人の商人が請け負って、寛永通宝をつくっていました。

写真の西川沿いの道を、車の反対の方向(北)に進みました。

12あった橋の一番南にあたる「十二ノ橋」は清輝橋の手前、岡山市立清輝幼稚園跡地と、岡山市立清輝児童センターの間に、
架けられている内田橋でした。江戸時代後期の絵図では、橋付近は武家地になっていますが、江戸時代前期の絵図では、「御いけす」と書かれています。ここの魚が藩主の台所に行ったのでしょう。

そこから、清輝橋を渡ります。見ることはできませんが、大きな交差点の下を西川が流れています。

清輝橋から西川に沿って、東側には池田家の重臣、番頭の池田酒造の下屋敷があり、その北に、妙福寺と光清寺が並んでいました。

光清寺は、もとは中心部の栄町にありましたが、住職の恵海が、藩主、池田光政の廃仏政策を批判したため、寛文7(1667)年、この地に移ることになったのです。現在も、この二つの寺は、規模こそ小さくなりましたが、岡山電気軌道の電車通り沿いに建っています。

十一ノ橋は、絵図では、西川をはさんで光清寺の裏にあった、同じ番頭、岸織部の下屋敷の北にありました。十一ノ橋があったと思われるところにあった橋には名前が書いてありませんでした。

十一ノ橋から、さらに、50メートルぐらい北西に歩くと、十ノ橋に着きます。この橋には、「七軒橋」と掘ってありました。

このあたりの町の名前、七軒町から付けられました。池田光政が鳥取から移って来る前から、武家屋敷が7軒あったからということでした。絵図には「かわらし弥二右衛門」など、「かわらし」(瓦師)の屋敷が書かれています。城下町づくりのために瓦を納めていたのでしょう。後に郊外に移され、この地の屋敷は武家地に変わっていったそうです。

十ノ橋から少し進んだところ、西川の東側に、「七軒町」の地名由来碑が建っています。それによると、川端に「いけす」があったと書かれています。魚は藩主に供せられ、番人もいたとのことでした。

岡山市の南の方は、平素あまりかかわりがないところなので、初めて訪ねるところもありました。そうだからこそ、興味を持って歩くことができました。


<参考>  
 「絵図で歩く岡山城下町」「岡山市の地名」
 


京都・三条通りを歩く

2010年12月26日 | 日記
江戸時代に「お江戸日本橋七つだち」した、京に向かう旅人は、
東海道53次の宿場を継いで、山科から京都の三条大橋を渡り、
洛中に入っていきます。

先日、江戸時代に東海道の起点、終点となった三条大橋から、
烏丸通りまで、三条通りを歩いてきました。

この日は大変寒い日でしたが、三条大橋のたもとでは
歳末助け合いの募金箱を置いて、浄土宗の僧が一心に読経されていました。
先斗町から鴨川の下流にかけては、
町屋が連なる京都らしい光景が広がっています。
橋を渡りきった橋のたもとには、「東海道中膝栗毛」で知られる、
弥次郎兵衛と喜多八の像が立っていました。

その先は、角倉了以によって開削された高瀬川を、
三条小橋で渡ります。
さらにしばらく歩くと、河原町通りに出ます。
三条通りは、ここからアーケードの中になります。

クリスマスの飾り付けがされた中を多くの人が行き交い、
壮観でした。

アーケードの中で新京極通り、それを抜けてから寺町通りを越えると、
三条通りの、特色ある建築物が見えてきます。

まずは、富田歯科医院の建物。
御幸町通りの南東の角にある伝統的な町屋です。
今は、「うずらギャラリー」として陶器の展示をしていました。

続いて、三条通のランドマーク「家辺徳(やべとく)時計店」のれんが造りの建物。
明治23(1890)年、創業者の家辺徳之助が、
れんがなどの建築資材をドイツから輸入して築造したそうです。
ここも、今は時計店ではなく、雑貨屋さんが入居していました。

柳馬場通りの右に、旧日本生命京都支店(現在は日本生命京都三条ビル)があります。
辰野金吾が設計し、大正3(1914)年に竣工した洋風建築です。
そして、堺町通りの手前右側に、分銅屋足袋店があります。
幕末創業以来足袋ひとすじの専門店。
最近は京友禅の色柄足袋が人気を呼んでいるそうです。

分銅屋の一つ手前にあるのがG氏邸。美しい町屋づくりのお宅です。

そして、京都では有名なコーヒーの老舗、いのだコーヒー。
大きなミルがシンボルです。

このあたりには、通りの標示も凝ったものがつくられています。

道路に埋め込まれた三条通りの表示と、
裏に灯りがつけられている堺町通りの表示です。
観光客にはありがたい心遣いです。

高倉通りを越えると右に京都文化博物館別館。
あざやかな朱いれんがつくりの建物です。
もとは、日本銀行京都支店。明治39(1906)年の建設です。
これも三条通りの代表的な建築物の一つです。

その先、烏丸通りの手前右に、中京郵便局があります。
これも、れんがづくり。
昭和53年に内部は現代風につくり変えられ今も現役です。
建物前で年賀はがきの購入を呼びかけている職員の声が、響いていました。

途中にあった、「食楽わがまま屋」さんの入り口。
門や壁に、たくさんのサンタクロースが張り付いていました。
そして、烏丸通りを入ったところの文椿ビルヂング。
「ビルヂング」のつづりが、建築された大正期をしのばせる、
れんがづくりの建物です。
中にはカフェや雑貨店があるそうです。

烏丸通りの左手前に京都市の道路元標の石碑が建っています。
京都市の道路の基点を示しています。
烏丸通りの向かいの左手にあった、みずほ銀行京都支店。
これも、見事なれんが建築です。
第一銀行京都支店としてつくられました。
みどりの屋根が、銀行らしい落ち着いた雰囲気を与えてくれます。

三条通り沿いに、みずほ銀行に並んで建つ三井ガーデンホテル京都三条、
新しい現代建築ですが、三条通りの雰囲気にマッチしています。
1階の伊右衛門サロンには、たくさんの人がいました。

江戸時代の京都の表通りである三条通りは、
明治になってからも時代の先端を切っていました。

四条河原町などの新しい商業地域が発展したため、
いつの間にか、中心地としての地位を失ってしまいました。

しかし、それが幸いして、新しい現代建築に取って代わられることなく、
伝統的な町屋建築と明治のれんがづくりの建物が、
今日まで、残ってきたのだと思います。

観光客にとっては、ほんとうにうれしい通りになっています。

岡山市の地名由来碑を歩く(2)・・・旧常盤町 二十日堀

2010年12月22日 | 日記
岡山駅の東にある柳川交差点を、清輝橋行きの市内電車に沿って右折し、
南に10分ぐらい歩くと、左側に岡山中央郵便局が見えてきます。
この通りは、岡山藩主池田家の治める岡山城下町の外堀だったところです。

関ヶ原の戦いで、徳川方の勝利に貢献し、
池田家の前に岡山を領有していた小早川秀秋が、
多くの領民を動員して、20日間で掘ったといわれています。
「二十日堀」ともいわれています。

岡山中央郵便局の前に、
「二十日堀」の「地名由来碑」が立っています。
夜景になってしまいましたが・・・。

 

郵便局を左に見ながら、
外堀の西側の歩道をもう少し南に進んで行きます。
「ひめぎん」、愛媛銀行岡山支店の前に、
「常磐町」の地名由来碑が設置されています。



ここは、江戸時代の前半には、「仏師町」といわれていたところです。
小早川秀秋の時代に、蓮昌寺が北隣に移ってきて、
多くの仏師を京都から呼び寄せこの町に住まわせたので、
「仏師町」の名がつけられたといわれています。


仏師町から、常磐町と改名されましたが、
当時、南隣の町が「松の町」と呼ばれており、
「松の常磐」と続いて縁起がいいからと「常磐町」と改名されたといわれています。
ちなみに、「松の町」は「高砂町」と改名されています。

常磐町は町人町で、嘉永7(1854)年には、
戸数75戸、人口171人(男89人、女82人)だったそうです。
この町には、木綿問屋和田屋右介が住んでいました。  
代々右介を襲名する和田屋は、
2~4代の右介が惣年寄をつとめていました。

また、鴨方に向かう庭瀬往来は、
18世紀中頃からは、
外堀にある5つの町口門の一つ常磐町口門を出て、
この常葉町の南の道をとおり、高砂町を南下して、
大雲寺町に出ていったといわれています。

今は、常磐町は田町二丁目となり、
たくさんの店が並んでおり、
にぎやかな商業地や飲食店街としてにぎわっています。


<参考>
 「絵図で歩く岡山城下町」(岡山大学附属図書館編)
 「岡山市の地名」
 http://www.city.okayama.jp/museum/yuraihi/index2.html







ももたろうファンタジー2010

2010年12月13日 | 日記
今では、全国で行われているイベントですが、
岡山駅前でも、年末のイルミネーションが始まりました。

今日は雨でしたが、仕事の帰りに見てきました。
 

昨年も見に行きましたが、
大きなクリスマスツリーは、昨年のものとよく似ていました。
青い、小さい方のツリーは、なかなかきれいな色でした。

しかし、ルミナリエを見た後なので、これだけなの!?という感じも、
正直言ってありました。
考えてみれば、ルミナリエと比較するのは、あまりにも気の毒ですね。
予算も全然違うでしょうし。

ちなみに、次は昨年のイルミネーションです。



参考までに、2007年のも載せておきましょう。
 
ビルの側面のは、デザインが毎年変わっていますが、
ツリーは,
毎年、同じものもように感じます。
全体の構想は、昨年の方がバラエティに富んでいるように思いました。

岡山駅は、今年、西口の整備が行われました。
西口にもあると聞いたので、見てきましたが、
予想どおりシンプルなものでした。
人通りも少ないので、仕方がないのでしょうね。
 
情報では、「屋根を宇宙に見立てた飾り付け」ということでしたが、
確かに、エスカレーター付近の屋根を利用していて、
そのとおりでしたが、さみしい感じがしました。

それでも、東口では、
多くの市民が記念撮影をしていました。
岡山の冬の風物詩になっているといっていいでしょう。

来年はどんなものになるのでしょうか。
期待したいと思います。

ルミナリエに行きました!

2010年12月10日 | 日記
阪神大震災の犠牲者への鎮魂と復興を願う神戸の街に輝くひかり、
16回目を迎えたルミナリエを見に、神戸へいってきました。

少し夕方まで時間があったので、三宮センター街から元町商店街をとおって、
南京町、そしてポートタワーに行くことにしました。
神戸の街は、クリスマスのデコレーションでにぎやかでした。

南京町の四阿(あずまや)もにぎやかに飾られていました。
食事をする人の長い列ができていました。

夜には点灯されて、さらににぎやかでした。

ポートタワーに初めて登りました。
展望台の1階、高さ75メートルのところから地上の道路をのぞいた時は、
足がすくみました。年々、高所恐怖症が進んでいます。

少し、薄暗くなったので、ルミナリエ会場の旧居留地に向かいました。
会場に入る交通規制が示されていましたが、
まだ車道が開放されていませんでしたので、比較的楽に入れました。

午後5時でしたが、三井住友銀行の前には、
点灯を待つたくさんの人が集まっていました。
すぐ目の前に、点灯を待つ設備が白く輝いていました。

近くにいた、ある会社の守衛さんにお聞きしますと、
「少し早く点灯するんじゃない?お客さんがたくさんいるから」とのこと。

そのとおり、5時半頃に点灯しました!!

たくさんの人の流れに乗って進みます。
20分ぐらいかけて東遊園地に着きました。

そこにも光の輪が・・・・。
輪の中にもたくさんの人の波ができていました。
人が多くて、なかなかいい写真が撮れません。残念!残念!


歩いている時も、遊園地でも、聞こえてくるのは
「来年も開催できるように、100円募金にご協力ください」の声。
意外に募金に応じる人は多くなかったような印象でした。

また、「ルミナリエの宝くじ」も売っていて、びっくりしました。

これだけのイベントを開催するにはたくさんの資金が必要です。
メディアでは見ることができなかった、
そのために、がんばる人たちの姿が見えたことが、
出かけていった一番の収穫でした。

12月13日までのルミナリエ、
すごく寒かったけど、行ってよかったなあ、ほんとに。







了頓が岡山城下町を歩いたとき・・・

2010年12月01日 | 日記
江戸時代中期、
岡山城下町を抜けて、岡山市北部の金山寺に詣でた、
了頓という禅僧がいました。

彼が、享保9(1724)年に記した「金山詣」には、
そのころの岡山城下町の様子が、生き生きと描かれています。



了頓は、住んでいた寺を出て、
古京町から山陽道(赤線)を通って、岡山城下に入ります。
地図の右上が古京町です。
そこから、上片上町、下片上町、大黒町を通って小橋町で右折し、
西に向かいます。

上片上町と下片上町は、造り酒屋と伊部焼(備前焼)の店が多く、
「藩主用命の泉屋もあり、多くの名酒がつくられ種類も多い」。
「保名酒、桑酒、忍冬酒、ぶどう酒、菊酒、みかん酒、みぞれ酒」などの薬酒も
つくっていたようです。
伊部焼きの店には、「香炉、花瓶、徳利、茶入、水差、
かめ、油つぎ、すり鉢、かんす、文鎮、死人かめ」などが並んでいたそうです。

小橋町は、鍛冶屋の多いところで、
「弓手(ゆんで=左手)も馬手(めて=右手)も諸拍子、
賃とりて賃とりて朝夜の内より暮るるまで、かね打ちのばす」という、
にぎやかさでした。
また、左手の小橋の下手には、馬問屋がありました。

西に向かって進むと、西中島町に着きます。
ここは、宿屋の町です。
「晩の七つ(午後4時)の下がりより、宿屋、宿屋のにぎやかさ、
水風呂の下、焼きたてて、店も勝手(台所)も高あんど、
内にはなますをあえるやら、椀をふくやら洗うやら、
泊りの客を待ちかねて、これこれと招き込む」。
ここに泊るのは、多くの国から来る、定宿にしていた商人たちでした。

京橋を渡り橋本町に入ります。
「ここは、大坂、堺など、全国津々浦々から廻船商人が来て、
昼夜を分かたず出船、入り船でにぎわ」っていました。

京橋を渡ると、
「高札が立っている。南は船着町、片瀬町、久山町、西は西大寺町、
新町(紙屋町の一部)と続く、新町は城の大手(正面)」です。


西大寺町は、はだか祭りで知られる上道郡西大寺村から、
集まってきた商人が住んだ町でした。
入り口には、岡山市が設置した「地名由来碑」が立っています。

西大寺町の中心で、山陽道は右折します。

「岡山名所図絵」にも、そこが描かれています。
図の右上から中央に来て、そこで右折して左上に向かって進みました。

紙屋町を経て栄町に入ります。
ここは、「町の真ん中」で、鐘撞堂や札場、町会所がありました。

栄町の東は、内堀をはさんで、二の丸櫓と向かい合っていました。
絵図の左側が鐘撞堂です。

了頓は、
鐘は「諸行無常」に響き、藩の銀札は「札場で両替」し、
町会所で寄合を行った、寄合人は、
「御町奉行、町横目、同心、足軽、小間使い、総年寄の四人衆、
頭名主、総名主、町の総代、船肝煎、年寄、町代、
月行事、毎月6才(6回)、式日にこの会会合す」ると書いています。
(実際には、「足軽、小間使い」は参加していない、町会所の従業員として、
ついでに書いたものと考えられている)

この後、了噸はさらに下之町、中之町、上之町と進み、
城下北端の広瀬町から金山へ向かって進んでいきました。


了頓は、備前国上道郡国富村にあった少林寺の僧でした。
石見の国で生まれた武士でしたが、
「思うところがあって、妻子や一族を捨てて諸国の寺院を巡礼し、
少林寺に住むことになった」そうです。

「金山詣」は、托鉢で世をしのいでいた軽志という近くの僧に案内してもらって、
金山寺に詣でた時に書いた紀行文でした。