トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

JR岩山駅に行ってきました!

2022年03月26日 | 日記
JR姫新線の岩山駅です。昭和4(1929)年に設置された木造駅舎は、今年で駅舎の業務も93年目を迎えていますが、今も現役で頑張っています。この日は、岡山県の西北部にある岩山駅を訪ねるため、JR岡山駅からJR津山線の列車に乗車してJR津山駅に向かいました。

岡山駅から岩山駅に行くには、二つのルートがあります。一つは、岡山駅から、JR伯備線の列車でJR新見駅まで行き、姫新線に乗り継いで岩山駅に向かうルート、もう一つは、岡山駅から津山線の列車で津山駅に向かい、そこから姫新線の新見駅行きの列車で、岩山駅に向かうルートです。 岩山駅に到着するのは、伯備線経由(営業キロで88.6km)では13時01分、津山駅経由(営業キロで122.2km)では11時40分でしたので、津山線経由で岩山駅に向かうことにしました。 写真は、新見駅行きの姫新線の列車が出発する津山駅の3番ホームです。
姫新線は、兵庫県のJR姫路駅から、JR佐用駅、岡山県の津山駅を経由して新見駅に向かう全長158.1kmの全線、単線・非電化の路線です、実際の運用は姫路駅・佐用(上月)駅間、佐用(上月)駅・津山駅間、津山駅・新見駅間で行われています。津山駅・新見駅間は、ワンマン運転のキハ120系単行気動車が往復しています。この日はキハ120335号車が、3番ホームで出発を待っていました。 津山駅から新見駅に向かう列車は一日6本、その間に、途中駅の中国勝山駅行きの区間運転の列車が一日6本運行されています。
乗車した10時07分発の新見駅行き気動車は、私を含めて19人の乗客を乗せて、定時に出発しました。
津山駅から約40分ぐらいで久世駅に着きました。対向車のキハ120334号車との行き違いで、4分間停車しました。列車の本数が多くないせいか、行き違いがあったのは久世駅だけでした。
津山駅から1時間30分余りで、新見駅の一つ手前の岩山駅に到着しました。 岡山駅で8時22分発の津山駅行きの列車に乗車してから、3時間20分ぐらいかけて、めざす岩山駅までやってきました。 私以外に、お二人の方が下車されました。 
駅舎内に掲示されていた、「岩山駅の1日平均の乗降人員」の推移を示す資料には、「昭和29(1954)年 481人(新見市史より)、昭和62(1987)年 98人(以下、JR資料より)、平成10(1998)年 76人、平成22(2010)年 10人」と書かれていました。 そして、令和元(2019)年に、岩山駅から乗車された方は、1日平均7人だったそうです。  
列車は、終着駅の新見駅に向かって出発して行きました。
下車したホームから見た津山駅方面の光景です。歴史を感じさせる木造駅舎と今は使用されなくなった向かいのホームが見えます。かつては、2面2線の対面式ホームでしたが、向かいのホーム側の線路はすでに撤去され、1面1線の棒状駅になっています。  
かつては、貨物輸送も盛んで、駅舎内に掲示されていた「山陽新聞」の夕刊(2020年5月17日付け)のコピーには、「昭和29年度、発送貨物 21トン、到着貨物 2トン、総計23トンの貨物が発着していた(新見市史より)」と書かれていました。貨物の取扱いは、60年近く前、昭和38(1963)年に廃止されています。

ホームにあった駅名標です。岩山駅は丹治部駅から4.8km、新見駅まで8.3kmのところ、新見市上熊谷にあります。
姫新線は、大正12(1923)年8月21日、津山駅~美作追分駅間が、作備線として開業したことに始まります。 その後、作備線は西に向かって延伸し、大正14(1925)年3月には中国勝山駅まで開業しました。岩山駅が開業したのは、昭和4(1929)年、新見駅側から岩山駅までが、作備西線として開業した時(開業当時、この地は阿哲郡熊谷村上熊谷)でした。このとき、津山側から延伸してきた作備線は「作備東線」と改称されています。

駅舎に向かって歩きます。地元の方々がお世話をされている花壇の左側の建物は、トイレです。 清潔で使用しやすいトイレに改修されていました。
新見駅・岩山駅間の作備西線と、中国勝山駅から西に延伸していた作備東線がつながったのは、昭和5(1930)年12月のことでした。そして、このとき、作備東線が作備西線を編入し、作備線と改称しました。 現在の姫新線に改称されたのは、昭和11(1936)年でしたが、津山駅・新見駅間は、姫新線の中で最も早く開業した区間でした。 

トイレ付近から見た向かいのホームとその先の光景です。点在する民家の先に山並みが広がっています。

駅舎まで来ました。切妻屋根は改修されており、また、その下の広い窓は、アルミサッシに替わっていましたが、下見板張りの壁面や、庇の下の造り付けのベンチは、かつての姿を今に伝えています。
 
ベンチに続く場所には、懐かしい改札口が残っています。駅員の方が立つことはありませんが、かつての駅のようすを思い出すことができます。
かつての駅事務所のホーム側です。岩山駅は、近くにある岩山神社への参拝客でにぎわっていましたが、モータリゼーションの発達とともにマイカーでの参拝が普及し、乗降客が減少して行きました。そして、昭和47(1972)年には、無人駅となりました。  無人駅となった岩山駅舎は、昭和50(1975)年に、旧国鉄から新見市に駅舎の無償譲渡が行われ、昭和56(1981)年、新見市は、譲渡された岩山駅の管理を、地元の三集落40戸の人たちから成る”姫新線岩山駅舎管理委員会”に管理委託されたそうです。管理委員会の会長さんは、「将来は国の登録有形文化財の指定をめざしたいと考えておられる(山陽新聞夕刊のコピーより)」そうです。

津山駅側のホームから見た駅舎の姿です。かつて、駅事務所への入り口に、「岩山集会所」と書かれた看板が架かっていました。地元の方々の集会所として使用されているようです。
津山駅側のようすです。多くの人々に利用されていた賑やかな時代がしのばれる、長いホームが残っています。
使用されなくなった向こう側のホームは、桜並木になっています。そこに、ひときわ目立つ桜の木がありました。その脇にあった説明板には、「うこん桜(鬱金桜) 昭和5(1930)年 岩山駅開業の翌年に植樹」と書かれています。 開業時から90年を超える歳月、岩山駅を見守り続けて来た、”生き証人”ともいえる”うこん桜”です。
改札口から駅舎に入りました。作り付けのベンチがあるだけの簡素なつくりの待合いスペースは、広い窓から太陽の光がふり注ぐ明るい空間になっています。
かつて、駅事務所があったところは壁でふさがれ、掲示物のスペースになっています。時刻表・運賃表とともに、姫新線岩山駅舎管理委員会・上熊谷地域振興会・熊谷公民館の関係者の方々が作られた岩山駅に関する説明や、先ほどから引用してきた、岩山駅の記事が掲載された山陽新聞の夕刊(2010年5月17日付)のコピーが掲示されていました。 
待合スペースへの出入り口のドアです。上部に付けられた鉄棒にドアをつり下げた形になっており、左右に動いてドアの開け閉めができるようになっていました。駅前で写真を撮っていたとき、声をかけてくださった地元の駅舎管理委員会の女性の方から、「このドアは珍しいでしょう!」と教えていただいて気がつきました。
駅舎内にあったのは、透明ケースの「駅文庫」と傘1本だけでした。「駅文庫」には、「ご自由にお読みください」「読み終わったら、またケースに収めてください」と書かれていました。「本好きの方が、ご自身の蔵書を提供してくださったのです」と、先ほどの女性はおっしゃっていました。

駅舎の外に出ました。駅舎正面にある、旧字体を使用した「岩山駅」の駅名標も、下見板張りの壁面、駅事務所の木製の窓枠も、かつての雰囲気を伝えています。

駅舎管理委員会の方々は、管理委託を受託されてから、月に一度、岩山駅の清掃を続けて来られたそうです。駅舎前に、美しく手入れされた庭園とプランターがありました。 このとき、姿が見えなくなっていた管理委員会の女性が戻って来られ、「みんなで作ったのが残っていたので、持って来ました。辛いけどお飲みください」と、さくらの花びらを漬けた ”さくら茶”をいただきました。 わざわざご自宅に戻って 、持って来てくださったようでした。

駅舎前から見た駅前の光景です。正面のお宅の裏側にも山並みが続いています。「岩山駅は、岩山神社から名付けられた(山陽新聞のコピー)」といわれ、かつては、岩山駅から岩山神社に向かう多くの参詣者で賑わっていたといわれています。 その岩山神社にお参りすることにして、駅前の通りを左に進みます。 
                    
5分ぐらいで、姫新線の岩山踏切を渡ります。踏切を渡って右側に進みます。

さらに進むと、通りの左側を流れる川の向こう岸に、新見市立塩城(しおぎ)小学校の3階建ての校舎と体育館が見えました。

二つ目の踏切を渡ります。姫新線の角内(つのうち)踏切です。その先で、通りは、姫新線の北側を走る岡山県道32号(主要地方道新見・勝山線)に合流します。

主要地方道32号を進むと、通りの右側に「岩山神社裏参道入口」「角内」と書かれた案内標識が見えました。そこで、県道から分かれて、右の参道を進んで行きます。

参道の坂道を上って進みます。上り詰めた所から、岩山神社の拝殿とそこに向かう石段が見えました。
岩山神社は、鎌倉時代の正和2(1313)年、鎌倉幕府第12代執権の北条煕時(たかとき)の時代に、駿河国からご神体を、上熊谷の原地(はらち)に勧請したことに始まるといわれます。そして、32年後の貞和元(1345)年に、現在の地、上熊谷寺元(てらもと)に奉還されました。新見市内で最古の神殿(応永33=1426年建立)といわれています。

岩山神社の本殿です。
境内にあった「説明」によれば、岩山神社には、主神の石凝姥命(イシコリドメ・三種の神器の一つ ヤタノカガミをつくったといわれる)など五神が祀られているそうです。男女を問わず、腰から下の病気に霊験あらたかで、夜尿症の子どもが、2度の参詣で完治したといわれているようです。 子どもを持つ、多くの親御さんの信仰を集めている神社だそうです。

岩山神社から見た、塩城小学校とJR岩山駅方面のようすです。写真の左下の民家の屋根の上側に、姫新線を渡る角内踏切が見えます。写真の右下の部分には、岡山県道32号と姫新線が平行して走っています。この後も、ほぼ並行して新見市街地に向かって進んで行くことになります。
姫新線岩山駅舎管理委員会の女性の方からいただいた”さくら茶”です。自宅でおいしく飲ませていただきました。ありがとうございました。

この日は、JR岩山駅と、その駅名の由来となった岩山神社を訪ねてきました。 岩山駅は、新見市から駅舎の管理を委託された ”姫新線岩山駅舎管理委員会” の人たちによって管理されています。 駅舎の清掃だけでなく、駅に関わる多くの情報も掲示してくださっていて、大変参考になりました。 
岩山駅を愛する人たちのお気持ちに触れる旅になりました。












JR上月駅と上月城跡

2022年01月10日 | 日記

JR姫新線の上月駅です。駅舎と佐用町特産物直売所が同じ建物に同居しています。 姫新線は、兵庫県姫路駅から北に向かい、県境を越えて、岡山県の北東部にある津山駅を経由して、岡山県北西部の新見駅を結ぶ、全長158.1kmの路線です。 上月駅は、兵庫県と岡山県の県境の兵庫県側に設けられている ”県境の駅” で、兵庫県佐用郡佐用町上月にあります。

この日は、上月駅を訪ねるため、津山駅に向かいました。
津山駅の2番ホームで出発を待っていた、佐用駅行きの姫新線の単行気動車(キハ120343)に乗車しました。 
姫新線の列車は、姫路駅・佐用駅間(一部、姫路駅・上月駅間の列車も)、佐用駅・津山駅間(一部、上月駅・津山駅間の列車も)、津山駅・新見駅間で、普通列車による区間運転が行われています。 

津山駅から東に向かって走るキハ120系の単行気動車は、最初の停車駅、東津山駅の先で、JR因美線と分岐して進むことになります。ここが、その分岐点付近で、姫新線の列車は、この先で右方向に進んで行きます。因美線の列車はまっすぐ進み、その先で左にカーブして、次の高野駅に向かって進んで行きます。

兵庫県との県境にある万能トンネルを抜けて、津山駅から50分ぐらいで、2面2線のホームをもつ上月駅に到着しました。列車は次の終点佐用駅に向かって出発して行きました。

到着した2番ホームの津山駅側の端に来ました。カーブミラーと遮断機のついた構内踏切の先に、”ホタルドーム上月体育館”が見えます。

構内踏切を渡り、向こう側の1番ホームに向かいます。
1番ホームの端に、「蛍の里、上月へようこそ」と書かれた木製の碑がありました。上月の町は、蛍の町のようです。

1番ホームを佐用駅方面に歩きます。1番ホームから見た2番ホームです。待合いスペースの上屋と、駅舎のある建物が見えます。
 姫新線は、大正12(1923)年に、津山駅から西に向かって建設され、美作追分駅までの区間が、作備線として開業したことに始まります。津山駅から東に向かっては、昭和3(1928)年に、東津山駅までが因美南線として開業したことに始まり、昭和9(1934)年11月に、美作江見駅までの区間が開業しています。

美作江見駅から佐用駅までの区間が開業したのは、昭和11(1936)年4月のことでした。このとき、美作土居駅とともに、上月駅が開業しています。上月駅を通る列車は、上り(佐用駅行き)下り(津山駅行き)ともに、ほとんどが駅舎側の2番ホームから出発して行きます。そんな事情もあるのでしょう、1番ホームは、駅名標が設置されているだけのシンプルなつくりになっています。

上月駅は、岡山県側の美作土居駅から6.7km、次の佐用駅へ5.0kmのところに設置されています。
1番ホームから見た改札口付近です。上月駅は、荷物の取り扱いが廃止になった昭和46(1971)年から無人駅になっています。なお、この駅から乗車された方は、 2019年には一日平均、37人だったそうです。
一番ホームの佐用駅側の端から見た駅の全景です。切り妻屋根と白壁がきれいです。 

下車した2番ホームに引き返し、佐用駅側にある駅舎への入り口まで来ました。透明な大きな窓の向こう側は待合室になっています。左側の通路から駅舎に入ります。
この日は、直売所が休業していましたので、人の動きもほとんどない静かな駅になっていました。

改札口に時刻表と運賃表が掲示されていました。
待合室に入りました。テーブルと長いすが置いてありました。この日は休業でしたが、特産物直売所では食事も売られておりここで食べることもできるそうです。テーブルが置かれていることで、くつろいだ雰囲気を感じることができます。 テーブルの上には「駅ノート」も置かれていました。
駅舎から駅前広場に出ました。併設されている特産物直売所です。

駅舎のある建物には「平成7年度 山村振興事業等農林漁業特別対策事業 上月町地域特産物直売所 総合交流事業促進施設」の掲示がありました。山村振興のために建てられた施設のようです。  駅舎部分もこの事業との関連で整備され、平成8(1996)年に、現在の姿に改築されています。

駅舎から出ました。駅舎の前を流れる大日山(おおびやま)川に架かる蛍橋です。「蛍の里、上月」にまつわる名前がつけられていました。正面に「佐用町役場上月支所」の庁舎が見えます。   上月は、かつては佐用郡上月町でしたが、平成17(2005)年10月1日に佐用郡の佐用町、南光町、三日月町と合併し、新しく佐用郡佐用町が誕生しました。それに伴い上月町役場の庁舎だった建物が上月支所になったようです。 

 蛍橋から見た大日山川です。 ホームから見えた上月体育館が右側に見えます。                                                                                               
駅の周りの広場の線路側にあった掲示板の一部を拡大したものです。上月歴史資料館と上月城跡が書かれています。上月城は、戦国時代、毛利元就に滅ぼされた尼子家の再興をめざしていた山中鹿介(鹿之介)が、尼子勝久を擁立して、毛利元就の子、吉川正春と小早川隆景と戦った ”上月城の戦い” で知られています。上月駅から比較的近くにあるようなので、訪ねてみることにしました。

掲示板のある駅前広場から、タクシー会社のビルの前の通りを姫新線の線路に沿って佐用駅方面に向かって歩きます。 

その先、姫新線の上月踏切で右折して、上郡町から赤穂市に向かう国道373号に合流し、南に向かって歩きます。

戦国時代、中国地方では毛利氏と尼子氏が勢力を競っていましたが、永禄9(1566)年に、毛利元就(もとなり)の侵攻を受けた尼子義久は敗北し、尼子家は滅亡しました。 

上月親子地蔵尊のお堂を左側に見ながら進みます。
尼子家の家臣だった山中鹿介(しかのすけ)は、呼びかけに応じた旧家臣たちと共に、一族の尼子勝久を擁立し、織田信長を頼って尼子家の再興をめざしていました。 天正5(1577)年、織田信長が羽柴秀吉に上月城の攻撃を命じ、秀吉は尼子勝久軍とともに、1万5千人の軍勢で上月城を包囲しました。上月城は赤松政範軍7千人と、救援に駆けつけた宇喜多直家軍3千人が守っていましたが、12月に落城し、赤松政範は自害しました。その後、秀吉の命により、尼子勝久、山中鹿介が上月城を守ることになり、上月城は尼子氏の拠点となりました。

通りの右側にあった「上月城跡」と書かれた標識にしたがって、右折して進みます。 上月城に入った尼子勝久は、一時、宇喜多直家に攻撃され撤退しましたが、後に、秀吉軍によって上月城は落城させられました。そして、上月城には、再び、尼子勝久・山中鹿介が入城することになりました。
天正6(1578)年4月、毛利軍の吉川元春・小早川隆景が3万人の軍勢を率いて上月城を包囲します。秀吉は1万人の援軍を上月城に送り応戦しましたが、膠着状態となりました。秀吉は信長に援軍を要請しましたが、信長から三木城を包囲するよう命じられ、三木城へ向かったそうです。三木城主の別所長治が毛利側に寝返ったためでした。こうして、援軍を得られないまま、7月、上月城は毛利軍の総攻撃を受け落城しました。尼子勝久は城内の家臣たちを助けることを条件に、城を明け渡し自害したといわれています。このとき、山中鹿介は人質となり、毛利輝元が居城していた備中松山城へ連行される途中、備中国の合(阿井)の渡し(岡山県高梁市)で、毛利家の家臣に謀殺されたと伝えられています。

通りの左側の民家の左奥に「上月城跡」のある山(荒神山)が見えました。この山の麓にあった「説明」には、次のように書かれていました。
「上月城は、鎌倉時代の末期(1300年代)に、上月次郎景盛(宇野播磨守入道・山田則景の子)が、太平山(樫山)に初めて築いた城と伝えられている。上月氏は、景盛の後、盛忠・義景・景満と続くが、そのいずれかのとき、本城を、谷を隔てた南の荒神山に移したと思われる。これが、現在の上月城跡で、中世の山城の様態をよく表している」。

上月城跡や上月歴史資料館に向かう通りの正面にあったお宅です。山の麓にあった「説明」には、「旧大庄屋」と書かれていました。大庄屋らしい風格のあるお宅でした。ここで左にカーブして進みます。

その先、通りの右側にあった上月歴史資料館です。戦国時代、織田軍と毛利軍の激戦地となった上月の歴史資料と、古くからこの地で作られていた和紙の「皆田紙」の製作工程や紙漉き道具が展示されているそうです。
残念ながら、この日は閉館日でした。
通りの左側、上月城への登山口の手前にあった「説明板」です。毛利氏と羽柴秀吉をめぐる動きなどの詳しい説明がなされていました。

真ん中の掲示板の案内図です。
「説明板」の先に上月城跡への登山口がありました。左側に「城跡へ380m」の標識が立っています。 右側の道は、織田信長軍と毛利軍の戦いにかかわった戦没者への慰霊碑や追悼碑に向かう道です。

地元の方がお祀りした慰霊碑や追悼碑です。中央の碑には「尼子勝久公400年遠忌追悼碑」、右の碑には「山中鹿之介追頌之碑」、左の碑には「上月城戦没者合同慰霊碑」と書かれていました。

JR姫新線の ”県境の駅” 上月駅を訪ねてきました。
特産物直売所と同居するユニークな駅の姿と、上月城にまつわる歴史に触れる旅になりました。 






JR西麻植駅と江川の湧水

2022年01月05日 | 日記
JR徳島線の西麻植(にしおえ)駅です。徳島県吉野川市鴨島町西麻植にあります。この日は、まだ下車したことのない西麻植駅を訪ねるため、徳島線の東側の起点駅、JR佐古(さこ)駅に向かいました。

徳島線は、徳島県内を東西に走る全長67.5kmの鉄道路線で、佐古駅でJR高徳線と、西の起点である佃(つくだ)駅でJR土讃線とつながっています。
実際の徳島線の運行は、佐古駅の一つ先の徳島駅と、佃駅の一つ先の阿波池田駅が起点になっています。また、阿波池田行きの列車のほか、途中駅の穴吹駅行きや阿波川島駅行きの区間運転の列車も運行されています。
佐古駅の1番ホームに徳島線の列車が到着しました。始発駅のJR徳島駅からやってきた、JR穴吹駅行きの区間運転の列車です。1500形の車両と1200形の車両の2両編成でした。
佐古駅のホームの端からの西麻植駅側の光景です。左側が徳島線の阿波池田方面に向かう線路、右側が高徳線の高松方面に向かう線路です。佐古駅では、徳島線の列車は上り(徳島駅行き)、下り(阿波池田方面行き)ともに、左側の1番ホームを使用しています。 佐古駅を出た徳島線の列車は、写真の左側の線路を通り、”四国三郎”の名のある一級河川”吉野川”の南側を、終点の阿波池田駅方面に向かって進んで行きます。
佐古駅から30分程度で、1面1線の西麻植駅のホームに到着しました。駅舎が左前方に見えました。 徳島線は、明治32(1899)年2月16日に、徳島鉄道によって、徳島駅~鴨島駅間が開業したことに始まります。西麻植駅が開業したのは、その年の10月5日のことでした。その後も延伸を続け、大正3(1914)年には、川田駅から阿波池田駅間までが開業し、現在の徳島線の区間の全線が開業しました。しかし、このとき、現在の西の起点である佃駅は、まだ誕生していませんでした。
列車は、すぐに次のJR阿波川島駅に向かって出発して行きました。2両目の1200形車両の運転席部分が見えます。
さて、佃駅ですが、昭和4(1929)年、佃信号場として、現在の地に開設されました。駅に昇格したのは、昭和25(1950)年。 土讃線の列車だけが停車する土讃線の駅としての開業でした。現在のように徳島線の列車も停車するようになったのは、昭和37(1962)年のことでした。当時は徳島本線と呼ばれていましたが、このとき、徳島本線の終点が佃駅に変更されました。
  
この間、徳島鉄道として誕生した徳島線は、明治40(1907)年に国有化され、大正2(1912)年には「徳島本線」と改称されました。 そして、国鉄分割民営化後の昭和63(1988)年に「徳島線」と改称され、平成12(2000)年からは「よしの川ブルーライン」の愛称が使われるようになりました。 西麻植駅までの徳島線は、開業からすでに120年以上が経過しています。

ホームから見た佐古駅方面です。静かな田園地帯でひときわ目立つ白い建物は、吉野川医療センターです。

列車が出発した後のホームのようすです。ホームとの境界の柵には、枕木が使用されています。JR四国の駅ではよく見かける光景です。

駅舎の手前、枕木の柵の前に立つ駅名標です。西麻植駅は佐古駅側の一つ前の鴨島駅から1.9km、次の阿波川島駅まで1.9kmのところにあり、鴨島駅と阿波川島駅の中間地点に設けられているようです。
駅舎前に来ました。駅舎から延びたホームの上屋が印象的です。
ホームの上屋の柱にはレール材が使用されていました。
駅舎前からさらに阿波池田駅方面に向かいます。ホームの先に、西麻植第2踏切がありました。徳島駅から 、「20k917m」のところにあります。
西麻植第2踏切から引き返します。駅舎との間に公園風に整備された広場がありました。「人間として生きるには、人を人として大切に」と書かれた、西麻植地区人権教育推進協議会の方がつくられた看板が設置されています。
駅舎まで引き返して来ました。無人駅の駅舎内に入ります。西麻植駅は、荷物の取り扱いが廃止された、昭和47(1972)年から無人駅になっています

ホーム側からの入り口から見た右側の駅事務所前のようすです。設置されているベンチには「徳島すぎ 徳島県木材協同組合連合会」の刻印がありました。
左側です。大きな窓の下に、ベンチが並んでいました。
ホーム側です。出入口の脇に時刻表がありました。
駅舎から出ました。出入口の上に駅名標が、入り口の右側に自動販売機が設置されています。
駅舎に向かって左側、公園風の広場に接して鳥料理のお店がありました。この日は休業されていたようでした。 駅前におられた地元の方に西麻植の見どころをお尋ねしますと、「『江川の湧水』に行ったら・・。案内板があるから迷わずに行けるよ」とのこと。 そして、お尋ねしたすべての方が、「吉野川医療センターの所には、以前、遊園地があったんだよ」と付け加えてくださいました。
「江川の湧水」を訪ねることにしました。地元の方に教えていただいたように、駅舎の前の道路を左に進み、右折して進みます。写真は右折したところから駅舎を撮影したものです。この道を後ろ方向に進みます。
右折して進むと住宅地に入ります。すぐ左側に、「700m   名水百選 冬温かく夏冷たい水が湧いている 江川湧水源」と書かれた案内板がありました。江川の湧水は、夏は摂氏10度の冷たい水が湧き、冬は摂氏20度の温かい水が湧く、水温の異常現象で知られています。昭和29(1954)年に、徳島県の天然記念物に指定されていましたが、それに加えて、昭和60(1985)年には、当時の環境庁(現・環境省)から「全国名水百選」に選定されています。
案内板の脇を左折して進みます。
やがて、左側の線路との間にある枕木の柵の向こう側に、吉野川医療センターの建物が見えるようになりました。地元の方がおっしゃっていた「吉野川遊園地」は吉野川医療センターの場所にありました。戦前は「江川遊園地」と呼ばれ、江川湧水からの水を取り込んだ美しい景観を楽しむ施設だったそうです。

その先の江川第3踏切を吉野川医療センターに向かって渡ります。渡りきったところに、「300m 江川湧水源」の案内がありました。そこを、左に向かって進みます。 太平洋戦争中に荒廃した「江川遊園地」は、戦後の昭和23(1948)年に復興しました。その後、昭和44(1969)年の四国博覧会のときに、「吉野川遊園地」となりました。四国最大の観覧車(ピッグドリーム)やジェットコースター、ゴーカート、おとぎ列車、メリーゴーラウンドなどの施設・設備や、「ちびっこ急流滑り」やフィッシングパーク(釣り堀)も整備されていたということです。
多くの人を楽しませていた吉野川遊園地でしたが、平成23(2011)年8月31日に、閉園となってしまいました。
吉野川医療センターの前で、左折して進みます。その先で、変形の交差点(四叉路)がありました。正面に「100m 江川湧水源」の案内がありました。めざす「江川の湧水」はもうすぐです。右折して進みます。
その先に、吉野川の堤防が見えました。右側のフェンスの先を、右に向かいます。

「全国名水百選」に選定されている江川湧水源の「説明」です。 江川湧水はどんな経緯で生まれたのか。 「説明」によれば、
(1)大正5(1916)年から大正7(1918)年にかけて、吉野川の分流だった江川の上流に堤防が造られ、江川は吉野川の本流と切り離されることになり、結果として吉野川の右岸の湧水になったという説
(2)水温の異常現象は、昭和30(1955)年の地下水の調査によって、江川の水は隣の川島町の城山付近で、吉野川と分離して地下水となり、夏、温かく、冬、冷たい水が、地下の砂利層を暖めたり冷やしたりしながら、半年かかって江川の湧水源付近に到達することによるものとする説
二つの説が紹介されていました。 しかし、「説明」の最後には、「いまでも定説はありません」と結んでありました。

鳥居状の構造物の下をくぐってから、左側に進みます。
少し高い所から見えた「江川の湧水」です。

江川湧水源からの湧き水は、江川となって、吉野川医療センターの前を東に向かって流れます。

その後、江川は、吉野川市(旧鴨島町)の鴨島公園や名西郡石井町を過ぎた辺りで、吉野川に合流することになります。

JR徳島線の西麻植駅と周辺の見どころを訪ねてきました。
かつては、吉野川遊園地で多くの人々に親しまれ、現在は、夏冷たく、冬温かい不思議な水が湧くことで「全国名水百選」に選定された「江川の湧き水」でも知られる魅力的な町でした。


SL三重連の起点駅だったJR足立駅

2021年12月27日 | 日記

JR伯備線の足立(あしだち)駅の白い駅舎です。岡山県新見市油野にあります。かつては、この駅の近くにある石灰石の鉱山から、製鉄用石灰石の輸送のために姫路市の製鉄所に向かう専用列車の起点駅でした。ここから出発した三重連のSLが牽引する石灰専用列車は、伯備線の布原信号場(昭和62年国鉄分割民営化のとき駅に昇格しました)周辺などの撮影ポイントで、多くのSLファンを集めていました。  
この日は、現在のJR足立駅を訪ねるため、新見駅からJR伯備線の米子駅行き普通列車(キハ120系単行気動車)に乗車しました。伯備線は、昭和57(1982)年に倉敷駅・伯耆大山駅間の全線で電化されていますが、新見駅からは、電車とともに気動車の運用も行われています。
新見駅から15分ぐらいで、1面2線のホームをもつJR足立駅に到着しました。 JR伯備線は、山陽本線の倉敷駅とJR山陰本線の伯耆大山駅を結ぶ、陰陽連絡路線一つで、大正8(1919)年に、伯備北線として、伯耆大山駅・伯耆溝口駅間が開業したことに始まります。山陽側からは大正14(1925)年に、伯備南線として倉敷駅・宍粟駅(現・豪渓駅)までが開通しました。全通したのは、昭和3(1928)年、備中川面駅・足立駅間が開通したときでした。
1面2線のホームの足立駅の跨線橋の手前に停車していた列車は、次の新郷(にいざと)駅に向かって出発して行きました。足立駅は、大正15(1926)年、伯備北線が上石見駅から足立駅まで延伸したときに開業しています。
石灰石の輸送が始まったのは、太平洋戦争中の昭和17(1942年)。姫路市の日本製鉄広畑製鉄所(当時)で使用する石灰石を供給するため、この地の足立石灰工業株式会社が整備していた専用側線や生産設備、積み込み設備等が完成した時でした。 当時は太平洋戦争中であり、鉄鋼は軍需物資の製造のための必需品でした。

戦後は、民間の需要の高まりによる鉄鋼の増産のため、足立駅から姫路駅、富士製鉄(日本製鉄から改称)広畑製鉄所の間で、製鉄用の石灰石を輸送する専用列車によるピストン輸送が始まりました。その輸送を担ったのがSLの三重連でした。  写真は足立駅のホームの新見駅側です。足立駅は海抜353m、周囲を山に囲まれた中国山地の真っただ中に設置されています。

線路と平行して流れる西川です。駅舎のある西川の手前側が新見市油野地区、対岸は新見市足立地区になっているそうです。

新見駅側のホームから見た駅舎側です。正面に見える跨線橋の手前にある白い建物はホームの待合室。目の前の、ホーム中央部に駅名表があります。足立駅は備中神代(びっちゅうこうじろ)駅から6.2km、次の新郷(にいざと)駅まで5.8kmのところにあります。

ホームの待合室に来ました。ベンチと時刻表等の掲示物があるだけのシンプルな待合室です。このときは、列車を待っておられる方はいらっしゃいませんでした。
時刻表です。特急列車の通過駅である足立駅には、下りの米子方面行き、上りの新見・岡山方面行き、それぞれ9本(平日)の普通列車が停車しています。

跨線橋を越えて、次の新郷駅方面の端に来ました。2本の線路はホームの先で合流し、新郷駅に向かっています。伯備線は、倉敷駅・備中高梁間と井倉駅・石蟹駅間の複線区間を除いて、単線区間になっています。 右側のサイロのような建物は、足立石灰工業株式会社の敷地内に建てられています。

跨線橋の脇を、出雲市駅に向かう特急”やくも”が通過して行きました。JR岡山駅と、伯備線、山陰本線を経由して、島根県の出雲市駅とを結んでいます。
ホームの新郷駅側から引き返し、跨線橋を渡って駅舎に向かいます。
跨線橋を駅舎側に向かって進み、階段を下ります。右側にトイレ、その先に駅舎があります。
階段を下ると、大波スレート葺きの屋根をもつ2坪ほどの広さの駅舎があります。現在の駅舎は、昭和55(1980)年5月に建設されたといわれています。こちらの待合スペースにも、どなたもおられませんでした。ちなみに、足立駅の1日平均乗車人員は8人(2019年)だそうです。壁の掲示には「オートバイ、自転車の乗り入れを禁止する」と書かれています。
駅舎から出ました。自転車置き場、駅舎、トイレ跨線橋が並んでいます。

駅舎から、米子方面に向かって歩きます。かつて、足立石灰工業株式会社の鉱山から石灰石が運ばれた引き込み線があった所に行くつもりでした。左側の線路に接した建物には、「鉄詰 通信区 職場1号 昭和45年8月」と書かれた「鉄道資産標」が貼られていました。

「建物資産標」のあった建物の脇の柱から「立入禁止」を示すようにロープが掛けられていました。残念ながら、専用列車が走っていた引き込み線の跡に行くことはあきらめ、引き返すことにしました。

駅舎の脇の道を新見方面に向かいます。このとき、岡山駅行きの特急”やくも”が通過していきました。”やくも”の手前に架かっている橋に向かいます。

西川の対岸の足立地区と足立駅を結ぶ橋を通って、対岸を走る県道8号(主要地方道新見日南線)に入ります。
橋を渡って左折して、県道8号を西川の上流に向かって進みます。対岸から、白を基調にした足立駅の駅舎が見えました。

県道8号を進みます。「油野 三室 東城 県道12号」と書かれた道路標識のあるところで左折します。県道12号は、主要地方道足立東城線です。
西川と油野川との合流点です。正面には伯備線の油野川橋梁が見えます。西川に架かる落合橋を進みます。
足立駅から足立石灰工業株式会社への引き込み線は、油野川橋梁の手前側に架けられていたといわれています。 ここから油野川の上流に向かって9kmぐらいのところにある三室(みむろ)峡は、春(4月下旬から5月上旬)にはシャクナゲの、秋(10月下旬から11月中旬)には紅葉の名所として知られています。

油野川橋梁の足立石灰工業株式会社側です。かつては、この上に引き込み線の橋梁があり、専用列車が往復していたといわれています。橋台の跡が見えます。
こちらは、足立駅側の橋梁跡です。SLの3重連も渡っていたそうです。草に覆われていますが、橋台が残っているそうです。
引き返して、県道8号に戻ります。
県道8号はその先で登り坂になります。道路の両側に、足立石灰工業株式会社の建物が広がっています。
道路の左側に、サイロのような建物がありました。このあたりに、石灰専用列車に石灰石の積み込みを行うための設備が設置されており、積み込み作業が行われていたそうです。

富士製鉄広畑製鉄所は、昭和45(1970)年に新日本製鐵広畑製鉄所と改称され、昭和61(1986)年には、足立石灰工業株式会社からの石灰石の搬入に使用されていた専用鉄道も廃止されることになりました。 その後、住友金属工業との合併を経て、現在は、日本製鉄瀬戸内製鉄所広畑地区となっています。

JR足立駅を訪ねて来ました。 引き込み線や側線など、かつての面影を伝えるものはほとんど残っていませんでしたが、SL三重連が走っていた時代を思い出す旅になりました。




井原鉄道が分岐する駅、JR清音駅

2021年07月28日 | 日記

JR伯備線の清音駅です。岡山県総社市清音上中島にあります。伯備線は山陽と山陰を結ぶ陰陽連絡鉄道の一つで、岡山県の倉敷駅から新見駅を経由して鳥取県の伯耆大山駅に至る鉄道(幹線)です。清音駅には停車しませんが、岡山駅から伯備線を経由して島根県の出雲市駅を結ぶ特急「やくも」が、1日15往復運行されています。
JR清音駅の右側(倉敷駅寄り)に、駅を跨ぐ通路(跨線橋)がありました。入口に「井原鉄道清音駅」と書かれています。井原鉄道井原線の清音駅に向かう通路になっています。  井原鉄道井原線は、岡山県と広島県、周辺の自治体を中心に設立された第3セクターの井原鉄道が開業させた鉄道で、JR総社駅を起点に、江戸時代に整備された西国往来(山陽道)に沿ったルートで、広島県のJR神辺駅との間を結んでいます。 平成11(1999)年1月11日11時11分11秒に出発式を行ったといわれています。
JR清音駅は、井原鉄道の分岐駅としての役割も担っています。

木造平屋建てのJR清音駅の玄関口です。向かって右側に電話ボックスと郵便ポストがありました。左側には、”金田一耕助”の顔出し写真パネルのようなパネルが置かれています。”金田一耕助”は、横溝正史の推理小説の中で難事件を解決する名探偵として知られています。横溝正史は、太平洋戦争の末期、昭和20(1945)年から3年半の間、清音駅の西を流れる高梁川を挟んだ対岸にある吉備郡岡田村(現在の倉敷市真備町岡田)で疎開生活を送っていました。

パネルの顔の部分にはカバーがつけられていました。
岡田村で疎開生活を送っていた横溝正史は、岡田地区の人々と野菜づくりをしながら交流する一方で、「本陣殺人事件」や「蝶々殺人事件」、「獄門等」、「八つ墓村」などの推理小説を執筆していたそうです。そして、昭和23(1948)年、この地を舞台にした小説「本陣殺人事件」で「第1回探偵作家
クラブ賞」(現在の「推理作家協会賞)を受賞し、本格推理小説作家としての地位を固めた人です。疎開生活を送った「疎開宅」には、現在も、金田一耕作のファンが、全国から訪れているということです。
なお、岡田村には、江戸時代初期に藩祖伊東長実(ながざね)が封じられてから、明治維新まで、岡田藩主伊東氏1万石の陣屋が置かれていました。 

駅舎の左側(総社駅側)のようすです。トイレとその先に跨線橋が見えました。2面3線のホームをもつ清音駅の島式ホームへの移動に使用されています。

駅舎への入口にあった「建物資産標」です。大正13(1924)年11月と書かれています。
伯備線は、大正8(1919)年、山陰側の起点、伯耆大山駅から伯耆溝口駅間(伯備北線)が開業したことに始まります。一方、山陽側からは6年後の大正14(1925)年、倉敷駅・宍粟(現在の豪渓)駅間が、伯備南線として開業しています。その後も延伸工事は進み、昭和3(1928)年10月25日、備中川面駅・足立駅間が延伸開業し、全通しました。そして、伯備線と改称されました。現在、倉敷駅と石蟹駅の間が複線区間になっています。 清音駅が開業したのは、大正14(1925)年2月17日。 伯備南線の倉敷駅・宍粟(現豪渓)駅間が開業したときでした。 開業の3ヶ月前に建設された駅舎は、96年が経過した今も、現役で活躍しています

「清音駅」と書かれた駅舎への入口から駅舎内へ入ります。正面の改札口の先に2面3線のホームとその先の東口広場が見えます。改札口の手前左側にあった駅事務所は閉鎖されていますが、清音駅は、令和3(2021)年3月1日から終日無人駅になりました。ちなみに、清音駅の1日平均乗車人員は、平成30(2018)年には、1,650人だったそうです。
駅舎への入口の左側に運賃表と券売機が設置されています。
駅舎の右側(南側)の部分です。ベンチと自動販売機が設置された、待合いのスペースになっています。列車を待つ人がおられなかったせいか、広々とした印象でした。 改札口から駅舎前の3番ホームに出ます。

伯備線の総社駅・新見駅方面行きの普通列車が停車する3番ホームを、倉敷駅方面に向かって歩きます。写真は、倉敷駅側の端に近い所から見た島式ホームです。手前側が2番ホーム、向こう側が1番ホームになっています。井原鉄道の列車は、2番ホームの、井原鉄道の跨線橋の南側のホームに停車するようになっており、上屋の下に駅事務所が設置されていました。 井原駅方面から来た井原鉄道の列車は、このままJR伯備線を通り、終着駅のJR総社駅に向かって行きます。

改札口付近まで戻ってきたとき、ちょうど、JR総社駅から来た、井原駅方面に向かう井原鉄道の単行気動車が、2番ホームに到着しました。井原鉄道の列車は、行き違いがない場合には、総社駅行きの列車も井原駅方面行きの列車も、ともに2番ホームの南側に停車しています。行き違いのある場合には、総社駅行きの上り列車が2番ホームに、井原駅方面に向かう下り列車が島式ホームの左側の1番ホームに停車するのだそうです。

入線していた井原鉄道の単行気動車が出発して行きました。この先で、伯備線から分かれて、右側を流れる高梁川を渡り、次の停車駅である川辺宿駅(旧西国往来の川辺宿に因む駅名)に向かって進んで行きます。
3番ホームを総社方面(北側)に向かって歩きます。。新見駅方面に向かう列車が停車するホームです。トイレの先に跨線橋の入口がありました。
跨線橋の左側にはかつて荷物の積み降しをしていたと思われる側線がありました。
跨線橋の下を総社方面に進みます。駅名標がありました。清音駅は、倉敷駅から7.3km、総社駅まで3.4kmのところに設置されています。
跨線橋を越えて進みます。ふり返って南(倉敷駅方面)側を撮影しました。右側の白い建物はトイレ、その先に駅舎の切妻屋根が見えます。跨線橋の下に島式ホームと線路、そして井原鉄道の乗車口に向かう跨線橋が見えます。左側の島式ホームに赤い自動販売機が見えました。
跨線橋の上です。窓が両側に設けられた明るい通路になっています。

島式ホームの1番乗り場に降りました。ホームの左側にはJR倉敷駅・岡山駅方面に向かう列車が停車します。線路の左側に、東口広場から井原鉄道の乗り場に通ずる跨線橋の通路が見えました。

島式ホームから見た改札口です。左側に井原鉄道井原線の乗り場に向かう跨線橋が見えます。
島式ホームの駅舎側です。ホームの右側の線路の跨線橋の向こう側に、井原鉄道井原線の清音駅があります。

ホームを倉敷駅方面に向かって進みます。「出場用」と記されたJRの改札口がありました。JRの列車で清音駅に来て、井原鉄道井原線に乗り継ぐ人のための出口になっています。
JRからの出口の先、跨線橋の下に井原鉄道の自動券売機が設置されていました。
その先が井原鉄道の改札口でした。井原鉄道の清音駅は駅の業務全般を委託する業務委託駅になっています。
駅舎の南側の井原鉄道の跨線橋の入口まで戻って来ました。入口から階段を上ります。
両側が真っ白に塗られた通路です。各ホームにはエレベーターも設置されています。井原線のホームがある島式ホームに下る階段の脇には観光案内が掲示されていました。突き当たりを左に下ると、東口広場へつながっています。駅を跨ぐ通路としても利用されているようです。
このとき、岡山駅を経由してJR赤穂線の長船駅に向かう、上り普通列車が1番ホームに到着しました。

跨線橋をさらに進み、東口広場に出ました。通ってきた井原鉄道の跨線橋の登り口が見えます。

東口広場から見た東側の光景です。正面に、標高302mの福山が見えます。福山の山頂にはかつて福山城があり、中世の軍記物「太平記」に載っている「備中福山の合戦」で知られています。 鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇の「建武の新政」で、天皇による政治が復活しました。そのとき天皇方についた足利尊氏は、天皇を支えた新田義貞や楠木正成と対立して敗れ、九州に逃れました。九州で勢力を蓄え、30万人の軍勢で京の都をめざしました。尊氏は7500隻の軍勢で海路を、弟の足利直義は20万人で陸路を進み、備中国に入りました。

福山城は、天皇方の新田義貞軍の最前線で、大井田氏経が1,500人で守っていました。延元元(1336)年5月に三日三晩にわたる戦いが始まりました。足利直義の大軍に対し、大井田軍は奮戦し、足利直義軍は2万人の死傷者を出したといわれています。しかし、大軍の前に福山城は落城し、残った400人の大井田軍は、足利軍と20回以上の戦闘を繰り返しながら、備前国の三石城に逃れたと伝えられています。 足利軍は、その後も進軍を続け、福山の合戦から7日後、神戸湊川の戦いで天皇方の新田義貞、楠木正成の軍を破ったのです。楠木正成はこの戦いで戦死しています。勝った足利尊氏は、この後、京に入り、室町幕府を開くことになります。 

清音駅の駅舎前に戻ってきました。駅前広場から西に延びる通りは、高梁川の左岸を走る岡山県道24号(倉敷・清音線)につながっています。そこから、川辺橋で西側に渡ると、倉敷市真備町につながっています。

井原鉄道と分岐するJR伯備線の清音駅を訪ねて来ました。
「ゴミ一つないきれいな駅」でした。










JR庭瀬駅から庭瀬往来を歩く

2021年06月24日 | 日記
JR庭瀬駅前にあった庭瀬の観光地図です。前回は庭瀬城跡と撫川(なつかわ)城跡を訪ねました。 今回は、庭瀬往来を歩きながら、庭瀬の町に残る歴史遺産を訪ねることにしていました。
地図に赤で示された通りが庭瀬往来です。庭瀬往来は、江戸時代に岡山藩が整備した六つの官道の一つで、岡山城下と岡山新田藩(鴨方2万5千石)の陣屋のある鴨方を結ぶ鴨方往来の一部になっています。鴨方往来は、鴨方の先の笠岡、広島県の福山までも含めて呼ばれることもあるようです。
庭瀬往来は、庭瀬近辺では、JR山陽本線の庭瀬東踏切から西に向かい、庭瀬駅前の交差点を直進し、庭瀬城跡を迂回して、北に向かうルートになっています。そして、町の西側を流れる足守川を渡って、倉敷市の下庄へとつながっています。 
JR庭瀬駅から北に向かって進みます。

庭瀬駅前から70mほど歩くと左前方にローソンがある交差点に出ます。庭瀬往来に合流しました。交差点を左折して進みます。

ローソンの駐車場を過ぎると、駐車場の手前に横断歩道があります。ここを、右折します。
庭瀬往来は、庭瀬陣屋や撫川陣屋を迂回するルートになっていました。横断歩道の脇にある「観音堂」で右折して、北に向かって進みます。

通りの両側には、住宅が広がっています。狭い通りと、虫籠窓となまこ壁のあるお宅が、旧街道の雰囲気を伝えてくれています。

岡山県道162号岡山倉敷線(旧国道2号)の手前に栄町公民館がありました。ここで左折します。

閑静な住宅地の中を西に向かって進みます。関ヶ原の戦いの後、庭瀬には戸川達安(みちやす)が2万9200石で藩主として入りました。庭瀬城跡に陣屋(居館・藩庁)を設け陣屋町を整備しました。 しかし、戸川氏は4代藩主安風が9歳で早世し、嗣子がなく改易となりました。 その後、庭瀬藩は、久世氏、松平氏の支配を経て、元禄12(1699)板倉重高が庭瀬藩2万石の藩主となり、明治維新まで、板倉家がこの地を支配することになりました。
左側にあった日蓮宗寺院の中正院を見ながら進みます。
栄町から本町に入りました。往来の右側に「誠意館」と「木門跡」の説明がありました。 「誠意館」は庭瀬藩の藩校でした。庭瀬藩主板倉家の初代、板倉重高が「学館」と呼ばれる藩校を藩邸内に創設し、儒教、和漢の歴史、詩文、筆算などを教材として、藩士の子弟の教育に使用していました。7代藩主勝資のときに「誠意館」と改称し、天保12(1841)年、8代藩主重貞のとき、誠意館を「武芸場」と「文芸場」に分けて、「文芸場」をこの本町に移したそうです。
木門は、「閂(かんぬき)のある木の門で、町の警備のため、陣屋、夜間、緊急時には閉じられた」と、「説明」に書かれていました。

往来にあった「庭瀬藩宿場施設」の説明です。中で黒い点で示されたところに木門があったようです。右側の3の黒点が「説明」のあったところになります。当時は、夜間や緊急時には、ここで庭瀬往来は閉じられていたようです。

往来の左側の更地になっている所から、大きな常夜灯が見えました。旧庭瀬港に再建された本町常夜灯です。

庭瀬往来の右側の電柱に、カーブミラーとともに「旧庭瀬港260m 庭瀬城跡130m 撫川城跡 570m」と書かれた案内がありました。ここで左折します。
左折して進みます。外壕に架かる橋の手前に「大手門」と書かれた石碑がありました。左側の石碑には「庭瀬城」と書かれています。庭瀬往来に向かって開かれていた庭瀬陣屋の大手門に続く通りでした。その先は、庭瀬城跡の内壕につながっています。

大手門の石碑があった橋の左側の光景です。庭瀬港が公園風に整備されています。手前に、荷物の積み降ろしに使用していた石段である雁木(がんぎ)が、一部復元されています。往来から見えた本町常夜灯は、この通りの先にあります。                 

旧庭瀬港にあった寛文年間(1661年~1672年)の庭瀬陣屋町の絵図です。絵図の下側にある青色の部分は足守川ですが、「この河岸には瀬戸内海を航行する船が出入りし、庭瀬藩や足守藩の年貢米の積み出し港になっていた。そこで、積み荷を海船から小舟に積み降ろし、この庭瀬港に運んでいたため、雁木や常夜灯が設けられた」と「説明」に書かれていました。 
なお、絵図の上部を、東から西に向かい南西にカーブしている赤いラインが庭瀬往来。絵図の北部から庭瀬往来をくぐって南に下る川は法万寺川。この川が東に向かっているところが旧庭瀬港です。

雁木のあるところから常夜灯に向かう途中にあった道標です。かつて、庭瀬往来沿いに設置されていたものです。右側に「おか山道」、左側に「吉備津 ゆが 倉しき 玉嶋」と刻まれています。「安政六龍舎已未年九月吉日建立」(1859年)の銘がありました。

旧庭瀬港を東に向かって進み、常夜灯の脇まで来ました。大手門方面の光景です。常夜灯は、荷物の積み降ろしに入港する船のために、1700年代につくられたそうです。  しかし、多くの船で賑わっていた庭瀬港も、明治24(1891)年に山陽鉄道が開通したことによって、しだいに賑わいを失って行きました。そして、昭和30年代には水路が埋め立てられ、常夜灯も、昭和29(1952)年の暴風雨でダメージを受け、取り壊されてしまいました。 
その後、常夜灯は、平成19(2007)年に、「当時の常夜灯の石積護岸の一部と約3m四方の基礎(地伏石)を使用して」再建されました。かつての庭瀬港の景観が復元されています。
常夜灯の手前の道を左(南)に進みます。

左側のNPOの建物の脇に、松林寺がありました。臨済宗東福寺派の寺院で、元禄15(1702)年に、庭瀬藩主板倉家の菩提寺となり現在の地に移ってきたそうです。

庭瀬往来に戻り、さらに西に向かって歩きます。右側に「麹」「ひしお もろみ 味噌 でんがくみそ」と書かれた看板が見えました。「合資会社 川野屋商店」の看板もありました。 
川野屋商店の向かい側にあった薬屋だったお宅です。 「薬」と刻まれた木の吊り下げ看板が残っていました。

その先の交差点です。旧庭瀬港に移されていた「道標」は、もとは、右側の斜めの塀の前に設置されていたそうです。道標には、手前が「おかやま道」方面を、前方が「こんひら ゆか 倉しき 玉嶋」方面を、右が「吉備津・まつ山・足もり・板久ら」方面を示すように建てられていたそうです。
海の神として信仰を集めていた金毘羅宮への参詣が全国的に流行したのは、江戸時代後期の文化・文政時代(1804年~1829年)の頃からで、由加神社との「両参り」で、庭瀬往来も多くの参詣者で賑わっていました。 ここから右に進み吉備津神社に向かう人や、吉備津神社方面から由加神社・金毘羅宮に向かう参詣客も利用した通りでした。

さらに西に向かって進みます。右側に信城寺(日蓮宗)がありました。白い土塀の上に常夜灯の上部が見えました。土塀の前には「高札場」の説明板が見えます。高札は、幕府や藩の禁令を板面に墨書きして掲示していたもので、庭瀬往来の「東西の陣屋入口付近に設けられていた」(説明)そうです。

信城寺の先には法万寺川がありました。橋の上にあった「説明」では、「総社市で高梁川から取水された農業用水が、足守川を経由して流れて来ており、庭瀬陣屋の外壕としての役割も担っていた」そうです。また、この水路は庭瀬港への水運にも利用されていました。備中南部の物資の集散地としての庭瀬の発展を支えた川でした。 川のほとりに立つのは、常夜灯の説明板でした。
法万寺川は、庭瀬と撫川を分ける境川だったそうです。この常夜灯(文化2(1805)年の銘がありました)は、もとは、説明板のあるところにあったそうですが、歩道を設けるために、法万寺川を挟んだ信城寺の境内に移設されたそうです。「最上部の宝珠の先まで地上高4m」といわれている立派な常夜灯でした。
撫川の町並みを進むと、庭瀬往来が緩やかに右にカーブします。左側のお宅の向こう側は・・・

庭瀬往来沿いの史跡の案内や歴史を紹介する通りになっていました。 案内板だけでなく、歩道に置かれた石の上にも掲示してありました。庭瀬陣屋町の成り立ち、庭瀬往来と陣屋町の賑わい、常夜灯や道標、神社・仏閣などについての説明が丁寧になされていました。

案内板にあった地図です。ここから町の西側を流れる足守川までのルートが示されています。図中の薄いグリーンの区画には、案内の石が置いてあり、「町並み歴史ギャラリー」と呼ばれています。

その一角にあった真言宗寺院の観音院です。岡山県では、「日本三大奇祭」の一つとされる岡山市にある西大寺観音院の会陽(えよう・裸祭)がよく知られていますが、この観音院でも、昭和の初めまで会陽が行われていました。
「説明」によれば、「寒行の列は、旧撫川大橋のたもとまで来て、足守川で水垢離(みずごり・水行)を取って、観音院まで引き返して来て、宝木(しんぎ)の争奪戦が行われていた」とのことでした。

その先の交差点に来ました。緑に覆われたところには・・

住吉神社と、その先に應徳寺がありました。住吉神社は「海の神 住吉神社の分社」とされ、「天保年間(1830年~1843年)、吉岡屋新助守端が大坂、住吉神社の分霊を祀り海路の守護神として社殿を建てた」(説明)と書かれていました。また、應徳寺は、寛文9(1969)年に、撫川知行所(5000石の旗本領)の戸川安宣が伽藍を修復して復興したそうです。

往来の左側に、金比羅道標(上の地図の道標E)がありました。この道標は 撫川の「應徳寺の道標」と呼ばれています。 左面には「金毘羅 ゆが 倉しき 玉島 かさ岡」と、右面には「吉備津 大阪 岡山」と、また、裏面には「安政六己未年星舎九月吉祥且建之」(1859年)と刻まれていました。
様々な地域から由加神社・金毘羅宮をめざす参詣者は、この道標から先は、ほぼ同じようなルートで進んで行きました。そのため、この道標は、「金毘羅往来の起点」といわれています。 また、金毘羅往来も岡山藩が整備した岡山六つの官道の一つとされています。

道標からさらに進みます。庭瀬往来と金毘羅往来は、この先で、左にカーブします。

カーブして進みます。庭瀬往来は、突きあたりで右折して、足守川に向かっていました。正面のお宅の前に道標(上の地図の道標D)がありました。
道標です。「右 たましま 下津井・・」と書かれています。鴨方往来の玉島方面と金毘羅往来の下津井方面が示されています。

突き当たりの手前、左側に、大橋中之町公民館がありました。公民館の敷地内に、「慶応4年」の銘のある大橋常夜灯と親柱が見えました。常夜灯の正面には「金毘羅大権現」と刻まれています。この常夜灯は、平成19(2007)年に、公民館に移設され、復元されたものです。

大正5(1916)年に、足守川に旧撫川大橋(上の地図参照)が架けられました。「長さ拾弐間(約22m)、幅七尺」の橋だったそうです。その旧撫川大橋のたもとに、それ以前からあったのが、大橋常夜灯と親柱でした。

大橋中之町公民館から、足守川の堤まで歩いて来ました。
「説明」によれば、旧撫川大橋は、昭和43(1968)年に、少し南の現在地に、架け替えられることになり、新しい「大橋」(上の地図参照)が完成しました。この時に、「旧撫川大橋の西側にあった常夜灯は撫川西地区に、東側にあった常夜灯は中撫川の須佐之男神社に移され」、解体保存がなされていました。また、親柱は、この時に、現在地の大橋中之町公民館に移設されました。 現在、公民館に残る常夜灯は、旧撫川大橋の東側にあった常夜灯で、平成19(2007)年に、須佐之男神社で保存されていたものを復元したものです。

石段を上って足守川の堤に上がりました。長い河原の向こうに対岸が見えました。このあたりに、旧撫川大橋が架かっていたのでしょう。

旧撫川大橋があったところの左(南)側に、昭和43(1968)年に架けられた「大橋」が見えました。 

庭瀬(鴨方)往来は、この先、倉敷市内の下庄、松島、中島を経て、西阿知で高梁川を渡り鴨方へとつながっていました。一方、金毘羅往来は、この先、早島、茶屋町、藤戸を経て由加神社から下津井へとつながっていました。

JR庭瀬駅と庭瀬城跡を訪ねる(2)

2021年06月08日 | 日記
JR庭瀬駅前にあった史跡案内図です。
庭瀬駅から比較的近いところに撫川城跡と庭瀬城跡が描かれています。
また、赤で示されたルートは庭瀬往来で、江戸時代に、岡山城下から西の鴨方・笠岡に向かう街道として整備されました。案内図では、庭瀬駅前の北から右(東)側の部分が途切れていますが、まっすぐ庭瀬東踏切に向かっていました。
この日は、庭瀬東踏切から、撫川城跡と庭瀬城跡を訪ねて来ました。
内濠に囲まれた庭瀬城跡です。

こちらは、撫川城跡です。現在は、「撫川城址公園」になっています。
城跡といえば、近世の城郭があったところと思いがちですが、庭瀬城も撫川城も、江戸時代にそれぞれの地を統治した大名と旗本の陣屋があったところです
スタート地点のJR山陽本線の庭瀬東踏切に来ました。 踏切の北側から南東部を撮影しました。山陽本線の起点、兵庫県の神戸駅から「149K629M」のところにあります。

庭瀬東踏切を渡って南側に来ました。歩道に「庭瀬往来」と書かれた案内板がありました。その先の掲示板の隣に「大覚大僧正」の石碑や「南無妙法蓮華経」の題目石が見えました。街道筋らしい雰囲気を感じます。

庭瀬往来は、江戸時代に、備前岡山藩が、岡山城下を中心に放射状に整備した岡山六官道の一つ、鴨方往来の一部とされています。鴨方往来は、岡山城下と鴨方を結ぶ街道といわれていますが、その先の笠岡や備後国の福山までも含めて鴨方往来と呼ぶ説もあるそうです。 西に向かう街道といえば、山陽道(西国街道)がよく知られていますが、山陽道はもっと北の内陸部を通っていたのに対し、鴨方往来は海岸に近いところを通っていたため、「備中浜街道」とも呼ばれていました。

民家との間にあった北向地蔵菩薩のお堂です。このお堂は、「平成27(2015)年に南に移されて」(説明)現在の地に祀られているそうです。   「境の神」とか「道の神」といわれる道祖神は、峠や村境、分かれ道や辻などの街道の路傍に祀られていて、村の外からやって来る疫病や悪霊を防ぐ神とされています。この北向地蔵菩薩は、そんな「道祖神の役割を果たしてきた」と「説明」には書かれていました。

「庭瀬往来」の説明板が立つ前の通りが、かつての「庭瀬往来」です。江戸時代、岡山城下町をめざす旅人は、写真の左側(踏切)から、左折してこの通りに入り、向こう側に向かって進んでいました。

庭瀬東踏切から庭瀬往来を通って庭瀬城跡に向かうことにしました。踏切を左から右へ渡るとすぐ左折して、線路に沿って進みます。庭瀬往来は、鉄道の橋梁に「折違川開渠」と書かれたところから線路を離れて進むことになります。

通りの右側、消防団の「吉備第一分団(平野)」と書かれた消防機庫の脇に、庭瀬東踏切にもあった「大覚大僧正」の石碑と題目石がありました。 ”備前法華と安芸門徒”といわれるように備前の国は法華宗(日蓮宗)の信徒の多いところです。備前の国に法華宗の教えを初めて伝えたのが大覚大僧正でした。

消防機庫の前に神社がありました。ふり返って撮影しました。

神社の拝殿の前に、「従是西備中国・・・」と刻まれた国境石がありました。下の部分は植物に覆われていて読めませんでした。 庭瀬も撫川も、備中国の村でしたが、備前と備中の境(境川)はもっと東にあり、移設されたものと思われますが、ここに置かれている経緯を、確認することはできませんでした。

庭瀬往来をさらに進みます。旧街道の雰囲気を感じながら進むと、駅前の交差点に着きました。

交差点の左側です。JR庭瀬駅の白い駅舎が見えました。

交差点の右前方にローソンがありました。通りの左側には道標がありました。道標の「庭瀬城跡・撫川城跡・庭瀬往来」と書かれている西方向に、まっすぐ進んで行きます。 

ローソンの駐車場を過ぎると、右前方に駐車場のマークと、その手前に横断歩道が見えました。
横断歩道から見た右側のようすです。すぐ脇に「観音堂」がありました。庭瀬往来は、ここで右折して、庭瀬城や撫川城を迂回するために北に向かうルートになっていました。 「説明」によれば、観音堂は、江戸時代の寛文年間(1661年~1672年)の古地図には「堂」と書かれているそうです。観音菩薩をお祀りしており道祖神の役割を果たして来たそうです。入口にある「観音堂」の揮毫は庭瀬藩士、岩月氏の末裔の方の手によるものだそうです。
庭瀬城跡へは、通りをまっすぐ進み、枡形になっているところを過ぎて進むことになります。また、撫川城跡へは、庭瀬城跡からさらに西に進み、南に迂回して進むことになります。
庭瀬往来との分岐点からまっすぐ進み、枡形になっているところに着きました。ここで右折し、すぐ先で左折して進みます。通りの右側の住宅の裏には、お寺や墓地(寺中屋敷)が広がっていました。
正面に、庭瀬城の内壕と庭瀬城跡に建つ神社が見えるようになりました。
庭瀬城は、戦国時代に備中で勢力を伸ばしていた備中松山城主、三村元親(生年不詳~天正3年6月2日=1575年7月9日没)によって、備前の宇喜多直家の侵攻に備えて築かれたと伝えられています 。

庭瀬城は、天正10(1582)年の羽柴秀吉の備中高松城水攻めの時、毛利側の「境目七城」の一城として、毛利氏の家臣が守っていましたが、激戦の末に秀吉軍に敗れました。その後は備前の宇喜多氏の領有となり、重臣である岡利勝が入城しました。庭瀬城は、現在の撫川城址のあたりまであったといわれており、その時に整備された「本壇(ほんだん)」は現在の撫川城跡で、庭瀬城跡は二の丸として整備されたそうです。江戸時代以前には、本丸を「本壇」と呼んでいたようです。 
壕に架かる橋を渡って庭瀬城跡に入ります。
その後、関ヶ原の戦いの後、宇喜多秀家(直家の子)は改易となり、慶長7(1602)年、宇喜多家の重臣だった戸川肥前守達安(みちやす)が、庭瀬藩主(2万9200石)としてこの地に入りました。達安は、宇喜多家で国政を任されていた重臣でしたが、宇喜多秀家の下で起きた”お家騒動”(宇喜多騒動)により、宇喜多家を辞し、徳川家康の家臣となっていました。そして、関ヶ原の戦いでの戦功が認められ、この地を治めることになりました。達安は、それまでの撫川城の二の丸(庭瀬城跡)を改修し、清山(すがやま)神社の南側に庭瀬陣屋(居館・藩庁)を設け、この地を治めました。

庭瀬城は、足守川の河口に広がる沼地に築かれました。付近の地名から「芝場城(こうげじょう)」ともいわれています。 寛永4(1627)年に庭瀬藩の初代藩主、戸川達安が没し、寛永5(1628)年に戸川正安が2代藩主に就任すると、弟(達安の第三子)の安尤(やすもと)に早島3400石、弟(達安の第4子)の安利に帯江3300石を分知しました。さらに、寛文9(1669)年に、3代藩主を継ぐ安宣の弟の安成にも、妹尾1500石を分知しました。その後、4代藩主になった安風も、延宝3(1675)年に弟の達富(みちとみ)に1000石を分知しました(撫川城址整備委員会・下東城之内町内会作成のパンフより。以下「パンフ」)。 安風は、延宝3年当時は5歳であり、分知は本人の意思ではなかったと思われますが・・。 
こうして、庭瀬藩主戸川家は、4代藩主安風の時代には、2万石の大名になっていました。

神社前には、「庭瀬城址」と刻まれた大きな石碑がありました。また、神社には「八幡宮」と「辨(弁)天宮」と書かれた額が架けられていました。
庭瀬藩の4代藩主、戸川安風は、延宝7(1679)年に9歳で没し、戸川家は嗣子がなく改易となりました。 そのため、この地は天領となり、倉敷代官所の支配を受けることになりました。
その後、戸川家では、安風から1000石を分知されていた弟の達富(みちとみ)が、4000石加増されて5000石の交替寄合(旗本)として名跡を継ぐことが、江戸幕府に認められ、撫川城跡に陣屋(撫川陣屋)を設けて治めることになりました。
「八幡宮」「辨天宮」の額がある神社の先は公園風の広場になっており、そこに、もう一社、史跡案内図に「清山(すがやま)神社」と書かれた神社がありました。戸川達安は、この地に入ったとき、清山神社の南側(現在は住宅地なっているところ)に庭瀬陣屋を設けていました。清山神社の本殿の背後に収蔵庫と思われる白い建物がありました
一方、戸川安風が早世し、嗣子がなく改易された後、天領となり倉敷代官所の支配になっていた庭瀬藩には、天和3(1683)年に久世重之が上総国関宿藩から5万石で入封し、再び庭瀬城跡に陣屋を構えました。

しかし、久世重之は、3年後の貞享3(1686)年に丹波国の亀山藩に転封となりました。その後、元禄6(1693)年に、松平信通が大和国興留藩から3万石で入封しましたが、4年後に出羽国上山藩へ転封となりました。そして、元禄12(1699)年、板倉重高が2万石で庭瀬藩主となり、上総国高滝から、庭瀬陣屋に入りました。 板倉家は、その後、明治の廃藩置県まで、庭瀬陣屋を舞台に、11代172年間にわたって、この地を治めることになりました。

板倉重昌・重矩を祭る清山神社に来ました。右側に「庭瀬城址」と書かれた石碑が見えます。 庭瀬往来にあった「町並み歴史ギャラリー」にあった神社仏閣の「説明」によれば、庭瀬藩板倉家の3代藩主の勝興が、寛政5(1793)年に板倉家中興の祖、板倉重信・重矩を祀る清山神社を建立し、歴代の遺品を収蔵しました。収蔵品は、現在、岡山市立吉備公民館に移されているそうです。神社は「東向きで、拝殿、幣殿、本殿の2棟に分けられ、本殿は宝物を保管していたので、白壁・土蔵造りにしている」(説明)そうです。 

板倉家は、徳川家譜代の大名で、清山神社に祀られている板倉重昌は、慶長14(1614)年の大阪冬の陣のとき、豊臣方との交渉にあたったことでよく知られています。また、寛永14(1637)年の島原の乱では、乱鎮圧の上使となって、嫡子、重矩とともに出陣しました。翌年、総攻撃の命令を出し、自ら板倉勢を率いて突撃したとき、銃弾があたり戦死したことでも知られています。
嫡子の板倉重矩は、その後、老中や京都所司代をつとめるなど、幕府の中枢で活躍した人でした。 

庭瀬の町の中にあった案内図の一部です。説明には「庭瀬城周辺を古地図から想定し現在の地図に重ねた図」と書かれていました。地図中にある「戸川土佐守」は庭瀬藩2代藩主の戸川正安であり、正安の時代の庭瀬陣屋を表しています。陣屋は、六つの建物からなり、南側には池のある庭園や茶室が設けられていたようです(町にあった説明より)。
しかし、陣屋があったところは、今は住宅地になっており、当時の面影を伝えるものは、「庭瀬城址」の石碑だけになっていました。

撫川城跡に向かうことにします。図の中で「清山神社」と書かれているところから西に向かい、法万寺川の先で南に迂回して進んで行きます。
上の案内図に「清山神社」と書かれている通りに出ました。
庭瀬城跡の内濠の中に「大賀ハス」の植栽がありました。庭瀬地区の北にある川入地区出身の大賀一郎氏は、昭和26(1951)年、千葉県検見川の旧東京帝大厚生農場の泥炭層から、2000年前の古代ハスの実を3粒発見し、その中の1粒の発芽に成功しました。「大賀ハス」と命名された古代ハスは、翌年の7月18日に大輪の花を咲かせたのです(説明より)。大賀ハスは、「日本三名園」一つ、岡山市の後楽園で保存植栽されていますが、ここ庭瀬城内壕でも、季節になると美しい花を咲かせています。

法万寺川は庭瀬と撫川との境界になっています。法万寺川を渡って撫川に入りました。 正面のお宅の手前のカーブミラーに「行き止まり」と書かれた看板がありました。左折して、南に迂回して進みます。

南に向かいます。突きあたりを右折して進みます。その先の突きあたりで右折すると撫川城址への入口に行くことができます。

撫川城跡の前まで来ました。撫川城にあった「撫川城址整備委員会・下東城之内町内会」が作成されたパンフによれば、「撫川城は永禄2(1559)年、毛利氏配下の備中松山城主、三村家親(生年不詳~天正3年6月2日=1575年7月9日没・三村元親の父)が備前の宇喜多直家に備えて砦を築いたのが最初」と書かれています。天正3(1575)年の三村氏が毛利氏に滅ぼされると、庭瀬城とともに毛利方の「境目七城」の一つになり、毛利氏の出城となりました。
天正10(1582)年の羽柴秀吉の備中高松城の水攻めの際には、秀吉軍との激戦になりましたが、周囲が沼地であったため、攻めあぐねた秀吉軍が攻撃をあきらめたため持ち堪えることができました。しかし、戦後は、秀吉軍に参加していた宇喜多氏の城となり、宇喜多氏はその後、20年間、城番を置いていたそうです。 
左に進み、撫川城を囲む壕を見ることにしました。

撫川城の西側から見た壕と石垣です。自然石をそのまま積み上げた野面積みの石垣が残っています。そのため、昭和32(1957)年、岡山県指定史跡の第1号に認定されています。この石垣は、天正14(1586)年頃から、宇喜多氏の重臣、岡利勝が、安土城の築城法を学んで築き始めたものです。 野面積みの石垣は、16世紀の戦国時代に多くつくられ、排水性に優れている一方で、すきまや出っ張りが多く、敵が登りやすいという欠点があったといわれています。

北西部の石垣です。一部が壕に向かって外にはみ出しています。
岡利勝は、その後、天正18(1590)年、秀吉からの要請により、主君の宇喜多秀家が岡山城の大改造をすることになり、その改造に着手したそうです。岡山城にも、このときに築かれた野面積みの石垣が残っています。

撫川城址公園の前に戻って来ました。撫川城跡は、東西77m、南北57m、幅15mの壕で囲まれています。沼地につくられていることから、別名「沼城」とも呼ばれています。
城址公園の入口から入ると、正面に、明治になってから祀られた三神社がありました。「竜王(水の神)」と「八幡神社(武勇の神)」、「稲荷神社(農耕の神)」をお祀りしています。 
庭瀬城跡のところでも書きましたが、戸川氏の4代目藩主安風が9歳で早世し、嗣子が無く改易となり、安風から1000石を分知されていた安風の弟達富(みちとみ)が名跡を継ぐことになったとき、撫川城跡に撫川陣屋(居館・藩庁)を設けて知行所を治めることになりました。

一方、庭瀬陣屋には、その後、元禄12(1699)年、板倉重高が2万石の大名として入り、庭瀬藩の領地を治めることになりました。
こうして、板倉家、戸川家の両家は、庭瀬城と撫川城を舞台に、それぞれの支配を、明治維新まで続けることになったのです。

撫川城跡の北西の隅です。石垣が壕に向かって張り出していたところです。櫓台があったところだそうです。 
撫川城址公園への入口にある門は、明治の時代になってから 、撫川知行所の総門が移設されたものです。
地元では、かつては、「撫川城址」を「ごほんざん」と親しみを込めて呼んでいたそうです。江戸時代以前は本丸を「御本壇」と呼んでいたため、「ごほんだん」が訛って「ごほんざん」と呼ばれたためだといわれています。

JR庭瀬駅に近いところにあった二つの城跡を訪ねて来ました。
町の中にあった「説明」によって、二つの城跡にまつわる歴史に触れることができました。 

JR庭瀬駅と庭瀬城跡を訪ねる(1)

2021年05月31日 | 日記

JR庭瀬駅です。岡山市北区平野にあるJR山陽本線の駅ですが、昭和61(1986)年4月1日に改築された白壁の駅舎で知られています。

JR岡山駅から10分ぐらいで、2面2線の庭瀬駅のホームに停車しました。平日の午後でしたが、中・高校生を含めて多くの方が降車されていました。岡山駅から乗車してきた糸崎駅行きの115系4両編成の電車は、すぐに、次の中庄駅に向かって出発して行きました。降車したのは、駅舎の向かい側の2番ホームです。上家の下には多くのベンチが設置されていました。

上家の岡山駅寄りにあった駅名標です。庭瀬駅は、同じ岡山市北区にある北長瀬駅から4.7km、次の中庄(なかしょう)駅まで3.1kmのところにあります。中庄駅は倉敷市にある駅なので、庭瀬駅は山陽本線における岡山市の西端の駅ということになります。 ホームを岡山駅側に向かって歩きます。

長いホームの端に来ました。「8」と書かれた停車位置の先に、複線の線路と庭瀬東踏切が見えました。
ホームを倉敷駅方面に向かって引き返します。線路の上に跨線橋が、右側に白い駅舎の丸い屋根が見えました。 山陽本線は、明治21(1888)年に山陽鉄道によって、兵庫駅・明石駅間が開業したことに始まります。
庭瀬駅の周辺は、岡山市近郊の住宅地が広がる地域になっています。住宅の手前のホームの左側の一角は墓地になっていました。 明治24(1891)年3月18日、西に向かって延伸して来た山陽鉄道は、この日、三石駅・岡山駅間が開業しました。そして、1ヶ月後の同年4月25日には、岡山駅・倉敷駅間が開業しています。  庭瀬駅は、この時に、当時の賀陽郡庭瀬村平野の現在地に開業しました。駅の開業から、すでに130年が経過しています。
明治34(1901)年に庭瀬村が町制の施行により吉備郡庭瀬町平野に、その後、昭和12(1937)年に、都窪郡撫川町と合併し都窪郡吉備町平野になりました。そして、昭和46(1971)年に、吉備町が岡山市に編入され、岡山市平野に、平成21(2009)年、岡山市が政令指定都市となり現在の岡山市北区平野となりました。  駅名標まで戻って来ました。ホームの左側には、墓地の脇から続く自転車駐輪場の白い屋根が見えます。 

その先に、南口改札がありました。平成20(2008)年12月に新設されました。 
改札口の脇の上家の柱に「建物資産標」がありました。「鉄停 駅 旅客上家6号 昭和57年11月」と書かれています。駅舎の改築は、昭和61(1986)年に行われているため、上家の整備はその少し前になされたようです

明治39(1906)年、山陽鉄道は国有化され、明治42(1909)年の線路名称の制定によって、「山陽本線」となりました。 南口の改札口の先に、自販機、駅名標、跨線橋の上り口が見えます。その脇を抜けてさらに西に向かって歩きます

中庄駅側のホームの端まで来ました。庭瀬西踏切が見えました。

ホームの端から見た跨線橋です。階段の反対側にエレベーターの出入口が設けられていました。

跨線橋で線路を渡って駅舎側の1番ホームに降りました。すぐ左側にトイレがありました。

ベンチの先に改札口があります。
改札口を過ぎて少し進むと、「旧庭瀬駅駅舎の柱と鬼瓦」が展示してありました。いずれも、明治24(1891)年に開業したときの駅舎で使用されていたものです。ケースの中にあった説明によれば、展示されている柱は、駅の”特別待合室”で使用されていたものだそうです。昭和7(1932)年に起きた五・一五事件で銃撃され死亡した犬養毅元首相は、庭瀬駅の北にある川入地区の出身で、東京に向かう時には、この”特別待合室”で「汽車を待つ間、国政を案じ瞑想にふけっていた」(説明)そうです。

改札口から駅舎内に入ります。 庭瀬駅は、平成30(2018)年3月25日に無人駅となりました。しかし、令和元(2019)年度には、1日平均4,341人の方がこの駅から乗車されていたそうです。 ”無人駅”と聞くと「利用者が少ない駅」と思いがちですが、庭瀬駅は近くに大学もあり多くの人に利用されているようです。

改札口の脇にあった時刻表です。山陽本線だけでなく倉敷駅から分岐して伯耆大山駅間を結ぶJR伯備線の列車も停車しており、朝の通勤通学時間帯には1時間に7本の列車が停車することもあるようです。

駅舎内です。改札口の右側の光景です。乗車券の発券機やインターフォンが置かれています。

発券機の向かい側です。飲料水と菓子の自動販売機と丸い木製のベンチが置かれているだけのシンプルな待合いのスペースです。

駅舎から出ました。駅舎の左側のようすです。フレームだけが並ぶスペースがありました。その下を進みます。
花壇がありました。岡山吉備ライオンズクラブの札が貼ってありました。



花壇の前の広場から見た駅舎です。駅舎の向こうには駐車場が広がっています。

花壇の前からの跨線橋の姿です。駅周辺を歩くことにしました。
駅に接してあった庭瀬駅第一自転車駐輪場です。その前を左に向かい、線路に沿って進みます。
駐輪場の先に庭瀬西踏切がありました。県道151号(妹尾・吉備線)の踏切です。列車の通過を待つ車も見えました。
庭瀬西踏切です。「150K090M」山陽本線の起点神戸駅からの距離のようです。 県道はこの先で民家の間を抜けて、岡山市南区の妹尾地区につながっています。

庭瀬西踏切を渡ってから見えた庭瀬駅です。跨線橋とホームで見た南口の改札が見えます。

庭瀬駅(南口)と書かれています。改札には駐輪場の側から階段で上ることになります。平成20(2008)年12月に新設されてからは、駅舎の南側からの利用者は、ずいぶん便利になったようです。
南口改札口の正面です。

岡山市の西の端にある駅、庭瀬駅を訪ねて来ました。1日、4000人を超える人が乗車されている”無人駅”でした。
次回は、庭瀬東踏切から、庭瀬城跡と撫川城跡を歩くことにしています。


JR西阿知駅を訪ねる

2021年05月16日 | 日記
JR山陽本線の西阿知駅です。倉敷市西阿知町にあります。木造駅舎に設けられている左右の青いラインが印象的な駅舎です。

駅舎のある西阿知町は、西阿知、西原、西阿知新田、片島町の4つの集落からなっています。 古代には、”吉備の穴海” と呼ばれた海だったところでした。高梁川の河口付近にあり、江戸時代には、上流から運ばれてきた土砂が堆積し、干潮時には干潟が広がるようになっていました。そのため、その干潟を干拓して新田の開発が行われるようになりました。 西阿知町はこうして生まれたところでした。 
西阿知駅の開業は、大正9(1920)年5月25日。 開業当時の所在地は、岡山県浅口郡河内(こうち)村で、倉敷駅と玉島(現・新倉敷)駅の中間駅として開業しました。 

岡山駅から乗車してきた糸崎駅行きの普通列車は、20分ぐらいで、西阿知駅の1面2線の島式ホームに到着しました。平日の午前中でしたが、10人ぐらいの人とともに下車しました。列車は、やがて、次の新倉敷駅に向かって出発して行きました。上家の下に置かれたベンチと、その先の長いホームが見えました。

列車が出発した後のホームの南側です。柵の外側の側線には工事車両が停車していました。その向こうは、岡山県立水島工業高等学校の敷地になっています。 山陽本線は、兵庫県の神戸駅から山口県の下関駅までを結んでいる本線と、JR兵庫駅からJR和田岬駅までの全長1.7kmの支線(通称、「和田岬線」)からなる路線(幹線)です。 和田岬線は、明治23(1890)年に貨物支線として開業しています。

ホームの西側から見た岡山駅側の光景です。
山陽本線は、明治21(1888)年、山陽鉄道が兵庫駅・明石駅間で開業させたことに始まります。その後、西に向かって延伸し、明治34(1901)年、馬関(現・下関)駅まで開業しました。 そして、明治39(1906)年には国有化され、明治42(1909)年の国有鉄道の路線名称の制定により「山陽本線」と呼ばれるようになりました。 西阿知駅が開業したのは、この後のことでした。

ホームから見た駅舎です。駅舎からは地下道を通ってホームに上がるようになっていましたが、現在は、エレべーターでも移動ができるようになっています。 岡山駅・倉敷駅間が、山陽鉄道により開業したのは、明治24(1891)年4月25日。その後、さらに西に向かって延伸し、倉敷駅・笠岡駅(岡山県最後の駅)間が開業したのは、同じ明治24(1891)年の7月14日のことでした。西阿知駅は、大正9(1920)年の開業ですから、倉敷駅・笠岡駅間の開業から30年ほど遅れて開業したことになります。

岡山駅方面行きの列車が停車する駅舎側の1番ホームを、貨物列車が通過して行きました。ホームを岡山駅方面に向かって、さらに進みます。
ベンチが並ぶ先に自動販売機とその後ろの待合室が見えました。

待合室の裏には、駅舎とホームを結ぶ地下道から続く階段が設けられています。手前の柱に「建物資産標」が貼られていました。

それには「建物資産標 鉄停 駅 旅客上家1号 大正12年2月」と、書かれていました。 西阿知駅の開業から2年半後に建てられた上家のようです。建設から、すでに100年が経過しています。
平成23(2011)年3月に使用が始まったエレベーターの出入口がありました。
さらに、岡山駅方面に向かって歩きます。長いホームが見えます。
駅名標がありました。西阿知駅は倉敷駅から4.0km、次の新倉敷駅まで5.3kmのところにあります。開業時の浅口郡河内村は、大正15(1926)年に西阿知町に改称されました。 そして、昭和28(1953)年には、西阿知町は倉敷市に編入され、現在の倉敷市西阿知町になりました。
エレベーターの跨線橋を過ぎて岡山駅方面に向かって歩きます。
岡山側のホームからの新倉敷駅側のホームのようすです。上家の中にベンチが設置されています。線路を跨ぐエレベータの跨線橋の向こうに西阿知駅の木造駅舎が見えます。

ホームのエレベーターの出入口の前に戻りました。 駅舎から地下道を利用する乗客が上り下りする階段です。  駅舎に向かうことにします。

改札口の前に出ました。
西阿知駅を訪ねてみようと思ったのは、この駅が、1年前の令和2(2020)年4月11日から、県内の鴨方駅(山陽本線)、早島駅(宇野線)とともに、無人駅になっていたからです。 西阿知駅の1日平均乗車人員は、平成30(2018)年には、3,107人だったそうです。 無人駅といえば、「利用者が少ない駅」というイメージでしたが・・・。多くの利用者がいる駅でした。

階段の正面に改札口、その左側にはトイレが設置されています。トイレ前の柱にあった「建物資産標」には「建物資産標 鉄停 駅 旅客上家 2号 平成23年3月」と書かれていました。

階段の右側に設けられていたエレベーターの跨線橋です。木造駅舎には不釣り合いなほどどっしりとした印象です。出入口の近くにあった「建物資産標」にも、同じ「平成23年3月」と書かれていました。エレベーターの跨線橋を整備したとき、改札口付近一帯をまとめて整備したようです。

改札口前の地下道への入口です。地下道への通りを覆う上家の右側の柱に「建物資産標」がありました。そこには、「建物資産標 鉄停 駅 旅客上家3号 大正13年6月」と書かれていました。開業から4年ぐらい後に整備されているようです。

改札口から駅舎に入ります。駅舎の左側の部分は待合いのスペースになっています。

改札口の右側のようすです。窓口は閉鎖されており、自動券売機が設置されていました。
駅舎から駅前の駐車スペースに出ました。青地に黒の「西阿知駅」の駅名標が鮮やかです。出入口の、向かって右側の柱の脇の壁面に「建物資産標」がありました。

「建物資産標 鉄停 駅 本屋1号 大正7年7月」と書かれていました。駅舎は大正7(1918)年7月に完成したようです。 なぜ、開業が2年後の大正9(1920)年になったのかということについて、「西阿知駅は、大正7年7月に完成し、開業は2年近く後の大正9年5月25日と記録には見える。実は鉄道の開通の時に駅の設置は決まっていたが、高梁川が洪水で決壊したため取りやめになり、駅舎の建設はお預けになった」(「岡山の駅」難波数丸著)からということのようです。 当時、「高梁川は東西2本に分かれていたが、洪水対策として東高梁川を廃川とし、西高梁川を現在の流れに改修する工事が行われており、線路の位置も変わったので、駅舎は完成しておりながら、線路の付け替え工事が終わった2年後の開業になった」(同上)のだそうです。

駅舎の前は駐車スペースになっています。駅舎の新倉敷駅側に地下道がありました。 駅の周辺を歩いてみることにしました。民家の手前の屋根の下から地下道に入ります。

西阿知駅の裏(南)側の新倉敷駅方面です。線路と並行して長い駐輪場がありました。自転車がぎっしり並んでいます。
駐輪場から見えた南側の光景です。通りの右側が水島工業高校の敷地、突きあたりに見えるのは、倉敷市立倉敷第一中学校の校舎です。周辺は静かな住宅地になっていました。

駅舎前に戻ってきました。駅舎の正面の通りを高梁川方面に向かって進みます。JAの建物のある交差点の左側に、西阿知公民館がありました。

西阿知公民館です。 中に、西阿知地区の歴史に関する展示室がありました。 冒頭でも書きましたが、西阿知地区は江戸時代になってから、海の中の干潟を干拓することによって生まれました。「干拓してすぐの農地は塩分が含まれているため、塩分の含まれる土地でも育ち、土地の塩抜きもできる作物として、綿花やい草が多く栽培されていました」と「説明」には書かれていました。

特に、「西阿知地区は、い草を加工した畳表(たたみおもて)や畳縁(たたみべり)のブランド力が、全国でも高まっていた。 明治以降は西洋の技術を導入し織機が普及していった」そうです。 
写真は、公民館に展示されていた「ロール式織り込み花筵織機」。昭和22(1947)年創立の地元企業である、岡工作所が製作した花筵(はなむしろ)の織機です。
「昭和39(1964)年をピークに栽培は減少していったが、加工技術は今もこの地に広がっているという」と「説明」には書かれていました。

JR西阿知駅を訪ねて来ました。
倉敷市にある「無人駅、西阿知駅」は、利用者の少ない駅という「無人駅」のイメージを覆す、閑静な住宅地にある、多くの利用者に支えられている駅でした。























山小屋風の駅舎、JR豊永駅

2021年04月13日 | 日記
JR豊永駅です。高知県長岡郡大豊(おおとよ)町東土居にあるJR土讃線の駅です。三角形の屋根と丸太造りの外観を持つ山小屋風の駅舎です。この日は、このログハウスの駅舎を見るため、JR豊永駅を訪ねました。

JR豊永駅によく似たデザインのJR阿波池田駅です。土讃線は、香川県の多度津駅と高知県の窪川駅間を結ぶ、全長198.7kmの全線単線の鉄道です。多度津駅・琴平駅間の11.3kmを除いて、非電化区間になっています。普通列車は、高松駅(多度津駅)~琴平駅間、琴平駅~阿波池田駅間、阿波池田駅~高知駅間、高知駅~窪川駅(須崎駅)間で、区間運転を行っています。

JR阿波池田駅で出発を待つ高知駅行きワンマン列車、単行気動車の1016号車です。 1016号車など1000形車両は、高知・徳島地区の非電化区間で使用するため、JR四国が設計した車両です。平成2(1990)年に28両(1001号車~1028号車)が製造され、その後、平成10(1998)年までに合計56両(~1056号車)が製造された、JR四国の主力車両です。

阿波池田駅からの土讃線は吉野川のつくった美しい渓谷に沿って敷設されていますが、多くが、最長の大歩危トンネル(全長4179m)などのトンネルを抜けるコースになっています。 
阿波池田駅から35分ぐらいで、豊永駅の中央部にある島式ホームに到着しました。豊永駅は一つ手前の土佐岩原駅から4.0km、次の大田口駅へ3.7kmのところに設置されています。

高知駅方面です。跨線橋で線路を跨ぎ駅舎に行く構造になっています。右側のホームにも跨線橋が通じています。

乗車してきた列車は、次の大田口駅に向かって出発して行きました。この先、1時間30分ぐらい、高知駅に向かう旅が続きます。下車したのは、私一人でした。

ホームの阿波池田駅方面のようすです。島式ホームの左側の線路の脇に、工作車両の留置線として使用されている側線がありました。山間の駅らしい光景が広がっています。
土讃線は、明治22(1889)年、讃岐鉄道によって、香川県の丸亀駅・多度津駅・琴平駅間が開業したことに始まります。そして、62年後の昭和26(1951)年、高知県の影野駅・窪川駅間が開業し、多度津駅・窪川駅間の全線が開通しました。

ホームの阿波池田駅側の端から見た高知駅方面です。側線の外側は枕木や砂利の置き場になっています。砂利置場の先に短いホームが見えます。かつてはホームとして使用されていましたが、現在はこのホームは、駅の右側を線路と並行して走る国道32号へ通じる通路として使われているようです。


ホームの端から高知駅側に向かって歩きます。ホームの中央に上家が設けられています。左側に、ログハウスの駅舎の屋根が見えます。駅舎の手前、車が停車している広場には、最近まで、駅職員の詰所として使われていた木造の建物が残っていたそうです。 

ホームの上屋には、歴史を感じるベンチが置かれています。
土讃線の高知県側からの鉄道建設は、大正13(1924)年に須崎駅・日下駅間が開業したことに始まりました。その後、高知駅、土佐山田駅、大杉駅と北に向かって延伸開業して来ました。そして、大杉駅・豊永駅間が開業した昭和9(1934)年10月28日に、豊永駅が開業しました。
さらに、昭和10(1935)年には、三縄駅・豊永駅間が開業して、香川県の多度津駅から高知県の須崎駅間がつながりました。そして、全線が開業したのは、先に書いたように、昭和26(1951)年、影野駅・窪川駅間(ともに高知県)が開業したときでした。
跨線橋に向かって歩きます。JR四国のホームでよく見かける小さな上家がありました。柱にあった建物財産標には、「国鉄 建物財産標 鉄 B停 諸舎1号 S60.3.9」と書かれていました。

跨線橋には「着手 昭和58年9月5日 しゅん功 昭和58年12月3日」と書かれたプレートが着いていました。竣工から37年が経過しているようです。
跨線橋に上がりました。「高知・高松方面のりば」と書かれた標識があります。列車の乗客はこの島式ホームから乗車するようになっています。国道32号側のホームに向かいます。

跨線橋から、ホームではなく通路になっている旧ホームに降りました。すぐ先に柵がつくられ旧ホームから左側の国道32号に降りていく通路がつくられていました。

旧ホームから見た駅舎方面です。青い空と明るい日差しに映えてとてもきれいです。

跨線橋に戻って、駅舎に向かうことにしました。跨線橋の上から見た高知駅側です。旧ホームからの側線は本線とつながっていませんでした。こちら側も、”山間の駅”らしい風景が広がっていました。

跨線橋で駅舎側に渡りました。使用済み切符の回収箱のついた、丸太造りのどっしりとした柱の間から駅舎に入ります。

2脚のベンチの上には座ぶとんが置かれています。広い窓から春の明るい日差しが差し込んでいます。右の窓から見える建物はトイレです。使用禁止になっているようで入口には木材が打ち付けられていました。トイレと駅舎の間の道は、跨線橋を渡って国道32号に向かう人たちのための通路としても使用されています。

豊永駅は、昭和59(1984)年に、乗車券の発券業務だけを委託する簡易委託駅になりました。昭和62(1987)年2月に現在の山小屋風の駅舎が完成しました。そして、その年の3月からは有人駅として復活し、平日の午前中は駅員の方が勤務に就いておられたようです。その後、平成22(2010)年9月から無人駅になっています。かつての窓口の前にはカウンターが新たにつくられており、たくさんの手芸の作品が飾ってありました。

駅舎内にあった時刻表です。それを見て驚いたのは、豊永駅に停車する列車が、上り、下りとも1日5本しかなかったことです。阿波池田駅行きの列車は、7時03分発、14時43分発、17時23分発、19時10分発、21時01分発になっています。日中は特に少なく、午前と午後1本ずつしかありません。
ちなみに、この駅の乗降客数は、令和元(2019)年には1日平均18人だったそうです。

駅舎への出入口には、一枚板の駅名標が、出入口の上に掲げられていました。

駅舎前の道路から見た山小屋風の駅舎です。公衆電話の脇に石碑が、その手前にトイレの建物がありました。
公衆電話の脇にあった石碑です。石碑には、「鉄道全通記念」と彫られています。石碑の左側面には「昭和10年11月28日」と刻まれています。この日付は、豊永駅・三縄駅間が開業し、高知駅・多度津駅間がつながった日でした。土讃線の全通に期待をかけていた、当時の人々の気持ちが伝わって来ます。
豊永駅の周辺を歩いて見ることにしました。豊永駅前の道路(高知県道260号豊永停車場線・全長348m)を高知方面に向かって、大豊町東土居の家並みを見ながら歩きます。左側の先に高知銀行の看板が見えました。
高知銀行の先、通りの左側にある酒店の前で県道から別れ、右折して、国道32号に向かって進みます。

県道の向こう側の山すそに、廃校となった旧大豊小学校の校舎がありました。昭和30(1955)年東豊永村、西豊永村、大杉村と天坪村が合併し大豊村が発足しました。村名は、大杉村の「大」と豊永の「豊」から名づけられたそうです。その後、昭和47(1972)年には町制を施行し、大豊町となりました。
それから42年後の平成26(2014)年、大豊町内の大杉小、大田口小、大豊小が統合され、「おおとよ小学校」が、土讃線大杉駅の近くに開校しました。
こうして、旧大豊小学校は、平成28(2016)年に廃校となりました。現在も、廃校になったとは思えない美しい純白の校舎が、子どもたちを見守っています。

その先で、昭和6(1931)年7月に架設された豊永橋を渡ります。
豊永橋を渡ると、すぐ前に土讃線の豊永踏切がありました。その先の通りは、香川県高松市と高知市を結ぶ国道32号。高知市に向かっています。
踏切の手前を左に向かうのは、国道32号から分岐する国道439号です。439号なので「よさく・与作」というニックネームをもつ、四国で最長の国道だそうです。
豊永踏切を渡って、国道32号に出ました。国道の左側を流れる吉野川と並行して阿波池田駅方面に向かっています。

JR豊永駅を訪ねて来ました。
ログハウスの山小屋を連想させる駅舎が印象的でした。
新緑の山々に囲まれた美しい町にある美しい駅でした。