トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

青春18きっぷのポスターの駅、JR小歩危駅

2019年01月31日 | 日記

「小歩危(こぼけ)」の駅名標とその後ろにある断崖を撮影しました。このアングルから広角に撮影した写真に、「『歩くと危ない』という名は、山が険しいからでしょうか。渓谷に見とれてしまうからでしょうか。」というコピーが添えられた青春18きっぷのポスターが、平成29(2017)年の夏に、全国のJRの駅に掲示されました。このポスターに使用されたのは、JR土讃線の小歩危(こぼけ)駅でした。

大歩危(おおぼけ)・小歩危とよばれる吉野川がつくった美しい渓谷の中にある小歩危駅を訪ねるために、JR阿波池田駅で、土讃線の高知行き、ワンマン運転の普通列車に乗り継ぎました。単行の気動車(1014号車)は、定時に出発しました。

阿波池田駅を出て、三縄駅を過ぎると、次は、以前訪ねたログハウスの待合室があるJR祖谷口駅(「ログハウスの待合室がある駅 JR祖谷口駅」2019年1月17日の日記)です。

次は、以前訪ねた「狸の駅舎」で知られる阿波川口駅(「やましろ狸が迎える駅、JR阿波川口駅」2019年1月11日の日記)に停車。阿波川口駅を出発すると、すぐに銅山川に架かる伊予川橋梁を渡ります。

銅山川は愛媛県四国中央市から、ここまで東(右から左)に向かって流れて来ましたが、伊予川橋梁の左側付近で吉野川に合流します。その後、三好市池田町付近で、東に流れを変え徳島市に向かって流れて行きます。伊予川橋梁の先には山城谷トンネル(2,178m  昭和25=1950年1月4日開通)の入口が見えます。土讃線は、このトンネルが完成するまでは、左側の吉野川に沿って小歩危駅へ向かっていました。土讃線の阿波池田駅から土佐山田駅間は、豪雨による土砂崩れや地滑りなどの被害をたびたび受けてきたため、トンネルの掘削によってルートの変更が行われたところです。山城谷トンネルはその先駆けになったトンネルでした。

山城谷トンネルからは大小6つのトンネルを抜けて進んで行きます。最後の「第2小歩危トンネル」を抜けると小歩危駅のホームが見えました。阿波池田駅から20分ぐらいで、列車は、左側の1番ホームに停車しました。小歩危駅は徳島県三好市山城町西宇(にしう)に設置されています。阿波川口駅から4.7km、次の大歩危駅まで5.7kmのところにありました。

私が下車すると、列車は、次の大歩危駅に向けて出発して行きました。小歩危駅は、昭和10(1935)年、三縄駅と豊永駅間が開業し、起点である多度津駅と窪川駅間がつながったときに、「西宇駅」として開業しました。現在の「小歩危駅」と改名したのは昭和25(1950)年10月1日のことでした

下車した1番ホームから見たホームの全景です。相対式、2面2線のホームでしたが、駅名標があるだけの簡素なつくりでした。2番ホームの後ろの急斜面に数戸の民家がありました。対面する2番ホームへは、大歩危駅方面の端にある構内踏切で移動するようになっています。しかし、実際には、この駅に停車する普通列車は上りも下りも1番ホームに停車することになっています。

小歩危駅に滞在中に、高知行きの特急”南風”が2番ホームを通過していきました。通過列車は2番ホームを上り下りともに使用する一線スルーの構造になっています。

1番ホームから見た小歩危駅の阿波川口駅方面の光景です。土讃線に沿って走っているのは国道32号(徳島北街道)。道路沿いの民家の右側には吉野川の深い渓谷があります。

”WELCOME JR小歩危駅”という看板があるJR小歩危駅の駅舎です。駅舎は改修されていますが、昭和10(1935)年の開業時の木造駅舎だといわれています。

ホームから駅舎に入ります。小歩危駅は、昭和45(1970)年から無人駅になっています。ベンチが1脚置かれただけのシンプルな駅舎です。

駅舎内にあった時刻表です。近くに、平成31(2019)年3月16日のダイヤ改正で「6時20分発の大歩危・高知方面行きの下り列車
は廃止されます」という掲示がありました。阿波池田駅から高知方面に向かう普通列車は、昨年(平成30年)3月17日のダイヤ改正で、阿波池田駅を9時31分に出発する列車が廃止されました。そのため、阿波池田駅を7時20分に出発する列車の次は、11時57分発の列車まで無く、特急列車が通過する駅に行くにはすごく不便になりました。この3月に、さらに1本が廃止されると、地域間輸送は、さらに不便になっていくのではないでしょうか。

駅舎からの出口は、左側にあるトイレの脇を左に進んだところにあります。

駅舎から外へ出ました。大歩危駅方面に進みます。構内踏切がありました。上り列車に乗車する人はここから「上りホーム」に向かうようになっています。

その先の光景です。幾重にも続く四国山地の山々を背景に国道や土讃線の線路が続いているのが見えます。踏切に向かう道も見えます。

右に向かって行くとその先に小歩危踏切がありました。踏切の先は、急峻な断崖の上の集落に向かう道が続いています。

駅舎に帰って来ました。駅舎の脇を抜けて国道に下りることにしました。国道沿いの民家がずいぶん下に見えます。

駅舎の阿波川口駅方面の階段から国道に下りました。下ってきた急な階段をふり返って撮影しました。想像以上の高い所に駅舎があります。断崖を削って線路や駅舎を設置したことがよくわかります。

阿波川口駅方面に向かって国道を歩きます。右側に、現在は閉店していますが、「鮎 あめご 姿寿し料理」と書かれた看板のあるお店がありました。かつては、大歩危・小歩危の渓谷を訪ねる観光客が立ち寄っていたことでしょう。

その先に土讃線のトンネルがありました。小歩危駅に到着する直前に抜けてきた、第2小歩危トンネル(全長62m)でした。

小歩危駅に戻ってきました。小歩危駅に来たらどうしても見て帰りたい風景がありました。大歩危駅方面に向かって歩きます。右側の崖の上を土讃線が走っています。

国道の左側に、吊り橋の支柱が見えました。その脇に「赤川橋」の石標と「赤川庄八翁顕彰碑」がありました。以前訪ねた土讃線祖谷口駅でも、この人の顕彰碑を見たことを思い出しました。

以前訪ねた祖谷口駅付近で吉野川を渡る大川橋です。土讃線が開通する前、祖谷口駅の地元、当時の三好郡山城谷村、三縄村、東祖谷村、西祖谷村の人たちにとって、祖谷口駅を誘致することは悲願ともいうべきものでした。駅の設置を陳情した鉄道省からの回答は「吉野川に架橋することを条件に駅の設置を許可する」というものでした。このとき「地元の林業家、赤川庄八翁が個人で5万8千円をかけて架橋し、昭和10(1935)年、土讃線祖谷口駅が開業したとき、同時に大川橋も開通しました。2代目赤川庄八翁は、大川橋を池田町に寄付し町道になりました」(顕彰碑)。

ここ赤川橋の脇の顕彰碑には、「赤川庄八翁は文久2(1862)年、川崎(現、三好市池田町川崎)生まれ。明治14(1881)年酒造業を創業し、その利益で、明治32(1899)年から国見山で林業を始めた」、「大正12(1923)年には、国見山造林橋を架橋し」、「昭和43(1968)年には、西宇地区の人々に飲料水を提供するため、簡易水道を設置する用地を提供し」、「平成17(2005)年、造林橋と林道を山城町に寄付された」と書かれていました。「人のために尽くすことに厚い」(顕彰碑)人だったそうです。

赤川橋がある辺りの吉野川には、小歩危峡と呼ばれている美しい渓谷が続いています。「ほけ」「ほき」という言葉は、「渓流に臨む断崖」を表しています。「崩壊(ほけ)」とも書くそうです。「ほけ」に「歩危」という字をあてはめたのは、明治6(1873)年の地租改正の際に、当時の三名村(昭和61=1956年9月30日に山城谷村と合併して山城町となりました)が「小歩危」と標記したのが始まりだったようです。そして、これに合わせて、後に、「大歩危」とも標記されるようになったそうです。

小歩危駅から20分ぐらいで、三好林業センターの建物の脇を通過しました。

林業センターの先で、国道32号は大きく右にカーブします。まっすぐ坂を上っていく道との分岐点になっています。

国道を右にカーブして歩きます。その先で、土讃線の線路の下をくぐります。

その先に「ここから 剣山国定公園 大歩危峡」の標識がありました。吉野川は、小歩危峡から大歩危峡に入ったようです。

少し先まで歩いて振り返って撮影しました。これが見たかった景色です。土讃線の第二吉野川橋梁でした。第二吉野川橋梁は、大歩危駅・小歩危駅間で唯一の橋梁でした。昭和10(1935)年、土讃線の三縄駅・土佐山田駅間が開業したときに開通しました。中央部の雄大な曲弦ワーレントラス(78メートル)と9基のプレートガーターをつなげた全長250メートルの橋梁です。それを支える橋脚は、最高30メートルの長さだそうです。美しい渓谷と調和した優美な姿の橋梁でした。

国道32号の先には、大歩危洞門の入口がありました。ここから引き返します。来るときに国道が右カーブした地点まで戻りました。

そこから坂を上がりきったところが、温泉施設「サンバリー大歩危」の広い駐車場でした。そして、正面に第二吉野川橋梁の優美な姿が見えました。そこで思い浮かんだのが、第一吉野川橋梁でした。第一吉野川橋梁(全長170メートル)は、土讃線の箸蔵駅と佃駅の間の吉野川に架かっています。第一、第二の二つの吉野川橋梁は、同じ昭和10(1935)年に架橋されており、中央部の曲弦トラス(78m)の前後にプレートガーターをつなげた、同じ構造になっています。中央部の曲弦トラスは、どちらも同じ川崎造船製で長さも重さも同じなのだそうです。ちなみに、JR高松駅とJR徳島駅を結ぶ高徳線には「吉野川橋梁」が架かっています。

青春18きっぷのポスターに使われた駅だからと訪ねたJR小歩危駅でしたが、木造駅舎があるだけのシンプルなつくりの駅でした。大歩危機駅との間で吉野川を渡る第二吉野川橋梁の優美な姿が印象に残った、JR小歩危駅への旅でした。




レトロな駅舎が撤去されていた! JR須波駅

2019年01月25日 | 日記
レトロな駅舎が郷愁を誘うJR呉線の須波(すなみ)駅を、いつか訪ねてみたいと、ずっと思っていました。

呉線は、平成30(2018)年7月に起きた西日本豪雨で甚大な被害を受け、全線不通になりましたが、「完全ではないが、12月15日に復旧した」とお聞きして、訪ねてみることにしました。呉線の東側の起点であるJR山陽本線の三原駅からスタートしました。ホームに、広駅行きのワンマン運転の2両編成、105系の電車が待っていました。

須波駅は三原駅の次の駅で、三原市須波町にあります。三原駅から5.1km、次の安芸幸崎(あきさいざき)駅まで6.7kmのところにありました。

須波駅の駅舎は進行方向の左(瀬戸内海)側にあるといわれてきました。列車が須波駅に入ってから停車するまで、駅舎の姿を見ることはできませんでした。駅舎は、すでに撤去されていたからです。これは、下車後にホームから撮影した写真ですが、新しい舗装の跡が見えました。ここが駅舎跡だと確信しました。駅舎を見るためにやって来たので、がっくりでした。もっと早く訪ねていればと後悔しました。

2面2線の長いホームの広駅寄りに、列車は停車しました。運転士さんに切符をお渡しして下車しました。ホームの裏に、標高311メートルの筆影(ふでかげ)山の優美な姿が見えました。

山側のホームにあった「名所案内」です。「筆影山」の説明でした。「瀬戸内海国立公園 ふでかげやま ハイキングに好適 北4km 徒歩1時間」とありました。須波駅は、平成16(2004)年春の「青春18きっぷ」のポスターに載っていました。山の上から呉線と瀬戸内海を撮影した写真の中に書かれていた「√a=18 旅路(ルート)のなかでは 人はいつも18(age)である」というコピーが印象に残っています。筆影山から撮影した写真だったのではないでしょうか。

列車は、次の安芸幸崎駅に向けて出発していきました。呉線は、軍港の呉と軍都の広島を結ぶために、明治36(1903)年に、海田市(かいたいち)駅・呉駅間が開業したことに始まります。その後、東に向かって延伸していきました。駅構内を歩いてみることにしました。

向かいのホームにあった自動改札です。山側の上りホームへは、構内踏切ではなく、別の入り口から上がるようです。須波駅が開業したのは、昭和5(1930)年、三原駅・須波駅間が三呉線として開業したときでした。そして、東側の起点である三原駅と、海田市駅間が全通したのは、昭和10(1935)年のことでした。このときに呉線と改称しています。

三原駅側に進むとすぐにホームに使用済み切符の回収箱がありました。そこから下りる通りがありました。

その先に現在は使用されていない貨物用の側線とホームが残っていました。駅舎跡の手前まで線路が延びています。須波駅での貨物の取り扱いが終わったのは、昭和35(1960)年でした。現在も、使われることなく残っていました。

さらに下ると、右に向かって下っていく階段があり、下りきると右側に呉線のアンダークロスがありました。

アンダークロスをくぐると右側に階段があります。これが上りホームへの入口でした。そこに自動改札があります。須波駅は、昭和45(1970)年10月1日から無人駅化され、切符の販売のみを団体や個人に委託する「簡易委託駅」になりました。そして、簡易委託も終了し、完全に無人化されたのは、平成24(2012)年12月からでした。

上りホームにあった待合室です。内部は、6席のベンチが置かれているだけのシンプルなつくりになっていました。

下車した下りホームに戻ってきました。三原駅側に向かって進みます。駅名標が設置されている先に、待合いのスペースがありました。下りホームの自動改札は、ここに設置されていました。そこに、駅舎に下っていく道がありました。

待合いスペースにあった時刻表です。「2018年12月15日からの災害ダイヤ」と書かれています。平成30(2018)年7月の西日本豪雨で、安浦駅は冠水し、沿線の安芸幸崎駅・忠海(ただのうみ)駅間、安登(あと)駅・安芸川尻駅間、小屋浦(こやうら)駅・水尻(みずしり)駅間では、線路の上に土砂が流入しました。現在は復旧していますが、「災害ダイヤ」で運行されているようです。

駅舎に向かって下っていく道の脇に、JR西日本が誇る観光列車 ”トワイライトエクスプレス 瑞風”を歓迎する横断幕がありました。さらに進むと、もう一つホームから下りる階段がありました。この階段の下が新しく塗装されているかつての駅舎跡でした。この階段は、かつて、駅舎からホームに向かう階段として使われていたものでした。

見るのが楽しみだった駅舎が撤去されてしまっていたので、撤去の経緯を、三原駅にお伺いすると、「撤去工事は、平成30(2018)年11月1日から始まり12月末日までの日程で行われ、西日本豪雨の影響ではなく『シンプルな駅』にするために行われました」とのことでした。駅舎の維持・管理も経営的には負担だったのでしょうか? 現在、まだ残っている貨物側線や貨物ホームも、やがては撤去されることになるのでしょう。 写真は、駅舎跡にあった「案内」です。駅前の通りを進み国道185号に出て、そこを右折して進むと、須波港と生口島とを結ぶフェリーのターミナルがあるようです。行ってみることにしました。

須波駅跡から、海岸沿いを走る国道185号へ向かう通りを進みます。

国道185号に出ました。右折します。

すぐに、須波港口の交差点に着きました。

ここを、右に向かうと、先ほど行った呉線の上りホームに向かうアンダークロスに行くことができます。

左側には須波港がありました。船溜まりには、たくさんの漁船が並んで、からだを休めていました。

左に進みます。突きあたりにあった住吉神社です。そこに、この地の人々のために私財を投じた楢崎正員(まさかず)の功績についての「説明」がありました。

波除けの波止(はと)がつくられていました。楢崎正員は、江戸時代初期の元和6(1620)年、現在の三原市西町の算盤(そろばん)製造業を営む楢崎家に生まれ、人生の大半を家業の算盤造りに精励した人でした。延宝元(1673)年54歳のとき京都に上り、山崎闇斎(あんさい)の門下となり学問の奥義を究めて帰郷しました。その後は、三原城主浅野忠義の知遇を得、城中でたびたび講義をしたといわれています。62歳頃から隠居して、ここ須波の地で余生を送ったそうです。元禄9(1696)年に77歳で没した後は、先祖の眠る三原市西町の大善寺に葬られました。写真の手前は、長さ53メートルの北側の波戸で、石垣でつくられた上に、現在は、コンクリートが打ってありました。

正員がこの地に隠居したとき、海からの強い東風のため、転覆する船や港に帰れない船が多くありました。そのため、正員は私財を投じて波止を築き、船にかかわる人々の便を図ったといわれています。こちらは、長さ75メートルの南側の波止ですが、北側も南側も、4.5mメートルの高さでつくられているそうです。現在の国道185号沿いにも石垣が残っていたそうですが、国道の拡幅の時に埋め込まれたそうです。 二つの波止は、昭和17(1942)年、広島県の史跡に指定されています。

須波港から、国道185号を、さらに南に歩いていきます。三原須波郵便局、須波小学校、須波幼稚園を右に見ながら進みます。須波港から15分ぐらいで、生口(いくち)島の沢港へ向かうフェリーターミナルに着きました。

フェリーターミナルの建物です。中には、フェリー会社の事務所や売店、トイレなどが設けられていました。

桟橋付近から見た乗船券売場と、整備された「須波港湾緑地」です。

こちらは、突堤の先の風景です。正面手前(左側)は小佐木島、右側から小佐木島の裏側に広がるのが佐木島です。瀬戸内海らしい風景が広がっています。

フェリー港付近に掲示されていた航路図です。上方が南に描かれています。須波港からほぼまっすぐ南に向かい、30分弱で沢港に到着するようになっています。現在は、平成27(2015)年に、「須波航路サービス」から運航を引き継いだ「しまなみ海運」が運航しています。

沢港からやってきた「第七かんおん」が到着しました。折り返し、沢港に向かうフェリーです。「第七かんおん」は、もともとは、平成10(1998)年に竣工した「フェリーしまなみ」でした。当時運航していた三原観光汽船が、航路を廃止し廃業した、平成21(2009)年に、事業を引き継いだ「須波航路サービス」へ移籍し「やっさもっさ」と改名しました。そして、平成27(2015)年に、現在のしまなみ海運に引き継がれてからは、「第七かんおん」と改名されたそうです。このような事業者の変遷には、平成11(1999)年に開通した「しまなみ海道」の存在が、大きく影響したといわれています。

運航スケジュールです。平日10便(日曜・祭日11便)運航されています。

「第七かんおん」(総トン数 234トン、全長 49.80メートル、旅客定員 120人)は、10台ほどの自動車とサイクリングの青年を乗せて、定時に出発して行きました。

郷愁を誘うレトロな駅舎を見ようと訪ねたJR須波駅でしたが、残念ながら、駅舎はすでに撤去されており見ることができませんでした。もっと早く来ていればと後悔もしましたが、それ以上に、古きよき駅舎が一度も見ることなく消えてしまった淋しさを、強く感じた旅になりました。








ログハウスの待合室がある駅、JR祖谷口駅

2019年01月17日 | 日記

JR土讃線の祖谷口(いやぐち)駅の待合室です。ログハウス風の建物が、訪れる旅人を迎えてくれます。静かな山間にひっそりと建つこの待合室を訪ねてきました。

JR祖谷口駅は、徳島県三好市山城町下川(しもかわ)にあります。土讃線で、JR阿波池田駅を出て2つ目にある駅です。

三好市池田町にある阿波池田駅から、ワンマン運転のディーゼルカー(DC)の単行列車で出発しました。阿波池田駅から丸山トンネルを抜けると、JR三縄駅。やがて、吉野川が進路方向左側を流れるようになると、めざす祖谷口駅に着きます。

阿波池田駅から8.4km、15分足らずで、祖谷口駅の1面1線のホームに到着しました。下車したのは、私と地元の女性の2人だけでした。女性はそのままホームを先に進んで行かれました。同時に、乗車してきたDCも出発して行きました。

下車してすぐ前に立っていたのが、国鉄時代の「名所案内」標識です。表面が剥がれていますが、長い年月を生きてきた標識で、「秘境祖谷 雄大な渓谷美と紅葉の名所 歴史と伝統の日本三大奇橋 かずら橋」と書かれています。現在では、特急列車も停車する大歩危(おおぼけ)駅が、かずら橋も含む祖谷地方へ行く最寄駅になっていますが、かつては、この駅が祖谷地方への入口の駅になっていました。「祖谷口駅」という駅名もそういうことから名づけらたといわれています。

名所案内標識の前から見た阿波池田方面です。右側にホームから下りる階段があります。その先に、屋根がついた待合いのスペースがつくられています。

ホームから下りる階段の先にあった駅名表示です。祖谷口駅は、三縄駅から4.5km、次の阿波川口駅まで2.8kmのところに設けられていました。

その先にあった待合いスペースです。作り付けのベンチと掲示板がありました。

その先には、枕木の柵がつくられていました。かつては、全国のほとんどの駅でみられた光景です。祖谷口駅は、昭和10(1935)年、土讃線の三縄駅・豊永駅間が開業し、起点であるJR多度津駅(香川県仲多度郡多度津町)とJR窪川駅(高知県高岡郡四万十町)間がつながったときに開業しました。ここに、駅を誘致することは、地元の旧三好郡山城谷村(昭和31年に三名村と合併して町制を施行したときに山城町と改称しました)、三縄村、東祖谷山村、西祖谷山村の人々にとっては悲願ともいうべきものでした。陳情の末の開業は、大きな喜びだったに違いありません。

ホームの阿波池田駅方の端から引き返します。祖谷口駅のホームは右側の山に沿ってカーブしています。

ホームから下ります。正面に、ログハウス風の切妻屋根の待合室が見えます。大きな植木の脇につくられていました。ここには、かつて、祖谷口駅の木造駅舎がありました。昭和10(1935)年に開業した祖谷口駅は、昭和45(1970)年10月1日に、近距離切符の販売だけを団体や個人に委託する簡易委託駅になりました。

待合室の前から見たホームに向かう階段です。階段の上り口には駅名標と時刻表が設置されています。昭和62(1988)年に、国鉄の分割民営化により、土讃線がJR四国に移管されたとき、祖谷口駅の駅舎が解体されました。しかし、地元の人々の強い要望を受けて、当時の三好郡池田町と山城町が、駅舎跡に設置したのが、このログハウス風の待合室だったのです。その後、三好郡内の6町村(三野町・池田町・山城町・井川町・東祖谷山村・西祖谷山村)が「平成の大合併」によって、平成18(2006)年に三好市となりました。こういう経緯により、現在も、この待合室は三好市によって管理されています。

入口に「祖谷口駅待合所」という看板がありました。入口の左にあった郵便ポストの脇から待合室に入りました。内部は、ベンチが置いてあるだけの簡素な造りになっていました。

シンプルな造りの内部でしたが、唯一彩りを添えていたのが、この花でした。右奥においてあったたくさんの座布団とともに、地元の人たちの駅にかける思いを感じることができました。

駅前の通りです。かつては商店が軒を連ねていたといわれています。

駅前にあった「ショッピングストア サキカワ」。簡易委託駅だった頃、切符の販売を受託していたお店です。

サキカワさんのお店の前の道を右方向に上っていきます。下を走るトラックが見えますが、高知方面に向かう国道32号(徳島北街道)です。標識を見ると、この先、400メートルのところに祖谷地方に向かう道が分岐しているようです。国道32号の向こうに山の斜面に張り付くように建っている民家との間には、吉野川が流れています。

その先の下川踏切で、阿波池田方面に向かう土讃線の特急列車と出会いました。踏切の先にも集落が広がっています。ここで、引き返し、祖谷口駅の開業に尽力していた人たちの故郷を訪ねることにしました。

「ショッピングストア サキカワ」から、国道32号に向かって下っていきます。通りの先を右折します。

国道32号に下りると、吉野川に架かる大川橋がありました。現在は「通行禁止」になっています。大川橋の袂にあった説明板を読んで、この橋が、祖谷口駅の開業に大きな影響を与えたことがわかりました。先にも書きましたが、祖谷口駅の開業を熱望していた三好郡山城谷村、三縄村、東祖谷山村、西祖谷山村の人々はそれぞれの村会での決議を基に、駅の開業を求めて鉄道省への陳情を行いました。その時の鉄道省からの回答は、「吉野川を渡る橋(大川橋)を架橋することを条件に、駅の設置を許可する」というものでした。

そのとき、「川崎地区の林業家、赤川庄八翁が個人で5万8千円を費やして架橋に取り組み、昭和10(1935)年の土讃線開業と同時に大川橋も完成したのでした。その後、大川橋は「賃取り(ちんとり)橋」(有料橋?)と呼ばれて地元の人に親しまれて来ました。そして、昭和27(1952)年、2代目赤川庄八翁が池田町へ大川橋を寄付し、町道となりました」と、平成29(2017)年に「祖谷口流域住民有志一同」の方々がつくられた「説明板」には書かれていました。この大川橋が完成したことで、祖谷口駅を開業させることができたのでした。赤川翁は文久2(1862)年川崎地区の生まれで、明治14(1881)年に酒造業を創業し、その利益で、明治32(1899)年から国見山で林業を始めた人でした。

国道32号に合流し右折、大川橋の前から高知方面に向かって歩きます。吉野川が左下を流れています。

国道32号から見た吉野川の上流側です。手前の青い橋は吉野川に架かる祖谷口橋、その向こうに見える赤い橋は祖谷川に架かる川崎橋です。青い祖谷口橋のあたりで、祖谷川と吉野川が合流しています。さらに、高知方面に向かって歩きます。

大川橋から10分ぐらいで、吉野川に架かる祖谷川橋に着きました。ここが祖谷地方への分岐点、「祖谷口」になります。左折して、祖谷口橋を渡ります。

祖谷口橋の上から見えた吉野川の上流地域です。

こちらが、祖谷口橋の真ん中辺りから撮影した祖谷川です。赤い橋は川崎橋。祖谷川の右(左岸)側が川崎地区です。大川橋を架橋し、祖谷口駅の開業に貢献した赤川庄八翁が活躍されていた地域になります。

祖谷口橋の対岸です。絶壁に立つ小便小僧の像や祖谷渓、さらにかずら橋方面へはここを右折して上っていくことになります。

対岸から見た祖谷口橋です。橋の向こうに土讃線の線路があります。そして、少し右側に祖谷口駅があるはずです。

祖谷口駅の対岸で二つの道に分かれます。一つは祖谷地区へ向かって行く徳島県道32号(山城東祖谷山線)です。もう一つの道は、県道32号から別れ、川崎橋で祖谷川を渡り川崎地区に向かう通りです。

ログハウス風の待合室がある山間の駅、祖谷口駅を訪ねてきました。そこで、祖谷口駅の開業に向けて尽力された人々や、祖谷山駅舎が取り壊されたときに待合室の建設に向けて尽力された人々について、学ぶことができました。
地元の人々の熱意によって開業され整備されて来た祖谷口駅の待合室が、いつまでも地域の人々の交流の場であってほしい、そう思った祖谷口駅の旅でした。




やましろ狸が出迎える駅、JR阿波川口駅

2019年01月11日 | 日記

JR土讃線の阿波川口駅の駅舎です。阿波川口駅は、三好市山城町大川持にあります。駅舎の正面にいる大きな狸は「汽車狸(きしゃだぬき)」。土讃線を利用する乗客をいつも出迎えています。JR四国と連携し、地元の「やましろ狸な会」が、駅舎を巨大な狸に見立てて模様替えしたもので、平成29(2017)年11月にお披露目されました。この日は、この狸に会うために、阿波川口駅まで行ってきました。

JR阿波川口駅は、JR阿波池田駅から高知方面に向かって3つ目の駅でした。吉野川がつくった渓谷の大歩危・小歩危(おおぼけ・こぼけ)の手前にある駅です。阿波池田駅から高知行きの普通列車で出発しました。

2面2線のホームが見えます。阿波池田駅から15分ぐらいで、阿波川口駅に着きました。下車したのは、下校中の高校生の他には私を含めて2名。下車すると、列車はすぐに出発して行きました。この駅の1日平均の乗車人員は、平成26(2014)年には65名だったそうです。

阿波川口駅は三好市山城町大川持にあります。三好市は、平成18(2006)年に、かつての三好郡三野町、池田町、山城町、井川町、東祖谷村、西祖谷村の6町村が合併してできました。四国の市町村の中で、最も広い面積をもつ自治体といわれています。阿波川口駅は、祖谷口(いやぐち)駅から2.8km、次の小歩危駅まで4.7kmのところに設置されています。

到着した2番ホームの高知寄りから見た阿波池田駅方面です。左側にある駅舎へは、跨線橋を利用して移動することになります。写真の左側に見える白い建物は、山城町商工会の建物です。商工会の建物が設置されているように、金融機関の支店も置かれており、阿波川口駅は、三好市山城町の経済の中心地にある駅でした。

阿波川口駅の1番ホームと駅舎です。白い三角形の屋根が印象的な建物です。模様替えする以前は、駅舎の表側もこのようなつくりになっていました。

2番ホームから見た1番ホームの跨線橋付近にあった横断幕です。「やましろ 狸の里 あわかわぐち やましろ狸な会」と書かれています。「狸の会」ではなく「狸な会」のようです。「やましろ狸な会」は、山城町の妖怪たぬき伝説を活かして、地域の活性化に取り組む住民のグループです。
 
JR土讃線の起点、JR多度津駅に停車していたJR四国の観光列車「四国まんなか千年ものがたり」号です。「狸な会」は、阿波川口駅が、この観光列車の停車駅になったのをきっかけに、この地に残る「妖怪たぬきの里」を観光の目玉にすることをめざして、駅の模様替えのために活動してきました(徳島新聞の記事より)。

これも1番ホームに建っていた「日本一 阿波川口 たぬきの里」の幟です。

これは1番ホームの駐車場前にあった「ようこそ! 狸伝説の里 阿波川口駅へ」の横断幕です。

そして、一番ホームで乗客を迎える狸です。この狸は、伝説によれば、庶民の味方で知恵者の「青木藤太郎狸」と、美人で知られた「おそめ狸」で、花嫁衣装からもわかるように、二人の狸は結婚しているそうです。

跨線橋の上から見た、並行して走る国道32号(徳島北街道)と並行して流れる吉野川です。

跨線橋から見た阿波池田方面です。2面2線のホームの左側に側線が見えます。かつて、この地で伐採された木材の輸送のために使われた貨物側線ではないでしょうか。

青木藤太郎狸とおそめ狸の前を通り、「歓迎 ようこそ狸の里 阿波川口へ」の横断幕から駅舎に入ります。阿波川口駅は、昭和10(1935)年、土讃線の三縄(みなわ)駅・豊永駅間が開通し、起点の多度津駅から高知県の窪川駅までつながったときに開業しました。昭和58(1983)年に無人駅(簡易委託駅)になりました。かつて設置されていたはずの改札口は、撤去されていました。

右側に駅事務所がありました。職員はおられませんでしたが、事務所の中で「汽車狸」が勤務に就いていました。

待合スペースです。ベンチの上には座布団が敷き詰められています。駅前広場への出口の上には川柳の短冊が並んでいる、ゴミ一つない清潔な駅舎でした。

阿波川口駅の現在の駅舎は、開業時に建てられた駅舎を、昭和63(1988)年3月に建て替えたものだそうです。駅舎から外に出ます。

駅舎全体を「汽車狸」に見立てたことがよくわかります。出入口の両側は、「四国まんなか千年ものがたり」の色に合わせて、赤、緑、白、青の4色で塗装されています。上の狸は、顔(縦 2メートル、横 2メートル)の上に制帽を被っている「汽車狸」です。

こちらは、駅舎の大歩危側の壁面です。こちらも、観光列車の模様と同じものが描かれています。トイレは、駅舎内にはなく、隣接している商工会館の1階部分に設置されていました。

阿波川口駅の阿波池田側の風景です。広場に枕木が置かれています。かつては、貨物の積み降ろしのための倉庫等があったところと考えられます」。駅のある地域の「山城」の地名は、山を背にしている地勢から「山背(やましろ)」となり、後に「山城」となったという説が有力です。三好市山城町の西側は、愛媛県四国中央市。愛媛県と徳島県の県境にある町でした。

駅前の通りを、阿波池田駅方面に向かって歩きます。平坦地が少なく、濃霧や積雪もあり降水量も多いこの地域は、林業に適したところでした。総面積の8割以上は森林だったといわれ、製材業がさかんな地域でした

通りの左側の崖の上には、三好市立山城小学校と幼稚園がありました。小学校に向かう石段付近には、乾燥のため、たくさんの木材が並べてありました。

右側に製材工場がありました。かつては、多くの材木が、阿波川口駅から運び出されていたはずです。阿波川口駅前まで引き返して、今度は大歩危方面に向かって歩きます。

かつての街道筋の雰囲気が残る通りを歩いていきます。左側に、登録有形文化財である「旧川口郵便局局舎と和風の主屋」がありました。「説明板」もつくられていました。白く見える建物が洋館の局舎です。「明治38(1905)年に建設され、下見板張り、ペンキ塗り、屋根や窓、軒回りに意匠を凝らした」洋館と、それと一体になった「出格子が構えられ落ち着きがある」和風の建物でした。当時は郵便業務とともに電話交換業務も行っていたそうで、この郵便局は「四国最大の特定郵便局」だったといわれています。昭和54(1979)年に局舎が移転され、その後は、写真スタジオになったそうです。

国道32号は現在は土讃線と吉野川の間を走っていますが、駅から続くこの通りは、かつての国道32号です。江戸時代の前期には土佐藩の参勤交代の道としても使われていました。今も、商店が並んでいます。

その先で、赤い塗装の川口橋を渡ります。下を流れる銅山川(伊予川)は、その名の通り、別子銅山のある別子山を源流としています。この左側で吉野川に合流します。

川口橋から見た吉野川方面です。土讃線の「伊予川橋梁」が見えます。その向こうに吉野川が流れています。地図では銅山川と書かれていますが、伊予国から流れてくるから「伊予川」とも呼ばれていたようです。JR四国は、「伊予川橋梁」と伊予川の方を使っています。

これは、以前、土讃線の列車から撮った伊予川橋梁です。橋梁の先は、山城谷トンネルを抜けるルートになっています。土讃線の阿波池田駅から土佐山田駅の間は、豪雨など自然災害によって大きな被害を受けて来たところでした。自然災害を克服するため、トンネルを掘削してルートを変更することが、たびたび行われてきました。

ここもその一つで、昭和25(1950)年11月1日に山城谷トンネルが開通する以前は、吉野川に沿って次の小歩危駅へ向かうルートでした。山城谷トンネルは全長2,179メートル。阿波池田駅から土佐山田駅間のルート変更の先駆けになったトンネルでした。これは、カメラを少し引いて撮影した写真ですが、それ以前の土讃線は、伊予川橋梁の左側のお宅の方に向かって進んでいたといわれています。

川口橋から見た銅山川です。左(右岸)側には四国中央市伊予三島に向かう国道319号が走っています。右の白い建物は、三好市山城支所です。この地に、前身の山城谷村役場が移ってきたのは、太平洋戦争中の昭和19(1944)年のことでした。その後、昭和31(1956)年山城谷村が三名村と合併したとき、「山城町役場」と改称されました。そして、平成の大合併により、現在の三好市山城支所になりました。

これは、「説明板」によれば、防空壕の跡だそうです。鉄道と国道の鉄橋が並んでいるこの地は、米軍の空襲を受ける可能性がありました。そのため、避難用の防空壕を掘り始めたのですが、岩盤が固いため掘り進むことができず、書類の保存用の防空壕になったといわれています。

現在は、この穴に世界の平和と地域の安全を守るため、土讃線開通80周年を記念して、「狸伝説の里、山城町」のシンボルとして「狸大明神」をお祀りしているそうです。

駅前広場に戻ってきました。駅舎には、地元の人らしい職員の方が勤務されていました。阿波川口駅は、現在では、切符の販売だけを委託されている簡易委託駅になっていました。駅舎内で勤務されていた職員の方が、「駅のスタンプ押しましょうか」と声を掛けてくださいました。

これがそのスタンプです。この駅のスタンプには「やましろ狸が出迎える駅 阿波川口駅」と書かれています。この日は、この汽車狸に会えた、楽しい一日になりました。

JR土讃線の阿波川口駅は、JR四国の「四国まんなか千年ものがたり」の停車駅になったことで、大きく変わり、全国に知られる「やましろ狸が出迎える駅」になりました。地元の人々のご尽力で、ホームや駅舎の各所にある幟と横断幕、愛嬌のある狸が見える楽しい駅になっていました。



大阪府の最南端にある駅、南海本線孝子駅

2019年01月04日 | 日記

大阪府道752号(和歌山阪南線)から見た、南海本線孝子(きょうし)駅です。大阪府泉南郡岬町大字孝子にあります。大阪府の最南端にある駅として知られており、この先にある孝子峠を越えると和歌山県に入ります。

この日は、孝子駅を訪ねることにしていました。特急停車駅であるみさき公園駅から、和歌山市駅行きの普通車(南海電鉄では各駅停車の電車をこう呼んでいます)に乗車しました。孝子駅までは4.4km。南海本線における最長区間になっています。

やがて、現在は廃駅となっている深日(ふけ)駅跡を通過します。線路の両側にホームが残っていました。深日駅跡は以前訪ねたことがありました(「南海電鉄深日駅跡を訪ねる」2018年9月9日の日記)。昭和19(1944)年に多奈川線が開業し深日港駅や深日町駅が開業したため、この年に旅客営業が、翌年に貨物営業が廃止されました。そして、昭和33(1958)に正式に廃止となっています。

みさき公園駅で乗車してから5分後、普通車の先頭車両から孝子駅の2面2線のホームが見えてきました。孝子駅に入ります。

進行方向左側の1番ホームに到着しました。乗降客はごくわずか、電車は、すぐに出発していきました。

1番ホームの端から見た和歌山市駅方面です。1067ミリの複線の線路も見えます。孝子駅を出た電車は、この先で右カーブして、県境の第1孝子トンネル(下り側:全長694メートル)を越えて和歌山県に入ります。また、ホームの左側に見えているのは、国道26号(第2阪和国道)の高架です。

ホームに「駅中心点」の表示がありました。南海電鉄本線は、明治18(1885)年、阪堺電鉄によって難波駅・大和川駅(後に廃止)間が開業したことに始まります。その後、明治31(1898)年に阪堺電鉄が、事業を、南海電鉄(明治28年設立)に譲渡したことにより南海電鉄の路線になりました。難波駅・和歌山市駅間が開業したのは、明治36(1903)年のことでした。

セピア色の写真のようなレトロな雰囲気を感じる駅名表示です。対面するホームにも設置されていました。孝子駅が開業したのは、難波駅・和歌山市駅までが開業してから7年後の明治43(1910)年のことで、臨時駅としての開業でした。常設駅になったのは、大正4(1915)年4月11日のことでした。

1番ホームから見た、みさき公園方面のようすです。1番ホームの待合スペース、向かいに2番ホームの待合スペース。その左側に駅舎があります。

2番ホームの駅名表示の向こうの山麓に、孝子の集落が見えます。明治22(1889)年の町村制の施行により日根郡孝子村となり、7年後に郡名の変更により泉南郡孝子村となりました。そして、昭和30(1955)年、同じ泉南郡内の2町2村が合併し岬町になったとき、現在の岬町大字孝子になりました。平成23(2011)年の人口は430人でした。

到着した1番ホームの待合スペースです。こちらの駅名表示は、真新しいもので、ホームのものとは異なっていました。

1番ホームの向かいに駅からの出口があります。その右側にトイレ、左側に2番ホームの待合スペースがありました。こちらの駅名表示も、ホームのものとは異なっていました。

向かいの2番ホームと駅からの出口へは、構内踏切で移動することになっています。

1番ホームから下り、構内踏切に出ます。人の気配はまったくありません。孝子駅は、南海本線の中で最も乗降客の少ない駅で、1日平均乗降人員は、133人(平成28年)なのだそうです。

駅舎から自動改札機にきっぷを通して外に出ました。駅舎内には自動券売機が設置されています。

駅舎内にあった時刻表です。日中は、1時間に普通車のみ4本程度が停車しています。乗降客だけでなく、停車本数も、南海本線の中で最も少ない駅となっています。

孝子駅の「孝子」はどのような意味があるのでしょうか? まず、考えられるのは「親孝行な子ども」という意味のように思います。孝子駅のある地域には、親を大事に思う「親孝行の子ども」にかかわる伝説が二つ残されています。一つは、平安時代、嵯峨天皇・空海と並び「三筆」と称えられた書の名人、橘逸勢(たちばなのはやなり)にまつわる言い伝え。もう一つは、飛鳥時代、修験道の開祖である役小角(えんのおづぬ)にまつわる言い伝えです。まず、「橘逸勢」にかかわる地を訪ねてみることにしました。孝子駅前を走る大阪府道752号を大阪方面に向かって引き返すことにしました。

駅から出発してすぐのところ、構内といってもいいところに、みさき公園13号踏切がありました。府道から踏切を渡ってさらに大阪方面に延びる通りがありました。

踏切を渡って進みます。通りがゆるく右カーブするところに石柱が残っていました。

「孝子越街道」と刻まれています。孝子駅の前を通って孝子峠を越えて和歌山県に入る府道752号は、現代の孝子越街道です。かつての孝子越街道は、ここを通っていたようです。孝子峠を越えて進む旅人のために築かれた道標のようです。

府道752号に戻り、さらにみさき公園方面に向かって歩きます。すぐ、左に孝子駐在所がありました。ここを左に向かえば、集落に入っていくことができます。

駐在所を過ぎると、左側に「岬の歴史館」になっている、旧岬町立孝子小学校の校舎が見えました。明治41(1908)年の建築で昭和16(1941)年に改修された校舎です。学校が児童の減少により、廃校にせざるを得なくなったとき、地元の人々の強い要望によって「休校」の扱いのまま、平成23(2011)年から、地域の歴史館として活用されています。孝子小学校は、岬町立淡輪(たんのわ)小学校に「一時的に」統合されています。

駐在所の前の道を入ってJAの事務所のところで右に折れて進むと、「岬の歴史館」の前に着きます。この日は休館日で門扉は閉まっていましたが、脇には「岬の歴史館」と「岬町立孝子小学校」の二つの看板が並んでいました。再度、府道752号に戻ります。

橘逸勢にまつわる伝説にかかわる地に向かって歩きます。天皇の座をめぐる権力争いに巻き込まれ「謀反を企てた」と無罪の罪を着せられて、伊豆へ流罪になった逸勢は、伊豆に向かう途中、現在の静岡県浜松市で亡くなりました。府道を20分ぐらい歩くと、国道26号の「孝子ランプ」の案内標識が見えました。

さらに5分ぐらい歩くと、白いホテルの建物の手前に右側に斜めに入っていく通りがありました。さて、橘逸勢に関する伝説ですが、護送の役人に追い払われながらも、流罪地へ送られる父の後を追って来た、当時十二歳だった逸勢の娘あやめは、出家して父の遺骸を引き取り、阿波国(徳島県)に行く途中のこの地で、父の菩提を弔ったといいます。「孝子」の地名は、そんなエピソードに由来するといわれています(岬町観光協会資料から)。

<追記>
平成31(2019)年1月5日に訪ねた時には府道752号からの分岐点に、赤で書かれた、新しい案内標識がつくられていました。それには「平安時代の三筆  橘逸勢と孝女あやめの墓」と書かれていました。前回訪ねたのは、平成30(2018)年12月30日でしたので、その間に設置されたものだと思われます。

分岐点にあった案内には、逸勢と娘あやめの墓所の所在地が示されていました。

まず、橘逸勢の墓にお詣りすることにしました。案内板の説明にしたがって、通りのすぐ先を右折します。そこにも新しい案内標識が設置されていました。プレハブの建物の手前に、橘逸勢の墓がありました。

あやめの墓に向かいます。細い道を引き返し、さらに先に進みます。みさき公園7号踏切で南海本線を渡ります。

踏切を渡ると右前方に「あやめの墓」がありました。

次は、もう一つの「親孝行」に因む伝説の地を訪ねるため、府道752号を孝子駅まで戻ってきました。ここからさらに孝子峠に向かって歩きます。

府道が孝子峠に向けて右カーブする手前にあった孝子2号踏切です。ここを左折します。

踏切を渡ってすぐ右側に石碑がありました。「くハんおむみち」(観音道)と書かれています。”孝子の観音さん”と呼ばれている高仙寺への道を知らせる石碑です。親孝行に因むもう一つの伝説の地は、この高仙寺にありました。ここから、高仙寺をめざして、正面の山に向かって歩きます。

飛鳥時代、修験道の開祖である役小角(えんのおずぬ)は呪術で知られていました。その能力を妬んだ弟子の1人が、「妖術で人心を惑わす悪しき人物」だと、訴えを起こしました。役人たちは小角を捕らえようとしましたが、小角は姿を消してしまいます。役人たちは策を練って、小角の母親を人質にして、名乗り出るよう促しました。 山が近くなったところにあった「孝子観音」という看板のついた橋を渡ります。橋を渡ると右折して、かなりの勾配の坂道を上っていきます。

坂を上がりきると、左側にさらに石段がありました。石段の先に、仁王像が守る山門がありました。急な石段をひたすら上っていきます。 母親を人質にされた役小角は、母の身の辛さを思い、自ら名乗り出てこの地で捕らえられました。その後もこの地に止まっていた小角の母は亡くなり、遺骸はこの地に葬られた(岬町観光協会の資料による)といわれています。

山門からさらに上った先に本堂がありました。本堂の左側を進みます。

道が下り坂になったところに、石積みが見えました「役行者(えんのぎょうじゃ)母公之墓」と刻まれた石標がありました。役の小角の母の墓でした。「墓」というのなら墓の形があるはずだと思っていたので、どれが墓なのかよくわかりませんでした。途中で出会った地元の方にお聞きしますと「私たちは、墓石が並ぶ一帯が母公様のお墓だと思って守ってきました」というご返事でした。そのとおりだと納得しました。

孝子2号踏切まで戻ってきました。最後にもう一つ見ておきたいところがありました。府道を孝子峠に向かって上っていきます。

見ておきたかった第1孝子トンネル(正式には「第1孝子越隧道」)です。和歌山県境にあります。第1孝子トンネルは上りと下りのトンネルがそれぞれ設けられていました。2つのトンネルを一緒に撮影しようと思ったのですが、府道の下に生えていた雑木と光線の関係で、下りトンネルを一つ撮影するのがやっとでした。

後に、和歌山市駅行きの普通車の先頭車両から撮影した第1孝子トンネルです。左が下り線(全長 694メートル)右側が上り線(全長 651メートル)のトンネルです。

孝子駅の1番ホームにあった勾配標です。孝子峠に向けて20パーミル(1000メートル進むと20メートル上がる)の勾配を電車は上っていきます。第1孝子トンネル付近が、南海本線の最高地点(標高70メートル)になっているそうです。

和歌山県境にある大阪府最南端の駅を見ようと孝子駅にやってきました。県境の駅らしく、停車する電車も乗降客も少ない、静かで落ち着いた雰囲気の駅という印象でした。この地に残る、親を大事に思う「親孝行な子」にまつわる伝説に惹かれて、駅の北部の「橘逸勢とあやめの墓」と、駅の南東部にある高仙寺の「役子角の母公の墓」も訪ねて来ました。古くからの言い伝えを大事に守って来られた地元の人々の心にも触れる旅になりました。