トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

旧東海道、御油宿を歩く

2012年08月24日 | 日記
歌川広重の浮世絵、「東海道五十三次」の中
に、旅籠の様子を描いたものがあります。

客引きする留女(とめおんな)とそれから逃げる男性の旅人のユーモラスな姿が描かれた、東海道35番目の宿場、御油宿。

現在の豊橋市にあった吉田宿から、京都方面に向かう最初の宿場です。その後、赤坂宿、藤川宿と宿場を継いでいきます。

酷暑の1日、東海道御油宿を歩きました。

国道1号線から、「国府町藪下」の信号で左方面に分かれて、旧街道に入ります。

やがて、右側の蒲郡信用金庫国府支店の駐車場の一角に「御油一里塚跡」の石標を見つけました。かつては街道の左右に塚が築かれていたはずですが、今はまったく面影がありません。

石垣に白い土塀の中に緑でおおわれた大社神社。

その脇を過ぎた、交差点の向こう側に、「秋葉山常夜灯」が立っていました。
大火が続いた江戸時代の中頃から、秋葉山三尺大権現は、「火幸を恵み、悪火を鎮める神」として、大名から庶民にいたるまで、広く信仰を集めていました。

秋葉常夜灯の前に「姫街道」と書かれた木の標識が立てかけられています。
この交差点が東海道と姫街道の分岐点で、右に向かう道が姫街道です。

「姫街道」は、ここ御油宿と東海道見附宿までを、浜名湖の北側を迂回して結んだ脇街道です。
宝永4(1707)年の大地震で浜名湖が被害を受け、新居の関所や宿場が壊滅したため、東海道は海路を進むことにとなりました。しかし、女性は海路を避け陸路での移動を好んだため、さかんに利用されるようになったそうです。そのため、姫街道と広く呼ばれるようになりました。

音羽川を渡る御油橋。ここから、御油宿に入ります。
御油宿は、東西9町32間(約1km)。
天保14(1843)年には、2つの本陣と62の旅籠があり、1298人(男560人、女738人)が居住していたといわれています。

交差点の左側の空き地に、高札場跡の説明板がありました。
宿場の入り口付近に、法令や犯罪人の罪名を知らせる高札を掲げていたところです。

この右側の空き地に、ベルツ花夫人の父親(荒井熊吉氏)の生家、旅籠「戸田屋」がありました。明治政府がドイツから招いたブルツ博士と結婚し、明治(1905)年任期が切れて帰国するときにドイツに渡りました。夫のベルツ博士が死亡した後、日本に帰国しました。ベルツ博士は「日本近代医学の祖」といわれた方です。

交差点を、東海道の順路の案内標識にしたがって、右に曲がります。
歩き始めるとすぐ右側に「問屋場跡」。荷物や人の継ぎ送りに必要な人足や馬を整える役所でした。ここも空き地で、当時の施設は何も残っていませんでした。

その先で、左折します。
御油橋の一筋東側の通りに出ます。

御油宿の中心部にある本陣跡。鈴木半左衛門の本陣です。標柱と説明板だけで施設はまったく残っていませんでした。

御油宿は、次の赤坂宿と並び、江戸時代には、歓楽地として知られていました。
旅籠には、飯盛女がおりました。
飯盛女のあまりの増加に苦労した幕府は、享保3(1718)年、旅籠屋1軒につき2人までに制限しました。

宿場内の東林寺には、飯盛女の墓があり、戒名に「傾」や「城」も文字が使われているそうです。近くにお聞きする人もなく、探し出すことができませんでした。
墓地の出口で手を合わせて、東林寺を後にしました。

御油宿は、宿場の主要な施設こそ残っていませんでしたが、町並みがかつての宿場町の雰囲気を残す、楽しい町でした。

連子格子の民家が続く通りの先に、御油の松並木が見えてきました。

慶長9(1604)年、徳川家康の指示で三河黒松を植えたと言われます。現在の松並木は、長い徒歩の旅を続ける旅人にとって、涼しい風が流れ、日差しをさえぎってくれる、癒しの空間になっています。

しかし、明治時代の初めまでは、松並木の両側は、竹藪が延々と続く昼なお暗いところでした。付近の山には狐や狸が生息し、夜には田畑や街道に出没したそうです。日没とともに真っ暗になった街道を歩くのは、ずいぶん勇気のいることだったといわれています。
      (松並木の途中にある説明から)

松並木の幅は6mぐらい。中央部を車が走り、両側に徒歩のゾーンが設けられていました。松並木は約600m続いています。今も、黒松は340本ぐらい残っており、樹齢100年を超える古木も90本程度残っているそうです。

黒松の管理のために、1本ずつ番号が振られていました。この松並木は、国の天然記念物に指定されており、「日本の名松百選」にも選定されています。

御油宿と次の赤坂宿の間は、約1.7km。
東海道53次の中で最も短いところです。

御油の松並木を抜けると、赤坂宿は目前です。





阿波池田、うだつの町並み

2012年08月16日 | 日記

徳島県西部の中心地、三好市池田町。
”四国三郎”こと吉野川の川湊を利用して、物資の取引がさかんに行われ、徳島県西部の政治・経済の中心地として栄えてきたところです。

JR阿波池田駅についたとき、目に飛び込んできたのが、正面の小高い丘の上にある5階建ての白い校舎、徳島県立池田高校でした! ”さわやかイレブン”、”やまびこ打線”、”蔦文也監督”。高校野球のシーズンには、いまも思い出す懐かしい姿です。

町の中心部に「蔦監督」のお宅がありました!近くの方にお聞きすると、「蔦先生の奥様はまだご健在です」とのことでした。

駅前では、地元四国交通の定期観光バスが出発を待っていました。昔懐かしいボンネットバスによる運行で、冷房がついてないため、窓は開け放たれていました。

JR池田駅前の商店街を抜けて阿波銀行の前を進むと「本町通り」に入ります。江戸時代から明治時代にかけて、商業の中心地として栄えたところで、今もかつての繁栄を伝える商家が残っています。

本町通りは、「うだつ」(卯建)のついた商家が並んでいます。蔦監督のお宅もその一角にあり、切妻型のうだつが着いていました。
「うだつ」は、もともとは、防火のためにつくられたものでしたが、やがて、「うだつがあがる」という言葉のように、富を蓄えた人たちの象徴として、競ってつくられるようになりました。

ここは、吉野川流域にある脇町や貞光町と並ぶ「うだつの町」です。
脇町は藍の取引で、貞光町は葉たばこの取引で、財をなした商人がうだつのある商家を建てていました(「うだつのある町、徳島県脇町と貞光町」2011年3月14日の日記)。池田町は、貞光町と同じように、葉たばこの生産と販売で財をなした人々が住んだ町です。

「真鶴」「あやめ」「富貴煙」「ききょう」、「わかば」「ハイライト」などのたばこのパッケージは、池田町でつくられたものだったようです。

たばこ資料館になっている旧真鍋邸。うだつには、丸に蔦の家紋が入っています。

邸宅の前には、たばこのプランターが置かれていました。たばこ資料館の隣が蔦監督のお宅でした。

真鍋邸の手前のお宅は、現在カフェになっています。「かねき」という屋号をもつ商家で、たばこを巻く紙を切るのを家業としていました。

家の軒下に、屋号を表す「き」の文字が彫られていました。

右側にある「まちかど資料館」。正面の連子格子と接するケヤキの板にある節穴が、埋められています。へそによく似ています。

パンフレットには、「よい商家のあかし」とありました。

横の通りから見た「まちかど資料館」です。表札をみると「真鍋」と書かれていました。

本町通りを、さらに1ブロック歩いた左側、「えびす通り」と交差するところにある神社です。商売繁盛の「恵比寿神社」です。
「おいべっさん」と呼ばれ、この町の多くの人の信仰を集めています。玉垣には、葉たばこの商人の名前が残っていました。正面には「真鍋」さんの
名前もありました。

おいべっさんの脇の道を北に下っていきます。日浦酒店の脇の道が、かつて、池田の玄関口だったところです。

川湊から物資が流入し、葉たばこなどの池田の産品が積み出されていました。先ほどの道の右手下のあたりに川湊があったそうです。

再び、本町に戻り、先に進みます。

えびす通りを渡って、左側に真野酒店。

ここのうだつには屋号の「松屋」の「松」の字が・・・。ここも酒屋を営む以前は、葉たばこの商家でした。

広い酒蔵の一部を利用した、郷土料理の店”うだつ”も営業していました。

その先に三軒のうだつのある民家が並んでいます。

うだつには左に「本町」、右に「宝住宅」と書かれています。来る途中に歩いたバス通りに、「宝住宅」というお店がありましたが、このお宅のお店だったのではないでしょうか?

左の佐藤家のうだつには「サ」、「ヤマサ」という屋号のお宅だったようです。

土壁のお宅は宮本家です。こちらのうだつには、竜と虎が左右についていました。
この先、本町通りは下りになります。かつて、この下は吉野川の氾濫でたびたび水に浸かっていたと、出会った地元の方からお聞きしました。

江戸時代から明治時代にかけて、繁栄をきわめ、競ってうだつの民家を建築した池田の葉たばこ商人は、やがて激震に襲われます。
日露戦争の戦費調達のために、明治政府は、明治37(1904)年、たばこの収納管理から製造販売、製品の輸入にいたるまで専売制を広げました。池田の商人は事業の中止に追い込まれ、廃業や他業種への転換を余儀なくされました。
「政府の政策で葉たばこ事業ができなくなった。政府にはたてつくこともできず、やむなく、廃業していったのです」。町で出会った方は、そのように言われていました。

えびす通りから池田高校のある台地に登って行きます。
野球で一世を風靡した池田高校も、今では、野球よりもハンドボールの強豪校として県下に知られているそうです。

池田高校の正門前の通りは、学園通りと呼ばれ、道沿いに、幼稚園、小学校、中学校、家庭裁判所池田出張所、池田区検察庁などが並んでいます。

幼稚園の敷地に、大西池田城址の碑が建っています。承久の乱(1221年)後に、阿波国の守護となった小笠原氏が築いた城を、
豊臣秀吉から阿波国を与えられた蜂須賀氏が、阿波九城の一つとして、整備を進めました。しかし、江戸時代前期の「一国一城令」で廃城となり、池田は、「池田士」による支配を受けるようになります。

池田駅前から東に向かう通り(新町通り)にある、「新町バス停」のところに、明治22(1889)年創業の「三芳菊酒造」があります。

三芳菊酒造の一角に、「武家門」と武家屋敷が残されています。

「一国一城令」以後、池田大西城が取り壊され、池田は徳島藩蜂須賀氏の支配の下、「池田士」が選ばれ、領内の治安維持や国境の守りにあたることになりました。「池田士」の一人である馬宮氏の屋敷がここにありました。武家門からは、寛延2(1749)年の棟札が出てきたようです。

かつて、池田には100軒の民営たばこ工場がありました。吉野川を下って、たばこを運んだ「平田船」。池田では、「この船いっぱいのたばこで、蔵が一軒建った」と言われていました。
今も残るうだつのある商家建築に、かつての繁栄をしのんだ一日でした。










 

山あいの陣屋町、村岡

2012年08月11日 | 日記
図書館で読んだ本の中に「村岡陣屋町」を見つけました。旧兵庫県美方郡村岡町。現在の、美方郡香美町村岡区村岡です。

現在、「城下町」をコンセプトにしたまちづくりを進めています。

ここは、慶長6(1601)年に、関ヶ原の戦いの功により、徳川家康から、但馬国七美(しつみ)郡6郷(後5郷)、6700石を与えられた、山名豊国に始まる陣屋町でした。かれは、応仁の乱の西軍の中心だった、山名宗全ゆかりの旗本でした。山名家は交代寄合であり、旗本であっても参勤交代を行う家柄でした。

青春18きっぷを使って、岡山を朝7時に出発しました。JR山陽線で姫路へ、JR播但線に乗り換えて和田山へ、さらにJR山陰線に入り八鹿駅で下車しました。そこから、全但バスで国道9号線を約50分(990円)走って、村岡に入っていきます。

写真の左が商店街の入り口です。バスは、右の国道9号線をまっすぐ進み、12時前に、殿町バス停に着きました。岡山から、5時間近くかかったことになります。

バス停は、民俗資料館「まほろば」近くにありました。

まほろばは、明治27(1894)年に建設された旧美方郡役所を、昭和63(1987)年に解体復元したものです。

片隅に、その案内標識が立っていました。3代目の領主、山名矩豊(のりとよ)は、領主として初めてお国入りをしました。寛永(1624)年、黒野村を村岡と改名し、現在の「まほろば」付近に陣屋を置きました。そして、陣屋町の町づくりに着手しました。また、初めて参勤交代を行い、江戸までの164里を18日かけて移動したということです。
ちなみに、それ以前、陣屋は、領内の福岡(兎束村から改名した)に置かれており、代官の三上氏や田結庄氏によって治められていました。

バス停の向かいは、御殿山公園への登り口でした。

文化3(1806)年、8代義方(よしまさ)が、ここ尾白山の中腹にある体育館付近に、城郭造りの陣屋を新築しました。明治4(1871)年の廃藩置県まで、使用されました。

御殿山公園は、平成3(1991)年、山名氏入部350周年を記念して、整備されました。

写真は、公園内に復元された奥方屋敷です。明治元(1868)年、山名氏は、11代領主義済(よしずみ)の時に加増され1万1千石の大名に列し、村岡藩を立藩しました。その義済の奥方が村岡に帰国するのに際して、増築されたのが、奥方屋敷でした。文久3(1863)年の武家諸法度の「妻子の帰国は勝手とする」とのお触れによるものでした。

公園内に残る桜山御廟。
11代藩主の義済(中央)、12代義路(右)、13代義鶴の墓です。

この後、町内に残る陣屋町の名残りを訪ねて歩くことにしました。

殿町に残る武家屋敷。平屋建ての家老の邸宅です。建築後200年が経過していますが、建築当初の面影をそのまま残しているそうです。土蔵の窓が、子どもの顔のようでした。

武家屋敷のそばに再建された郭門。町に3カ所建てられていました。

山名氏の家紋です。「糸輪二引両紋」というそうです。

陣屋町の西を南北に流れる昆陽川(中小屋川から矩豊が改名)にかかる大橋の近くに、古い町並みが残っていました。

昆陽川の左側は農民の、右側は町人の居住地でした。

旧街道に沿う旧町人町。現在は村岡商店街となっています。

袖壁のついた民家も残っていました。

殿町を南にまっすぐ進むと法雲寺にぶつかります。藩主山名氏の菩提寺です。寛永19(1642)年、3代矩豊が陣屋町を整備したとき、歴代の菩提寺として開かれました。

法雲寺の中にある山名蔵。山名氏ゆかりの資料が収蔵されている山名資料館です。

写真は、村岡陣屋町の背後を流れる湯舟川。昆陽川とともに陣屋町を区切り、町の防御にも大きな役割を果たしていました。


酷暑の中でしたので、村岡を14時26分発のバスで帰ることにしていました。しかし、私にはどうしてもお訪ねしたいところがありました。陣屋町を抜けて八鹿方面に少し進んだところにある、香美町村岡観光協会でした。交通アクセスについてお問い合わせをしたら、たくさんの資料を送ってくださいました。期待した以上の丁寧な対応をしていただき、感謝の気持ちでいっぱいでした。

また、商店街で、武家屋敷についてお尋ねしたら、作業中にもかかわらず、屋根から降りてきて説明をしてくださった方もいらっしゃいました。

感謝の気持ちがみなさんに伝わっていればいいのですが・・・。

温かい人が多く住んでいる、本当にいい町でした。

JR土讃線、もう一つのスイッチバック、新改駅

2012年08月07日 | 日記
青春18きっぷを使って、JR土讃線の新改(しんがい)駅に行ってきました。

新改駅は、高知県香美市にあります。

香川県のJR多度津駅と、JR高知駅を経由してJR窪川駅とを結ぶJR四国の土讃線。明治22(1889)年に、讃岐鉄道として、多度津駅・琴平駅間が開通したのに始まり、昭和26(1951)年、窪川駅まで開通しました。

この日は快晴。JR岡山駅から瀬戸大橋線の快速列車、”マリンライナー”でJR坂出駅に着きました。

そこで、JR予讃線の電車に乗り換えて、JR多度津経由でJR琴平駅まで行きました。
金刀比羅宮(こんぴらさん)がある町です。

そこから、JR阿波池田行のディーゼルカー(DC)に乗り継ぎます。多度津運転所の運転士さんが、一人で運行するワンマン列車でした。

正面に、讃岐山脈の山々が立ちはだかっています。JR讃岐財田駅を過ぎると徳島県に入ります。

徳島県側の最初の駅が、JR坪尻駅です。現在、1日の乗降客が1名になったといわれる秘境駅。

写真の左下を進んできた列車は、その先で、左の待避線に進みました。運転士さんは後ろ側の運転席に移り、列車は本線を横切って、右のホームに入って来ます。

スイッチバックで入る駅でした。有名な秘境駅ですので、ここで鉄道マニアらしい方が二人降りられました。坪尻駅については、すでに、2011年3月19日の日記「秘境の駅 JR坪尻駅に行ってきました」に書きました。

周囲は一面の緑です。四国山地を越えるトンネルが続きます。吉野川に向けて下っていった先が、JR阿波池田駅です。

ここから高知に向かう列車の出発まで、1時間40分余りありました。

食事をすませて、再度出発します。ここからは、高知運転所の運転士さんが高知まで運転されるようです。

このように、土讃線を走る普通列車は多度津・琴平駅間(電化区間)、琴平・阿波池田間、そして、阿波池田・高知間に分かれた、区間運転になっています。

ここから、列車は、両側の四国山地と、その間の深い谷を見ながら進みます。大歩危・小歩危の景勝地を過ぎると、トンネルが続く山越えの路線になります。雨が降り始めました。

JR繁藤(しげとう)駅。ここから香美市に入ります。標高347,4m。土讃線の駅では最高地点にあります。

JR阿波池田駅を出てから、繁藤駅まで、大小合わせて50近いトンネルをくぐってきました。ここからは、土佐山田駅に向かって、25パーミル(1000mで25mの標高差がある)の傾斜を下っていきます。

JR繁藤駅の次が、めざすJR新改(しんがい)駅です。JR繁藤駅から数えて13個目のトンネルを抜けると、列車は本線から左の待避線に入ります。

待避線の線路は、草に覆われていました。そして、運転士さんは後ろの運転席に移り、バックを始めます。

これは、バックで手前に進む列車の後ろから待避線の方向を写したものです。写真の中央を右上に走る線路が本線で、右上が高知方面です。阿波池田方面から来た列車は、本線から分かれて写真の一番上の線路を通って向こう側の待避線に入ります。そして、バックしながら写真の中央(正面)の線路を手前に向かって進み、新改駅ホームに入ります。

ちなみに、高知方面から阿波池田駅に向かう(写真の左方向に向かう)列車は、本線から分かれて一番右の線路を通って最初に新改駅のホームに入ります。出発の時は、バックして正面の線路を手前から上方に向かって進み、右上の待避線に入ります。そして、再度進行方向を変えて左上の線路から本線に合流して、左方向の阿波池田駅に向かいます。

ホームに停車しました、到着です。  13時30分でした。 岡山駅を出発したのが7時11分でしたから、ここまで、6時間19分かかりました。もちろん、長い乗り継ぎ時間も含んでいます。

乗車してきた高知に向かう列車は、しばらく停車していましたが、右側の線路から本線に入り、次の土佐山田駅に向かって出発していきました。駅には、私一人が残されました。

新改駅は標高274m。土佐山田町東川・平山地区の通学生を中心とした乗客の便宜を図るため、昭和22(1947)年に「しんかい」駅で開業しました。その後、昭和31(1956)年、「しんがい」駅と改名しました。幾重にも重なる山々に囲まれた駅でした。そのためか、激しい雨が降っていました。付近を歩いてみようと思っていたのですが、とてもだめです。

帰りの上り列車が来るのは1時間15分後。駅舎で過ごすことにしました。

新改駅には、坪尻駅と同じように、ボランティアで駅の整備をしておられる方がいらっしゃるようです。駅舎内に置かれた箱の中には、旅人が綴るノートや環境整備のチェック表が入っていました。

時刻表です。 上り(阿波池田方面行)列車が6本、下り(高知方面行)列車が9本、発着しています。

高知方面から来た特急列車。スピードを落とすことなく本線を通過していきました。

駅前の道です。ここから集落に向かって下っています。

ホームから本線に出て行くときの信号です。列車がいないときは、もちろん「赤」です。

線路に降りられる方も多いことでしょう。この標識をしっかり見ないと行けないでしょうね。

いつの間にか駅舎に入ってきた、とんでもなく大きな蛙。駅舎で雨やどりをしている間中、ずっと、そばにいてくれました。

土讃線にあるスイッチバックで入る二つの駅、坪尻駅と新改駅は、基本的には同じつくりでした。

そして、どちらも、駅を愛する人の手で、清潔に、安全に保たれていました。