歌川広重の浮世絵、「東海道五十三次」の中
に、旅籠の様子を描いたものがあります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/a8/b65f0dec21d14c1d4f4dd6febea921a2.jpg)
客引きする留女(とめおんな)とそれから逃げる男性の旅人のユーモラスな姿が描かれた、東海道35番目の宿場、御油宿。
現在の豊橋市にあった吉田宿から、京都方面に向かう最初の宿場です。その後、赤坂宿、藤川宿と宿場を継いでいきます。
酷暑の1日、東海道御油宿を歩きました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/57/01145d7c75b24dea153194bead50627b.jpg)
国道1号線から、「国府町藪下」の信号で左方面に分かれて、旧街道に入ります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/46/e8ebd0cfa98efa5328b46c53b952f63f.jpg)
やがて、右側の蒲郡信用金庫国府支店の駐車場の一角に「御油一里塚跡」の石標を見つけました。かつては街道の左右に塚が築かれていたはずですが、今はまったく面影がありません。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/92/ccc868af7401c34aed24204a819ceba2.jpg)
石垣に白い土塀の中に緑でおおわれた大社神社。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2e/47/b64b38b040b0886bf5c029be5f90314b.jpg)
その脇を過ぎた、交差点の向こう側に、「秋葉山常夜灯」が立っていました。
大火が続いた江戸時代の中頃から、秋葉山三尺大権現は、「火幸を恵み、悪火を鎮める神」として、大名から庶民にいたるまで、広く信仰を集めていました。
秋葉常夜灯の前に「姫街道」と書かれた木の標識が立てかけられています。
この交差点が東海道と姫街道の分岐点で、右に向かう道が姫街道です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/92/824911ce929d5a65a276ca28ffdd1b83.jpg)
「姫街道」は、ここ御油宿と東海道見附宿までを、浜名湖の北側を迂回して結んだ脇街道です。
宝永4(1707)年の大地震で浜名湖が被害を受け、新居の関所や宿場が壊滅したため、東海道は海路を進むことにとなりました。しかし、女性は海路を避け陸路での移動を好んだため、さかんに利用されるようになったそうです。そのため、姫街道と広く呼ばれるようになりました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/19/db/29bd8d54968f856903cc03dee9fa5fa9.jpg)
音羽川を渡る御油橋。ここから、御油宿に入ります。
御油宿は、東西9町32間(約1km)。
天保14(1843)年には、2つの本陣と62の旅籠があり、1298人(男560人、女738人)が居住していたといわれています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/17/33c13e4114999d3ee33355456366a301.jpg)
交差点の左側の空き地に、高札場跡の説明板がありました。
宿場の入り口付近に、法令や犯罪人の罪名を知らせる高札を掲げていたところです。
この右側の空き地に、ベルツ花夫人の父親(荒井熊吉氏)の生家、旅籠「戸田屋」がありました。明治政府がドイツから招いたブルツ博士と結婚し、明治(1905)年任期が切れて帰国するときにドイツに渡りました。夫のベルツ博士が死亡した後、日本に帰国しました。ベルツ博士は「日本近代医学の祖」といわれた方です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/d3/8b15d8f363a57f89e21c3f20fed80b6c.jpg)
交差点を、東海道の順路の案内標識にしたがって、右に曲がります。
歩き始めるとすぐ右側に「問屋場跡」。荷物や人の継ぎ送りに必要な人足や馬を整える役所でした。ここも空き地で、当時の施設は何も残っていませんでした。
その先で、左折します。
御油橋の一筋東側の通りに出ます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/7c/ad2cf0941468d3efcc1de0d1970a25e2.jpg)
御油宿の中心部にある本陣跡。鈴木半左衛門の本陣です。標柱と説明板だけで施設はまったく残っていませんでした。
御油宿は、次の赤坂宿と並び、江戸時代には、歓楽地として知られていました。
旅籠には、飯盛女がおりました。
飯盛女のあまりの増加に苦労した幕府は、享保3(1718)年、旅籠屋1軒につき2人までに制限しました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/e2/046a7e55f8ebb6578469e1da8dc67cf2.jpg)
宿場内の東林寺には、飯盛女の墓があり、戒名に「傾」や「城」も文字が使われているそうです。近くにお聞きする人もなく、探し出すことができませんでした。
墓地の出口で手を合わせて、東林寺を後にしました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/39/b350eb773d7db47b03cf7ff7da960154.jpg)
御油宿は、宿場の主要な施設こそ残っていませんでしたが、町並みがかつての宿場町の雰囲気を残す、楽しい町でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/29/1ce91e2084b1e15b2dfdc5ad259b9eb9.jpg)
連子格子の民家が続く通りの先に、御油の松並木が見えてきました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/0c/9858273af1c12840364da2b406ef48df.jpg)
慶長9(1604)年、徳川家康の指示で三河黒松を植えたと言われます。現在の松並木は、長い徒歩の旅を続ける旅人にとって、涼しい風が流れ、日差しをさえぎってくれる、癒しの空間になっています。
しかし、明治時代の初めまでは、松並木の両側は、竹藪が延々と続く昼なお暗いところでした。付近の山には狐や狸が生息し、夜には田畑や街道に出没したそうです。日没とともに真っ暗になった街道を歩くのは、ずいぶん勇気のいることだったといわれています。
(松並木の途中にある説明から)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/dd/6d401ed1be1295f02f21b4b6178aa841.jpg)
松並木の幅は6mぐらい。中央部を車が走り、両側に徒歩のゾーンが設けられていました。松並木は約600m続いています。今も、黒松は340本ぐらい残っており、樹齢100年を超える古木も90本程度残っているそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/18/9680b0c14523e8eb7e62469a5c01e82b.jpg)
黒松の管理のために、1本ずつ番号が振られていました。この松並木は、国の天然記念物に指定されており、「日本の名松百選」にも選定されています。
御油宿と次の赤坂宿の間は、約1.7km。
東海道53次の中で最も短いところです。
御油の松並木を抜けると、赤坂宿は目前です。
に、旅籠の様子を描いたものがあります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/a8/b65f0dec21d14c1d4f4dd6febea921a2.jpg)
客引きする留女(とめおんな)とそれから逃げる男性の旅人のユーモラスな姿が描かれた、東海道35番目の宿場、御油宿。
現在の豊橋市にあった吉田宿から、京都方面に向かう最初の宿場です。その後、赤坂宿、藤川宿と宿場を継いでいきます。
酷暑の1日、東海道御油宿を歩きました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/57/01145d7c75b24dea153194bead50627b.jpg)
国道1号線から、「国府町藪下」の信号で左方面に分かれて、旧街道に入ります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/46/e8ebd0cfa98efa5328b46c53b952f63f.jpg)
やがて、右側の蒲郡信用金庫国府支店の駐車場の一角に「御油一里塚跡」の石標を見つけました。かつては街道の左右に塚が築かれていたはずですが、今はまったく面影がありません。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/92/ccc868af7401c34aed24204a819ceba2.jpg)
石垣に白い土塀の中に緑でおおわれた大社神社。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2e/47/b64b38b040b0886bf5c029be5f90314b.jpg)
その脇を過ぎた、交差点の向こう側に、「秋葉山常夜灯」が立っていました。
大火が続いた江戸時代の中頃から、秋葉山三尺大権現は、「火幸を恵み、悪火を鎮める神」として、大名から庶民にいたるまで、広く信仰を集めていました。
秋葉常夜灯の前に「姫街道」と書かれた木の標識が立てかけられています。
この交差点が東海道と姫街道の分岐点で、右に向かう道が姫街道です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/92/824911ce929d5a65a276ca28ffdd1b83.jpg)
「姫街道」は、ここ御油宿と東海道見附宿までを、浜名湖の北側を迂回して結んだ脇街道です。
宝永4(1707)年の大地震で浜名湖が被害を受け、新居の関所や宿場が壊滅したため、東海道は海路を進むことにとなりました。しかし、女性は海路を避け陸路での移動を好んだため、さかんに利用されるようになったそうです。そのため、姫街道と広く呼ばれるようになりました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/19/db/29bd8d54968f856903cc03dee9fa5fa9.jpg)
音羽川を渡る御油橋。ここから、御油宿に入ります。
御油宿は、東西9町32間(約1km)。
天保14(1843)年には、2つの本陣と62の旅籠があり、1298人(男560人、女738人)が居住していたといわれています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/17/33c13e4114999d3ee33355456366a301.jpg)
交差点の左側の空き地に、高札場跡の説明板がありました。
宿場の入り口付近に、法令や犯罪人の罪名を知らせる高札を掲げていたところです。
この右側の空き地に、ベルツ花夫人の父親(荒井熊吉氏)の生家、旅籠「戸田屋」がありました。明治政府がドイツから招いたブルツ博士と結婚し、明治(1905)年任期が切れて帰国するときにドイツに渡りました。夫のベルツ博士が死亡した後、日本に帰国しました。ベルツ博士は「日本近代医学の祖」といわれた方です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/d3/8b15d8f363a57f89e21c3f20fed80b6c.jpg)
交差点を、東海道の順路の案内標識にしたがって、右に曲がります。
歩き始めるとすぐ右側に「問屋場跡」。荷物や人の継ぎ送りに必要な人足や馬を整える役所でした。ここも空き地で、当時の施設は何も残っていませんでした。
その先で、左折します。
御油橋の一筋東側の通りに出ます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/7c/ad2cf0941468d3efcc1de0d1970a25e2.jpg)
御油宿の中心部にある本陣跡。鈴木半左衛門の本陣です。標柱と説明板だけで施設はまったく残っていませんでした。
御油宿は、次の赤坂宿と並び、江戸時代には、歓楽地として知られていました。
旅籠には、飯盛女がおりました。
飯盛女のあまりの増加に苦労した幕府は、享保3(1718)年、旅籠屋1軒につき2人までに制限しました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/e2/046a7e55f8ebb6578469e1da8dc67cf2.jpg)
宿場内の東林寺には、飯盛女の墓があり、戒名に「傾」や「城」も文字が使われているそうです。近くにお聞きする人もなく、探し出すことができませんでした。
墓地の出口で手を合わせて、東林寺を後にしました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/39/b350eb773d7db47b03cf7ff7da960154.jpg)
御油宿は、宿場の主要な施設こそ残っていませんでしたが、町並みがかつての宿場町の雰囲気を残す、楽しい町でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/29/1ce91e2084b1e15b2dfdc5ad259b9eb9.jpg)
連子格子の民家が続く通りの先に、御油の松並木が見えてきました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/0c/9858273af1c12840364da2b406ef48df.jpg)
慶長9(1604)年、徳川家康の指示で三河黒松を植えたと言われます。現在の松並木は、長い徒歩の旅を続ける旅人にとって、涼しい風が流れ、日差しをさえぎってくれる、癒しの空間になっています。
しかし、明治時代の初めまでは、松並木の両側は、竹藪が延々と続く昼なお暗いところでした。付近の山には狐や狸が生息し、夜には田畑や街道に出没したそうです。日没とともに真っ暗になった街道を歩くのは、ずいぶん勇気のいることだったといわれています。
(松並木の途中にある説明から)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/dd/6d401ed1be1295f02f21b4b6178aa841.jpg)
松並木の幅は6mぐらい。中央部を車が走り、両側に徒歩のゾーンが設けられていました。松並木は約600m続いています。今も、黒松は340本ぐらい残っており、樹齢100年を超える古木も90本程度残っているそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/18/9680b0c14523e8eb7e62469a5c01e82b.jpg)
黒松の管理のために、1本ずつ番号が振られていました。この松並木は、国の天然記念物に指定されており、「日本の名松百選」にも選定されています。
御油宿と次の赤坂宿の間は、約1.7km。
東海道53次の中で最も短いところです。
御油の松並木を抜けると、赤坂宿は目前です。