トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

”灘五郷”・魚崎郷の酒蔵を歩く

2013年01月29日 | 日記
”灘の生一本”の酒造地域で知られる”灘五郷”。 ”灘五郷”とは、今津郷”、”西宮郷”、”魚崎郷”、”御影(みかげ)郷”、”西郷”で、現在の国道43号線南側を、東西に広がる地域です。この日は、”御影郷”の菊正宗から”魚崎郷”にある酒蔵を訪ねて歩きました。

灘の酒は、酒米の「山田錦」を、硬水の「宮水」で仕込み、強く発酵させて短期間でつくる、辛口のお酒で、「男酒」といわれています。特に、夏を過ぎると熟成し、円熟した淡麗辛口となり、酒の質が上がる(「秋晴れ」とか「秋あがり」という)ということです。

六甲ライナーの南魚崎駅です。JR住吉駅と、神戸市の沖に浮かぶ人工島である六甲アイランドを結ぶ駅。ここから、乗ってきた六甲ライナーの高架の下を住吉川に沿って北に向かいます。

”酒蔵の道”の案内標識を見つけました。上の高架の先が、南魚崎駅から六甲アイランドの方向です。また、左右に延びる道が、酒蔵の道です。右に少し行くと、菊正宗の酒造記念館です。

菊正宗の「酒造記念館」に行きました。その奥の一帯が酒造場です。 正確には、菊正宗は”御影(みかげ)郷”の酒蔵なのですが・・・。 さっそく、記念館に入りました。この記念館は、350年前に建てられた本店の内蔵を、昭和35(1960)年に移したものだそうです。

菊正宗は、万治2(1659)年創業。 350年を越える歴史をもつ老舗の酒造メーカーです。 「キクマサ」の愛称と西田佐知子のCMソング、♪やっぱりぃ おおォれはァ~ァ~ きくまさぁ~むねぇ~♪ のCMソングで、よく知られています。

立派な「菊正宗」の木彫りの看板。 創業家は嘉納家で、”御影郷”の名門です。同じ”御影郷”の”白鶴”の創業家である嘉納家の本家筋にあたるそうです。ちなみに、”白鶴”の嘉納家は「白嘉納」、”菊正宗”の嘉納家は「本嘉納」と呼ばれているそうです。

この日は、他に見学者はおられませんでしたが、以前訪れたときには、グループ旅行の見学者に、職員が案内をしておられました。経験豊富な中年の男性の方で、軽妙なおしゃべり(説明)が見学者に大受けでした。

ここは、566点の酒造資料(国指定重要文化財)などを展示しています。「ここに展示しているものは、この袋にいたるまですべて重要文化財。外に出てしまうと単なる袋になってしまうのです!」 今も覚えている案内の方のお話です。

「生酛(きもと)づくり」にこだわる菊正宗の酒造りです。何回説明を受けても理解できないのですが、灘の酒づくりの伝統を大切にした作り方だそうです。「短期間で」と先に書きましたが、「生�瞼づくりは、自然の乳酸菌を育てる方法ですから、お酒が出来るまで25日ぐらいかかり、市販の乳酸菌を使用する方法より10日ほど長くかかります。」とのことです。

ロビーに展示されていた「樽廻船」の模型です。 江戸時代の初期には、伊丹や池田からの酒が「下り酒」として江戸に送られていました。しかし、灘地方は、伊丹や池田からよりも2~3日短く江戸に送ることができました。やがて、このような樽廻船で大量に送るようになり、「下り酒」の産地として、灘地方は大いに栄えるようになりました。

かつての酒蔵の写真です。ロビーに掲示されていました。阪神淡路大震災までは、このような酒蔵が残っていました。

試飲も出来る売店です。私が訪ねた日は、平日の午前中ということもあり、観光客は多くありませんでした。

記念館の庭に、水車がつくられていました。かつては、水車で米搗き(精米)をしていました。ちなみに、食用の米は5~7%程度搗くのだそうです。「五分搗き」というのが5%搗いた米のことだそうです。酒づくりには、最低25%(精米歩合75%)搗きます。吟醸酒は40%搗き(精米歩合60%以下)、大吟醸は50%(精米歩合50%以下)となっているようです。

灘の酒蔵の道です。菊正宗の酒造記念館から住吉川を渡り、東に向かいました。

さて、灘で使われている「山田錦」は、大正11(1922)年に新しく生まれた酒米です。「雄町」から改良された「短棹渡船」を父とし、伊勢から持ち込まれた「山田穂」を母として生まれた酒米で、米粒の真ん中に「心白」と呼ばれる、固まったデンプン質があり、腰の強さが酒米として優れているそうです。兵庫県三木市で生まれ、播州平野で多く栽培されています。

剣菱の工場です。 私が住む岡山では「辛口といえば剣菱」という存在です。ここは公開されていませんでした。工場の前には、杉玉がありました。「新酒ができたよ!」というサインだったようですね。

さらに進みます。建物の塀には、櫻正宗の案内板がありました。旧山邑酒造です。ここには、かつて、国指定重要文化財に指定されていた、土蔵造りの酒蔵がありました。残念ながら、阪神淡路大震災で倒壊してしまいました。震災前にその酒蔵について書かれた本を読んでいた私は、いつかきっと見に行こうと思っていたのでした。

櫻正宗の櫻苑に、往事の写真が展示してありました。


すばらしい酒蔵と思い込んでいましたので、この写真を見たとき、懐かしい人に会ったような気分になりました。 売店で職員の方に、そのことをお話しすると、「でも、当時はこうして中を見ることはできなかったと思いますよ!」とのこと。そうでしょうね。

櫻園の入り口にあった門。これは、震災の中を生き残りました。

櫻苑です。中には、展示場とレストラン、売店などがつくられています。

櫻正宗は、創業寛永2(1625)年。 正宗(せいしゅう)は「臨済正宗」からとり、「清酒」につながるので命名しました。いつしか「まさむね」とよばれるようになり、明治17(1884)年の商標条例の施行に伴い「櫻正宗」と登録したとのことです。

櫻正宗の社長は山邑太左衛門氏です。灘の酒づくりの仕込みに使う「宮水」は、「天保年間(1831年~1843年)に魚崎郷の山邑太左衛門が発見した」といわれています。櫻正宗は灘の酒にとっての大功労者ということになりますね。

酒蔵の道をさらに東に向かいます。

道路脇に、煙突が見えました。浜福鶴の酒造場です。

中の展示場にあった写真には、レンガ造りの煙突が残っていました。かつての姿を伝えるために、震災後の復興の時につくったのだと思います。震災前は「福鶴」という会社名でした。「魚崎浜にあり、縁起のよい福を呼ぶ鶴」ということで改名したそうです。

かつての写真に「福鶴」の名が残っていました。福鶴は、昭和32(1957)年創業の比較的新しい酒造メーカーです。
 
現在は、近代的な工場に生まれ変わっています。裏の白い建物が酒造場で、前の建物が売店になっていました。

2階の酒造りの見学コースです。

売店です。女性職員は、商品の発送作業に忙しそうでした。販売してた清酒ソフトクリームを買いました。

阪神淡路大震災は、灘の酒造りの工場にも壊滅的なダメージを与えました。廃業したり、ブランドを譲ったりして再建できなかったところもありました。しかし、操業している酒造メーカーは、近代的な工場で伝統的な味を守っておられました。

六甲ライナーで南魚崎駅へ

2013年01月24日 | 日記
灘五郷の一つ魚崎郷の酒蔵を訪ねるために、JR住吉駅から"六甲ライナー"のマリンパーク行きに乗りました。

”六甲ライナー”は、神戸市の沖につくられた人工島、六甲アイランドと山陽本線をつなぐ鉄道(軌道)です。平成2(1990)年に開業しました。神戸市東灘区内だけを走っている区内の鉄道(軌道)です。JR三宮駅から出ているポートライナーとは兄弟鉄道(軌道)ということになります。正しくは、南魚崎駅とアイランド北口間は鉄道で、他の区間が軌道法による軌道だそうです。

”六甲ライナー”の線路ですが、レールはありません。車輪はゴムタイヤで、この軌道上を走行します。ゴムタイヤの中には、乗り心地をよくするために、窒素ガスが充填されているそうです。万が一パンクしたときには、タイヤ内のホイールの外周に中子(なかご)といわれるリングを装着して、車庫までは走行できるようにしているそうです。

”六甲ライナー”の住吉駅のホームに着いたとき、列車が入線していました。出発まで時間がありません。

さっそく乗車しました。運転席がありません。自動列車運転装置(ATO)による自動運転で運行されています。

出発してすぐ大きく右カーブして、住吉川にそって南に進みます。

左手に、進学校で知られる灘中学校・高等学校があります。このあたりの酒造業を営む方々がつくった学校としても知られています。

灘中学校・高等学校の校舎があるあたりです。その先に、最初の駅である魚崎駅があります。住吉駅から1.2kmです。

めざす南魚崎駅に着きました。住吉駅から2km。あっという間でした。何せ、全長、4.5km、終点まで所要10分という鉄道(軌道)ですから。一面2線の駅でした。

ビルの4階にある南魚崎駅。清潔ですっきりとした印象です。

住吉駅から200円。この先、アイランド北口駅、アイランドセンター駅を通って終点マリンパーク駅まで続いています。このあたりの酒蔵は、平成7(1995)年の1月17日の阪神・淡路大震災で大きな被害を受けました。中には、再建を断念し廃業した酒造業者もあります。しかし、”六甲ライナー”は、その年の8月に全面復旧することができました。

住吉大橋から見た、”六甲ライナー”南魚崎駅舎です。右が北の住吉駅の方向です。

高架上を走る”六甲ライナー”です。魚崎郷に向かって、右岸にある”六甲ライナー”の高架の下を北に進みます。

住吉川の両岸は整備されて、住吉川公園になっています。気持ちのいい散歩コースです。

休憩ができるように整備されているところもありました。

この斜め向かいに、菊正宗酒造の酒造記念館がありました。私は、この後、酒造記念館から魚崎郷の酒蔵を訪ねて歩きました。


城下町尼崎の面影を訪ねて

2013年01月08日 | 日記
江戸時代、現在、兵庫県南東部にある伊丹市、宝塚市、尼崎市、西宮市、芦屋市から神戸市の東部にいたる地域を治めた藩が江戸時代にありました。現在、阪神工業地帯の工業都市として知られている尼崎市に置かれた尼崎藩です。
尼崎藩は、大坂夏の陣で軍功を上げた外様大名の建部政長が、元和元(1615)年に1万石を与えられて立藩しました。

今回は、城下町の面影を求めて尼崎の町を歩きました。

旧城下町は阪神電鉄の沿線に近いところにありました。写真は北口から見た阪神尼崎駅です。私は南口から、駅に沿って東に進みました。

元和3(1617)年、江戸幕府の重臣大名であった膳所藩主の戸田氏鉄(うじかね・譜代大名)が5万石で入封します。 大坂夏の陣の後、外様大名が多い西国支配の拠点として、江戸幕府は、新たに大坂城を築き、大坂に近い尼崎藩をそのための前線基地としました。そのため、その役割にふさわしい重臣大名が配置されることになったのでした。

戸田氏鉄の入封の翌年から、尼崎城の築城が開始されました。

庄下(しょうげ)橋を渡って、尼崎城址に向かいます。正面に、レンガづくりの建物が残っていました。阪神電鉄の旧尼崎発電所の跡です。現役時代は、写真の左手前にあった煙突からもくもくと煙をあげていた火力発電所でした。明治37(1904)年に電車の開業に先立って建設されたもので、大正8(1919)年まで阪神電車の運行に使われていました。現在は物置として使われているそうです。
  
庄下橋の下を流れる庄下川。 写真の下側に見える庄下川は、尼崎城の外堀になっていました。また、工場の前から斜めに延びる道が本丸を守った内堀の跡といわれています。現在、石垣と城壁の一部が再建され尼崎城址公園になっています。

城壁の南には、中央図書館がありました。

南の国道43号線に面した明城小学校の正面です。4層の天守閣など藩の中枢部があった本丸はこの付近にありました。「琴浦城」とも呼ばれ、瀬戸内海の沖から見ると城全体が海に浮かんでいるように見えるからそう呼ばれたとわれています。「尼崎城址」の碑が校庭前に残っていました。

小学校の校庭に、天守閣の模型が立っています。中に入れないので国道から撮影しました。

戸田氏鉄は、寛永12(1635)年美濃の大垣藩に移りますが、その後を継いだ青山義成(譜代大名)が城下町の整備を続けます。このとき、西国街道を尼崎城の南を迂回するルートに変更しました。その後、宝永8(1701)年、青山氏が信濃の飯山藩に移ってからは、正徳元(1711)年、松平忠喬(譜代大名)が4万石で尼崎に入ります。いずれも幕府の重臣大名であり、特に松平忠喬は、「十八松平」といわれる徳川家康の親戚にあたる大名でした。松平氏は桜井の姓を名乗り、明治維新までこの地を治めました。

中央図書館の脇の道路をはさんだ南側に、桜井神社がありました。名前のとおり、桜井松平家の初代から16代までの歴代藩主を祀っています。

拝殿の左前にあった、巽櫓のシャチ瓦です。

境内には、お守りや絵馬の自動販売機が置かれていました。これが珍しいからと、携帯電話で撮影する参拝客が、多くおられました。

境内にあった「日本赤十字発祥の地」(博愛社)の碑です。「14代藩主、桜井忠興は、文久元(1861)年に藩主になってから、幕末の動乱を乗り切った後、明治10(1877)年西南戦争のとき、私財を投げ打って医師・看護師を派遣し、敵、味方の区別なく手当をしたといわれています。これが「博愛社」の起こりでしたが、後の明治20(1887)年、日本赤十字社に改称されました。「その社則は東京都千代田区の桜井邸で起草されたものだ」と説明板には書かれていました。

藩主戸田氏鉄は、江戸幕府の西国大名支配のための最前線という役割を担って、尼崎城と城下町を建設しました。

その役割を担うためにつくられたのが寺町でした。寺町は阪神尼崎駅の西に置かれ、3.9haの敷地に11の寺院を集めました。阪神電車からも見える風景です。旧開明小学校から西に広がっていました。寺町の建設は、寺院と民衆を切り離し寺院の勢力をそぐ意味も含まれていたようです。代表的な寺院をまとめておきます。

圧倒されるような方丈をもつ本興寺。迫力十分です。方丈や開山堂など三棟の国指定重要文化財を持つ法華宗の寺院です。慶安元(1649)年、この地で創建されました。小堀遠州の庭園など室町・桃山期の様式を今に伝えています。

朱塗りの三重の塔が真っ青な空に映えていました。

秀吉ゆかりの廣徳寺です。本能寺の変の後に豊臣秀吉が明智光秀を追って山崎に向かう途中、伏兵を避けるため逃げ込んだといわれています(「尼崎で付近の禅宗寺院を見つけて休憩した」という説もあります)。京都の大宮にあった臨済宗大徳寺派の廣徳寺が移ってきたといわれています。

高徳寺にある「秀吉由緒」の石碑です。秀吉から寺領を与えられたといわれていますが、江戸幕府の2代将軍徳川秀忠の「寺領30石」と書かれた朱印状が残っているそうで、江戸幕府からも寺領を与えられていたようです。

現存する尼崎市最古の寺院の大覚寺です。寺伝では、推古13(605)年「聖徳太子が百済の高僧日羅上人に命じて尼崎市の長洲の浜につくらせた」といわれる、律宗の寺院です。

専念寺の本堂です。朱塗りの山門に銅板葺きの本堂、近代的な雰囲気の寺院です。平重盛の菩提寺だそうです。

尼崎市内唯一の多宝塔をもつ日蓮宗の長遠寺。重要文化財に指定されています。元和年間(1615~1623)にここ寺町に移ってきたといわれています。

浄土宗の法園寺(ほうおんじ)です。長遠寺と同じく元和年間にここに移ってきました。

境内に、佐々成政の墓地といわれる五輪塔がありました。織田信長に仕え猛将として知られました。「後に秀吉に属しますが、肥後守として在任中に領地で反乱が起きます。責任を問われ、天正16(1588)年切腹させられます。そのとき、恨みの秀吉のいる大坂城に向かって自らの臓腑を投げつけた」と説明には書かれていました。

このほか寺町には、金の鳳凰が屋根についている甘露寺、時宗寺院の善通寺、浄土宗の常念寺、曹洞宗の全昌寺、浄土宗の如来院が並んでいました。いずれも堂々とした立派な寺院でした。

寺院群に隣接して、煉瓦造りの建物が残っていました。ここにも、城下町の名残が残っていました。

「尼信(尼崎信用金庫)記念館」を示すこの石が、「尼崎城のなごりの石」なのです。

外堀だった庄下川にかかる開明橋の北側の川岸に、3mに渡って積まれていたものの1つだったようです。開明橋の北には、明治の廃城令によって姿を消した、不明橋(あかずのはし)がありましたが、この橋の取り付けの石塔だったようです。尼崎城の石材は処分されたり、尼崎港の防潮堤工事に使われて残っていませんので、貴重な存在でした。

尼崎信用金庫の本店のあるところに、明治時代のレンガ造りの建物が残っています。大正10(1921)年に、有限責任尼崎信用組合の創業時の本店事務室として使われていました。古老の話によれば、明治30(1897)年頃には、すでに創業者の小森家の所有になっていたようです。昭和47(1927)年、新しい本店(現在は本店別館で貯金箱博物館になっています)の建造に伴い移転して現在地にやってきました。もとは今より南50mほど南にあったそうです。

新年の訪問でしたので閉館しているところが多く、十分なまとめができていません。城下町の名残の半分ぐらいしかできませんでした。次の機会には、これ以外の尼崎市に残る城下町の名残を捜して歩いてみようと思っています。

中之島を西に、安治川隧道まで歩く

2013年01月02日 | 日記
中央(中之島)公会堂があることで知られる大阪、中之島。  旧淀川の堂島川と土佐堀川にはさまれた、東西3kmの地域です。

東の天神橋から西の船津橋と端建蔵橋(はたてくらはし)まで22の橋が架かっており、
”水の都”大阪を象徴しているところです。
この日は、天神橋付近から西に向かい、端建蔵橋を越えて川口に入り、その後、いつかは絶対にくぐろうと思っていた安治川隧道まで歩きました。前半は、橋を確認して歩くような旅になりました。

中之島の東の端で、中之島をまたぐ天神橋です。ここからスタートしました。

中之島の東部、中之島公園です。バラ園はよく知られています。

天神橋の西に架かる難波橋。
江戸時代、天神橋・天満橋とともに”浪花三大橋”といわれていました。当時は、200mを越える木橋でしたが、木造のため洪水でたびたび流されていました。

明治9(1915)年、市電の敷設に伴い堺筋に移され、市章を組み込んだり照明灯をつけたり整備されました。今も”ライオン橋”と呼ばれ親しまれています。

難波橋から見える中央公会堂。両替商を営み”北浜の風雲児”と呼ばれた岩本栄之助が、父の遺産50万円と自分の財産50万円を合わせて100万円を寄付して建てられました。コンペで選ばれた岡田信一郎の設計案をもとに、当時を代表する建築家である辰野金吾や片岡安の設計・監督により、大正2(1923)年から5年4ヶ月をかけ延べ18万人を動員して、大正7(1918)年に完成しました。昭和36(1961)年に永久保存が決まり、平成14(2002)年リニューアルされました。 国の登録有形文化財に登録されています。

公会堂の北に架かる水晶橋。昭和4(1929)年に架設されました。河川の浄化のため堂島川の可動堰を兼ねていたそうです。歩いてみるとさほどでもないのですが、高速道路の高架に押しつぶされそうに見えます。

南から公会堂につながる栴檀木橋(せんだんのきはし)。中之島やその北の堂島あたりに120あった蔵屋敷に行くためにつくられたといわれています。橋筋に栴檀の木があったので命名されたそうです。明治18(1885)年に淀川大洪水で流出し、大正3(1919)年に再建、昭和10(1935)年建て替えられました。橋の上に大正時代の親柱と昭和初期の橋名板が展示されていました。

公会堂の西に、平成14(2002)年のリニューアルの時に切り出された外壁が展示されています。断面の厚さ53cm、表面は化粧煉瓦貼りのモルタルです。

上流から見た淀屋橋です。御堂筋に架かっています。江戸時代の大坂きっての豪商、淀屋に因む橋です。御堂筋が堂島川をまたぐところ(淀屋橋の北側)に架かるのは大江橋。
 
淀屋橋の北西にある日本銀行大阪支店です。

淀屋橋の北に大阪市役所がありました。

淀屋の初代岡本三郎右衛門常安(じょうあん・つねやす)は、伏見城の造営や淀川の堤防改修に高い技術を発揮しました。その後、今の北浜に移り淀屋と称し材木商を営なみ、中之島の開拓を行いました。2代目淀屋言當(げんとう)は、幕府の許可を得て米市を中之島に開きます。当時、米を保存する蔵屋敷が、中之島には135棟も並んでいたといわれます。こうして、莫大な財産を築き、請われるままに大名にも多くの資金を貸し付けました。淀屋橋は、中之島に渡るため橋を土佐堀川に淀屋が自費で建設したことによってこう呼ばれたのでした。

これは”なにわ筋”に架かる常安橋。淀屋が開拓した中之島にはかつて常安町がありました。それに因む橋名でした。しかし、繁栄をきわめた淀屋は、その貸し付けが武家社会を揺るがすようになり、宝永2(1705)年5代目淀屋廣當(こうとう)のとき、幕府から闕所(けっしょ・大坂所払いと財産没収)処分を受け、莫大な財産を没収されてしまいます。しかし、4代重當は闕所処分を予想して、番頭であった牧田仁右衛門に暖簾(のれん)分け”しておりました。牧田家は出身地の倉吉(鳥取県倉吉市)に店を開き、”淀屋”を名乗って、明治まで多額の資産を有していました。また、宝暦13(1763)年、大坂に「淀屋清兵衛」の暖簾を掲げることができました。闕所から58年後のことでした。淀屋の強い経済力や影響力を感じながら歩きました。

四つ橋筋が土佐堀川をまたぐところに架かる、肥後橋から見た中之島。右にフェスティバルホール、左に朝日新聞社があります。近代的な高層ビル群が目立つようになります。

中之島も西部になると、水道管を伴う橋が頻繁に見られるようになります。また、生活感を感じる橋が多くなりました。新なにわ筋に架かる上船津橋です。阪神高速の下にありました。

ここが、中之島の西の出口です。端建蔵橋(はたてくらはし)を渡って川口に入ります。

現在の西区川口です。東の木津川と西の安治川に囲まれたところです。
安治川は、江戸時代に新たにつくられた川です。淀川の洪水で被害が絶えなかったので、江戸時代前期の貞享元(1684)年、河村瑞賢に命じて九条島を開削し淀川の水を直接海に流す工事に、取りかかりました。4年後に完成し、この地域が安らかに治まるようにとの願いをこめて安治川と名づけられました。

現在の川口一丁目と二丁目の一部である川口には、江戸時代に舟番所や舟奉行所が置かれ、”水の都大阪”の玄関口でした。明治の初めには、多くの外国人が居住し、ここから外国文化が入ってきました。大阪の”文明開化発祥の地”ともいわれるところでした。

しかし、河港であった川口は、貿易港としては限界がありました。明治31(1899)年、外国人の貿易商人が海に面した神戸に移ってからは、キリスト教の宣教師が居住するようになります。

本田小学校の脇にある「川口居留地跡」の碑です。明治になってからは外国人の居留地になっていました。当初26区画、後10区画が追加されました。後からやって来たキリスト教の宣教師たちは、病院や学校や教会を経営していました。説明板には、1・2番区画には信愛女学院、8番区画にはバルナバ病院、20番区画には大阪製氷所があったと書かれていました。

これは、本田小学校に隣接する「川口基督教会」です。旧居留地の21番区画にありました。大正9(1920)年の建設で、現在は国の登録有形文化財に登録されています。

外国人居留地の隣接した、旧本田、富島、古川、梅本町にあった「雑居地」。条約未締結国の外国人など居留地に居住できない外国人が日本国民と混住していました。「多くの中国人が居住し、中国人の経営する中国料理店が多くあり、大阪名物の1つになっていた」と説明されているように、日本の中華料理の発祥の地になりました。その他、理髪業、クリーニング、精肉業、製パン、ラムネ、牛乳、ビールなどがここから生まれました。

この家並みは、川口基督教会の東向かいにあります。どことなく、居留地の雰囲気が残っていました。

居留地の西に、慶応3(1867)年に運上所(うんじょうしょ)ができました。税関の前身です。大正9(1920)年に港区築港に移るまでこの地にありました。現在は、ここに大阪税関富島出張所があります。

安治川にそってさらに南に歩きます。対岸の大阪市中央卸売市場が途切れる所、国津橋付近に、大正4(1915)年につくられた「河村瑞賢紀功碑」がありました。大坂城築城のときに川底に落ちた花こう岩を引き上げてつくったといわれています。
ここから、広い通りを南に進みます。

源兵衛渡しの信号の交差点に出ます。「渡し」の名前のように、”水の都”には多くの渡しがありました。今も大阪市が運営する「渡し」が8ヶ所あるのだそうです。ここには、かつて「源兵衛渡し」がありました。

源兵衛渡しの交差点を右折すると、その道は、安治川沿いの建物にぶつかります。ここが安治川隧道の入り口です。安治川の川底をくぐり対岸の此花区西九条二丁目を結んでいます。安治川隧道は、太平洋戦争中の昭和19(1944)年9月に完成したものです。

向かって右側のシャッターは車両用のエレベーターです。ここから川底まで下ります。川底を渡り対岸で、再びエレベーターに乗って地上に出ていました。現在は、車両用のエレベーターは供用されていません。

左の奥まったところが、歩行者用のエレベーターです。ひっきりなしに人が出てきます。

私は、一番左にある階段を下りました。90度で曲がりながら下っていきます。

安治川隧道は、沈埋(ちんまい)函式隧道(水底に掘った溝に、両側が開いた沈埋函を埋めて接合し、後から水を抜いてトンネルを完成させる工法)で建設された最初の隧道なのだそうです。

下りきると川底を渡ります。エレベーターで降りた方と一緒に対岸まで歩きます。

途中にあった案内です。JR環状線の西九条駅までわずかの距離です。対岸(西九条側)に渡ったところで、登りのエレベーター前におられた係員の方に、深さをお尋ねしました。「深さ17m、幅83m、階段93段」と即座に答えが返ってきました。多くの方に訊かれているのでしょうね。 帰宅して調べてみると、「延長80.6m、深さ16.94m」でした。バッチリでした!  すばらしいですね。

エレベーターで地上に出ました。この間、ほんの5分程度。橋を渡るのと同じ時間で対岸に着きました。 建物は、左右の正反対でしたが、西区安治川一丁目とまったく同じデザインでした。右側が歩行者用のエレベーターの出入口。左が車両用でした。

建物から北に向かって10分ぐらいで、JR環状線西九条駅に着きました。

中之島の東から西に向かい、川口を経て、安治川隧道で対岸に渡ってきました。中之島の東部は中央公会堂や府立図書館、日本銀行など歴史的建築物があり、中央部から西には近代的な高層ビル群など新しい顔が並んでいました。江戸時代の”天下の台所”大坂を支えた淀屋などの大商人の活躍の後も残っていました。大阪の”文明開化”の幕を開いた川口の居留地や雑居地跡。太平洋戦争の末期にも、こういう大規模工事を続けていたのだ、そして、それが現代でも現役で使われていることに感動を覚えた安治川隧道。その気になって歩かないとわからないような、隠れた歴史に触れた旅でした。