トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

JR向原駅と「三本の矢」、そして分水界

2020年10月29日 | 日記

JR向原(むかいはら)駅のホームから駅舎に向かう跨線橋の階段です。上り口には、紫の地に白で染められた「積攻」と「サンフレッチェ広島FC」の文字が見えます。その先には、Jリーグのサンフレッチェ広島の選手の写真と名前が続きます。
 
駅舎内の待合室です。ここにもサンフレッチェ広島のチームカラーの紫と白のベンチが・・
今年(2020年)の2月22日に行われた「サンフレッチェ広島装飾完成記念イベント」で、サンフレッチェ色に装飾された駅舎が披露されたそうです。
向原駅と、サンフレッチェ広島はどのようなかかわりがあったのでしょうか。

待合室の入口に、安芸髙田市の清神社で必勝祈願をしているサンフレッチェ広島の選手やチーム関係者、地元ファンの皆さんの写真が飾られています。
サンフレッチェ広島のチーム名の「サンフレッチェ」は、安芸高田市吉田町(旧高田郡吉田町)にある吉田郡山(よしだこおりやま)城を拠点とした戦国大名、毛利元就の故事である「三本の矢」に因んで名づけられました。そんな関係にあったため、サンフレッチェ広島は、1992年4月の誕生以来、旧高田郡吉田町との交流を続けて来ました。吉田町が、1998年11月に完成させた吉田サッカー公園は、2004年、旧高田郡の六町が合併により安芸高田市になってからも、サンフレッチェ広島のトップとユースの練習場として使用されています。
このような経緯から、毛利元就の居城のあった安芸髙田市吉田町の入口にある向原駅が、サンフレッチェ広島のチームカラーで装飾された駅になったようです。

この日はJR向原駅を訪ねるため、広島駅からJR芸備線の三次行きの列車に乗車しました。 キハ47系3両編成の三次駅行きの列車は、広島駅から1時間10分ぐらいで、1面1線の向原駅の1番ホームに到着しました。先に到着していた2番ホームの広島駅行きの下り列車は、到着を待っていたように、すぐ出発して行きました。 写真は、ホームと駅舎のある広島駅方面の光景です。長いホームの先に、駅舎から続く歩道橋が見えます。列車の上に見えるのが、3階建ての駅舎の屋根です。

駅舎へ向かう跨線橋の上り口付近から、ホームを三次方面に向かって歩くことにしました。 ホームの上屋に、ホームと行先の標示がありました。上屋の下付近は、9人が座れるベンチが置かれているだけのシンプルなつくりになっていました。

ベンチの先に、「向原(むかいはら)駅」の駅名標がありました。
向原駅は、広島側の井原市(いばらいち)駅から5.9km、三次駅側の吉田口駅まで6.2kmのところ、広島県安芸高田市向原町坂にあります。
乗車してきた3両編成の気動車は、左にカーブしながら、次の吉田口駅に向かって出発して行きました。 話が変わりますが、向原(むかいはら)駅によく似た名前のJRの駅が、四国にあります。JR予讃線の「向井原駅」で、こちらは「むかいばら」駅と呼ばれています。予讃線は香川県高松駅から愛媛県松山駅を経て、宇和島駅までを結ぶ路線ですが、松山駅の先で、海側を走る「愛ある伊予灘線」と山側を走る「内子線」に分岐し、伊予大洲駅で再度合流するようになっています。二つの路線の分岐点は、向井原駅の先の伊予大洲駅寄りにあります。 愛媛県伊予市内に設けられている駅です。
駅名標付近からの三次駅方面の光景です。右側にある広い駐車場との間に側線が見えます。 向原駅は、大正4(1915)年4月、芸備鉄道として、東広島駅と志和地駅間が開業したときに開業しました。開業当時は、高田郡坂村にありました。その後、昭和4(1929)年に高田郡向原村坂に、昭和12(1937)年には高田郡向原町坂になりました。そして、平成16(2004)年に平成の大合併により安芸高田市が発足することに伴い、現在の安芸高田市向原町坂となりました。

右側の駐車場のとの間に側線の車止めが見えました。
昭和46(1971)年に、貨物の取扱いが廃止となりましたが、長いホームや側線は貨物の取扱いをしていた頃の名残だと思われます。
ホームの端から三次駅方面を撮影しました。上り線と下り線が合流する先に、大畝(おおうね)第2踏切が見えました。

広島駅側に向かって引き返しました。広島方面に向かう下り線とその左側にある側線が見えます。上が歩道橋。左側に歩道橋を降りると、鉄道と並行して走る県道37号に出ることができます。

駅舎から延びる歩道橋の下をくぐり、広島駅側の端まで来ました。駅舎に向かう跨線橋を上ります。

サンフレッチェ広島一色の跨線橋を進みます。右に下ると改札口です。
階段を下り、サンフレッチェ広島の紫と白のベンチが置かれた先に改札口がありました。

改札口を抜けて駅舎の待合室に入りました。この駅に着いたとき、下車したのは私一人でした。向原駅の1日平均乗車人員は、平成29(2017)年には308人おられたそうです。通勤時間帯ではなかったからでしょう、列車を待つ人はいらっしゃいませんでした。 業務委託駅と聞いていましたが、この時間は「窓口は整理中」ということで、窓口は閉まったままでした。「乗車券は、券売機か、車中か、到着駅で」と案内されていました。正面が出口です。

駅舎の2階にある待合室から駅舎内の通路に出ました。駅舎の外に出るため、左側(西側)に向かって階段を下ります。

昭和61(1986)年に竣工した駅舎です。3階建ての立派な建物で、2階の駅舎部分以外に、1階部分の右側はスーパーマーケットに、裏側は地場産業新興センターになっており、安芸髙田市観光センターやテーブルと椅子が置かれている交流スペースなど、多目的に使われています。

駅前ロータリーです。山陽新幹線の開業記念に、向原町の国鉄職員の皆さんから贈られたC58形SLの動輪のモニュメントが設置されていました。広い駅前ロータリーはバス乗り場とタクシー乗り場になっていました。

駅舎の西側から向原駅を跨ぐ歩道橋を渡って、駅の東側に向かうことにします。先ほど、駅の待合室から下ってきた階段を上って行きます。

駅舎の2階、向原駅の待合室の前から見た駅の東側です。広島駅に向かう線路の東に駐車場、そして県道37号に沿って建つガソリンスタンドが見えました。

向原駅の入口を過ぎて歩道橋を進みます。
東側から見た駅舎と跨線橋、そして、右側にあるのが歩道橋です。

県道37号から見た駅舎と歩道橋です。この日、もう一つ見ておきたいところがありました。分水界です。向原駅の北側に、この地から日本海に向かって流れる江の川水系と瀬戸内海に注ぐ太田川水系の分水界になっているところがあります。そこに、「泣き別れ標」が立っていると聞いていたからです。
分水界をめざして、JR芸備線と並行して走る県道37号を次の吉田口駅方面に向かって歩きました。

待合室の前から見えたガソリンスタンドの脇を進みます。その先にあるエディオンの前を左に進むと、ホームから見た大畝第2踏切があります。

「大畝第2踏切 115K607M」と書かれています。芸備線の岡山県側の起点、備中神代駅からの距離のようです。 
 
大畝第2踏切から見た駅舎方面です。

踏切から県道に戻ります。県道はその先で、左にカーブして芸備線の上を越えるルートになります。ガードロープがあるところが芸備線の線路のあるところです。その手前で右折して進みます。
赤い屋根のお宅が並んでいます。最後のお宅の手前を左折して線路の方に向かって歩きます。

突きあたりの屛の先に芸備線の線路が見えました。線路の向こうにある盛り土の上に、木製の標識がありました。「泣き別れ標」と書かれています。
正面のお宅の右側の畑の中にあった「説明」には、「標高124メートルの平地にある分水界はめずらしい。ここは、旧高田郡戸島村と坂村の村境にあり、ひとしずく落ちた雨でさえ、半分は南、残りは北、泣き別れとはよく言ったと謡われていた」と書かれていました。

県道37号に戻り、芸備線の線路の上を越えると、道路は大きく右にカーブします。
その先の右側にあった白い土蔵風の建物の裏の畑の中に、向原町教育委員会が設置された「分水界泣き別れ」の説明板がありました。

「説明」には、「数万年前、三篠川(みささがわ)の上流や見坂川は、戸島川(江の川水系)に合流し、北に向かって流れ、日本海に注いでいました。しかし、三篠川は浸食力が強いため、現在の地形になり、この地に分水界が形成された」と書かれていました。現在では、三篠川は、戸島川とは別れ、上流部分で見坂川、有坂川と合流し、下流で太田川に合流し、瀬戸内海に注ぐ川になっています。かつて、戸島川に合流していた見坂川と有坂川は、三篠川の浸食によってできた地形によって、戸島川ではなく、太田川の上流である三篠川に合流することになったのです。

説明板があった所から見た分水界です。その向こう側を通る芸備線の線路は、このあたりを頂点にして山のような形になっているといわれています。

JR向原駅を訪ねて来ました。
平地にあることはめずらしいといわれている分水界がある安芸高田市向原町の玄関口にあり、サンフレッチェ広島のチームカラーに装飾されたユニークな駅舎をもつ駅でした。印象に残る旅になりました。