トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

改札口から続く急な階段のある駅、JR那岐駅

2017年10月27日 | 日記

長い歴史を感じる木製の改札口の向こうに、急な階段が見えます。

階段には屋根がついています。JR因美線で、岡山県から鳥取県に入って最初の駅。豪雪地帯にあるため、冬の降雪に備えて設置されたもののようです。神社や寺院の回廊のような印象を受けました。でも、ここは、神社でも寺院でもありません。改札口の先にはホームがあるはずです。ここは、ホームに向かう回廊のような階段のある駅でした。

これは、外から見た階段部分です。かなりの傾斜があります。この駅は、因美線の那岐駅。秋の一日、JR西日本岡山支社管内の乗り放題キップである「吉備之国くまなくおでかけパス」を利用して、那岐駅を訪ねてきました。

因美線のスタートとなるJR津山駅です。津山駅は雰囲気が一新していました。平成26(2014)年から始まった「津山駅前整備計画」によって、駅前広場に路線バス乗り場が移され、JRとの乗り換えの安全性と利便性が向上しました。駅舎の壁面やバス乗り場の上屋の柱は、城下町津山らしく蔵屋敷風のツートンカラーに塗装されていました。

津山駅の駅前広場には、幕末、蘭学者として活躍した津山藩の藩医であった箕作阮甫(げんぽ)の像と共に蒸気機関車(SL)が展示されていました。平成29(2017)年8月10日に、津山市立南小学校に静態保存されていたSL、C1180号機が駅前に移設されてきました。昭和37(1962)年の第17回岡山国体のときには、お召し列車を牽引した(単機運転ではなくC1186号機との重連運転だったそうですが・・)SLとして、また、昭和46(1971)年3月には、津山線のディーゼル化のときの「さよならSL」号を牽引したSLとして広く知られています。

C1180号機は、昭和10(1935)年、山口県下松市の日立製作所笠戸工場で製造、国鉄松山機関区に配属され、予讃本線(現予讃線)で活躍した後、芸備線、津山線で活躍しました。その後、国鉄只見線、会津線での活躍を最後に、昭和50(1975)年1月24日廃車となりました。津山市は、輝かしい足跡を残したC1180号機を、国鉄から無償譲渡を受け、津山市立南小学校で静態保存していました。C1180号機は廃車までの実働40年間のうち25年間を津山線で過ごしいますので、懐かしいふるさと津山駅に里帰りしたことになります。

津山駅舎に入り、因美線のホームに向かいます。ホームに向かう階段に掲示されていた、現在の那岐駅の写真です。因美線は、JR鳥取駅と岡山県のJR東津山駅を結ぶ鉄道です。鳥取駅・智頭駅間が開通したのが大正12(1924)年、智頭駅・美作河井駅間が開通したのは、昭和7(1932)年7月1日のことでした。津山駅から北に向かって進んだ延伸工事が、昭和6(1931)年に美作河井駅まで完成していましたので、昭和7(1932)年に、因美線は全線が開業することになりました。

実際の運用は、ここ津山駅が起点になっています。11時35分発の智頭行きの上り列車に乗るつもりでした。津山駅から発車する那岐駅方面に向かう列車は、智頭駅行きが7本運行されています。他に、岡山県側の美作加茂行きの列車も3本運行されています。ただ、6時42分発の列車が出た後は、11時35分発の列車まで運行がありません。利便性に優れているとはお世辞にも言えない状態です。

ホームに上がったとき、智頭行きの因美線の列車が入線してきました。ワンマン運転の単行気動車です。キハ120330号車。入線のため後方の運転席におられた運転士さんが、前方にやって来られました。JR因美線の駅を訪ねるのは久しぶりです。すでに、JR美作滝尾駅(「JR因美線の登録有形文化財、JR美作滝尾駅」2011年5月14日の日記)、美作河井駅(「転写台が出てきた岡山県境の駅、JR美作河井駅」2012年7月13日の日記)、知和駅(「JR因美線の”秘境駅、知和駅」2014年4月24日の日記)を訪ねて来ました。

キハ120系気動車の内部です。トイレ付き、座席は一部クロスシートで、10人ぐらいの方が乗車されていました。因美線は落石防止のため、時速30キロ程度の速度制限があるところがかなりあります。雨天時はさらに厳しい制限があるようです。平成23(2001)年9月に台風12号の大雨による土砂崩れが発生し、美作河井駅・那岐駅間が不通になったことを思い出しました。

那岐駅は、岡山県と鳥取県の県境にある3,077mの物見トンネルの先にありました。因美線で最後に開通した美作河井駅・那岐駅間は、最大の難工事だったといわれています。25パーミル(‰)の急勾配が続くこの区間は、ここを越える列車にとっても最大の難所になっていました。しかし、キハ120330号車は順調な走行を続け、津山駅から1時間ぐらいで那岐駅に着きました。那岐駅は、美作河井駅から10.0km(その3分の1が物見トンネルでした!)、次の土師(はじ)駅までが2,9kmのところにありました。ちなみに、次の土師駅までがJR岡山支社管内であり、この日使用した「吉備之国 くまなくおでかけパス」も、次の土師駅までが乗り放題区間になっていました。

相対式2面2線のホームでした。駅舎は右側にあり、列車が停車したのは、駅舎から離れた山側の2番ホームでした。駅舎側の1番ホームには木造の待合室があり、そこから駅舎に向かって通路が続いています。列車は、次の土師駅に向かって出発していきました。

津山駅方面です。山深い山里の風景が広がっています。駅舎側のホームの左側に向かって、かつての貨物の引き込み線が残っていました。現在は、保線用の測線になっているようです。下車したホームの目の前に、待合室がありました。列車が到着したとき、二人連れの女性が、ここから出て来られ乗車されました。

待合室の入口に、かつての手書きの駅名標がありました。かなりの年月を経ているように見えます。国鉄では、昭和21(1946)年に「鉄道掲示規程」を更新したそうです。「書字の方向が左から右」、「ヘボン式ローマ字で大文字のみ使用」することに、変更されました。また、昭和29(1954)年には「平がな書体に丸ゴシック体を採用した」ということです(「大阪の『駅』の謎」米屋こうじ著)。昭和21年以後につくられたものだと思いますが、「丸ゴシック体」であるかどうか、私には正しく判断することができません。

待合室の内部です。壁につくり付けのベンチがあるだけで、他には何も置かれていませんでした。

2番ホームから駅舎に向かって歩きます。2番ホームから階段を使って下りるとその前に構内踏切がありました。

落ちた栗の「イガ」を避けるようにして進みます。

1番ホームから見えた駅舎です。赤い屋根が鮮やかです。駅舎に向かう急傾斜の階段がある通路です。

駅舎前に広がる集落です。那岐駅は、鳥取県八頭郡智頭町大字大背字中河原にあります。智頭町は、平成16(2004)年に、鳥取市との合併をの是非を問う住民投票で「合併賛成」が多数になっているそうです。それから、10年以上が経過していますが、合併はまだ実現していません。

1番ホームの待合室です。2番線にあったと同じ駅名標が見えました。「ワンマン列車 乗車位置 津山方面」と書かれた乗車位置の表示がありました。那岐駅は、平成11(1999)年まで米子支社鳥取鉄道部の管轄であったため、米子支社管内で見かけるタイプの乗車位置標識が立てられているといわれていますが、これがそれなのでしょう。

「屋根からの落雪に注意」を促す掲示です。通路に面した待合室のガラスに掲示されています。中国山地の豪雪地帯にある駅であることを再確認しました。

待合室から駅舎に向かう手すりのついた階段です。上部から見ると急傾斜であることがよくわかります。両側の腰板には、この地域のようすや因美線に関する写真や説明が掲示されていました。約30段の階段を下ります。

改札口から、駅舎の待合いスペースに入ります。改札口の上に運賃表、右側のつくり付けのベンチの上に時刻表が見えました。

岡山駅から那岐駅までの運賃は1,850円です。「おでかけパス」は1,950円。ほぼ片道運賃で往復できます。ありがたいことです。

駅舎からの出口にあった図書コーナーです。駅事務所への入口(右側)付近に設置されています。

那岐駅舎です。那岐駅は、平成12(2000)年に無人駅になりました。

駅舎の正面にあった案内です。無人駅になってから、那岐駅舎は、平成18(2006)年からデイサービス事業の施設として使用されるようになりました。その後、平成20(2008)年には那岐診療所が開設され、第2・第4火曜日には14時から16時まで内科の医師による診療が行われています。待ち時間のために、図書コーナーが設置されたのでしょう。

駅舎の前に二つの記念碑がつくられていました。一つは、「因美線開通50周年」の記念碑です。因美線と那岐駅の開業は昭和7(1932)年7月1日でしたから、「五十周年」といえば、昭和57(1982)年、この時からすでに35年になりました。

もう一つは、「因美線開通八十周年」と「那岐駅舎開業八十周年」の碑です。80周年ですから、平成24(2012)年につくられたのでしょう。
駅舎の柱の上の赤いマークが気になりました。

建物財産標でした。「昭和7年7月1日」と書かれていました。因美線と那岐駅が開業した年です。

駅付近に「那岐のふるさと 史跡案内」という看板がありました。看板の上部の緑の部分に、那岐地区の集落ごとの世帯数と人口が書かれていました。それによると、平成14(2002)年には、333世帯 1,190人の人が、このあたりに住んでいらっしゃったようです。

駅前の道路から見えた那岐駅舎です。駅舎の裏側にホームの待合室の屋根が見えます。

那岐橋です。那岐駅に続く道路をまっすぐ行ったところにあります。渡ると一般県道295号にぶつかります。

津山駅に向けて引き返すことにしました。ホームに上がったときに、3人の人が列車を待っておられました。

津山駅から乗車してきたキハ120330号車が折り返して帰ってくる、13時06分発の津山駅行きの列車を待つことにしました。中国山地の奥深いところにある、静かな山里の雰囲気を十分感じることができました。冬場の豪雪を見るために、もう一度訪ねてみたいと思った旅でした。







JR糸崎駅から松浜町の町並みを訪ねる

2017年10月13日 | 日記

JR山陽本線のJR糸崎駅です。広島県三原市糸崎四丁目にあります。開業は、明治25(1890)年。山陽鉄道が、尾道駅からここまで延伸したとき、「三原駅」として開業しました。そして、2年後の明治27(1892)年、山陽鉄道は広島駅まで延伸し途中駅になりました。そのとき、「三原駅」の駅名をこのとき開業した現在の三原駅に譲り、糸崎駅になりました。

写真は、糸崎港に近いところにある旧松浜町(現・糸崎七丁目)の家並みです。現在でも、港に面した通りには、唐破風の玄関、格子づくり、2階に手すりのついた広間をもった民家が残っています。松浜港(現・糸崎港)が開かれたのは、この地が、広島県における洋学の発祥地だったことによるそうです。幕末の文久3(1863)年広島藩の支藩、三原藩主浅野忠英がイギリス人ブラックモール兄弟を招いて洋学館を設けたところなのです。そして、この地に、元治元(1864)年、浅野忠英が、船溜(ふなだまり)を築造したことに始まります。大きな岩の傍らに偕老(かいろう)の松があったことから、松浜港と名づけられたといわれています。

その後、松浜港は北前船による交易で繁栄しました。さらに、明治32(1900)年、糸崎港が特別輸出港とされてからは、神戸税関支所が置かれるなど、貿易港として発展しました。大正時代の初期には、全国第6位の貿易港になっていたといわれています。

港町として繁栄した旧松浜町には、一説には32軒ともいわれる遊郭があったそうです。港に船をつないで雁木(がんぎ)を上がれば、目の前には遊郭があるというつくりになっていました。その後、遊郭は、昭和33(1958)年、法律の完全施行により廃止されました。現在では、建て替えられた民家も多く、雰囲気も大きく変わっています。また、遊郭の規模や娼妓の数など、わからないこともたくさんありますが、この日は、かつての遊郭の雰囲気を残しているといわれる旧松浜町の家並みを訪ねることにしました。

岡山駅から糸崎駅行きの普通列車で、約1時間30分弱、糸崎駅に着きました。糸崎駅と次の三原駅の間に、JR西日本岡山支社と広島支社の境界があります。そのため、岡山駅から西に向かう山陽本線の列車には、糸崎までの区間運転になっているものが多くあります。この日は岡山支社管内乗り放題きっぷである「吉備之國 くまなくおでかけパス」で、ここまでやってきました。

糸崎駅からの出口は、北に向いて開かれています。駅前広場を通って国道185号に出て、右(東)の尾道・福山方面に向かって歩きました。しばらく進むと、左(北)側の丘の上に、三原市立糸崎小学校が見えました。そして、その先に国道185号を渡る横断陸橋が見えました。横断陸橋を右に進むと、山陽本線を渡ることになります。

横断陸橋に上り、右(南)側に向かって進みます。山陽本線を渡る陸橋になっています。

横断陸橋を降りたところの右手の民家に「糸崎七丁目4番」の住居表示がありました。正面の民家があるところが「糸崎七丁目4番」のブロックです。また、右側の民家のあるところは「糸崎七丁目3番」のブロックです。正面の民家の右側の通りを向こう側に向かって進みます。

これは、旧松浜町の中にあった糸崎七丁目の住居表示です。一番最初にお示しした旧松浜町の家並みの写真は、表示している「13番」から「16番」のブロックを、海の方から撮影したものです。そこをめざして、先ほどの「糸崎七丁目4番と3番」の間の道を右下(南)に向かって進みました。そして、「8番」の手前を左折して「13番」に向かうことにしました。

「9番」と「10番」の端まで来ました。写真の右前から正面にかけての民家は、「8番」にあたります。ここで、左折することにしていたのですが、正面の民家の先にある神社を、先に訪ねることにしました。

糸崎神社です。本殿は銅板葺きで、鳥居には「慶応4歳戊辰正月吉日」と、その奥の玉垣の柱には、「明治十四年巳年」「三月二十八日」と刻まれていました。旧松浜町から、国道185号を東に向かって進むと「糸崎神社」があります。そこから、勧請したのでしょうか?

「9番」と「10番」の端まで戻り、そこから左折して、「10番」を左に見ながら、改修、整備された通りを東に向かって進みます。

かつて、遊郭があったといわれる「13番」の港側の家並みです。格子づくりで、2階に広間をもつ間口の広いお宅がありました。このようなつくりは、瀬戸内地方の遊郭に共通する特色だったといわれています。今は、2階の窓は、サッシに替わっていましたが・・。また、土蔵も残っていました。

その先にあった、カフェ風の建物です。斜めに切られた、懐かしい玄関のデザインが印象に残りました。

カフェ風の建物の軒下にあった装飾です。

カフェ風の建物の横にある路地です。幅2mぐらいの細い路地が続いています。

路地から撮影しました。左側がカフェ風のお宅の奥の部分、右側が、その隣にあった、2階に手すりをつけたお宅です。かつての姿を伝えてくれています。

カフェ風のお宅からさらに南に進みます。路地の先は「16番」になります。格子で覆われており、2階に広間をもつ間口の広いお宅です。この建物もかつての雰囲気を伝えています。

その先から、歩いてきた通りを振り返って撮影しました。ブリキ製と思われる唐破風の玄関が残るお宅がありました。家並みの中で、最もインパクトがありました。
 
唐破風のある玄関です。右側は、唐破風の庇の木組みのデザインです。

その先で、左折して路地に入り、東に向かって進みます。右側の建物は「17番」のブロックにあります

1ブロック進みます。左の前方にあった雰囲気のある民家です。2階のガラスの奥に手すりが見えます。「15番」の角にあったお宅です。

再び、住居表示です。唐破風の玄関があった「16番」から、「17番」との間の路地を入り、次の「16番」と「15番」との間の路地、歩いてきた通りの一つ裏の路地を、北に向かって歩きます。

左側の民家が「16番」、右側の民家が「15番」になります。遊郭として多くの人で賑わっていた頃は人通りもさぞかし多かったことでしょう。

左側のお宅には、2階にあった手すりが残っていました。

「15番」のブロックにあったお宅です。格子で覆われており、雄壮な印象を受けます。突きあたりの民家の左側に、先ほど通って来たカフェ風のお宅があります。突きあたりの民家の手前を右折して、最初の路地を左折して、「13番」のブロックと「14番」のブロックの間の道に入っていきます。

この付近は建て替えられた民家が多く、別の町を歩いているように感じます。この写真は、「糸崎七丁目13番」のブロックで最初に見えた、土蔵をはさんだ2軒の民家を、裏側から撮影したものです。

かつて遊郭があった旧松浜町を歩きました。
かつての雰囲気を伝える建物は残っていましたが、現在は、静かな住宅地という印象でした。
糸崎というと鉄道にかかわる町という印象が強かったのですが、松浜港(現・糸崎港)での交易によって繁栄した、歴史に触れることができた楽しい旅になりました。