トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

香川県最東端の駅、JR讃岐相生駅

2020年01月24日 | 日記

JR高徳線の讃岐相生駅です。香川県と徳島県の県境の香川県側にある駅です。前回は、香川県最西端にあるJR箕浦(みのうら)駅を訪ねてきました(「香川県最西端の駅、JR箕浦駅」2020年1月6日の日記)。 今回は、香川県最東端の駅とされるJR讃岐相生(さぬきあいおい)駅を訪ねることにしました。

JR高松駅の1番ホームで出発を待つ徳島駅行きの列車です。1560号車と1253号車のワンマン運転の2両編成でしたが、後ろの車両(1253号車)は回送扱いでしたので、先頭車両の1500系気動車に乗車しました。 エコ車両として知られる1500系は2006年からの8年間で34両が製造され、1560号車は2011年にデビューしています。

讃岐相生駅の2番ホームに到着しました。 高徳線は単線のため、行き違い列車との交換や特急列車の追い抜きによる停車時間があったため、高松駅から約1時間50分ぐらいかかってしまいました。 讃岐相生駅は駅舎寄りの1番線が「一線スルー」になっています。 ここでも行き違いか、特急列車の追い抜きがあるはずです。 讃岐相生駅は引田(ひけた)駅から2.5km、次の徳島県阿波大宮駅まで5.6kmのところ、香川県東かがわ市南野にありました。 

ホームから見た徳島駅方面の風景です。 このとき、徳島駅行きの”特急うずしお”が1番線を通過して行きました。 讃岐相生駅を出た列車は、徳島県との県境にある讃岐山脈を、最大25パーミルの急勾配を登り、大小合わせて11のトンネルを抜けて進んで行くことになります。 
讃岐相生駅は高徳線の香川県最南端の駅になっていますが、JR土讃線の讃岐財田(さぬきさいだ)駅の方が少し南に位置しているため、「香川県最南端の駅」の座を、讃岐財田駅に譲っています。 

ホームのようすを見て回ることにしました。 2番ホームの待ち合いのスペースです。上屋の下にベンチが設置されています。 グリーンとホワイトのツートンカラーが鮮やかでした。

2番ホームの駅名標のところに、線路と並行して走る道路からホームに上がる階段
がありました。
 
乗車して来た列車が出発して行った後の高松駅方面の光景です。駅舎側へは跨線橋で移動する構造になっています。

2番ホームから見た駅舎です。 白一色の瀟洒な建物ですが、ドアも窓も閉まっていて、人の気配がまったくありません。 そういえば、下車したのは私だけ、乗車した人もおられませんでした。 ちなみに、讃岐相生駅の1日平均乗車人員は2014年には18人だったそうです。

跨線橋の上から見た駅の全景です。 上下2本の線路に2番ホームの上屋、ホームに並行して走る道路、駅名標と跨線橋、1番ホームの跨線橋と駅舎、ホームの上屋が見えました。 駅舎の手前にトイレもありましたが、現在は入口が閉じられていました。 

駅舎の入口は閉まっていましたが、施錠はされていませんでした。 駅舎の内部に入りました。 内部は、ごみ一つない清潔な空間になっています。 灯りは点っていませんでしたが、ホームに向かって右側にベンチが2脚と窓がありました。 正面に掲示されていた時刻表には、上り(高松駅行き)、下り(徳島行き)とも、1日9本の列車の出発時刻が書かれていました。 

左側には、駅事務所の跡がありました。 JR讃岐相生駅が開業したのは、昭和10(1935)年でした。 引田駅と徳島県の板西(現・板野)駅間と、吉成駅と佐古駅間が開業し、高徳本線(当時、現高徳線)が全通したときでした。 その後、讃岐相生駅は、国鉄時代の昭和47(1972)年から無人化され、簡易委託駅(切符の販売のみを委託)となりました。 現在は、簡易委託も廃止され、完全な無人駅になっています。

駅舎から外に出ました。駅舎の正面です。 人の気配がありませんでした。 これは、隣の引田駅が特急停車駅で、高松駅から発車する普通列車の半数が引田駅までの運行であることが影響しているようです。 3kmぐらいで、利便性の高い引田駅に行くことができるという地理的な条件によるものだそうです。 

駅の周辺を歩いてみようと思いました。 駅舎に向かって左側に讃岐相生駅周辺の案内板(昭和61年香川県作成)がありました。 寿永年間(1182年~1185年)、源平の合戦で、讃岐国屋島に陣を敷いていた平氏を追討するため、源義経が率いる源氏の軍勢が阿波国から大坂峠を越えて讃岐国に入ったとき、初めて人馬を休めたのが、讃岐相生駅から西に1kmのところにある馬宿という集落だったそうです。
こちらの案内図も駅前にあったものです。表面がかなり傷んでおりましたが、源義経が兵馬を休ませた馬宿は、引田駅へ行く途中にある馬宿川に近いところにあったようです。 

讃岐相生駅から駅前の取り付け道路を進みます。少し離れたところから見た駅舎です。 駅舎前の2本の大木に守られているようにも見えます。 駅前からまっすぐ進み、国道11号を横断しました。
国道11号の先は相生漁港でした。 漁船や渡船が停泊しています。その向こうに、国道11号の標識や東かがわ市南野の集落が見えます。 この地は、漁業も盛んですが、和三盆(わさんぼん)の製糖でも広く知られています。駅前にあった案内によれば、「和三盆」は、”讃岐三白”(砂糖・塩・綿)の一つで、「キビをしぼって作った白下糖を手作業で漂白し製造する白糖で、高級和菓子の原料になる」のだそうです。 また、塩については、江戸時代末期に、久米栄左衛門通賢が塩田開発を主導し、”讃岐の塩田開発の祖” と称えられているそうです。

相生漁港から見た播磨灘です。沖合に浮かぶ、左から毛無島、通念島、そして松島です。 

「讃岐相生駅」「四国のみち」と書かれた道標がある国道11号と讃岐相生駅との分岐点まで戻ってきました。 「四国のみち」とは全長1545.6kmの四国自然歩道のこと。 四国八十八ヶ所霊場や各地に点在する身近な自然や歴史に親しみながら、四国を歩いて一周することができるように指定されているそうです。 かつて、源義経の軍勢が越えて来た大坂峠への入口まで行って見ることにしました。 道標から、国道11号を徳島方面に向かって歩きます。

峠道は、3ルートあるそうです。 一つは江戸時代以前につくられた道、明治時代初期につくられた道、明治時代後期につくられた道の3ルートです。 道標にあった「四国のみち」には、「明治時代初期につくられたルート」が指定されているそうです。 国道11号を進むと右側に道標がありました。「右大坂道」「四国のみち」と書かれています。 「大坂道」は赤字で書かれていて、四国八十八ヶ所霊場への遍路道の案内だそうです。この先はこの「遍路道」に沿って歩くことにしました。 ここを右折します。

右折するとすぐ、左側に坂元川に架かる井関橋があります。 井関橋を渡って進みます。

その先、左側に「坂元集落センター」がありました。大きな石碑の先に石灯籠が見えます。 ここで、出会った地元の方は、「以前、この道をバスが通っていたんだよ」とおっしゃっていました。
その先で、国道11号から分岐した道に合流します。道なりに進みます。

その先で、通りが分岐します。 電柱の脇に「大正10年10月建立」と刻まれた道標が残っていました。 まっすぐ進みます

集落の中に「大坂峠」と書かれた遍路道の案内がありました。道なりに進みます。
左側に、地主神社の参道を見ながら進みます。
その先で、通りはJR高徳線とアンダークロスすることになります。
アンダークロスを抜けると道標があります。通りがかった方にお聞きすると「遍路道は高徳線に沿って行く道ですよ」とのこと。 山に向かって歩きます。
遍路道はここから山道に入ります。 大坂峠への道になります。

香川県最東端の駅、JR讃岐相生駅を訪ねて来ました。 
無人駅の讃岐相生駅では、誰とも出会うことができませんでしたが、駅舎もホームも跨線橋も管理が行き届いている美しい駅でした。






香川県最西端の駅、JR箕浦駅

2020年01月06日 | 日記

JR予讃線の箕浦(みのうら)駅です。貨車を改造した駅舎(待合室)をもつ無人駅で、香川県観音寺市豊浜町箕浦にあります。香川県高松駅と、愛媛県松山駅を経て宇和島駅を結ぶJR予讃線の香川県側の最後の駅になっています。

この日は、JR坂出駅から普通列車で多度津駅へ、そこから伊予西条駅行きの普通列車に乗り継ぎ1時間15分ぐらいで、箕浦駅に着きました。 予想以上に時間を要したのは、途中駅での行き違いや特急列車の追い抜きのための停車時間が多かったからです。箕浦駅は、豊浜駅から4.4km、次の愛媛県側の最初の駅、川之江駅まで5.8kmのところに設置されています。箕浦駅に入る手前から、右側に海が見えるようになりました。 列車は3分の2以上の座席が埋まっていましたが、ここで下車したのは、私一人でした。

1面2線の島式ホームの愛媛県方面に向かって左側、2番ホームに到着しました。2番線が1線スルーになっており、行き違いのある場合を除き、上り列車(高松駅方面行き)、下り列車(松山駅方面行き)ともに、このホームに到着しています。 乗車して来た列車は、すぐに出発して行きました。 列車は、この先で県境の鳥越トンネルを抜けて愛媛県に入り、次の停車駅、川之江駅に向かって進んで行きます。

長いホームの松山駅側の端で降車しましたが、「通行禁止」の看板のある反対側、高松駅側のホームの端にやってきました。予讃線は、JR土讃線と分岐するJR多度津駅から先は、単線区間になっています。右側が2番線で、左側の1番線から側線が分岐しています。

ホームの松山駅側のようすです。ホームのすぐ脇が1番線。1番線から分岐した側線は車庫につながっています。ホームは上屋があるだけのシンプルなつくりになっていました。

ホームの上屋です。ブロックの仕切りの両側にベンチがあるだけで、時刻表や運賃表も掲示されていませんでした。

ホームの端から構内踏切を渡ります。正面に貨車を改造した駅舎(待合室)と左側にトイレ、右側に倉庫として使用されているらしい建物が見えます。そして、待合室の出入口を通して燧灘(ひうちなだ)の青い海も見えました。

箕浦駅は、大正5(1916)年4月1日、予讃線の観音寺駅と川之江駅間が開業したときに、中間駅として開業しました。

待合室の内部です。ここには駅らしい雰囲気が漂っています。ベンチが設置されており、時刻表や運賃表、その他さまざまな「お知らせ」が掲示されていました。時刻表から、日中は特急列車と普通列車が1本ずつ運行されていることがわかります。

海側に白いベンチが設置され、ホーム側の壁面に時刻表や運賃表が掲示されています。広くはない室内ですが、快適な空間になっていました。明るい日差しが差し込みまぶしいぐらいでした。しかし、私の滞在中に駅に来られた方は、一人もおられませんでした。ちなみに、箕浦駅の1日平均の乗車人員は、2018年には15人だったそうです。


待合室から駅前広場に出ました。海をイメージしたダークグリーンと黄色のラインが鮮やかな駅舎の外観です。 「JR箕浦駅」と書かれたプレートの横の出入口の屋根の下に白く見えているところに、「建物財産標」がありました。

この待合室は、国鉄時代の昭和59(1984)年11月26日に設置されたようです。



駅前広場から一段低いところに、国道11号があり、多くの車両が行き来しています。駅の並びに、讃岐うどんのお店がありました。 「西端手打うどん 上戸うどん」です。 国道の脇に「う(うどん)」と見える看板がありますが、それには「燧(ひうち)のいりこは日本一」と書かれてありました。地元の燧灘で獲れるいりこ(カタクチイワシ)から取ったうどんだしが売り物のお店のようです。ちょうど昼時でしたので、駐車場にはたくさんの車が並んでいました。 県境に近いところだけに「香川」ナンバーと「愛媛」ナンバーの自家用車でやって来るたくさんの家族連れで賑わっていました。


箕浦駅前に広がる燧灘です。駅の待合室からもこの広々とした姿を見ることができます。 波除けブロックの向こうに見える島が、「いりこの島」として知られる伊吹島です。島の周辺で漁獲されたカタクチイワシは、30分以内に海岸にある加工工場で洗浄、選別され、すぐに煮沸、機械乾燥されて、翌日には出荷が始まると言われています。 この一貫体制によって、鮮度が維持できることが、上質ないりこの秘密だそうです。

 

うどんのお店から愛媛県の側を見ると、海に向かって突き出した突堤が見えました。箕浦漁港を訪ねてみようと思いました。


上戸うどんのお店の「讃岐最西端駅饂飩」と書かれた看板を見ながら歩き始めました。 

国道11号を愛媛県方面に向かって15分ぐらい歩くと箕浦漁港に着きました。 元禄(1688~1704)年間、防波堤と荷揚げ場を築き、商業港、漁港として整備され、大正時代まで、多くの水揚げ高を誇る漁港として栄えました。

しかし、波が運ぶ土砂によって、船舶の出入りが困難な状態になったため、昭和5(1930)年に当時の箕浦漁協組合長、田中愛二郎氏が私財を投じて、外港を整備されたそうです。箕浦漁港は、「未来に残したい漁業、漁村の歴史文化財産百選」に認定されています。 (観音寺市ホームページより)


箕浦港の常夜灯の脇には、私財を投じて港の整備を行った田中愛二郎氏の顕彰碑が残っており、その功績を今に伝えています。

JR予讃線の香川県と愛媛県の県境近くにある無人駅、JR箕浦駅を訪ねてきました。
貨車を改造した駅舎の前には、美しい燧灘の風景が広がる駅でした。