トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

もう一つの「日本一低い山」、御山を訪ねる

2019年07月31日 | 日記
前回、日本で3番目に低い山、徳島市西須賀町にある弁天山(標高 6.10m)を訪ねました(「自然の山で日本一低い山、弁天山を訪ねる」2019年7月25日の日記)。現在、国土地理院の地形図に載っている正式の山で「日本で一番低い山」は仙台市宮城野区にある日和山(ひよりやま 標高 3.00m)、2番目は大阪市の天保山(標高 4.53m)とされています。日和山も天保山も人工の山(築山)であり、弁天山は自然の山としては、日本で一番低い山でした。
国土地理院からは認められていなくても、「日本一低い山」といわれている山があります。その一つ大潟富士は、八郎潟を干拓してできた秋田県大潟村にある人工の山(築山)で、平成7(1995)年に、標高0メートル、周囲からの高さが3.776メートル(富士山の1000分の1)になるように築造されました。今後、国土地理院の地形図に載せられることがあれば、多くの人の関心を呼ぶことでしょう。
写真は、香川県東かがわ市にある御山(みやま)の山頂です。「御山 日本一低い山 3.6メートル」と書かれた石標が建っています。この日は、弁天山と同じ四国にある、もう一つの「日本一低い山」を訪ねるため、JR高松駅に向かいました。

高松駅の1番ホームです。折り返し徳島駅行きになる列車が到着していました。東かがわ市は平成15(2003)年、旧大川郡引田(ひけた)町、白鳥(しろとり)町、大内町が合併して成立しました。手袋メーカーの本社が集中しており、国内シェア90%といわれる「手袋の町」として知られています。

ワンマン運転、2両編成(後ろ側の車両は「回送扱いです」)の、JR四国が誇るエコ車両である1500系車両で、高松駅から約1時間半、最寄駅の讃岐白鳥(さぬきしろとり)駅に到着しました。

めざす御山は、この駅から徒歩20分ぐらいのところにある「白鳥の松原」の一角にあります。改装されていましたが、「昭和3年9月27日」と書かれた建物財産標のある木造駅舎を出て駅前広場に出ました。

「白鳥の松原」の手前にある白鳥神社に向かって出発しました。讃岐白鳥駅の駅舎のある反対側には、高徳線と並行して国道11号が走っています。駅舎を出て、国道とは反対の海側に向かって歩きます。駅から出て30mぐらい進み、新町橋を渡って左折します。

高松駅方面に向かって5分ぐらいで、高徳線の馬場前(ばばさき)踏切に着きました。国道11号で信号待ちをする車両が見えます。白鳥神社は、ここで右折した先にあります。

馬場前踏切から右折して、左側に日本伝道隊白鳥キリスト教会を見ながら、正面にある白鳥神社の鳥居をめざして進みます。

鳥居の前です。左側のお店は、勧商場というおもちゃ屋さんです。
白鳥神社は、日本武尊(やまとたけるのみこと)の霊が白鳥になってこの地に飛来してきたことに由来する神社です。境内にあった「説明」には、「九州や東国を征定した日本武尊はその帰途、伊勢国の能褒野(のぼの)で亡くなられた。天皇は厚く葬ったが、尊(みこと)の神霊は、白鳥となって大和国の琴弾原(ことひきはら)、河内国の旧市(ふるいち)を経由して、この地に舞い降りた。仁徳天皇の時代に初めて新廟を造営した」と書かれていました。
鳥居をくぐると広い駐車場がありました。参道の両側には立派な灯籠が10基並んでいます。江戸時代の寛文4(1644)年、高松藩の藩祖、松平頼重が、日本武尊を祭神とする神社に替えて、社殿の修築にも力を尽くしたそうです。

これは、「案内」にあった「境内の図」です。図の一番上に「日本一低い山」と書かれています。白鳥神社を抜けて裏参道から行くことができそうです。

その先にあった「一の門」です。左側の柱の礎石の左側に「御山山頂 280m」と書かれた案内が見えました。
「鶴の門」(随身門)です。寛文4(1644)年、高松藩祖の松平頼重が再建したものといわれています。市の指定文化財に指定されています。
 
鶴の門の手前を右折して進みます。案内図に「御厩」と書かれている建物です。木造の馬が置かれていました。

御厩の脇を進みます。敷地3000坪といわれる猪熊邸がありました。寛文4(1664)年、藩祖の松平頼重が白鳥神社の神官として招いた猪熊兼古(いのくまかねふる 元京都平野神社の社司)が拝領した邸宅です。松平頼重の弟である徳川光圀が、神道や国学について猪熊兼古を尊崇していたことによるそうです。昭和45年(1970)年から一般公開されていたそうですが、現在は行われていないようです。
猪熊邸の前にあった樹齢800年といわれる楠です。このあたりに白鳥となった日本武尊の霊が舞い降りたとされています。高さ30mで、環境省の「かおり風景100選」に選定されています。楠特有の香りが評価されたからだといわれています。

拝殿です。現在の拝殿は、明治13(1880)年に再建されたものだそうです。拝殿の左側に「御山山頂 240m」と書かれた案内板が置かれていました。

拝殿とその左側にある祓所の間を抜けて進みます。
その先にあった絵馬堂です。
広い絵馬堂のようすです。たくさんの絵馬が奉納されていました。横切って、裏参道を進んで行きます。

裏参道の鳥居の下に「御山山頂 190m」の案内板がありました。めざす御山が近づいてきました。御山は新しい山で、平成17(2005)年に山開きのイベントが行われたそうです。この年襲来した台風のため、この付近一体が水没してしまい、水が引いてから、一番高いところを探したら、明治時代に自然の山、御山があったところだったそうです。その地点の当時の標高が3.6メートルだったそうです

鳥居を抜けるとすぐ、熊手入れの隣に「御山山頂 190m」と書かれた石碑がありました。右折して進みます。

ここで、「日本一低い山」の変遷をたどってみようと思います。長く「日本一低い山」とされていた天保山(標高 4.53m)は、平成5(1993)年に、国土地理院発行の地形図から抹消されてしまいました。それに替わって、日和山(標高 6.00m)が地形図に載り「日本一低い山」となりました。そして、平成8(1996)年には、天保山が再度地形図に記載され「日本一低い山」として復活しました。その後、平成23(2011)年には、東日本大震災の津波によって削られて日和山が消滅してしまいました。しかし、平成26(2014)年に国土地理院によって、日和山が標高3.00mの山として復活し、再度「日本一低い山」となり、現在に至っています。

石碑の前で右折して進みます。その先にまた熊手の置き場があり、その脇に「御山山頂 90m」の石碑がありました。右折して進みます。御山は、残念ながら国土地理院の認定を受けていませんが、山開きを行った平成17(2015)年には標高3.60mで、当時、国土地理院が認めた「日本一低い山」の天保山(標高 4.53m)よりさらに低い山でした。同じように、国土地理院の認定を受けていない大潟富士を除けば、日本一低い山だったのです。
石碑には「御山山頂 90m」とありましたが、すぐに山頂に着きました。山頂と書かれていましたが、ここまで坂らしい坂もなく、平地を歩いていつの間にか山頂に登っていたという、山らしくない山でした。帰りに、白鳥神社の宮司さんにお聞きすると「裏参道の先にある海が0メートルで、一番高い所が3.6mということです」とのことでした。
石柱の右側にあった石標です。「十」の交差した部分が、3.6mの地点だそうです。宮司さんは「石標の厚さが10cmあるから、正確には 3.7mだけどね」とおっしゃっていました。石碑の平成17(2005)年8月17日は、山開きのイベントが挙行された日でした。

裏参道の鳥居まで戻ってきました。海側に石碑が並んでいます。明治時代、東かがわ市の手袋製造の先駆けとなった両児舜礼(ふたごしゅんれい)氏の石碑と棚次辰吉(たなつぐたつきち)氏の像が建っていました。その左側には、手袋製造の東洋手袋株式会社白鳥本町工場の門柱が、当時の写真とともに展示されていました。

白鳥神社の社務所でいただいた「登山証明書」です。スタンプのインクをこすってしまい見えづらくなっていますが、証明をしてくださる、白鳥名物の「ぶどう餅」の ”みなとや” さんが定休日だったので、鳥居前のおもちゃ屋さんの ”勧商場” の方にご無理を申し上げて、証明のスタンプを押していただきました。 

国土地理院の地形図に載っている正式の山ではありませんが、標高3.6mの「日本一低い山」御山を訪ねてきました。国土地理院から正式の山として認められる日が来たら、再度訪ねてみようと思っています。



自然の山で日本一低い山 弁天山を訪ねる

2019年07月25日 | 日記
平成26(2014)年4月の国土地理院の調査により、仙台市宮城野区に位置する日和山(ひよりやま)が、標高3.00メートルの山として認定され、日本で一番低い山になりました。2番目に低い山は、大阪市にある天保山。標高は4.53メートルだそうです。天保山は、天保年間(1830年~1843年)に安治川の浚渫工事で出た土砂を積み上げてできた山で、当時は20メートルほどの高さだったといわれています。その後、幕末の砲台建設のために削られ、高度成長時代には地下水が汲み上げられたため、現在の姿になったといわれています。長く日本一低い山とされていました。

一方、日和山は平成23(2011)年の東日本大震災で消滅したといわれていましたが、平成26(2014)年の国土地理院の調査により標高3メートルの山が確認され、日本一低い山となりました。上の写真は、徳島市方上町(かたのかみちょう)弁財天にある、標高6.10メートルの弁天山です。国土地理院の地形図にも掲載されている日本で3番目に低い山です。日本一低い日和山も、2番目の天保山も共に人工的につくられた山(築山)であるのに対し、3番目の弁天山は自然の山として知られています。そのため、弁天山は、"自然の山として日本で一番低い山”ということになり、”とくしま市民遺産” にも選定されているそうです。
この日は、その弁天山を訪ねることにしました。
徳島駅で、阿南駅行きの牟岐線の列車に乗り継ぎました。JR四国が誇るエコ車両、1500系のワンマン運転、単行のディーゼルカーは、徳島駅から10分ぐらいで4つ目の駅、JR地蔵橋駅に到着しました。

地蔵橋駅は、大正2(1913)年、阿波国共同汽船の駅として開業しましたが、開業と同時に国有鉄道が借り上げ小松島軽便線として運用されていました。名実ともに、国有鉄道になったのは大正6(1917)年。阿波国共同汽船が買収し国有化されたときでした。地蔵橋駅は、徳島市西須賀町(にしずかちょう)西開(にしびらき)にあります。文化の森駅から2.1km、次の中田(ちゅうでん)駅まで3.2kmのところに設置されていました。

これは、駅舎内に掲示されていた災害時の避難所になっている大松(おおまつ)小学校までのルート図です。見えにくいのですが、弁天山は地図の下を左右に走る徳島県道210号を地図の左に向かった先にあります。地蔵橋駅前からまっすぐ進み県道136号を右折して進み、「下多々良」のところのローソンの交差点を右折して、その先の牟岐線の踏切を越えて進めば、弁天山に行くことができそうです。

地蔵橋駅舎です。大正15(1926)年に建設されましたが、かなり改装がなされています。駅舎から出て歩きます。少し近道をして、上の写真の地図の「地蔵橋」の「蔵」の字の下を進み、「西開」の文字の近くで左折して、県道の「136」のところで県道に合流するルートで歩きました。

JR地蔵駅への取り付け道路です。正面突きあたりが県道136号です。

右側に「富岡学習室」の看板のあるお宅の先の横断歩道で右折して、住宅街をまっすぐ進みます。

正面にカーブミラーが3つ並んでところで左折します。栄光社を左に見ながら進むと、篠原ゼミナールの脇で、県道136号に合流しました。

正面に見える博愛記念病院の青い建物に向かって進むとローソンの脇の交差点に着きました。交差点の手前、左側に「弁天山」の標識が見えました。交差点を右折して、県道210号に入ります。この道は、江戸時代、「土佐街道」とよばれる藩道だったといわれています。
その先で、牟岐線の鶴島第3踏切を越えると、ゆるやかな右カーブになります。

道路の左側にあった天霊山正福寺の石碑を越えると、正面に小さな丘状の地形が見えました。それをめざして進みます。

道路の脇に立つ、黄色の「弁天市」の幟の先に、めざす弁天山がありました。正面には、地元の奉賛会の方々がつくられた案内看板が設置されていました。

道路脇にあった看板です。「徳島市方上町 日本一低い山 弁天山 国土地理院認定 標高6.1メートル」と書かれています。後ろに見える建物で「弁天市」が、毎週水・土・日曜日に開かれています。
冒頭に、弁天山は自然の山だと書きましたが、草創神社奉賛会の方々が、平成10(1998)年10月に設置された説明板には、「元暦2(1185)年、源平の合戦に際し、源義経は小松島市の田野町に上陸し、南西にある山を越えて香川県の屋島、壇ノ浦に平氏を討つために兵を進めたという伝説が残っている。当時はこのあたりは海で、現在の弁天山は海中の小島であった。室町期に入ってから海水が引き湿地帯となった。小島は小山となり、水田開発が進み、現在に至っている」と書かれていました。

弁天山の標高6.10メートルの山頂には厳島神社(弁財天)が祀られています。説明には、「かつて海だったので、市杵島姫命(イツクシマヒメノミコト)を神として、厳島神社(弁財天)を勧請した」と書かれていました。

この写真は、説明板に載っていたかつての弁天山の姿です。正面の鳥居に覆い被さるように、推定樹齢250年という松が聳えていたようです。江戸時代の中期からこの地にあった松の木です。説明には「松喰虫の被害により枯れ」たので、昭和55(1980)年12月に伐採」したと書かれていました。鳥居をくぐり参道を上ります。

上方から鳥居に向かって撮影しました。奉賛会の皆様が整備された手すりのついた参道です。頂上まで14段の石段がつくられていました。説明には、「弁天様は庶民の願いを叶える神。日本一低い山にふさわしい社殿、参道、鳥居などを整備した」とありました。鳥居にも、「草創神社奉賛会」、「平成10年10月吉日」と記されていました。

弁天山の山頂です。正面に祠、左側に記帳所がつくられていました。観音開きの記帳所には、他に、おみくじ(100円)、御朱印(3種 各300円)も置いてありました。

下ってきました。弁天山の周囲は一回りできるように舗装もなされていました。

標高6.10メートルの弁天山の登頂証明書です。山頂の記帳所に置かれていたものです。記帳した後、100円を置いていただいてきました。
山頂までは、14段の石段とスロープを登るだけ、自然の山で日本で一番低い山
でしたので、さほど苦労しないで登頂証明書をいただくことができました。





大崎上島へのフェリーが発着する町にある駅、JR安芸津駅

2019年07月02日 | 日記

大崎上島に向かって出発した安芸津フェリーの”第十五やえしま”(375トン)です。JR呉線の安芸津駅から歩いて5分の安芸津港と、大崎上島の大西港までを30分で結んでいます。大崎上島は、架橋されておらず、海上交通を利用するしかありません。同じ呉線の竹原港からも、大崎上島の白水港と垂水港を結ぶフェリーが運航されています。この日は、JR安芸津駅とその周辺を訪ねることにしました。


 
呉線は、軍港である呉と、軍の様々な施設が置かれた軍都広島を結ぶため、明治36(1903)年呉駅と海田市駅間を開通させたことに始まります。また、広島県東部の三原駅からは、三呉線として、昭和5(1930)年に三原駅と須波駅間を開通させました。その後も延伸を続け、昭和10(1935)年11月24日に呉駅までが全通し、呉線となりました。
JR山陽本線の三原駅から呉線の列車で、安芸津駅をめざしました。

三原駅の1番ホームで出発を待つ、JR広駅行の電車です。平成15(2003)年3月14日のダイヤ改正により運用が開始された227系車両、JR西日本広島支社管内の最新車両です。呉線では、ワンマン運転の2両編成で運行されています。
 
三原駅から50分ぐらいで、列車は大きく左にカーブをしながら安芸津駅の2番ホームに到着しました。2番ホームの上屋の柱に貼られていた「屋根スレート管理表」には、「施行年月日 平成8年8月6日」とありました。ホームの上屋の上に線路を跨ぐ横断陸橋 ”安芸津マリンアーチ” が見えました。また、反対側の1番ホームの上屋の中に見える建物は安芸津駅舎、その手前に見える白い建物はトイレです。安芸津マリンアーチの階段も見えました。
列車はすぐに次の風早(かざはや)駅に向かって出発して行きました。
 
2番ホームから見た三原駅方面です。2面2線の長いホームが見えます。背景の山の中腹には正福寺がありました。
 
2番ホームを広駅方面に向かって歩きます。ベンチの先に駅名標がありました。安芸津駅は、東広島市安芸津町三津にあります。三原駅側の一つ前にある吉名(よしな)駅(竹原市吉名町)から4.7km、次の風早(かざはや)駅(東広島市安芸津町風早)まで3.2kmのところにありました。その先には、駅舎に向かう地下道への入口が見えます。
 
さらに、広駅方面に進むと、隣の1番ホームの向こうに駅舎が、その手前にホームから駅舎に下る階段が見えました。
 
2番ホームの広駅側の端です。単線である呉線は、2本の線路がこの先で合流します。2番ホームの先に、広駅行の電車が走る線路から分岐する引き込み線がありました。
 
引き込み線です。横断陸橋、マリンアーチの下まで続いています。
 
2番ホームから地下道に下ります。全面に壁画が描かれていました。
 
地下道は駅舎まで続いていました。駅舎側は階段でなくスロープになっていました。改札口が見えました。
 
改札口です。ICOCAの精算機、自動改札機が、かつての雰囲気が残る改札付近に設置されています。通路の右の柱に白いラベルが見えました。
 
「建物財産標」でした。「駅の本屋」は「昭和10年2月」と記されています。安芸津駅は、昭和10(1935)年2月17日、三呉線が、竹原駅から三津内海駅(現・安浦駅)まで延伸開業した時に開業しました。開業時は、付近の地名から「安芸三津駅」と称していました。「安芸津駅」と改称したのは、昭和24(1949)年のことでした。これより以前、昭和18(1943)年に、賀茂郡三津町と早田原町、豊田郡木谷村が対等合併し、賀茂郡安芸津町となり、その後、昭和31年には、豊田郡に所属し、豊田郡安芸津町となりました。現在の東広島市に編入されたのは、平成17(2005)年のことでした。
 
改札口の前から1番ホームに上る階段です。
 
1番ホームから見た、広駅方面です。安芸津駅を出ると、短いトンネルを抜けるようです。2番ホームからは角度がよくなかったのか、トンネルは見えませんでした。
 
両側の窓ガラスから日射しが差し込む駅舎の待合いスペースです。広いスペースにベンチと自動販売機がありました。改札口付近にあった時刻表では、呉線の列車は、広駅行きが19本、三原駅行きが18本運行されていました。
 
安芸津駅は、窓口業務だけを委託する簡易委託駅になっています。受託しているのは東広島市だそうです。壁面の案内を見ると、6月は「月 火 木 金が営業日」になっていました。この日は土曜日でしたので、「非営業日」で、勤務するスタッフはおらず、窓口は閉まったままでした。窓口の脇に自動券売機が設置されており、近距離キップの購入には支障はないようでした。
駅舎の出口付近に掲示されていた安芸津フェリーの乗り場の案内図です。駅から出て、駅を跨ぐ横断陸橋(安芸津マリンアーチ)を渡って進めば、安芸津港にある「フェリーきっぷ売場」や桟橋に行くことができるようです。
 
駅前から見た駅舎です。入口の上の三角形の屋根のデザインが印象的です。駅前には庭園も設けられていました。ここから、安芸津マリンアーチを渡って安芸津フェリーの桟橋に向かうことにしました。
 
庭園前を進み、隣にある土蔵のようなトイレの前から階段を上ります。
 
安芸津マリンアーチから見た引き込み線です。安芸津町は、カキ、ジャガイモ、ビワなどの特産品で知られていました(東広島市に合併する以前の安芸津町の「町花」はジャガイモの花だったそうです)。線路の右側の白い部分から右側には盛り土がされていますが、かつては、貨物の積み降ろしをしていたところだったのでしょうか。
 
マリンアーチを下ります。駐車場の先の通りを過ぎると安芸津港になります。大崎上島へは竹原港からもフェリーの航路があると冒頭に書きましたが、竹原港はJR竹原駅から少し離れたところにあるため、JRの駅からの利便性は、安芸津港の方が優れているようです。
 
安芸津港です。次に、大崎上島の大西港に向かうフェリーが出発を待っていました。右側の建物が、乗船切符売場、安芸津港待合所です。
 
 
待合所の内部です。乗船切符のカウンターです。少し時間に余裕があるので、閑散としています。始発便の6時40分発から最終便の19時40分発の便まで、1日16往復運航されています。ただ、1月~3月は、始発便と最終便は運休になるのだそうです。
就航しているのは、”第十ニやえしま”(336トン 1998年竣工 旅客定員 280名)と ”第十五やえしま”(375トン 1990年竣工 旅客定員 250名)の2隻のフェリーです。
 
次に出発するのは、”第十五やえしま” でした。乗船が始まりました。10台程度の車と10名程度の旅客が乗船されました。
 
”第十五やえしま” が出発して行きました。フェリーの正面に見える大崎上島に向かってまっすぐに進んで行きました。
 
引き返します。港の周辺は宿泊施設や飲食店が点在しています。”旅館 木乃屋” の脇を進み、安芸津マリンアーチを渡ります。
 
マリンアーチ上から見た駅前ロータリーです。駅前には芸陽バスの停留所がありました。
安芸津町のある東広島市は、西条地区の酒造業がよく知られています。しかし、駅前にあった説明には「明治時代に、広島県の水質(軟水)に合った醸造法を生み出したのは、安芸津町出身の三浦仙三郎氏(1847年~1908年)でした。三浦氏の酒造りを継いだ杜氏たちは、”広島杜氏”として、全国で活躍しました。そのため、安芸津は ”広島杜氏のふるさと” と呼ばれるようになりました」と、書かれていました。


江戸時代、安芸津には船が入れる港があり、広島藩の米の集散地で蔵屋敷が並んでいたところであり、酒造りの条件がそろっていました。
写真は、榊山八幡神社につくられている三浦仙三郎氏像で、駅前の説明板に載せられていたものです。三浦氏の教えである「百試千改」は、今も”広島杜氏”の人たちに受け継がれているそうです。
現在、安芸津町では、2社が酒造業を営んでおられます。

JR安芸津駅前から見た駅前ロータリーです。町内にある2社の酒造会社を訪ねようと思いました。写真の右側に青い看板が見えます。”喫茶オアシス”のお店です。左側の和風の建物は、「素盞神社の御旅所」です。ここを左折して進みます。

左折してすぐ目の前にあった大邸宅が、柄(つか)酒造の建物です。嘉永元(1848)年、槌屋忠左衛門氏が創業。「於多福」や「関西一」のブランドで知られている酒造会社です。
 
酒造会社の看板である杉玉が軒下に吊されています。新しく青い杉玉が架け替えられたら、新酒ができた合図になるといわれています。
「御旅所」に戻り、”喫茶オアシス”のある通りをまっすぐ進みます。

 5分ほど歩くと、正面に祠、その隣に進徳海運株式会社の建物があります。祠の脇をまっすぐ進むと山の中腹に曹洞宗福壽院の唐様の山門が見えて来ます。祠の前を左折して進みます。
 
やがて、右側に「清酒 富久長」と書かれたレンガ造りの煙突が見えて来ました。 今田酒造です。明治元(1868)年創業。ブランド名の「富久長」は、三浦仙三郎氏の命名だそうです。

 

現在は、女性杜氏の今田美穂さんが受け継いで、地元の米、八反草を使用して酒造りをしておられるそうです。 

この日は、大崎上島へ向かうフェリーの発着場がある、東広島市安芸津町を訪ねて来ました。JR安芸津駅を訪ねるためにやって来ましたが、駅前の観光案内で知った「広島杜氏」の祖、三浦仙三郎氏の存在など、魅力あふれる町でした。