トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

世界遺産の町と”芋代官”

2011年08月23日 | 日記
旅行代理店のバスツアーで、石見銀山に行ってきました。
石見銀山は、平成19(2007)年、世界(文化)遺産に指定されました。日本では、14件目の世界遺産登録、文化遺産としては11件目、産業遺産としては初めての登録でした。山を崩したり森林を大伐採したりすることなく、狭い坑道を進んで採掘していたこと、精錬で使った材木分だけの植林をしたことなど、人と自然が共生しながら、銀の生産を続けてきたことが評価されての指定でした。
 
仙の山(標高537m)の近くには、間歩(まぶ)と呼ばれる坑道や清水谷精錬所の跡が残っています。
 
龍源寺間歩。現在、通年で公開されている唯一の坑道です。銀山地区には、仙の山(標高537m)を中心に500を越える「間歩」(「まぶ」、坑道)が残っています。間歩には、仙の山の頂上付近にあるものを1番として、すべてに番号が付けられています。
ちなみに龍源寺間歩には500の番号がつけられていました。
 
龍源寺間歩の内部です。まさに人一人がやっと入れるぐらいの坑道を進んで採掘していたのです。

この絵は、龍源寺間歩の説明に描かれていたものですが、狭い坑道の中で採掘していた作業員の姿が描かれています。当時、作業員の寿命は30年ぐらいだったようです。世界遺産に指定されているのは、銀山地区だけではありません。
 
石見銀山公園から、代官所跡までの約800mの間には、重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)に指定されている大森の町が続いています。

石見銀山は、鎌倉時代の後期から採掘が始まっていたと言われますが、本格的に行われたのは戦国時代からでした。江戸幕府を開いた徳川家康は、この地を天領として奉行を派遣して治めました。しかし、延宝3(1675)年、奉行の職務は代官の職務に格下げとなり、奉行所は代官所となりました。鉱山の町の、政治と経済を担っていたのが、この地域の人々でした。

代官所に勤めた役人(地役人)の邸宅の河島邸です。
 
代官所の御用商人で、町年寄りをつとめた熊谷家の住宅と西本寺です。この地域は、武家屋敷や商家、神社仏閣が混在して残っているところです。重伝建も「鉱山町」としての指定です。

私が、石見銀山を楽しみにしていたのは、代官に興味があったからです。享保17(1732)年のことです。前年末から始まった天候不順が年が明けても続き、この年も梅雨の長雨が2ヶ月にわたって続く冷夏と、イナゴやウンカの異常発生が重なり、稲作に大きな被害が出ました。この年の収穫は、平常年の27%弱という大飢饉となりました。餓死者12,000人、230万人が飢餓に苦しんだといわれます。世にいう「享保の大飢饉」でした。享保16(1731)年から、初代奉行の大久保長安から数えて19代目の大森代官として赴任していたのが、井戸平左衛門正明(まさあきら)でした。幕府の勘定所に長くつとめた、60歳の代官でした。領民を救うため、幕府の裁可を待たずに、年貢を減免したり年貢米を放出したり、代官所の公金や自身の私財も投入したといわれます。また、薩摩からの甘藷の種芋を手に入れ作付けを命じたともいわれます。甘藷は、これ以後、この地域の救荒作物として、さかんに栽培されるようになっていきました。青木昆陽が、将軍徳川吉宗に甘藷の栽培を進言する3年前のことでした。領民は、「芋代官」とか「芋殿様」と呼んで彼を慕ったといわれています。

井戸平左衛門は、大森代官所に着任した後、岡山県の笠岡代官所の代官も兼務していましたが、翌享保18(1733)年、笠岡代官所で亡くなってしまいます。領民救済の激務から過労で倒れたとも、幕府の裁可を得ずに独断で年貢米の放出をした責任を取って、
切腹したともいわれています。(彼の墓は笠岡市の威徳寺に残っています。)平左衛門がつとめた笠岡代官所は、現在の笠岡小学校の地にありました。

今回はバスツアーだったので、現地ガイドの方の説明を聞きながら、代官所から龍源寺間歩までを歩きました。おかげでいい勉強になりましたが、残念ながら、井戸平左右衛門を祀る井戸神社などゆかりの地を訪ねることはできませんでした。人や自然にやさしい銀の採掘や精錬をして世界遺産に登録された石見銀山は、人にやさしい代官をいただいた町だったのです。

次回は、一人で、ゆったりのんびり、散策しようと思っています。




太った鯉が泳ぐ城下町、津和野

2011年08月17日 | 日記
SLやまぐち号で津和野に行きました。津和野は、島根県鹿足郡津和野町、「鯉の泳ぐ城下町」で知られています。白壁と堀割と鯉は、津和野の代名詞です。

私が学生の頃、旅行好きの友人が、「つわのはいいぞ!」と言っているのを聞いたのが、「津和野」に興味を持ったきっかけでした。何回か来たことがありますが、今一つ強い印象がないのです。

今回は、SLの動きに時間を取られ帰りの時間も決まっていたので、城下町の中心部、本町、殿町周辺を回っただけでした。

スタートは、JR津和野駅。そこから商人町の本町に入り、武家屋敷町、殿町を歩きました。


 
本町です。町中には、森鴎外生誕150周年を知らせる、のぼりがはためいていました。本町には、古い商家がたくさん残っています。中には、国の「登録有形文化財」に指定された商家も点在しています。
 



 
殿町に近づくと、古くからの酒造会社が3軒、かたまってありました。
 


路地もまたきれいです。白壁の土蔵も、伝統的な旅館街も。

殿町に入ると、すぐのところに「沙羅の木」があります。つぎつぎに入ってくる観光バスの乗客が、ここの職員の案内で、殿町を歩いて行きます。

向かいには、津和野カトリック教会。昭和6(1931)年、ドイツ人シェーファによって建てられたゴシック式の教会。石造りで重厚な印象でした。
 

 


さっそく、鯉の姿が見えてきます。ここからの約200mが、観光ガイドに載っている名所です。進むにつれて鯉が大きくなっていきます。その太り方は「異常な」としか言いようのない状態です。近くから聞こえる案内のお話では、「観光客にえさを任せるようになってから太ってきました」、「鯉の場合にはメタボはありません」、「冬になったら、食べなくなるし動かなくなるので、大丈夫」とのことでした。

人力車も走っていました、後方は元藩校の養老館。現在は、民俗資料館になっています。「養老院ではありませんよ、正しく覚えて帰ってください」との案内の声。

ここ津和野の城下町づくりに着手したのは、坂崎出羽守直盛です。岡山ゆかりの宇喜多秀家に仕えたが折り合いが悪く、関ヶ原の戦いでは東軍につき、その功績で津和野藩3万石を与えられました。元和元(1615)年、大坂夏の陣で大坂城落城のとき、徳川家康の孫娘(豊臣秀頼の正妻)、千姫をやけどを負いながら救出したことで知られています。(豊臣方の武将(堀内氏久)が坂崎の陣まで送り届けたのを、徳川秀忠のところまで送り届けたというのが真相のようです。) その功を認められて加増され、4万3千石を領しました。千姫の身の振り方を家康から依頼され、縁組みが決まりつつあったとき、突然、本多忠刻(姫路新田藩)との縁組みが決まったので、千姫奪還計画を立てたといわれます。そのため、翌元和2(1616)年自害して果ててしまいます。


鷺舞の像。津和野川のたもとに建てられています。毎年7月の20日と27日、祇園祭りのとき、重い鷺の衣装を着けて、弥栄神社から御旅所まで唄と笛の音に合わせて踊ります。ここで、子どもの姿を撮影する人がたくさんいました。

藩校の向かいは、城代家老多胡家表門です。坂崎直盛の後、津和野を領した亀井家の、3人の家老(他に大岡家、牧野家)の屋敷がここから並んでいました。

現在も、現役で役場として使われている屋敷跡。

きれいに敷き詰められた舗道を、沙羅の木まで帰ります。
「私たちも岡山に行ったときは、吉備団子を買って帰りました。今度は、源氏巻きを買って帰ってください」
あれっ!このグループは岡山の人たちだったの? 一行は、そのまま沙羅の木の中に消えていきました。


赤穂浪士が吉良上野介を討った「討ち入り」は有名です。その浅野内匠守が切腹した3年前、津和野藩主が公儀饗応役を命じられ、吉良の指導を受けました。あまりのいじめのひどさに「吉良を討つ」と決意します。その時、城代家老は源氏巻の菓子箱の下に小判を敷き詰めて吉良に贈り、お取り潰しの難を逃れたと言われています。
案内の方のお話です。

話の真偽は別にして、源氏巻きは手頃な値段ということもあって、津和野のおみやげとしてよく知られています。 「実は、私はおみやげ物屋のまわし者です」という案内の人たちは、帰るとすぐ、次のバスのグループの案内に走って行きました。

沙羅の木を出た観光客は、「いい日旅立ち」で用を足した後、バスで出発していきます。

私も、SLの出発時間を見ながら、駅に向かって出発することにしました。短い時間でしたが、津和野はなかなかおもしろい町で、楽しい時間が過ごせました。






山陽新幹線”こだま”に乗る楽しみ

2011年08月14日 | 日記
岡山・博多間を1時間40分前後の時間で結ぶ東海道・山陽新幹線の”のぞみ”と山陽・九州新幹線の”みずほ”。途中の駅で停車している列車を次々に追い抜いて疾走していきます。
先日、「SLやまぐち号」に乗車するため、岡山駅から新山口駅まで、新幹線のこだま735号で移動しました。”のぞみ”が1時間7分で結んでいるところを、なんと! 2時間28分かけて、つないでいる新幹線の各駅列車。なにやら、「青春18きっぷで行くローカル鉄道」という雰囲気も漂う、日本が世界に誇る新幹線の中の「陽のあたらない存在」という役回りを担っています。

これまで、ほとんど乗る機会がなかった山陽新幹線の”こだま”ですが、乗ってみると結構おもしろいことに気がつきました。

まず、車両です。8両編成の”こだま”に2両ある指定席車は、かつて東海道新幹線でも活躍していた”500系のぞみ”のグリーン車でした。ひろびろ、ゆったりの4列の座席です。たまたま、旅行代理店の手配が指定席だったので、ラッキーでした。

ただ、自由席は横5列の通常の普通車の車両でした。二つ目は、停車駅での停車時間が長いことです。後ろからやって来る”のぞみ”に追い抜かれるという大切な役割があるので、当然ですが・・・・。4分停車、7分停車というのがあるのです。ホームで買い物ができます。  写真撮影ができます。途中駅で、ホームに降りて、乗っている車両の写真が撮れるのは貴重な体験です。

個性的な500系車両、広島駅の7分停車(この日は6分停車でしたが)の間に撮りました。疾走する”のぞみ”の写真が撮れるのもうれしいです。三つ目は、”500系こだま”には、子ども向けの模擬運転席がついていることです。

下りの”こだま”では、最後尾8号車の大阪寄りの運転席の前に設置されています。行ってみますと、ちょうど3歳ぐらいのお子さんがお母さんと一緒に、運転席に座って運転中でした。この位置だと、「下り」の場合は、「出発進行!」に対して、ノッチを操作すると、後ろ向きにスタートしていくという変則的な形ですが、小さな運転士は、真剣な表情で操作していました。そして、その向かいにある、運転席の壁には、新幹線の運転席の写真が貼り付けられていました。

500系の新幹線車両は、平成23(2011)年2月、JR東日本と西日本が共同で開発したN700系に、東海道・山陽新幹線”のぞみ”の座を追われてしまいましたが、JR西日本が所有する時速320kmを想定して設計された快速ランナーでした。何よりその鋭角的な先頭車両は魅力的でした。それからは8両編成になって、山陽新幹線の”こだま”としての、新しい役割を担っています。

ところで、”山陽新幹線こだま”はどんな「存在」なのでしょうか。山陽九州新幹線の”みずほ”や”さくら”、東海道山陽新幹線の”のぞみ”や”ひかり”が停車しない駅に停車する列車だということは確かなのですが・・・。

① 岡山駅・新山口駅の所要時間は
    ”こだま” 2時間28分    ”のぞみ” 1時間7分
② 新幹線料金(指定席券料金込み)は、
    ”こだま” 3,760 円     ”のぞみ”  3,960 円
③ 在来線の特急料金(営業キロ 岡山駅・新山口駅間)298.5 km なので、
    繁忙期は、「300 kmまで」が2,590 円です。
 ※ 同距離で比較すると、
   JR北陸本線の”サンダーバード”では、大阪駅・高岡駅の手前の福岡駅間ぐらいで、
   所要時間は3時間程度です。

比較してみると、やはり”こだま”には、すごく割高感がありますね。”のぞみ”より、1時間20分も遅くて、料金は200円安いだけ!また、”こだま”は、在来線より約30分速いだけで、料金が、1,170円高いことになります。割高です!
他に手段のない在来線に比べて、新幹線にはもっと速い”のぞみ”があるので、ずっと、”こだま”で行く人はほとんどいないでしょう。やっぱり、最寄りの駅まで”のぞみ”で来て、そこから”こだま”に乗り換えていくというのが適切な乗り方なのでしょうね。当たり前の結論になってしまいました。

しかし、在来線は新幹線の線路上を走ることはできません。山陽新幹線のこだまを利用するときには、乗り心地を楽しんだり、停車駅でホームに降りるとか、動き回ったらどうでしょう。

今回の旅は、”こだま”の楽しさを味わうことのできた、貴重な体験だったのかもしれません。
 
  




   
  




SLやまぐち号に乗ってきました!

2011年08月10日 | 日記
私が学生だった頃、SLはまだ現役でした。乗り換え駅からの1駅は、SLの引く列車で通学していました。

SLが姿を消してからは、一度もSLが引く列車に乗ったことがありませんでした。今回、旅行代理店が企画したツアーに、「SLやまぐち号」で、新山口駅と津和野駅間を往復する企画があったので、SL運行再開後、初めてSL列車を体験することができました。

今年は山口国体の年、新山口駅も国体の雰囲気でした。添乗員さんの旗に従って、ぞろぞろと後について歩くのも久しぶりです。跨線橋のコンコースから、SLやまぐち号が入線しているのが見えました。
 
山口線のホームは、煉瓦づくり風の雰囲気、「新山口驛」と表示されています。「駅」の字が「驛」と書かれているだけでも、レトロな感じが出てきます。

すごい数の人です!前方のSLに近づけばその数はさらに増していきます。

私の席はSLのすぐ後ろの5号車なので、うしろの1号車から車両のチェックをすることにしました。
   
1号車(オハ13 701)、展望車風客車。展望デッキと展望室がついていました。定員56名。赤を基調にした車内、明かり取りのついた豪華な天井部分が印象的です。

2号車(オハ12701)欧風客車。一番人気がある車両です。定員80名。青色の大きな座席、上部にはステンドグラスを思わせる装飾が着いています。明かり取りのついた天井部分には、さすが欧風車両と感心しました。オリエント急行を参考にしたということでした。

3号車(オハ12702)昭和風客車。昭和初期の車両をモデルにしたとか、茶系の座席、明かり取りのない天井に旧型電灯が5個ずつ2列並んでいます。定員80名。

4号車(スハフ12702)明治風客車。青系のレザーの座席、明かり取りのない天井に2個のレトロなランプがついています。定員72名。

私が乗った5号車(オハ12703)大正風客車。定員72名。緑の大きめの座席に、明かり取りのついた天井に灯りが3個。津和野寄りに展望デッキがついていますが、1号車と違ってきちんと屋根がついていました。SLのC51の1号機。梅小路運転区の所属で、阪神淡路大震災の時には、神戸鷹取工場で被災した過去をもっています。9月の下旬から10月中旬にかけてはC56160との重連で運転されますが、この日はC571の単機運転でした。

ヘッドマークは、丸形の彫刻スタイルで、山口県の県鳥、なべづるの下に「やまぐち」と横書きされています。最後尾の展望デッキについていたテールマークには、山口市の瑠璃光寺の五重の塔と斜めの「やまぐち」が描かれていました。

さて、山口線にSLが復活したのは、昭和54(1979)年8月1日でした。このやまぐち号の成功が全国のSLの復活につながっていったのです。昭和63(1988)年7月24日にレトロ車両が導入されています。今年で復活後32年目を迎えます。今年中に利用者200万人も達成できるようです。

山口線快速列車(津和野行き9521列車)であるSLやまぐち号は全席指定車。そのため、乗車券以外に指定席券が必要です。新山口駅を出ると湯田温泉、山口、篠目、長門峡、地福、鍋倉、徳佐の各駅に停車し、12時46分に津和野駅に着きます。所要約2時間の旅です。

湯田温泉駅を出たと思ったら、すぐに山口県の県都、山口市に到着。ここまで所要10分でした。山口駅から20分少々で、仁保(にほ)駅に着きました。

6分停車の車内放送があり、乗客も一斉にホームへ飛び出します。めあてはもちろん先頭のSLです。その前の車内放送で、「新山口駅から津和野駅までに行くために、10トンの水と1トンの石炭を消費するが、その中の半分を、この先の急勾配のために消費します」と伝えられたからです。

機関士さんは念入りに車輪の点検を行い、機関助手の方は、運転席の後ろの石炭と水のはいったタンクの上で、釜に投げ込む石炭を、ひたすら前の方に移動させています。その様子を乗客の皆さんは、しっかり見守っておりました。
11:29 出発。
走り始めるとすぐにトンネル、出るとまたトンネル。外の様子はさっぱりわかりませんが、やまぐち号は、歩く程度のスピードであえいでいるに違いありません。冷房の効いた車内にも煙のにおいが漂い始めました。

SLの運転席はむきだしです。運転席では、機関士と機関助手の2人の運転士さんと、煙と暑さとの壮絶な戦いが繰り広げられていることでしょう。5つめの山口線最長の田代トンネル(1597m)を抜けると、「しばらくトンネルはないから窓を開けて空気を入れ換えて」の放送があって、11時50分頃、篠目駅に着きました。

構内に大正11年につくられた給水塔と、今は使われていない腕木式信号機が残っていました。

山口線の駅名表示板は変体がなで書かれているところが多いのですが、ここもそうでした。駅前で二つの川が落ち合う長門峡(ちょうもんきょう)は紅葉の名所です。地福駅を経て鍋倉駅。「徳佐りんご園」があります」と車内放送。
 
すぐに、徳佐駅着。「海抜300mの田園地帯」との案内がありました。あと一駅。最後のトンネルが山口線2番目の長さで、県境を越えて島根県に入ります。そして、12時46分、定時に津和野駅に到着しました。

乗客がみんな降りても、乗務員の仕事は終わりません。SLの水分補給と回転の作業が残っています。

客車と切り離されたSLは、到着した線路をそのまま前に進みます。そして、再びバックして反対方向に進む線路に入ります。その間、車掌さんは歩いて前方にある転車台に向かい、コントロール室に入ります。

そこへSLがまっすぐ入って行きます。一度停車して、転車台へ。大きなC571はぎりぎりで乗っかっている感じ。山口線がSL全盛の頃、D51も走っていたようですので、心配はないのですが、ぎりぎりに乗っているのを見ると気になってしまいます。

いよいよ回転です。左周りに90度回転したところでストップ。動き始めるときにはいつも鳴る、短い汽笛がぴっ!となって動き始めます。そして、給水のために再び停車しました。

このあと、SLが客車と連結されるのは、15時前。

折り返し列車が出発する20分ほど前でした。

忙しい勤務の合間に、機関助手の方は子どもと記念撮影。子どもの質問にも答えておられました。「どんなことを考えながら運転していますか?」「お客さんが喜んでいるかなと考えています」(見事な受け答えです!)眼鏡の機関士さんもカメラ目線に協力してくださいました。お二人には、帰りも、またトンネルが続くところでの、煙と暑さとの格闘が待っています。満を持して出発を待っておられました。

帰路は、新山口まで約1時間45分。往路で停車した地福駅と仁保駅は通過です。新山口駅についた時、実際には15分速いだけだったのですが、ずいぶん速く着いたように感じました。

新山口の構内では、重連で運転するときに連結する電源車の姿が見えました。来るべき時に備えて骨休めをしていたのです。

子ども連れの家族で満員のSLやまぐち号の、短い旅が終わりました。





旧下津井電鉄の線路跡をたどる(2) 藤戸駅から大正橋へ

2011年08月02日 | 日記
JR瀬戸大橋線の茶屋町駅と下津井駅を結んでいた下津井電鉄は、昭和47(1972)年、新幹線の岡山延伸と同時に茶屋町・児島間を廃業し、瀬戸大橋の開通から程なくして、平成3(1992)年、残る児島・下津井間も廃業しました。下津井電鉄の線路跡は、廃業後、倉敷市の手によって、自転車歩行者専用道路に生まれ変わり、当時の面影を残しながら、今も生き続けています。

2週間前に、茶屋町駅から藤戸駅までの約2.5kmを歩きました。今回は、藤戸駅と児島駅の直前にある大正橋までマウンテンバイクで走りました。前回は文字どおり歩いたため、タイトルを「歩く」としましたが、今回は、「たどる」と表現することにしました。下津井電鉄は、大正2(1913)年、下津井軽便鉄道として、茶屋町駅~味野町駅間が開業したことに始まります。開業の翌年の大正3(1914)年には下津井駅まで延伸し、全線が開業しました。昭和24(1949)年には全線電化(直流600ボルト)が完成し下津井電鉄に変更しています。

ホームの上を草が生えないように舗装した以外は、かつてと同じ姿で保存されている藤戸駅からスタートしました。藤戸駅の次は林駅でした。この間1.9kmだったそうです。やがて、ゆるやかな右カーブになりました。

通りの両側にコンクリートの構造物が見えました。

蔦や雑草に覆われていましたが、高架橋の橋台のようです。下津井電鉄はこの下をくぐっていたようです。

するやかにカーブしながら、県道(児島駅と倉敷駅を結ぶ下津井電鉄のバスが児島地区と倉敷地区をつないでいます)を横切ります。ここからは県道の右側を進みます。
 <追記>

その先の踏切跡に、新しい碑と石碑が見えました。新しい碑には「金毘羅、下津井往来」と「平成30年5月」と書かれています。地元の「郷内歴史保存会」の方々が、今年の5月に設置されたものでした。石碑には「距岡山六四(以下、埋もれています)」左面に「距下津井管轄地四里一町」と刻まれています。道路元標でした。  (平成30年10月3日)


その先で、郷内川にかかる串田西橋を渡りました。              

右側の建物は犬渕公民館です。林駅跡に近づいてきました。少年の頃、林駅に近い郷内川にしじみを取りに来たことがあります。しじみ取りに飽きたら、林駅の方に歩いて行っていた覚えがあるのですが、今、林駅があった場所を見つけることができませんでした。近くにいた人にもお聞きしてみましたが、若い人が多いこともあって「よくわからない」とのことでした。
<追記>
 このときは林駅跡の場所を特定することができませんでしたが、今回はよくわかりました。郷内歴史保存会の方々が駅跡に碑を設置してくださっていたからです。林駅跡に向かって歩きます。

串田西橋を渡って5分程で、右側の犬をモチーフにした公園の脇を歩くようになりました。犬渕公園です。

犬渕公民館の前です。左側に柵で囲まれた広場がありました。ここが、林駅があったところだそうです。

広場の左側にゴミステーションがあります。その脇に、郷内歴史保存会の人々によって、平成30年5月に設置された碑がありました。「下津井電鉄旧林駅跡」「大正2(1913)年 ~ 昭和47(1972)年3月」と書かれています。(平成30年10月3日)

林駅は、下津井電鉄が茶屋町駅~味野町駅間で開業した、大正2(1913)年に開業しました。2面2線のホームがあったそうです。

林駅を過ぎると、水島に向かう県道と並走する区間です。現在の自転車歩行者専用道はそのまま線路跡とは言えないようです。

その先の瀬戸中央自動車道水島インターで、再び、線路跡が現れてきます。この道は、この先で左にカーブしながら、相引池南の信号を越えます。その先に福田駅跡がありました。福田駅は、大正2(1913)年に開業した、1面1線のホームの駅でしたが、蒸気機関車の時代にはこの駅で給水をして、この先にある福南山峠を越えていたそうです。

写真の民家の前に張り出した部分がかつてのホームの跡です。林駅から2.5kmのところにありました。

福田駅を過ぎると、線路跡地は20パーミル(1000mで20mの勾配)とも言われる登りになります。戦時中の木炭で走っていた時代には、乗客が降りて電車を押していたとか、そんな話が不思議でないほどの登りです。瀬戸中央道に近づくとまた線路跡がわからなくなります。

そのまま道なりに進むと、やがて福南山の池の近くで県道に並びます。

江戸時代、岡山藩池田家の崇敬を受けた「木華佐久耶姫神社」への入り口を左に見て、さらに南下します。南倉敷リサイクルセンターを過ぎたところで、県道から離れ右折すると、また、線路跡に入ります。

この写真は振り返って藤戸駅方面に向かって撮影しました。文字通り大きな大池が、進行方向の左側に見えて来ました。線路跡の下の石垣は下津井電鉄が走っていた頃の遺産です。

この先、線路跡は小さな左カーブとなり、ピンク色の建物、「お好み焼き&カフェ」の”anan”で、三たび途切れます。稗田南の十字路から続く広い道路で遮られて、わからなくなっているのです。その道路の手前で小さな橋を渡りますが、「茶屋町・児島間で最大の遺構」といわれる石を積んだ橋脚が残っているところです。しかし、この季節のすごい草のため、橋の上から石垣を確認するのがやっとでした。ピンク色をした”anan”から稗田南の十字路に下って左折すると、三たび線路跡に入ります。そして、稗田(ひえだ)駅跡に着きました。福田駅から3.9km。相対式ホーム、2面2線をもつ駅で、列車交換も行われていました。
 
稗田駅は、大正2(1913)年の開業時には「琴浦駅」でしたが、大正9(1920)年に稗田駅と改称されました。ここは交換設備のある比較的大きい駅だったそうですが、ホームが、やや縮小されて復元されていました。道路の左側、かつて駅舎があった所は「稗田さくら公園」に整備されていました。トイレが設けられていたのに感謝。さらに、1.4kmで柳田(やないだ)駅です。
 
駅の表示板のとなりにあった掲示板。1面1線の駅でした。この駅の開業は比較的新しく、昭和27(1952)年に開業しました。

児島小学校区の方々がつくったもののようです。
   
ここからは、桜並木と、手入れの行き届いた植木類にベンチ、楽しい散歩道になっていました。部活動から帰る中学生とすれ違いながら進んでいくと、やがて永井釦工場の脇を過ぎて、小田川にかかる橋を渡ります。

横断陸橋のように登って行きます。

橋を渡って右に曲がったら、児島小川駅跡です。柳田駅から0.9km。大正2(1913)年に開業したときは「小田駅」でした。「小田村駅」を経て、「児島小川駅」となったのは、昭和6(1931)年のことでした。2面2線のホームがあったはずですが、実は、駅跡がどこにあるのか、さっぱりわかりませんでした。かなり行き過ぎたところでお会いした自転車に乗った女性に、案内をしていただきやっとわかりました。
  
80歳代とおっしゃったこの女性のお話では、民家のある所に駅舎があり、斜め向かいの3本ある桜の木があるあたりにホームがあったということです。下側の写真は同じ所を振り返って撮りましたが、右の植木のところに駅舎があったようです。戦時中は、ここで出征兵士を送ったこともお話ししてくださいました。

裏の道路や近くにある西原(にしばら)被服の工場も、当時のままの位置に残っているということでした。「当時のまま」と聞いて、何かかつての名残があるのではないかと思い、周囲を捜してみました。すぐに見つかりました。旧駅舎の裏の道路に沿って、「小川駅前集会所」の建物がありました!やっぱりここだったんだ、「小川駅」は!

線路跡は、ここから民家の間をまっすぐ南に向かって延びています。すれちがった多くの中学生が通う児島中学校は、線路跡のすぐ脇にありました。自転車通学の生徒にとって、安全で便利な通学路になっていたのです。

児島中学校のある四つ角から、3分ほどで、線路跡は、右にゆるやかにカーブして大正橋に近い、旅館「こふじ」のところで再び小田川にぶつかります。正面に交番が見えました。

昔の写真を見ると、下津井電鉄はここから鉄橋で小田川を渡り交番の南を通って、児島駅に向かっていたようです。しかし、今では鉄橋はすでになく、線路跡はまた途切れていました。
道や駅跡を捜したり、地元の方に話しをお聞きしたりして、大正橋まで3時間近くかかってしまいました。暑い暑い一日でした。