岡山県西北部にあるJR新見駅です。この駅から、広島県北東部の備後落合駅に向かう超過疎路線があります。JR芸備線です。正式には、JR伯備線の備中神代(びっちゅうこうじろ)駅から備後落合駅を経て、JR広島駅までの159.1kmの路線です。この日は、芸備線にある「秘境駅」、道後山駅を訪ねるため、岡山駅からここまでやって来ました。
新見駅の1番ホームです。道後山駅は、牛山隆信氏が主宰する「秘境駅ランキング」の43位にランクインしています。JR芸備線からは、道後山駅を含めて4つの駅がランクインしています。道後山駅のほかには、28位の内名駅(「1日3往復の秘境駅JR芸備線内名駅」2014年7月7日の日記)、36位の布原駅(「伯備線にあって伯備線の駅でない秘境駅JR布原駅」2014年3月31日の日記)、138位の備後落合駅の3駅です。このうち、布原駅は正確にはJR伯備線の駅ですが、伯備線の列車は運転停止以外ではまったく停車しない、芸備線に入る列車しか停車しない駅であるため、便宜上芸備線の駅としました。
JR芸備線のホームにあった時刻表です。平成17(2005)年から、新見駅発の芸備線の列車は1日6本、そのうち、3本は広島県に入った最初の駅、東城駅行きの列車でした。東城駅から先へ行く列車は1日3本しかありません。5時18分発の「快速」と18時24分発とこの列車でした。最初に、「超過疎路線」と書いたのはそのためです。ちなみに、JR芸備線の1日の平均通過人員は、備中神代駅から東城駅までは1日平均84人、東城駅から備後落合駅間は1日平均8名とのこと。東城駅から先が1日3本というのも、やむを得ないことなのかもしれません。
やがて、JR西日本岡山支社に所属するキハ120339号車が入線していました。13時01分に新見駅を出発し、備後落合駅までの51.1kmを、1時間24分で走り抜ける列車です。ワンマン運転の単行列車でした。ちなみに、芸備線でワンマン運転が始まったのは、平成3(1991)年だそうです。
芸備線の列車に乗ってびっくりしました。平素は空席が目立つ車内ですが、この日は満員で立客も出ています。乗車していた方の大部分は、青春18きっぷで鉄道の旅をされている「乗り鉄」の方だったのではないでしょうか。途中駅で下車される方はほとんどおられませんでした。
新見駅から数えて11番目の駅、道後山駅に14時11分に着きました。新見駅から44.2kmのところにありました。写真は、車内にあった運賃表です。新見駅からここまで840円でした。広島県に入ってすぐの駅、東城駅は標高312m。そこから、備後八幡(びんごやわた)駅、内名(うちな)駅、小奴可(おぬか)駅(標高546.99mにあり、JR西日本で5番目に高い駅になっています)と、山地を少しずつ登って来ました。道後山駅の標高は624m。芸備線の駅の中で最も高いところにある駅です。東城駅からの19kmで312m(東城駅の標高と同じ高さ)を登って来たことになります。かなりの急勾配でした。
道後山駅で下車したのは、私と地元の方らしい女性との二人だけでした。「秘境駅」を訪ねて、地元の方が下車されたのは、この道後山駅が初めてでした。もちろん乗車する人はいませんでした。
列車は、終点の備後落合駅に向かって、すぐに出発していきました。列車を見送って駅舎を見ると、この女性の姿はもう見えなくなっていました。1日3往復しかありませんので、備後落合駅から折り返してくる14時52分までが滞在時間になります。乗り遅れると20時27分まで列車はありません。絶対に乗り遅れる訳にはいきません。
列車を見送ってから駅舎に向かいます。駅舎の手前の建物はトイレでした。ホームとの間にある植木は、手入れが行き届き、ホームにもごみ一つありません。清潔感あふれる駅でした。
ホームの新見駅方面から見た道後山駅舎です。ガラスのないところは物置になっているようです。
駅舎の中にあった消防車。駅舎の元の事務所部分は、今では消防機庫になっています。そのため、消防団員の方の集会所のようにも使われているようです。駅舎の美化にも消防団員の方々の助力があったのではないでしょうか。
長い歴史を感じさせる改札口から駅舎に入ります。さて、JR芸備線は、昭和5(1930)年2月に、国有鉄道三神線として、備中神代駅と矢神駅間が開業したことに始まります。工事は順調に進み、その年の11月には広島県側の東城駅まで開業しました。備後落合駅まで開業したのは、昭和11(1936)年のことでした。道後山駅は、備後落合駅までの開業から1か月遅れて、11月21日に開業したそうです。
駅舎内部です。駅事務所があったところは閉鎖され、境の壁には掲示板が設置されています。その向こう側が消防機庫になっているところです。ベンチの隣のカウンターには、「秘境駅」ではおなじみの「駅ノート」が置かれ、国鉄時代の駅標が立てかけられていました。
駅舎の反対側の窓の上には、絵が展示してありました。地元の人が描かれたものではないでしょうか?
絵の下には、懐かしい小さなベンチ。窓からはトイレが見えます。
トイレの内部です。秘境駅には思えない、すごいトイレでした。消防団の方々が使用されることもあるのでしょうね。
外に出て駅舎を撮影しました。駅舎入口です。入口の左側のシャッターには「庄原市消防団西城方面隊」「高尾班格納庫」と書かれていました。滞在時間は余すところ30分程度。乗って来た列車が戻ってくるまで、急いで駅の周辺を歩くことにしました。
駅の向かいにあったお宅です。ドアの上に「国鉄旅行連絡所」のプレートが残っていました。国鉄の民営化から、すでに30年近くが経過しているので、懐かしさ満点でした。国鉄の委託を受けて仕事をしておられたのでしょう。道後山駅は、かつて道後山スキー場と駅のホームの向かいにあった高尾原スキー場の最寄駅でした。スキーシーズンにはさぞかしお忙しかったことでしょう。
駅への取り付け道路です。正面右側のお宅には、誰も住んでいらっしゃらないようでした。
取り付け道路の突き当りにあった建物です。「学校法人 順正学園 道後山セミナ―ハウス」という看板が建っていました。
高原での活動は研究や教育の効果を上げることでしょう。
セミナ―ハウスの看板のそばにあった「記念碑」です。そこには、国有鉄道三神線の道後山駅開業に貢献された人々を顕彰する内容が刻まれていました。
これは、駅の向かいの山裾に広がる集落です。この地に生きる人たちの姿にふれたいと思いました。
順正学園のセミナーハウスから山裾の道に出ました。道標には「東城」「西城」「道後山」と書かれていました。「道後山の山裾から小奴可、内名、備後八幡に向かう道は、江戸時代に石見銀山から産出された銀を運んだ道だった」そうです。いかにも昔からあった雰囲気で道路幅も昔の通り、私には、この道が「銀の道」だったように思えました。まったく未確認で、根拠はありませんが・・。
集落の中を歩きます。この地に生きる人々の生活がありました。駅にあった絵と同じタッチで描かれた絵を飾っておられるお宅もありました。 さて、道後山駅は秘境駅ランキングの43位。牛山氏の評価では、秘境度6ポイント(P)、雰囲気7P、列車到達難易度17P、外部到達難易度5P、鉄道遺産指数8Pの合計43Pとしておられます。 やはり、「列車では到達するのが難しい」ことから「秘境駅」になった、そんな駅でした。でも、空き家になっているお宅もありましたが、今、この地で生きている人々の姿にふれることができました。
駅に戻ってきました。駅のホームの前にあった、高尾原スキー場のゲレンデの跡です。平成23(2011)年に閉鎖されたそうです。 今は、その跡地に道路を建設するための工事が進行中でトラックが行き交っています。線路と並行した新しい道路ができる日もそう遠いことではないでしょう。
そのとき、道後山駅はどうなるのでしょう? そして、1日3往復になって久しいJR芸備線の行く末は・・・。
「秘境駅」道後山駅の行く末を考えた旅でした。