トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

”秘境駅”串と”伊予灘ものがたり”

2015年03月24日 | 日記
牛山隆信氏が主宰されている「秘境駅ランキング」の200位以内に、愛媛県から唯一ランクインしているのが、串(くし)駅です。この日は、その秘境駅、串駅を訪ねることにしていました。春の暖かい日差しがそそぐJR松山駅に向かいました。

JR松山駅に着きました。予讃線の伊予大洲駅行き列車が出発する、3番ホームに向かいました。予讃線は、昭和20(1945)年に、香川県高松駅と愛媛県宇和島駅間全線が開通しました。

やがて、松山駅で折り返して、伊予大洲駅に向かうキハ546号車が入ってきました。JR予讃線の宇和島方面に行く優等列車は、昭和61(1986)年から、途中の向井原(むかいばら)駅から内子(うちこ)駅を通る内子線を経由して、JR伊予大洲駅に向かうようになりました。串駅に向かう列車は、かつてメインルートだった海に近い路線を進む予讃線を走っています。

3番ホームにあった”伊予灘ものがたり”のポスターです。内子線が開業してから、予讃線のメインルートの地位を追われた海線は、今では「愛ある伊予灘線」という名前をもっています。”伊予灘ものがたり”は、海回りの予讃線、”愛ある伊予灘線”を走る観光列車です。

”伊予灘ものがたり”は、平成26(2014)年7月26日から運行が始まりました。土曜、日曜、祝日に、松山駅・伊予大洲駅間と松山駅・八幡浜駅間を1往復ずつ運行しています。これは、松山駅の3番ホームに掲示してあった「座席番号案内」です。ゆったりとした車内で食事も取ることができます。

串駅に向かう列車、ワンマン列車のキハ546号車が出発しました。そして、右側に”坊ちゃんスタジアム”が見えるようになると、最初の停車駅、市坪(いちつぼ)駅です。そこで、ポスターにあった”伊予灘ものがたり”と行き違いをしました。これは紅い塗装の1号車、”茜の章”のキロ471402号車。松山方面の先頭車両2号車は金色の”黄金の章”で、キロ471401号車です。車内は、ちょうど食事の時間、満員の乗客はランチの真っ最中でした。

向井原駅で内子駅経由の線路と別れて右側の”愛ある伊予灘線”に入ります。青春18きっぷのポスターの駅で知られる下灘駅(しもなだ駅、2014年8月12日の日記参照)を過ぎると、次が、愛媛県そしてJR予讃線唯一の秘境駅、串駅です。松山駅から30.6km、50分ぐらいで到着しました。それにしても、瀬戸内海沿岸の都市をつなぐJR予讃線に秘境駅があるとは・・・。とても信じられませんでした。

串駅のホームです。串駅が開業したのは昭和39(1964)年、鉄道の黄金時代のことでした。下車したのは私と高齢の女性の二人だけ、列車はすぐに出発していきました。進行方向右側に、1面1線のホーム。無人駅で駅舎もありません。

線路の左に白く見えているのは、キロポスト。「225」と書かれています。予讃線の起点である高松駅から225kmの距離にあることがわかります。その先で鉄橋を渡るようです。

ガードロープで仕切られたホームに石段がありました。ホームからの出口だと思って登って行きました。

石段の先にあったのは、なんとお墓でした。石段はお墓の参道だったのです。串駅が開通した昭和39年以前から、墓は参道とともにあったのでしょう。ホームを通ってお墓まいりというのはめずらしいでしょう?

ホームにあった駅標です。下灘駅から2.6km、次は3.2km先の喜多灘駅です。「灘」のついた駅名から、海岸線に沿って線路が続いていることがわかります。国道378号線が建設される以前、下灘駅では、乗客がホームで釣りをしていたといわれているように、海のすぐ近くを列車は走っていました。しかし、それも、”愛ある伊予灘線”がメインルートの地位を追われた原因でした。海のそばの路線であったため、台風襲来に伴う風水害によって列車が運休することが多かったからでした。

ホームにあった唯一の建物である待合室です。しかし、切符の自動販売機はありません。

待合室の内部に掲示されていた運賃表と時刻表です。1日11往復。日中は2時間に1本ぐらいの運行です。ローカル線のダイヤといっていいでしょう。ちなみに、串駅は秘境駅ランキングの149位。牛山氏は17ポイント(P)を与えています。雰囲気6P、列車到達難易度5Pで、他の秘境度、外部到達難易度、鉄道遺産指数は各2Pとなっています。秘境駅らしい雰囲気と列車の便がよくないことが、149位にランクされた大きな要因のようです。

待合室の中にあったポスターです。高知県窪川駅と愛媛県北宇和島駅を結ぶJR予土線のホビートレインのPRのポスターでした。トロッコ列車や0系新幹線の鉄道のホビートレインなどの人気列車の案内でした。

ホームから見た山側の光景です。海に向かって張り出した、山の斜面に張り付くように民家が建っています。ホームの端の踏切を渡って家に帰っていかれるようでした。駅周辺には、ここ以外に集落はありませんでした。

菜の花を見ながら、ホームから斜面を降りて、線路に並行して走る道路に降ります。線路の先にあった橋梁を見に行くことにしました。

駅の下にあった自転車置き場です。1台の自転車が置かれていました。

緩やかに下っていく道を振り返って撮影しました。カーブミラーのあるところにガードロープがありました。ホームがあったところです。

やがて、国道378号線の向こうに海が見えました。伊予灘です。

国道の橋梁の橋脚まで海が入り込んでいます。道はここで左に曲がります。道なりに進み、対岸に向かいます。

対岸から見た”愛ある伊予灘線”の橋梁です。橋梁上を走る電車を撮影するため、引き返し山を登っていきます。その先には何軒かの民家がありました。

右の道を歩いて上ります。めざしていたのは、海を背景に走る”愛ある伊予灘線"を走る気動車の姿が撮影できる場所です。倉庫の裏側で、撮影に来られていた4人の高齢者のグループにお会いしました。お話しをお聞きすると「特別の列車がもうすぐ来る」とのこと。持ってきた時刻表ではこの時間に通過する列車がなく、列車がやってくる1時間後まで、待つつもりでしたが、高齢者のグループの皆様のお話にあった「特別の列車」を撮影することにしました。高齢者グループの後ろで、やってくる列車を待ちます。

列車が鉄橋にゆっくりと入ってきました。鮮やかな紅と金色の車両! 市坪駅ですれ違った”伊予灘ものがたり”号ではありませんか! お話しをお聞きしていてよかった! ほんとにラッキーでした。この列車が撮影できるなんて・・・。時刻表には載っていませんでしたが、13時28分に松山駅を出発し、15時50分に八幡浜駅に到着する観光列車でした。列車の乗客もこの鉄橋からの眺望を楽しんでおられるのでしょう。

やって来た”伊予灘ものがたり”号は、鮮やかな赤と金色の車両が海と空の青色に映える美しい観光列車。衰退した予讃線の海線を再生させる使命を持った列車にふさわしい。廃車になっていた、かつてのキハ47の501号車と1501号車を再生させて走らせている列車です。土曜、日曜、祝日だけの運行ですが、満員の乗客で賑わっていました。誇らしい姿です。

”伊予灘ものがたり”は秘境駅、串駅を走っています。列車は1日11往復。秘境駅の雰囲気と列車の便利がよくないということで、149位にランクインしている駅です。どちらかというと地味な秘境駅、そこを花形の観光列車が走るため、秘境駅の雰囲気をさらに強めているのかもしれません。ホームを通ってお墓参りをされる方もおられるユニークな秘境駅でした。









”渡辺崋山”の城下町、三河田原を歩く

2015年03月14日 | 日記

江戸時代の末期、蘭学の興隆とともに幕府の対外政策を批判する動きが出て来ました。天保10(1839)年に起きた言論弾圧事件である”蛮社の獄”で、高野長英らとともに獄につながれた渡辺崋山は、一方で、田原藩一万二千石、三宅家の家老として藩政を司る有能な政治家でもありました。

豊橋鉄道渥美線の列車で三河田原駅を訪ねた日(「豊橋鉄道渥美線に乗る」2015年3月5日の日記)、城下町田原(現田原市)を歩きました。この田原こそ、渡辺崋山が家老として仕えた田原藩三宅家の城下町でした。写真は、田原城趾です。現在は桜門と二ノ丸櫓が復元され、崋山の生涯を紹介している田原市博物館も設置され城趾公園として整備されています。

豊橋鉄道渥美線の終点、三河田原駅です。平成25(2013)年三河田原駅周辺整備事業と連動して完成した新しい駅舎です。

駅前の右側にある横断歩道を渡って進みます。渡辺崋山の墓地が残る城宝寺をめざして歩きます。

これは、田原市博物館でいただいた「田原ウオーキングマップ」です。寺下通りと書かれた道を進みます。

寺下通りです。かつての雰囲気が残る通りになっています。突き当たりが城宝寺です。左にカーブして正面の山門から入ります。

山門を入った正面に本堂がありました。本堂に向かって左側に、めざす崋山の墓地がありました。蛮社の獄で囚われの身になった後、家宅捜索で未発表の原稿である「慎機論」が発見され、崋山は田原での蟄居の身となりました。しかし、生活のため絵を売っていたことが幕府に問題視され、藩に迷惑が及ぶことを恐れ切腹しました。天保12(1841)年のことでした。しかし、後に息子の渡辺小崋が家老となった後も幕府から許されることはなく、明治元(1868)年になってやっと墓をつくることが許されたそうです。

正面が渡辺崋山の墓です。墓地の脇にあった案内板には、右に母のおゑい(栄)、左が奥方のたか、両側から中を向いて建てられた左が渡辺小崋、右がその奥方のすま子の墓だと説明されていました。

城宝寺の隣に慶雲寺、龍泉寺、龍門寺と並んでいます。寺下通りに残っていた料理旅館のような雰囲気をもった商家です。道なりに進むと郵便局のある通りに出ます。

右折して進むと田原市役所の前に出ます。現在の政治の中心です。

その先、右側にあった田原まつり会館。

まつりの山車が展示されていました。

田原まつり会館の手前、新町の信号を左折して北に向かいます。古い商家が残る通りを進みます。

行き止まりの三差路にあった、現代の道標です。

三差路を左折して、渡辺崋山が仕えた藩主三宅氏の墓所をめざして進みます。神明社の鳥居の前を左折します。寛文4(1644)年、それまで田原藩1万石を治めていた戸田忠昌が、加増され肥後天草、富岡藩主として移封されました。忠昌は有能な藩主であり、後に幕府の老中に就任しました。

左折した後、振り返って撮影しました。正面が神明社です。三宅氏の墓所へは花壇の向こうの道を左方向に進んで行きます。さて、戸田氏の後に三河挙母(ころも)藩から一万二千石で入封したのが三宅康勝でした。三宅氏は、南朝の忠臣といわれた児島高徳の三男高貞が三河に住んで、三宅姓を名乗ったのが起源といわれています。

神明社に沿って進みます。白壁の塀の向こうに霊巌寺があります。藩主三宅氏の菩提寺です。

霊巌寺の長い参道を進みます。三宅氏は高貞から数えて10代目の康貞のとき、徳川家康に仕え戦功を上げて三河挙母藩主として一万石を領しました。康貞(大名としての三宅氏初代)から4代目の康勝のとき、田原藩に加増されて移封してきました。

山門を入り、本堂の左側から裏の三宅家墓所に入ります。

大名としての初代三宅康貞からの歴代藩主の墓が並んでいます。三宅氏はその後、明治維新まで田原を治めていました。

神明社の鳥居前に引き返し、そこにあった案内の地図の赤い波線に沿って北に向かいます。

神明社に沿って歩き始めると人の声が聞こえるようになりました。やがて、正面に愛知県立成章高校の白い校舎が見えました。田原藩の藩校の名を引き継ぐ伝統ある高校です。この日はちょうど卒業式だったようで、一輪の花を手にして下校する高校生に多く出会いました。

成章高校へ向かう道から別れて進むと右側に田原福祉専門学校の白い校舎と尖塔が見えました。専門学校の正門前から、反対方向にある池ノ原公園に向かって進みます。ここは渡辺崋山が晩年を過ごした屋敷跡を復元し整備した公園です。

渡辺崋山は寛政5(1693)年に、江戸定府の渡辺定通の長男として江戸の三宅藩邸(最高裁判所のある坂が三宅坂と呼ばれるのは三宅藩の藩邸があったことによります)で生まれました。諱(いみな)は定静(さだやす)、通称は登(のぼり)で、崋山と号しました。父は病弱で家計を助けるため、若い頃から団扇や凧、燈籠などに絵を描いていました。道路脇にあった石碑には「立志」と書かれています。文化元(1804)年、12歳のとき、父の薬を求めて歩いていたとき、備前岡山藩の大名行列にぶつかり供の武士から打たれ殴られます。行列の駕籠の中には崋山と同じ年頃の若者の姿が見えたということです。身分の違いの不平等を感じて、学問の世界で身を立てる決意をしたと書かれています。

復元された屋敷跡です。自宅蟄居になった崋山は、ここで天保11(1840)年から自刃した翌12年10月11日まで生活しました。崋山一家の生活を支えるため、弟子が崋山の絵を売り始めました。しかし、絵を売って生活をしていたことが幕府で問題になったと聞き、藩に迷惑をかけないためこの屋敷で切腹して果てたといわれています。

屋敷跡からは、渡辺崋山の像が正面に見えました。順序が反対になりましたが、天保3(1832)年、崋山は家老として11代藩主康直に仕え始めました。康直は姫路藩主酒井雅楽頭の六男で、藩主就任にあたって起きたお家騒動をまとめた後のことでした。難破船貨物を横領した田原領民の問題の解決や、人材育成のために行った藩校成章館の充実など様々な政策で藩に貢献しました。特にかれの卓抜した政治力が発揮されたのが、報民倉の建設でした。天保の大飢饉(1836~37年)のとき、あらかじめ飢饉の到来を見越して、貧民救済のための義倉(報民倉)を前年の天保6(1835)年に設立し米などの食糧を備蓄していたため、藩内から一人の餓死者も出さなかったことでした。そのため、幕府から唯一表彰されるという栄誉を藩にもたらしたということです。

専門学校の脇を南に下ります。案内の地図の現在地に着きます。「旧武家屋敷の土塀」とかかれていますが、土塀はすでになく住宅団地に変わっていました。ここから、地図の「中小路」た書かれた通りを東に向かいます。

右側にある田原中部小学校の白い塀に沿って歩きます。

左側に鳥居が見えました。崋山神社の鳥居です。昭和15(1940)年は、崋山の100周忌にあたり、その遺徳をしのび神社創建の機運が高まったといわれています。紆余曲折の末、昭和41(1966)年の神社が創建されました。祭神は、渡辺登命(わたなべのぼりのみこと)です。

崋山神社を出てさらに東に歩きます。田原城趾の桜門が見えました。三宅氏は一万二千石の小大名です。通常は陣屋で政治を執ることになっていたはずですが、城持大名に列したのは、三宅氏が徳川家康の三河時代からの譜代の家臣という、名門の家柄だったからだといわれています。

水を湛えた堀も残っています。田原城は、文明12(1480)年、当時の国人領主である戸田宗光により築城されました。当時は海に囲まれた城であったといわれています。その後、徳川家康の支配下に入り、池田輝政三河吉田城主(豊橋市)が領し、その家老の伊木忠次が城主として入りました。しかし、関ヶ原の戦いの後、池田輝正は姫路に移封されます。

これは、空堀の跡です。現在、田原市博物館になっている二の丸の裏に残っています。空堀は中世城郭によく見られるもので、戸田宗光時代の遺構をそのまま残していると思われます。さて、池田輝正が去った後、戸田尊次(田原城を創建した戸田宗光の傍系の一族といわれます)が、伊豆下田から一万石で入封しました。そして、先にも書いたように、寛文4(1644)年に、三宅康勝が入って来た訳です。

桜門とともに復元された二ノ丸櫓(左)と田原市博物館です。空堀は博物館の裏に残っていました。博物館には、渡辺崋山が書いた「不忠不孝渡辺登」の絶筆や「餓死するとも二君に仕ふるべからず」と、長男立に残した遺書が展示されています。後に神となって崋山神社に祀られた崋山の生涯を、わかりやすく紹介していました。

田原城趾の向かいにあった田原民俗資料館です。このあたりには、かつて藩校成章館がありました。

民俗資料館の脇を通って田原中部小学校の前に出ます。振り返って田原城趾の正面を撮影しました。
藩主の三宅氏は一万二千石で田原藩に入封しましたが、知行高に比べて藩士が多く、田原の土地もやせ地で風水害の被害も多いところでしたので、常に財政難に苦しむことになりました。

田原中部小学校の正門の脇にあった「藩校成章館跡」の碑です。10代藩主三宅康明のとき、文化7(1810)年に開学しました。現在の田原中部小学校の東半分に建てられていました。

成章館の向かいの民家の前に「報民倉跡」の案内がありました。報民倉は、すでに書いたように、天保6(1835)年に領民の勤労奉仕によって建てられた穀物の備蓄倉庫です。城の東南の外堀沿いに建設され、一之御倉と二之御倉の2棟で60坪の広さだったといわれています。

これは、案内にあった写真を撮影したものですが、「報民倉」の額です。田原市博物館に展示されていました。説明には「民の字が大きく書かれている」と書かれていました。

成章館跡と報民館跡の間の道を西に向かって歩きます。左側に大手公園があります。田原城の正門である惣門が南側にありました。

南にまわって撮影した惣門跡です。大手公園の中に白壁板葺きの土蔵風の建物が見えました。

こちらは、現代の報民倉です。災害時の備蓄倉庫がつくられていました。かつての一之御倉、二之御倉に倣ってか、左右に二つの建物が並んでいました。

惣門跡から南に下ります。大きな和風のお宅がありました。表に回ると案内板がありました。精密な日本地図を作製したことで知られる伊能忠敬の緯度測定の地だそうです。享和3(1803)年2月25日に江戸を出発し太平洋岸を西に向かい、第4次測量を始めました。4月7日田原城下へ入り田原本町の和田屋広中六太夫宅へ宿泊します。その夜、庭で星座を観測し「田原の天土(緯度)は34度半で、35度の入江より28里南方へ出ている」と説明し、10日の朝6時、吉田(豊橋)へ向かって出発していったそうです。

田原城二ノ丸の石垣です。幕府は安政2(1855)年幕がは蝦夷地開拓の指令を出しました。この指令を受け、安政4(1857)年、田原藩でも大型帆船、順応丸を建造しました。資金難や蝦夷地まで遠かったこともあり蝦夷地開拓は幻に終わってしまいました。しかし、順応丸は文久3(1863)年までに、航行範囲は長崎、大坂、伊勢、江戸、北海道と広がっていました。小藩でありながら
目を見張るがんばりだったと思いました。

田原藩の家老として仕え、田原藩政を担い藩に殉じた渡辺崋山は、有能な政治家でしたが、学問や絵画にも造詣の深い文化人でもありました。少年時代の大名行列にぶつかったことから学問の世界に親しんだ崋山でしたが、結果として、その学問によって自刃せざるを得なかった生涯でした。しかし、田原市の人々はそんな崋山を尊敬し神として祀りその遺徳を慕っています。一万二千石の小藩だった田原城下町は大きな町ではありません。しかし、その城下町の各所に、崋山の足跡が残る文化の香り豊かな町でした。

豊橋鉄道渥美線に乗る

2015年03月05日 | 日記

JR豊橋駅です。ここから、渥美半島の付け根の町、田原市の三河田原駅に向かう鉄道があります。田原市は幕末に”蛮社の獄”で蟄居(ちっきょ)処分を受け自刃した渡辺崋山が、家老として仕えていた田原藩の城下町です。

この日はその鉄道に乗るために、JR豊橋駅にやって来ました。JR豊橋駅で下車して東口に向かい、案内に従って右折します。

JR豊橋駅舎から出て階段を下ります。

豊橋鉄道の新豊橋駅前です。そこは、たくさんの屋台が集まっていて大変賑やかでした。

新豊橋駅は、豊橋鉄道渥美線のターミナル駅でした。この鉄道が田原市の三河田原駅に向かう、私が乗車することにしていた渥美線でした。なお、豊橋鉄道には路面電車の東田(あずまだ)本線と鉄道線の渥美線の2つの路線があります。東田本線にはすでに乗りましたので(「日本一の急カーブがある路面電車、豊橋鉄道東田線」2015年2月5日の日記)、この日は渥美線に乗ることにしていました。なお、この日は土曜日でしたが、文中にはそれ以前に乗車したときの写真も含まれています。

新豊橋駅にあった運賃表です。豊橋鉄道渥美線の三河田原駅までは18.0km、運賃は片道520円でした。

豊橋鉄道渥美線は、大正13(1924)年に現在の高師駅と三河田原駅間が開業し、2年後の昭和2(1927)年に現在の新豊橋駅までの全線が開業しました。今年は開業から90年目を迎えています。駅にあった90周年のロゴマークです。

田原線の時刻表です。15分ごとに出発しており、三河田原駅までは35分かかります。時刻表の時間の次には、三河田原駅から接続する交通機関が書かれています。三河田原駅は伊良湖岬へ向かうバスの起点です。

自動販売機で切符を買って、ホームに出ました。ホームは1面2線。JR豊橋駅の東端にあります。ここは2番ホームです。渥美線の電車は、すべて3両で運行されています。平成26(2013)年から、「渥美線カラフルトレイン」といわれる、花のラッピング電車になっています。これは、その”菊”で、三河田原駅に向かって、2810・1860・1810号車の3両編成です。この電車は次発列車です。

反対側の1番ホームに停車している先発列車です。2804・1854・1804号車の”ひまわり”。このように、三河田原方面の先頭がモ1800形(1811・1813・1860は中間車として使用されています)、中間車はモ1850形、後ろがク2800形車両の3編成になっているそうです。渥美線は車掌さんが乗務するツーマン運転でした。

現在の渥美線の車両はすべて東急電鉄からの転籍車両です。先発の”ひまわり”に乗車します。昭和43年に東急車両で製造された車両でした。その運転席です。

出発しました。「渥美線カラフルトレイン」は、ばら・はまぼう・つつじ・ひまわり・菖蒲・しでこぶし・菜の花・椿・桜・菊の10編成ありますが、日中は7編成が運行されているそうです。新豊橋駅から2分。最初の停車駅、柳生橋駅に着きました。

柳生橋駅から30パーミルの渥美線の最急勾配区間を経て、次の小池駅に着きました。柳生橋駅からは0.7km。渥美線の最短区間です。写真は、2面2線の向かいのホームにあった駅標とベンチです。

ホームの端、駅の出口には、切符の自動販売機がありました。

これは、到着したホームから見た柳生橋方面です。新幹線との立体交差が見えます。ちょうど、渥美線の上を東海道新幹線が通過していきました。

小池駅で対向した”しでこぶし”(1806・1856・2806号車)です。三河田原駅に向けて出発して行きました。

小池駅を出ると、すぐにトンネルに入ります。渥美線唯一のトンネルです。トンネルの中で右カーブが始まります。半径160mの急曲線です。

2分(0.8km)で愛知大学前駅に着きました。1面1線の駅です。この日は土曜日でしたので、さほど多くはなかったのですが、以前乗車したときには、たくさんの学生がここで下車していました。

電車はここまで、時速50kmぐらいのゆっくりとしたスピードで進んで来ました。1分で南栄駅に着きました。愛知大学前駅と南栄駅間は0.7km。柳生橋駅・小池駅間と並ぶ駅間最短区間です。駅舎正面にあった垂れ幕には「祝甲子園出場 豊橋工業高校」と書かれていました。

思い出しました、JR豊橋駅でも甲子園出場をお祝いしていたのを。20世紀枠での名誉ある出場、おめでとうございます。なお、南栄駅の近くには愛知県立時習館高校もありました。吉田藩(現在の豊橋市にありました)の藩校の流れを汲む高校です。この日には見えませんでしたが、高校生も渥美線を利用していることでしょう。

南栄駅の自動販売機で買った切符です。

高師(たかし)駅に入りました。1面2線のホームの前方左側に、高師車両区が見えました。

駅舎です。ここから車両区に向かいました。三河田原方面に歩き左折して、渥美線の踏切を渡ります。

ピンク色の”桜”(2809・1859・1809号車)の車両が休んでいました。左奥に見えたのは、切り離されて1両になった”はまぼう”、ブラウンの車両です。

車両区内にあった手動のポイント切り替え機。これは、現役のようです。

片隅にあった、さびついていた台車。この先、この上部に客車部分が乗っかることがあるのでしょうか?

高師駅から3分で到着した芦原(あしはら)駅です。2面2線、上り(新豊橋駅方面行き)線の待合いスペースに駅標が設置されていました。

芦原駅の出口は「制限35」の制限速度時速35kmの区間になっていました。橋梁を渡ると、植田(うえた)駅です。

植田駅から2分(1km)で、向ヶ丘(むこうがおか)駅。そこからさらに2分(08km)
で大清水駅に着きました。ホームから見た大清水駅の駅舎です。

大清水駅のあたりから、市街地を抜けて、畑作を中心にした田園地帯に入ります。美しい菜の花と並んで走ります。

広いスペースに待避線が見えたと思ったら老津(おいつ)駅に入りました。大清水駅から1.4km、3分で着きました。

老津駅のホームにあった持合室。上下線の待合室が向かい合って設置されています。

”つつじ”(2803・1813・1803号車)と対向しました。

老津駅から2分(2.2km)で杉山駅に着きました。老津駅と杉山駅間は渥美線の駅間距離が最も長い区間です。待合室は、老津駅で見た待合室と同じ形でした。

杉山駅から三河田原駅の一つ手前の神戸(かんべ)駅までは、単式ホームが続くため対向ができません。そのため、神戸駅までの4.4kmを12分以内で走り抜けなければなりません。スピードが少し上がったような印象です。杉山駅から4分(2.0km)でやぐま台駅に着きました。豊橋市から田原市に入りました。やぐま台駅も1面1線の単式ホームです。

豊島(としま)駅に着きました。やぐま台駅から1.6km。3分ぐらいかかりました。1面1線の単式ホームです。なお、高師駅から豊島駅の間は、渥美線の中で最も早く開業した区間でした。

豊島駅のホームにある待合室の内部です。ベンチが並んでいます。ここは無人駅でした。

ベンチの脇にあった乗車駅証明書の発行機です。ICの改札機に並んで設置されています。

新豊橋駅に帰るときにボタンを押して発行してもらった乗車駅証明書です。IC乗車券を持っていない乗客は、車内で車掌さんから切符を発行してもらうことになっています。

これは、車掌さんに発行していただいた切符です。紙製の2枚綴りにパチンパチンと穴を開ける懐かしい切符です。28日、老津・豊島間、170円とパンチが入っています。

豊島駅にあった「サイクルトレイン」の案内です。土・日曜日だけに限定されていますが、渥美線は100円を支払って、自転車を車内に持ち込むことができる電車になっています。

これは、三河田原駅から新豊橋駅に向かって引き返すときに見た、車内に持ち込んだ自転車です。このときのサイクルトレインの利用者は2人の女子児童で、100円の自転車用の乗車券を持っていました。

豊島駅の三河田原行きのホームにあった標識です。制限速度は時速60kmのようです。

次の神戸(かんべ)駅です。見慣れた待合室がありました。豊島駅から、3分(1.5km)で着きました。

終点の三河田原駅です。神戸駅から2分(0.9km)でした。ターミナル駅らしく線路も5本並んでいました。しかし、見ていると左側の2線が主に使われていることがわかりました。

新豊橋駅から35分、18kmのところにありました。ホームの端にあった車止めです。その先が改札口です。

改札口を出た駅舎内から見たホームです。

モダンな三河田原駅舎です。三河田原駅周辺整備事業として、平成25(2013)年10月に竣工しました。渥美線カラフルトレインもその事業の一環として行われました。

駅舎の内部です。待合室の機能だけでなく、出会いや語らいの場としての機能も持っているようです。

渥美線カラフルトレインにふさわしく、菜の花の写真や鉢植えの花が飾られているきれいな駅舎でした。穏やかな癒しの空間になっています。

渥美線は、大正13(1924)年の高師駅・三河田原駅間が渥美鉄道によって開業しました。2年後の大正15(1926)年には三河田原駅の先の黒川原駅間2.8kmが延伸、昭和2(1927)年には新豊橋駅まで延伸し全線が開通しました。その後、名古屋鉄道の所有を経て豊橋鉄道に譲渡されました。一方で、昭和29(1954)年に三河田原駅・黒川原駅間(昭和19=1944年から休止中でした)が廃止されました。豊橋鉄道は今年で開業90周年を迎えてました。渥美線カラフルトレインと呼ばれる花のラッピングがされた楽しい電車になっています。現在も、毎日15分ごとに運行され、年間運賃収入1,157百万円を得ている(2011年)路線でした。
車掌さんが発行される、パンチで穴を開ける車内切符に魅了された旅でした。