トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

旧東海道新居宿を歩く

2013年05月30日 | 日記
新居の関所を訪ねた後、旧東海道新居宿をのんびり歩きました。

江戸時代、舞坂宿からは海上の道でした。浜名湖の海岸沿いの渡船場で下船して、新居の関所で取り調べを受けてから、旅人は新居宿に入りました。新居宿は、江戸から数えて31番目の宿場。

この日のスタートは、国道1号線。西に向かって歩きました。
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この先で国道1号線は左にカーブします。旧東海道は三ヶ日方面に向かっていました。

JR新居町駅を右に見ながら進みます。

駅の駐輪場の前に「新居関所」の大きな標識があります。新居関所は、自然災害の影響により2度移転をしていました。この地に移転建設したのは、幕府から関所を移管されていた吉田(豊橋)藩でした。

道路の右は新居駅の自転車駐輪場で、小さな公園になっています。その中に、種田山頭火の句碑がありました。”水のまんなかの道がまっすぐ” 舞坂宿方面から新居宿へ、浜名湖を渡るまっすぐな道が通っています。その様子を詠んだものでしょうか。

その先で、国道1号線と別れて直進していきます。浜名橋を渡りしばらく歩くと、右側に新居関所跡。日本で唯一、関所の建物が現在まで残っている貴重な存在です。関所の見学(2013年5月21日の日記)を終えた後、旧東海道新居宿を歩きました。

これは、旧街道沿いに掲示されていた絵図ですが、新居の関所の大御門を出た旅人は、しばらく道なりに行った後、左折して進んでいました。このカーブする辺りが、宿場の中心でした。

関所の前の旧街道です。左の白い建物を左に進み、2ブロック目に「船囲い場跡」の跡の碑があります。浜名湖の渡船を担うたくさんの船をつないでいたところです。

これは、新居宿でいただいたパンフレットに載っていた幕末の新居宿のようすです。間口が狭く奥行きが広い宿場町によくある町屋が並んでいました。天保14(1843)年の調査によると、本陣3軒と旅籠が26軒ありました。また、家数は797軒で、3,474人(男1,776人、女1,698人)が居住していました。3軒あった本陣は、旧街道が左折するあたりのベージュに塗られているところにありました。

パンフレットに赤でマークがついているこころにあったのが、かつての旅籠、紀伊国屋です。元禄16(1703)年「御三家の一つ紀州藩の御用宿になっていた」という記録があり、この年は、関所がこの地に移ってくる前でした(関所がこの地に移転したのは、宝永4=1707年に大地震と津波があった翌年の宝永5=1708年のことでした)。それ以前から現在の地にあった新居宿でも古い歴史を誇る旅籠でした。なお、「紀伊国屋」の屋号を掲げたのは、正徳6(享保元=1716)年だったそうです。その後、延享2(1745)年までに苗字・帯刀を許され、敷地内に紀州藩七里飛脚の役所を設置していたこともあったそうです。現在の建物は、明治7(1874)年の大火で焼失した跡、二階建てに建て替えられたものだそうですが、江戸時代の建築様式を残しているそうです。

新居宿から少し話が変わりますが、紀伊国屋の裏口のすぐそばに小松楼があります。現在は「小松楼まちづくり交流館」として使われています。ここは、大正時代から昭和20年ごろまで、芸者置屋と料亭(揚屋)を兼ねていたおお宅だそうです。現在の建物は、明治38(1905)年平屋で建築され、大正時代の初期、現在地に移築されたとき増築されたもので、平成20(2008)年、国の登録有形文化財に指定されています。

小松楼の二階です。芸者さんの写真やかつて使用していた化粧道具などが展示されていました。大正時代、新居町には11軒の芸者置屋があり、小松楼は最大で60~80人の芸者さんをかかえていました。地元の方のお話しによれば、太平洋戦争時に、ここのご主人が亡くなり家業の整理をしたということでした。

小松楼で珍しいものは「襖の下張り」です。「つけ」で遊んだ客を記録した紙が、下張りとして使われていました。再び、旧東海道に戻ります。

旧街道がぶつかる正面が、3軒あった本陣の一つ飯田武兵衛本陣の跡地です。天保14(1843)年には、建坪196坪、門を構え玄関も備えていました。小浜藩や桑名藩、岸和田藩などが利用していたと案内には書かれていました。明治元(1868)年の明治天皇の行幸の際の行在所(あんざいしょ)や還幸(かんこう)、翌年の再幸にも使われたそうです。

写真の手前右側の白い建物の付近にあったのが疋田弥五郎本陣でした。建坪188坪あり、門や玄関を備えていました。宇和島藩や今治藩など70余家が宿泊、休憩に利用していました。天保(1830~1843年)には、宿の年寄りや問屋役をつとめていたそうです。以前、病院の建物がありその前に「本陣」の石碑があったそうですが、今は何も残っていませんでした。江戸時代、東海道を旅するには、食事の差で多少違いが出てきますが、1泊2日で200文から300文程度(1文は大体現在の20円から25円程度といわれています)ですので、現在の4000円から6000円程度かかりました。江戸・京都間が約2週間の旅程として、片道約4000文(約1両)ぐらいかかっていたようです。しかし、これはあくまで庶民の旅。大人数で移動し本陣に宿泊する大名行列は、藩主としての体面もあり莫大な経費をかけて旅を続けていました。

旧街道を左にカーブして、飯田武兵衛本陣の右隣にあったのが「本陣跡」の石碑です。疋田八郎兵衛本陣の跡です。建坪193坪。門と玄関を備え、この地を領有していた吉田藩や徳川ご三家など120家が利用していました。また、新居宿の庄屋や年寄役もつとめていました。東海道の案内の石碑です。安政6(1859)年9月19日に領国を出発した鳥取藩の参勤交代では、180里(706km)を21泊22日かけて旅を続け10月10日に江戸に着きました。この間の経費は、総額1957両でした。現在の貨幣価値にして2億9355万円かかっていました。諸大名は藩の支出の6~7割という莫大な経費を費やして参勤交代に臨んでいたのです。一番額の大きかったのが人件費。家臣の手当や臨時で雇う者の手当などに847両(約1億2705万円)を使っていました。現在の本陣跡には、都市ガス制圧室が設置されていました。

疋田八郎兵衛本陣跡にあった、

ここで、飯田武兵衛本陣の脇の道まで戻ります。その道を進むと、旧東海道の一つ裏の通りに出ます。道沿いには、寺院や神社が並んでいる寺道でした。多くの寺院が、宝永4(1707)年の大震災の後に、この地に移って来ていました。

その中の一つ臨済宗妙心寺派の寺院、龍谷寺です。この寺は、寛文5(1665)年にこの地で開かれており、大震災以前からあった寺院のようでした。もう一度、飯田武兵衛本陣に戻り、旧東海道を今度は南に向かって進みます。

本陣から50mぐらい進んだところ、右側の商店の駐車場に「寄馬跡」の石碑がありました。旧東海道の宿場は、公用の旅行者や荷物のために人馬を提供することになっており、常時100人の人足と100匹の馬が用意されていました。交通量の多い時は、近在の村々から人馬を寄せ集めて対応しました(助郷=すけごう)。ここは寄せ集められた人馬が集まっていたところでした。

さらに進みます。右手に、火伏せで知られる秋葉常夜灯がありました。遠江の地域にはたくさんつくられている常夜灯です。「明治11年」の銘がありました。1878年の建立です。

常夜灯の向かいに石の玉垣がありました。池田神社です。天正12(1584)年、小牧・長久手の戦いで戦死した池田信輝の首塚だったそうです。後に永井能登守が家康の内意を受けて祠を建築しました。京都市在住の笹塚氏が祭主をつとめる個人管理の神社だそうです。入口近く、かつて狛犬がいたところのようですが、基礎の部分だけが残っていました。

さらに進むと。左側に大きなお屋敷がありました。裏に回ると二棟の土蔵もありました。

そのお屋敷の手前を左に入ります。その先にあったのが鷲栖院(じゅせいいん)でした。境内に佐橋甚兵衛の墓所がありました。新居の関所を江戸幕府が管理していた時代の正保4(1647)年から、明暦3(1657)年に74歳で死亡するまで、関守番頭をつとめていた方です。

旧東海道に戻ります。さらに進むと、右手に西町公民館が見えました。公民館の向かいにあったのが一里塚跡です。一里塚は、日本橋を起点として1里ごとに土盛りをして、左側に榎(えのき)右側に松を植えていました。東海道には104カ所あったといわれています。慶長9(1604)年徳川秀忠が築かせたということです。旧東海道は、この先の突き当たりで、右に曲がって進みます。

ここで旧東海道から別れて、突き当たりを左に曲がります。すぐ、瑠璃光山東福寺に着きます。もと真言宗寺院で、今は臨済宗方広寺派の寺院です。山門にある木造の金剛力士像は、安永8(1779)年の開眼です。右が阿形(あぎょう)で、高さ2m32cm。左が吽形(うんぎょう)で2m35cmあります。

境内に大きなマキが生えています。雄株が15m、雌株が13mあるそうです。

その東が新居幼稚園。広大な敷地にかわいい園舎が建っています。

その北東の隅に、「源太ノ山」の案内板が立っています。建久元(1190)年、源頼朝が上洛の途中、新居宿の少し先にある橋本宿に宿泊したとき、梶原源太景季(かげすえ)が警護のため、源太ノ山にあった大松の上で物見をして警戒にあたったといいます。このときの大松は、明治45(1912)年枯れてしまったそうです。また、源太ノ山も新居停車場の埋め立てに使われてなくなっており今では当時の面影をしのぶのは難しいようです。

幼稚園の東隣にある小学校の正門のところに、新居町奉行所跡の碑が残っています。元禄15(1702)年、新居関所が吉田藩の管理に移ったとき、この周辺の村々も吉田藩領(検地帳には「遠江国敷地郡新居町」と書かれているそうです)になりました。そのときに、設置されたのが新居町奉行所でした。
     
再び旧東海道に戻り、右折して先に進みます。その先にあったのが棒鼻(ぼうはな)跡の石碑です。このあたりが新居宿の西の境になります。一度に多勢が通行できないように、土塁が突き出て枡形になっていました。「棒鼻」とは駕籠(かご)の棒先の意味で、大名行列がこの町に入るとき、ここで棒先を整えたので、こう呼ばれるようになりました。  

旧東海道は棒鼻で新居宿を出ますが、その先で左に曲がります。

左折してしばらく行くと国道1号線に合流します。

その手前の右側にあった東海道の案内です。ここには「橋本宿 新居宿加宿」と書かれています。橋本宿は、先ほどの梶原源太景季の源太ノ山で出てきた中世の宿場の名前です。新居宿から西に1kmのところにある橋本宿は、貞観4(1702)年「浜名の橋」(勅意によって建造された、長さ167m、幅4m、高さ5mの橋、全国四大橋の一つだった)とともによく知られていて、「更級日記」や「十六夜日記」にも書かれているのだそうです。

国道1号線に合流すると右折して進みます。1号線の沿線とは思えないような雰囲気のある町並みが続いています。

町並みの中に「風炉の井」の案内がありました。その後ろに、石積みの井戸が残っています。源頼朝が橋本宿に宿泊したとき、この井戸の水で茶の湯を楽しんだといわれています。

その先で、国道1号線は左にゆるくカーブして進みます。旧東海道は右の道を進みます。

町並みの中に、「橋本宿」と書かれた石碑がありました。このお宅の方が個人でつくられた石碑だそうです。新居宿の加宿の橋本宿を過ぎると、その先は旧東海道32番目の宿場、白須賀宿です。

舞坂から船で西に向かった旅人は、渡船場で下船するとそのまま新居の関所で取り調べを受けた後、新居宿に入ります。現在地に移ってきた後、嘉永7(1854)年の大地震の後再建されて現在まで残ってきた新居の関所と旅籠の紀伊国屋以外は、ほとんどが新しく建て代えられていて、当時の面影をたどるのは難しいことでした。旧東海道の宿場の多くがそうであるように、ここ新居宿も、石碑や案内板をたどる旅になりました。新居宿も、歴史を伝える場所にはていねいに案内がつくられていて、大変参考になりました。

新居関所に行ってきました!

2013年05月21日 | 日記
旧東海道の30番目の宿場である舞坂宿と31番目の宿場新居宿の間は、浜名湖を渡る「海上一里」の海の道です。昨年9月に舞坂宿を歩きました(2012年9月16日の日記)が、今回、久しぶりに静岡県の旧東海道を歩きました。旧新居町は、現在は湖西市新居町となっています。

これは、旧新居宿に建てられていた観光案内図です。浜名湖一帯は、明応4(1498)年の東海地震によって地盤沈下が起こり、湖であった浜名湖には太平洋に抜ける開口部、今切(いまぎれ)口ができました。案内図の南の浜名大橋の下にあります。浜名湖は淡水湖から汽水湖に変わったのです。

浜名湖の南の浜名大橋の遠景です。この下に今切口があります。

新居といえば関所。新居関が置かれていたところです。旧東海道では、箱根と鈴鹿の関所とともに「入(い)り鉄砲と出女(でおんな)」の取り締まりを行っていました。新居町には、安政2(1855)年から5年の歳月をかけて建て替えられた新居関所の建物が、今も残っています。昭和30(1955)年、国の特別史跡に指定された後、昭和46(1971)年解体修理をされた、全国で唯一現存する関所の建物です。

慶長5(1600)年に徳川家康が設置してから、自然災害の影響を受けて二度関所は移転していきましたが、常に浜名湖岸に設置されていました。これは、新居関が陸上の取り締まりだけでなく、浜名湖の海上からの来訪者の取り締まりも行う任務を担っていたからだといわれています。(なお、現在ではかつての関所の所在地はすべて内陸になっています。これは、明治時代以降の埋め立てによるものです。) 家康の時代に設置された新居関は「大元屋敷跡」にありました。道路の南側にある関所の跡地には、冠木門がありました。

これは、JR新居町(あらいまち)駅前にあった観光案内図ですが、大元屋敷跡はJR新居駅から県立新居高校の脇を南に向かい、東西道路である「ホルト通り」を東に進んで行った所にありました。
大元屋敷跡には、”旅衣 あら井の関を 越しかねて 袖によるなみ 身をうらみつつ”という井上通女の歌碑が設置されています。 通女は讃岐国(香川県)丸亀藩主、京極高豊の母養性院の近くで仕えるため、江戸に向かう途上、新居の関所にやってきました。天和元(1681)年11月16日に丸亀を出発し18日に大坂に到着し、大坂の奉行所から関所手形を受け取りました。27日に新居の関所でその手形を提示しましたが、通行の許可がもらえませんでした。彼女は、振袖を着用していたので「小女」と記載されるべき手形が、「女」としか書かれていなかったからです。正しい手形を取得するために大坂に使いを送り、12月3日に使いが戻ったので、無事、新居関を通行することができました(関所資料館に展示されていた資料から)。「入り鉄砲と出女」の取り締まりの様子がよくわかります。ちなみに、江戸時代には、女性に関するもの以外には、乱心、手負(ておい)、囚人、首、死骸、鉄砲などの手形があったそうです。 井上通女が新居関を通行したのは、幕府が直接管理していた時代のことでした。

元禄12(1699)年に、台風とそれに伴う高潮のため関所が倒壊してしまいます。元禄14(1701)年にさらに西の「中屋敷跡」の標識のあるところに移転しました。現在は案内標識しか残っていませんでしたが、新居高校の南の「ホルト通り」に沿ったところでした。
移転して来てから6年後の宝永4(1707)年10月、東海大地震とそれに伴う大津波で、関所は倒壊してしまいます。(ちなみに、翌月の11月には、富士山の噴火もあって、武蔵・相模・駿河に大きな被害が出ました。) これに先立つ元禄15(1702)年からは、新居関のある一帯が幕府の直轄領から吉田藩(豊橋)領に編入されており、関所も吉田藩に移管されていました。吉田藩では作事奉行土肥孫兵衛の下、3ヶ月の突貫工事で現在の地に関所や宿場町をつくり、翌宝永5(1708)年、惣町(全町)移転しました。

これは、旧東海道沿いに展示されていた関所の古図ですが、舞坂宿からの旅人は、図の上方の浜名湖の護岸にあった船着き場で下船した後、左にある新居の関所で手形のチェックを受けた後、中央左の大御門から関所を出て、左下の新居宿場町に向かっておりました。

現在の新居の関所の建物です。入母屋造りの本瓦葺きで、東西11間、奥行は7間ありました。開館前の状態です。明六ツ(午前6時)から暮六ツ(午後6時)まで通ることができ、原則として夜間は通行はできませんでした。

開館され観光客を迎えた関所跡です。雨戸を開いて、白い幕を張っています。建物の三方に3尺の縁側をめぐらせていました。今は観光客が移動したりのんびりとくつろぐ空間になっています。

関所の内部です。手前が20畳、その先が25畳の面番所(おもてばんしょ)。旅人を調べる関所役人が控えていたところです。吉田藩に移管された後には、番頭2名、組足軽20名、給人8名、下改8名、関所足軽2名、改女2名、水主頭(かこがしら)1名、賄役1名など40名前後が交替で勤務していました。

面番所には、関所役人の姿が人形で再現されていました。20畳の面番所にいた番頭(ばんがしら)の五味六郎左衛門。ただ一人、座布団を敷いて座っていました。その先は、給人の中山勘太夫と石原幸正。

五味六郎左衛門は、目鼻たちの整った、きりっとした美男のお役人でした。

お役人の後ろには、役所に常備されていた武具が並べられています。弓25張、鉄砲25挺、矢箱2荷、
玉薬箱2荷、長柄10本が基本的な常備武具でした。これらは関所の権威を示すために置かれていたようです。

25畳の間には、下改の神田栄次郎と山本忠佐の人形と、

足軽頭の大屋勇平と足軽の及部藤太夫の人形が座っていました。

その近くに置かれていた捕物用具。刺股(さすまた)、袖搦(そでがらみ)、突棒(つきぼう)が展示されていました。

面番所裏側にある中庭に面して、「足軽勝手(あしがるかって)」がありました。「勝手」は台所ではなく控え室でした。そこに足軽と「改女(あらためおんな)」と呼ばれる女改めの人形が展示されていました。 江戸に下るときここで足止めされた井上通女は、9年後、仕えていた養性院が亡くなって丸亀に帰ることになり、再び新居関所を通ります。そのときには「女」手形を差し出し、供の女性とともに「改女から髪を念入りに調べられたが、無事通過した」そうです。「改女」が活躍していたのですね。

「改女」は、時代劇の中では「改めばば」などと呼ばれて、いつも怖そうな老女が出てきますが、この美しい姿には、そのイメージを改めなければならないでしょう。実際には、「改女」は関所役人の妻や母親がつとめていたそうです。中にはこんな美しい「改女」もいたのでしょうね。

敷地内にあった高札場です。ここには、次のように書かれた高札が掲げられていました。

  一 関所を出入り輩 乗物の戸を開かせ、笠 頭巾を取って通すべきこと
  一 往来の女 つぶさに証文引合わせて通すべきこと
    附 乗物にて出女は 番所の女を差出して相改へきこと
  一 手負死人 并 不審なるもの証文なくして 通へからさること
  一 堂上の人々 諸大名の往来かねてより其聞にあるは沙汰に及はず
    若(もし) 不審のことあるにおいてハ 誰人によらず改むへきこと
  右の条々 厳密に可相守者也(相守るべきものなり) 仍如件(よってくだんのごとし)奉行
                

これも、敷地内にあった「荷物石」。この石の上に、取調べを受けているとき荷物を置いていました。

「石碑(いしひ)」。雨水を流すための側溝のことです。面番所を挟んで、南北に、排水を流す二筋の側溝がありました、その先端に突き出ていた部分です。「鴨の嘴(くちばし)」とか「鴨の口」と呼ばれていました。

渡船場跡です。関所から南(面番所の前の方)に向かって、大名や、武士、庶民が利用する渡船場がそれぞれ並んでいました。「現在の石垣から1m内側の土中に当時の石垣が眠っています」と職員の方が説明されていました。以前、舞坂宿を歩いたときにも、身分によって利用できる渡船場が決まっていましたが、ここも同じような仕組みになっていたようです。

南にあった「船囲い場(ふながこいば)跡」。浜名湖の渡船業務は新居宿が独占しており、舞坂宿には許されていませんでした。関所に近いこの入江には、常時120艘の渡船が配置されていて、6組に分かれて1日1組が稼働していました。大名行列の通過のときなど多くの船が必要になったときには、「寄せ船」制度によって近郷から船が集められ不足分を補っていました。ここは、当日使用しない船を係留しておく場所でした。今では、可燃ゴミの収集場所になっていましたが、なぜか、ゴミ袋も係留されているように置いてありました。

現在地に移転してきてからも震災に遭遇しています。嘉永7(1854)年11月には、大地震によって関所は大破してしまいました。冒頭に書いたように、この時は、安政2(1855)年から5年間かけて建て替えられました。この時再建された建物が、昭和の解体修理を経て、今日まで大事に保存されてきました。平成になってからも、平成14(2002)年、同19(2007)年の二度にわたり護岸工事や渡船場の整備が行われ、面番所の前の地面も復元しました。今後も、船会所や女改長屋などが復元整備されることになっています。


私は、中山道(木曾街道)の福島の関所は訪ねたことがありましたが、東海道の関所は初めてでした。見学することを楽しみにしていましたが、実際に見学するのはさらに楽しいことでした。 それ以上に、職員の方の熱心なご案内が印象に残りました。高齢の方が多かったのですが、丁寧な説明をしていただき感謝の気持ちでいっぱいになりました。

もう一つの淀屋を訪ねて 倉吉

2013年05月13日 | 日記

大阪の中之島、その南側を流れる土佐堀川にかかる淀屋橋です。この橋の上を、大阪のメインルート梅田と難波を結ぶ御堂筋が通っています。

この写真は、淀屋橋の南詰めの東側から写しましたが、中之島にある日本銀行大阪支店の建物が見えます。
江戸時代、当時、慶長14(1609)年から慶長19(1614)年の間、葦の茂る中州だった中之島の開拓を進めたのが、橋の名にもなっている淀屋の初代、岡本三郎右衛門常安でした。中之島開拓の功績により、土佐堀川沿岸に屋敷地2町歩を賜ります。中之島にあった常安町、現在の中之島五丁目です。今もゆかりの常安橋が残っています。常安は、大坂夏の陣の後、幕府から町にあふれていた鎧や甲、刀などの武具の処分を一手に引き受け、また、戦乱後の大坂の復興のため材木を商い富を蓄えました。写真は、淀屋橋の南詰めにある「淀屋の碑」です。
その後、淀屋は十三人町(現在の北浜四丁目)に屋敷を移します。2代言當は、元和元(1616)年、途絶えていた青物市を復活し、米市を屋敷近くに設立します。諸大名の蔵米を引き受け取引したので、大名の蔵屋敷が中之島に立ち並ぶようになりました。1620年代、全国の米の収穫高は2700万石で、その内500万石が市場で取引されていましたが、その200万石が大阪で取引されていたといわれています。また、糸割符(輸入生糸の扱い)に加わり、西回航路を活用した交易にも参加しました。十三人町の町年寄をつとめたり、文化人との交流も盛んに行っていました。写真からは、中之島の玉江橋や常安橋の付近に並ぶ諸大名の蔵屋敷の様子がよくわかります。淀屋橋は、淀屋が屋敷から米市に行くために自費で架けた橋でした。

4代重當の頃に淀屋は最盛期を迎えます。「2時間で8万両儲かる」といわれたように、何もしなくても金が入って来るという状況になっていました。2万坪といわれる広大な屋敷には、宝飾品が所狭しと並べられ、天井をガラス張りにして金魚を泳がせていた部屋もあったといわれています。一方で、請われるままに無担保で大名にも巨額の融資をしていました。

2万坪といわれた淀屋の屋敷。現在の土佐堀川から高麗橋までの御堂筋の両側がすべて淀屋の屋敷地でした。しかし、淀屋は、宝永2(1705)年、5代廣當(通称淀屋辰五郎)の代に闕所(けっしょ、全財産没収と所払い)になってしまいます。

これは掲示されていた資料を写したものですが、闕所になったときの淀屋の財産です。貸付金は諸大名に1億貫(100兆円)、幕府に80万両(480億円)、朝廷に8000貫目(80億円)、没収された現金は金12万両(72億円)、銀12.5万貫(1250億円)、土地は大坂に2万坪のほか、伏見・八幡で400町歩で計120万坪、建物は家屋542軒、土蔵730戸、船舶150艘、材木2000貫、宝飾品などで1億2186万両だったそうです。想像を絶する財産でした。幕府が、淀屋を恐れていたことがほんとうによくわかります。


この日は、鳥取県倉吉市にあるもう一つの「淀屋」を訪ねることにしていました。大坂の淀屋とのかかわりが考えられている大商人です。
JR倉吉駅からバスに乗って「赤瓦白壁(明治町)」で降ります。倉吉は、明治から昭和にかけて建設された赤瓦の商家が多く残っており、伝統的建造物群保存地区に指定されているところです。

町並みに掲示されている案内図です。図の中央右寄りに「倉吉淀屋」と書かれているところを訪ねることにしていました。バス停から少し戻り、打吹公園通りを南に向かいます。

打吹公園通りの突き当たりにある成徳小学校です。倉吉は、江戸時代、鳥取藩の家老堀尾家が治めていました。小学校は、その陣屋跡につくられていました。

小学校の手前に、玉川に沿って建つ白壁の土蔵が建っています。玉川は、江戸時代には北(左側)の職人町と南(右側)の商人町とを分ける境界の川でした。この白壁は商人町のもので、川に石橋を架けて通り抜けができるように工夫されていました。この土蔵は、桑田醤油店のもののようです。屋敷はその先の左右の通りまで続いていました。

倉吉淀屋に向けて、玉川に沿って右折して進みます。

すぐに、大蓮寺があります。天正(1573~1592)年間、然誉上人文翁がこの近くにあった三社を統合してこの地に開かれました。 浄土宗の寺院です。

江戸中期の建設という山門を入ります。正面にあるモダンな本堂は、昭和30(1955)年に鉄筋コンクリートで再建されました。

左側にあった建武の武将である脇屋義助(新田義貞の弟)の五輪塔に隠れるように、淀屋の墓がありました。

昭和54(1979)年大蓮寺の境内で、「大坂淀屋清兵衛」の文字が入った石塔が発見されたことから、旧牧田家と大坂淀屋のかかわりが明らかになっていったそうです。

先に進みます。登録有形文化財に登録されている高田酒造の土蔵です。”アートハウス夢扉”として使われています。

有形文化財の証票が石標に貼ってありました。高田酒造は、”此君”(しくん)のブランドで今も醸造業を続けておられます。主屋は天保14(1843)年の建築だそうです。

玉川に沿った道が旧八橋(やばせ)街道とぶつかります。小鴨川を越えて西方にある八橋地区を結ぶ街道です。あの伊能忠敬が測量を行なったことでも知られています。ここで右折。街道に沿って進み次の辻を左折します。

その右側に、倉吉の豪商牧田家の商家があります。この主屋は宝暦10(1760)年の建築。倉吉で最も古い町屋建築です。平成19(2007)~20年(2008)に復元修理されました。現在は、牧田家と淀屋にかかわる資料を展示しています。この日記に載せた資料はここに展示されていたものです。
この写真は、大蓮寺にあった牧田家の墓です。その裏に、「石工大坂西横堀 名田屋五良兵衛」の名が彫り込まれています。墓石はこの地の「珍石」を用いて、大坂から名田屋五良兵衛を「特派」してもらって建立したと説明してありました。実は、ここ倉吉の牧田家は、大坂の淀屋で番頭を務めていた牧田仁右衛門に始まるのです。
この写真には、「水都は大坂の橋閣に名残 豪商淀屋之墓」とあります。淀屋の全盛期だった4代重當は、やがては取り潰しになるであろうことを予感し、まじめで誠実な、信頼する番頭を倉吉に送り、淀屋の拠点を倉吉に移し、潰れても新しい商売で再興させるように備えていたのだそうです。倉吉出身だった仁右衛門は、自分の娘と称して淀屋の娘を伴って、倉吉に戻って来ました。ここで、米穀商を営み、鳥取藩の藩米の取引で財を蓄えていきました。また、鍛冶屋と協力して鉄の歯の千刃扱きの研究を進めました。

享保5(1720)年に初代仁右衛門が亡くなると、養子の孫三郎季昌が2代目を継ぎ、倉吉で初めて「淀屋」を名乗りました。そして、大坂に進出し、大川町で多田屋治郎右衛門を名乗り商いを始めました。そして、3代五郎右衛門寿弘の二男が大坂で初めて「淀屋清兵衛」を名乗り、淀屋の再興ができました。牧田家と淀屋との約束である「主家の血を絶やさない、大坂に旗を掲げる、決して突出しない」を守り、約束を実現した瞬間でした。

大坂淀屋2代目の淀屋清兵衛は、大川町の年寄役をつとめました。倉吉でつくられた千刃扱きは、大坂淀屋の手で全国に広がっていきました。
大蓮寺には、倉敷淀屋牧田家の初代仁右衛門から8代孫三郎までの墓石が並んでいます。倉吉淀屋第5代の孝四郎成庸と8代孫三郎庸景は町役人の筆頭である町年寄をつとめました。

安政6(1859)年、倉吉淀屋第8代孫三郎庸景と大坂淀屋代5代淀屋清兵衛のとき、両家は突然、店を閉じてしまいます。今度は取り潰しではありませんでした。両家は、財産をすべて現金に替えて、この世から突然姿を消してしまったのです。徳川幕府が滅亡する8年前のことでした。案内をしてくださった方は、現金は朝廷に献上したのだとおっしゃっていました。 

この屋敷から見つかった棟札です。「現在は行方不明ですが、写真が残っていたので・・」と案内の方はおっしゃっていました。主屋の棟札は、「宝暦10(1760)年」と書かれているので、左のようです。時は、倉吉の3代牧田五郎右衛門寿弘のときでした。主屋の東側に「ミセニハ」、「ウチニハ」という土間があり、それに沿って、奥に3部屋を2列つくっています。表と裏は天井の低い「厨子二階」になっていました。

これは、中央の「天保9(1838)年新宅繁栄守護」と書かれている棟札があった、付属屋の廊下です。部屋と直角に廊下の板が張られています。「切目縁(きりめえん)」と呼ばれています。牧田家6代仁右衛門庸信のときのことでした。ちなみに、右の棟札には「寛延4(1751)年」と書かれており、今はない土蔵の棟札だったようです。付属屋には前庭があり、武士にしか許されなかった式台玄関を備えており、柱や長押には角を取った面皮材(めんかわざい)が使われるなど上級武士をもてなす迎賓館だったようです。

牧田家は、明治28(1895)年に8代目の孫三郎庸景が亡くなって、絶えました。 その後、明治36(1903)年から大正12(1923)年まで倉吉郵便局として使われ、その後は借家として使われたそうです。昭和になって、主屋は写真のように3軒長屋に改造され、付属屋の方も洋風に改造されました。

昭和54(1979)年、倉吉市教育委員会は、米子高専に委託して、「倉吉商家町並み保存対策調査」を実施し、牧田家の歴史的価値が確認されました。そのため、このように復元修理をし、牧田家住宅として公開することになったそうです。
これは、倉吉淀屋の末裔牧田英治郎氏がつくった牧田家の碑です。代々の墓の近くに建てられています。

この碑は、大阪市の施政施行70周年を記念してつくられた、淀屋橋南詰めにある「淀屋の屋敷跡」の碑と同規格にした」と書かれてありました。

想像もできないような莫大な財産を築き、幕府から取りつぶしになった淀屋。しかし、それを予測して倉吉に番頭を派遣して、再興を期す、遠大な構想のもとに送られた番頭とその子孫は、それを見事に実現しました。そして、幕末の突然の廃業。ドラマチックな淀屋の興亡は、話を聞けば聞くほど興味がわき上がってきます。江戸時代の300年にわたるドラマを秘めて、倉吉は、今日もたくさんの観光客を集めています。また、きっと訪ねてみよう、そんな気持ちにさせる素敵な町でした。





歴史を訪ねて御堂筋を歩く 本町から難波へ

2013年05月08日 | 日記

本町、中央大通りに立つ船場センタービル。繊維の卸問屋とファッション・グルメの街です。
船場は、商いの町大阪を代表する商業地域で、河川と堀に囲まれた四角形の地域に広がっています。東は東横堀川、西は西横堀川、北は土佐堀川、南は長堀川(昭和39=1964年に埋め立てられ「長堀通り」になっています)の地域です。船場は、古代の「船着場」、その「着」を省いて「船場」となったというのが妥当な説のようです。船場センタービルに沿って東に向かいます。

ここから、南に延びる「せんば心斎橋商店街」。アーケード街になっています。その入口には「せんば、心斎橋」と書かれていました。ちなみに、船場は本町通りから北を北船場、ここから南を南船場と呼ぶようです。

心斎橋筋のアーケード内の商店街です。 御堂筋に戻り、南御堂を見ながら南下します。

すぐ、南久宝寺町に着きます。左(東)に折れて、心斎橋筋商店街のアーケードを見ながら進みます。南久宝寺町は、小間物問屋が集まる問屋街として歴史を重ねてきました。戦後は、衣料品やかばん、袋物、傘などの服飾雑貨を扱う現金問屋街で栄えました。バブルの崩壊後、閉店する店も増え、かつての活気は失われていますが、それでも大阪有数の問屋街です。

その先の南北の通りが、丼池(どぶいけ)ストリート。難読地名の多い大阪ですが、ここもその一つです。繊維問屋街です。大阪で最初にできたアーケード街でしたが、1993年老朽化により撤去されました。

難波神社から5分ぐらいで長堀通りに近づくと、波形の建物が見えます。地下につながる通路がありました。御堂筋の一つ東の通りが心斎橋筋です。ここから南に延びています。
波形だったところは天井でした。その下の地下街(クリスタ長堀)に続く通路です。ここ長堀通には、昭和39(1964)年に埋め立てられる前は長堀川が流れていました。元和元(1615)年大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡した後、大阪城主となった松平忠明が、京の伏見から岡田新三、伊丹屋平右衛門らの有力町人を移住させ、焼け野原になった大坂の復興を進めました。その時、西横堀川などと共に開削させたのが、長堀川でした。美濃屋心斎と号した岡田新三は、その南岸に住み屋敷の前に土の橋を架け、心斎橋と名づけたといいます。心斎橋のあったところは、現在では横断歩道になっています。

さらに御堂筋を南に進みます。大丸百貨店が見えてきました。かつての”心斎橋そごう”の建物が大丸と名を変えて残っています。この裏側の心斎橋筋は、南の道頓堀に架かる戎橋までの700mが大阪を代表する商店街です。ちなみに、戎橋から南は”戎橋筋”と名前が変わります。
”大丸 創業 1717年”と正面にかかれているデパートの大丸です。
明治6(1873)年、心斎橋は、橋脚が一本もないドイツ製の鉄橋が架け替えられます。当時としては珍しい構造だったため見物の人々でにぎわいました。それとともに、多くの呉服商や古道具屋、小間物屋、書籍商、昆布屋などが軒を連ね、大坂を代表する商店街に発展しました。大丸やそごうは、大店の呉服商としてたくさんの客が押しかけていました。昭和の時代には、女性客や若者の町になり、呉服店は百貨店に変わり、また洋風の店舗も多くなり、東京の”銀ブラ”に対し”心ブラ”という言葉も生まれました。
大丸から南に進むとすぐ城壁のような建物が見えてきました。三津寺(みつでら)です。真っ白なコンクリート造りでした。

江戸時代の寛文(1661~73)年間に創建された真言宗御室派の寺院で、本尊十一面観音は平安時代のものだそうです。

昭和8(1933)年の御堂筋の拡張の時に、大阪で最初のコンクリート寺院になりました。

三津寺から南に進み、道頓堀橋を渡ります。橋の下を流れる道頓堀川の両側にあざやかな世界が広がっています。道頓堀川は、豊臣秀吉の時代につくられた東横堀と西横堀をつなぐために開かれた運河です。慶長17(1612)年、平野の七名家(しちみょうけ)の一つ成安家の道頓が、同郷の平野藤次郎や久宝寺村(八尾市)の安井治兵衛の協力で運河の開削と町屋の造成を開始しました。しかし、翌慶長18(1613)年、安井治兵衛が病死し、また、大坂冬の陣で豊臣方に属していた道頓と弟の長左衛門も戦死してしまいます。

道頓堀のシンボル、グリコの大看板です。 道頓堀の開削工事は、道頓の遺志を継いだ安井道卜(どうぼく)と平野藤次郎・次郎兵衛兄弟が工事を進め、元和元(1615)年に完成させました。大坂城主となった松平忠明が、私費もつぎ込んで開削を進めた道頓の功績を讃え、「道頓堀川」と名づけたといわれています。

道頓堀川です。正面の橋は”戎橋”(えびすばし)。平成19年にリニューアルされました。ここは、今宮戎神社の参道にあたるのでこの名がつけられたといわれています。昭和60(1985)年、阪神タイガースが優勝したときにファンが飛び込んだ戎橋は、大正14(1925)年に架けられた鉄筋コンリート製で御影石で飾られていました。

道頓堀川の南岸は、芝居町や色街として栄えます。芝居町は、寛永3(1626)年に、道卜が南船場にあった芝居小屋をこの南岸に移したのに始まります。その後、慶安5(1652)年には、中の芝居(後の中座)、角の芝居(後の角座)、大西の芝居(後の浪花座)等の歌舞伎の劇場が開かれ、貞享元(1684)年には、人形浄瑠璃の竹本座、元禄16(1703)年には豊竹座が開かれ、芝居町としてにぎわいました。特に、竹本座は竹本義太夫と近松門左衛門が組んで心中もので大ヒットを続け、歌舞伎をしのぐ人気を博したといわれています。

承応2(1653)年、芝居小屋5座が公認され、櫓(興行権免許の印)を正面に掲げた五座、弁天座、朝日座、角座、中座、浪花座が、戎橋から東にかけての地域に並んで、芝居町といえば道頓堀という歓楽街になりました。平成16年、道頓堀川の両側には”とんぼりリバーウオーク”が整備され、多くの人々が行きかっています。芝居小屋は姿を消しましたが、賑わいは健在です。

戎橋の東に架かる太左衛門橋です。橋の上に近くのたこ焼き店のたこ焼きを求めて、多くの人が並んでいました。道頓堀川に架かる橋は、南岸にあった芝居町と北の盛り場を結ぶ道でした。

太左衛門橋のたもとに、遊覧船の乗り場がつくられていました。

この橋の南詰めに「千日前」と書かれた看板が掲げられています。

くいだおれ太郎や手足が動く巨大なカニ、大きなふぐが泳いでいる千日前は、この日もものすごい数の人々が往来していました。ここは、牛がぶら下がっています。 江戸時代の元和元(1615)年、大坂城の落城後、大坂にあった墓地がこの地に集められ(千日墓地)、後に火葬場や刑場もできました。

法善寺横丁の水掛不動の前です。今の千日前大通りの北にあった法善寺や竹林寺では、千日ごとに念仏供養を行なっていたので、”千日寺”と呼ばれていました。その前ということから「千日前」と呼ばれるようになったそうです。、火葬場や刑場の北側の開発地に、料理屋や見せ物小屋が軒を連ね繁栄していました。さらに安政(1854~
60)年間、刑場の裏通りに遊女街もできました。

千日前の通りです。千日前大通りの向こうにビックカメラが入っているビルが見えています。明治時代になって、刑場が廃止され、墓地は阿倍野に移りました。賑わいは南に広がり、そこに新たに盛り場が生まれました。しかし、明治45(1912)年には、ミナミの多くが焼ける大火があり、遊女街も移転していきました。

ビックカメラの入るビルです。ミナミの大火で盛り場が消滅しようとしたとき、このビルがあるところに、”楽天地”ができました。明治17(1885)年に開業していた阪堺鉄道(南海鉄道の前身)の社長が、大阪興行界の重鎮の山川吉太郎の協力を得て設立しました。”楽天地は”地上3階、尖塔をつけ中央に円形のドームがある建物で、芝居や映画、ローラースケートやメリーゴーランド、水族館もあるレジャーセンターでした。”楽天地”は、昭和5(1930)年に廃業するまで多くの人々を集めていました。

ここで、再度、御堂筋に戻り1ブロック南に進みます。左折(東行)して入ると正面のアーチが印象的な建物があります。ネオ・ルネサンス様式の松竹座です。大正12(1923)年、日本初の様式劇場として建てらえました。松竹楽劇部(後のOSK)の本拠地となり、海外の舞踊団などの公演も行われました。その後、平成6(1995)年まで映画館として使われましたが、平成9(1999)年からはリニューアルして、松竹歌舞伎の拠点となっています。

再度、御堂筋に戻ります。前方右側に新歌舞伎座が見えます。 ”楽天地”が廃業した後、松竹の創業者の一人、白井松次郎がそれを購入し、昭和7(1932)年大阪歌舞伎座を建設しました。7階建て、南欧風の建物で、関西歌舞伎が定期的に上演されていました。
太平洋戦争で、大阪は焼け野原になり、歌舞伎座は接収され占領軍専用のキャバレーとして使われます。そして、昭和33(1958)年に新歌舞伎座として御堂筋のこの地に移って来ました。唐破風の桃山様式でつくられている華麗な建物です。一方、歌舞伎座の跡地は千日デパートとなりますが、昭和47(1972)年火災で大惨事を起こしてしまいます。御堂筋の新歌舞伎座も、今は、白い板で囲われたさみしい姿になっています。

その先に南海電鉄なんば駅が見えます。デパートの高島屋も入っています。ついに着きました。ここが御堂筋の終点です。

梅田から難波までの4.7km、普通に歩けば1時間程度で歩ける距離を、3回に分けて、少しづつ歩きました。大阪のメインルート、御堂筋の歴史を訪ねて歩く旅でした。歩きながら、御堂筋の歴史をたどる旅は、そのまま大阪の歴史そのものを学ぶ旅だったと気がつきました。たくさんの歴史をできるだけまとめたいと思っていましたが、たくさんの歴史のほんの一部しかとりあげられませんでした。しかし、銀杏並木の緑の中をゆっくりと歩くのはほんとうに心地よいことでした。満足感と充実感を得た旅になりました。