トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

跨線橋の上を流れていた! 住吉川 

2016年05月27日 | 日記
飲み会で「跨線橋の上に川が流れている」と聞いて、さっそく訪ねて来ました。

神戸市東灘区にあるJR神戸線(東海道線)の住吉駅です。この駅から、「六甲ライナー」(神戸新交通六甲アイランド線)が、神戸市沖の埋め立て地、六甲アイランドに向かっています。最初に乗ったとき、無人運転だったことに驚いたことがあります。次の駅、魚崎は「灘の生一本」で知られる酒造業のさかんな地域にあります。

これは、JR住吉駅の下り線ホームの大阪寄り(東端)から見た、その跨線橋です。この位置からは、上を走る車の姿は見えませでした。

住吉駅の外から見た跨線橋方面です。高層マンションが威容を誇っています。駅から、六甲ライナーの高架下を歩いて、跨線橋に向かいます。

通路の途中から見た跨線橋です。地上部分には、JR神戸線の複々線の線路が見えます。右側の2本が下り神戸・三ノ宮方面に向かう線路です。

跨線橋に近づくと、道はかなりきつい上り坂になります。跨線橋の上から見た南方面。六甲ライナーは大きく右にカーブして、六甲アイランドに向かって行きます。

跨線橋から見た北側の風景です。広い跨線橋です。左から歩道部分、その右に2車線の道路、その右側に再び歩道がつくられています。そして、その右側に石垣状の隔壁があります。

跨線橋から見た南側のようすです。国道2号が左右に走っています。信号で停車している車の先に橋の欄干状のものが見えます。

国道2号に架かる「住吉橋」です。国道2号に沿って歩きます。

「Sumiyosibasi 1950.3」と刻まれていました。1950年は、昭和25年にあたります。戦後すぐ架けられた橋のようです。

住吉橋から見た北側の六甲山方面です。ここに来るまで川はまったく見えませんでしたが、跨線橋の上に、確かに川が流れていました。川の名は住吉川。きちんと整備されている川の両岸には遊歩道があり、ジョギングする人々の姿がありました。

住吉川は、六甲山系を源流としている全長9kmの川です。跨線橋の上にあった案内板には、「黒岩谷、田辺谷、水晶谷、五助谷、地獄谷、大月谷、西山谷などの渓流を集めて、住吉、本山、魚崎を流れ大阪湾に注ぐ川」だと書かれていました。渓流も含めた総延長は36km、流域面積は11平方キロメートルもあるそうです。

住吉川から南側を撮影しました。六甲ライナーの車両が見えました。左岸の松並木の奥には、進学校として知られている灘中学校・高等学校があります。灘の酒造家が設立した学校としても、よく知られています。住吉川の流れを見つめる人の姿も見えます。

この日は夏の日差しが注いでいました。お母さんに見守られながら、水遊びを楽しむ多くの子どもたちの姿が見えました。緑の部分は、土砂が堆積している所です。標高900mに近い所から流れてくる住吉川は、多くの土砂を運んで来ます。平地に入り流れが緩やかになると、運んできた土砂を堆積させていきます。長い年月を経て、川床は高くなり、周囲の住宅地よりも高くなっていきます。そうなると、周囲に居住する人たちは、堤防を高くして洪水を防ごうとします。こうしてできた、周囲の住宅地よりも川床が高くなった川を「天井川」と呼んでいます。住吉川はその天井川だったのです。

遊歩道の各所に掲げられていた「急な増水への警告」を訴える案内板です。遊歩道の両岸にある隔壁の高さは10m程度あります。上流で雨が降ったときには、急に増水するのでしょうね。昭和13(1938)年に、住吉川は大水害を起こしています。

これは、跨線橋の上にあった「石の広場」に設置されていた、大きな二つの岩です。この岩は、昭和13年の大水害のときに上流から運ばれて来たものだそうです。

跨線橋に上がりました。この下を列車が走っています。現在のJR神戸線(東海道線)の大阪・神戸間が開通したのは、明治7(1874)年のことでした。天井川だった住吉川に鉄橋を架けて渡るのは、当時の蒸気機関車の馬力では、到底不可能なことでした。政府に雇用されていたイギリス人技師は、高くなった川床にトンネルを掘って川を越えるという方法を採用しました。木製の仮水路をつくって川の流れを替え、川底を掘ってトンネルをつくり、その後、川の流れを元に戻すという難工事でした。こうして、できたのが住吉トンネルでした。

跨線橋の「野寄橋」です。住吉トンネルの長さは61m、高さ4m、幅4.3mあり、明治3(1870)年に着工し、約9ヶ月後の明治4(1871)年4月に完成したそうです。こうして、住吉川はトンネルの上を流れる川になりました。しかし、完成から48年後の大正8(1919)年に、このトンネルは解体されることになりました。複々線工事が行われたからです。しかし、住吉川は、今も変わらず、線路の上を流れています。現在は跨線橋になっていますが、かつては、列車は、住吉トンネルで住吉川を越えていたのです。

跨線橋の上から見たJR神戸(東海道)線の大阪方面です。貨物列車が複々線の外側の線路を走っています。

これも、同じ線を走る在来線の特急”スーパーはくと”です。京都に向けて疾走しています。

跨線橋に向けて線路の北側を上っていく道の写真です。ブロック塀を見るとかなり急な傾斜になっていることがわかります。これだけの傾斜と高さがある天井川だけに、川床の下にトンネルをつくることも可能だったのでしょうね。


「跨線橋の上を流れる」住吉川を訪ねて来ました。かつては、天井川の川床の下にトンネルがあったところでした。トンネルはすでになくなっていましたが、川の流れは今も残っており、跨線橋の上にその姿を残していました。我が国は山国でトンネルの多い国ですが、明治初期につくられた創世期のトンネルは、山を抜けるのではなく、天井川を越えるためにつくられたのですね。川床の下にトンネルを掘るために、悪戦苦闘した多くの人々の姿を思いながら歩いた旅でした。

岡山臨港鉄道の跡地をたどる

2016年05月14日 | 日記

JR岡山駅からJR宇野線で3分、JR大元駅に着きました。かつて、この駅から岡山市南部の工業地帯に向かう鉄道がありました。岡山県や岡山市、汽車製造など岡南地区の企業によって設立された、岡山臨港鉄道(以下「臨港鉄道」)です。昭和26(1951)年から、昭和59(1984)年に廃業するまでの34年間にわたり、貨物や旅客輸送を担っていました。

臨港鉄道のルートです。昨年(2015年)、岡山市立南公民館で開かれた臨港鉄道の回顧展のときに掲示されていた地図で、許可を得て撮影させていただいたものです。

大元駅の東側の高架下です。現役時代の臨港鉄道は、国鉄宇野線のホームの東側から出発していました。

大元駅前に展示されていた、臨港鉄道時代の大元駅舎です。駅舎の左側のあたりに臨港鉄道の線路がありました。

地図の上(北)が岡山駅方面です。臨海鉄道は、大元駅では宇野線の下りホームの反対側から出発していました。出発してしばらくは、宇野線と平行して進んで行きますが、やがて、宇野線は右にカーブして離れていくことになります。

臨港鉄道の旧泉田駅付近までの線路跡は、遊歩道の「臨港グリーンアベニュー」として整備されています。

緑にあふれた散歩道です。散歩やジョギングをされている方、犬を連れた方や通学の高校生の姿にも出会う道になっています。

歩き始めてから20分ぐらいで、岡南新保駅(開業時は臨港新保駅)跡が見えてきました。昭和26(1951)年の開業当初にはなかった駅です。「大元駅の次の岡南泉田駅までの距離が2.3kmと長いから」ということで、地元からの要望で新設され、2ヶ月遅れて開業しました。

ホーム跡です。岡山港駅に向かって右側にホームがありました。大元駅から1.4km。駅員のいない無人駅だったようです。きれいに改修されています。線路跡には、軌間1067ミリのレールも復元されていました。

天井から吊り下げられている駅標も、整備されたときにつくられたものです。

信号機を模した「からくり人形」もつくられています。

岡南新保駅を出たところに残されていた、踏切の警報機。駅の出口にある、道路との交差点で使われていたものでしょうか。左右に一つずつありました。

線路跡を出ても、臨港グリーンアベニューが続きます。その先で、国道2号線の高架をくぐります。

冒頭にあげた路線図の岡南新保駅と次の岡南泉田駅付近です。岡南泉田駅は、この先の国道30号線付近にあったようです。岡南新保駅と岡南泉田駅間は0.9kmだったようです。

さらに、進みます。右側に「岡山臨港 泉田基地」の倉庫が見えて来ました。「岡山臨港」は、臨港鉄道の運営会社を引継いだ会社です。

これは、国道30号線の高架です。ここで、グリーンアベニューは完全に終わりました。この先、線路跡は市道に取り込まれている区間になります。大元駅から岡山港に向かう下り列車は、岡南泉田駅の手前でタブレット交換をしてから駅に進入するようになっていました。当時の写真を見ると、待合室の建つホームの先に高架橋が写っています。位置関係からすると、国道30号線の高架だと思います。岡南泉田駅のホームは、高架よりは大元駅寄りにあったように思われます。もちろん、引き込み線などの設備はさら南にの延びていたのでしょうが・・。

国道30号線の高架を越えた先のようすです。臨港鉄道の線路跡は、市道に取り込まれていました。

先程の地図の「泉田駅」のマークの下(南)に道路がありますが、それが、写真の道路にあたるようです。高架からこのあたりまでが、岡南泉田駅ということになるのでしょう。

これは、道路脇にあるお宅の庭にありました。枕木でつくられた「泉田駅跡」のモニュメントです。見つけた時に、嬉しくなってしまいました。

次の岡南福田駅までの路線図です。岡南福田駅は、開業時は「臨港福田駅」といわれていましたが、昭和35(1960)年に改称しました。大きく左(東)にカーブするルートになります。さて、昭和43(1968)年に、臨港鉄道の貨物輸送は年間29万トンを越え、過去最高を記録しました。しかし、旅客輸送は、40万人を割り込み、その後も下降を続けます。5年後の昭和48(1973年)には、旅客列車は朝夕の4往復だけになっていたそうです。

市道に取り込まれた線路跡を歩きます。5分ぐらいで、岡山県立岡山芳泉高等学校の脇を通ることになります。昭和49(1974)年に開校した、比較的新しい進学校です。朝夕4往復の運行に沈んでいた臨港鉄道は、新設校に通う生徒の輸送のため、一時、1日12往復まで息を吹き返しました。しかし、昭和53(1978)年にはふたたび削減されることになります。臨港鉄道で通学する生徒は、岡南泉田駅から歩いて通っていたはずです。

岡山芳泉高校の広い敷地に沿って歩きます。臨港鉄道は、1970年代に入るとモータリゼーションの飛躍的な発展により、旅客輸送に続き貨物輸送も不振を窮めるようになりました。倉庫業や不動産業など経営の多角化を推進しますが、ついに、昭和59(1984)年12月30日をもって廃業ということになりました。

地元の方のお話では、臨港鉄道は市道の歩道部分を走っていたようです。この付近は、旧児島湾の干拓地で、臨港鉄道は干拓時の堤防上に敷設されているそうです。岡山芳泉高校のグランドを過ぎる頃から前方に岡山南ふれあいセンターの建物が見えるようになりました。

線路跡は、岡山南ふれあいセンターの脇をすり抜けた後、現在、ふれあいセンターの第2駐車場になっている広場を進んでいました。

その先の樹木で覆われているところに、用水の樋門がつくられていました。その真ん中に、写真のような構造物がありました。レール材でできているようなのですが、かつての線路跡であれば嬉しいのですが・・。未確認です。

<追記>
現在、岡山南ふれあいセンターからの廃線跡は公園整備事業が進行中でした。雑草は刈り取られ、かつて、水路の上に残っていたレール材の構造物は撤去されていました。その上に橋がつくられていました。(2018年11月20日再訪)

その先で線路跡は相生川を越えます。前方にみえるセメント会社の工場は、臨港鉄道の現役当時からすでに建てられていたそうです。

さらに進みます。「岡山臨港 福田倉庫」です。今も現役で活躍しています。臨港鉄道の岡南福田駅の写真には、いつもこの建物が写っています。岡南福田駅は、倉庫前付近にありました。開業時には「臨港福田駅」でしたが、昭和35(1960)に岡南福田駅と改称しました。岡南泉田駅から2.0km。この駅も干拓当時の堤防の上に設置されているそうです。駅には行き違いの設備があり、貨物と手荷物の取扱いもやっていましたので、駅員が常駐していたそうです。ホームは岡山港駅に向かって左側にあり、2つの会社へつながる専用線もありました。

路線図です。臨港鉄道は岡南福田駅から、さらに、並木町駅(当初は臨港藤田駅、岡南藤田駅を経て並木町駅となる)、岡南元町駅、南岡山駅とすすみ、終点の岡山港駅まで通じていました。

岡南福田駅からの線路跡は当時と変わらない広さで残っています。2車線の通りの左車線が線路跡でした。(ご指摘をいただき、修正しました。2018年11月20日再訪)

路線図の「藤田駅」(正確には「岡南藤田駅」)は、昭和53(1978)年から「並木町駅」に改称されています。並木町駅は、路線図では、広い道路の手前にあります。道路脇のお宅で草取りをしておられた方にお聞きしますと「スロットのお店の裏の方にありましたよ」とのことでした。2車線の道路をさらに歩きます。その先、正面に、スロット店がありました。臨港鉄道は、スロット店の三角形の設備があるところに続いていたそうです。(ご指摘をいただき、一部修正しました。2018年11月20日再訪)

<追記>スロット店の右側の道を迂回して進みます。途中の民家で庭掃除をしておられた女性にお話しをうかがうと、「臨港鉄道の跡地はスロット店の裏の住宅になっているところです。住宅はほぼ2軒ずつ並んでいますが、その2軒の間に線路がありました」とのことでした。(2018年11月20日再訪)

<追記>この写真は、少し先から、臨港鉄道の跡地に2軒づつ建てられた民家を、スロット店の方に向かって撮影しました。民家の間を、かつて臨港鉄道は走っていたようです。もちろん、住宅は臨港鉄道の廃止後に建てられたものです。(2018年11月20日再訪)

<追記>「並木町駅は、この次の信号のある交差点を左に進んだところにありましたよ」と、おうかがいした女性は言われていました。(2018年11月20日再訪)

<追記>女性がおっしゃっていた「信号のある交差点」です。(2018年11月20日再訪)

交差点で立ち話をしておられた女性お二人にお尋ねして「ここが、駅跡です」といわれたのが、この建物があるところでした。
交差点を左折してすぐのところにありました。「駅舎は通って来た通りの方に向かって建っていた」そうです。
並木駅も干拓時の堤防跡に設置されていました。並木町駅の前身の「藤田駅」は、児島湾の干拓を遂行した「藤田組」に因んでつけられました。比較的早く開けた地域に置かれた駅でしたので、ここで多くの乗客が下車し、この先の駅に向かう乗客は少なかったといわれています。(ご指摘をいただき、一部修正しました。2018年11月20日再訪)

住宅地の中を歩きます。途中でお会いした人も「線路跡は完全に住宅地になっていますから・・・」とおっしゃっていましたが、線路跡は左側の住宅の中にありました。右側に、岡山市立福島小学校が見えてきました。

前方の左右の道路の向こう側に、静態保存されている青いディーゼル機関車が見えてきました。岡山臨港の本社のようです。とすれば、その手前のわかば歯科医院のところが、次の「岡南元町駅跡」になるはずです。昭和43(1968)年に「岡南元町駅」として開業しました。路線図の「南岡山駅」を貨物専用駅として、「岡南元町駅」を旅客・小荷物取扱駅として、機能を分けるために新設されたそうです。昭和48(1973)年に岡南元町~岡山港間の旅客営業が廃止されてからは、すべての列車の終起点になりました。貨物駅となった南岡山駅は、ここから300mぐらい先(南)にありました。

わかば歯科医院です。この建物の後方が線路跡にあたります。

岡山臨港倉庫運輸、岡山臨港の本社です。かつて、臨港鉄道で活躍した102号ディーゼル機関車が展示されていました。開業時に、汽車製造製の101号(20トンの2軸の機関車)の増備車として、昭和28(1953)年に汽車製造でつくられました。還暦を過ぎていますが、きれいな姿で臨港鉄道の雰囲気を伝えてくれています。

岡山臨港の右脇の岡山臨港の私道を通って南岡山駅跡に向かいます。岡南元町駅と南岡山駅間は0.3kmです。すぐ川を渡る橋が見えました。この奥が南岡山駅跡です。臨港鉄道の開業時には「汽車会社前停留場」と呼ばれていました。クラレ、工業、大建工業など岡南地区の工場に専用線が敷設されていました。昭和35(1960)年に汽車会社が撤退したとき、南岡山駅と改称されたそうです。展示されていた102号機関車はここの工場で製造されたのでしょうか?

この先、終点の岡山港駅まで路線が延びていましたが、路線跡は、岡山臨港の倉庫群に替わっています。丸正製粉の工場の脇の広い道をさらに南に歩きます。突き当たりを左折したところにある南岡山駅の延長線付近です。このあたりが岡山港駅跡ではないでしょうか。かつての岡山港駅の写真に写っていた山が、送電線のある山にそっくりですから・・。

現在は撤去されていますが、線路は岸壁まで続いており、対岸の北浦に向かう渡船が出ていたそうです。岡山港駅付近には、現在も、「北浦渡船場」というバス停が残っています。

振り返って南岡山駅方面を撮影しました。臨港鉄道の線路跡は、目の前の建物のある部分のようです。南岡山駅から1.2km、大元駅から8.1kmのところにありました。この駅は、岡南元町駅が終起点となった、昭和48(1973)年に廃止されています。

これは、児島湖と海水を隔てるように締め切った「児島湾締切堤防」です。途中の横断陸橋から岡山港駅方面を撮影しました。道路の左側に空地が見えます。ここは「鉄道敷設用の用地」だったといわれています。国鉄等が、西に迂回している宇野線の短絡線として、臨港鉄道を国有化し、線路をこの部分に敷設して宇野港に向かう四国連絡の優等列車を走らせることを検討していたため、空き地のまま残しているそうです。


岡山臨港鉄道は、岡南地区の工業地帯からの貨物輸送を主に担った鉄道でした。旅客輸送も行っていましたが、モータリゼーションの進展により、昭和59(1984)年、34年間にわたる営業に終止符を打ちました。線路跡の一部が遊歩道として整備されていますが、多くは道路や住宅に取り込まれていて、線路跡をたどるのはかなり難しいことでした。