トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

旭川源流の碑の旅

2011年07月26日 | 日記

7月16日(土)午前9時30分、岡山市立旭公民館に1週間滞在していた「旭川源流の碑」は、リヤカーを引く地元の有志の人たちによって、次の中継地である岡山市立北公民館に向けて出発していきました。

これは、旭川の環境と水環境の保全をめざす「旭川流域ネットワーク」の取り組みです。15年目となる今年度は、新庄村の朝鍋鷲ヶ山の麓の
野土路川沿いに設置されることになっています。
 
「旭川源流の碑」は、村内で切り出したひのき(長さ2m、直径26cm)の樹齢40年を超える原木に新庄小学校の児童が「旭川源流の碑 野土路川」と揮毫したものです。それを、リヤカーにくくりつけて、3月26日に旭川源流の新庄村を出発しました。

源流の碑の旅の様子を知らせてくれる写真によれば、雪が積もった道でのスタートだったようです。その後、土曜日と日曜日に多くの人の手によって、旭川の流域を、運ばれて行きました。新庄から蒜山、津黒高原、美咲町、久米南町を通り、4月23日に岡山市に入りました。岡山市建部、御津を経て北公民館牟佐分館へ、そこから高島公民館、東公民館を通って、6月18日に、旭川河口に近い操南公民館に着きました。岡山市の中心部の旭公民館に着いたのは、7月10日のことでした。
 
一緒に旅をしてきた、やはりひのきでつくられたマスコットと置物も公民館の玄関先に飾られました。

リヤカーは広い庭の日陰に置かれ、長旅の疲れを癒しています。

1週間、骨休めをした源流の碑を乗せたリヤカーは、これからも、ひたすら旅を続けます。新庄村に帰る10月下旬には、全国の源流域に位置する自治体などによる、「全国源流サミット」が開催されているはずです。

真夏のまぶしい日差しの中を、再び出発した碑は、秋が深まる頃まで、環境保全を訴えながら歩き続けるのです。

変わり行く倉敷市藤戸町天城地区

2011年07月20日 | 日記
源平の藤戸の合戦で知られる倉敷市藤戸町。
ここは、かつての備前の国、陣屋町天城(あまき)と備中の国、藤戸寺の門前町藤戸が合併してできた町です。

元和元(1615)年、幕府の一国一城令によって、下津井城が廃城となり、寛永16(1639)年、下津井城主だった岡山藩次席家老池田由成は、天城に陣屋町(3万2千石)を構えました。陣屋(お茶屋)は、県立倉敷天城高校の第2グラウンド(野球部練習場)がある、桜山につくられました。
 
県立倉敷天城高校の正門前には、当時の武家屋敷の雰囲気が残っています。

倉敷天城高校をはさんだ向かいの山の陣屋とほぼ同じ高さのあたりには、家老池田家の墓地があり、2代由成、3代由孝、4代由勝、6代政純、8代政孝、9代政徳、10代政昭、明治になってからの、11代政和(男爵)、12代政佑らの墓標が残っています。きれいに整備されていて、平素から手入れが行き届いている印象でした。
池田家の菩提寺、海禅寺。

 
3代由孝が火災後再興し、寺領130石を寄進したといわれます。明治になって、寺領が縮小し池田家からも離れたそうですが、長い参道と門前の石橋、屋根の瓦の家紋などが、菩提寺らしい格式を伝えてくれています。
天城池田家といえば、大石内蔵助の赤穂事件。関係者ということで、4代由勝のとき2千石減らされてしまいます。2代由成の六女熊子は、3代由孝の姉であり、大石内蔵助の母でした。

天城の正覚寺は、大石内蔵助のゆかりの寺として知られています。寺の説明によれば、3代由孝が、貞享5(1688)年、覚誉上人を開祖として、浄土宗の寺院として建立しました。父である2代由成の側室が浄土宗に帰依していたからだったようです。
 
寛永19(1642)年、岡山藩から「在町」に指定されてからは、この地域の商業の中心地となりました。また、金比羅街道や天城街道の宿場町、倉敷川の港町としても栄えます。

天城に残る大庄屋の邸宅の玄関には、「龍吐水」という消防ポンプがつり下げられて残っています。

倉敷市藤戸には、岡山県で2番目に古い(明治23年建築)といわれる天城教会。
 
「藤戸饅頭本店」の建物(万延元年現在地に店を構えた)も残っています。(藤戸饅頭本店は「ALWAYS 三丁目の夕日」の撮影で使われたようです。)
 
歴史のある建物が自然な形で残る藤戸の町は、遠くから訪ねて来られる旅行者からも親しまれて来ました。

ところが、最近、びっくりすることが起きていました。

古い民家のあったところが更地になって売り出されていたのです。すでにいくつかの区画は「売約済み」になっていました。
  
裏側からみた教会ですが、つい最近まで、このように教会の先にも建物がありました。また、大庄屋の建物の前にもたくさんの民家が残っていました。


更地になった所には、やがて新しい近代的な建物が建っていくのでしょう。しかたのないことですが、町全体で一つの雰囲気をつくっていた藤戸地区が、どんどん変わっていくのは、ほんとに残念なことです。 

旧下津井電鉄の線路跡を歩く(1) 茶屋町から藤戸へ

2011年07月13日 | 日記

JR瀬戸大橋線茶屋町駅です。高架で、近代的な駅舎に生まれ変わっています。四国に向かう幹線だった宇野線は、瀬戸大橋を渡る瀬戸大橋線に主役の座を奪われ、すっかりローカル線になってしまいました。瀬戸大橋線と宇野線が分岐する茶屋町駅は、かつて、下津井電鉄の起点駅として知られていました。下津井電鉄は、大正2(1913)年、下津井軽便鉄道として、茶屋町駅~味野町駅(後の児島駅)が開業したことに始まります。そして、大正3(1914)年には、下津井駅まで、21.0kmの全線が開業しました。戦後の昭和24(1949)年には全線電化を達成し、下津井電鉄と改称しました。軌間30インチ(762ミリ)の狭軌鉄道で、開業時は蒸気機関車(SL)による運行でした。SLによる運行が完全に終了したのは、昭和24(1949)年の電化達成のときだったそうです。

現在の茶屋町駅前のようすです。さて、下津井電鉄は、昭和47(1972)年に茶屋町駅・児島駅間が、残る児島駅・下津井駅間も、平成3(1991)年に廃止され、全線が廃止となりました。その後、線路跡は倉敷市に買い取られ、自転車歩行者専用道として整備されています。

下津井電鉄が走っていた頃の雰囲気を残しているのは、駅前のクリーニング屋さんと自転車預かりのお店だけになりました。廃線からおよそ40年、久しぶりに、下津井電鉄の線路跡を歩いてみることにしました。

写真左の半円形の屋根のある建物は、茶屋町駅の自転車駐輪場です。この駐輪場があるあたりに、下津井電鉄の線路がありました。

茶屋町駅跡から出発しました。幅3メートルぐらいの線路跡を歩いていきます。

線路跡は桜の並木になっており、桜の季節には多くの人が散策を楽しんでいます。

最初の駅である天城(あまぎ)駅跡をめざして進みます。すぐにショッピングセンターの”CHACHA”の前を通過しました。
 
その駐車場にある宝くじ売り場。当たらないことで有名だったのですが、100万円が当たったようですね。売り場の下の看板が誇らしげでした。

夏の日射しの下をひたすら歩きます。線路のすぐ側にあった”備南ふれあい会館”の建物を見ながら進みます。 

汐入川の鉄橋跡の橋を渡ると天城地区にはいります。江戸時代の岡山藩池田家の二番家老の池田家の陣屋町であった天城地区と、倉敷川をはさんだ向かい側、商業が盛んだった藤戸地区。二つの町は一つになって、倉敷市藤戸町になっています。

広田神社の前を過ぎると下り坂になり、旧天城(あまき)駅跡に入って行きます。赤い屋根の建物の少し先が駅舎があったところです。岡山県立天城高校(現倉敷天城高校)に通っていた生徒の最寄り駅でした。

白い塀のあるお宅の前に天城駅がありました。道路の面より1段高くなっているところが駅舎跡だそうです。1面1線のホームをもち、茶屋町駅から2.0kmのところに設けられていました。

旧天城駅跡を過ぎると右手はるかに、源平の藤戸の合戦で知られる藤戸寺の屋根が見えてきました。

倉敷東第4ポンプ場の建物の前で、色あざやかなマンホールのふたを見つけたと思ったら、もう倉敷川です。倉敷美観地区から天城地区を経由して児島湾に注いでいました。今は、締切堤防で仕切られた児島湖になっています。

下津井電鉄は塩干(ひぼうし)鉄橋で、倉敷川を渡っていました。今は、歩行者自転車専用道路の塩干橋を渡ります。

倉敷川に架かる塩干橋です。渡りきった所に「茶屋 児島自転車道1号線2000m地点」の標識がありました。藤戸地区に入りました。

旧藤戸駅のすぐ手前です。建て替えられていましたが、記憶の中にあるかつての駅舎とよく似た建物が、今も建っていました。藤戸駅が開業したのは、昭和25(1950)年のことでした。天城駅から400m。下津井電鉄の最短区間でした。

以前より少し低い感じでしたが、かつてのホームがそのまま残っています。ホームを仕切る枕木の垣も、そのままの形で残っています。2面2線のホームがありました。

駅名表示も残っていて、かすかに「ふじと」の文字を読むことができました。

懐かしいですね、藤戸駅。昔のままに、残していただいていることに感謝、感謝でした。

岡山市建部町に残る陣屋町の面影

2011年07月10日 | 日記
江戸時代の岡山藩は、3代藩主池田光政のとき、
6人いた家老を、藩内の要地に配置して、
国の守りを固めていました。

5番家老池田長政には1万4千石を与え、建部の地を治めさせました。
当時、建部の地は、旭川をはさんで、津山藩領(当時は森藩)である福渡と対峙しており、池田藩にとっては、国境にあたるまさに要地でした。
長政は、建部に陣屋を置き、津山往来を引き入れる形で、陣屋町を整備していきました。  山陽道を引き入れた岡山城下町と同じように・・・。
岡山市建部地区の旭川の右岸の土手沿いの建部新町上之町に、江戸時代の商家の面影を残す町並みが今も残っています。

国道53号線と建部の陣屋町跡を結ぶ中吉橋で旭川を渡ると、道路の下が旧津山往来です。
陣屋町を通る街道らしく、鍵形に曲がったところが4カ所ほど見られます。

陣屋町は、慶安3(1650)年、池田宗春のときにできあがりました。
岡山城下町にならって、上之町、中之町、下之町に分けて、土地を与えて商人を招いたといわれています。
裏の路地から見た民家ですが、間口5.4m、奥行き27mの敷地を与えられたため、正面から見る以上に大きく、存在感があります。街道沿いの民家らしく、奥行きを大きくとっています。
本瓦葺き、白漆喰に格子窓、どっしりとした構えの民家です。今も残るこのお宅は、「陣屋のご典医」だった方が、明治になって、侍屋敷から移ってきたということです。今もその子孫の方が住んでおられるようです。
そのお隣のお宅の北側には、陣屋の大手門が移築されています。陣屋は商人町の西に置かれたといわれていますが、跡は何も残っていないようです。唯一この大手門が、陣屋の面影を伝えています。
かつて、侍町と商人町を区切っていた重厚な大手門は、存在感を誇示しているようです。

旧津山往来は、この建部新町から桜川をわたって、さらに北に向かいます。
そして、旭川を渡し船で渡り、対岸の福渡に行ったといわれています。
現在、津山線の橋梁の近くに和船がもやわれていて、当時の雰囲気を伝えてくれています。
対岸の福渡にも、船着き場の雰囲気を感じるところがありました。

建部新町は、ほとんど通る人もいない静かな通りでした。田園風景の中にある多くの民家で守られるように、伝統的な町並みがひっそりと残っています。

この雰囲気をいつまでも残してほしいと思いながら、町並みを歩きました。
暑い暑い日曜日でした。










岡山市表町の七夕笹まつり

2011年07月09日 | 日記
岡山市街の中心部にある表町商店街、
岡山城下町をつくった宇喜多秀家が、大坂と小倉を結んだ山陽道を、
現在の表町を通るルートに替えて町づくりを進めたことに始まる、
歴史と伝統にいろどられた由緒ある商店街です。

岡山市の表町商店街に七夕かざりが並んでいます。

表町おかみさん会が中心になって毎年開催しているイベントです。
平成16(2004)年11月、
国土交通省の「手づくり郷土賞」を受賞しました。
これは、地域整備やまちおこし団体を表彰する制度です。
七夕笹祭りなどで、商店街のにぎわい創出に貢献したということが、
受賞の理由でした。
今年も、また、表町おかみさん会の呼びかけで、
にぎやかに行われています。
笹飾りを見ながら、旧上之町から栄町に向かって歩きました。

旧上之町では、アーケードの天井が開いていて、
明るい日差しが注いでいました。

近くの幼稚園や小学校も協力しています。

これは中学校の笹飾りです。

近くの公民館の笹飾りもありました。
そのほか、専門学校や書道塾と思われる団体のもありました。

東日本大震災の被災地である、大船渡市や伊達市の笹飾りもありました。

笹につるされた短冊です。
大震災からの少しでも早い復興を祈る、女子高校生の短冊です。

たのしい短冊です。近くには、
「○○と結婚できますように」と書かれた女性の短冊もありました。

天井に目を向けると、「平和七夕まつり」と書かれた千羽鶴も。
市内のR中やY中の生徒がつくったものでした。
西大寺町で右折して、新西大寺町に入りました


ここでも、明るい日差しに千羽鶴が輝いていました。

かつては「東西、南北を合わせて1.7キロメートルの通りに
約470店舗が並ぶ」といわれた表町商店街ですが、
西大寺町の分岐点から南の、かつての映画館街は、
ほとんどが駐車場になっています。
北の旧上之町や旧中之町、旧下之町あたりは
人通りも多くにぎやかなのですが・・・。

商店街の地盤沈下が全国で問題になっています。
表町おかみさん会の活動も
そんな流れを食い止めるために始まったのだと思います。
私たちも協力して、何とかにぎわいの創出をしていきたいものですね。

笹飾りの笹の葉も少しずつ、しおれてきています。
そろそろ撤去されるのでしょう。
今年の七夕笹飾りも残りわずかになりました。