トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

加西市北条町の町並みを歩く(2)

2018年10月30日 | 日記
加西市北条町は、酒見寺や住吉神社の門前町、町を通る街道の宿場町として繁栄しました。かつての繁栄をしのばせる家並みが、訪ねる人を迎えています。前回は、その中で、南町(みなみちょう)、御旅町(おたびちょう)、御幸町(ごこうまち)沿いの家並みと寺町の雰囲気を残す地域を歩いてきました。今回は、もう一つ、往事の家並みが残る西京街道沿いの家並みを訪ねて来ました。

前回訪ねた西岸寺の前の通りからスタートしました。

すぐ先に「栄町」の看板がありました。法華宗寺院、妙典寺への参道へは、ここを右折して進みます。

今回はまっすぐ進みます。前方の三差路の向こうに、衣笠モーターサイクルのお店が見えました。左右の通りを左折してさらに進みます。

右側にあった平田菓子店を過ぎると、すぐに交差点がありました。「福吉町(ふくよしちょう)」の看板があります。ここで右折して進みます。

左側に毛利書店のビルがありました。その先で、通りは緩い左カーブになります。

北条町栗田地区になりました。すぐ前の交差点の手前左側に、大日堂がありました。

交差点の先から撮影した大日堂です。荒廃していたお堂を、寛文元(1661)年に、現世安穏、子孫繁栄を祈り再興しました。江戸時代になって農業生産の発展とともに牛馬の使用が盛んになり、その安全のために、大日如来(真言宗の根本仏)が祀られたそうです。現在の大日堂は、宝暦13(1763)年に再建されたものだそうです。交差点を渡ります。

北条駅でいただいたパンフレットです。この先で「旧家の家並み」に入ります。

大日堂から約250メートル先、通りの右側にあった高井家住宅です。通りの先から振り返って撮影しました。嘉永4(1851)年の建築で、国の登録有形文化財に登録されています。厨子2階建ての切妻造り、平入りの建物です。

このお宅の正面にあった「出棺出口」です。出棺の際に棺を出す出口です。家への帰り口をわからないようにする風習の一つで、迷わず成仏してほしいという願いが込められているのだそうです。初めて、こういう出口があることを知りました。

左側にあった水田家住宅です。大正11(1922)年の建築で、こちらも、国の登録有形文化財に登録されています。

ここで、もう一つパンフレットをいただきました。「横尾歴史街道つどいの会」がつくられた「横尾歴史街道ガイドブック」です。パンフレットの「旧家の家並み」は、地元では「横尾歴史街道」と呼ばれているようです。

通りに面して設置されていた「手作りベンチ」です。上に「まあ すわんなはれ」と書かれています。「北条まちづくり協議会」では、地元の間伐材を再利用してつくった「手作りベンチ」を町並みに設置しています。このベンチも、その一つなのでしょう?

その先の通りの様子です。「旧家の家並み」と名づけられているように、かつての街道の雰囲気がよく伝わって来ました。丹波方面や、京・大阪方面に向かう人たちが歩いた道です。「横尾歴史街道ガイドブック」は、街道歩きに大変参考になりました。

「えべっさん」です。通りの左側、一段高いところにありました。街道筋の人たちがお詣りされていた商売の神様です。

横尾歴史街道つどいの会のパンフレットを見ていて、通りの商家で気になったことがあります。その一つが、軒下の「犬走り」の部分を柵で囲い込んでいる空間があったことです。敷地の境界に立てた柵を「犬垣(いぬがき)」と呼んでいるそうです。

もう一つが「筋瓦(すじかわら)」です。平瓦の上にかぶせる丸瓦で、筋のように長くしたもののことをいうそうです。屋根の平瓦の強度を強めるために設けられているそうです。

「横尾歴史街道」は、北条町の家並みの中で、最も雰囲気のある通りでした。その先で街道が分岐しています。

三差路の中央、突きあたりに地蔵堂がありました。道中の安全を祈る人も多かったはずです。

地蔵堂の右側に、道標がありました。左側が天保7(1836)年の銘がある最も新しい道標で、「右 やしろ 大坂 京  左 明らくじ たん(以下埋没)」とありました。埋没している「たん」は「丹波のたん」ではないかと思います。右側が享保13(1728)年の銘のある最も古い道標で、「無縁塔 右 やしろ 左 明らくじ道」と刻まれていました。真ん中の道標は残念ながら読むことができませんでした。

地蔵堂の右側の通りは社(やしろ)から篠山を経て京・大坂方面に向かう西京街道でした。

地蔵堂の前から左へ向かう街道は、明楽寺(加西市の北部にある)から福知山を経て宮津に向かう丹波街道でした。

この日は、北条の町に残る懐かしい町並み、「旧家の家並み」を歩いてきました。酒見寺や住吉神社の門前町として、多くの街道が交わる宿場町として、地域経済の中心地として栄えた在郷町として繁栄した北条の町の面影をたどる旅になりました。

加西市北条町の町並みを歩く(1)

2018年10月29日 | 日記

加西市北条町にある北条鉄道の北条町(ほうじょうまち)駅です。北条鉄道は加西市や兵庫県が出資する第三セクター鉄道、旧国鉄北条線を引き継ぎました。JR加古川線の粟生(あお)駅と北条町駅を結んでいます。

北条町の町並みです。旧街道沿いにかつての雰囲気を伝える家並みが続いています。この日は、北条町の町並みを歩くことにしていました。

JR加古川線粟生駅に停車していた北条鉄道のディーゼルカー、フラワ2000-3号車です。国鉄北条線の時代には、加古川駅まで直通する列車も運行されていましたが、昭和60(1985)年に第三セクターに移管されたときに線路が断絶されました。現在は、粟生駅と北条町駅の間を往復運転しています。グリーンの車両フラワ2000-3号車は平成20(2008)年に廃止された三木鉄道からの転籍車両で、平成21(2009)年4月5日から北条鉄道での営業運転が始まっています。平成11(1999)年富士重工宇都宮工場で製作された車両です。

北条鉄道には以前乗車したことがあります(「登録有形文化財の駅が並ぶ三セク鉄道、北条鉄道に乗る」2016年4月30日の日記)。粟生駅から13.6km、列車は、田園地域を20分ぐらい走って北条町駅に着きました。ホームの先には生涯学習施設の”アスティアかさい”が見えます。

北条町の一角にあった観光案内の掲示です。北条町の伝統的な町並みは、大年神社から、酒見寺(さがみじ)住吉神社に到る街道沿いの北条の宿(しゅく)と呼ばれる地域、大信寺、西岸寺などが並ぶ地域、そして、横尾街道沿いの地域に広がっています。まずは、北条の宿に向かうことにしました。北条の町は、戦国時代には戦乱の影響で荒廃していましたが、江戸時代初期に家数も増加し復興が進みました。

北条町駅でパンフをいただき、アスティアかさいとの間の道を進みます。写真の右方向に向かって歩きます。駅舎に隣接したセブンイレブンの交差点を右折します。

右折しました。右側に見えるビルは建設中の宿泊施設です。その向かい(左側)に三井住友銀行があります。

三井住友銀行の手前を左折します。この通りを進むと、酒見寺や住吉神社に向かうことができます。北条の町は、江戸時代を通して、酒見寺や住吉神社(当時は酒見神社)の門前町として繁栄しました。また、丹波・丹後・但馬方面を結ぶ街道の宿場町としても賑わいました。特に、延享4(1747)年、”徳川御三卿”の田安家領になってからは、陣屋をこの地に設けたため、地域経済の中心地である在郷町として発展していきました。

通りに入ってすぐ左側に大年(歳)神社があります。

大年神社の境内にあった屋台蔵。祭礼のときの山車、南町屋台を保管しています。

駅でいただいたパンフにあった観光ルートです。北条町の伝統的な町並みは3つの地域に残っています。「商家の家並み」と「寺町通り」と横尾街道沿いにある「旧家の家並み」です。「商家の家並み」と書かれたルートを進んでいます。この通りは、南町(みなみちょう)、御旅町(おたびちょう)、御幸町(ごこうまち)を経て宮前に向かうルートです。さらに、その先にある辻川で美作国津山に向かう街道と分かれて、生野・豊岡方面に向かった、かつての但馬街道を歩くルートです。

その先、右側の建物にあった袖卯建(そでうだつ)です。「南町」の標識がその前にあります。いただいたパンフには「卯建とは、建物の両側に「卯」の字形に張り出した小屋根付きの袖壁のこと。装飾と防火を兼ね備え富の象徴的なものになっています」と書かれています。このようなモダンな卯建は、北条町では、この先の御旅町にあるものとの2つだけなのだそうです。

切妻造りの厨子2階建て、白い漆喰塗り、壁に虫籠窓がついている格子づくりの商家の建物が続いています。

その先で御旅町になります。敷石が置かれた舗道を進みます。商店街だったところですが、住宅地という雰囲気を感じる通りに変わっていました。

切妻造り、厨子2階建て、平入りの商家が点在しています。虫籠窓が見事です。

御幸町に入りました。この先、右側に商家の看板が並ぶ通りになります。

お茶を扱っておられた梅六園の建物です。正面の木製の看板から歴史あるお店という雰囲気を感じることができます。

かつての雰囲気を残す「大福味噌 大黒屋」の建物です。木製の看板が魅力的です。「味噌 糀(こうじ) はかり」と書かれている看板が架かっています。 

泉生山酒見寺(さがみじ)の楼門です。酒見寺は行基の開山と伝えられる真言宗の寺院。戦国時代に焼失して、寛永19(1642)年に再興された寺院です。楼門は、棟札から、文政8(1825)年に建立されたものとされており、棟梁は近くの宇仁郷、神田左衛門であったといわれています。入母屋造り、本瓦葺き、上層の周囲に縁を巡らせています。

21対の飾り灯籠が並ぶ参道の先に、酒見寺の本堂があります。

昭和50(1975)年に、国の重要文化財に指定されている多宝塔です。天正年間(1573-1591年)に焼失しましたが、寛文2(1662)年に再建されました。相輪にある刻銘や上層の柱の墨書が残っているそうです。上層は檜皮葺き、下層瓦葺き、塔内には大日如来像を安置しており、全国で最も美しい多宝塔だといわれています。

その隣にあった住吉神社です。鳥居の間から拝殿が見えます。養老元(717)年に祖神と住吉四神を祀ったことに始まるといわれています。明治42(1909)年に大歳神と八幡宮が合祠され、現在は、酒見神、住吉四神、大歳神と八幡宮が祀られているそうです。

本殿です。嘉永4(1851)年に再建された三殿です。手前から西本殿、中本殿、東本殿です。住吉神社の裏側から撮影しました。

住吉神社の鳥居まで戻ります。表の玉垣の上に五百羅漢の看板がありました。ここで右折して進みます。やがて、左側に中学校、右側に小学校に挟まれた道を進むようになります。小学校の裏に五百羅漢がありました。お世話をされている方に200円を払って入場しました。

「親が見たけりゃ 北条の西の五百羅漢の堂に御座れ」と古くから歌われた五百羅漢です。高室石(たかむろいし・凝灰岩)を加工した羅漢の立像など、459体の石像が、17世紀前半の酒見寺の再興に合わせて祀られています。大分県の耶馬(やば)溪、山梨県の吉沢の羅漢と並び、全国に知られています。

この後は、寺町を歩こうと思いました。羅漢の裏で右折して、羅漢とその裏にあった”北条ならの実こども園”との間の道を進み、小学校の敷地に沿って進みます。その先に「江ノ木町(ごのきちょう)」の看板がありました。

看板のあるところから、”すぱーくかさい”(加西市立スポーツ施設屋内ゲートボール場)に沿って、右方向に進みます。正面入口前に着きます。

”すぱーくかさい”の正面から見た風景です。ここで、左折してこの通りを歩きます。やがて左側に磯部神社と境内にある江ノ木公会堂が見えます。

磯部神社の脇を道なりにすすむと左側に「「ファッション系デポ マリーナ」の看板が見えます。その手前を左折して進みます。
やがて、左側にある大信寺に沿って歩くようになります。

山門の下から撮影た浄土宗寺院の安養山大信寺の本堂です。登録有形文化財に登録されています。

大信寺の前を右折しました。大信寺に隣接した酒相山西岸寺です。真宗大谷派の寺院です。前に「住屋町(すみやちょう)」の看板があります。西岸寺の前を進みます。

その先に「栄町」の看板がありました。ここを右折して10メートルぐらい進むと、隆栄山妙典寺への入口があります。

妙典寺への参道です。

法華宗の寺院、妙典寺の本堂です。

ここまで、旧但馬街道沿いの「商家の家並み」と「寺町通り」の二つの家並みを歩いてきました。次回は、ここから、パンフレットにあった「旧家の家並み」を歩くことにしました。







水間街道を歩く(2)~名越駅から紀州街道へ~

2018年10月16日 | 日記
龍谷山水間寺への参詣の道として、また、大阪府中部と貝塚寺内を結ぶ物資輸送の道として、多くの人に利用されてきた水間街道。水間寺から、並行して走る水間鉄道水間線(以下「水間線」)の駅に立ち寄りながら歩いています。

水間線と水間街道が交差する水間線の名越1号踏切です。線路の先の駅は名越(なごせ)駅です。前回は、水間寺からここまで歩いてきました(「水間街道を歩く(1)~水間寺から名越駅まで~」2018年10月8日の日記)。この日は、名越駅から終点の紀州街道西町交差点まで歩くことにしていました。

名越駅にあった、「奥貝塚・水間まち並みづくり協議会」の方がつくられたマップです。水間街道が水間線と交差する名越1号踏切から、マップの右から左に向かって、水間街道を歩きます。

住宅地が続く通りの右側に、ブロック塀に囲まれるように地蔵の祠がありました。前を白い布で覆われていましたが、岸和田へ向かう道の分岐点を表す道標の役割もあったようです。

その先はかつての街道の雰囲気を残す通りになります。左側に白壁の土蔵のあるお宅があります。鉄工所の看板が架かっています。

その手前を左折し、塀に沿って進みます。行き違いがやっとできるぐらいの細い路地のような通りです。

清児(せちご)1号踏切に出ました。踏切の手前を右折して進みます。

その先に清児駅の1面1線のホームがありました。ホームの入口にかつての改札口の名残りがありました。ホームは貝塚駅に向かって右側にあります。名越駅から400メートルのところに置かれていました。かつて、この駅から犬鳴(泉佐野市)・和歌山県の粉河町(こかわ町・現・紀の川市)に向かう路線を延長する計画がありました。一部区間で工事に着工しましたが、資金不足のため立ち消えになったということです。

水間街道に戻りました。先ほどの鉄工所の看板のあたりから、街道を歩きます。この清児駅の周辺は、かつての街道の雰囲気を伝えてくれる通りになっています。すぐに通りの左側に祠がありました。

祠を水間寺方面に振り返って撮影しました。写真の右側のお宅と街道の間にあります。左側には米穀店のなまこ壁が見えます。地蔵菩薩像は前を布で覆われていますが、道標の役割も担っていたものなのでしょう。

右前方に「ゆ」と書かれた大きな看板が見えました。「清児の湯」です。街道はその先で、大阪府道40号(岸和田牛滝山貝塚線)と斜めに交差します。直進します。

府道40号を渡って正面の通りに入ります。その先で、左カーブが始まるところに地蔵の祠がありました。

地蔵堂から50メートルぐらい、街道の左側に「麻生中町会館入口→」という看板が見えました。

次の右に入る通りの角に石柱がありました。ブロック塀の陰にあったので、見逃してしまいそうでした。「廿七丁」と刻まれています。丁石でした。向きから考えて「水間へ向かって27丁」を示しているようです。

その先の道路の分岐点に二つの石碑があります。石碑の左側を進みます。

前の通りの向こう側に「ダイハツ」の看板がありました。大阪府道30号(小栗街道・熊野街道)の麻生中(あそなか)交差点です。ここで左折します。

左側に関西自動車学校、右側に「とりあえず吾平」、その先の「キリン堂」を見ながら進みます。

10分ぐらいで、石才交差点、その先に海塚(うみつか)9号踏切がありました。右側の赤い屋根のお宅の前にタバコの自動販売機があります。

光線のため見えにくいのですが、水間線石才(いしざい)駅です。地元の人は「いっさい」と呼んでいるそうです。タバコの自動販売機の前から1面1線のホームに上がっていきます。この駅も、名越駅や清児駅と同じく大正14(1925)年に開業しました。清児駅から800メートルのところにありました。

石才交差点に向かって引き返します。歩いてきたキリン堂の隣にある損保の代理店の看板がある建物のところで左折します。

右側にキリン堂の駐車場、左側に損保代理店の看板のある建物の間を進みます。その先で、左右の通り、かつての熊野街道(小栗街道)に合流します。左折して進みます。

その先に地蔵堂がありました。左側に向かうのが熊野街道(小栗街道)。水間街道は右に向かって進んで行きます。中には2体の地蔵菩薩像が祀られています。前面が赤い布で覆われているのでよく読めませんが、通りの分岐点にある地蔵像ですので、道標の役割もあったはずです。

地蔵堂から100メートルぐらいで、「マツゲン」の赤い看板が見えるようになりました。

「マツゲン」付近で貝塚港に向かう道路に合流し、右方向に歩きます。前方にJR阪和線のアンダークロスが見えます。

アンダークロスを過ぎると右側に、貝塚市消防本部があります。消防車も並んでいます。消防本部の先は海塚大池です。左側には・・・

茅葺き屋根の母家と長屋風の建物がある旧家がありました。水間街道で初めて見た茅葺きのお宅でした。

茅葺き屋根のお宅を過ぎた辺りから、貝塚港に向かう道から離れ、ヤシキ産業の看板の右側の道に入り、海塚大池の堰堤を歩くことになります。

海塚大池の端近くに、地蔵堂がありました。

コンクリート造り、緑のブリキ屋根の地蔵堂です。地蔵菩薩は、やはり前を布で覆われています。近くの階段を下り、地蔵堂の裏にある通りを進みます。

その先で、国道26号(第2阪和国道)にぶつかります。ここから、水間線の近義の里(こぎのさと)駅を訪ねることにしました。

国道26号の側線を進みます。15分ぐらい歩くと行き止まりになります、そこを左折しました。

左折すると、飲食店が並んでいます。「酔泉」の看板の先で右折します。

右折すると、海塚4号踏切とホームが見えました。水間線の近義の里駅です。「近義の里」という駅名は、古代この地を支配していた有力者の名前から命名されたといわれています。現在は、貝塚市鳥羽地内にある駅です。踏切を渡ってUターンしてホームに入る構造になっています。住宅地の中にある駅という雰囲気を持つ駅です。この駅は、水間線で最も遅く、昭和44(1969)年に開業した駅です。石才駅から800メートルのところに設置されています。

来た道を引き返し、国道26号の高架下に戻ります。ここは、鳥羽交差点です。ここからは、貝塚港に向かう通り(西町海塚麻生中線)を進みます。

すぐに鳥羽西交差点。先に水間線の貝塚市役所前駅を訪ねることにして、交差点を左折します。

10分ぐらいで海塚3号踏切に着きました。右側は貝塚高等学校の校舎です。左側に、貝塚市役所前駅がありました。

ホームに上がりました。他の駅と同じように、青を基調とした駅になっています。この駅は昭和42(1967)年に開業しました。近義の里駅から400メートルのところにあります。周辺には、市役所の他、教育庁舎、保健福祉合同庁舎、市立図書館、総合体育館などの官公庁が集中しています。

海塚3号踏切から貝塚駅方面の線路を撮影しました。線路はこの先で右にカーブして南海本線と並行して進み、貝塚駅に入っていきます。

鳥羽西交差点に戻りました。貝塚港に向かって右側にあるキャンディハウスの脇の道に入ります。

キャンディハウスの脇の道に入ります。

キャンディハウスの裏の通りを左折します。今は住宅地になっている街道を進みます。

やがて、貝塚港に向かう通りに合流します。

そのまま斜めに横断し、一方通行になっている道を反対に入っていきます。前方に創価学会の建物が見えました。

前方に貝塚西出クリニックの建物が見えてきます。昭和産業駐車場の手前を右に入っていきます。

海塚一丁目の通りです。雰囲気のある通りになっています。広い敷地に母家、土蔵などがあるお宅が並んでいます。一方で、住む人がいなくなり崩壊寸前のお宅もありました。清児地区以来の伝統的な建物が並ぶ地域になっています。

シートに覆われている被災されたお宅もありました。正面の通りが見えます。「鳴門鯛焼本舗」の看板が架かっています。

通りに出ました。左方向です。水間線の貝塚駅とその手前に水間鉄道のバスセンターの建物が見えます。

右に進むと、貝塚港に続く道にぶつかります。道路の向こう側に鳥貴族と書かれているビルが見えます。左折します。

目の前に南海電鉄の蛸地蔵7号踏切がありました。関西空港行きのラピートが通過していきました。

そこからまっすぐ貝塚港に向かって進みます。右側に感田神社や貝塚寺内の寺院を見ながら進みます。10分ぐらいで西町(にしちょう)交差点、水間街道のゴール地点に着きました。大阪市と和歌山市を結ぶ紀州街道(大阪府道204号)に合流します。水間寺に向かった多くの参詣者のスタート地点でした。


水間寺から、並行して走る水間線の駅も訪ねながら、水間街道を歩いてきました。水間街道のルートを確認しながら歩く旅になりました。途中にあったたくさんの地蔵像は、道標の役割も果たしていたはずですが、よく見えなかったのが残念でした。













水間街道を歩く(1)~水間寺から名越駅まで~  

2018年10月08日 | 日記

天台宗別格本山、龍谷山水間寺(みずまでら・以下「水間寺」)です。貝塚市水間にあります。天平年間(729年~749年)に、聖武天皇の勅願により行基が開いた寺院だといわれています。貝塚寺内から水間寺へ参詣するのため、多くの人に利用されてきたのが水間街道でした。水間街道は、また、大阪府の中部地域と貝塚寺内を結ぶ物資輸送のための道としても利用されて来ました。この日は水間街道とほぼ並行して走る水間鉄道水間線(以下「水間線」)の駅も訪ねながら、水間街道を歩いてきました。第1回として、水間寺から名越(なごせ)駅までをまとめてみました。

これは、水間寺の門前、厄除橋の前にあった案内図です。この日は、水間寺から、水間街道を図の右方向に向かって歩きました。

案内図の左方向を、水間寺の門前から撮影しました。水間街道は、水間寺から、さらに、近木(こぎ)川に沿って遡り葛城山頂に向かっていました。

厄除橋のすぐ脇にあった願掛け地蔵です。道中の無事を祈願してから出発しました。

すぐに、分岐点になります。左側の通りを進みます。
 
広い敷地に建つどっしりとしたお宅が続く道を下って行きます。

街道の右側のお宅の入口付近に、道標が見えました。正面に「道陸神社是より二十五町」、右側面に「大正六年三月建立」とありました。下部には「西出藤(以下埋没)、 濱出(以下埋没)」と刻まれています。道陸神社へ向かう参詣者のための道標のようです。道陸(どうろく)神社は、「道陸神を祭神とし、足の神として広く信仰されている神社で、この先の葛城山へ向かう登山道に鎮座」(貝塚市教育委員会の説明文)しているそうです。
 
その先の右側にある喫茶店の脇に「水間観音駅」「龍谷山水間寺」と書かれた道標がありました。「奥貝塚・水間まち並みづくり協議会」によって立てられたものでした。ここで右折すると水間線の水間観音駅に行くことができます。まっすぐ水間街道を進みます。

その先、「オークワ」というスーパーの看板が見えてくると、目の前に地蔵堂がありました。「三ツ松辻堂地蔵尊 信者一同」がお祀りしている地蔵堂のようです。右側の道を進みます。

その先で、国道170号線(大阪外環状線)に突き当たります。高架下をくぐって進みます。

高架をくぐると、スーパーに隣接した民家の敷地に突き当たります。右に迂回して進みます。

その先で、木造ののこぎり屋根の工場のような建物が残っていました。写真は少し先から振り返って撮影したものです。被災されたようで、屋根の部分をシートで覆った痛々しい姿です。この先の街道沿いにも被災された家屋が点在していました。この付近に水間線の三ヶ山口(みけやまぐち)駅があるはずです。平成21(2009)年に、それまでの「みかやまぐち」駅から変更されたそうです。駅の東700メートルぐらいにある三ヶ山町から命名されたそうです。

その先を右折します。水間線の貝塚駅行きの電車が通過していきました。水間線は、大正15(1926)年1月30日に、名越駅から水間観音駅(当時は「水間駅」)間が開通して、貝塚駅~水間観音駅間の全線が開業しました。単線ですが、電化路線です。

三ヶ山口駅は、名越駅・水間駅(現水間観音駅)間の開業からかなり遅れ、昭和35(1960)年に開業しました。駅員のいない無人駅です。水間線は、終起点となる貝塚駅と水間観音駅以外は無人駅になっています。踏切の向こう側、貝塚駅方面に向かって右側に1面1線のホームが見えました。踏切を渡り右折して進みます。通勤通学に利用されている人の自転車が並ぶ先にホームがありました。水間観音駅との距離は400メートルだそうです。

三ヶ山口駅のホームに入ります。ホームへの入口方面を振り返って撮影しました。改札口がそのまま残されていました。青を基調にした駅は、水間線の各駅に共通するものでした。

水間街道に戻って、先に進みます。街道の両側に、かつての農村集落をしのばせる豪壮なお宅が続いています。

通りの右前のお宅と街道の間に、石碑らしいものが見えました。

「八丁」と刻まれています。街道に一町(約108メートル)ごとに置かれていた「丁石」のようです。

さらに進みます。交差点の右側に「松本」と書かれた看板が見えます。ここを右に進むと、三ツ松1号踏切があります。この日歩いた貝塚市中部の地域は、明治22(1889)年に、大阪府南郡(当時)内の水間村、三ツ松村、森村、名越村と清児村が合併して南郡木島(きしま)村となりました。その後、昭和10(1935)年に、当時の泉南郡貝塚町に編入されたそうです。合併前の村名が、並行して走る水間線の駅名に、今も残っています。三ツ松(みつまつ)駅もその一つです。

三ツ松1号踏切から見た三ツ松駅です。この駅は、名越駅・水間駅間が開業したときに設置されました。貝塚方面に向かって左側に1面1線のホームが見えます。三ツ松1号踏切からホームに上がっていく構造です。

ホームに入りました。駅名標です。どの駅もこのスタイルで統一されています。三ツ松駅は、三ヶ山口駅から400メートルのところにありました。

街道に戻ります。このあたりもかつての雰囲気を残す通りになっていました。通りの左側に見えるお宅の向かい側のブロック塀の角に祠が見えました。

これが、その祠にあった地蔵尊像です。赤い布に覆われていて見えないのですが、道標の役割もある地蔵だそうです。

20メートルぐらい先の左側に木島小学校の敷地がありました。小学校の向い側、右側には三ツ松町会館。祭礼の飾り付けがなされています。

三ツ松町会館の先で、街道は右と左にゆるやかにカーブします。やがて、街道の右側に、水間線森駅の青いベンチとホームの上屋が見えました。

その先に青い幌のついたお店、東神セキュリティがありました。この前で右折して森駅に向かいます。名越8号踏切を渡った先にヤマサキストアが見えました。森駅は、名越駅・水間駅が開業したときに設置されました。

森駅へは、ヤマサキストアの前を右折してホームに向かうことになります。森駅にはホームの裏に駐輪場が整備されていましたので、ゆったりとした雰囲気です。ホームに上り切ったところに、かつての改札口の一部が残っていました。この駅も1面1線のホームが貝塚方面に向かって右側にありました。三ツ松駅から400メートルのところに設置されています。

自動販売機、ベンチ、掲示物、ホームの様子も、他の水間線の駅と同じような雰囲気でした。

ホームにあった掲示物です。駅名のところが欠けていますが、森駅のものです。奥貝塚・水間まち並みづくり協議会が作成された沿線のガイドです。

その中にあった、水間街道のルートマップです。水間街道を歩くのに、大変参考になりました。

水間街道に戻りました。貝塚方面に向かって歩きます。その先で桝形に入ります。左に曲がり、次に右に曲がります。その後は直線のコースになりました。水間線の名越(なごせ)駅までの中間地点に入りました。

右側に森稲荷神社がありました。「古くから木島谷の総社と呼ばれていたが、創建、移転の年代は不明。江戸時代には岸和田藩主、岡部氏が田畑を寄進した」、「明治5(1972)年に村社となり、明治41(1908)年に木島村内の8社が合祀された」と境内にあった「案内」には書かれていました。なお、水間線の森駅は、当初の計画では、ここ森稲荷神社付近に設置される予定だったそうですが、水間線の創設者の親族の方が住んでおられたということで、現在地に変更して設置されたそうです。

現在の三間社流造りの社殿は、江戸時代中期の建設とされています。祭礼の前の時期でしたので、地元の人々が、準備のために慌ただしく立ち働いておられました。

境内にあった不動堂です。不動堂は、神仏習合の時代、稲荷神社の社僧(神宮寺)であった青松寺の一部だったそうです。元禄年間(1688年~1704年)には、真言宗仁和寺の末寺で、岸和田藩の庇護を受けて整備されたそうです。ここにあった鐘堂(17世紀の末の建設)は、昭和24(1949)年に貝塚寺内の中心、願泉寺に移され、平成5(1993)年、国の重要文化財に指定されたそうです。

街道に戻り貝塚方面に向かって進みます。のこぎり屋根の工場の跡が残っていました。こちらは被災を免れたようです。
 
かつての雰囲気を残す通りを、次の水間線名越駅に向かって歩きます。このあたりから、再び建坪の広い民家が続くようになりました。 

やがて、名越1号踏切を渡ります。踏切の左側に名越駅がありました。水間線唯一の行き違いができるホームがある駅です。

踏切を渡った向こう側を左折して進みます。たくさんの自転車が並ぶ中をホームに向かいます。敷石のある構内踏切を渡ってホームに出ました。大正14(1925)年に水間線が開業したときから、現在の水間観音駅まで延伸開業するまでの約1ヶ月間、終着駅になっていました。

水間観音駅側からホームに入ります。正面左側の1番ホームは貝塚方面行きの乗車口が、右側の2番ホームは水間観音駅行きの乗車口があります。水間線の電車はこの駅で行き違いをしています。森駅から1.1km。水間線の最長区間になっています。

電車が入ってきました。グリーンのラインの貝塚駅行きの1005号車と1006号車の2両編成とオレンジのラインの1007号車と1008号車の2両編成の交換です。いずれも、平成2(1990)年に、水間線が電圧を1500ボルトに昇圧したとき、東急電鉄から転籍してきた車両です。

ホームにあった奥貝塚・水間まち並みづくり協議会が作成されたルートマップです。名越駅の名越1号踏切を渡った水間街道は、この後、少しづつ水間線から離れて貝塚寺内へ向かって行きます。

水間街道を歩く旅の第1回は、名越駅でひとまず終わりました。
かつての雰囲気を残す懐かしい家並みを見ながら、歴史を訪ねる旅になりました。