岡山大学の図書館が所蔵している「池田家文書」
その中の、「岡山城内曲輪絵図」(宝永5年=1708年)を持って、
岡山市内の石関町、天神町、弓之町、蕃山町を歩くイベントに参加しました
「絵地図をもって岡山城下町を歩く」という岡山大学図書館の主催事業でした
岡山市教育委員会文化財副専門監の説明を聞いて、
楽しく学ぶことができました
せっかく勉強したので、忘れないうちに、まとめておくことにしました
集合は岡山市民会館の北側、旭川に面した石山公園でした
石山は、岡山、天神山とともに、かつて小高い丘だったところで、
旧NHKの放送会館があったあたりがそれにあたります
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/64/adee221b569dd2ec1909392e3e4a9288.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/74/99dc080ddacfdb55d080ef56ecc90fd8.jpg)
絵図の右側の青色の部分は旭川です
その他の青色は堀を示しており、絵図の上部に左右に描かれているところは外堀です
関ヶ原の戦いで、東軍の勝利に貢献して、岡山城を継いだ小早川秀秋が
二十日間の突貫工事でつくったといわれる「二十日堀」です
右の写真がその外堀の部分で、絵図の右側に向かって撮りました
写真の右手には就実学園があり、写真の先の高い部分が新鶴見橋です
かつての外堀の延長線上にかかっているのが、新鶴見橋というわけです
また、外堀は絵図の左で下に曲がっていますが、そこは現在の番町交差点です
下に向かう外堀は、柳川交差点を越えて、大雲寺交差点の南まで続いていました
緑色の部分は、堀の城内側の部分につくられていた土手を示しています
旭川沿いに見える黄色の部分は、出石町や石関町などの町屋を表しています
赤く見えるのところは、道や広場などを表しています
絵図の中央部に左上に向かう斜めの道と
旭川の近くの町屋の中にあるS字にゆるやかに曲がる道が目につきます
うすい茶色に見えるところが武家地で、屋敷を拝領した人の名前が残されています
なお、名前は、その屋敷の門があった方に、頭が来るように書かれています
岡山市は、桃太郎大通りなどの大きな道路は例外として、
10~5mの道路は、ほぼ江戸時代からの街路がそのまま使われています
絵図の中の武家屋敷には名前が残っているため、街路が当時のままなら
今のどのあたりに、当時誰が住んでいたかがわかります
過去にこの世に生きていた人が、
姿を現わしてくることがは、すごく楽しいことですね
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/19/be/3de1f9bbbc068e2f3878cb20d964fa2d.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/c1/fd89792d42c62b4f79936571e07ee2a8.jpg)
城下町の全体を表した地図の、右下の島に見えるようなところが
西の丸で(絵図には「西之御丸」と書かれています)、
池田光政が隠居したところとして知られています
旧内山下小学校の建物があるところです
また、絵地図の茶色に見えるところ(石垣部分と思われます)の一部が、
右の写真の横断歩道の部分にあたります
ここは、岡山市立オリエント美術館付近とホテルエクセルの脇を結ぶ横断歩道です
そして、向かいの岡山シンフォニーホールまで、
石山公園より低くなっているところが岡山城内堀の部分です
シンフォニーホールのあたりに、平成元年の岡山市教育委員会の発掘によって、
石垣があったことが確認されています
内堀の東側は全日信販の脇の路地に残る、西の丸の石垣まで続いていたといわれます
この間の距離はおよそ50m、鉄砲の弾を撃たれても大丈夫という設計になっていました
絵図の西の丸のところに、
旭川が内側に入り込んでいて、青色ではなく、茶色っぽく描かれているところがあります
現在、ホテルエクセルがあるあたりになります
このあたりが、旭川から内堀に水を引き込んでいたところです
平成元年に行われた発掘で、
ホテルエクセル付近の内堀に、70cmの木の箱をつなぎ
(木製の樋にして)暗渠をつくり、
旭川から水を取り入れていたことが明らかになりました
内堀の方が旭川より水位が低いためにできたことでした
石山公園のあるところからこの横断歩道までは、
細い道でつながっていたことがわかります
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/82/54420182cedfa0d53f460157acb8b7b8.jpg)
城下の横断歩道からホテルエクセルの裏の道に入って、
最初の三差路を左折すると、写真の道に入ります
この道は、写真の先でさらに左方向にゆるやかにカーブしています
岡山神社(江戸時代の酒折宮)に向かう道ですが、
最初にあげた、絵地図上でもS字に見えるところです
となりの地図の右の部分に「石関町」とある道がそれで、
当時は、町家が続いていました
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/1b/58cf40f64166be223b1d2275c6968ae4.jpg)
ちなみに、絵地図中の赤い部分が広がっているところは、
岡山県福祉会館前の広い道の部分です
その広い道の近くには、
「(御野)郡会所」や「社倉米御蔵」が
町家に接して設けられていました
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/09/1f074fe94845196b24ad67fdcaa7704b.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/59/50a9c95c34cd4a852b6ab01f4cff2b84.jpg)
通りを渡って、岡山市立オリエント美術館の西の道を
駅方向に向かうと、すぐに、右側に甚九郎稲荷の鳥居が見えます
江戸時代には、このあたりまで上之町(現表町)が、
桃太郎大通りを越えて続いていました
(もちろん、桃太郎大通りは江戸時代にはありません)
さらにこの道を進み、上之町の通りを右折してすぐのところに、
右の写真で女性が見えるあたりまで、甚九郎橋が中堀に架かっていました
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/99/99771f93b21fe28d918023f7db7d2d48.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/22/b9e6b4c0e85d0abad57f2907e0c8aeaf.jpg)
上の絵図の上方の道は、碁盤目状ではなく斜めに走っています
前に書いた斜めの道です
絵図の中央部の「内匠殿」と屋敷名を記された、
天神山の形に沿うようにつくられたからでしょう
右の写真の建物は、
「内匠殿」(鴨方藩池田氏)と絵図に記されたところにある、
天神山文化プラザと県立美術館ですが、
この石垣のところまで土手と中堀がありました
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/32/74cc945d0d4632774bef9f9f64d6b826.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/52/3b7f4d7e898627cdf31e4a0db98795e7.jpg)
この斜めの道が三差路になるところ(上の絵図の鋭角になったところ)の、
右側に「津田」と書かれた屋敷があります
ここが、岡山藩の土木・水利事業に大きな功績があった、
津田永忠の生家といわれています
現在は、上の写真の、マンションと寿司屋、駐車場が並んでいる一角です
永忠は後に、功績を認められ
栄町のあたりに、屋敷を拝領したようですが・・・
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/0c/9bb6533abde43e6f3f14748b783e6ae3.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0b/a4/edb3ad9d1d9ac17bdcf69e9adf1fb635.jpg)
津田永忠の生家跡の駐車場のところを左折すると、
(つまり、斜めの道を三差路の鋭角のところを右折して
すぐ最初の道をまた左折すると)
岡山中央小学校と就実学園の間の通りに入ります
中央小学校の給食棟のあたりから土手ののり面になり、
その先が外堀となります
発掘の結果、外堀には石垣はなく、
緩やかに深くなっていっていることがわかりました
土手と外堀で、およそ50メートル程度であり、
右の写真の番町(中下級武士の町)の手前まで、
外堀があったそうです
中央小学校の裏の外堀のところを左折し、
番町交差点の一つ手前を左折して、
岡山中央中学校に向かって進みます
この道は、絵図では途中で鍵形に曲がっていますが、
現在ではまっすぐな道に変わっています
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/36/91/2d1f57d46d51b39fd8ce0fd46433c755.jpg)
備前県民局の場所は、絵図では「明」と書かれています
当時は空き地になっていたようです
ここは、後に牢屋敷になったところです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/06/ff/54d05465a939582dbeeb13c7c6c14e35.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/ca/9fe3b68244be52b23e95c11e9ceacd85.jpg)
中学校に沿う道(絵図の時代には道はなく、武家屋敷の中)を右折して、
岡山藩学校跡に着きました
寛文6(1666)年に、池田光政と津田永忠らがつくったものです
家臣の子弟に、家臣としての心得を身につけさせるため、
儒教を中心にした教育を行っていました
全国でも1,2といわれるぐらい早い時期につくられた学校です
現在、学校跡には泮池(はんち)が残っています
中国の周の時代には、
「皇帝が行っている学校は全円で、諸侯が行うものは半円」という考え方があり
池田氏はそれにしたがって、半円の泮池にしたそうです
池の中には、蓮の花が咲いていました
絵図の「学校」と書かれた右に、白く見えるところがあります
そこには「学校」の敷地内に紙が貼られていて、
「池田主膳殿御屋敷」と書かれています
池田光政の子、綱政の時に、学校の一部が武家屋敷に転換されたことを、
絵図が語ってくれています
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/64/667f6df67643f1fba0e2637382e71cdb.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/62/f2ff43f3a717ef49b90fd16c3b0996a2.jpg)
絵図を見ると、学校の西(右の絵図では上の方)は、
外堀の土手に面していたようです
また、右の絵図の左上の赤い部分が柳川(現在の柳川ロータリー)です
ここは、一番上の絵図で、枡形のようにつくられているところです
絵図には、枡形の部分が「土手長ニ拾間」と書かれ、
堀のところに「拾六間」と書かれています
併せて36間、
当時の一間は6尺5寸で、約197cmといわれていますから、約72m
ずいぶん大きなものでした
「絵図をもって岡山城下町を歩く」イベントは
柳川で解散ということになりました
2時間ちょっとの時間でしたが、
江戸時代の武家屋敷や城下町の様子にふれることができた、
楽しい時間になりました
その中の、「岡山城内曲輪絵図」(宝永5年=1708年)を持って、
岡山市内の石関町、天神町、弓之町、蕃山町を歩くイベントに参加しました
「絵地図をもって岡山城下町を歩く」という岡山大学図書館の主催事業でした
岡山市教育委員会文化財副専門監の説明を聞いて、
楽しく学ぶことができました
せっかく勉強したので、忘れないうちに、まとめておくことにしました
集合は岡山市民会館の北側、旭川に面した石山公園でした
石山は、岡山、天神山とともに、かつて小高い丘だったところで、
旧NHKの放送会館があったあたりがそれにあたります
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/64/adee221b569dd2ec1909392e3e4a9288.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/74/99dc080ddacfdb55d080ef56ecc90fd8.jpg)
絵図の右側の青色の部分は旭川です
その他の青色は堀を示しており、絵図の上部に左右に描かれているところは外堀です
関ヶ原の戦いで、東軍の勝利に貢献して、岡山城を継いだ小早川秀秋が
二十日間の突貫工事でつくったといわれる「二十日堀」です
右の写真がその外堀の部分で、絵図の右側に向かって撮りました
写真の右手には就実学園があり、写真の先の高い部分が新鶴見橋です
かつての外堀の延長線上にかかっているのが、新鶴見橋というわけです
また、外堀は絵図の左で下に曲がっていますが、そこは現在の番町交差点です
下に向かう外堀は、柳川交差点を越えて、大雲寺交差点の南まで続いていました
緑色の部分は、堀の城内側の部分につくられていた土手を示しています
旭川沿いに見える黄色の部分は、出石町や石関町などの町屋を表しています
赤く見えるのところは、道や広場などを表しています
絵図の中央部に左上に向かう斜めの道と
旭川の近くの町屋の中にあるS字にゆるやかに曲がる道が目につきます
うすい茶色に見えるところが武家地で、屋敷を拝領した人の名前が残されています
なお、名前は、その屋敷の門があった方に、頭が来るように書かれています
岡山市は、桃太郎大通りなどの大きな道路は例外として、
10~5mの道路は、ほぼ江戸時代からの街路がそのまま使われています
絵図の中の武家屋敷には名前が残っているため、街路が当時のままなら
今のどのあたりに、当時誰が住んでいたかがわかります
過去にこの世に生きていた人が、
姿を現わしてくることがは、すごく楽しいことですね
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/19/be/3de1f9bbbc068e2f3878cb20d964fa2d.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/c1/fd89792d42c62b4f79936571e07ee2a8.jpg)
城下町の全体を表した地図の、右下の島に見えるようなところが
西の丸で(絵図には「西之御丸」と書かれています)、
池田光政が隠居したところとして知られています
旧内山下小学校の建物があるところです
また、絵地図の茶色に見えるところ(石垣部分と思われます)の一部が、
右の写真の横断歩道の部分にあたります
ここは、岡山市立オリエント美術館付近とホテルエクセルの脇を結ぶ横断歩道です
そして、向かいの岡山シンフォニーホールまで、
石山公園より低くなっているところが岡山城内堀の部分です
シンフォニーホールのあたりに、平成元年の岡山市教育委員会の発掘によって、
石垣があったことが確認されています
内堀の東側は全日信販の脇の路地に残る、西の丸の石垣まで続いていたといわれます
この間の距離はおよそ50m、鉄砲の弾を撃たれても大丈夫という設計になっていました
絵図の西の丸のところに、
旭川が内側に入り込んでいて、青色ではなく、茶色っぽく描かれているところがあります
現在、ホテルエクセルがあるあたりになります
このあたりが、旭川から内堀に水を引き込んでいたところです
平成元年に行われた発掘で、
ホテルエクセル付近の内堀に、70cmの木の箱をつなぎ
(木製の樋にして)暗渠をつくり、
旭川から水を取り入れていたことが明らかになりました
内堀の方が旭川より水位が低いためにできたことでした
石山公園のあるところからこの横断歩道までは、
細い道でつながっていたことがわかります
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/82/54420182cedfa0d53f460157acb8b7b8.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/b3/2eb52b5fc773e8d8b5cc32ac43aeb9ab.jpg)
城下の横断歩道からホテルエクセルの裏の道に入って、
最初の三差路を左折すると、写真の道に入ります
この道は、写真の先でさらに左方向にゆるやかにカーブしています
岡山神社(江戸時代の酒折宮)に向かう道ですが、
最初にあげた、絵地図上でもS字に見えるところです
となりの地図の右の部分に「石関町」とある道がそれで、
当時は、町家が続いていました
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/1b/58cf40f64166be223b1d2275c6968ae4.jpg)
ちなみに、絵地図中の赤い部分が広がっているところは、
岡山県福祉会館前の広い道の部分です
その広い道の近くには、
「(御野)郡会所」や「社倉米御蔵」が
町家に接して設けられていました
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/09/1f074fe94845196b24ad67fdcaa7704b.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/59/50a9c95c34cd4a852b6ab01f4cff2b84.jpg)
通りを渡って、岡山市立オリエント美術館の西の道を
駅方向に向かうと、すぐに、右側に甚九郎稲荷の鳥居が見えます
江戸時代には、このあたりまで上之町(現表町)が、
桃太郎大通りを越えて続いていました
(もちろん、桃太郎大通りは江戸時代にはありません)
さらにこの道を進み、上之町の通りを右折してすぐのところに、
右の写真で女性が見えるあたりまで、甚九郎橋が中堀に架かっていました
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/99/99771f93b21fe28d918023f7db7d2d48.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/22/b9e6b4c0e85d0abad57f2907e0c8aeaf.jpg)
上の絵図の上方の道は、碁盤目状ではなく斜めに走っています
前に書いた斜めの道です
絵図の中央部の「内匠殿」と屋敷名を記された、
天神山の形に沿うようにつくられたからでしょう
右の写真の建物は、
「内匠殿」(鴨方藩池田氏)と絵図に記されたところにある、
天神山文化プラザと県立美術館ですが、
この石垣のところまで土手と中堀がありました
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/32/74cc945d0d4632774bef9f9f64d6b826.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/52/3b7f4d7e898627cdf31e4a0db98795e7.jpg)
この斜めの道が三差路になるところ(上の絵図の鋭角になったところ)の、
右側に「津田」と書かれた屋敷があります
ここが、岡山藩の土木・水利事業に大きな功績があった、
津田永忠の生家といわれています
現在は、上の写真の、マンションと寿司屋、駐車場が並んでいる一角です
永忠は後に、功績を認められ
栄町のあたりに、屋敷を拝領したようですが・・・
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/0c/9bb6533abde43e6f3f14748b783e6ae3.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0b/a4/edb3ad9d1d9ac17bdcf69e9adf1fb635.jpg)
津田永忠の生家跡の駐車場のところを左折すると、
(つまり、斜めの道を三差路の鋭角のところを右折して
すぐ最初の道をまた左折すると)
岡山中央小学校と就実学園の間の通りに入ります
中央小学校の給食棟のあたりから土手ののり面になり、
その先が外堀となります
発掘の結果、外堀には石垣はなく、
緩やかに深くなっていっていることがわかりました
土手と外堀で、およそ50メートル程度であり、
右の写真の番町(中下級武士の町)の手前まで、
外堀があったそうです
中央小学校の裏の外堀のところを左折し、
番町交差点の一つ手前を左折して、
岡山中央中学校に向かって進みます
この道は、絵図では途中で鍵形に曲がっていますが、
現在ではまっすぐな道に変わっています
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/36/91/2d1f57d46d51b39fd8ce0fd46433c755.jpg)
備前県民局の場所は、絵図では「明」と書かれています
当時は空き地になっていたようです
ここは、後に牢屋敷になったところです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/06/ff/54d05465a939582dbeeb13c7c6c14e35.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/ca/9fe3b68244be52b23e95c11e9ceacd85.jpg)
中学校に沿う道(絵図の時代には道はなく、武家屋敷の中)を右折して、
岡山藩学校跡に着きました
寛文6(1666)年に、池田光政と津田永忠らがつくったものです
家臣の子弟に、家臣としての心得を身につけさせるため、
儒教を中心にした教育を行っていました
全国でも1,2といわれるぐらい早い時期につくられた学校です
現在、学校跡には泮池(はんち)が残っています
中国の周の時代には、
「皇帝が行っている学校は全円で、諸侯が行うものは半円」という考え方があり
池田氏はそれにしたがって、半円の泮池にしたそうです
池の中には、蓮の花が咲いていました
絵図の「学校」と書かれた右に、白く見えるところがあります
そこには「学校」の敷地内に紙が貼られていて、
「池田主膳殿御屋敷」と書かれています
池田光政の子、綱政の時に、学校の一部が武家屋敷に転換されたことを、
絵図が語ってくれています
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/64/667f6df67643f1fba0e2637382e71cdb.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/62/f2ff43f3a717ef49b90fd16c3b0996a2.jpg)
絵図を見ると、学校の西(右の絵図では上の方)は、
外堀の土手に面していたようです
また、右の絵図の左上の赤い部分が柳川(現在の柳川ロータリー)です
ここは、一番上の絵図で、枡形のようにつくられているところです
絵図には、枡形の部分が「土手長ニ拾間」と書かれ、
堀のところに「拾六間」と書かれています
併せて36間、
当時の一間は6尺5寸で、約197cmといわれていますから、約72m
ずいぶん大きなものでした
「絵図をもって岡山城下町を歩く」イベントは
柳川で解散ということになりました
2時間ちょっとの時間でしたが、
江戸時代の武家屋敷や城下町の様子にふれることができた、
楽しい時間になりました