トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

絵地図を持って歩く岡山城下町

2010年09月26日 | 日記
岡山大学の図書館が所蔵している「池田家文書」
その中の、「岡山城内曲輪絵図」(宝永5年=1708年)を持って、
岡山市内の石関町、天神町、弓之町、蕃山町を歩くイベントに参加しました
「絵地図をもって岡山城下町を歩く」という岡山大学図書館の主催事業でした
岡山市教育委員会文化財副専門監の説明を聞いて、
楽しく学ぶことができました
せっかく勉強したので、忘れないうちに、まとめておくことにしました

集合は岡山市民会館の北側、旭川に面した石山公園でした
石山は、岡山、天神山とともに、かつて小高い丘だったところで、
旧NHKの放送会館があったあたりがそれにあたります


絵図の右側の青色の部分は旭川です
その他の青色は堀を示しており、絵図の上部に左右に描かれているところは外堀です
関ヶ原の戦いで、東軍の勝利に貢献して、岡山城を継いだ小早川秀秋が
二十日間の突貫工事でつくったといわれる「二十日堀」です

右の写真がその外堀の部分で、絵図の右側に向かって撮りました
写真の右手には就実学園があり、写真の先の高い部分が新鶴見橋です
かつての外堀の延長線上にかかっているのが、新鶴見橋というわけです
 
また、外堀は絵図の左で下に曲がっていますが、そこは現在の番町交差点です
下に向かう外堀は、柳川交差点を越えて、大雲寺交差点の南まで続いていました

緑色の部分は、堀の城内側の部分につくられていた土手を示しています
旭川沿いに見える黄色の部分は、出石町や石関町などの町屋を表しています

赤く見えるのところは、道や広場などを表しています
絵図の中央部に左上に向かう斜めの道と
旭川の近くの町屋の中にあるS字にゆるやかに曲がる道が目につきます

うすい茶色に見えるところが武家地で、屋敷を拝領した人の名前が残されています
なお、名前は、その屋敷の門があった方に、頭が来るように書かれています

岡山市は、桃太郎大通りなどの大きな道路は例外として、
10~5mの道路は、ほぼ江戸時代からの街路がそのまま使われています
絵図の中の武家屋敷には名前が残っているため、街路が当時のままなら
今のどのあたりに、当時誰が住んでいたかがわかります

過去にこの世に生きていた人が、
姿を現わしてくることがは、すごく楽しいことですね



城下町の全体を表した地図の、右下の島に見えるようなところが
西の丸で(絵図には「西之御丸」と書かれています)、
池田光政が隠居したところとして知られています
旧内山下小学校の建物があるところです

また、絵地図の茶色に見えるところ(石垣部分と思われます)の一部が、
右の写真の横断歩道の部分にあたります
ここは、岡山市立オリエント美術館付近とホテルエクセルの脇を結ぶ横断歩道です

そして、向かいの岡山シンフォニーホールまで、
石山公園より低くなっているところが岡山城内堀の部分です
シンフォニーホールのあたりに、平成元年の岡山市教育委員会の発掘によって、
石垣があったことが確認されています

内堀の東側は全日信販の脇の路地に残る、西の丸の石垣まで続いていたといわれます
この間の距離はおよそ50m、鉄砲の弾を撃たれても大丈夫という設計になっていました

絵図の西の丸のところに、
旭川が内側に入り込んでいて、青色ではなく、茶色っぽく描かれているところがあります
現在、ホテルエクセルがあるあたりになります
このあたりが、旭川から内堀に水を引き込んでいたところです

平成元年に行われた発掘で、
ホテルエクセル付近の内堀に、70cmの木の箱をつなぎ
(木製の樋にして)暗渠をつくり、
旭川から水を取り入れていたことが明らかになりました
内堀の方が旭川より水位が低いためにできたことでした

石山公園のあるところからこの横断歩道までは、
細い道でつながっていたことがわかります


城下の横断歩道からホテルエクセルの裏の道に入って、
最初の三差路を左折すると、写真の道に入ります
この道は、写真の先でさらに左方向にゆるやかにカーブしています
岡山神社(江戸時代の酒折宮)に向かう道ですが、
最初にあげた、絵地図上でもS字に見えるところです
となりの地図の右の部分に「石関町」とある道がそれで、
当時は、町家が続いていました


ちなみに、絵地図中の赤い部分が広がっているところは、
岡山県福祉会館前の広い道の部分です
その広い道の近くには、
「(御野)郡会所」や「社倉米御蔵」が
町家に接して設けられていました


通りを渡って、岡山市立オリエント美術館の西の道を
駅方向に向かうと、すぐに、右側に甚九郎稲荷の鳥居が見えます
江戸時代には、このあたりまで上之町(現表町)が、
桃太郎大通りを越えて続いていました
(もちろん、桃太郎大通りは江戸時代にはありません)

さらにこの道を進み、上之町の通りを右折してすぐのところに、
右の写真で女性が見えるあたりまで、甚九郎橋が中堀に架かっていました


上の絵図の上方の道は、碁盤目状ではなく斜めに走っています
前に書いた斜めの道です
絵図の中央部の「内匠殿」と屋敷名を記された、
天神山の形に沿うようにつくられたからでしょう
右の写真の建物は、
「内匠殿」(鴨方藩池田氏)と絵図に記されたところにある、
天神山文化プラザと県立美術館ですが、
この石垣のところまで土手と中堀がありました


この斜めの道が三差路になるところ(上の絵図の鋭角になったところ)の、
右側に「津田」と書かれた屋敷があります
ここが、岡山藩の土木・水利事業に大きな功績があった、
津田永忠の生家といわれています
現在は、上の写真の、マンションと寿司屋、駐車場が並んでいる一角です
永忠は後に、功績を認められ
栄町のあたりに、屋敷を拝領したようですが・・・


津田永忠の生家跡の駐車場のところを左折すると、
(つまり、斜めの道を三差路の鋭角のところを右折して
すぐ最初の道をまた左折すると)
岡山中央小学校と就実学園の間の通りに入ります

中央小学校の給食棟のあたりから土手ののり面になり、
その先が外堀となります
発掘の結果、外堀には石垣はなく、
緩やかに深くなっていっていることがわかりました
土手と外堀で、およそ50メートル程度であり、
右の写真の番町(中下級武士の町)の手前まで、
外堀があったそうです

中央小学校の裏の外堀のところを左折し、
番町交差点の一つ手前を左折して、
岡山中央中学校に向かって進みます
この道は、絵図では途中で鍵形に曲がっていますが、
現在ではまっすぐな道に変わっています


備前県民局の場所は、絵図では「明」と書かれています
当時は空き地になっていたようです
ここは、後に牢屋敷になったところです。


中学校に沿う道(絵図の時代には道はなく、武家屋敷の中)を右折して、
岡山藩学校跡に着きました

寛文6(1666)年に、池田光政と津田永忠らがつくったものです
家臣の子弟に、家臣としての心得を身につけさせるため、
儒教を中心にした教育を行っていました
全国でも1,2といわれるぐらい早い時期につくられた学校です
現在、学校跡には泮池(はんち)が残っています

中国の周の時代には、
「皇帝が行っている学校は全円で、諸侯が行うものは半円」という考え方があり
池田氏はそれにしたがって、半円の泮池にしたそうです
池の中には、蓮の花が咲いていました

絵図の「学校」と書かれた右に、白く見えるところがあります
そこには「学校」の敷地内に紙が貼られていて、
「池田主膳殿御屋敷」と書かれています
池田光政の子、綱政の時に、学校の一部が武家屋敷に転換されたことを、
絵図が語ってくれています



絵図を見ると、学校の西(右の絵図では上の方)は、
外堀の土手に面していたようです
また、右の絵図の左上の赤い部分が柳川(現在の柳川ロータリー)です

ここは、一番上の絵図で、枡形のようにつくられているところです
絵図には、枡形の部分が「土手長ニ拾間」と書かれ、
堀のところに「拾六間」と書かれています
併せて36間、
当時の一間は6尺5寸で、約197cmといわれていますから、約72m
ずいぶん大きなものでした

「絵図をもって岡山城下町を歩く」イベントは
柳川で解散ということになりました

2時間ちょっとの時間でしたが、
江戸時代の武家屋敷や城下町の様子にふれることができた、
楽しい時間になりました

野良時計と土居廓中

2010年09月23日 | 日記
民家の屋根に大きな時計があって、
農作業にいそしむ人たちに時刻を知らせていたと聞いたときから、
ずいぶん時間が経ちました
「野良時計」のある街、「安芸市」を訪ねてからも、たくさんの時間が経ちました

私には、今どうなっているのか、気になることがあるのです 


JR土讃線の後免駅で、土佐くろしお鉄道に乗り換えました
 
JR四国は「あんぱんまん列車」を走らせていますが、
後免駅でも、やなせたかしさんのキャラが迎えてくれました

後免から、タイガースタウンの安芸市民球場を過ぎて、
40分ぐらいで、安芸駅に着きました
土佐くろしお鉄道の駅は、「ぢばさん市場」(地場産市場?)でもありました

ここのレンタサイクルに乗って、
駅から20分ぐらいのところにある、「野良時計」を見に行きました

野菜のビニールハウスが続く中にかかっている、
橋のデザインにも「野良時計」が・・・、
みんな、今も「野良時計」を大事にしているんだと、うれしくなりました 


安芸市は農業がさかんなところで、なつかしい昭和の光景が広がっていました
野良時計のあるお宅も、そんな中にありました
右の写真のお宅の屋根の中央部に、時計塔のてっぺんがほんの少し写っています

ところが、「野良時計」を始めて見たとき、びっくりしてしまいました
なんと、「野良時計」の時間がまったく合っていなかったのです!

農作業をする人を支えていたはずではなかったの?!
野良時計は、もう忘れ去られているの?

地元の人たちも、このお宅の人たちも、
みんなが「野良時計」を大切に思っていると信じ切っていたので
大変ショックでした 

私が訪ねたのは、午後でした 
橋の時計が正確だったかどうか、確認を忘れてしまいましたが、
少なくとも、橋の時計の方がより正確だったことは間違いありません

もう、みんな、この時計をあてにしなくなったのでしょうね?
あてにしなくなっても、せめていつも正確な時間を刻み続けさせてほしかった!!
野良時計のプライドだけは大事にしてほしかった・・・

「時計に魅せられた若者が、独学で外国の時計を勉強し、農作業の人たちに
時刻を教えた」とされる、「野良時計」の由来を見ても、
違った時間のまま放置されていることは、ほんとうに残念なことでした
今はどうなっているのか、ほんとに気になっています


安芸市は、山内家の家臣、五藤氏が治めていたところです
安芸城址の壕と土塁が残っています
また、土居廓中(どいかちゅう)と呼ばれる武家屋敷群や、
それを代表する「野村家」の屋敷が、ほぼ当時のままで残っています

どんなに天候異変があっても、彼岸には必ず咲くといわれる「彼岸花」が
安芸城址に咲いていました



安芸市生まれの作曲家、弘田龍太郎
晩年は、子どものための作品をたくさんつくったといわれています
「鯉のぼり」に「叱られて」など、多くの作品の歌詞と楽譜が
童謡曲碑として、町の中に飾ってありました
変化に富んだデザインで飾られていて、懐かしい気分になりました
せめて、この像だけは、いつまでも大切に残してほしいと思いました



この後、再び、土佐くろしお鉄道の安芸駅に帰りました
ホームにはオープンデッキの電車が入っていました

私は、ここから、土佐くろしお鉄道の「ごめん・なはり線」の終点、
奈半利に向かいました

奈半利でも、駅のキャラが迎えてくれました
ここにも、どっしりとした、白漆喰で塗られた民家が残っていました

奈半利で電車は終わりましたが、
ここからは、さらに、
養老2(718)年にはすでに使われていたという野根山街道が、
野根山の尾根沿いに、東の徳島県東洋町とをつないでいたといわれています

青春18きっぷで訪ねた福知山城下町

2010年09月16日 | 日記
この夏の、青春18きっぷの最後の旅は、福知山にしました

由良川を利用した農産物や製品の集積地として、古くから栄えたところです
今も、下柳町には、
水運にかかわっていた商人の栄華をしのばせる町並みが残っています

丹波、丹後地方は、私には、青春18キップの旅にぴったりのところです
5~6時間かかるのですが、山間部の田園風景が車窓から楽しめるからです
時間が短く感じられるのです

篠山、出石、豊岡、城崎温泉に行ったのも、18きっぷの旅でした

明智光秀がつくった、シャープでスマートな福知山城を見るため
そして、時間があれば、
最近報道されている「サルとイノシシの子が仲良く遊んでいる動物園」を訪ねようと
今回も、朝6時に家を出ました


尼崎から福知山線で行き、帰りは和田山から播但線で姫路に出るコースでした


いつものように、朝6時に家を出て、福知山線の起点、尼崎に向かいました
尼崎駅に立つ、近松門左衛門作「冥途の飛脚」のヒロイン、「梅川」の像、文楽風でした
丹波路快速で篠山口駅、そこで、普通列車に乗り継いで、福知山駅に着きました

 
駅前に、SLが展示されている福知山駅は、超モダンな駅舎でした


食事をすませてから、福知山城に向かいました
福知山城は、予想どおり美しい城でした


天正7(1579)年、丹波地方を平定した明智光秀が築きました
市街地の南から張り出した丘陵にあり、周囲に由良川、土師川が流れる、
白漆喰と板張りの、明智光秀のイメージ通りの品のいい、美しい城です

福知山駅や、本丸には天守閣の鴟尾のレプリカが展示されています
また、城の石垣には、近くにあった五輪塔や宝きょう印塔の石が転用されましたが、
今は、天守閣付近に、それらが集められています
石材を産出するところがなかったからともいわれますが、
一説には、城のお守りにしたともいわれています
年代が刻まれていたものでは、
延文4(1359)年のものが最古のものだったようです

城には井戸が必需品です
「豊磐井」(とよいわいのい)が天守閣の前に残っています
井戸の深さは約50メートル、城郭内の湛水井戸では日本一の深さだそうです
本丸が標高43メートルですから、井戸の底は海面下ということになります
大変な苦労の末に掘られたものでしょう



明智光秀の福知山での治世は長くはありませんでしたが、
人々の記憶には深く刻まれ、市内の御霊神社に祀られました


福知山は、空襲にはあわなかったのでしょうか
街には木造の建物も多くあり、落ち着いた、昭和の雰囲気にあふれています

御霊神社の正面にあたる、メインストリートの広小路の商店街には
福知山音頭の像がたくさん飾られています


「明智光秀 丹波を広め 広め 丹波の福知山」

福知山音頭に歌われたように、全国から人が集まってくる
元気のいい福知山にしてほしいと思いました

平日の午後でしたが、ほとんど観光客に出会うことがありませんでした
広小路には、町おこしに携わる人たちが集う事務所の建物がありました
多くの知恵と努力を結集して、活性化してくださるものと期待しています

心残りは、ガイドブックに載っていた、
正面から天守閣の上層部を撮りたいと思って、
いいアングルを時間をかけてさがしたのですが、
見つけることができなかったことでした

また、時間がなくて、今話題の動物園も訪ねることができませんでした








藩主を凌ぐ経済力を持った豪商の館  須坂市

2010年09月14日 | 日記
 

忠孝第一、堪忍、慈悲、正直をもっぱらに、世とよく推し移り
仁、義、礼、智、信を守り、夫婦、兄弟、親類むつまじく
眷属(けんぞく)の者にいたるまで、憐憫深く、柔和、叮実(ていじつ)にすべく
心懸け、未明より家業油断無く、倹約、質素にくらすべし
勿論、持仏、之、朝夕、懈怠なく、拝礼を遂ぐべく候こと
  寛政6甲寅年4月朔日  

(「忠孝、我慢、正直をもっぱらに生き、一族でよくまとまって
家業に精を出し、質素、倹約に努め、神仏を尊ぶこと」)

これは、江戸時代の中期以降、穀物、菜種油、たばこ、綿、酒造業などを
手広く商い、藩の御用商人として経済力を高めた、
その経済力は藩主を凌いでいたともいわれる、
北信濃屈指の豪商、田中本家の家訓です
田中本家の2代目、新十郎信房が、心得として一族に示したものといわれています

長野市から長野電鉄の電車で約30分、りんご畑の中にある須坂市
「蔵の町」でも知られる須坂市の、
豪商の館、田中本家博物館に残っています

大商人になっても、いや、なったからこそ、その身代を保持していくために
商人の原点を大切にしようと教え諭したものでしょう
「一族でまとまって、質素、倹約、正直に生きる」
多くの商家で引き継がれてきた教えです



旧大笹街道の穀町通りに面した、100メートル四方に20棟の蔵が並ぶ
窓がほとんどなく、外から眺めると、要塞のように見えます
土蔵の土台は、この地方に独特の「ぼたもち石積み」で堅牢に、
そして美しくつくられています
自然の石の形を生かしながら、石と石の間を完全に密着させて並べる、
高度な職人技だそうです



須坂藩は、1万石の小藩で、堀氏が代々藩主の地位にありました
藩主は、この家が、特に気に入り、たびたび、お忍びで訪ねて来たようです
そのときは、この門からお成りになっていました
庭と土蔵の間の道も、屋敷に入るために藩主も歩いたはずです

屋敷も庭もすばらしく豪華です 
今は、一部が改造されて、博物館を訪れる人のためのレストランとして使われています

何よりすばらしいのは、展示してある衣装、美術工芸品や生活用品の数々です
すべて、この家で使用していたものです
「近世の正倉院」といわれていますが、
その名にふさわしい豪華で、保存状態のいいものです



須坂は、田中本家以外にも、見事な蔵が並んでいます

クラシック博物館になっている旧岡家の建物や、町並みもすばらしい美しさでした

長野行きの長野電鉄、須坂駅の2階は、地元の野菜売り場になっていました
ちょうど、特急列車の出発時間でした
100円の特急券が必要でしたが、小田急のロマンスカー(未確認)の4両編成でした
ちなみに、普通列車は東急(未確認)からの転出車両でした


上田城と真田十勇士

2010年09月10日 | 日記
しなの鉄道で、篠ノ井から上田駅に着く直前に、2つの隅櫓が見えます
左が上田城西櫓で、右が南櫓です 
西櫓は、江戸の創建時代のもので、国の重要文化財に指定されています

黒板塀で覆われた上田城は、大きな城ではありませんでしたが、
真田昌幸、幸村父子が、天正13(1585)年と慶長5(1600)年の
二度にわたる戦いで、徳川氏の軍勢を撃退したことで知られています


上田城は、真田昌幸が天正11(1583)年に築城を始めました

南櫓は岩盤のうえに築かれているので、石垣がつくられていないところがあります


関ヶ原の戦いでは真田昌幸と幸村は豊臣方、長男信之は徳川方で戦います
真田の家を存続させるための戦略でした
徳川方の勝利によって、昌幸と幸村は高野山に流されましたが、
長男信之は、松代藩に移り、真田家は、その後明治維新まで250年続いて行きます

しかし、上田城は、過去二回徳川方を撃退していたことも影響したのか、
徹底的に破壊されたということです
真田信之が、松代に持って行こうとした「大きな石」は、根が生えたようにまったく動かず
そのまま上田城に残されたといわれています
それが、大手門の右にある真田石です

現在の上田城は、真田氏の後、この地に来た仙石忠政が
2年の歳月をかけて、寛永5(1628)年に完成したものといわれています
その後、松平氏が藩主となり、明治維新を迎えることになります


藩主の屋敷は、長野県立上田高等学校の敷地にありました
藩主の屋敷の表門は、上田高校の正門として今も現役です
そして、屋敷の周囲にあった堀と白漆喰の土塀も、校舎の周囲に残されています

こんな高等学校で学びたいと思うほど、すばらしい姿でした

また、文化10(1813)年につくられた、藩校の上田文武学校明倫館は、
二の丸門の前にある上田第二中学校の敷地にありました
案内板によれば、
明治の学制発布後から、松平学校、上田学校本校、上田尋常小学校、
上田尋常小学校男子校、上田尋常高等小学校南校部、上田市立南小学校などを経て
現在の上田市立第二中学校になっていったようです


上田公園の中に、上田神社が鎮座していて、 
境内には、真田氏の旗印、六文銭の甲が飾ってありました


大阪冬の陣と夏の陣のとき、真田昌幸と幸村は高野山から呼び出され
再び徳川軍と戦うことになりました
そのとき、徳川方を悩ませたのが、真田十勇士の活躍でした


大手門の前には、観光客の記念撮影のために真田十勇士がつくられています
15分ほど見ていましたが、真田幸村の姿で撮影する子が一番多かったです

上田第二中学校から市役所に向かうメインストリートには、
真田昌幸と幸村に任えたといわれる10人の侍、
真田十勇士についての説明がつくられています

真田十勇士は、1911年、講談を読み物にした立川文庫で始めて使われたそうです
全員が架空の人物といわれますが、モデルになった武士がいるともいわれています


真田十勇士は、
猿飛佐助  霧隠才蔵  禰津(根津)甚八  望月太郎  筧十蔵
三好晴海(入道) 三好伊三(入道) 海野六郎  穴山小助  由利鎌之助
で、三好晴海と伊三は兄弟です

猿飛佐助と霧隠才蔵は忍者、
私たちは、少年時代、体の前に両手で印を結び
ドロンといって姿を消す、二人のまねをして遊んでいました

由利鎌之助は鎖鎌、筧十郎は火縄銃の名手、
禰津(根津)甚八のモデルといわれる人は
水軍の指揮に長けていたといわれています
また、望月六郎は爆弾製造に長けていました


もう一人、上田の人々から尊敬され慕われている人がいます
丸山平八郎氏です

明治7年、政府が全国の城の払い下げを布告し
上田城も西櫓以外は払い下げられたとき
将来を憂いて、本丸付近を一括して買い取って
誰でも入れる公園にすることができました、
上田城を守った功労者です

上田城を築いた人たち、全国に知られる活躍をした家臣団、
そして破壊から守った人、今も城を維持している人々
様々な人の工夫と努力で、上田城は、今日もたくさんの観光客を楽しませています

マツダスタジアムと市民球場、そして広島電鉄・・

2010年09月08日 | 日記
マツダスタジアムは、広々とした敷地にゆったりと建てられています。そして、旧広島市民球場は、すべての装飾品をはぎ取られ、長年の疲れを取るかのように、原爆ドームの向かいで余生を送っています

昨年度から、プロ野球の広島カープは、マツダスタジアムを本拠地球場として公式戦を戦っています。それ以前は、市民球場が本拠地でした。市民球場は、その後も市民の使用が行われていましたが、先日、ついに看板を下ろして閉鎖されました

私は、使われているうちにもう一度見たいと思っていましたが、それも果たせず、閉鎖を迎えてしまいました

先日、マツダスタジアムで阪神戦が行われる日に、久しぶりに、広島に出かけて、二つの球場を見てきました


この日は、15時に試合開始となるデーゲームでしたが、昼前から多くの人が駅前から、マツダスタジアムに向けて歩いていました

駅からおよそ20分から30分ぐらいで着きますが、その途中はカープ一色となっています


球場で応援の先頭に立つキャラクター、スライリーやカープグッズの数々・・・、JRの線路に沿って、広島カープの歴代の有名選手や現在のスター選手の紹介がされています。ローソンもここでは赤色です

今や広島のエースとなり、セリーグを代表する投手となった前田健太選手も、そこで紹介されていました



当日は、試合を見ることなく、広島電鉄の路面電車で市民球場に向かいました。原爆で壊滅していた広島市の復興の象徴として、市民の樽募金も展開されてつくられた、文字通りの市民球場。

失礼なことですが、ふっと思いついて球場に行ってもいつもチケットが手に入る便利な球場。行ったときは、いつもビジターチームの3塁側の内野指定席のうどん売り場に近い最後列の席で、のんびり試合を見ていました。

3塁側のチケット売り場の前の緑の中に、三つの記念碑が残っています。

一つは、広島東洋カープの、日本一の記念碑。近鉄と阪急を相手に三度、日本一になっています。初優勝の写真は、新球場のカープロードで紹介されていました


二つ目は、セントラルリーグの優勝記念碑。六度にわたる優勝の記録が残され、カープの栄光の歴史を伝えてくれています。


三つ目は、連続試合出場の記録を持つ、鉄人、衣笠祥雄の記念碑です。かれは、広島東洋カープの全盛時代を支えた功労者です。そして、市民球場のラストイヤーの写真も、新球場のカープロードで紹介されています

世界遺産の原爆ドーム。戦争の悲惨さも、広島の復興も、そして広島カープの栄光も、市民球場の成立から閉鎖までも・・・、それらのすべてを、道路を線路をはさんだ向かい側から、見守ってきました。


市民球場にいくとき、いつも運んでくれた広島電鉄の路面電車の車両。原爆ドーム駅に、上りと下りの新旧車両が並びました。全国の路面電車が、1両でワンマン運行をしている中、2両編成で、車掌も乗務する体制で運行されています。市内均一で150円、(ちなみに私の住む街の路面電車は160円です)、しかも、新型車両が何台も走っています。経営が安定していることを感じさせる広島電鉄です。

この日も、私の乗った電車は、上りも下りも超満員でした。広島電鉄も、市民が支えているのですね。

市民が支える球団、球場、そして路面電車。広島はいい街だなあとつくづく思いました





旧北国街道の宿場町  上田宿

2010年09月08日 | 日記
しなの鉄道で上田駅にやって着きました
JRの新幹線上田駅と、上田電鉄の上田駅も同居しています。やや狭い感じもしましたが、きれいな駅舎でした。


真田幸村の父、真田昌幸が上田城を築いてから、15年後の慶長3(1598)年、上田城下に北国街道が通るようになりました。


上田市観光課の発行している観光案内図によれば、旧北国街道は、海野宿の方からは、上田市の常田町(写真の右下)に入ります。常田町から、(写真のグレーの道のとおり)、横町、海野町を経て、中央二丁目の信号を右折して北上し、原町から柳町を通り、紺屋町から、長野方面に向かって、城下町を出ていきます。

上田城も見たかったので、常田には行かず、駅前から、旧北国街道沿いの柳町をめざして歩きました。
 
柳町は、上州長野街道が交わる交通の要所にあります。道の脇に、柳並木があったから名付けられたといわれます。商家と旅籠が集まっていて、「文化元(1804)年には呉服店が25店あった」という記録が残っています

現在の柳町には、江戸時代の末期から明治時代にかけての、二階建て平入りの町屋が並ぶ、整然とした美しい町並みが残っています。


北国街道沿いの宿場町の小諸や海野と同じように、立派なうだつや格子がつくられていて、格子は家によって形は違いますが、長短の違いのある木を組み合わせてつくった、「親付き切り子格子」に特色があります。また、味噌を製造している菱屋のなまこ壁が、川の流れに調和して美しく輝いています。



上田市は、新幹線の駅もつくられたこの地域の中心都市です。それにふさわしい活気にあふれる街でした。暑い日でしたが、強い日差しがこの街によく似合っていました。


旧北国街道の宿場町  海野宿

2010年09月05日 | 日記
旧北国街道の宿場町の中で、往事の姿を、最もよくとどめているのが東御市の海野宿です


国の重要伝統的建造物群保存地区の指定を受け、日本の道100選にも選ばれているところです。私は、しなの鉄道で、小諸から田中駅に着きました。

写真の「海野宿」と書かれた案内板は、ここ、田中駅の構内につくられていました。また、駅前には、「田中宿」を示す灯籠が設置されていました。


実は、かつては田中宿に本陣が置かれていたのです。もともと、海野宿は、小諸宿と田中宿の間の宿(あいのしゅく)で、伝馬機能が中心でした。本陣が置かれないなど宿泊機能は、強くはありませんでした。

ところが、寛保2(1742)年、近くを流れる千曲川が氾濫し、田中宿が壊滅したため、本陣が海野宿に移されました。その結果、海野宿は、北国街道の本宿として、享和3(1803)年の記録では、「伝馬屋敷59軒、旅籠23軒」と書かれているように繁栄をきわめることになったのです。

しなの鉄道、田中駅でレンタサイクルを使って(レンタル料 500円)近代的な道を海野宿へ向かいました。田中駅の案内板には「海野宿まで18分」と書かれていましたが、10分ぐらいで、すぐに着きました。

ちょうど、駐車場から、観光バスの一団が降りてきて、いっしょに宿場の中に入りました。びっくり!しました。入り口に近い店の人が飛び出してきて、客引きというか、売り込みを始めたのです。

江戸時代の繁栄ぶりを伝えているのが、「本うだつ」です。火災対策としてつくられました。また、二本づつ長短を組み合わせてつくられた格子も「海野格子」とよばれ、建物の特色となっています。
 

明治になって、田中に鉄道の駅がつくられると、繁栄は再び田中に移っていきました。海野宿は、宿場町から新たな産業である養蚕に重点が移っていきます。
 
養蚕のためには部屋を暖める必要がありました。部屋で火をたいたため、空気抜きのために「小屋根」をつけました。下からひもで引いて、開閉ができるようになっていたそうです。

海野宿資料館の庭には、その建物につけられていた小屋根が、展示されています。近くでみると、結構大きいものでした。

そして、明治になって、養蚕で栄えた頃につくられたのが「袖うだつ」でした。白漆喰で塗られた、どっしりとしたうだつが意匠をこらして、つくられました
 

現在、海野宿では、一戸ごとに屋号が表示され、旧街道の中央に用水路が流れています。それにそって柳並木が連なる美しい町並みが、6町(約650メートル)にわたって続き、訪ねる人を迎えてくれています。

ほんとにすばらしい、町づくりがなされていました。しかし、町に入った時の客引きには、少し違和感がありました。






旧北国街道の宿場町  小諸宿

2010年09月02日 | 日記
中山道の追分宿から、小諸、海野、上田、長野を経て、越後の高田まで
中山道と北陸道をつないでいた北国街道

参勤交代で江戸に向かう大名や家臣たち、佐渡で採掘された金を江戸に輸送する人々、
そして、「牛に引かれて善光寺まいり」の長野の善光寺に参詣する人々などが
行き来してしました

この夏、小諸から海野、上田と、旧北国街道沿いの宿場町を歩きました


といっても、全部歩いたわけではなく
駅と駅の間は、しなの鉄道(旧JR信越本線)を使って移動しました
現在では、新幹線でもたくさんおられますが、しなの鉄道でも、
女性の運転手が活躍していました


「小諸なる古城のほとり 雲白く遊子悲しむ・・」と
島崎藤村の「千曲川旅情のうた」で歌われた「懐古園」
小諸のシンボルとして全国に知られています
また、桜の名所としても知られているところです

小諸駅に到着したとき、小諸城跡は、しなの鉄道によって
分断してされているということに気がつきました

駅のすぐ南に、懐古園の額(徳川家達氏の筆になる)がある三の門、
また、大手門は駅の北側にありました
大手門は、大修理が平成8年に完成し、江戸時代の姿に復元されました
いずれも国の重要文化財に指定されています

追分から小諸に入った北国街道をいく旅人は、
小諸城に比較的近い城下を通っていたようです

旧北国街道に沿って旧本陣問屋が残っていました
問屋は、荷駄の受け渡しをしていたところです
街道に面したところに、「駒つなぎ」が4つあり
往事の繁栄ぶりを伝えてくれていました

本陣問屋から少し進んだところに、脇本陣がありました
今は、図書の販売会社になっていました
 
脇本陣の並びに、山謙酒造が今も営業されていました
正面の、青い看板に書かれている「蔵酒姫百合」や島崎藤村が好んだ「にごり酒」が
今も製造、販売されています


若い日、島崎藤村の「若菜集」に歌われた世界に惹かれて
この地を訪ねた日よりは、はるかに厳しい暑さを感じました

そういえば、懐古園のなかには、島崎藤村の「若菜集」に載っている
「惜別のうた」の石碑が建てられていました
 
強い日差しの午後だったからでしょうか、
町を歩いているとき、ほとんど人に会いませんでした
駅周辺も店舗が閉まっていたり、
「シャッター通り」という言葉を連想してしまいました

元気を出してほしい町、がんばってほしい町でした






若狭街道・熊川宿に行ってきました

2010年09月01日 | 日記
青春18きっぷを使って、若狭街道の熊川宿を訪ねました。暑い暑い夏の日でした。私の近くにいる人も、「行ってよかったよ」と言っていて、私も行かなければと、ずっと考えていました。青春十八きっぷが使えるときをねらって出発しました。

京都で新快速を乗り継いで、湖西線近江今津駅に着きました。ここまで、約280㎞、新快速でしたので、意外に早く来たなあという印象でした。

近江今津駅前から、JR江若線の路線バス(小浜行き)に乗りました。ドライバーさんから、熊川宿の東の入り口に近い橘バス停で下車するよう教えていただきました。とても感じのいいドライバーさんで、バスの時刻表もくださいました。バス停は、幼い頃、村でよく見た、お地蔵さんのお堂を連想するような建物でした。

距離の割に早く着いたと書きましたが、朝6時に家を出てからすでに6時間が過ぎていました。もっとも、途中で1時間乗り継ぎに使いましたが・・・。すぐ、道の駅へ向かい、四季彩館で昼食を食べました。
  
若狭の国は、古代から、朝廷に食料を献上していた御食国(みけつくに)で、魚や貝などの海産物が京都に運ばれていたところです。江戸時代の、18世紀の後半から、能登半島に水揚げされていた鯖が、若狭の国に陸揚げされるようになりました。若狭で塩を振られた鯖は、昼には熊川宿に着きます。さらに、県境の大杉村と水坂峠を越えて、朽木(くちき)、花折(はなおれ)、大原、八瀬を経て、出町柳と一昼夜をかけて京に運ばれ、錦などの市場に並べられました。京に着く頃にはちょうどいい味になっていたといわれています。そのため、若狭街道は、いつの頃からか「鯖街道」と呼ばれるようになりました。

「京は遠ても18里」。運んだ人たちは、40~60kgの荷を背負い、18里の道を駆けていました。熊川では、「負い縄1本あれば生活できる」といわれたそうです。

熊川宿は、豊臣秀吉の家臣で、小浜藩主であった浅野長政が、天正17(1589)年に、諸役を免除したことに始まります。ここが、若狭と近江の国境に近い、交通と軍事の要衝であったためでした。戸数40戸の寒村は、最盛期には200戸を数えたといわれるぐらい、繁栄をきわ
めたといわれています。宿の東入り口に番所が復元されています。「入り鉄砲と出女」の統制と、出入り物資の課税を行っていました。

現在の熊川宿には、電柱も電線も見えません。道路も土の色に似せて舗装されていて、かつての街道の様子をしのぶことができます。街道の両側には、瓦葺きの平入りと妻入りの建物の中に、かつて茅葺きだった屋根をトタンで覆った民家がまざって並び、家並みの前を流れる前川が清らかな水音を立てています。なお、前川は、2008年に平成の名水百選に選ばれています。べんがらで塗った民家の前につくられた「かわと」は、人々の生活と川との結びつきを教えてくれます。

また、街道沿いには、夕涼みや休憩に使う折りたたみ式の縁台である、「がったり」も、残されています。写真は、たばこ屋さんの「がったり」で、座ぶとんとたばこ盆が置いてあり、文字通り一服できます。

茅葺きの屋根が続いていた江戸時代には村全体を焼き尽くしたものも含め、17~18世紀に15回の大火があったといわれています。古くから、道に白い石が現れたら火災が起こるといわれ、権現神社に白い石を火の神、水の神として祀って、火災から町を守っていました。前川も、生活用水や下流の村のかんがい用水のほか、防火用水としても使われていました。今も、町並みを描く人たちのそばを流れ続けています。

中条橋から西は、中ノ町(なかんちょう)となります。道幅も広く、かつての街道で人馬を調達した問屋が、大きな平入りの構えを見せています。町奉行所や本陣、蔵奉行所もつくられていました。

見ていて一番古い民家に見えたのは、上の写真の衣料品店でした。下の写真の倉見屋は、もっとも古い形式の民家だといわれています。本屋と土蔵をつなぐ付属屋が横に三棟並び、荷物の運送にあたった問屋の形式を残しているといわれます。
 
中ノ町と下ノ町(しもんちょう)のさかいにある駐在所も、町並みに解けあっていました。
パトカーがなければ、駐在所と気がつかないと思います。このあたりから雨が降り出しました。両側から山が迫ってくる谷筋にあるため、通り雨がきたのでしょう。かんかん照りの続く毎日からは、想像もできないことでした。

倉見屋さんの向かいに郵便局がありますが、そこに切手のPRがされていました。さっそく中に入って、1シートを求めました。PRには、「残り4シート」とありましたが、実際には、私が買ったのが、最後の1シートだったようです。

東の道の駅から西の駐車場まで、約1300メートルの間、かつての宿場の雰囲気を残して保存、復元されています。若狭の鯖を京に運ぶルートであった若狭街道の宿場町として、また、小浜藩の番所のある町として、繁栄した、かつての姿を、今に伝えてくれています。

平日の旅でしたが、道の駅にもそこそこ人が入っており、駐車場にもかなりの車が停まっていました。町並み保存の動きが、町の活性化に貢献しているとも感じました。「鯖街道」という名前に、ロマンを感じて訪ねてみましたが、江戸時代に返ったような雰囲気のなかを、前川が水音を立てて流れている、期待通りのすてきな町でした。