トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

”東海道第二の宿場町” 桑名宿を歩く

2015年02月23日 | 日記
江戸時代の東海道で最も多い284軒の旅籠があり賑わっていた宮宿(名古屋市)からは「海上七里(約28km)」の海の道でした。

「海上七里(約28km)」の船旅は3~4時間かかったといわれています。旅の終わりは、東海道42番目の宿場桑名宿でした。桑名宿、そして伊勢国の入り口であった「七里の渡し」の現在の姿です。ここは、江戸から96里(384km)、京から30里(120km)のところにあります。

海側から見た七里の渡しです。立派な常夜灯が見えます。かつては、天保4(1833)年建立の常夜灯が建っていましたが、昭和37(1962)年の伊勢湾台風で倒壊してしまったので、上部だけを、市内にある多度大社から移したといわれています。現在の常夜灯には、安政3(1856)年の銘がついているそうです。

「伊勢神宮一の鳥居」が見えます。ここは伊勢神宮の遙拝所でもあります。江戸時代の天明(1871~1879)年間に矢田甚右衛門と大塚与六郎が建立しました。明治以降は伊勢神宮の式年遷宮のたびに宇治橋外の鳥居を削って建て直されているそうです。奥の白いビルがあるところに、かつて脇本陣が置かれていました。右に見えるのは伊勢湾台風の後で設けられた防潮堤で、これによって七里の渡しの姿が、様変わりしてしまいました。

これは歌川広重の「東海道五十三次」の「桑名」の絵です。七里の渡しに面する蟠龍櫓が描かれています。七里の渡しを旅する人の誰しも目にした、桑名のシンボルです。建築年代ははっきりしていないようですが、正保年間(1644~1648)の絵図にも描かれているそうです。「久波奈名所絵図」(享和2=1802年)で、「蟠龍」の名が初めて文献に出たといわれており、それには単層、入母屋造りの櫓の上に「蟠龍瓦」と書かれているそうです。

現在の蟠龍櫓です。「蟠龍」とは龍が天に上る前にうずくまった状態なのだそうです。

「蟠龍瓦」はこれなのでしょうね?七里の渡しに向かって、文字通りうずくまっています。

住吉神社です。正徳5(1715)年に摂津国の住吉大社から勧請したものです。七里の渡しは、中世以来、伊勢神宮などへの年貢米が輸送される「十楽の津」と呼ばれた港湾都市でした。江戸時代になってからも美濃の天領からの年貢米などが江戸に送られており、全国から廻船業者が集まっていました。神社の案内によれば、常夜灯や石鳥居は江戸の材木商が、奥にある狛犬は備前・備中の廻船業者が寄進したものだそうです。

七里の渡しの近くにあった案内図です。桑名宿は天保13(1843)年の調査(東海道宿村大概帳)で、人口8848人(男4390人・女4458人)、家数2544軒で、その内、本陣が2軒、脇本陣が4軒と旅籠が120軒ありました。宮宿に次いで、東海道で2番目の旅籠数でした。七里の渡しの近くに多くの旅籠や役所が集まっていました。しかし、残念ながら、今では往時の面影をしのぶことのできる場所は多くはありませんでした。

先に触れた脇本陣駿河屋跡(手前)です。現在は、高級料理旅館の「山月」が建っています。

その隣が大塚本陣船津屋跡。現在もそのままの名で、高級料亭「船津屋」になっています。

本陣跡から脇本陣跡に向かって戻ります。

七里の渡しの跡にあった「東海道」の案内標識です。ここから、この標識に従って、旧東海道に沿って桑名宿跡を歩くことにしました。

小さくて見えにくいのですが、案内図の中央右を上下(南北)に走るグレーの道が旧東海道です。七里の渡し付近には、船番所、高札場や丹波本陣など、桑名宿の中心となる施設が置かれていました。

旧東海道です。かつて、旅籠や料理屋が並んでいた川口町の通りを歩きます。

歩き始めてすぐ左側の更地になったところに、案内の石碑がありました。「左 船会所跡 右 問屋場跡」と書かれていました。船会所は旅人のために渡船の手配をした役所。旅人は乗船の申し込みをし料金を払い乗船していました。問屋場は人足や馬の継ぎ立てを行った役所。東海道は人足100人、馬100疋を常備していました。乗船場所も問屋場も所在地はわからないそうです。

街道に埋まっていた「井」のプレートです。「通り井」の跡だそうです。桑名は地下水に塩が混じるため、寛永3(1626)年、町屋川(外堀)から水を引いて水道をつくり主要道路の中央に正方形の升をつけて、町の人々が利用していたといわれています。その升があったところに、このプレートを埋めているそうです。

その先の交差点です。これは西(右)側のJR桑名駅に向かう道、「八間通り」を撮影しました。ここから、駅方面に向かって歩きます。

10分ぐらい歩いたところで、左側に寺町通り商店街を見つけました。

この日は「三」がつく日でしたので、三八市が開かれていました。江戸時代には、商店街の南魚町は市場になっていたそうです。

「時雨蛤(しぐれはまぐり)」の看板。駅前に総本店のある貝新のお店がありました。「東海道宿村大概帳」には「桑名宿は、蛤、時雨蛤、白魚、干白魚、名物なり」と書かれています。「桑名の焼き蛤」で知られていますが、桑名では蛤は「焼き蛤」か「煮蛤」にして食べられていました。「時雨蛤」はこの「煮蛤」のことで、江戸時代から土産物として知られていました。

これは、商店街にある桑名別院、本統寺の山門です。三重県内の真宗大谷派の中心道場で「御坊さん」と呼ばれています。

ここには商店街と並んで流れる水路がありました。ここは桑名城の外堀、惣構(そうがまえ)があったところです。大山田川と町屋川の流れを変えてつくったそうです。

八間通りに戻り、駅方面に向かって歩くとすぐ右側に海蔵寺がありました。「宝暦治水薩摩義士之碑」と書かれた石碑が建っています。輪中を取り囲み、入り組んで流れていた木曽川・長良川・揖斐川の分流治水工事を、幕府から命じられた薩摩藩は、宝暦4(1754)年から1年3ヶ月かけて工事を完成させました。しかし、難事業のため、薩摩藩の全収入の2年分以上を費やしたことなどの責任をとり、総奉行の家老平田靭負(ゆきえ)が切腹するなど、多くの犠牲者を出しました。犠牲になった薩摩藩士の墓所がここに設けられていました。

再度、八間通りを歩き、東海道に戻ります。先ほどの交差点から今度は東に向かって歩きます。堀の下は船溜になっていました。堀の左側の石垣は、桑名城の城壁の一部で、揖斐川の河口から南大手橋まで500mに渡って残っています。桑名城は揖斐川を利用した水城でした。

その先の舟入橋を渡って城跡の九華公園に入ります。入り口にあった本多忠勝像です。慶長6(1601)年、関ヶ原の戦いの後に10万石で入封し、本格的な城郭の築城と城下町の町割りを行いました。

水が美しい城跡公園です。平日でしたが、散歩する方も多くおられました。享和3(1803)年の記録には、桑名城には、門が63ヶ所、櫓が95ヶ所あったと書かれています。

城内にあった辰巳櫓跡です。天守閣は元禄14(1701)年の大火で焼失してから再建されることはありませんでした。戊辰戦争(1868年)では、幕府方だった桑名藩主松平定敬(さだあき)たちは東北を転戦し五稜郭で降伏しました。桑名城は無血開城し市内が戦場となることはありませんでした。しかし、新政府軍は、天守閣の替わりに使われていた桑名城のシンボルである辰巳櫓を焼き払い落城のしるしにしたといわれています。

八間通りの交差点に戻って、さらに旧東海道を南に向かい江戸町を歩きます。

右側にあった桑名宗社の鳥居です。青銅製で高さ7m60cm。寛文7(1667)年桑名藩7代藩主松平定重が辻内善右衛門に命じてつくらせました。その後も辻内氏が修理に携わって今日にいたっているそうです。

鳥居の足もとにあった「しるべ石」です。左の側面に「たづぬるかた」、右の側面に「おしへるかた」と彫られています。それぞれの石面に尋ね人の名前と特徴、見つけた場所を書いて貼り付けていました。江戸時代から迷子の捜索に使われました。

桑名宗社は、三崎大明神を祀る桑名神社と春日大明神を祀る中臣神社の総称で、桑名の総鎮守社です。拝殿は、向かって右が桑名神社、左が中臣神社になっていました。

その先、片町の左側にあった「歴史を語る公園」です。堀の向こうは石積みの城壁の一部。石積みは
乱積みで、野面はぎと打ち込みはぎの2つの方法によっているとのことです。

「歴史を語る公園」にあった江戸日本橋の展示です。堀に沿って、日本橋、富士(吉原宿)、関、四日市、三条大橋と東海道の見どころが続きます。

「歴史を語る公園」は南大手橋で途切れます。旧東海道は、南大手橋とは反対に、ここで右折(西行)します。

右折してから、京町を西に進みます。

右側にあった石取会館です。金融機関によくある形の建物です。大正14(1925)年に鉄筋コンクリート造り2階建て。四日市銀行桑名支店として建築されました。その後、桑名信用組合(桑名信用金庫の前身)、桑名信用金庫京町支店として使用されました。平成3(1991)年内部が改修されました。現在は、石取祭に関する展示を行っています。国の登録有形文化財に登録されています。

その向かいにあった桑名市博物館です。

博物館の前にあった道標です。「右 京 いせ道  左 江戸道」と彫られています。江戸時代に建立されたようですが、設置されていた場所は特定されていません。移設されたもののようです。 

大通りを渡ります。東海道は渡ってすぐ左折します。この先に京町目付がありました。番所が置かれ、通行する旅人を取り締まっていました。

東海道の標識に沿って左折(南行)し、吉津屋(よつや)通りに入ります。

古い歴史をもつ商店街が続きます。創業、嘉永3(1850)年創業というふとん店もありました。

仏壇を扱うお店が並んでいます。最も目立っていた仏壇店、浅井屋本店です。

次の交差点の手前にあった道標です。「右 京 いせ道  左 江戸道」とあり、右に向かって手のマークがついています。京方面は右折と思っていましたが・・・。

交差点にあった「東海道」の案内では直進になっていました。誤った方向を示しているあの道標は、移設されて置かれたものなのでしょうか? 形は桑名市博物館のところにあった道標と同じものだったのですが・・。

これは、桑名市博物館の交差点にあった案内図です。東海道のルートが示されています。現在は、ベージュ色の2本の通りが交差する「吉津屋見付跡」の右下(北東)のあたりを歩いています。この先で、東海道は右折して左折、さらに左折して進むことになります。

ここが鈎形に曲がるところです。右折します。

この先で左折します。正面に吉津屋目付が置かれ、吉津屋門と番所がありました。

この先を再度左折します。

左折した後はしばらく直進します。正面の「おもちゃ プラモデル いもや本店」の前の通り(旧東海道)に右折して入り、南に向かって進みます。 

街道筋の雰囲気を残す静かな通りを、さらに南に進んでいきます。

やがて、寺社の建物が並ぶ伝馬町に入りました。教宗寺、泡州崎(あわすざき)八幡社、光徳寺と過ぎた先に、十念寺がありました。写真はその山門です。森陳明(つらあき)の墓がある寺です。かれは、文政9(1826)年に小河内殷秋(ただあき)の長男として生まれましたが、父殷秋の兄の森陳功(つらまさ)の養子となり、さらに、藩主松平定敬(さだあき)が京都所司代在職中に「公用人」として定敬の傍近くで仕えることになります。そして、戊辰戦争では定敬に従い新政府軍と戦った後、函館に向かい五稜郭で降伏しました。

十念寺の裏(西)にある墓地に、森陳明の墓があります。桑名藩は、降伏後に新政府軍から戦争責任者を出すよう求められたとき、陳明が全責任をとって、明治2(1869)年東京深川の桑名藩邸で切腹しました。かれの墓は、桑名藩主の菩提寺である霊厳寺にもあるといわれています。享年44歳でした。

十念寺の先にも、寿量寺、長圓寺、報恩寺と寺院が並んでいます。「蟠龍櫓」で出てきた「久波奈名所図絵」は、長圓寺の11代住職である魯縞庵義道(1834年没)が描いたといわれています。その先で旧東海道は広い通りに合流します。左側には日進小学校がありました。

この近くに七曲見附が置かれていました。番所で旅人の取り締りを行っていました。このあたりが桑名宿からの出口になります。しかし、この先に見ておきたいものがありましたので、さらに進みました。案内図からもわかるように、見附を過ぎると旧東海道は右折して西に向かっていました。

東海道のルートの案内に従って、次の通りを右折します。

その先、右側に豪壮な邸宅が見えました。道路の端に説明がありました。江戸初期、藩主の松平忠勝は鋳物師の広瀬氏を招きこの地に工場を与え、鍋屋町と名付けました。ここでは、城の建築用材だけでなく、梵鐘や日用品もつくり、その結果、鋳物は桑名の名産になりました。文政9(1826)年には、シーボルトもこの工場を見学しているそうです。

右側にあった天武天皇社。壬申の乱(672年)のとき、大海人皇子がこの地に滞在したことに因む神社。天和(1681~1684)年間にこの地に移ってきました。

一目連神社の前にあった、ガード付きの道標です。「左 東海道 渡船場道  西 西京 伊勢道」とありました。明治20年建立された道標です。

その先も、旧街道を思わせる道路が続いています。

梵鐘を扱うお店がありました。ドアのすぐ前に梵鐘が展示されていました。お店の名前にも「梵鐘店」と書かれており、梵鐘の専門店のようです。今も鋳物づくりをされているお店があるんですね。

これはJR桑名駅前にあった花壇です。花の上に「鋳物の街 くわな」とあります。そのとおり、今も鋳物づくりが盛んな街なのです。その先で国道1号線を渡ります。
 
国道1号線を渡って進むと火の見櫓が見えてきました。ぜひ見ておきたかったものです。ここは、矢田の立場(たてば)です。立場は宿の中間にあり、休憩する人のための茶店が並んでいたところです。「久波奈名所図絵」には「この立場は食物自由にして、河海の魚鱗、山野の蔬菜、無きことなし」と書かれているそうです。ちなみに、火の見櫓は平成3(1991)年に再建されました。

旧東海道は、ここで左折して、次の四日市宿に向かっていました。

「7里の渡し」の、桑名宿を歩いてきました。桑名宿は、旅籠の数では東海道五十三次で2番目の宿場町でした。江戸時代をしのばせるところは多くはありませんでしたが、様々な整備が行われていて、歩いて楽しい街でした。要所に設置されていた「東海道」のルート案内が力になりました。

”将軍の直轄橋”があった宿場町、東海道吉田宿

2015年02月16日 | 日記

広重の「東海道五十三次」です。画面の左側の橋は、将軍の直轄橋、いわゆる「天下橋」として知られていました。豊川に架かる長さ120間(約239m)の大橋、東海道でも有数の橋でした。現在の豊橋市にあった旧東海道34番目の宿場、吉田宿の京寄りの出口に架かっていた吉田大橋です。

この地図は豊橋市内に掲示されていた案内図です。地図の中にグレイで書かれた波線がかつての東海道のルートでした。”日本一の急カーブ”を見学した日(2015年2月5日の日記)、東海道吉田宿を歩きました。吉田宿は二川宿から1里20町(約6.1km)のところにありました。江戸時代、東海道を西に向かう旅人は地図の右下から斜めに延びる国道1号線を、東八丁に向かって歩き吉田宿に入っていました。

東八町の交差点です。豊橋鉄道の東八町停留場の近くにあった秋葉山常夜灯がトラックの上に見えました。

これが秋葉山常夜灯です。文化2(1805)年に、この地に住む人々によって、吉田宿東惣門前に建立されていました。昭和19(1944)年に起きた三河地震で倒壊しましたが、平成13(2001)年にこの地に復元されました。

東八町の交差点は横断陸橋で渡るようになっています。写真は西に向かう国道1号線を撮影しました。旧東海道はこの東八町の交差点の手前で鈎形に曲がっておりました。写真の横断陸橋を左に降りたところに、かつての東惣門のミニチュアが建てられていました。

これが吉田宿の東の入り口に建てられていた東惣門のミニチュアです。江戸時代には、朝の六ツ(午前6時)から夜八つ(午後十時)まで開いていました。説明には「鍛冶橋の東側に位置する下モ町の吉田城惣門西で、東海道にまたがって南向きにつくられていた」と書かれていました。

鈎型に曲がっていた旧東海道の道筋はどうもはっきりしませんでした。写真は、東惣門のミニチュアがつくられていた通りの南西方向です。交差点から50mぐらいのところに「東海道」と書かれた標識がありました。この「東海道」の標識は、この後もルートを確認するのに大変役に立ちました。標識に沿って、右に曲がります。

カーブして入った国道1号線の一つ南の通りです。この通りが旧東海道です。この先の最初の交差点を左折(南行)します。城下町を通る街道は真っ直ぐな道はほとんどありません。ここ吉田宿も、右に左に曲がりながら進んでいく道でした。

南に向かって進みます。右側に造立稲荷神社がありました。その先の交差点を右折(西行)します。

造立稲荷神社の先の交差点で西に向かって撮影しました。右に造立稲荷神社が見えます。

右折して西に向かって鍛冶町を進みます。豊橋市は空襲の被害を受け、旧東海道の面影はまったく残っていませんでした。

分離帯にくすのきが植えられている大きな通りに着きました。このあたりは曲尺手(かねんて)町。「曲尺手」は「曲がりくねった道」という意味だそうです。

交差点の左側の分離帯の中にあった東海道の標識です。「京へ五十二里」「江戸へ七十四里」と示されています。

交差点の右側の分離帯の中にあった「史蹟 曲尺手門」の碑です。城内への入り口です。ここまで、東海道は吉田城の惣堀跡に沿って進んできました。

交差点を右折して、くすのき通りを進んで行くと吉田城跡に整備された豊橋公園に到ります。写真は、豊橋場の鉄櫓(くろがねやぐら)です。天正18(1590)年、15万2千石で池田輝正が入封し城下町の整備に着手しました。輝正は10年後に姫路に移封されてからは、小禄の譜代大名が城主であったため天守閣はつくられず、隅櫓の一つの鉄櫓を天守閣の替わりとしていました。

曲尺手町に戻り、さらに西に向かいます。

「うどん」と書かれたそば屋さん。「大正2(1913)年創業」の老舗です。旧東海道はこのお店の前を左折(南行)します。

すぐに突き当たりになります。「東海道」の標識にしたがって、”ヴィジュアルスタジオ マリオ”(Bridal)の建物の前を右折(西行)します。

呉服町の交差点の前に来ました。かつての宿場町の中心部に近づいて来ます。右のガソリンスタンド付近はかつて高札場が置かれていました。かつては碑があったらしいのですが、見あたりませんでした。

ガソリンスタンドとその先のNTT豊橋支店の間の通りにあった「豊橋市道路元標」の石碑です。道路の脇にひっそりと建っていました。

NTT三河支店の前の歩道上にあった「問屋場跡」の碑です。問屋場は道中奉行支配で人馬の継立てを担った役所で、問屋、年寄、帳付などの問屋場役人によって、運営されていました。東海道の宿場には、規定で「人足100人と馬100疋」が宿場ごとに常備されていました。

この地図はNTT三河支店の近くにあった観光案内用の地図です。旧東海道はここからまっすぐ西に向かっていました。豊橋鉄道の路面電車の札木(ふだぎ)停留場が目の前です。

田原街道を横断します。ちょうど豊橋鉄道の路面電車、3202号車が出て行くところでした。

田原街道を横断すると、すぐ右に「うなぎの丸よ」のお店があります。創業120年余という老舗の鰻屋さんです。ここが吉田宿本陣跡でした。

お店の前にあった「吉田宿本陣跡」の碑。傍の説明によれば「享和2(1802)年の書上では、建坪327坪(1,080㎡)の清洲屋予右衛門と建坪196.5(648㎡)の江戸屋新右衛門の2軒の本陣が並んでいた」そうで、清須屋の東隣に江戸屋があったようです。明治になってから、「渡辺崋山の息子が丸よの鰻を食べて、『頗(すこぶる)別嬪(べっぴん)』と評した」という看板を掲げたため、ここから美人に転訛して、美人を別嬪というようになったといいます。

本陣跡の斜め向かいにあった「脇本陣跡」の石碑です。天保14(1843)年の記録では、吉田宿には、5277人(男性2505人、女性2772人)が居住していました。また、家数は1293軒で、その中に本陣が2軒、脇本陣が1軒、旅籠が65軒ありました。「吉田通れば 2階から招く しかも鹿の子の振り袖が」とか、「御油(ぎょゆ)や赤坂、吉田がなくば 何のよしみで 江戸通い・・・」と歌われたように、たくさんの飯盛女がいた、賑やかな宿場だったようです。

脇本陣跡の碑のすぐ先に「きく宗」のお店がりました。江戸時代の文政年間(1818~1829)創業の菜めし田楽の老舗です。こんがりと焼かれた串刺しの豆腐に秘伝の八丁味噌を塗った田楽で知られているそうです。

旧東海道は、その先の松葉公園の交差点の手前を右折(北行)します。

松葉公園の交差点の脇にあった「東海道吉田宿」の碑です。くすのき通りにあった石標と同じ京と江戸への里程が彫られていました。

松葉公園から北に向かって進みます。ここでも「東海道」の標識が参考になります。

国道1号線の交差点に入ります。国道を渡った先に「西惣門」のミニチュアがありました。

吉田宿の西の出口です。吉田宿は23町30間(約2.6km)に渡って家並みが続いていました。

国道を渡ってからも、そのまま北に向かいます。そして、国道1号線の次の信号を左折(西行)します。ここでも「東海道」の標識が役に立ちました。

西に向かって歩きます。船町の交差点で右折し、大橋通を北に向かいます。船町は浅井長政の家臣である浅井与次右衛門の一門80人が、天正18(1590)年に池田輝正から定住を許され、開発したところです。

その先は豊川に架かる豊橋に向かって上っていきます。近世初頭に開かれた吉田湊は、豊川による水運の終点として、また、伊勢や江戸に向かう起点として栄えました。当時、吉田湊は三河地方で最大の川湊でした。船町の人々は、この荷物の中継地での船役を命じられ、地子(地代)免除になっていました。

この風景は豊橋の上から見た吉田城方面です。高いビルは豊橋市役所や豊橋警察署。橋の上を渡る白いトラックの上のあたりに吉田城の鉄櫓があります。

広重の描いた吉田大橋は、今の豊橋より70mほど城寄りに架かっていたようです。橋の南詰は、寛永13(1636)年から高札場になっており、河川の取締、橋の保護などの重要な取り決めが掲げられていたそうです。

豊橋を渡りきると、左側にあるカラフルなビルの手前を左折(西行)します。

その先は豊川に沿って、旧東海道が延びていました。次の御油宿まで2里20町(約10.5km)ありました。

吉田大橋は、もともとは貞応3(1224)年に建設された今橋だったといわれています。その後、徳川氏の武将であった酒井忠次が、元亀元(1570)年に架橋します。その橋を、天正19(1591)年に、吉田城を築城した池田輝正が整備しました。そして、その頃から、吉田湊は三河一の川湊として栄えました。江戸時代に入ると、江戸幕府が管理する「天下橋」として、吉田宿を代表する存在でした。

”日本一の急カーブ”がある路面電車、豊橋鉄道東田線

2015年02月05日 | 日記

ここは路面電車の右カーブ、半径11mで90度曲がる、日本一の急カーブです。

日本一の急カーブに挑む路面電車です。あまりの急カーブのため、この路線に乗り入れできない車両もあるそうです。

日本一の急カーブに惹かれて、愛知県豊橋市の豊橋鉄道東田(あずまだ)本線の路面電車に乗ってきました。出発はJR豊橋駅でした。

駅前の歩道橋から見た豊橋鉄道の路面電車(以下「電車」と書きます)です。右がホームに入ってくる電車、左が出発して出て行く電車です。

「路面電車のりば」に向かいます。

ホームは1面だけです。そのため、出発していく電車が出ていくまで、到着する電車はホームの手前で待機していました。左は3200形の3201号車。3200形は親会社の名古屋鉄道、岐阜市内線(美濃町線)から移って来た車両で、豊橋鉄道には3両が在籍しています。右は3500形の3503号車、東京都交通局からの車両で4両が在籍しています。豊橋鉄道の駅は「停留場」と呼ばれていました。

駅前停留場のホームにあった路線図です。東田本線には赤岩口停留場に向かう路線(4.8km)と途中の井原駅から分岐して運動公園前停留場に向かう路線(井原停留場から0.6km)があります。

この日乗車した平日の8時台には、赤で表示された赤岩口行きが4本、緑で表示された運動公園前行きが4本、交互に運行され、黒で表示された競輪場前行きの1本を加えて計9本が運行されていました。

軌間が1067ミリの線路を、東田本線の主力車両である780形787号車が入って来ました。780形も名古屋鉄道岐阜市内線(廃止された揖斐線)から移ってきました。運賃は定額で150円。前側の入り口から乗車するときに投入口に入れることになっています。ラッシュ時には、駅員さんが立ち中央の扉(降車用)からも乗車できるようになっていました。

定時に出発しました。ホームを出た電車は大きく左にカーブして駅前大通に出ます。写真は電車の後部から豊橋駅方面を撮影しました。豊橋鉄道は大正14(1925)年に、途中の東田停留場までが開通しました。電車の架線を支える架線柱は線路の中央に設けられています。センターポールがきれいです。

駅前大通停留場。平成17(2005)年に設置された最も新しい停留場です。電車は駅前でも見た3201号車です。駅前停留場から0.3km。

新川(しんかわ)停留場です。洗練された近代的な通りにあります。駅前大通停留場から0.3kmありました。

「たわむれ」と題された像です。これ以外にも多くの像が歩道に展示されていました。

新川停留場から左にカーブして「田原街道」という表示のある道路に入ります。センターポールの先に札木(ふだぎ)停留場があります。新川停車場から0.4kmのところにあります。札木停留場のすぐ先を、左右に横断する通りが旧東海道です。江戸時代には、札木付近はこの地にあった吉田宿の中心部でした。2軒あった本陣は停留場を左折したところにありました。

旧東海道の2本手前の通りは魚町です。豊橋を代表する練り製品の老舗、文政10(1827)年創業のヤマサちくわ本店があります。

電車は札木停留場の先で右カーブして国道1号線に入ります。交差点にある歩道橋の上から撮影しました。国道を走る路面電車は、全国でこの鉄道だけだそうです。センターポールの下を走る電車はほんとうにきれいです。

札木停車場から0.4kmで、次の市役所前停留場に着きます。このあたりには見どころがたくさんあります。

停留場の手前の左側にあった豊橋市役所(左奥)と豊橋市公会堂です。ロマネスク様式の公会堂は昭和6(1931)年、昭和天皇即位式の記念事業として竣工しました。鉄筋コンクリート3階建て。空襲にも耐え、昭和初期の重厚な建築美を今に伝えています。手前に建っている石碑には「藩黌時習館趾」と刻まれています。時習館は、宝暦2(1752)年当時の吉田藩主松平信復が城内の八丁小路に設立した藩校です。同じ名前の藩校が肥後熊本藩にもありました。

公会堂は、手前を走る路面電車の撮影スポットとして有名です。向かいに建つ英数館の前から撮影しました。電車は781号車です。

市役所停留場の左側に少し入ったところにあったハリストス正教会です。大正2(1913)年の建立です。愛知県知多郡内海町出身の河村伊蔵の設計で、玄関の上に鐘塔を備えた正教会として完成された形式のため、平成20(2008)年に国の重要文化財に指定されています。

国道1号線に面して建てられた安久美神戸(あくみかんべ)神明社です。鬼祭で知られています。

これはJR豊橋駅の改札口に飾ってあった鬼です。神明社の鬼祭のPRをしているのでしょう。

次の豊橋公園前駅停留場までの距離は0.2km。豊橋鉄道の停車場間の最短区間です。豊橋公園は停留場の手前を左に入ったところにあります。

豊橋公園は吉田城跡の広い敷地に整備されました。陸上競技場や野球場などのスポーツ施設も設けられています。

昭和29(1954)年に再建された吉田城の鉄(くろがね)櫓です。天正18(1590)年に、15万2千石でこの地に入封された池田輝正は、それまでの今橋から「吉田」と改称し、吉田城の整備に着手しました。しかし、10年後に姫路へ移封になり、その後は譜代大名が移ってきましたが、城の整備は未完成のままでした。天守閣は建設されず鉄櫓が天守の替わりに使われていました。鉄櫓は、宝永4(1707)年の宝永地震で倒壊してから再建されることはありませんでした。

吉田城は豊川を背にしてつくられました。この川の沿岸の吉田湊は、江戸時代を通して水運の終点として、また、伊勢や江戸への起点として栄えました。

本丸には、今も石垣が残されています。

豊橋公園前停留場から0.5kmで、東八町停留場に着きます。豊橋鉄道は全線が併用軌道のため、どの停留場もホームと電車の間はきわめて狭い構造になっています。

東八町は、江戸時代には旧東海道の吉田宿の東惣門が置かれたところでした。江戸からやって来た旅人はここで吉田宿に入っていました。写真は秋葉山常夜灯です。文化2(1805)年に東惣門前に建立されました。昭和55(1970)年の三河地震で倒壊しましたが、平成13(2001)年にこの地に復元されました。

0.4kmで、前畑停留場です。道路の中央の軌道に整然と敷き詰められた敷石(石畳)がきれいです。かつては路面電車といえば敷石がつきものでしたが・・。

前畑駅の手前150mぐらいのところにある横断歩道橋が、軌道の敷石を撮影するスポットとして有名でした。今では歩道橋の近くの敷石が撤去されたのか見えなくなっていました。すでに撮影スポットではなくなっているようです。

次の東田坂上(あずまださかうえ)停留場です。前畑停留場から0.3kmの距離でした。駅前停留場行きの787号車が入っています。

0.5km先にある東田停留場です。路面に「乗降者注意」と書かれているように、安全地帯のない停留場でした。電車から降りたとき、乗用車がすぐそばを走っていて驚きました。東田本線で唯一の安全地帯のない停留場でした。駅前停留場からここまでが、大正14(1925)年に開業しました。

写真は駅前停留場行きの電車の最後尾から撮影したものですが、東田停留場の先で複線区間が終わります。競輪場前停留場は単線の先にありました。東田停留場から0.3kmでした。東田停留場・競輪場前停留場間は、昭和25(1950)年に開業しました。

駅前停留場から順調に走ってきた電車は、ここで、急にスピードが落ちました。競輪場前停留場方面からやって来る電車を待って、停留場に進入していきます。後から来た電車が列をつくることもありました。写真はすれ違うT1001(左・愛称「ほットラム」)号車と3202号車(右)です。「ほットラム」はアルナ車両製の低床車両で、平成20(2008)年から運用が始まりました。転籍車両ではなく、豊橋鉄道のオリジナル車両です。しかし、残念なことに、この電車はあの日本一の急カーブには入れません。

競輪場前停留場の脇にあった駐車場です。競輪場前行きだった電車が、次の出発まで小休止をしていました。左が3502号車、右が3201号車です。

駐車場の隣は豊橋鉄道の営業所です。乗務員さんはこちらで小休止するのでしょう。

次の井原駅の手前の電車内です。ほとんどの乗客が下車していましたので、撮影することができました。井原駅まで0.5kmです。

井原(いはら)駅です。赤岩口行きの電車と運動公園前行きの電車の分岐点です。そのため、井原駅はホームが3ヶ所設置されています。写真は赤岩口方面行きのホーム。左の赤い電車が見えるところが運動公園前行きの電車の乗降場、右奥の乗用車の向こうは駅前方面行きの乗降場です。

井原停留場から0.7kmで、終点の赤岩口停留場に着きました。東田本線の駅間の最長区間です。朝のラッシュアワーが終わる時間でしたが、駅前停留場から30分以上かかりました。やはり、競輪場前停留場の手前にある、単線に変わるところで時間がかかったからでしょう。3202号車です。

軌道の終点です。すぐにでもこの先が延伸できるような感じがします。競輪場前停留場・井原停留場・赤岩口間(1.2km)は、昭和35(1960)年に、単線で開業しました。

赤岩口停留場の脇にあった車庫です。左から2台目の電車は「おでんしゃ」(3203号車)。平成19(2007)年にスタートした、冬期に運行している「おでん電車」です。「おでんしゃ」は豊橋鉄道の商標登録になっているそうです。

井原停留場に引き返しました。このカーブが、半径11mで90度カーブする日本一の急カーブです。電車は、井原停留場から右折して運動公園前停留場に向かいます。写真は、井原停留場方面に向かって撮影しました。

カーブを行く3503号車です。この急カーブは、昭和57(1982)年に、井原停留場・運動公園前停留場間が単線で開業したときにつくられました。

0.6kmで、終点の運動公園前停留場に着きました。

運動場前停留場は比較的新しい停留場ですので、ホームの幅は少し広く点字ブロックも設置されていました。電車は787号車です。

停留場のすぐ先で線路が途切れます。こちらも赤岩口停留場と同じように、車止めはついていませんでした。

豊橋鉄道は「日本一の急カーブ」のある路面電車です。二つの路線5.4kmを16両の車両で年間290万人(平成24年度)を輸送しています。「日本で唯一国道を走る路面電車」、「センターポールが美しい鉄道」、「石畳の線路が残る鉄道」、「沿線の見どころも豊富」など・・。たくさんのキャッチフレーズが浮かぶ魅力あふれる路面電車でした。