トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

JR高徳線の”秘境駅”、阿波大宮駅

2014年08月27日 | 日記
牛山隆信氏が主宰されている”秘境駅ランキング”。上位200位にランクインしている駅は多くがローカル線にあります。しかし、スイッチバックの駅として知られる坪尻駅(徳島県・「秘境の駅、JR坪尻駅に行ってきました!」2011年3月19日の日記)や新改駅(高知県・「JR土讃線 もう一つのスイッチバック、新改駅」2011年8月7日の日記)は、岡山駅と高知駅を結ぶ幹線と言っていいJR土讃線にある駅でした。同じ、県庁所在地である香川県高松市と徳島市を結ぶJR高徳線にも、ランクインしている”秘境駅”があります。

JR阿波大宮駅です。高松駅から南に向かい徳島県に入って最初にある駅です。暑い夏の日、阿波大宮駅を訪ねるため、高松駅に向かいました。

スタートはJR高松駅。青春18きっぷを手に乗り込んだ列車は徳島行きの普通列車。キハ1501号車。昭和62(1987)年の国鉄民営化以後に導入された新型車両です。10時2分、1番ホームから出発しました。四国の普通列車に多いワンマン運転の単行のDC(ディーゼルカー)でした。座席がすべて埋まっており、立っている乗客もおられました。

高松駅から、南に向かって進みます。出発から1時間15分後、香川県最後の駅、讃岐相生(さぬきあいおい)駅に着きました。高松行きの普通列車が待っていました。行き違いです。高徳線は、徳島線の列車も走る徳島・佐古駅間を除いて単線の区間になっているからです。列車は単行の気動車で、同じ1500形車両の1553号車でした。JR高徳線は、昭和10(1935)年に、最後まで残っていた香川県の引田(ひけた)駅・徳島県の佐古駅間が開通し、高松・徳島間が全通しました。来年は、全通してから80年目の節目の年を迎えます。

讃岐相生駅を出ると、高徳線は大坂峠を越えるルートになります。ここからは、25‰(パーミル、1000mで25m登ることを表します)の勾配となり、高徳線の最大勾配区間になります。短いトンネルが続いています。数えてみると次の阿波大宮駅まで、11個のトンネルを抜けました。最も長かった最後の大坂山トンネルを抜けると、列車は緩やかに下っていきます。

稲穂が黄色く色づいて、すでに実りの秋の雰囲気になっている田んぼの中を進みます。トンネルの出口から2kmぐらいで、列車は駅のホームに滑り込みました。めざしていた阿波大宮駅に着きました。11時22分でした。これまで私が訪ねた”秘境駅”はすべて山深いところにありました。田んぼ一面に稲が実っている光景には少し違和感がありました。

下車したのは、一緒に行った相棒と2人だけでした。乗ってきた列車はすぐに次の板野駅に向かって出発していきました。次に徳島に向かう普通列車は14時21分発。高松行きの普通列車は13時56分発です。私たちは、次の高松行きの列車が出発するまでの約2時間半、この駅に滞在することにしました。

ホームから見た高松方面です。越えてきた讃岐山脈が見えます。

こちらは、徳島方面です。1面2線のホームの左側に駅舎が建っています。

ホームにあった待合室? 小さい建物の下に、丸太が置いてありました。相棒は待合室だと言っておりましたが・・。

左側の柱に貼ってあった建物財産表には、「諸舎」と書かれていました。特定の用途に分類できない建物という意味でしょうか? 「待合室」と明記はされていませんでした。

裏側です。ホームの案内に使われていました。

やがて、特急列車(N2000形)が入ってきました。上り、高松行きの”特急うずしお12号”(左)でした。3分ぐらい経過して、今度は徳島行きの”特急うずしお9号”(右)が到着しました。 行き違いのための運転停止でしたが特急同士の豪華な行き違いでした。乗客の扱いはもちろんありません。先に、後から来た徳島行き(右)が、続いて待っていた高松行きの特急列車(左)が出発していきました。

駅の周辺を歩いてみることにしました。「大坂峠ハイキング下車駅」と書かれた看板の下から駅舎に入り外に出ました。

駅舎への入り口です。白い壁の正面に自動販売機がありました。昭和10(1935)年引田・佐古間が開業した時に建てられた駅舎です。高徳線とともに79年間を生きています。こんなに年月が経っているとは思えないほど、きれいな建物でした。

駅前の風景です。駅前の通りの向こうは墓地になっていました。墓地の前にある駅というのはめずらしいですね。

「馬酔木の道」の案内板です。駅舎に掛かっていた「大坂峠ハイキング下車駅」の看板で示された道のようです。「大坂口御番所跡 道なり900M」という案内に惹かれて行ってみることにしました。

駅から左の高松方面に向かって歩きます。高徳線の線路に沿って進みます。稲穂の向こうに集落が見えました。 ”秘境駅という言葉から受ける私のイメージとは異なった風景でした。

道なりに20分ぐらい歩くと高徳線の西渕踏切に着きます。「52km659m」と書かれていました。高松駅からの距離を表しているのでしょう。

西渕踏切付近から撮影しました。最後に通過して来た大坂山トンネルです。

踏切の先を右折すると、大坂口御番所跡の村瀬邸があります。天正13(1585)年阿波に入部した徳島藩祖の蜂須賀家政がここに御番所を設け村瀬・久次目の両家が預かっていました。通過する旅人は武士は通行手形、庶民は往来手形(旦那寺や地方役人が発行する)を持たないと通ることができなかったそうです。ここは、その村瀬邸のあったところです。隣には建て替えられた久次目家の邸宅がありました。

久次目邸の脇が讃岐街道の跡でした。幅2mぐらいの道が山の麓に残っています。大坂峠を越えて讃岐国に向かう街道でした。源平の戦乱の時代の文治元(1185)年に、屋島にいた平氏を討つために、源義経が越えた道だといわれています。

西渕踏切まで戻ったとき、徳島行きのうずしお11号が通過していきました。来た道を阿波大宮駅に向かって歩きます。

途中で特急列車に会いました。高松行きの特急うずしお14号でした。この列車がくることがわかっていたら、西渕踏切で待っていたのに・・。まったくノーマークでした。

阿波大宮駅まで戻ってきました。今度は徳島方面の駅周辺を歩きました。駅の近くには数件の民家が並んでいます。

民家の間を右折して宮脇踏切に来ました。「53k626m」と書かれていました。阿波大宮駅の南にあたる宮脇踏切から駅方面を撮影しました。跨線橋がかすかに見えます。

道なりに坂を下っていきます。大宮神社に着きました。阿波大宮駅のもとになった神社なのでしょうね? 立派な神社です。

神社の下にあった真言宗十楽寺です。もとは、大宮神社の社僧だったのでしょうか? 駅前の案内板には、この近くに「板野東小学校大坂分校」と書かれていましたが、どこにあるのかよくわかりませんでした。そういえば、ここまで誰とも出会っていないことに気が付きました。

宮脇踏切から撮影した徳島県板野町方面です。山際に集落が見えました。

阿波大宮駅まで帰ってきました。駅前の自動販売機の後ろに境界標が積んでありました。おなじみの「工」のマークが刻んでありました。

駅舎の内部です。きちんと整頓されていました。ベンチの下などに少し埃は溜まっていましたが・・。

駅舎内の掲示です。緑色で表されているのが高徳線です。

その下にあった時刻表です。徳島行き10本、高松方面行きが9本。通勤通学時間帯以外は2~3時間に1本の割で運行されています。

室内にあったJ2の「徳島ボルティス」のポスターです。香川県境の讃岐山脈の山間の町ですが、ここにも地元チームを支援するファンの方がおられました。

駅のホームの先に民家の屋根が見えます。民家も10軒以上ありしかも新しい民家もかなりありました。田んぼの道を少し行くとまとまった集落もある、日本の農村で普通に見られる風景でした。

線路をまたぐ跨線橋から見た阿波大宮駅のホームです。長いホームです。かつての栄光の時代をしのばせる光景です。

私たちは13時56分発の普通列車で、高松方面に向かうことにしました。列車がやってきました。2両編成だ!と思いましたが、後ろの車両は「回送」扱いで、乗車できるのは前の車両だけでした。帰りも満席以上の乗客が乗っておられました。かなりの乗車率でした。

ホームに書かれていた乗車口。徳島行きの”特急うずしお16号”の通過を待って出発しました。ワンマン運転の1255号車でした。

「秘境駅ランキング」を主宰されている牛山隆信さんによれば、阿波大宮駅は高徳線唯一の秘境駅で、その秘境度2P(ポイント)、雰囲気2P、列車到達難易度7P、外部到達難易度2P、鉄道遺産指数2P、合計15ポイントで、ランキング156位に位置づけられています。やはり、列車で行くのが困難という意味での「秘境駅」でした。

明るく広々とした農村風景が楽しめる、「秘境駅」らしくない秘境駅でした。


青春18きっぷのポスターの駅、JR下灘駅

2014年08月12日 | 日記
青春18きっぷ。青春という名前ですが、私たち年金生活者にも身近な存在です。年3回の使用可能期間には、若者に混じって、青春18きっぷで旅をするたくさんの高齢者にも出会います。

青春18きっぷのポスターに3年連続、採り上げられた駅があります。JR予讃線の下灘(しもなだ)駅です。写真には、ホームの先に広がる海を見ながら列車の到着を待っている旅人の姿。このアングルに似た写真が、平成12(2000)年のポスターに使われました。「前略 僕は、日本のどこかにいます」のキャッチコピーとともに・・。 このロマンチックなコピーによって、全国の鉄道ファンのあこがれの駅になりました。  青春18きっぷの使用期間に入った日、愛媛県西南部にあるJR予讃線の八幡浜駅から、伊予市駅(松山方面)行きの列車で下灘駅をめざしました。

11時40分にホームに入ると、列車はすでに入線していました。ワンマン運転の単行気動車。キハ5412号車でした。中には高校生を含めて20人以上の乗客が乗っていました。愛媛県西南部の予讃線は、開業以来、県都松山と南西部の中心都市の宇和島を結び、周辺地域でとれるミカンや木炭を輸送する物流の機能を果たしていました。

伊予大洲駅を出た後、予讃線は二つに分岐します。列車は、左側の海廻りの線路(「愛ある伊予灘線」という愛称で呼ばれていますが、以下「旧線」と書きます)を進みます。予讃線は、香川県の高松駅と愛媛県の宇和島を結ぶ345.6km(旧線)の路線です。宇和島まで開通したのは、昭和20(1945)年の6月20日。太平洋戦争の末期、全国の主要都市が次々にアメリカ軍の空襲を受けていた頃です。

予讃線の旧線に入って最初の駅、五郎(ごろう)駅に着きました。 開業したときの予讃線は、もちろん旧線を走っていました。しかし、海沿いの路線は災害に弱く台風の上陸等で運休することもたびたびでした。そのため、内子を通る内陸ルートが昭和61(1986)年に完成する(以下「新線」と書きます)と、特急列車など優等列車は内子経由の新線で運行されるようになりました。

ワンマン運転の単行気動車は、八幡浜駅を出てから50分弱、12時59分にJR下灘駅に着きました。到着したとき、高校生から高齢者まで10人ぐらいの人がこの駅を訪れており、かなり賑やかでした。

ホームには2つのベンチが並んでいます。駅舎は右側に少し離れて設置されていました。現在は1面1線の棒状駅になっていますが、ホームの右側のスペースには、広さから見て、以前はレールが敷設されていたようです。かつては、1面2線の駅だったのでしょうね?下灘駅が最初に採用された平成10(1998)年の青春18きっぷのポスターには、線路の真ん中から撮影したこのアングルに近い写真が、「駅に着いた列車から 高校生の私が降りてきた」という魅力的なキャッチコピーとともに使われていました。

線路の脇にあった距離標(キロポスト)です。高松駅から222.4kmの距離にあることを示しています。

訪問客が多かったので、まず、駅の周辺を回ってみることにしました。駅から外に出ました。清掃の行き届いた清潔感のある駅舎です。駅を出て左折して松山方面に向かって歩きます。15分ぐらいで、駅前を走る国道378号線に合流しました。

日喰(ひじき)バス停付近です。

日喰バス停の脇にあった石像物。右の最も高い像には「延享元年甲子 奉納 為西国三十三所巡禮供養也」と刻まれていました。日喰バス停から国道378号線を引き返します。強い日差しがぎらぎら照りつける中でしたが・・。

しばらく進むと、左側に下灘駅が見えました。かつて、この駅のホームからは、乗客が釣りをしていたといわれています。ホームのすぐ下まで海が迫って来ていました。経済の高度成長期、モータリゼーションの発展に伴う要請から、1970年代に海を埋め立てて国道378号線が開通しました。予讃線が担っていた物流機能がトラックに取って替わられるようになっていたのです。

国道をさらに進みます。海に延びる長い防波堤と先端にある灯台が見えて来ます。その向こうに下灘漁港があるはずです。

国道脇にあった和田踏切を渡り、そのまま道なりに進むと、下灘駅に行くことができます。

下灘漁港をめざして、再び歩き始めます。10分ぐらいで、下灘郵便局の前を過ぎ、その先の右側に下灘漁港があります。昼過ぎの時間でしたので、たくさんの漁船が船体を休めていました。

そこから、Uターンして、下灘駅方面に向けて引き返します。伊予市に向けて延びる旧街道沿いには、古い家並みが残っています。今も醤油の醸造を続けておられるお店もありました。双海(ふたみ)町串(くし)の町並みです。

駅舎が見えてきました。下灘駅は、伊予市に向かう旧街道沿いに建てられていることになります。駅のホームに立つ待合室の屋根。手前左の褐色の建物は、駅の自転車置き場です。駅前広場は普段は駐車場として使われているようです。

駅舎内に掲示してあった時刻表です。下りは宇和島行き4本、八幡浜行き6本、伊予大洲行き1本、上りは松山行き10本と伊予市行き1本の上下とも11本の列車が運行されています。ちなみに、予讃線は高松・伊予市間は電化されていますが、それ以南は非電化区間になります。そのため、下灘駅に停車する列車はすべて気動車になっています。

駅舎に帰ると、やはり、下灘駅を訪ねてくる旅人でいっぱいでした。「東京から飛行機で来て、夕方まで時間があるのでやって来ました」とは若い会社員の方。「いい駅ですねえ」とも言われていました。駅舎内では写真展が行われていました。

写真の上には、この駅で行われた映画等のロケの記録が記されていました。「男はつらいよ」のシリーズ第19作、「寅次郎と殿様」(昭和52=1977年)の冒頭のシーンが下灘駅で撮影されたそうです。ホームのベンチで、昼寝をしていた寅さんが、駅員に「お客さん、上りが来ますよ」と肩をたたかれるシーンだったそうです。

展示されていた応募者の写真です。どれもすばらしいものでしたが、やはり夕日が印象的です。夕日が似合う駅ですね。

改札口からホームを撮しました。平成11(1999)年、2回目に青春18きっぷのポスターに採用されたときの写真と似たアングルです。このときのキャッチコピーは「思わず降りてしまうという体験をしたことがありますか」でした。下灘駅にぴったりのすばらしいコピーです。

改札口からホームに向かいます。振り返って改札口を撮しました。かつて、レールが敷設してあったと思われる所に植えてあったお花です。

日喰老人クラブがお花のお世話をしてくださっていました。日喰老人クラブは、5~6年前ぐらいから「駅の環境美化ボランティア活動」をしておられるそうです。「ウッフッフ」という駅ノートを備えてくださったのも老人クラブの方々でした。

下灘駅では、昭和61(1986)年から「夕焼けプラットホームコンサート」を行っています。このイベントによって、下灘駅は全国的な注目を集めるようになりました。「夕日をバックに無人駅のホームで、若者のグループや愛媛大学交響楽団のコンサートが行われ、駅前広場は1000人の観客で埋まり身動きがとれないぐらいだった」と駅舎に掲示してあった新聞記事のコピーには書かれていました。カンパで集めた50万円で始めたコンサートでしたが、その後も毎年行われており、平成26年度は9月6日(土)に行われることになっています。

15時03分、松山行きの列車がやって来ました。向井原駅(伊予市駅の一つ手前の駅)に到着する直前で、予讃線の新線と合流し、松山に向かいます。

「青春18きっぷ」のポスターに3年連続で採用されたJR下灘駅のことは、私も知っていました。そのため、牛山隆信氏が主宰する「秘境駅」の感覚でこの駅を訪ねました。しかし、ここは多くの訪問者が訪ねて来る人気の駅でした。列車本数も秘境駅の比ではありません。この駅の周辺には漁港や漁業協同組合の冷凍倉庫があり、伊予市に向かう旧街道も駅前を通っていました。かつてはずいぶん賑やかな町だったのでしょう。

現在も鉄道ファンが集う賑やかな駅です。”夕焼けプラットホームコンサート”も、今年は28回目になりました。駅を中心に地域の活性化を図っている、元気のいい地域の美しい駅でした。




宇和島藩と和霊神社

2014年08月05日 | 日記

名前に惹かれてJR半家(はげ)駅を訪ねた後、私は予土線の普通列車で宇和島駅に着きました。ここに来た目的は二つありました。一つは仙台の伊達政宗につながる宇和島主伊達家にゆかりの史跡を訪ねることでした。もう一つは、中四国に多くの分社をもつ和霊神社を訪ねることでした。

駅前にあった大和田建樹の詩碑です。安政4(1857)年宇和島藩士の家に生まれた、「汽笛一声新橋を・・」で知られる「鉄道唱歌」の作詞者として知られています。

宇和島駅前の通りです。南国の雰囲気がただよう通りを南西に向かい交差点で左折して進みます。

宇和島城が見えます。右折して登山道に向かいます。長屋門をくぐり天守閣をめざして登ります。この長屋門は宇和島藩の家老であった桑折(こおり)家の長屋門でした。江戸時代中期につくられた門を戦後ここに移築しましたが、規模は往時の半分になったそうです。

この写真は、説明板に掲載されていた桑折家の長屋門の写真です。桑折家にあった頃の姿です。

かなり急な坂道を登ります。30分ぐらいで天守閣のある本丸につきました。

宇和島城天守閣です。海抜80mの丘陵上に築かれています。全国に12残っている現存天守閣の一つで、国の重要文化財に指定されています。今は埋め立てられて城の姿も異なっていますが、江戸時代には城の北側と西側は海になっており、堀にも海水を引き込んだ海城でした。

この地図は、宇和島駅でいただいた宇和島城のパンフレットの中にあった周辺の地図です。不等辺五角形をした城の姿を読み取ることができます。戦国時代、ここには西園寺氏の居城がありました。豊臣秀吉によってこの地に封じられていた築城の名手として知られる藤堂高虎が、慶長6(1601)年に現在の姿に改修しました。藤堂はその前年に、関ヶ原の戦いの功により今治に転封になっていましたが、この城の完成を見届けてから今治に移って行ったといわれています。その後、藤堂高虎は、移封された今治でも、海に面した海城として知られる今治城を築城しています。こうして、築城名人、高虎は自らの居城として、大洲城、宇和島城、今治城、津城、伊賀上野城、紀伊猿岡城の6城を築城することになりました。他にも篠山城、和歌山城、伏見城、大坂城、江戸城などの縄張(なわばり)や築城指導も行っています。

本丸に向かう三の門があったところから天守閣のある本丸を撮影しました。 さて、藤堂高虎が今治に去った後、宇和島は天領となり、その後、富田信高の支配を経て、慶長19(1614)年仙台藩主伊達政宗の長男である伊達秀宗(ひでむね)が10万石で入封しました。また、現存する天守閣は、2代藩主伊達宗利(むねとし)の大改修によって、寛文11(1671)年に完成したものです。伊達家は、その後、3代藩主宗贇(むねよし)、4代村年(むらとし)、5代村候(むらとき)、6代村壽(むらなが)、7代宗紀(むねただ)、8代宗城(むねなり)と藩主を続け、9代藩主宗徳(むねえ)のとき明治維新を迎えるまで、この地を支配することになりました。

天守閣から、城の南側にある「上り立ち門」に向けて、苔むした石垣の間の道を下ります。

「上り立ち門」です。寛文(1661~1673)年間の建築で間口2間、奥行1間の薬医門です。丸瓦には伊達家の九曜門が見えます。右はかつての大審院長、児島惟謙(これさだ)の銅像です。一般には「こじまいけん」として知られています。明治24(1891)年、ロシア皇太子襲撃事件を起こした巡査を、政府が貴族に危害を加える罪(大逆罪)の適用を迫ったのに対し、「外国貴族についての規定はない」として、無期懲役の判決を出させたことで知られています。宇和島藩の家臣家に生まれた人でした。

これは和霊神社です。宇和島湾に注ぐ須賀川にかかる石橋に、提灯が飾り付けられています。私が訪ねた日の数日後に祭礼が行われることになっていました。祭神は山家清兵衛公頼(やんべせいべいきんより)。慶長19(1614)年に、初代藩主として伊達秀宗が宇和島に移ってきたとき、父であった仙台藩主伊達政宗から6万両を貸し与えられ、家臣の中から「57騎」と称する家臣団をつけてもらって入ってきたそうです。その家臣団の総奉行として采配を振るったのが山家清兵衛公頼でした。

本家から借財をしていたので、山家清兵衛は財政のやりくりに苦労していました。そんな中、元和5(1620)年幕府から大坂城の石垣の修理を命じられます。藩経営は困難を極めました。藩士の扶持米をカットし、農民の年貢を低くしていたのに加え、さらなる負担が加わりました。家臣の中で清兵衛の藩運営に反感をもつ、藩の重臣桜田玄蕃元親(げんばもとちか)らとの対立は深刻でした。そんな中、元和6(1620)年6月30日の夜、清兵衛は邸宅で就寝中に刺客に襲われ、3人の子どもとともに惨殺されました。藩主秀宗も了解の上意討ちだったといわれています。これに対し、藩主の父である仙台藩主伊達正宗は激怒し、秀宗を勘当し、宇和島10万石を幕府に返上しようとさえしたそうです。秀宗の正室の実家、井伊家などのとりなしによって2年後に勘当が解けたといわれています。

初盆のときには、山家公頼を慕う領民のお悔やみの列が絶えることはなかったということです。一方で、宇和島では、清兵衛の死後、奇妙な出来事が続くようになりました。反清兵衛の中心にいた桜田玄蕃が、藩主秀宗の正室の法要の時、突然吹いた強風によって寺院の屋根が落ちて圧死しました。寛文6(1666)年の大洪水や享保の大飢饉のほか、地震によって宇和島城の天守閣が壊れるなど天変地異が続きました。多くの人が、冤罪によって殺された清兵衛のたたりだと考えました。写真は、和霊神社の前に立つ日本一の大鳥居です。昭和13(1938)年に建立されました。花崗岩でつくられています。

寛延2(1749)年の銘のある常夜灯です。さて、このような状況の中、藩主秀宗が山家清兵衛の霊を和らげるため、須賀川のほとりに、祠を祭ったのが和霊神社の始まりでした。祠はその後、承応2(1653)年に山頼和霊神社と改称されます。現在地に移ってきたのは、享保20(1735)年、5代藩主村候(むらとき)の時でした。和霊神社の祭礼は7月23日、24日になっていますが、この日には10万人を超える参詣の人が集まります。和霊神社はこの世に怨みを残して死んでいった人の霊を鎮め、悪霊を払い福を招く神社として、多くの人の尊崇を受けています。

神社前に掲示してあった祭礼の案内です。今年(平成26年)の7月24日には伝統的な闘牛も行われます。現在は市営闘牛場で取り組みが行われますが、以前は、和霊神社の直径20mを超える土俵上で1トンを超える巨大な雄牛がぶつかり合っていました。勝敗は逃げ出した牛が出たときに決まり、最長は1勝負2時間、最短は1~2秒で勝負が決まったそうです。

これは、駅前にあった「闘牛」の像です。最盛期の大正末期から昭和初期にかけては、宇和島周辺の多くの村々の闘牛場で農閑期や祭礼に行われていたということです。

これもパンフレットにあった地図ですが、天守閣の南東に「丸之内和霊神社」が書かれています。

写真がその丸之内和霊神社です。和霊神社と同じ山家清兵衛公頼が祭られています。かつての宇和島城の堀の内側で、宇和島城の正門にあたる追手門を入ってすぐの、重臣の屋敷が並んでいたところです。

神社内にあった案内です。そこには「山家公頼邸宅跡」と書かれています。ここで、山家清兵衛公頼が惨殺されました。3人の子ども、治部(19歳)、円治(17歳)、美濃(9歳)もここで最期を遂げています。

本殿の裏にあった当時の井戸。四男の美濃を助けようとして、邸宅から隣家に投げ入れられましたが、後難を恐れて投げ返された時に、この井戸に落ちて亡くなったそうです。

宇和島の和霊神社は中国四国地方に多くの分社が祭られています。その一つ、岡山市街地にある和霊神社です。私の勤務場所の近くに鎮座しています。

この写真は、パンフレットの中にあった宇和島城追手門の写真です。昭和20(1945)年宇和島を襲った大空襲で焼失しました。天守閣はそのすぐそばにありましたが、奇跡的に空襲から逃れることができました。堀を渡って場内に入るところ、現在の追手二丁目にあったといわれています。城内に入ろうとする人は、写真の右から左に歩き、枡形を右に折れて門をくぐって進んでいきました。

宇和島城への南からの登山口である「上り立ち門」に戻ります。南に向かって歩き、県立宇和島東高校を過ぎると、その先に伊達博物館があります。通りを渡ったところにあるのが、天赦園(てんしゃえん)です。写真はその入り口です。明治維新の直前の慶応2(1866)年、7代藩主宗紀(むねただ)が隠居所として整備した南御殿です。

建物は春雨亭です。藩主宗紀の号は春山。愛書家として知られた春山はここで書道の研鑽に努めながら余生を送ったといわれています。春雨亭は釘をまったく使わない造りになっています。ところで、伊達博物館や天赦園のあるところはかつては海でした。2代藩主宗利が寛文2(1672)年に海を埋め立ててつくった浜御殿だったところです。池泉回遊式の庭園で、特に、藤や菖蒲、銘竹で知られています。

天赦園という名前は、「馬上に少年過ぎ 世は太平にして白髪多し 残躯は天の赦す所 楽しまずんば是を如何せん」という、伊達政宗の漢詩から採ったものといわれています。「残余の人生を楽しむのを天も赦してくれよう」という意味です。その通り、宗紀は藩や藩士の負債を整理し、殖産興業政策を実施して6万両を貯蓄したという大きな功績をあげた藩主であり、藩士も許してくれたのではないでしょうか。 かれは、ここで、明治22(1889)年まで余生を送りました。100歳の天寿をまっとうしたといわれています。

写真は市街地の南東の寺町の一角にある等覚寺です。元和4(1618)年初代藩主伊達秀宗が母竜泉院殿を弔うために創建しました。その後、ここが秀宗の墓地になってから等覚寺と改めました。等覚寺(西)の墓所には秀宗と4人の殉教者、4代藩主村年が葬られています。ちなみに村年は、参勤交代の帰り道、西国街道加古川宿で死亡した方だそうです。

これは、等覚寺の東にある大隆寺の墓所(東の墓所)にあった8代藩主伊達宗城(向かって右側)と夫人の墓です。宗城は宇和島藩主の中で最も有名です。かれは、宇和島伊達家と親戚関係にあった旗本、山口直勝家の次男として生まれました。伊達家の血筋が絶えそうになったので、弘化元(1844)年、7代藩主宗紀の後を嗣いで8代藩主となりました。殖産興業、富国強兵策を推進し、特に、幕末期であったため、西洋兵学の導入に熱心な開明的な藩主でした。これには、当時、尊王攘夷派の中心にいた水戸藩主徳川斉昭の影響がありました。水戸藩江戸屋敷は宇和島藩江戸屋敷の近くにあり、彼は徳川斉昭に気に入られよく屋敷を訪ねていました。大隆寺(東)の墓所には、他に、2代藩主宗利、3代藩主宗贇(むねよし)、6代藩主村壽(むらとし)が葬られています。

パンフレットにあった地図です。地図の右端の中央部が墓所のあるところです。宗城が藩主だった頃、外国勢力をはね返すため、諸藩は競って反射炉(溶鉱炉)をつくり大砲(砲台)をつくりました。宇和島藩はその上さらに独力で黒船(蒸気船)を造ったことで広く知られています。当時、蒸気船は西洋の科学文明の頂点にあり、流体力学、数学、冶金工学など数学や物理学の多くの知識が必要でした。

宗城は、これを提灯屋嘉蔵(かぞう)に任せました。変わり者で女房に逃げられるぐらいの仕事熱心な男でした。彼は長崎に留学し、外国船を見学して、ついには蒸気船をつくり上げたのでした。この間、宗城は資金を出し続けました。写真は宗城の墓所がある大隆寺の山門です。

これは、「蛮社の獄」で弾圧された高野長英が8ヶ月間隠れ住んでいたお宅です。幕末、宇和島藩の筆頭家老をつとめていた桜田佐渡の別邸があったところです。ペリーの黒船がやってくる前、モリソン号が開国を求めてやってきました。当然幕府はこれを追い返しましたが、高の長英は渡辺崋山と幕府の対応を批判し弾圧され牢につながれます。崋山は切腹しましたが、長英は小伝馬町の牢屋敷から出火したとき、脱獄しました。宗城は彼の才能を惜しみ宇和島のこの隠れ家にかくまっていました。

長英は、宇和島で、オランダの兵学書の翻訳をして過ごしていました。幕府に見つかれば宇和島藩は取りつぶしは必定でした。藩はそれを恐れ宗城が参勤交代で江戸に行った留守に、彼を追放してしまいました。彼は卯之町(現西予市)を経て江戸に逃れました。そして、嘉永3(1850)年、長英は捕手に囲まれた中、自刃して果てたといわれています。隠れ家になっていた建物は、江戸時代の基礎構造の上に明治時代の建築様式で復元したものです。

長英の隠れ場の裏側です。左の2軒目の黒い家がそのお宅でした。裏は水位の低い川になっていて逃亡するのに都合のいいところでした。宇和島駅の南側にあたるところに残っていました。

8代藩主宗城は、「蘭学の宇和島」をつくりあげ、幕末には公武合体運動を推進した中心人物でした。明治維新後、当時の9代藩主宗徳は本家の仙台伊達藩主とともに伯爵に列しましたが、明治24(1891)年に侯爵に昇格しました。分家の宇和島藩が本家の仙台藩を超えた瞬間でした。幕末の宗城の活躍が背中を押したのではないでしょうか。

四国の南西部に位置する宇和島は、江戸から遠く離れた辺境に地にありましたが、幕末の日本をリードする雄藩となりました。宇和島藩の英明な藩主や家臣の知恵と努力の賜物でした。一方で、その基礎をつくった功労者でありながら非業の最期を遂げた山家清兵衛公頼の尊い犠牲もありました。彼を祭る和霊神社は、中国四国地方に多くの分社を有し、平穏と繁栄を願う庶民の厚い尊崇を受けています。宇和島はたいしたものですね。