トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

山あいの陣屋町、成羽

2012年09月30日 | 日記
岡山県の北西部にある高梁市成羽町は、江戸時代の陣屋町として知られています。

高梁市から、国道313号線を西に向かって進むと、左側に石垣に囲われた成羽美術館が見えてきます。当地出身で、倉敷市の大原美術館の作品を収集した児島虎次郎の作品を集めた美術館です。安藤忠雄さんの設計でつくられた近代的な建物を囲っているのが江戸時代につくられた石垣です。
ここは、江戸時代を通して、5千石取りの交代寄合、山崎家の陣屋があったところです。

成羽の町を見下ろす山の中腹に、岡山県在住の作家あさのあつこさん原作の映画、”バッテリー”のロケ地になった運動公園の展望台があります。

写真は、山の中腹にある運動公園の展望台から成羽美術館のあたりを見下ろしたものです。中央を流れる成羽川の向こう側(旧下原村)に白い建物の成羽美術館が見えます。その右側の赤い屋根が成羽小学校です。

元和(1617)年、因幡国若桜藩主だった山崎家治が2万6千石で成羽藩主となり、戦国期にこの地に勢力を張った三村家親の居館を整備して御殿をつくりました。旧成羽高校のグランドにその居館がありました。グランドの南にある公園の中に居館の遺跡が残っています。

また、居館を囲んだ土塁の跡が公園の近くにある工場に隣接した駐車場の中に残っています。雑草に覆われていましたが、石垣とその上の盛り土が見えました。

山崎家治の居館は、成羽川の手前(北)側(旧成羽村)にありました。しかし、その統治は短く、寛永15(1638)年には肥後国天草の豊岡へ移っていきました。

その次に、成羽藩主として入部したのは、常陸国下妻藩主、水谷(みずのや)勝隆(5万石)でした。寛永16(1639)年のことでした。かれは、山崎家治が整備した居館を使わず、成川の南側の鶴首(かくしゅ)山麓近くを流れていた成羽川の流れを変えて、新たな御殿と陣屋町の建設を始めます。

陣屋跡地に建つ成羽小学校には、水谷勝隆がつくった野面積みの石垣が残っています。

小学校の門にもなっている陣屋の御庫門跡から内部に入ります。
ここは、陣屋のお庫が置かれていたところです。

陣屋の石垣の内側には、武者走(むしゃばしり)が残っていました。陣屋の防御にあたる兵の往来のために100mにわたってつくられていました。石垣の上の土塀には狭間が設けられていましたが、現在は埋められています。

武者走りの西の方は、小学校の学級花壇に使われていました。

水谷勝隆は、成小学校がある陣屋の西半分を建設させましたが、4年後、陣屋の完成を待たず備中松山藩に移封されました。

その後、成羽藩主になったのが山崎豊治でした。万治元(1658)年、四国の丸亀から移ってきました。かれは、元成羽藩主山崎家治の子で成羽で生まれました。5千石の旗本でしたが、34家あった交代寄合衆で、老中の支配を受け、知行地に居住でき参勤交代をする権利も認められるなど、大名に準じた家格をもっていました。

山崎豊治は、水谷時代の陣屋を拡張、整備して、近くの備中松山藩(5万石)の御殿「御根小屋」をしのぐ広さをもった陣屋を完成させました。一方で成羽陣屋町に建設も進め、成羽は、この後、明治維新まで山崎氏が10代にわたって支配を続けました。

これは大手門跡。この中は枡形になっていて、門を入って左に曲がって櫓門から陣屋に入るようになっていました。

山崎豊治がつくった石垣は、角や表面をうちかいて整形した石を積み上げた、打ち込みはぎです。

石垣の角の部分は、石の長い面と短い面を交互に積み上げた算木積みになっています。石垣は高いところで390cm、大手門付近は360cm。東西に200m程が現在も残っています。御殿の長さは、東西276m、南北90m。陣屋の南側には390cmの壕が巡らされていたそうです。

小学校の西にあるはす池。陣屋の庭園になっていました。

寺町は、鶴首山の隣の愛宕山麓に配置しました。愛宕山は、2代目藩主山崎義方が、宝永元(1704)年に、江戸の愛宕大権現を勧請して、山頂に、防火の神愛宕神社を祀ったことで知られています。このとき、義方は花火も奉納しており、成羽の夏の風物詩、愛宕花火はこれが起源だと言われています。

山崎氏の菩提寺である桂巌寺(けいがんじ)に向かいます。愛宕山の苔むした参道を登っていきます。

正面に本堂がありました。幅2間の式台をもつ立派な本堂でした。

本堂の左側を入ると、白い土塀で囲まれた藩主山崎氏の墓所がありました。

墓所に入ってすぐ右側にあったのが、山崎豊治の墓碑でした。ここには、成で亡くなった藩主一族の墓碑や灯籠が並んでいました。

ここは、上級武士が居住した本丁です。東の入り口にあった勘定所跡。本丁には、給人屋敷が続いていました。「給人」とは藩主から土地(田)を与えられた家臣で、禄高は概ね100石程度だったそうです。現在は、商店街になっています。

勘定所跡は、西に向かってきた二つの通りが合流するところにあります。そこから東に向かって、右側の通りに入ると柳丁です。入り口に復元されていたのが、坂田雪之烝家の屋敷門です。「本丁から柳丁への入り口付近」と書かれていましたから、この近くに町口番所が置かれていたようです。

坂田家の門に、寛政元(1789)年の「成羽山崎氏陣屋町の配置図」が掲示されていました。柳丁は、給人格の武士や藩主の警護にあたった中小姓が居住していたところです。禄は概ね25俵から20俵程度のようでした。武家屋敷の通りの中央には「昭和の始めまで溝が残っていた」といわれています。敵を後ろに回さないための処置だったそうです。東の端に御門と番所があって通行人を監視していたそうです。今は静かな住宅地といった雰囲気ですが、白い土塀と石垣のある家が何軒か残っていました。

陣屋跡の前の道を西に向かうと星鷹丁に入ります。ここは主に下級武士の居住地で、茶道師範や鷹匠などが居住していたところです。禄は9俵から14俵ぐらいだったとか。地元の方のお話しでは「6畳の間以上の部屋はつくることができなかった」そうです。石垣に白い土塀の民家が残り、玄関付近に当時の面影を残している民家もありました。

この辺りが星鷹町の西の端にあたります。星原御門があって番所が置かれていたそうです。

 
国道313号線を成橋を渡ってすぐ右に進むと下原の町人町に入ります。下ノ丁、中ノ丁、次ノ丁、上ノ丁と続く町人町です。建物は建て替わっていまするが、ところどころに町人町の雰囲気が残っていることころもありました。
 
また、通りから成川にむかう七つの小路には、町人町らしく、金比羅常夜灯や秋葉常夜灯や厄除けの荒神社などが祀られていました。陣屋町があった旧下原村には、延享3(1746)年には、20軒、90人が居住していたといわれています。

西に進むと、通りは民家にぶつかり、鍵形に曲がるカーブになります。城下町にはよく見られる枡形です。

右側にある公民館の付近で2つめの枡形になります。正面には商売繁盛の恵比寿神社。

公民館の前の庭にあったサモトラケのニケ像です。BC300年頃の製作されたギリシャ彫刻の傑作です。両翼を広げ舳(へさき)に立つ勝利の女神。1863年サモトラケ島で発見されたものの復元制作です。

成川をはさんだ下原側と成側を結ぶ総門橋です。江戸時代には、渡し船でつながれていました。下原側の陣屋町の入口に総門がありました。

総門橋を渡って、旧成羽村に入ります。現在は、古町と呼ばれています。江戸時代には、成川の舟運の河岸場(河湊)で栄えていたところです。小泉銅山の銅や弁柄、備中中北部や備後の鉄などの積み出し港でにぎわっていました。旧成羽村には、延享3(1746)年、373軒、1542人が居住していたといわれています。現在は、落ち着いた雰囲気の住宅街になっています。重厚な妻入りの商家が残っていました。
 
江戸時代に上級武士が居住していた本丁商店街の両側に飾られている備中神楽のキャラクターです。事代主命(ことしろぬしのみこと)と奇稲田姫(くしいなだひめのみこと)の像です。事代主命は大国主命の子で、この神の進言で国譲りができました。商売繁盛、海上安全、釣り(漁業)の神。奇稲田姫の命は、八俣の大蛇に飲まれそうになったときに素戔鳴命(すさのうのみこと)に助けられ結婚しました。稲作、愛情、恋愛の神といわれています。「神楽ロード」で活性化を図っているようです。

江戸時代、大名並みの家格をもつ交代寄合、山崎氏の陣屋町成羽は、5万石の備中松山藩(高梁市)をしのぐ陣屋をもっていました。成羽川の舟運によって商業の中心地として賑わいました。しかし、今は山あいの町の多くに共通する過疎の町です。児島虎次郎の作品を展示した美術館や陣屋町の各所にある丁寧な観光案内で観光振興にも努めています。歩いてみると、なかなか楽しい町でした。

本陣が残る、旧東海道二川宿

2012年09月20日 | 日記
暑い夏の日差しの中を、この夏は旧東海道を三日間歩くことにしていましたが、その最後の一日、豊橋市の二川宿を訪ねました。

梅田川と落合川の合流点付近にあることから名付けられた「二川宿」は、昭和63(1988)年に改修・復元された二川本陣が残り、町並み保存に熱心に取り組んでいるところです。
ちなみに、旧東海道で本陣が残っているのは二川宿の他には草津宿があるだけ。貴重な存在です。


国道1号線から、二川のガードをくぐり二川宿の方に向かいました。
「東海道」の案内標識があります。その先が、二川宿の名前の由来となった梅田川にかかる筋違橋(すじかいばし)です。

筋違橋を過ぎて道なりにJR東海道本線の踏切を渡ります。

踏切を渡って、すぐに左折して進む道が旧東海道です。

二川宿の旧街道沿いの建物は、歴史をしのばせる落ち着いた雰囲気を残していました。

二川宿は、東西12町26間。天保14(1843)年には、本陣と脇本陣が各一つと旅籠が38軒あり、1468人(男721人、女734人)が居住していました。


町並みに入ります。すぐ、右側の建物が平成20(2008)年に開設された観光案内所です。かつて、ここは「川口屋」という屋号をもつ旅籠でした。二川宿には、ボランティアが運営している案内所が二つありますが、ここはその一つです。女性スタッフの方からお話しをうかがいました。

そばに、「一里塚跡」と書かれた石標がありました。


いただいたパンフレットを見ながら歩きます。街道の右側にあった八幡神社。

二川宿は、慶長6(1601)年に開設された宿場町ですが、開設当時は二川村と大岩村の二つの村がそれぞれ宿場として、人馬の継ぎ立て業務を担当していました。小さな村で、しかも二つの村の間が1.3km離れていたため、村はかなりの負担を強いられていました。そのため、正保元(1644)年二川村を西に、大岩村を東に移転させ、二川宿と加宿大岩宿として再出発しました。

八幡神社は、その旧二川村の氏神様です。

文化6(1809)年に建立された秋葉山常夜灯が、八幡神社の境内にありました。三河から遠江にかけての地域で厚い信仰を集める「火幸を恵み、悪火を鎮める」秋葉信仰にちなむ常夜灯です。もとは、旧街道をさらに進んだところにある、枡形の南にあったものだといわれています。


通りの右(北)側に、黒く重厚な商家が並んでいます。江戸時代から明治、大正時代にかけて建てられた駒屋と東駒屋の邸宅です。商家としてはここで最も古い建物です。安政3(1856)年創業の駒屋。江戸時代から味噌や溜り醤油を醸造して来ました。隣の東駒屋はその分家で、今も赤味噌を販売しています。江戸末期に建てられた切妻づくりの駒屋は、豪商の邸宅の面影を今に伝えています。裏の広い敷地には、味噌蔵が残っていました。


二川宿の中央部にある二川宿の本陣。馬場彦十郎本陣です。旧街道の左(南)側にありました。文化4(1807)年からこの地で本陣職を勤めていました。間口、17間半(32m)、敷地525坪(1733㎡)。享保年間(1716~1753)の土蔵、宝暦3(1753)年建築の主屋、文化4(1807)年建築の表門が残っています。先ほどお訪ねした観光案内所に、かつての本陣の写真が掲示されていました。

このように、明治時代以降も取り壊されずに残されていましたので、昭和63(1988)年に改修・復元されて、二川宿本陣資料館となり、今も多くの観光客を迎えています。かつての本陣の姿を彷彿させる広々とした敷地に、立派な建物が復元されています。
本陣の隣にある清明屋。寛政年間(1789~1801)の開業で、代々、八郎兵衛と名乗り旅籠を営んでいました。本陣の隣にあったため、大名が本陣に宿泊したときには、上級武士の宿泊場所になっていました。

明治時代まで旅籠を営んでいた倉橋家の遺構を改修して、平成17(2005)年から一般に公開しています。


本陣の向かい(旧街道北側)の民家の壁に、「脇本陣松阪家跡」の案内板があります。ここは、間口7間(13m)奥行19間(35m)93畳の広さだったと書かれています。

松阪家の案内板のあった所は、もともと後藤五左衛門が本陣をつとめていたところです。後藤家はたびたびの火災で没落し、その後を継いで、寛政5(1793)年に本陣職になった紅林権左衛門も、文化3(1806)年に起きた火災の後は再起することができませんでした。このとき本陣職を継いだのが馬場彦十郎家でした。文化4(1807)年、もともとあった馬場家の旅籠を増築する形で、隣の脇本陣松阪家の土地を譲り受けて本陣が完成しました。そのため、脇本陣松阪家は、それまで本陣として使われていたところに、脇本陣を構えることになりました。


本陣の向かいに西駒屋の建物がありました。先に通った駒屋の分家で、味噌や溜まり醤油を販売しています。
こちらも、商家の雰囲気をよく残しています。

さらに進むと、枡形に入ります。その南側に、高札場跡の石碑、小さな社が建っていました。かつて、ここにあった高札場は、現在、二川宿資料館の中に復元されています。また、石灯籠の常夜灯は、先に訪ねた八幡神社に移されています。

ここで二川宿を抜けて、加宿の大岩宿に入ります。
大岩宿から西の二川宿方面に進んでいくと、建物もすこしずつ新しくなっていくような印象でした。

旧街道の右(北)側にあった大岩神明宮。ここは、加宿大岩宿の氏神です。

多くの旧東海道の宿場町が近代的な都市に生まれ変わっているなか、二川宿では、かつての宿場町の雰囲気を大事にした町づくりを進めています。
景観に配慮した町づくりのため、ブロックの上から黒い板をはったり、白い外壁を黒く塗ったりしながらかつての宿場の姿を再現しています。

「二川宿まちづくり会」や「大岩町東まちづくり会」の方々を中心に、のれんををかけたり、二川宿散策マップを作成したり、一輪挿しを格子にかけたり、観光案内所の運営をボランティアで行ったり、ソフト面での活動も活発に行われています。イベントの実施や旧街道沿いの公園の美化活動などなども・・・。 最初に訪ねた観光案内所では、イベントの打ち合わせに来られた会員の方にお会いしました。その中に、岡山県早島町出身の方もおられました。私の家からすぐ近いところで少年時代を送られたとのことでした。

かつての旅籠の屋号を掲示する活動も行われていました。ここ三ツ田屋さんはかつての屋号も同じ三ツ田屋。かつての屋号で今も営業されていました。


大岩神明宮を過ぎるとやがて左にJR二川駅の近代的な駅舎が見えます。
旧東海道は、この先を右にカーブして、次の吉田宿に向かいます。

三日間、掛川から御油・赤坂まで、旧東海道の宿場町を歩きました。全部歩き通す体力がなかったのと休みを有効に使いたかったので、宿場を中心に歩くことにしました。かつての宿場は近代的な建物に変わっていて、「~跡」などの石碑や案内板からしか、かつての姿をしのぶことができないところが多かった印象です。そのため、秋葉常夜灯や「一里塚跡」「本陣跡」「問屋場跡」などを捜して歩くのが中心の旅になりましたが、「東海道」の案内標識はよく整備されていて街道をたどることは比較的容易でした。しかし、時間に追われ、先を急いでひたすら歩くことになり、あげくは「資料館」もきちんと見ていないところもありました。でも、ほんとに楽しい三日間でした。機会をみて、他の宿場も歩いてみようと思っています。


「海上一里」、旧東海道舞阪宿

2012年09月16日 | 日記
旧東海道、三十番目の宿場、舞坂宿は浜名湖の東岸にあります。中世まで淡水湖だった浜名湖は、明応7(1498)年の大地震と津波で湖岸が崩れ、外海とつながりました。切れた所は今切(いまぎれ)と呼ばれていました。対岸にある新居宿との間は「海上一里」(実際には一里18町)、旅人は船で渡っていました。写真は、北雁木(きたがんげ)跡。大名や公家が乗降した船着場の跡です。
これは、歌川広重が描いた「東海道53次」、舞阪宿です。帆を上げた船が描かれ、海が広がる風景が描かれています。ただ、実際には、この地は平坦な地形で山はありませんし、富士山もこの位置にはないのだそうです。

掛川宿から、袋井宿、見附宿と西に向かって歩いて来ましたが、この日は、30番目めの宿場、舞阪宿を歩くことにしました。

JR舞阪駅です。駅を降り南に歩くと、舞坂の松並木の入口、馬郡バス停に出ます。
舞坂の松並木です。慶長9(1604)年、江戸幕府の指示で黒松を植えたのが始まりで、旧馬郡村から舞坂宿の入口(見附の石垣)まで、8町40間(900m)の両側に1420本植えられていました。
昭和13(1938)年、国道の付け替えのときに堤を崩して、両側に歩道をつけて、今の姿になりました。
この松並木は、後に新たに植え直したもので、今も約700mの間に330本が残っています。

国道との交差点近く、松並木を抜ける手前に、「浪小僧」の像がありました。遠州灘の浜で、漁師が地引き網にかかった浪小僧を助けてあげたそうです。浪小僧はそのお礼に、海が荒れたり風が強くなったりする時には、海の底から太鼓を鳴らして教えてくれるようになったということです。浪小僧への感謝を込めてつくったものです。

浪小僧のモニュメントを過ぎると、国道1号線と斜めに交差しているところに出ます。

国道1号線の向こう側に、舞阪宿の案内標識がつくられていました。標識にしたがって、交差点を横切ってまっすぐに進みます。

旧東海道の両側に、見附の石垣が残っていました。ここが舞阪宿の入り口になります。宝永6(1709)年の古地図には石垣が載っているそうで、江戸時代の中期にはつくられていたそうです。ここに、6尺棒をもった番人が立って、人馬の出入りを監視していました。

舞坂宿は東西6町。天保14(1843)年には、2つの本陣、1つの脇本陣と28の旅籠など541軒の建物があり、2475人(男1254人・女1221人)が居住していました。

左側に「秋葉の常夜灯」と一里塚跡がありました。常夜灯は文化12(1815)年の建立。文化6(1809)年、宿場の大半を焼く大火があり復興に苦労したそうです。「火幸を恵み、悪火を鎮める」秋葉信仰の高まりを受けてつくられたといわれています。宿場には、この他に、文化10年(1813)年につくられた2つの秋葉常夜灯が残っていました。

一里塚は、慶長9(1604)年の幕府の指示によってつくられましたが、通常は、京に向かって、左側には榎、右側には松が植えられました。天保年間の「左右の木共松」という記録があるそうで、両側とも松だったようです。しかし、「大正時代まで1抱えもある大きな榎が生えていた」という古老の話もあり、榎が植えられていたときもあったようです。

現在の舞阪宿の家並みです。建物はすべて建て替えられていましたが、宿場町らしい雰囲気は残っていました。舞阪宿は
東西6町余り、約650mほど続いていました。
茗荷屋脇本陣。街道の左側にありました。旧東海道中53宿の中で、脇本陣の遺構が唯一残っているのがここ舞阪宿です。天保8(1837)年に建築されたものを、平成9(1997)年に解体修理して復元されました。

脇本陣の入り口です。提灯が雰囲気を醸し出しています。

藩主が宿泊、休憩した上段の間です。

中庭をはさんで、上段の間が見える美しい光景です。

旧舞阪宿には、2つの本陣と1つの脇本陣があったといわれています。脇本陣の向かいに源馬徳右衛門本陣の東隣、百姓十右衛門邸をはさんだ東側に、宮崎伝左衛門本陣がありました(脇本陣にあった説明)。「本陣跡」の案内標識は、駐車場の脇に建っていました。

脇本陣を過ぎて、左側に秋葉常夜灯(文化10=1813年建立)を見ながら進むと本雁木跡に着きます。雁木は三カ所ありました。本雁木は中雁木ともいわれ、主に武家用につくられていて、最も多くの旅人に利用されました。「雁木」は石垣を階段状に積み上げたつくりで、船着場として利用されていました。舞阪宿では、「雁木」は「がんげ」と呼ばれていました。

本雁木から、南に下っていきます。神社の鳥居の前に「渡荷場跡」の案内板が立っています。本雁木の南にあった南雁木。ここは、庶民が乗降したところですが、それとともに荷の積み降ろしも行ったところです。「渡荷場(とうかば)」と呼ばれていました。ここの石垣は、昭和25(1950)年の漁港修築工事で姿を消しました。そのとき、30m東にあった水神様を移しました。

本雁木に向かって引き返して、本雁木を越えてさらに北に向かいます。「渡船場跡北雁木」の標識が見えます。明暦3(1657)年から寛文元(1661)年にかけて構築された北雁木。大名や公家が乗降した乗降場です。街道から幅10間(18m)の石畳が水際まで敷き詰められています。

江戸時代には、船一艘貸し切るのが普通だったようで、天保8(1837)年には、貸切りで、332文ほどかかったようです。個人旅では、天保10(1839)年には、一人16文必要だったということでした。また、渡船の業務は、新居宿が請け負っておりました。舞阪宿から新居宿に向かう船は、新居の関所との関係で、一番方は午前4時、夕方の最終が午後4時でした。舞阪宿も、その莫大な利益のために、たびたび渡船業務を請け負うことを提案しましたが、かなえられることはありませんでした。

石垣の白い部分は、昭和28(1953)年の台風で崩れた石垣を、積み直したところです。東側に「浜松宿に二里半(12町)」と書かれた北雁木常夜灯がつくられていました。

ぎらぎらと夏の日差しが照りつける日でしたので、松並木の緑と今切の渡しの海の青色、空の青色と雲の白色が目にしみました。本当に美しい宿場町でした。

雁木から、船で「海上一里」。
向かいは、関所で有名な新居宿(あらいしゅく)です。



”ジュビロ磐田”の町、旧東海道見附宿

2012年09月12日 | 日記

Jリーグ、J-1の”ジュビロ磐田”で知られる静岡県磐田市。


駅前の通りには、マスコットの”ジュビロくん”の像が立っています。彼は静岡県鳥のサンコウチョウで、”ジュビィちゃん”という恋人がいます。

国道1号線の近くにあったお店、”ジュビロ”にあやかったのでしょうか?市民のチームに寄せる気持ちを感じました。ちなみに”ジュビロ”とはポルトガル語やイタリア語の「歓喜」を表す言葉らしいですね。

磐田市は、見附宿があった見附村とJR磐田駅南付近の中泉村が昭和15(1940)年に合併してできた磐田町が、昭和23(1948)年市政を敷いたことで生まれました。
暑さの厳しい夏の一日、見附宿の入り口から旧東海道に沿って、JR磐田駅まで歩きました。

江戸時代、ここは旧東海道53次の28番目の宿場、見附宿でした。
京から江戸に上る旅人が、ここで初めて富士山を見ることができたことから名づけられました。

「遠州鈴ヶ森」で国道1号線と別れて旧街道に入ります。ここは、遠江金谷生まれの大盗賊、日本左衛門の首が晒されたところです。彼は美濃から相模にかけて60人ともいわれる盗賊団を率いて荒らし回った末、江戸で火付盗賊改に捕らえられたそうです。

ここにもあった秋葉灯籠の常夜灯。火を絶やさず燃やし続けました。遠江から三河にかけての地域の秋葉信仰を今に伝えています。大正4(1515)年につくられたものです。

この先の坂を下ると、見附宿に入ります。
その手前に、「阿多古一里塚」があります。江戸から62里。両側の塚が現存していると聞いて捜してみました。しかし、右(西)側の塚(と思われる盛り上がり)が民家の間に見えたのですが、個人の住宅の中を通らなければならないため確認できませんでした。また、「左(東)側の塚は坂の下から登る愛宕神社の中だ」と近所の方からお聞きして、行ってみたのですが、草が生い茂っていて神社の裏まで行けず確認できませんでした。写真の左上の樹木の中だと思いますが・・。時間をかけて捜したのですが、残念でした。

坂を下ると、東の木戸のモニュメントが建てられています。この辺りが宿の入り口です。

民家の前に置かれた案内標識です。

見附宿は、東西11町40間。
天保14(1843)年には、2つの本陣と1つの脇本陣、旅籠が56あり、3935人(男1898人、女2037人)が居住していました。


旧街道を、のんびり10分ほど歩くと、宿場の中央部に入ります。

平成19年(2007)年に移築復元された、脇本陣大三河屋の門。重厚で落ち着きがある脇本陣らしい風格を備えています。脇本陣の門として使われた後、中泉村の中津川家に移されていました。大三河屋はふつうの旅籠から、文化2(1805)年に脇本陣になったそうです。

静岡銀行の一角にある問屋場跡の碑。伝馬の継ぎ立ての事務を行っていた役所です。
案内板を見ると、脇本陣大三河屋は問屋場の向かいにあったようですね。

旧街道沿いでしたが、うっかりすると見逃しそうなところに、私たち岡山県人にはなじみの深い名前を見つけました。「鳥人浮田幸吉住居跡」です。

岡山城下町の入り口にあった京橋で、日本で初めて空中を飛んだ人です。
岡山では、表具師幸吉の名で知られています。かれは、宝暦7(1857)年、備前国八浜村(現玉野市)の生まれ。父の死後、岡山城下町の紙屋に奉公に出て表具を学びます。天明5(1785)年、竹を骨組みにし紙と布でつくった翼で、岡山城下町の入り口にある京橋から飛び降りました。世間を騒がせたということで、岡山藩から「所払い」の処分を受けます。

その後、駿河国駿府で「備前屋幸吉」の名で、ふるさとの児島木綿を扱う店を開きます。商いが軌道に乗ったところで兄の子に店を譲ります。こちらでは、技術力の高い義歯をつくることで名前を知られていたそうです。

その先で、南北に交差する秋葉道を渡ります。

渡ってすぐ、川根茶を扱うお店があります。
そこに、「本陣跡」の標識があります。二つあった本陣の一つ、北本陣の跡。もう一つの南本陣は、その向かいにあったようですが、案内は見つかりませんでした。


北本陣の脇の道を北に入ると、現存している木造洋風校舎の見付学校に着きます。磐田市が誇る文化財の一つです。
見附宿は「附」の字で表記されるケースが多い印象ですが、ここには「付」の字が使われていました。


明治8(1875)年に完成しました。設計は「堂宮棟梁」伊藤平右衛門でした。

明治5(1872)年の学制発布の後、各地に学校がつくられるようになりました。

私が訪ねたところでは、松本市の開智学校が明治8(1875)年に、宇和島市卯之町の開明小学校が明治15年(1882)年に完成しています。写真は松本市に残る開智学校です。

岡山県真庭市久世の遷喬小学校です。この学校は、明治40(1907)年に完成しました。見付学校は、全国的に見てもかなり早い時期に設立された学校でした。

明治14(1881)年には、男300人、女182人(482)人が在籍していました。当時の就学率は66%だったそうです。

机の上には教科書が、1冊ずつ置かれていました。

当時の卒業証書が掲示されていました。中に書かれている「中泉学校」は、隣村にあった学校なのでしょうか?

5階建ての見付学校の最上階部分です。太鼓楼で、明治8(1875)年から大正末期まで使われたそうです。登校の合図や正午の時報として、最初は「小使いさん」が、後には太鼓当番の上級生が毎日たたいていたそうです。

「伝酒井の太鼓」。
三方原の戦いのとき、敗れて逃れる徳川家康のために、浜松城で酒井忠次が打ち鳴らしたと伝えられています。

旧東海道をさらに西に向かって歩きます。

15分ぐらいで、旧東海道は左折します。まっすぐにやや狭い道を進むと「姫街道」です。ここは姫街道との分岐点でした。

入り口に「姫街道」の標識が立っていました。
姫街道は旧東海道の脇往還。海路を嫌う女性が好んだため名付けられた街道で、35番目の御油宿の東で、旧東海道に合流していました。

左折して、JR磐田駅方面に向かって歩きます。

右側の西光寺の表門は、中泉村にあった中泉御殿(徳川家康や将軍の宿泊所で、後に代官所として使われました)の門を移築したものです。

西光寺のそばに、西木戸跡のモニュメントがつくられています。
この辺りで、見附宿を出ることになります。

旧東海道は、さらに、遠江国分寺跡や府八幡宮を経てJR磐田駅に向かって進みます。
暑い中、汗をだらだらかきながら、30分以上歩きました。
途中の案内板で確認すると、旧東海道はJR磐田駅の手前で右(西)に進むようです。

どの通りかわからなかったので、観光案内所で確認しました。旧東海道は駅前通りの一本北の通りだったようです。JTBが入る建物の北側を西に向かっておりました。

つきあたりがJR磐田駅。やっと着きました。朝から歩いたのですが、もう昼食時を過ぎていました。
色あざやかな駅舎でした。

”ジュビロ磐田”の磐田市は、見付学校や、岡山ゆかりの「表具屋幸吉」の生家跡など、見どころ満載の町でした。

「東海道どまん中」、袋井宿を歩く

2012年09月08日 | 日記

掛川宿方面から袋井宿に入りました。写真は、振り返って掛川方面を撮影したものです。

東海道53次の27番目の宿場、袋井宿。
前日歩いた掛川宿から2里16町(9.5km)の所にあります。

掛川宿から、旧東海道を来た旅人は、袋井市役所にぶつかります。
市役所を建設したときに旧東海道が分断され、宿場町の入口にあった天橋(あまはし)もなくなったといわれています。
市役所の手前を左に折れてしばらく進みます。

川の手前で右折します。案内板と「これより袋井宿」の石碑が見えます。

再建された天橋を渡ると、枡形があり、袋井宿の町並みが始まります。

天橋を渡ってすぐ右側に、観光案内所「どまん中茶屋」がありました。
地元の方がボランティアで、観光客の相談に対応しておられます。

旧東海道は、「どまん中茶屋」を過ぎて右に行く道です。

袋井宿は、東西5町15間(約600m)。東海道の宿場町は、慶長6(1601)年に開設されたものが多いのですが、袋井宿は少し遅れて元和2(1616)年に開設されました。


今では、町並みのほとんどの民家が建て替えられており、宿場町の面影をしのぶのはかなり難しいことでした。

旧東海道を15分ぐらい歩くと、通りの右側に本陣跡の門が再建されていました。

袋井宿は天保14(1843)年には、3つの本陣と旅籠50軒があり、843人(男379人、女464人)が居住していました。この本陣は、間口13間半、奥行31間、建坪288坪であったと説明にはありました。

ここは、「一番本陣」と呼ばれた東本陣で、当主は「田代八郎左衛門」を代々名乗っており、伝馬の運営にあたる問屋場の責任者、「問屋」も兼ねていました。明治になって、本陣を廃業し、伝馬所(問屋場から改名)の元締役をつとめ、郵便事業の開始とともに、その取次所も兼ねていました。本陣の建物は最初の袋井郵便局になりました。(本陣跡の説明)

東本陣跡から10mぐらい進んだ、街道沿いの民家の駐車場に、問屋場跡の碑が建っていました。問屋場の「問屋」は、東本陣の田代八郎左衛門でした。文化年間(1804年~1817年)には、問屋場は中本陣(中太田本陣)の西側にあったといわれています。

さらに進むと、街道右側の民家の前に「西本陣跡」の碑がありました。西太田本陣の跡です。3つあった袋井宿の本陣は、いずれも街道の右(北)側に置かれていたそうです。

高札場が復元されています。

宇刈川にかかる御幸橋(みゆきばし)のたもとにあった本町宿場公園。宿を囲む土塁や高札場、秋葉灯籠が復元されていました。ここが、袋井宿の西の端になります。本町宿場公園の脇を南北に通る道を渡ると、旧川井村に入ります。


明治元(1868)年に建てられた寺沢家長屋門。旧東海道沿いでは珍しいそうです。

国道と合流した旧東海道をさらに西に向かって歩きます。本町宿場公園から40分ほど歩いたところで松橋を渡ります。

前方の横断歩道の手前で、再び旧東海道は国道から分かれます。

右へ入る旧街道を進みます。
頻繁に車が行き来する国道の喧噪がうそのような静かな通りです。

国道と分かれて5分ほどで、左側に、復元された”木原の一里塚”が見えます。江戸から601番目の一里塚です。一里塚は街道の両側に土を盛り上げて塚をつくり右側に松、左側に榎の木を植えていました。ここには、街道の左側に、榎の木が植えられていました。
一里塚の実際にあったところは、ここより60mぐらい東だったようです。

旧東海道は、この先で再び国道に合流します。
そして、次の見附(見付)宿方面に向かっていきます。


照りつけていた太陽が沈み始めたので、JR袋井駅に引き返すことにしました。
袋井駅に着いた時にはかなり暗くなっていました。

駅前にある「どまん中、ふくろい」。

街道沿いにある「どまん中 西小学校」。

天橋の「どまん中 茶屋」などなど。

袋井市は、旧東海道53次の真ん中、27番目の宿場であることをウリにした町づくりを進めているユニークな町でした。特に、「どまん中 西小学校」には、思わず笑ってしまいました。



掛川城と七曲り、掛川市を歩きました

2012年09月04日 | 日記
旧東海道掛川宿を歩きました。「掛川」の地名の由来には二つの説があるそうです。一つは、町の中心を流れる逆川に切り立った崖が多かったため、「崖川」とか「欠川」と呼ばれたことに由来するという説。もう一つの説は、平安時代の平将門の乱の後、将門を含む19人の首を川の水で洗った後、橋に掛けて首実検したところであるため、「掛川」になったとするものです。大変な暑さの中でしたが、特に印象に残ったものが二つありました。

一つは、青い空に生える白亜の掛川城天守閣です。白漆喰の白さが目にしみました。

丘の上に建つ天守閣と太鼓櫓(手前)です。太鼓櫓は、もとは三の丸(本丸の東側の下段)にあったものですが、本丸に移されていました。

掛川城天守閣は、平成6(1994)年、木造で再建されました。日本初の木造で復元された天守閣でした。

青森ひば材を使用しており、天守閣に入るとほのかに木の香がただよう魅力的なお城です。現存する12の天守閣(国宝・国指定重要文化財)以外では、岐阜県の郡上八幡城に次いで、私には二番目に訪ねた木造で再建された天守閣でした。天正18(1590)年、山内一豊(秀吉の家臣、5万1千石)が掛川城に入り、天守閣を備えた城郭に整備しました。それまでの掛川城は、室町中期の文明年間(1469年~1487年)に、守護大名・今川義忠が家臣の朝比奈泰照に命じて築いたものでした。

山内一豊は、天正9(1581)年、安土城での馬揃(うまぞろえ)のとき、馬を買う資金がありませんでした。それを知った妻、千代はへそくりで東国の名馬を買い、それが、織田信長の目にとまったのでした。良妻賢母の妻のエピソードでよく知られています(「常山紀談」)。 ちなみに、一豊はこの時の妻の恩に感謝してか、側室をもたなかったともいわれています。

天守閣のある本丸の東側、一つ下の段にあった二の丸御殿です。掛川藩の藩政を進めるために、藩主や家臣が詰めた政庁です。

外部からの目隠しのためにつくられた、二の丸御殿東側の「黒土塁」。藩の政治の中枢、二の丸御殿にふさわしいつくりです。

藩主が政務をとった二の丸書院上の間。

藩主が政務の合間に休憩した二の丸小書院も残っていました。

天正18(1590)年から10年間、この地で過ごした山内一豊は、関ヶ原の戦いのときに、徳川家康に対して「掛川城を使ってほしい」と申し出ました。これをきっかけに、東海道沿いの城主も次々に提供を申し出るようになったそうです。関ヶ原の戦いでは大きな功績をあげることはできなかったようですが、戦いの後、家康は「一豊の功績は随一である」と言って、その功績を称えたということです。関ヶ原の戦いの後、一豊は、家康から土佐藩24万石(土佐一国)を与えられ、掛川城とそっくりの高知城天守閣を築城しました。

その後、掛川城は、安政元(1854)年の「安政東海地震」によって、天守閣や二の丸御殿など城の大半が倒壊しました。二の丸御殿は、文久元(1861)年に再建されましたが、天守閣は再建されることはありませんでした。このとき再建された二の丸御殿は、昭和55(1980)年、国の重要文化財に指定されています。
  
掛川城天守閣の再建にあたっては、山内一豊が創建した当時の天守閣に似せて再建するために、高知城の天守閣を参考にしたそうです。再建された掛川城は、平成18(2006)年に「日本100名城」(42番目)に選定されました。

連雀町にある掛川信用金庫連雀支店の左脇の通りを右(北)に曲がります。

大手門通りの先に掛川城大手門があります。

大手門は、平成5(1993)年、青森ひば材で再建されました。本来の位置より、50m北に移転しているそうです。

これは、旧東海道連雀町から見た大手門付近。周囲の建物が中央の大手門と見事にマッチしていました。 
   

もう一つ印象に残ったのが、旧東海道を江戸から京都に向かって、掛川宿に入るところにあった「七曲り」でした。山内一豊が整備した掛川城下町の東につくられています。一豊の城下町づくりの一環としてつくられたものでしょう。

全国の城下町には、防御のため、容易に入れないようにする工夫がしてあり、枡形をつくったり、鍵形をした通路をつくったりしていました、掛川宿では「七曲り」のカーブの多い道をつくっていました。

七曲りに入ります。旧東海道から案内標識にしたがって左折します。      

建物の間から掛川城が見えました。今では建物の陰になっているところもありますが、江戸時代には城下のどこでも、こんな光景が見られたことでしょう。

正面右側にある予備校の手前を右折して進みます。

つきあたりに、秋葉常夜灯がありました。遠江国から三河国にかけての地域でさかんな秋葉山信仰。秋葉の常夜灯は、ここにもありました。

そういえば、歌川広重の「東海道53次」の掛川宿には秋葉山が描かれています。常夜灯の前を左折します。

正面にある「かねも」の工場の門の手前を右折してさらに進みます。

次に、仕出し料理の魚林のところの行き止まりを再度右折します。

道の先の「塩の道の道標」を右側に見ながら道なりに交差点を左に曲がります。いただいた「案内」には、「七曲り」の終わりに木戸と番所が置かれていたと書かれていました。

ヤマサキショップの手前を右に折れます。

この先は、仁藤町。丁葛(ちょうくず)製造本舗桂花園の手前の道を左に曲がります。ここで「七曲り」は終わりでした。数えてみると、カーブは8つありました。「八曲り」が正しいのもしれません?

江戸時代には、「七曲り」といっても一本道で迷うことはなかったのでしょうが、今は道路も大小たくさんあって、旧東海道をたどるのもなかなか大変でした。

ここからは、旧東海道掛川宿に入ります。まっすぐ進むと連雀町。仁藤町も連雀町も、江戸時代、掛川宿の伝馬役をつとめていました。

掛川宿は、東西8町(約850m)。天保14(1843)年には、本陣2軒、旅籠30軒を含めて960軒。3443人(男1634人、女1809人)が居住していました。

掛川信用金庫連雀支店の先を右に曲がって進むと、先ほどの大手門通りになります。

連雀町の駐車場に、沢野弥三左衛門本陣跡の案内板がありました。寛永年間(1624年~1643年)から幕末までつとめたようです。何回か火災に遭いましたが、その都度再建されたそうです。

この道は、次の旧東海道袋井宿に向かって、さらに西に延びておりました。


帰りに寄ったJR掛川駅。駅舎も木造建築でした。

山内一豊がつくった掛川城下町から発展した静岡県掛川市。一豊の時代の掛川城にこだわって、木造の天守閣を再建した掛川市。「一豊の城下町」を誇りに、町づくりを進める掛川の人々の心意気に触れた一日でした。


 
 

旧東海道赤坂宿を歩く

2012年09月01日 | 日記
旧東海道の御油宿から、
京都方面に向かって、赤坂宿まで歩きました。

御油宿を出ると、約700mにわたって続く御油の松並木に入ります。

御油宿で「悪い狐が出て旅人を化かすから」といわれたのも聞かず、松並木に入った弥次郎兵衛は、そこで、先を行っていた喜多八に追いつきました。しかし、宿での話を信じていた彼は、喜多八を狐と思って突き飛ばし、縛り上げ、追い立てながら赤坂宿へ向かいます。
十辺舎一九の「東海道中膝栗毛」に出てくるお話です。

江戸時代、御油の松並木の裏には竹藪が広がっており、昼なお暗いところでした。付近の山には狐やタヌキが生息し、田畑や街道にも出没していました。

松並木の中に、二人から名前をとった「弥次喜多茶屋」がありました。

歌川広重が、旅籠の中で化粧をする飯盛女を描いた赤坂宿。
「宿に遊女多し、同じ宿なれども、御油は賤しく、赤坂はよろし」(太田南畝「改元紀行」)と書かれているそうです。後世の人まで読むことは考えていなかったのでしょうね。ずいぶんはっきり書かれています。赤坂宿の方にはお気の毒な感じです。

赤坂宿は、東西8町30間(約900m)。
天保14(1843)年には、3本陣、1脇本陣、旅籠が62軒あったようです。家数は全部で349軒、人口1304人(男578人、女726人)が居住していました。

現在の赤坂の町並みです。
建物は建て替えられていましたが、落ち着いた雰囲気が残っています。

宿場の中心にあるのが、旅館と食事処を営む大橋屋。
歌川広重が描いた赤坂宿の浮世絵は、この旅籠を描いたものと言われています。
慶安2(1649)年の創業。
その時から数えて19代目にあたるご主人が、今も旅館と食事処を営んでおられます。
旧東海道の宿場で、営業を続けている唯一の旅館です。創業から約360年。営業を続けて来られたのはほんとにすごいことだと思います。

間口9間、奥行23間。
「伊右ヱ門鯉屋」という屋号の大旅籠でした。宝永6(1709)年の大火の後、享保元(1709)年に再建された建物です。表通りに面した二階には、かつて、あの松尾芭蕉も宿泊したそうです。

宿場の東の入り口付近にあった関川神社。
本殿脇に、松尾芭蕉の
“夏の月 御油より出でて赤坂や“
の句碑が建てられています。
御油宿と赤坂宿の距離の短さを詠んだ句です。

寛政8(1789)年、
東見附がここに移されたと言われています。
見附は、宿場に入り口付近に設けられ、
通行する人たちの取り締まりにあたったところです。

大橋屋の向かいに残る、築後200年といわれる尾崎屋。現在は、民芸品店を営んでおられます。

赤坂宿の本陣の門が復元されていました。
残念ながら、内部は更地になっていました。
説明板によれば、宝永8(1711)年には、間口17間半、奥行き28間。門と玄関がついた建物だったそうです。

本陣の松平彦十郎家は人馬の継ぎ立てを行う問屋職も兼ねていました。

その先の街道左側に「お休み処 よらまいかん」があります。

高札場跡の標識。
「よらまいかん」の向かい側の民家と民家の間の水路脇にありました。見落としそうなところでした。
高札場は、宿場の入口付近につくられ、法令や犯罪人の罪名を掲示していました。

少し離れた広場に、復元された高札場がありました。

「よらまいかん」の先に、音羽生涯学習会館に入る道がありますが、その向かいの駐車場に立っているのが赤坂陣屋跡の説明板。
陣屋は、三河の天領(幕府領)を支配するために置かれました。
幕末には三河県役所と改められ、明治5(1873)年に廃止されました。

街道の出口付近に置かれた西見附跡。標識が右手の民家の前にありました。
赤坂宿は、このあたりで終わります。

旧東海道の35番目の御油宿と次の赤坂宿の間は16町(1.7km)、その距離の近さから「一宿のごとし」(太田南畝)といわれていました。
実際、伝馬の継ぎ送りも、
上り(京都方面)は吉田宿(豊橋市)から赤坂まで、下り(江戸方面)は、赤坂宿の次の藤川宿から御油宿まで通して運用しており、まさに「一宿」の扱いでした。

御油宿も赤坂宿も、歌川広重のユーモラスな浮世絵どおり、歩いて楽しい宿場でした。