岡山県の北西部にある高梁市成羽町は、江戸時代の陣屋町として知られています。
高梁市から、国道313号線を西に向かって進むと、左側に石垣に囲われた成羽美術館が見えてきます。当地出身で、倉敷市の大原美術館の作品を収集した児島虎次郎の作品を集めた美術館です。安藤忠雄さんの設計でつくられた近代的な建物を囲っているのが江戸時代につくられた石垣です。
ここは、江戸時代を通して、5千石取りの交代寄合、山崎家の陣屋があったところです。
成羽の町を見下ろす山の中腹に、岡山県在住の作家あさのあつこさん原作の映画、”バッテリー”のロケ地になった運動公園の展望台があります。
写真は、山の中腹にある運動公園の展望台から成羽美術館のあたりを見下ろしたものです。中央を流れる成羽川の向こう側(旧下原村)に白い建物の成羽美術館が見えます。その右側の赤い屋根が成羽小学校です。
元和(1617)年、因幡国若桜藩主だった山崎家治が2万6千石で成羽藩主となり、戦国期にこの地に勢力を張った三村家親の居館を整備して御殿をつくりました。旧成羽高校のグランドにその居館がありました。グランドの南にある公園の中に居館の遺跡が残っています。
また、居館を囲んだ土塁の跡が公園の近くにある工場に隣接した駐車場の中に残っています。雑草に覆われていましたが、石垣とその上の盛り土が見えました。
山崎家治の居館は、成羽川の手前(北)側(旧成羽村)にありました。しかし、その統治は短く、寛永15(1638)年には肥後国天草の豊岡へ移っていきました。
その次に、成羽藩主として入部したのは、常陸国下妻藩主、水谷(みずのや)勝隆(5万石)でした。寛永16(1639)年のことでした。かれは、山崎家治が整備した居館を使わず、成川の南側の鶴首(かくしゅ)山麓近くを流れていた成羽川の流れを変えて、新たな御殿と陣屋町の建設を始めます。
陣屋跡地に建つ成羽小学校には、水谷勝隆がつくった野面積みの石垣が残っています。
小学校の門にもなっている陣屋の御庫門跡から内部に入ります。
ここは、陣屋のお庫が置かれていたところです。
陣屋の石垣の内側には、武者走(むしゃばしり)が残っていました。陣屋の防御にあたる兵の往来のために100mにわたってつくられていました。石垣の上の土塀には狭間が設けられていましたが、現在は埋められています。
武者走りの西の方は、小学校の学級花壇に使われていました。
水谷勝隆は、成小学校がある陣屋の西半分を建設させましたが、4年後、陣屋の完成を待たず備中松山藩に移封されました。
その後、成羽藩主になったのが山崎豊治でした。万治元(1658)年、四国の丸亀から移ってきました。かれは、元成羽藩主山崎家治の子で成羽で生まれました。5千石の旗本でしたが、34家あった交代寄合衆で、老中の支配を受け、知行地に居住でき参勤交代をする権利も認められるなど、大名に準じた家格をもっていました。
山崎豊治は、水谷時代の陣屋を拡張、整備して、近くの備中松山藩(5万石)の御殿「御根小屋」をしのぐ広さをもった陣屋を完成させました。一方で成羽陣屋町に建設も進め、成羽は、この後、明治維新まで山崎氏が10代にわたって支配を続けました。
これは大手門跡。この中は枡形になっていて、門を入って左に曲がって櫓門から陣屋に入るようになっていました。
山崎豊治がつくった石垣は、角や表面をうちかいて整形した石を積み上げた、打ち込みはぎです。
石垣の角の部分は、石の長い面と短い面を交互に積み上げた算木積みになっています。石垣は高いところで390cm、大手門付近は360cm。東西に200m程が現在も残っています。御殿の長さは、東西276m、南北90m。陣屋の南側には390cmの壕が巡らされていたそうです。
小学校の西にあるはす池。陣屋の庭園になっていました。
寺町は、鶴首山の隣の愛宕山麓に配置しました。愛宕山は、2代目藩主山崎義方が、宝永元(1704)年に、江戸の愛宕大権現を勧請して、山頂に、防火の神愛宕神社を祀ったことで知られています。このとき、義方は花火も奉納しており、成羽の夏の風物詩、愛宕花火はこれが起源だと言われています。
山崎氏の菩提寺である桂巌寺(けいがんじ)に向かいます。愛宕山の苔むした参道を登っていきます。
正面に本堂がありました。幅2間の式台をもつ立派な本堂でした。
本堂の左側を入ると、白い土塀で囲まれた藩主山崎氏の墓所がありました。
墓所に入ってすぐ右側にあったのが、山崎豊治の墓碑でした。ここには、成で亡くなった藩主一族の墓碑や灯籠が並んでいました。
ここは、上級武士が居住した本丁です。東の入り口にあった勘定所跡。本丁には、給人屋敷が続いていました。「給人」とは藩主から土地(田)を与えられた家臣で、禄高は概ね100石程度だったそうです。現在は、商店街になっています。
勘定所跡は、西に向かってきた二つの通りが合流するところにあります。そこから東に向かって、右側の通りに入ると柳丁です。入り口に復元されていたのが、坂田雪之烝家の屋敷門です。「本丁から柳丁への入り口付近」と書かれていましたから、この近くに町口番所が置かれていたようです。
坂田家の門に、寛政元(1789)年の「成羽山崎氏陣屋町の配置図」が掲示されていました。柳丁は、給人格の武士や藩主の警護にあたった中小姓が居住していたところです。禄は概ね25俵から20俵程度のようでした。武家屋敷の通りの中央には「昭和の始めまで溝が残っていた」といわれています。敵を後ろに回さないための処置だったそうです。東の端に御門と番所があって通行人を監視していたそうです。今は静かな住宅地といった雰囲気ですが、白い土塀と石垣のある家が何軒か残っていました。
陣屋跡の前の道を西に向かうと星鷹丁に入ります。ここは主に下級武士の居住地で、茶道師範や鷹匠などが居住していたところです。禄は9俵から14俵ぐらいだったとか。地元の方のお話しでは「6畳の間以上の部屋はつくることができなかった」そうです。石垣に白い土塀の民家が残り、玄関付近に当時の面影を残している民家もありました。
この辺りが星鷹町の西の端にあたります。星原御門があって番所が置かれていたそうです。
国道313号線を成橋を渡ってすぐ右に進むと下原の町人町に入ります。下ノ丁、中ノ丁、次ノ丁、上ノ丁と続く町人町です。建物は建て替わっていまするが、ところどころに町人町の雰囲気が残っていることころもありました。
また、通りから成川にむかう七つの小路には、町人町らしく、金比羅常夜灯や秋葉常夜灯や厄除けの荒神社などが祀られていました。陣屋町があった旧下原村には、延享3(1746)年には、20軒、90人が居住していたといわれています。
西に進むと、通りは民家にぶつかり、鍵形に曲がるカーブになります。城下町にはよく見られる枡形です。
右側にある公民館の付近で2つめの枡形になります。正面には商売繁盛の恵比寿神社。
公民館の前の庭にあったサモトラケのニケ像です。BC300年頃の製作されたギリシャ彫刻の傑作です。両翼を広げ舳(へさき)に立つ勝利の女神。1863年サモトラケ島で発見されたものの復元制作です。
成川をはさんだ下原側と成側を結ぶ総門橋です。江戸時代には、渡し船でつながれていました。下原側の陣屋町の入口に総門がありました。
総門橋を渡って、旧成羽村に入ります。現在は、古町と呼ばれています。江戸時代には、成川の舟運の河岸場(河湊)で栄えていたところです。小泉銅山の銅や弁柄、備中中北部や備後の鉄などの積み出し港でにぎわっていました。旧成羽村には、延享3(1746)年、373軒、1542人が居住していたといわれています。現在は、落ち着いた雰囲気の住宅街になっています。重厚な妻入りの商家が残っていました。
江戸時代に上級武士が居住していた本丁商店街の両側に飾られている備中神楽のキャラクターです。事代主命(ことしろぬしのみこと)と奇稲田姫(くしいなだひめのみこと)の像です。事代主命は大国主命の子で、この神の進言で国譲りができました。商売繁盛、海上安全、釣り(漁業)の神。奇稲田姫の命は、八俣の大蛇に飲まれそうになったときに素戔鳴命(すさのうのみこと)に助けられ結婚しました。稲作、愛情、恋愛の神といわれています。「神楽ロード」で活性化を図っているようです。
江戸時代、大名並みの家格をもつ交代寄合、山崎氏の陣屋町成羽は、5万石の備中松山藩(高梁市)をしのぐ陣屋をもっていました。成羽川の舟運によって商業の中心地として賑わいました。しかし、今は山あいの町の多くに共通する過疎の町です。児島虎次郎の作品を展示した美術館や陣屋町の各所にある丁寧な観光案内で観光振興にも努めています。歩いてみると、なかなか楽しい町でした。
高梁市から、国道313号線を西に向かって進むと、左側に石垣に囲われた成羽美術館が見えてきます。当地出身で、倉敷市の大原美術館の作品を収集した児島虎次郎の作品を集めた美術館です。安藤忠雄さんの設計でつくられた近代的な建物を囲っているのが江戸時代につくられた石垣です。
ここは、江戸時代を通して、5千石取りの交代寄合、山崎家の陣屋があったところです。
成羽の町を見下ろす山の中腹に、岡山県在住の作家あさのあつこさん原作の映画、”バッテリー”のロケ地になった運動公園の展望台があります。
写真は、山の中腹にある運動公園の展望台から成羽美術館のあたりを見下ろしたものです。中央を流れる成羽川の向こう側(旧下原村)に白い建物の成羽美術館が見えます。その右側の赤い屋根が成羽小学校です。
元和(1617)年、因幡国若桜藩主だった山崎家治が2万6千石で成羽藩主となり、戦国期にこの地に勢力を張った三村家親の居館を整備して御殿をつくりました。旧成羽高校のグランドにその居館がありました。グランドの南にある公園の中に居館の遺跡が残っています。
また、居館を囲んだ土塁の跡が公園の近くにある工場に隣接した駐車場の中に残っています。雑草に覆われていましたが、石垣とその上の盛り土が見えました。
山崎家治の居館は、成羽川の手前(北)側(旧成羽村)にありました。しかし、その統治は短く、寛永15(1638)年には肥後国天草の豊岡へ移っていきました。
その次に、成羽藩主として入部したのは、常陸国下妻藩主、水谷(みずのや)勝隆(5万石)でした。寛永16(1639)年のことでした。かれは、山崎家治が整備した居館を使わず、成川の南側の鶴首(かくしゅ)山麓近くを流れていた成羽川の流れを変えて、新たな御殿と陣屋町の建設を始めます。
陣屋跡地に建つ成羽小学校には、水谷勝隆がつくった野面積みの石垣が残っています。
小学校の門にもなっている陣屋の御庫門跡から内部に入ります。
ここは、陣屋のお庫が置かれていたところです。
陣屋の石垣の内側には、武者走(むしゃばしり)が残っていました。陣屋の防御にあたる兵の往来のために100mにわたってつくられていました。石垣の上の土塀には狭間が設けられていましたが、現在は埋められています。
武者走りの西の方は、小学校の学級花壇に使われていました。
水谷勝隆は、成小学校がある陣屋の西半分を建設させましたが、4年後、陣屋の完成を待たず備中松山藩に移封されました。
その後、成羽藩主になったのが山崎豊治でした。万治元(1658)年、四国の丸亀から移ってきました。かれは、元成羽藩主山崎家治の子で成羽で生まれました。5千石の旗本でしたが、34家あった交代寄合衆で、老中の支配を受け、知行地に居住でき参勤交代をする権利も認められるなど、大名に準じた家格をもっていました。
山崎豊治は、水谷時代の陣屋を拡張、整備して、近くの備中松山藩(5万石)の御殿「御根小屋」をしのぐ広さをもった陣屋を完成させました。一方で成羽陣屋町に建設も進め、成羽は、この後、明治維新まで山崎氏が10代にわたって支配を続けました。
これは大手門跡。この中は枡形になっていて、門を入って左に曲がって櫓門から陣屋に入るようになっていました。
山崎豊治がつくった石垣は、角や表面をうちかいて整形した石を積み上げた、打ち込みはぎです。
石垣の角の部分は、石の長い面と短い面を交互に積み上げた算木積みになっています。石垣は高いところで390cm、大手門付近は360cm。東西に200m程が現在も残っています。御殿の長さは、東西276m、南北90m。陣屋の南側には390cmの壕が巡らされていたそうです。
小学校の西にあるはす池。陣屋の庭園になっていました。
寺町は、鶴首山の隣の愛宕山麓に配置しました。愛宕山は、2代目藩主山崎義方が、宝永元(1704)年に、江戸の愛宕大権現を勧請して、山頂に、防火の神愛宕神社を祀ったことで知られています。このとき、義方は花火も奉納しており、成羽の夏の風物詩、愛宕花火はこれが起源だと言われています。
山崎氏の菩提寺である桂巌寺(けいがんじ)に向かいます。愛宕山の苔むした参道を登っていきます。
正面に本堂がありました。幅2間の式台をもつ立派な本堂でした。
本堂の左側を入ると、白い土塀で囲まれた藩主山崎氏の墓所がありました。
墓所に入ってすぐ右側にあったのが、山崎豊治の墓碑でした。ここには、成で亡くなった藩主一族の墓碑や灯籠が並んでいました。
ここは、上級武士が居住した本丁です。東の入り口にあった勘定所跡。本丁には、給人屋敷が続いていました。「給人」とは藩主から土地(田)を与えられた家臣で、禄高は概ね100石程度だったそうです。現在は、商店街になっています。
勘定所跡は、西に向かってきた二つの通りが合流するところにあります。そこから東に向かって、右側の通りに入ると柳丁です。入り口に復元されていたのが、坂田雪之烝家の屋敷門です。「本丁から柳丁への入り口付近」と書かれていましたから、この近くに町口番所が置かれていたようです。
坂田家の門に、寛政元(1789)年の「成羽山崎氏陣屋町の配置図」が掲示されていました。柳丁は、給人格の武士や藩主の警護にあたった中小姓が居住していたところです。禄は概ね25俵から20俵程度のようでした。武家屋敷の通りの中央には「昭和の始めまで溝が残っていた」といわれています。敵を後ろに回さないための処置だったそうです。東の端に御門と番所があって通行人を監視していたそうです。今は静かな住宅地といった雰囲気ですが、白い土塀と石垣のある家が何軒か残っていました。
陣屋跡の前の道を西に向かうと星鷹丁に入ります。ここは主に下級武士の居住地で、茶道師範や鷹匠などが居住していたところです。禄は9俵から14俵ぐらいだったとか。地元の方のお話しでは「6畳の間以上の部屋はつくることができなかった」そうです。石垣に白い土塀の民家が残り、玄関付近に当時の面影を残している民家もありました。
この辺りが星鷹町の西の端にあたります。星原御門があって番所が置かれていたそうです。
国道313号線を成橋を渡ってすぐ右に進むと下原の町人町に入ります。下ノ丁、中ノ丁、次ノ丁、上ノ丁と続く町人町です。建物は建て替わっていまするが、ところどころに町人町の雰囲気が残っていることころもありました。
また、通りから成川にむかう七つの小路には、町人町らしく、金比羅常夜灯や秋葉常夜灯や厄除けの荒神社などが祀られていました。陣屋町があった旧下原村には、延享3(1746)年には、20軒、90人が居住していたといわれています。
西に進むと、通りは民家にぶつかり、鍵形に曲がるカーブになります。城下町にはよく見られる枡形です。
右側にある公民館の付近で2つめの枡形になります。正面には商売繁盛の恵比寿神社。
公民館の前の庭にあったサモトラケのニケ像です。BC300年頃の製作されたギリシャ彫刻の傑作です。両翼を広げ舳(へさき)に立つ勝利の女神。1863年サモトラケ島で発見されたものの復元制作です。
成川をはさんだ下原側と成側を結ぶ総門橋です。江戸時代には、渡し船でつながれていました。下原側の陣屋町の入口に総門がありました。
総門橋を渡って、旧成羽村に入ります。現在は、古町と呼ばれています。江戸時代には、成川の舟運の河岸場(河湊)で栄えていたところです。小泉銅山の銅や弁柄、備中中北部や備後の鉄などの積み出し港でにぎわっていました。旧成羽村には、延享3(1746)年、373軒、1542人が居住していたといわれています。現在は、落ち着いた雰囲気の住宅街になっています。重厚な妻入りの商家が残っていました。
江戸時代に上級武士が居住していた本丁商店街の両側に飾られている備中神楽のキャラクターです。事代主命(ことしろぬしのみこと)と奇稲田姫(くしいなだひめのみこと)の像です。事代主命は大国主命の子で、この神の進言で国譲りができました。商売繁盛、海上安全、釣り(漁業)の神。奇稲田姫の命は、八俣の大蛇に飲まれそうになったときに素戔鳴命(すさのうのみこと)に助けられ結婚しました。稲作、愛情、恋愛の神といわれています。「神楽ロード」で活性化を図っているようです。
江戸時代、大名並みの家格をもつ交代寄合、山崎氏の陣屋町成羽は、5万石の備中松山藩(高梁市)をしのぐ陣屋をもっていました。成羽川の舟運によって商業の中心地として賑わいました。しかし、今は山あいの町の多くに共通する過疎の町です。児島虎次郎の作品を展示した美術館や陣屋町の各所にある丁寧な観光案内で観光振興にも努めています。歩いてみると、なかなか楽しい町でした。