トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

JR四国工場への引き込み線を歩く

2018年04月26日 | 日記

JR四国予讃線の多度津駅です。このところ、多度津駅を起点に歩いています。多度津駅に残る給水塔や転車台(「JR多度津駅に残るSL全盛期の面影(2018年4月9日の日記)」)を見てきました。

駅前に設置されている「四国鉄道発祥之地」のモニュメントです。モニュメントにかかわる、琴平と讃岐鉄道多度津駅も訪ねて来ました(『四国鉄道発祥之地』を歩く(2018年4月13日の日記)」)。

JR予讃線の高松駅やJR丸亀駅方面からJR多度津駅に入る手前で多度津跨線橋の下をくぐりますが、その多度津跨線橋の上から見た予讃線の丸亀方面です。向こう側がJR予讃線の線路です。手前に、左カーブをしてJR四国唯一の整備工場である四国旅客鉄道株式会社四国工場(以下「JR工場」)へ向かう引き込み線が見えます。この日は、この引き込み線を歩いてみることにしました。

駅方面から跨線橋に上がり、左折して西に向かいました。JR四国は、明治22(1889)年、讃岐鉄道によって多度津駅を起点に丸亀駅、琴平駅間が開業されたことが、JR四国の発祥であったとしています。この讃岐鉄道を設立したのは、多度津の廻船問屋、大隅屋の5代目当主、景山甚右衛門を中心とした廻船問屋の人たちでした。多度津からの金毘羅宮への参拝客を輸送することが目的だったといわれています。その後、高松駅まで延伸させましたが、経営は盤石とはいえず、明治37(1904)年には、山陽本線を開業させ、後に宇高連絡船を開業させることになる山陽鉄道に吸収され、明治39(1906)年には国有化されました。

いつも情報をいただいている多度津町立資料館に15分ぐらいで着きました。

これは、資料館でいただいた讃岐鉄道の路線図です。地図の右上(北東方向)が丸亀駅方面で、ほぼ直線状に左(西)側の多度津駅につながっていました。琴平方面へは、来た線路を引き返し(スイッチバック)て、右下(南東)方向に向かっていました。この時の多度津駅は、現在の多度津町民会館の場所にあり、駅に隣接して整備工場も併設されていました。

多度津駅が、スイッチバックの必要のない現在の地に移設されたのは、国有化後の大正2(1913)年のことでした。それに伴い、旧多度津駅は貨物駅の「浜多度津駅」と改称され、新しい多度津駅と浜多度津駅間は貨物支線として使用されることになりました。しかし、モータリゼーションの発展により、昭和54(1979)年、浜多度津への貨物線は廃止され、併設されていた国鉄多度津工場への引き込み線(構内側線)として使用されるようになります。そして、国鉄の分割民営化により、昭和62(1987)年にJR四国になってからも、JR工場への引き込み線として引き続き使用されています。

これは、多度津町民会館です。北に向かって流れる桜川の東岸にあります。この地にかつての浜多度津駅(初代多度津駅)がありました。資料館でいただいた情報で、もう一つ印象に残ったことがありました。貨物駅の浜多度津駅は、昭和5(1930)年に完工した西浜地区の埋め立てに伴い、桜川を越えてさらに西に延伸していたのです。この埋め立てにより多度津港が整備されたため、荷揚場に近いところの方が利便性が高かったことによります。

資料館に掲示されていた「多度津町住宅明細地図 多度津町商店会編纂 昭和9(1934)年調整」と書かれた住宅地図には、延伸した貨物支線の路線が描かれていました。スタッフの方にお聞きしますと「現在の禅林学園(西浜町)と商工会議所(東浜町)の間を走っていました」とのことでした。この写真は、町内の桃陵公園(多度津山上)からみた東浜・西浜地区です。右の高層ビルが禅林学園です。その手前側をまっすぐ左(西)に向かって延びていたようです。まずは、延伸した後の浜多度津駅跡に行ってみることにしました。

資料館からまっすぐ西に向かって進み、町民会館の先で桜川を渡ります。写真は桜川に架かる金刀比羅橋から見た港方面です。右側の敷地が駅跡があった町民会館、その向こう側から右側にかけてJR工場が広がっています。

桜川の西岸を海側に向かって歩き、禅林学園の建物が見えるところに来ました。禅林学園の左側のブラウンの建物が商工会議所です。商工会議所は東浜商店街にあり、禅林学園は西浜町にありました。

後ろを振り返って撮影しました。左側がJR工場、右側が町民会館。この間を、延伸した貨物支線が走っていました。禅林学園の前を、さらに西方にまっすぐ進みます。

道路の右側を、貨物支線が走っていたようですが、痕跡はまったく残っていませんでした。線路の海寄りのところは荷揚場になっていたようです。

多度津山が迫って来るようになりました。このお宅のあたりが駅の先端だったそうです。町民会館方面に向かって撮影しました。ここから引き込み線を歩く旅のスタートです。来た道を引き返します。桜川に出て、多度津の大通り(金刀比羅橋から資料館に向かう通り)を進み、資料館の近くまで引き返すことにしました。

JR工場を左に見ながら進み、右側の中国銀行、左側の山本医院を過ぎ、資料館の手前の交差点を左折します。道路の右側に「旧多度津陣屋蓮堀跡」の石碑がありました。裏には「是従北 幅五間 長さ百間」とあります。江戸時代後期の文政10(1827)年に多度津藩の陣屋が完成したとき、ここには、幅約9m、長さ約1.8kmの堀がつくられ、中央部に大手門がつくられました。そして、左側のJR工場の敷地のところには多度津藩主の御殿が置かれていました。また、堀の右側には家臣の邸宅が並んでいました。多度津藩京極家は丸亀藩の支藩で、陣屋ができる前には、藩主は丸亀城内で藩政を執っていました。

通りの右側を進んでいくと、引き込み線の線路に出ました。そこはJR工場の多度津駅側からの入口にあたり、通行する町民のために「工場踏切」が設けられていました。遮断機も警報機もない第4種踏切で、列車の通過時は係員が無線機と手旗を以て待機しているのだそうです。

JR工場の内部です。この日はDE101139号機が停車していました。

踏切表示には「多度津工場線 915m」と書かれています。起点となるJR多度津駅から915mの距離にあることを示しています。

JR多度津駅方面の光景です。踏切に入る手前で分岐して、工場に入って来る構造になっています。ポイントの切り替えは、手動で行われているようです。

工場踏切から多度津駅に向かって、線路の右側の通りを歩いて行きます。右側は家中(かちゅう)と呼ばれる地域。江戸時代後期には、藩主を守護する武士が居住していたところです。

かつての雰囲気が伝わって来るような家並みが続いています。白壁の土蔵の先に二つ目の踏切がありました。

測候所踏切です。踏切表示には「多度津工場線 750m 測候所踏切」と書かれていました。踏切の向こうに「多度津特別地域気象観測所」という看板が架かった敷地がありました。資料館にあった「測候所」の説明には、「明治24(1891)年に、内務省告示20号で、新町栴檀(せんだん)の海岸に地方測候所の新設の指定がなされ、明治25(1892)年に香川県議会で可決された」とあり、その後に、「香川県立多度津測候所が設立された」と書かれていました。

説明の最後に「昭和39年3月30日 新庁舎(現庁舎)が完成した」とも書かれていましたので、この地は、かつて測候所が設けられていたところだったということになります。また、資料館にあった「多度津町住宅明細地図」には、測候所の先には「海水浴場」と書かれていました。この測候所の敷地の少し先は海岸で、海水浴場として親しまれていたようです。

引き込み線をたどる旅は、どうやら踏切を訪ねて歩く旅になりそうです。踏切以外にはこれといって特色のない道でした。測候所踏切のすぐ先に、美しい芝桜が見えました。付近のお宅の方がお世話をされているもののようです。

線路に沿って進みます。すぐに、次の踏切に着きました。3つ目のこの踏切も、踏切表示だけの第4種踏切でした。「多度津工場線 653m 新町第2踏切」でした。測候所踏切から、97mのところにありました。

踏切から10mぐらいのところに天満宮の本殿がありました。文化8(1811)年、多度津藩主京極高道が灯籠1対を奉納したという記録が残っています。

新町第2踏切から天満宮の山門に向かって、天満宮の玉垣に沿って歩きます。左側に蛭子宮がありましたので、踏切方面に向かって撮影しました。ここで、高齢の男性お二人が、置かれていた椅子に座って、歓談されていました。「小さい頃は、ここから裸で踏切を渡って海水浴場に行ったものだよ」というお話が印象に残りました。測候所の裏にあった海水浴場へ行かれていたのでしょう。天満宮にお詣りした後、引き返し、今度はお堂の右側の道を向こう側に向かって歩きます。

その先にあった新町第1踏切です。これも第4種踏切でした。多度津駅から603m、新町第2踏切から50mのところにありました。

次の踏切がすぐ先に見えていました。天神堀江踏切で、「多度津工場線 579m」と書かれていました。新町第1踏切から、わずかに24mのところにありました。

天神堀江踏切の近くには、昔懐かしい、枕木でつくられた柵が残されていました。柵の向こうに見えるのが、旧香川県立多度津水産高校の校舎です。平成19(2007)年、同じ多度津町内にあった県立多度津工業高校と統合して、香川県立多度津高校になりました。

旧多度津水産高校の校舎の先で、引き込み線は大きく右にカーブして、JR多度津駅に向かって行きます。線路の左前方の道路上に白い乗用車が見えますが、この乗用車のいる道はかつての讃岐鉄道の線路跡です。丸亀からやって来た列車は、ここから現在の引き込み線に入り、旧多度津駅に向かっていました。

旧多度津水産高校の校舎を過ぎると、右側に、最後の踏切、掛浦(かけうら)踏切が見えました。JR多度津駅から318mのところ、天神堀江踏切から261mのところにありました。掛浦踏切を渡って進むと、その先に旧水産高校のグランドや旧正門にいくことができます。

校舎に沿った道路の先、先ほど乗用車が止まっていた道路です。かつての讃岐鉄道は、ここから丸亀に向かっていました。この先の「止まれ」と書かれている交差点を右折して、多度津跨線橋に向かって歩いていきました。

資料館でいただいた讃岐鉄道の路線を示した地図です。この地図を見ると、讃岐鉄道はここで右にカーブした後、その先にある「幸町自動車学校」の敷地に向かって、ほぼまっすぐに進んでいました。

これは、跨線橋から見た現在の自動車学校です。讃岐鉄道はこの下を自動車学校に向かっていました。一方、引き込み線は大きくカーブしてJR多度津駅に入って行きます。

JR四国は、多度津駅を起点にして丸亀駅と琴平駅を結んで開業した讃岐鉄道に始まるといわれています。現在も使用されているJR工場への引き込み線の一部は、讃岐鉄道の時代に敷設された線路を引き継いでいます。由緒ある鉄道を歩き、多度津の歴史を振り返ることのできた旅でした。



<追記>  讃岐鉄道とJR予讃線の合流点をめざして  

JR四国工場への引き込み線は、かつての讃岐鉄道の一部の路線を引き継いでいます。かつて、旧多度津駅から丸亀駅方面に向かう讃岐鉄道の列車は、旧多度津水産高校の裏付近で引き込み線から分岐して、現在のJR予讃線に合流していました。今回は、水産高校の跡地から合流点付近までの1kmぐらいの区間を歩きました。

JR多度津駅にあった現在の市街地図です。左下(南西)から出た引き込み線は、大きく右にカーブしてJR多度津駅に向かっています。讃岐鉄道の列車はまっすぐ地図の中央上部で、現在のJR予讃線と合流していました。この道は、現在、堀江三丁目から堀江四丁目に向かっています。

旧多度津水産高校の校舎の先で、引き込み線は右カーブして進みます。一方、電柱の間に見える道路は、この先まっすぐJR予讃線に向かっています。この道を進みます。

すぐ、小さな交差点になります。右折すると、「春日天満両宮」と扁額に記された神社を経て、予讃線の豊原踏切を渡り多度津跨線橋に行くことができます。このあたりは堀江三丁目になります。

比較的新しい住宅やいちじく畑などの農地が続く道を歩いていきます。

その先に交差点がありました。注意喚起のためか「止まれ」の周囲は赤く塗られていました。左側には、しおかぜ病院が見えました。

交差点から右側100mほどのところに、鴨(かも)踏切(高松から31k679m)とその先のユニコムの工場が見えました。予讃線の線路は右後方から斜めに近づいて来ています。

交差点の先からは堀江四丁目になります。

その先、5分ほどで、右に新開踏切(高松から31k543m)が見えました。予讃線がずいぶん近づいて来たようです。歩いて来た道は、その先で畑地になりました。行き止まりです。新開踏切を抜けた予讃線の列車は通りの正面に進んで行きました。この先が合流点のようです。

交差点を左に迂回して、合流点近くに行って見ることにしました。幸い、農業用の車両が入る道があったので線路近くまで行くことができました。歩いて来た道を振り返ってみました。正面の電柱の下にかすかに道路が見えます。讃岐鉄道の列車は、そこからここに向かっていたのではないでしょうか。
                                           (2018年8月18日)

 

「四国鉄道発祥之地」を歩く

2018年04月13日 | 日記

JR予讃線の駅、多度津駅です。香川県仲多度郡多度津町にあります。前回、多度津駅を訪ねたとき(「JR多度津駅に残るSL全盛期の面影」2018年4月9日の日記)、駅前にあるJR四国が設置した「四国鉄道発祥之地」のモニュメントを見てきました。近くにあった説明には、JR四国は、「明治22(1889)年に讃岐鉄道株式会社(以下「讃岐鉄道」)によって、多度津駅を起点として丸亀駅と琴平駅間15.5kmで営業が始まったのが当社の始まり」だと書かれていました。この讃岐鉄道による開業は四国で2番目のことで、明治21(1889)年、伊予鉄道が松山駅(現在の松山市駅)と三津駅間を開業させたのが最初だといわれています。

これが、そのモニュメントです。説明には、続けて「その頃の多度津駅は、この地点より西へ1kmの、多度津町大通り(JR多度津工場の西側)にあった」と書かれていました。他に2ヶ所に設置されている「四国鉄道発祥之地」があるとのことでしたので、それを確かめたいと思いました。

最初に、讃岐鉄道が開業したときの多度津駅を訪ねようと思いました。現在の多度津駅からまっすぐ駅前通りを進みます。この通りは公的機関が集中しているところでした。交番、香川県立多度津高校、多度津町役場が並んでいます。

香川県立多度津高校です。多度津町にあった、旧多度津工業高校と旧多度津水産高校が統合されて、旧多度津工業高校のあった場所に、新たに設立されました。

多度津町役場は桜川にかかる豊津橋のたもとにあります。まず、多度津町立資料館に寄って情報をいただこうと思いました。橋の手前を右折して進みます。この先で桜川は左に大きく湾曲しています。

右折しました。桜川に沿った、灯籠が並んでいる通りをまっすぐ歩いて行きます。

左に湾曲している桜川が見えなくなると、交差点に入りました。資料館の案内標識が見えました。その下に、二つの石標があります。手前の石標には「多度津町道路元標」と書かれていました。町の道路の起点となる地点を示しているものです。その向こうの石標には「旧多度津陣屋蓮堀(はすぼり)跡」。裏には、「是従 北 幅5間 長さ 百間」と書かれていました。信号の向こうには、江戸時代には多度津藩の蓮堀があり、堀の左側は、陣屋の御殿が広がっていたところです。道路の起点になるのにふさわしいところだと思いました。

信号を右折します。2軒目に多度津藩主京極家の家紋である(多度津町章でもある)「菱四つ目定紋」がついているお宅がありました。ここが元多度津藩士浅見家の邸宅を改造した資料館でした。スタッフの方から多くの情報をいただきました。さて、讃岐鉄道を開業させたのは、景山甚右衛門を中心にした多度津の廻船問屋の人々でした。所有する千石船で行った東京で蒸気機関車を見た甚右衛門は、これからは、天候に左右されず、安全に多数の人を1度に輸送ができる鉄道の時代だと考えたのです。多度津で財力を持っていた経済人とともに讃岐鉄道株式会社を設立し、明治22(1889)年に、多度津を起点に丸亀と琴平とを結ぶ鉄道を開業させました。四国では、冒頭で書いたように、伊予鉄道に次ぐ2番目、全国では9番目の開業でした。

浅見家は、多度津藩では中級武士の家柄だったそうですが、豪壮な武家屋敷の土塀が続く立派な邸宅でした。さて、開業した讃岐鉄道は、上等、中等、下等の3ランクに分かれており、貨車と客車をあわせて4両編成で運行していました。それを、牽引していたのは、ドイツのホーエンツォレル社の蒸気機関車でした。明治30(1897)年には、高松駅まで延伸しましたが、高松方面は営業的には苦しい状況が続いたため、景山甚右衛門は、食堂車をつくり女性を列車ボーイとして配置したといわれています。しかし、苦しい状況は改善されず、明治37(1904)年には山陽鉄道に買収され、さらに2年後の明治39(1906)年には国有化されました。

来た道を引き返します。道路元標があった交差点を過ぎて進みます。左側に極楽橋があるところの右側に、中村医院の建物がありました。大正15(1926)年に建てられた木造2階建てモルタル塗りの洋風の医院建築で、国の登録有形文化財に登録されています。写真の山本医院の建物の左側は、JR多度津工場の敷地になっていました。

通りの右側に機関車の動輪が見えました。「四国旅客鉄道株式会社 多度津工場」と書かれています。JR四国唯一の車両工場で、JR四国の全車両の点検整備や改造を行っているところです。

正門から見た内部の状況です。讃岐鉄道の時代から、初代の多度津駅に隣接してつくられていた整備工場です。平成21(2009)年に「近代化産業遺産」(経済産業省)に認定され、平成24(2012)年に登録有形文化財(文化庁)に登録された7つの建物が今も使用されています。最古のものは、明治21(1888)年に建設された、開業時の建物だそうです。

その先、左側にあった須賀金刀比羅神社です。「昔、金毘羅汐川の神事、此の地にて執り行へり 因ってこの社を建つ(「西讃府志」)と誌された由緒ある古社であり、海水と海藻を琴平の本宮に奉仕する儀式を伝承し、現在に至る」と「説明」に書かれていました。また、裏を流れる桜川の岸には「金毘羅大権現 御上陸された場と伝えられる」と書かれた石標が建っていました。資料館でいただいた「江戸末期の陣屋」という屋敷割図には、現在の多度津町民会館があるあたりまで、道路を越えて神域が広がっていました。明治23(1890)年に道路が開通したときに、現在のようになったそうです。讃岐鉄道は、江戸時代に藩によって整備された多度津港に上陸した参拝客や物資の輸送のために開業された鉄道でした。

金毘羅宮の向かい側、そして、JR多度津工場の並びに、「多度津町民会館」が広々とした敷地の中にありました。ここに、讃岐鉄道の初代の多度津駅がありました。丸亀駅からやって来た列車は、琴平駅に向かってスイッチバック(引き返し)で進み、旧多度津水産高校の校舎跡付近で右にカーブして琴平駅方面に向かっていました。資料館に展示されていた駅舎の模型から、2階建てで、1階に多度津駅、2階に讃岐鉄道の本社が置かれていたことがわかります。1階部分には、駅舎の中央から入り、右側に「上・中等待合室」その先に「貨物取扱室」が、左側には「下等待合室」とその先に「駅長室」が置かれていました。入口からまっすぐ進むと改札がありその先がホームになっていました。2階の本社のエリアには、社長室、応接室、事務室、技術室、宿直室、トイレなどが置かれていたようです。

2つ目の「四國鐵道発祥之地 讃岐鐵道多度津驛趾」の石標が、広い駐車場の右側の芝生の上にありました。平成2(1990)年に町政施行百周年を記念して建立したそうです。裏には「明治22年5月23日 多度津を起点に丸亀・琴平間に鉄道が開業された」と刻まれていました。

隣には、「母がいる港」の石碑がありました。「星野哲郎作詞 船村徹作曲」とありました。これも町政施行百年の記念事業の一環だったようです。


3つ目の「四国鉄道発祥之地」の碑を確認するため、JR多度駅にもどり、土讃線の列車で同じ香川県仲多度郡にある琴平駅に向かうつもりでした。土讃線は、起点である多度津駅と琴平駅の間だけが電化区間になっています。高松駅から来た電車、”サンポート高松号”に乗車しました。琴平では、金毘羅宮に参拝する人々の輸送を目的に、戦前の昭和5(1930)年から昭和19(1944)年までは、4社の鉄道の琴平駅が競合していました。

多度津駅から15分ちょっとでJR琴平駅に着きました。琴平の町は、日本最古の芝居小屋である金丸座で開かれる金毘羅大芝居で盛り上がっていました。駅前にもたくさんの幟(のぼり)が立っています。琴平は江戸時代には寺社領、隣の榎内村は天領(幕府領)であったため、芝居の興行も比較的やりやすかったといわれ、年3回の興行のたびに「仮り小屋」をつくっていました。天保6(1835)年に、金丸座が建てられてからは、江戸や大坂の千両役者が舞台を踏むなど全国に知られる芝居小屋になっていました。金丸座は、昭和45(1970)年、国の重要文化財に指定されています。

駅舎を出て駅前通りを撮影しました。この道をまっすぐ進み、正面の道を左折して進むのが、金毘羅宮への参拝客のルートです。横断歩道の先に灯籠が並んでいます。

灯籠の間に蒸気機関車(SL)の動輪が見えました。

その動輪の下に、「四国鉄道発祥之地」のプレートがありました。3つ目の「四国鉄道発祥之地」の碑です。

このモニュメントは、昭和47(1972)年に設置されました。「シゴハチの動輪」というテーマで、讃岐鉄道が開業させたこと、昭和45(1970)年にSLが廃止され、四国の鉄道無煙化が達成されたことが、琴平町長と駅長の連名で記されていました。展示されていたのは、「シゴハチ」の愛称で知られるC58形蒸気機関車(SL)の動輪でした。

駅前の通りをまっすぐに歩いていきます。右側の高灯籠のある公園に、高松琴平電鉄の琴平駅がありました。昭和2(1927)年の開業時には、2階建ての大規模駅舎で2階はレストランになっていたようですが、レストランは太平洋戦争中に閉店したそうです。写真の駅舎が使用され始めたのは、昭和63(1988)年5月26日のことでした。

高松琴平電鉄の琴平駅を過ぎてすぐ、琴平の町の中心を流れる金倉川に架かる大宮橋を渡ります。

大宮橋を渡ったところで、琴平電鉄の琴平駅方面を振り返って撮影しました。左に高灯籠が、右側に高松琴平電鉄の琴平駅が見えました。

その先にある左右の通りとの交差点の手前にある琴平郵便局です。ここにもかつて鉄道の駅舎が置かれていました。戦前から、四国に上陸した参拝客の輸送のため、4社の鉄道会社がしのぎを削っていましたが、琴平郵便局の敷地には、坂出からの参拝客を輸送した琴平急行電鉄の琴平駅がありました。

正面左右を走る通りの先に、”ことひら温泉琴参閣”の建物が見えました。右側の青い建物は琴平郵便局です。JR四国が「本社の始まり」とした讃岐鉄道の琴平駅は、この観光旅館の場所にありました。明治37(1904)年、山陽鉄道が讃岐鉄道を買収してからは同社の駅となり、明治39(1906)年に国有化されてからは国有鉄道の駅になりました。そして、その国有鉄道が、大正11(1922)年11月、土讃線を阿波池田駅まで延伸させたとき、琴平駅は現在のJR琴平駅のある場所に移設されたのです。旧駅舎があったところには、新たに丸亀と多度津からの参拝客を輸送した琴平参宮電鉄の琴平駅が設けられました。そして、琴平参宮電鉄が、昭和38(1963)年に鉄道事業を廃止した後、駅跡地には”ことひら温泉琴参閣”が建設されたのです。

これは、10年ほど前に撮影したJR琴平駅の写真です。前面には「琴平駅」という駅名標がついていました。

こちらは、現在のJR琴平駅です。駅名標は撤去され、駅舎の塗装も新しくなっています。耐震補強工事が平成28(2016)年に完工し、翌年の平成29(2017)年には、琴平駅がこの地に移ってきたとき(大正11=1922年)の外観に復元されました。美しく、品格のある駅に生まれ変わっています。


多度津駅と多度津町民会館(旧多度津駅跡)、琴平駅にあった、3つの「四国鉄道発祥之地」を訪ねてきました。
明治22(1889)年の讃岐鉄道の開業時に始まる鉄道発祥の時期を彩る由緒ある3つの駅。その後の発展はそれぞれ違いましたが、いずれも長い歴史を誇る、訪ねて楽しいところでした。



















JR多度津駅に残るSL全盛期の面影

2018年04月09日 | 日記

JR予讃線のJR多度津駅です。香川県仲多度郡多度津町にあります。この駅からJR高知駅を経由して、JR窪川駅(高知県高岡郡四万十町)に至る、全長198.7kmのJR土讃線の起点となる駅でもあります。

多度津駅前に展示してあった蒸気機関車(以下「SL」)の動輪のモニュメントです。四国に全国で活躍している本格的なSLがやって来たのは昭和10(1936)年のことでした。それ以後、四国で鉄道の完全無煙化(SLの廃止)が達成された昭和45(1970)年4月1日までの35年間にわたって、四国の産業や文化の発展のために働いた功労者でした。

動輪の脇につけられていたプレートには「四国鉄道発祥之地」と書かれていました。近くにあったJR四国の「説明板」には、「明治22(1889)年に讃岐鉄道株式会社によって、多度津駅を起点にして丸亀駅と琴平駅間、15.5kmで営業が始まったのが当社の始まりです。」と書かれています。そして「そのころの多度津駅は、この地点より西へ1km、多度津町大通り(JR多度津工場の西側)にありました。その後、大正2(1913)年12月、現在地に移転されました」と書かれていました。

開業当時は多度津駅から琴平駅方面に行くときスイッチバック(折り返し)で出て行く構造になっていましたが、大正2(1913)年、多度津駅が現在地に移設されて、スイッチバックが解消されました。「説明板」によれば、この動輪のモニュメントは、8620形のSLのもので、鉄道開通80周年(昭和44=1969年)を記念して、旧讃岐鉄道の多度津駅の跡地に設置していたものを、平成元(1989)年に、現在地に移転し永久保存している」ということでした。その後、讃岐鉄道は、山陽鉄道に買収され、その山陽鉄道は、明治39(1906)年に国有化されました。その後、延伸し、予讃線、土讃線へと発展していきました。

しかし、実際には、四国で最初に鉄道を開業させたのは伊予鉄道会社で、全国で2番目の開業でした。伊予鉄道が、讃岐鉄道よりも1年早い明治21(1888)年に、松山駅(現松山市駅)と三津駅間を開通させたのが、四国で最初の鉄道の開業でした。伊予鉄道が、民間鉄道のままであったのに対し、讃岐鉄道は後に国有化されて、その後に四国の鉄道は飛躍的に整備が進んでいくことになりました。現在のJR四国の始まりは、そもそも讃岐鉄道であり、丸亀駅・多度津駅・琴平駅間の開業であったということから、「四国鉄道発祥の地」といわれているようです。


この日は、JR多度津駅に残るSL全盛時代の面影を訪ねるため、岡山駅から”快速マリンライナー”に乗車して、香川県に入って最初の駅である坂出(さかいで)駅にやってきました。

坂出駅・多度津駅間の予讃線は、複線電化区間になっています。琴平行きの7200系電車の7319号車(多度津側)と7219号車(高松側)の2両編成の列車で多度津駅に向かいました。7200形電車は、国鉄分割民営化直前に、旧国鉄によって2両編成(クモハ121形+クハ120形)の19本が製造された車両。2両の固定編成で運用されています。平成28(2016)年からの老朽化による改造後には、7200形+7300形に改番されています。

坂出駅から15分ぐらいで、多度津駅に着きました。

動輪のモニュメントがある駅前広場。今は、鉄道を跨ぐ新しい横断陸橋(栄町地区緊急避難路)が完成していました。平成30年3月26日の正午に開通したそうです。

駅前から延びる通りの交差点です。まっすぐ行くと、右側に多度津交番や香川県立多度津高校の建物が並んでいます。駅前の交差点を右折すると、展示されているSLの姿が見えてきます。

展示されていたSL58685号機です。「説明板」によれば、「大正11(1922)年10月30日、汽車製造会社で製造されたテンダー機関車で、製造費は96,500円。最高速度は時速80km。大正11年から昭和45(1970)年までの48年間の走行距離は、2,643,771.5kmで、地球を約66周分ぐらいの距離を走った」SLだそうです。

「多度津町制施行80周年にあたり保存することにした」と、当時の信濃勇町長の名で刻まれていました。

駅舎に引き返して駅舎に沿って松山方面に向かって歩きます。駅舎の並びにあったパン屋さんの前を通って進むと、すぐに鉄道を跨ぐ横断陸橋がありました。写真は振り返って駅舎やパン屋さんを撮影しました。駅舎の向こうに見えているのは、栄町地区緊急避難路です。

横断陸橋に上り口にあった案内です。「平成30年3月26日の栄町地区緊急避難路の開通後に閉鎖します」と書かれていました。この横断陸橋はすでに役割を終えていました。 右側にあるのが煉瓦づくりの給水塔。 その奥にある鉄骨製の給水塔とともに、平成24(1012)年に、国の登録有形文化財に登録されています。窓の上部には、花こう岩の切石の装飾が見えます。装飾部分の下の窓が破損しており応急的な修理が施されていました。

この写真は、以前多度津駅を訪ねたときに横断陸橋の上から撮影したものです。陸橋の右側にある擬宝珠のデザインが魅力的でした。擬宝珠の下は信号機を支える柱になっていました。白く見えるのは時計です。そして、正面にあるのが煉瓦造りの給水塔の上部、コンクリート製の貯水槽です。左側は鉄骨製の脚部をもっている給水塔です。SLにとって燃料となる石炭と並ぶ必需品である水を、補給するための施設でした。

閉鎖された横断陸橋の上から見た新しい横断陸橋、栄町緊急避難路、そして駅舎とホームです。

二つの給水塔の近くに来ました。煉瓦造りの給水塔です。高さは10.6mあります。大正2(1913)年、讃岐鉄道の多度津駅が以前の場所から現在地に移設されたときにつくられた給水塔でした。煉瓦を直径4.8mの円形に組み、上部にコンクリート製の貯水槽を載せています。頂の部分には傘石を巡らせていること、煉瓦造りの円筒形の部分の窓と出入口には花こう岩製の切石をはめて、装飾を施していることに特色があります。

見えにくいのですが、出入口につくられていた切石でできた装飾です。裏側にも同じ装飾があり、先ほど見た窓になっています。

右側が鉄骨製の給水塔です。正確な製造年は明確ではありませんが、昭和初期に設置されたといわれています。古レールを組み合わせてつくった脚部の上に鋼板をつないで貯水槽を据えて、その上に、木造鉄板葺きの八角形の屋根を載せています。直径4.5mで高さは11.5mの施設だそうです。こちらの給水塔はシンプルな構造で、装飾はいっさいなく実用第一でつくられています。時代の流れを感じさせてくれています。それぞれの給水塔が当時のまま残っており、「再現することが容易ではもの」ことを理由として登録有形文化財に登録されているのも理解できます。

多度津駅の構内には、もう一つ、給水塔と同じ平成24(2012)年に8月13日に登録有形文化財に登録されたものがありました。転車台です。SLが主力だった時代に方向転換するために使われた施設です。多度津駅には戦前から続く機関区が置かれていましたので、頻繁に使用されていたはずです。ホームを通りかかった乗務員さんにお聞きしますと「あの車庫の向こうにありますよ」とのこと。写真がその車庫です。ホームからは松山方面に向かって右側に見えました。このときは、ディーゼル機関車が入庫しているようでした。

近くに行ってみようと思い、給水塔の先に行って見ましたが、見ることができません。JR社員以外入れないところに入っていくことはマナーに反します。道路に出て、その先にある線路を跨ぐ跨線橋の上に向かいました。写真が跨線橋の上から見た転車台です。運転台と円形の石積みの一部が見えました。でも、全景は見ることができませんでした。
 
転車台を地上から見ようとしたのですが、これが精いっぱいのようです。登録有形文化財の転車台は、直径18.5m。地上から0.8m掘り下げて、側面に花こう岩の切石を積んでつくられているようです。全国的にもめずらしい石造のピットの転車台だといわれています。


JR多度津駅は、明治22(1889)年に設置された「四国鉄道発祥の地」で、現在の地に移ってきたのは、大正2(1913)年、観音寺駅まで延伸したときでした。SL時代を彷彿させる、登録有形文化財に登録された給水塔と転車台が残る駅でした。



板東俘虜収容所とドイツ館を訪ねる

2018年04月02日 | 日記

徳島県鳴門市大麻町(旧板野郡板東町)にあるドイツ館です。「大正6(1917)年から大正9(1920)年までの3年間、『板東俘虜(ばんどうふりょ)収容所』で暮らしていたドイツ兵捕虜と板東の人々との交流のようすを後生に伝えるため」に建てられた資料館です。

前回訪ねた「めがね橋」です。大正3(1914)年7月28日第一次世界大戦が起こったとき、中国の青島(チンタオ)を占領していたドイツに対して、日本は日英同盟(明治35年=1902年締結)を理由に、同年8月23日に宣戦布告しました。青島にいた約5千人のドイツ軍に対し、日本は地の利を活かして3万人の兵を送り、3ヶ月後の11月7日にドイツ軍を降伏させました。捕虜となった約4,000人(4,715名や4,462名など諸説書かれています)のドイツ軍兵士は、大正6(1917)年12月末までに、日本の各地(1914年10月ごろ全国12ヶ所。その後、6ヶ所に統合される)の俘虜収容所に送られました。

前回訪ねた「ドイツ橋」です。今は、保存のために通行が禁止されていました。さて、板東俘虜収容者は、大正6(1917)年4月9日(丸亀、松江、徳島などの収容所を6ヶ所に統合したとき)に開設されました。約1,000人(俘虜収容所跡に設置された「友愛の碑」には「953人のドイツ兵士」と書かれています)のドイツ軍兵士が収容されていました。

現在の板東俘虜収容所跡の光景です。前回、JR板東駅から四国八十八ヶ所霊場の1番札所である霊山寺(りょうぜんじ)と阿波国一宮である大麻比古(おおあさひこ)神社を訪ねたとき、その境内にあった「ドイツ橋」と「めがね橋」も見学してきました。この2つの橋は、ドイツ兵捕虜の人たちが、板東の村人たちへのお礼の気持ちを込めて建造したものでした(「JR板東駅から、霊山寺、ドイツ橋を訪ねる」2018年3月24日の日記)。この日は、前回行けなかった板東俘虜収容所跡(「ドイツ村公園」)とドイツ館を訪ねてきました。

前回と同じく、JR板東駅から「ばんどう門前通り」を通って霊山寺に向かい、山門(仁王門)前で左折して撫養街道(徳島県道12号)を進みました。

板東谷川を渡ります。前回、大麻比古神社を訪ねたとき、少し上流部分を祓川橋で渡った川でした。その川に架かる橋の上から見た「ばんどうの鐘」です。「ばんどうの鐘」のある山の麓に、ドイツ館は設置されています。

霊山寺から15分ぐらいで、ドイツ館に向かう交差点に着きました。しかし、右折しないでまっすぐ進み、次の通りを右折しました。

右折して、民家の間を進むと、正面に、板東俘虜収容所跡が見えてきました。57,000平方メートルの敷地のうち、現在では、3分の2(正面左側部分)ぐらいが、県営住宅や住宅地に替わっています。残る右側の3分の1の部分は、”ドイツ村公園”として整備されています。

現在の板東俘虜収容所(以下「収容所}と書きます)の正門です。門柱には、右側には「板東俘虜収容所跡」と書かれています。左側に「第九日本初演の地」と書かれているように、ここは、日本で、そしてアジアでも最初に、ベートーベンの第九交響曲が合唱付きで全曲演奏されたところだったのです。大正7(1918)年6月1日、”道の駅 第九の里”に設置された”ベートーベン像”には「松江大佐のヒューマニズム溢れる処置のもとに、俘虜生活の中で、1000回以上の演奏会を開いたというヘルマン・ハイゼンが指揮する ”Tokushima オーケストラ”によってその全曲が演奏された 1997年5月15日 鳴門市長 山本幸男」と書かれていました。現在も、鳴門市では、6月1日を「第九の日」と定め毎年6月の第1日曜日に演奏会を行っているそうです。

これは、入口にあった案内板です。かつての収容所の構内の建物の配置図です。現在の入口は、右下の「現在地」と書かれているところで、当時は「倉庫棟」があったところだそうです。赤く見えるところは日本の陸軍が設置した施設、緑に見えるところはドイツ兵が自ら設置した施設を表していて、「現在地」に最も近いところに「管理棟」がありました。その先は、毎朝、ドイツ兵士の点呼を行っていた第2広場。左側には第1広場がありました。その上の赤で8本描かれている横線が、ドイツ兵の兵舎(バラッケ)があったところです。左側の下側から第1棟から第4棟、右側の下側から、第5棟から第8棟が描かれています。兵舎の左右の赤い縦線の部分には、兵舎に近い方が「便所」、外側が「洗顔・洗濯場」と書かれていました。また、兵舎の上に見える赤で示された3つの施設は、両側が「浴室と厨房」と、真ん中は「酒保(売店)」と書かれています。いずれも、宿舎での生活に密着した施設が、その近くに設置されていたようです。

兵舎第1棟の下側に緑色で描かれた施設があります。ドイツ兵が建設した建物で「商店街」と書かれています。また、「ボーリング場」と書かれたところもありました。板東のドイツ兵収容所では、自主的な活動が奨励されていました。これは、大正6(1917)年4月10日から収容所長をつとめていた松江豊寿中佐(その後、大佐に昇進)の強いリーダーシップによるものでした。かれは、幕末の戊辰戦争で敗れた会津藩士の子として生まれたため、戦争で降伏した人たちの悲しみや苦しみをよく知っていました。捕虜のドイツ兵を「祖国を遠く離れた中国の青島(チンタオ)で祖国のために戦い敗れた戦士」と称え、人道的、友好的な措置を行った人でした。志願兵も多くいたドイツ兵には、兵士といってももとは一般市民で、政治学や経済学の専門家や、各種の職人や商人、スポーツや器楽演奏の得意な人もいました。かれらは、ここで、それぞれの技術を活かしてつくった商品を販売することなどを通して、板東村の人たちと交流しました。板東の人々もドイツ兵に心を通わせ、彼らを「ドイツさん」と呼んで信頼と交流を深めていきました。

まっすぐ奥に進みます。兵舎第5棟跡です。兵舎にはレンガの基礎が使われていたそうですが、その跡も残っていました。

写真は、ドイツ館のある一角に設置されている”道の駅 第九の里”の中で、「物産館」として使用されている建物ですが、もともとは、収容所の兵舎でした。平成14(2002)年に近くの農家で牛舎として使用されていたのを発見されて、”道の駅”に移設されました。平成16(2004)年には、国の登録有形文化財に登録されています。

その先、兵舎第6棟と第7棟の間にあった「ドイツ橋」のレプリカです。冒頭の部分で揚げた写真は、本物のドイツ橋を撮影しています。

「友愛」の碑です。昭和53(1978)年に設置されました。「第一次世界大戦に参加した953人のドイツ兵士が、大正6(1917)年から大正9(1920)年まで過ごしたところである」と、当時の谷光次鳴門市長の名で記されています。

その先に設置されていた休憩所です。これは、収容所跡の整備を行ったときに新たにつくられたものです。休憩所の手前に兵舎第8棟がありました。

浴室や厨房があった所からさらに登っていことにしました。その登り口にあった施設の跡です。

左側にあった第一給水所跡です。レンガ造りの2層構造になっています。

真ん中にあった「売店付属便所」の跡です。

通路の右側にあった第二給水所跡跡です。構造的には第一給水所と同じもののようです。

製パン所跡です。木組みから建物の規模がよくわかります。

施設の案内にあった下池です。下池の左側(写真の奥)に第一将校兵舎、下池の先(写真の右側)に第二将校兵舎があり、それぞれ将校用の浴室と厨房が別棟でつくられていました。

第二将校兵舎の上にあった上池です。上池の右側には二つの慰霊塔がありました。

手前にあったドイツ兵合同慰霊碑です。第一次世界大戦中に他の収容所で亡くなった兵士も含めた85名のドイツ兵の合同慰霊碑です。死亡した兵士の名前も刻まれており、板東俘虜収容所では9名の方が亡くなっていました。

こちらは、第一次世界大戦中に板東の俘虜収容所で亡くなったドイツ兵の慰霊碑で、ドイツ兵が建立したものです。第二次世界大戦後、この収容所跡の寮に住んでおられた高橋敏治・春枝ご夫妻が守っておられました。この地を訪れた、ドイツ人捕虜だったウイルヘルム・ハースが、この行動をドイツで伝えたため、昭和39(1964)年、高橋春枝氏(敏治氏は亡くなっていたため)に、ドイツから功労賞が届けられたそうです。現在は、高橋さんのご子息の高橋敏夫さんご夫妻が週末に掃除をしておられるそうです。

上池の上の公園は、親善交流にかかわる展示物のコーナーになっています。下を見ると、先ほど通ってきた慰霊碑が見えました。満開の桜が鮮やかでした。

上池の上にある公園には、各地の友好都市との交流の記念碑が設置されています。一番高いところにあったのが、「赤十字ゆかりの地」の碑です。
「国境を越えた 博愛の心が ここにあった」と刻まれています。また、収容所長だった松江豊寿氏の故郷、会津若松市との「親善交流都市締結十周年記念の植樹(ワカマツ)」の記念碑や、ドイツのノルトライン ヴェストファーレン州の独日文化交流育英会から贈呈された「30本の菩提樹」をめぐる記念碑が設置されていました。すべて、大正時代の収容所における人道的、友好的な対応がきっかけになったものでした。


ドイツ館に向かいます。

交差点からの道路に出て左折して進みます。その先の高速道路(高松道)の下をくぐると、ドイツ館が見えてきます。

ドイツ村の入口です。奥に、”道の駅 第九の里”。ドイツ館は一段高いところにありました。

俘虜収容所の閉鎖後に近くの農家に移設され牛舎として使われていた兵舎(バラッケ)が、道の駅の物産館として使用されています。

黒く塗られた下見板張りの壁面にあった説明と登録有形文化財の登録証です。

内部は地元の産品の販売所になっています。端にはうどん屋さん、観光パンフレットも置かれていました。

道の駅の裏側には、”ベートーベン像”があります。 日本で最初に”第九”の全曲演奏をしたことの説明が書かれています。”ばんどうの鐘”のある山上に向かう道が左奥に見えました。

”ばんどうの鐘”に向かいます。ベートーベン像を右に見ながら登って行きます。

「猿の出没」や「まむし」に注意を促す看板です。”ばんどうの鐘”までは、20分ぐらいかかりました。

かなりの勾配の坂道でしたが、左前に”ばんどうの鐘”が見えてきました。高さ12.65メートルの塔の一番上には鐘楼が設けられていました。毎日、正午と午後6時に、この鐘を鳴らすそうです。

昭和58(1983)年に、日独友好と恒久平和を願って、板東俘虜収容所におられた元ドイツ兵の寄付金等を使ってつくられました。内部にある螺旋(らせん)階段がみえました。

螺旋階段を上り、最上階に着きました。周囲にあるガラス窓からの眺望を期待していたのですが、霞みがかかっていてよく見えませんでした。天井は閉じられていて、鐘楼のあるところは見えませんでした。

帰りの坂道から見た鳴門市の風景です。


ドイツ館に降りてきました。豊富な資料によって、板東俘虜収容所とそこでのドイツ兵捕虜の生活、解放されてからの交流のようすがよくわかりました。内部は「撮影禁止」でしたので写真はありませんが、ここに書いたことのほとんどは、ドイツ館に展示されていた資料をもとにしています。 

収容所長の松江豊寿大佐とそのスタッフ、捕虜になったドイツ兵と板東の村人たちとの交流には、ほんとうに胸を打たれました。いい旅になりました。