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先日、久しぶりに岡山電気軌道の路面電車に乗りました。全長4.7km、国内最短の路面電車です。本線にあたる東山線(岡山駅前電停ー東山電停)3.1kmと、もう一つ、東山線の柳川電停から分岐して清輝橋電停に向かう清輝橋(せいきばし)線があります。清輝橋線はわずか、1.6kmの路線です。(「”MOMO”と岡山電気軌道」2012年6月6日の日記・「日本で最も短い路面電車、岡山電気軌道」2014年2月9日の日記) その時、ふっと思ったのが、私鉄の最短路線はどこだろうかと・・。
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私鉄の最短路線は、伊藤博康著「日本の鉄道ナンバーワン&オンリーワン」(創元社)によれば、南海電鉄高師浜(たかしのはま)線だそうです。最短の私鉄路線に乗ってみようと、高師浜線の起点駅である南海電鉄羽衣駅に向かいました。写真は羽衣駅東口です。
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南海電鉄高師浜線は羽衣駅と高師浜駅までの1.5km。羽衣駅の案内にしたがって、3番ホームに向かいます。
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3番ホームは、2番ホームの南側を切り欠いた形で設置されていました。
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高師浜線のホームにあった駅名表示です。次の駅は伽羅橋(きゃらばし)駅。わずか1.5kmの間にもう一つ駅が設けられています。高師浜線は大正7(1918)年羽衣駅と伽羅橋駅間が開業し、翌、大正8(1919)年10月25日、高師浜駅まで延伸開業しました。
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高師浜線の電車が到着しました。高師浜駅に向かって、2251号車と2201号車の2両編成です。写真は高師浜方面に向かって電車の後ろから撮影したものです。この1編成によるワンマン運転で、羽衣駅と高師浜駅の間を往復しています。JTBの「時刻表」によれば、高師浜駅まで3~4分かかるようです。軌間1067ミリ、最高時速45kmで運行されています。
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乗車しました。横シートです。車内にあったプレートには、2両とも「東急車輌 昭和44年 大阪」と書かれていました。昭和44年の製造というと、今年で46歳を迎えている車両ということになります。乗車したらすぐに出発しました。しばらく南海電鉄空港線と併走していましたが、やがて右カーブが始まり、高架に上がります。すぐに伽羅橋駅に到着します。伽羅橋駅を出ると今度は左カーブ。カーブが終わったと思ったら、あっという間に終点の高師浜駅に着きました。
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高師浜駅は1面1線、左側にホームがありました。目の前に車止めがありました。降車した10人ほどの乗客はそのまま前方に進み、階段を下っていかれました。もの珍しげにホームに佇んでいるのは、私一人でした。
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車止めの手前で線路は砂利石に覆われて途切れます。こういう風景を見ると、たった1.5kmでも、「果てまで来たなあ」と思ってしまいます。運転士さんは、ゆっくりと折り返しとなる先頭車両に向かって歩いていかれました。
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駅舎に向かう階段。大きく見える上屋に威圧感を感じながら下ります。
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右にトイレ、正面に自動改札口。難波駅からのキップを通して改札を出ました。平成23(2011)年から無人駅になっているそうです。
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自動券売機と料金表、時刻表、掲示物。すっきりとまとまった配置です。高師浜駅は、高石市高師浜4丁目にあります。
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こちらは、羽衣方面への時刻表。時刻表を見て、びっくりです。この日は土曜日でしたが、何と62本運行しています。平日は65本。日中は1時間に3本ずつ。短くても決してお荷物にはなっていないのです! それどころか、高師浜駅は1日平均乗降客数1,617人(2012年度)で、南海電鉄100駅中17位の乗降客数を誇る、すごい駅なのです。
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駅舎です。大正8(1919)年に高師浜駅まで延伸した時に建てられました。駅名表示の下の黒く見えている部分にはステンドグラスがはまっています。3年後には白寿を迎える高齢の駅です。この駅舎には、過去に解体の危機がありました。昭和45(1970)年に高師浜線の高架工事が行われたとき解体されることになっていたのです。それを撤回させたのは地元の人々の熱意でした。いつまでも元気で建ち続けてほしい、味わいのある駅舎です。
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横から見るとさらに楽しい駅舎です。妻の部分をくっつけたようなつくりです。自動販売機のあるところはかつての売店の跡だそうです。
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高師浜線の高架です。この先、羽衣駅の手前まで続いています。高架になった今も、かつての地上線時代の高師浜駅のホームが、現在のホームの下にそのまま残っているそうです。
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高師浜駅の周辺は閑静な住宅地になっています。道路の幅は車が交差するにはやや狭い感じですが、規格化されたように縦横に走っています。すっきりとした美しい通りです。この整然とした道路は、かつてこの地にあったロシア人俘虜(捕虜)収容所の区画の名残だそうです。このように、高師浜線は、大正時代の中期から収容所の跡地で行われた住宅開発に伴い、居住して来た人々の足として開業されたのです。
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これは、高師浜駅前の案内板にあった写真です。日露戦争中(1904~1905年)に日本に連行されてきたロシア人俘虜を収容するために、陸軍第4師団司令部(大阪)は、この地に収容所を設置しました。当時の高石村の人口は3,500人、収容者は28,000人だったそうです。収容されたロシア俘虜は兵卒がほとんだだったため識字率が低く、10人に1人は読み書きができなかったといわれています。日本ハリストス正教会のニコライ大主教は、国内に29ヶ所あった収容所に聖書、祈祷書、ロシア語の教科書などを送り、それを使って、収容所の日本人通訳やロシア人将校がロシア語を教えたということです。ロシア兵たちは、習い覚えたロシア語で故郷の家族や友人に手紙を送り、故郷の人を驚かせたといわれています。ちなみに、俘虜は明治39(1906)年までにロシアに、全員送り返されたといわれています。
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高師浜駅から海の方(右)に向かうと、大阪府立臨海スポーツセンターにぶつかります。「アイススケート営業中」の横断幕がありますが、中には町田樹選手の横断幕が残っていました。
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高師浜駅に戻りました。ホームは4両分の長さがあるそうですが、その北端(羽衣駅方面)です。線路はその先で右カーブしています。1日中、高師浜線を往復している2251号車と2201号車に乗って引き返します。
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右カーブが終わると目の前に伽羅橋駅のホームが見えました。伽羅橋駅まで0,5km、150円区間です。
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伽羅橋駅のホームです。高架駅で、1面1線のホームです。線路の右に白い杭が埋め込まれています。
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「駅中心点 0K805M00」と書かれています。羽衣駅から805mと書かれているようです。「羽衣駅から1km」と公表されていますが・・。
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下車して高架下へ出ました。高架下にあった公園に平行する散歩道がありました。
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伽羅橋駅の南側は伽羅橋公園になっています。高架下に並ぶシャッターの建物には「伽羅橋商店街」と書かれていました。
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大正4(1925)年に地元の人たちが建てた「大雄寺旧蹟」(「旧」は旧字体で彫られています)の石碑です。南北朝時代の正平年間(1346~67年)後村上天皇の勅願で三光国師が建立した七堂伽藍の大寺院、大雄寺は泉州における南朝の拠点になっていました。その後戦火により焼失しましたが、伽羅橋駅付近に、その大雄寺があったそうです。大雄寺の門前の橋が伽羅橋で、沈香という香木で橋板がつくられていたそうです。伽羅橋駅は大雄寺に由来する駅名でした。
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伽羅橋駅前の通りから見た右側に、高師浜線の高架が見えました。カーブの途中のようです。
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ここから1kmのところにある羽衣駅まで、線路に沿って歩くつもりでした。高架下の散歩道はソメイヨシノの並木道です。
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高師浜線の線路が左カーブを始めると、散歩道もやがて途切れました。「桁下有効高2.5m」と書かれた高架下をくぐります。線路は少しずつ地上に向かって下っていきます。
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その先で、カーブが終わり、地上線になりました。目の前が羽衣駅です。
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到着しました。2251号車と2201号車の2両編成の列車は、この後も深夜まで高師浜線を行ったり来たりして走り続けることになります。
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高師浜線の3番ホームから見た、1・2番ホーム。南海電鉄空港線では、ちょうど上りと下りの電車が行き違いをしていました。
南海電鉄高師浜線1.5km。国内で最も短い私鉄の路線でした。高師浜線の旅は、電車の乗り心地を楽しむ間もなく終わってしまいました。