トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

私鉄の最短路線、南海電鉄高師浜線に乗る

2015年11月27日 | 日記

先日、久しぶりに岡山電気軌道の路面電車に乗りました。全長4.7km、国内最短の路面電車です。本線にあたる東山線(岡山駅前電停ー東山電停)3.1kmと、もう一つ、東山線の柳川電停から分岐して清輝橋電停に向かう清輝橋(せいきばし)線があります。清輝橋線はわずか、1.6kmの路線です。(「”MOMO”と岡山電気軌道」2012年6月6日の日記・「日本で最も短い路面電車、岡山電気軌道」2014年2月9日の日記) その時、ふっと思ったのが、私鉄の最短路線はどこだろうかと・・。

私鉄の最短路線は、伊藤博康著「日本の鉄道ナンバーワン&オンリーワン」(創元社)によれば、南海電鉄高師浜(たかしのはま)線だそうです。最短の私鉄路線に乗ってみようと、高師浜線の起点駅である南海電鉄羽衣駅に向かいました。写真は羽衣駅東口です。

南海電鉄高師浜線は羽衣駅と高師浜駅までの1.5km。羽衣駅の案内にしたがって、3番ホームに向かいます。

3番ホームは、2番ホームの南側を切り欠いた形で設置されていました。

高師浜線のホームにあった駅名表示です。次の駅は伽羅橋(きゃらばし)駅。わずか1.5kmの間にもう一つ駅が設けられています。高師浜線は大正7(1918)年羽衣駅と伽羅橋駅間が開業し、翌、大正8(1919)年10月25日、高師浜駅まで延伸開業しました。

高師浜線の電車が到着しました。高師浜駅に向かって、2251号車と2201号車の2両編成です。写真は高師浜方面に向かって電車の後ろから撮影したものです。この1編成によるワンマン運転で、羽衣駅と高師浜駅の間を往復しています。JTBの「時刻表」によれば、高師浜駅まで3~4分かかるようです。軌間1067ミリ、最高時速45kmで運行されています。

乗車しました。横シートです。車内にあったプレートには、2両とも「東急車輌 昭和44年 大阪」と書かれていました。昭和44年の製造というと、今年で46歳を迎えている車両ということになります。乗車したらすぐに出発しました。しばらく南海電鉄空港線と併走していましたが、やがて右カーブが始まり、高架に上がります。すぐに伽羅橋駅に到着します。伽羅橋駅を出ると今度は左カーブ。カーブが終わったと思ったら、あっという間に終点の高師浜駅に着きました。

高師浜駅は1面1線、左側にホームがありました。目の前に車止めがありました。降車した10人ほどの乗客はそのまま前方に進み、階段を下っていかれました。もの珍しげにホームに佇んでいるのは、私一人でした。

車止めの手前で線路は砂利石に覆われて途切れます。こういう風景を見ると、たった1.5kmでも、「果てまで来たなあ」と思ってしまいます。運転士さんは、ゆっくりと折り返しとなる先頭車両に向かって歩いていかれました。

駅舎に向かう階段。大きく見える上屋に威圧感を感じながら下ります。

右にトイレ、正面に自動改札口。難波駅からのキップを通して改札を出ました。平成23(2011)年から無人駅になっているそうです。

自動券売機と料金表、時刻表、掲示物。すっきりとまとまった配置です。高師浜駅は、高石市高師浜4丁目にあります。

こちらは、羽衣方面への時刻表。時刻表を見て、びっくりです。この日は土曜日でしたが、何と62本運行しています。平日は65本。日中は1時間に3本ずつ。短くても決してお荷物にはなっていないのです! それどころか、高師浜駅は1日平均乗降客数1,617人(2012年度)で、南海電鉄100駅中17位の乗降客数を誇る、すごい駅なのです。

駅舎です。大正8(1919)年に高師浜駅まで延伸した時に建てられました。駅名表示の下の黒く見えている部分にはステンドグラスがはまっています。3年後には白寿を迎える高齢の駅です。この駅舎には、過去に解体の危機がありました。昭和45(1970)年に高師浜線の高架工事が行われたとき解体されることになっていたのです。それを撤回させたのは地元の人々の熱意でした。いつまでも元気で建ち続けてほしい、味わいのある駅舎です。

横から見るとさらに楽しい駅舎です。妻の部分をくっつけたようなつくりです。自動販売機のあるところはかつての売店の跡だそうです。

高師浜線の高架です。この先、羽衣駅の手前まで続いています。高架になった今も、かつての地上線時代の高師浜駅のホームが、現在のホームの下にそのまま残っているそうです。

高師浜駅の周辺は閑静な住宅地になっています。道路の幅は車が交差するにはやや狭い感じですが、規格化されたように縦横に走っています。すっきりとした美しい通りです。この整然とした道路は、かつてこの地にあったロシア人俘虜(捕虜)収容所の区画の名残だそうです。このように、高師浜線は、大正時代の中期から収容所の跡地で行われた住宅開発に伴い、居住して来た人々の足として開業されたのです。

これは、高師浜駅前の案内板にあった写真です。日露戦争中(1904~1905年)に日本に連行されてきたロシア人俘虜を収容するために、陸軍第4師団司令部(大阪)は、この地に収容所を設置しました。当時の高石村の人口は3,500人、収容者は28,000人だったそうです。収容されたロシア俘虜は兵卒がほとんだだったため識字率が低く、10人に1人は読み書きができなかったといわれています。日本ハリストス正教会のニコライ大主教は、国内に29ヶ所あった収容所に聖書、祈祷書、ロシア語の教科書などを送り、それを使って、収容所の日本人通訳やロシア人将校がロシア語を教えたということです。ロシア兵たちは、習い覚えたロシア語で故郷の家族や友人に手紙を送り、故郷の人を驚かせたといわれています。ちなみに、俘虜は明治39(1906)年までにロシアに、全員送り返されたといわれています。

高師浜駅から海の方(右)に向かうと、大阪府立臨海スポーツセンターにぶつかります。「アイススケート営業中」の横断幕がありますが、中には町田樹選手の横断幕が残っていました。

高師浜駅に戻りました。ホームは4両分の長さがあるそうですが、その北端(羽衣駅方面)です。線路はその先で右カーブしています。1日中、高師浜線を往復している2251号車と2201号車に乗って引き返します。

右カーブが終わると目の前に伽羅橋駅のホームが見えました。伽羅橋駅まで0,5km、150円区間です。

伽羅橋駅のホームです。高架駅で、1面1線のホームです。線路の右に白い杭が埋め込まれています。

「駅中心点 0K805M00」と書かれています。羽衣駅から805mと書かれているようです。「羽衣駅から1km」と公表されていますが・・。

下車して高架下へ出ました。高架下にあった公園に平行する散歩道がありました。

伽羅橋駅の南側は伽羅橋公園になっています。高架下に並ぶシャッターの建物には「伽羅橋商店街」と書かれていました。

大正4(1925)年に地元の人たちが建てた「大雄寺旧蹟」(「旧」は旧字体で彫られています)の石碑です。南北朝時代の正平年間(1346~67年)後村上天皇の勅願で三光国師が建立した七堂伽藍の大寺院、大雄寺は泉州における南朝の拠点になっていました。その後戦火により焼失しましたが、伽羅橋駅付近に、その大雄寺があったそうです。大雄寺の門前の橋が伽羅橋で、沈香という香木で橋板がつくられていたそうです。伽羅橋駅は大雄寺に由来する駅名でした。

伽羅橋駅前の通りから見た右側に、高師浜線の高架が見えました。カーブの途中のようです。

ここから1kmのところにある羽衣駅まで、線路に沿って歩くつもりでした。高架下の散歩道はソメイヨシノの並木道です。

高師浜線の線路が左カーブを始めると、散歩道もやがて途切れました。「桁下有効高2.5m」と書かれた高架下をくぐります。線路は少しずつ地上に向かって下っていきます。

その先で、カーブが終わり、地上線になりました。目の前が羽衣駅です。

到着しました。2251号車と2201号車の2両編成の列車は、この後も深夜まで高師浜線を行ったり来たりして走り続けることになります。

高師浜線の3番ホームから見た、1・2番ホーム。南海電鉄空港線では、ちょうど上りと下りの電車が行き違いをしていました。

南海電鉄高師浜線1.5km。国内で最も短い私鉄の路線でした。高師浜線の旅は、電車の乗り心地を楽しむ間もなく終わってしまいました。

日本一短いトンネルになった、”川尻トンネル”

2015年11月03日 | 日記

山地の多い日本の鉄道にはトンネルがつきものです。最長のトンネルは、しかし、山ではなく海底を走る青函トンネル(全長53.85km)、最短のトンネルはJR吾妻(あがつま)線の樽沢トンネル(全長 7.2m)でした。ところが、平成26(2014)年9月24日をもって、樽沢トンネルは廃止になってしまいました。民主党政権時代に建設が中止された八ヶ場(やんば)ダムは、自民党政権が復活するとともに建設計画も復活し、工事が進められるようになりました。それに伴い、JR吾妻線のルートも変更されることになり、新ルートでの運行が、一週間後の平成26(2014)年10月1日から始まりました。

新たに、日本一短いトンネルになったのは、広島県を走るJR呉線にある川尻トンネル(全長8.7m)でした。今回はこの川尻トンネルを訪ねました。

前夜、近くの駅に乗車券を買いに行くと、「岡山・尾道おでかけパス」と組み合わせた形で購入することを紹介されて、正規の往復切符を購入する場合と比較して、2,000円以上安く買うことができました。

ちょっと見づらいのですが、JR呉線の沿線の案内図です。呉線は三原駅と、広島駅の手前にある海田市(かいたいち)駅を結ぶ鉄道です。三原駅からは途中の広(ひろ)駅で乗り換えて、広島駅まで行くことができます。JR山陽本線のバイパスとしての機能もある鉄道です。呉線は、明治36(1903)年に海田市駅・呉駅間が開通しました。一方、三原駅からの工事も昭和5(1930)年に始まり、昭和10(1935)年には海田市駅から三原駅までの全線が開通しています。

この日は、三原駅で呉線の電車に乗り換えました。下関総合運転所所属の、クハ104ー18号車とクモハ105ー18号車の2両編成のワンマン運転の列車でした。乗客は前のクハ104ー18号車の後ろ側のドアから乗車し、運転席に近い前側のドアから降車するようになっていました。出発直前にたくさんの若い男性が乗車してきて、ぎっしり満員という状態になりました。

途中の竹原駅で大部分の若い男性客が下車して、やっと、車内にくつろいだ雰囲気が生まれました。この日は乗降に時間がかかったため、定時よりやや遅れて、安芸川尻駅(呉市川尻町)に到着しました。写真は、1面2線のホームに停車している2両編成の列車です。この後すぐに出発していきました。

ホームにあった駅名標です。瀬戸内海の島々を背景にして、川尻名産の筆が描かれています。

ホームから三原方面を撮影しました。跨線橋の向こうにトンネルが見えます。駅舎は写真の右側の電柱付近にあるグレーの屋根の建物です。

安芸川尻駅の内部です。光があふれる明るい駅でした。

呉線の「全線開通80周年」の掲示です。全線開通は昭和10(1935)年ですから、今年は80周年になるのですね。

安芸川尻駅の正面です。駅舎の右側にある別棟の建物はトイレです。

安芸川尻駅前にあった観光案内の掲示板の一部です。「日本一短いトンネル」と書かれています。ホームから見えたトンネルが、川尻トンネルのようです。すぐにトンネルに向かいます。

駅のトイレの裏の道を通り、線路に沿って上っていく道に入ります。

野呂山(のろさん)への登山道を示す案内と日本一短いトンネルを示す案内が見えました。この道はトンネルの上に続いていました。

新しい案内看板です。川尻トンネルが日本一になってからつくられたもののようです。日本一の最短トンネルです。町の活性化に活用できるといいですね。

トンネルの近くに来ました。トンネルの上には、手すりがつくられています。トンネルの上は道路で、跨線橋になっているようです。しかし、トンネルらしくない光景だとも感じました。トンネルの上には緑の樹木があるのが当たり前の光景なのですが。

トンネルの上から見た三原方面の光景です。前の跨線橋は野呂山への登山道です。

野呂山の登山道から見たトンネルです。トンネルの形は馬蹄形が普通ですが、こちら側は完全に跨線橋の形をしています。

駅方面から内部を撮影した写真です。川尻トンネルの手前側は馬蹄形のトンネルの姿です。向こうは鉄道の両岸をコンクリートで覆っているだけのようです。

こちらは、登山道の側から撮影したトンネル内部です。手前の方には馬蹄形の部分がありません。どうも向こう側の馬蹄形の部分にこちら側をくっつけた感じです。

これは、跨線橋にあったプレートです。「川尻跨線橋」と書かれています。もう一つのプレートには「かはしりこせんきょう」と書かれていました。やはり、跨線橋のようですね。

この写真は、跨線橋の駅側の歩道部分を撮影しました。通常の歩道よりかなり広い感じがします。左の車道部分は対向二車線になっています。

これは、歩道から反対方向を撮影しました。県道248号線で、野呂山への登山道として開通した道路です。もともとは歩道部分が市民の生活道路でしたが、この道路に接するように、新しい道が整備されたのではないでしょうか。歩道部分の下が馬蹄形をしたトンネル部分のようです。そう考えるとトンネル内部の様子も納得できます。

駅から歩いて5分ぐらいで海に出ます。港にはたくさんの船舶が停泊しています。

海に面して建っていた呉市役所川尻支所。かつての豊田郡川尻町は筆の産地として知られています。駅舎に展示されていた説明には、天明6(1835)年に菊谷三蔵が筆商を始め、寺子屋などで筆の置き売りを行ったこと、嘉永3(1850)年に上野八重吉が出雲国から筆の職人を雇い、筆の製造を始めたことが書かれていました。安芸国のもう一つの筆の産地、熊野町では大量生産が盛んで、出雲では高級品の製造をしており、川尻はその融合をめざしていたとのことでした。

川尻トンネルは、全長8.7m。昨年から、日本で一番短いトンネルになりました。トンネルというよりも跨線橋といった方が適切なトンネルですが、地元の方々は、それを歓迎しておられるようでした。

JR呉線は乗車される方が多い鉄道です。日本一を契機に、多くの人が観光のために下車されるようになるといいですね。