トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

現存する12の天守閣 (その1)

2010年06月30日 | 日記
江戸時代以前につくられ、
現在も往事の姿で保存されている天守閣が
全国に12城あります

その中には、4つの国宝の城も含まれています

小さい頃から城や街道が好きで
ときどき訪ねていますが、
城に行くときは、なぜか雨に降られます
画面が白く光っている写真が多いのは
レンズに雨粒がついていたからだと思います

まず、世界遺産に登録されている国宝姫路城です



天正8(1580)年、羽柴秀吉が完成させた城を
慶長5(1600)年に、池田輝政が大改修し
現在の姿ができあがったといわれています

白鷺城といわれる美しい白亜の姿は
圧倒的なスケールと存在感で、迫力十分です
この秋からは、平成の大改修が始まります


国宝彦根城

慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いで勝った徳川家康から
佐和山城を与えられた井伊直政 
その子の、井伊直継が、
慶長8(1603)年から20年をかけて、
彦根城を完成させました

天守閣は大津城から、櫓は長浜城から
移築されたといわれています



城は、平成8年の大改修で、さらに美しく
生まれ変わりました
三重の天守閣としては史上最多の破風の数、もちろん装飾用です
花頭窓の数ももっとも多く、
金の金具で飾っており、豪華な印象が強まっています

彦根市は、町づくりに力をいれており
城に近い紺屋町には、黒塀の商家風の建物が整備されています

琵琶湖のほとりの、小高い山の上に、優雅に建つ姿は
近江八景の一つにも選ばれています


国宝犬山城

天文6(1537)年、織田信康(信長の叔父)が築きました
その城が、慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いの後城主になった
小笠原吉継によって改修されました
そして、尾張徳川家の筆頭家老だった成瀬家が
江戸時代を通じて9代にわたって、城主となっていました

慶応4(1868)年にやっと犬山藩となりましたが、
すぐ明治維新になってしまいました

眺望の美しさから、白帝城と呼ばれました



この城は、平成16年まで成瀬家が所有していました

木曽川の対岸から仰ぎ見る天守閣が、もっとも美しいと思います



国宝松本城

天正18(1590)年に、入城した
石川数正・康長の時代に、天守閣が完成しました
慶長18(1613)年に城主となった
小笠原秀政によって、深志城から松本城に改名されました



アルプスの山々に囲まれて、水をたたえた堀に浮かんだ城は
信州の城らしい雰囲気を漂わせています


いずれも、当然のことながら、天守閣は木造で床も木で張られています
階段は急傾斜で、足を踏みはずしそうです

でも、いつもたくさんの観光客が訪れています


現存する12の天守閣のうち、国宝の4つ以外は、
国の重要文化財に指定されています



岡山県高梁市の備中松山城


慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いの後、天領となり
小堀正次、政一(遠州)親子が代官として入城しました
慶長11(1611)年、改修工事を始め、
元和元(1681)年、水谷(みずのや)氏の大々的な改修により
今日の姿が完成したといわれています

高梁市の市街地にある
標高480メートルの臥牛山の山頂に築かれた天守閣は
日本でもっとも高いところにあります
また、12の現存天守閣の中でもっとも小さいものです

この城は、「忠臣蔵」で知られる大石内蔵助が
在番したことでも知られています

小堀氏のあと、大名領として、池田氏、水谷氏、
安藤氏、石川氏と続き、
延享元(1744)年に板倉勝澄が入城してから
明治維新まで板倉氏が君臨しました
特に幕末に老中として日本の政治を動かした板倉勝浄は
よく知られています

高梁市は情緒あふれる町です
石火矢町には、武家屋敷が残っています
右の写真の武家屋敷の先のこんもりとした山が
備中松山城のある臥牛山です



丸亀城

香川県の中西部、丸亀市の亀山(66メートル)に
築かれています



慶長2(1597)年、高松城主生駒親正が隠居して築城を開始しました

寛永18(1641)年、替わって五万石で入城した
山崎家治が丸亀城の再建にかかりましたが、
3代治頼のときに断絶してしまいました

そして、万治元(1658)年、京極高和が入城し
万治3(1660)年、天守閣が完成しました
京極氏は、この後、明治まで城主でした

丸亀城がある亀山は、標高66メートルといわれていますが、
丸亀駅からみるとかなりの高さだと感じます
大手一の門の立派さに比べ、天守閣がやや軽く感じてしまいます

場内を歩いているとき目に入ってくる石垣の見事さには、驚ろかされます


プラネタリウムを見たのですが・・・

2010年06月26日 | 日記
遠出をしようと思っていたら、朝からあいにくの雨
家でごろごろするのにもあいて
午後から浅口市鴨方町から遙照山に行くことにしました
家人がまだ行ったことがないので、
家人サービスのつもりで、ドライバーも兼ねて・・・・

鴨方町からは、山道になります
この町は、岡山藩きっての名君といわれた池田光政から、
寛文12(1672)年に2万5千石を与えられた、
二男池田政言(まさこと)の陣屋町として発展してきた町です

雨は降り続きやみそうもありません

めざすは、遙照山にある、岡山天文博物館です
 
博物館前からさらに登っていけば、
国立天文台岡山天体物理観測所に着きます

案内板に「観測者が寝ていますので、見学は静かに・・・・」と書かれています
観測者も人の子、前日は、ワールドカップのデンマーク戦をしっかり
見ておられたのでしょう!?

ちょうどいい時間であまり待つことなく見られそうなので
プラネタリウムに入ることにしました

いただいたパンフレットには、
「天の川のほとりで」とありました
副題は「星空の正体に迫る」でした


夏の星座についての説明だと思いこみ
楽しみにして、座席に座りました

期待通り、「夏の大三角」からでした
こと座のベガとわし座のアルタイル、そしてわし座のデネブ

ベガが織姫、アルタイルが彦星
愛し合った二人は仕事がおろそかになり
罰として、1年に1回、7月7日だけに会えるようになってしまったと・・・
さらに、さそり座のアンタレスは・・・・・・

家人に起こされるまで、何も覚えていないのです
最近は、映画を見に行っても、暗くなるといつも眠ってしまいます

目覚めてからのお話は、余りに専門的すぎて、ちんぷんかんぷん
聞いていても、何のことなのかさっぱりわかりません
わからないことがたくさんあるとわかったことだけが収穫でした
家人に聞くと、「わからないことはたくさんあるよ」とのこと

そうか、気にしても仕方ないのか!
この人がいるから、ずいぶん救われているんだ・・・

博物館を出て、すぐ近くのかんぽの宿遙照山ホテルへ
 
なかなか趣のあるホテルでしたが、
ここでも、ロビーのテレビはサッカーワールドカップを放映していました

雨はますます激しくなり、猛烈な雨を突っ切って鴨方町まで帰りました
ここからは、以前に撮影した写真です

鴨方の地場産業は、酒づくりと手延そうめん・・・
賀茂緑の丸本酒造と、喜平の平喜酒造
かたや伝統的な手作りにこだわり、他方は機械化での大量生産に活路を求める
対称的な酒づくりの印象・・・・???
  

手延そうめんの販売店の巨大な水車、
水車小屋の中では、粉がひかれていました

そして、鴨方町屋公園
社会教育施設としても活用されている町屋
この旧高戸家住宅は、岡山県の重要文化財に指定されています


ここまで見学しても、まだまだ雨は降り続いていました

私の好きな街7  馬籠・妻籠

2010年06月19日 | 日記
木曽路の宿場町でもっとも知られているのが馬籠と妻籠、中山道で、江戸日本橋から42番目と43番目の宿場町です

初めて訪ねたのは、40年前でした 当時、私は、愛読していた「ハイカー」(山と渓谷社刊)を手に
各地の町並みを少しずつ歩いていました 写真が掲載されていた、「い古まや」(生駒屋)の前から見た妻籠宿の風景をぜひ見てみたい! それがきっかけでした



暇がたっぷりあるのに、貧しかった学生時代 どこへ行くにもまずバイトで、資金を貯めるまでにかなりの時間が必要でした やっと旅に出られたのは、日も短くなった晩秋の頃だったように思います

40年前と同じように、中津川駅から、バスで馬籠に入りました 5年ほど前のことでした

40年前も、藤村記念館のある旧馬籠宿本陣のあたりは、「山の中である」という言葉にふさわしくないような
洗練された雰囲気がありました
   
今も基本的な部分は変わらないのですが、すっきりとした、「都会的」という表現に近い、しゃれた町だと感じました
 
石敷きの旧街道も、枡形の石段や水車、旅籠の建物も高札場も・・・・・何もかも・・


40年前は、馬籠に着いてほどなく日が暮れたよう感じました 馬籠峠にむけて街道を登っていく途中にあった民宿に入りました 泊まり客はもちろん私だけでした 当時まだたくさん残っていた、板敷に石をのせた屋根の農家風の民宿でした 馬小屋だったと思われる納屋にあった、五右衛門風呂に入りました
おかげさまで 往事の宿場町の雰囲気を、十分楽しむことができました

40年前は、翌朝、馬籠峠を越えて妻籠宿まで街道を歩きましたが、このときは、馬籠峠からバスで妻籠宿をめざしました 

妻籠宿では、やはり「い古まや」です 「い古まや」の看板も、桐の木?(葉っぱの形状からそう思うのですが)も昔のままでした 40年前にも、この旅籠の2階に宿泊者がくつろいでいて、ずいぶんうらやましく思ったものでした
 

妻籠の「い古まや」あたりは、間口の狭い家が街道沿いにびっしりと並んでいます もちろん、奥行きはしっかりあるのですが・・・

私は、この松代屋からの街道の姿も気に入っています 松代屋は、文化元(1804)年創業の中山道屈指の老舗宿とのこと 大部分が当時のままだそうです
 
板敷き石置き屋根の建物も、復元されています やはり、木曽路、おみやげも木製品が多いですね


街道をさらにさかのぼると、間口の広いどっしりとした感じの民家が目立つようになります

写真の中央の妻籠宿本陣、右の脇本陣も復元され展示館になっています
  

妻籠に宿場町らしい魅力を強く感じるのは、江戸時代後期の宿場町を保存し復元した、人々の努力のためだと思います 本陣も、脇本陣も、そして高札場も、水車小屋、枡形、常夜灯も・・・・  かつての姿を見事に表現してくれています
   
 

主要な交通路を外れた馬籠や妻籠でしたが、近代化への動きの中でも消滅することなく、多くの人々に注目され、たくさんの観光客を集めているのは、宿場町にこだわったまちづくりに努力してきたからだと感じたものでした

旭公民館の泰山木の花が咲いています

2010年06月18日 | 日記
 

岡山市立旭公民館の2階の踊り場に、
直径15センチを超える大きな白い花が花瓶に生けられていて、
周囲にいい香りが漂っています

また、玄関脇には、つぼみが飾られています
よく見ると、踊り場の泰山木にも、つぼみがついていました
つぼみも百合やアマリリスのように大きくて立派です



岡山市立旭公民館の広い庭にある泰山木の花だと聞きました
公民館のスタッフが切って飾ったそうです

泰山木は、北アメリカの中南部原産で、
ミシシッピ州やルイジアナ州では州花とされています
のびのびと育てれば、20メートルぐらいになる高木のようです

クスノキやクロガネモチなど10メートルを超える木が多い旭公民館ですが、
まっすぐ幹を伸ばし、光沢のある大きめの葉をつけた泰山木は、
ひときわ目を引きます
何万年も前からほとんど姿を変えていない植物といわれる
気の遠くなるような歴史を秘め、
繁殖のため多くの昆虫を集めている様に
比類のない存在感を感じます

花言葉は「威厳」「前途洋々」とか・・・
なるほどと納得できます

 

泰山木の花は通常5月から6月に咲くといわれています
今年は、天候不順と言われるので、
例年より少し長く楽しめるかもしれません




今も現役の水車たち

2010年06月16日 | 日記
昨日の雨と打って変わり、夏の日差しが容赦なく降り注いでいます
今日は久しぶりに、仕事が休みなので
ひたすら休養を取るつもりで、ごろごろごろしておりました

昼前になって、ふっと思いついて、カメラを持って外に出ました

行き先は、倉敷市内の高梁川に近い祐安地区



岡山県南部の農業用水や水島コンビナートの
工業用水をまかなう高梁川から引かれた水が、
豊かに流れる二本の用水路のなかに
水車が据えられています
ここは、田植えシーズンになると、
水車で水を汲み上げるようすが、新聞やテレビでよく報道されてきたところです



水車に取り付けられた細長い筒状の容器で水を汲み上げ、
細長い板製の容器をすべって導水管の中に集められ、道路の下を通って、
畑や水田に送られていきます
1枚の田に、1台の水車が設置されていて、
たくさんの水車が数十メートルごとに並んでいます

大正時代から続く、水車のある風景です

ことことこっとん  ことことこっとん ・・・・・
・・・・・・  ・・・・・・ことことこっとん ことことこっとん

わたしが幼い頃に流行していたラジオ歌謡の水車は、
粉を轢いていたので、こんな音をたてていたようですが、
こちらの水車は、汲み上げた水が、受け止める容器に落ちるときの
ばしゃ、ばしゃという音しかしません

それでも、ためる容器にあふれるぐらいの水が汲み上げられています

「たかが水車」というなかれ!
ここでは、水車は、揚水ポンプに負けない働きをしておりました

 

そして、水車の脇には地神様が祀られ、
豊かな大地の恵みと水車を
見守ってくれています




昨日の雨の効果もあったのか、
水田にはたっぷりと水が入っていました
水車が汲み上げた水が、水田に向かうこともなく、
そのまま用水路に帰っているところもありました

揚水ポンプならエンジンを止めておくのでしょうが・・・
水車は、ひたすら報われない仕事を続けておりました



写真を撮っているとき、ご近所の女性と会いました
「電気も油もなしで、役に立っているでしょう!」

「昔は、田植えの頃には
たくさんの新聞社や放送局の記者が来てなあ、
いつか、ちょっと話しをしたら、
これをどうぞと言われて
小型のラジオをもらったことがあったよ」
この高齢の女性は、そう語っておられました

「この水はここから中庄の方まで行くんよ、
もう一つの水車のある用水は、浜の茶屋のほうに行くんよ」

そういえば、高梁川からの12ヶ郷用水は、岡山県南の
多くの農村をうるおしています。
万物を育てる水のありがたみを再確認したしだいです

その間も、水車は休まず水を汲み上げ続けておりました

私の好きな街6 奈良井

2010年06月09日 | 日記
古代・中世の東山道を、江戸幕府が五街道の一つとして整備した中山道、江戸の日本橋と京三条大橋までの135里32町(533.9km)を69宿で結ぶ大幹線でした。中でも、「木曽路はすべて山の中である」と島崎藤村が「夜明け前」に書いたように贄川(にえかわ)から馬籠までの木曽路十一宿は、中山道のハイライトともいうべき山の道でした。 山といっても里山しか知らないで育った私は、若い時から山の国には、強いあこがれをもっておりました
 
木曽路十一宿の一つ旧中山道・奈良井宿を、初めて訪ねたのは、5年前の夏のことでした。

名古屋から、特急しなのと普通列車を乗り継いで奈良井駅に着きました。
  
駅近くの店で、そばと馬刺を食べました。ガイドブックの情報では、「開田高原に近く水もすばらしいので、手打ちそばや馬肉料理の名店が多い」んだそうです。
 
店の前から、左の、京方面に向けて町並みを歩きました。奈良井宿は、天保年間には旅籠や茶屋などが39軒あったと言われ、木曽路十一宿で最もにぎやかで「奈良井千軒」と呼ばれていました。

二百地蔵の近くに木曽路の杉並木が残っていました。木曽路は、ここから奈良井宿に入ったのです
 
この日は、1ヶ月遅れの七夕の前で、七夕飾りが町並みに映えていました。しかし、すぐに、にわかの夕立が襲って来ました。薄暗くなった奈良井宿は、うらさびしささえ感じましたが、雨が上がってからは、地面がきらきら輝いていて、宿場町の賑わいをしのぶことができました。
    



雨があがってからは、観光客の姿も増えてにぎやかになりました。中には、日本に居住している外国人の家族の姿も見られました。町中の、酒造場の杉玉や、道祖神像、旧枡形(宿場の中の広場)近くにあった、花筏も興味深いものでした。
  
町にならぶ灯籠や、旅人ののどをうるおした水場からも、かつての宿場の姿をしのぶことができました。
 
民家の入り口にかけられていた手作りの飾りは、それぞれ観光客の人気を得ていました。私は、下の写真の飾りが一番気に入りました

全国の宿場の入り口につくられていた高札場、奈良井宿では町の出口近くにありました。各種の命令が掲げられていました。

宿場町の面影を色濃く残す「重要伝統的建造物群保存地区」奈良井。今日も、多くの観光客を集めていることでしょう。古い町並みを守ることで町に活気を取り戻している、また訪ねたいと思う町でした。

京に向かう旅人は、ここから木曽路でもっとも険しいといわれる、鳥居峠に挑むことになるのです。



絵地図を持って歩く岡山城

2010年06月06日 | 日記
腰壁の黒い姿から烏城と呼ばれる岡山城の天守閣は
見る方向によって様々な姿を見せてくれています


この天守閣の姿を、毎日見ながら生活していますが
久しぶりにじっくり勉強してみようと思い、岡山大学図書館の公開講座
「池田家文庫絵図をもって岡山城を歩こう」というイベントに参加しました

せっかく、勉強させていただいたので、
忘れないように、さっそくまとめておくことにしました

いただいた地図は、岡山大学図書館が保存・管理している
「池田家文庫絵図」の中の「御城内御絵図」(元禄13年)のコピーでした
岡山市教育委員会の文化財副専門監の説明を聞きながら
岡山城を歩きました

これは、岡山城本丸の建物配置と間取りを示しています
絵地図の右側が北の旭川方面、左側が南の岡山県立図書館のある方向になります
カラーですが、原図は色を塗っているのではなく、色紙を貼り付けているのです
青く見える部分は瓦葺き、薄茶色に見える部分が檜皮葺きと板葺きの建物です
絵地図の中の赤い枠で囲まれているところは、
藩主が公務を行う表書院があったところで、中の段と呼ばれています

天守閣が建てられているところは、絵地図の赤枠の下側の部分で本段と呼ばれています
 
天守閣の手前には、藩主の私的な生活空間である本段御殿がつくられていました
そして、本段と中の段は、
「開かずの門」といわれた不明門でつながっていました

赤い枠の外側、左、上、右の三方は、中の段より一段低いところにあたり、
下の段といわれ、武器庫や金蔵などの倉庫や馬屋などが配置されていました



さて、今回のイベントの集合場所は、県立図書館の側から城に入ったところの
枡形(四角い広場)でした
左に曲がったところに、かつて、内下馬門がありました
当時の礎石は、地面より80cm下に埋っているそうです

渡ってきた橋は、目安橋で、江戸時代には木製で、
橋の中央部がやや高くなっていたようです
また、当時の橋の欄干は、天守閣で展示されています
ここは、岡山城の大手(正門)にあたるところで、
犬島から運んできた大きな石を使って、しっかりとした石垣がつくられています
右の写真の石は、岡山城でもっとも大きい石で、高さ350cmぐらいだといわれています
城の中心部への入り口にあたり、防御を固め威容を誇っています


U字型に曲がって中の段の石垣に沿って進みます
右手の青い屋根の管理事務所の建物があるあたりに、厩がありました
絵図には、たくさんの柵が書かれています

目の前、以前「烏城コート」というテニスコートがあったところには
多くの武器庫がありました
しかし、当然のことながら、当時は、
道沿いに建物を配置して、通行者から見えないようにしていました

その先の、不明門を見上げる位置に、中の段に上る石段があります
参加者が見上げている先が不明門、
石段の先、石垣のところが鉄御門(くろがねごもん)があったところです

右の絵図では、赤い枠の左下の部分にあたります


鉄御門をあがったところから中の段になります。


ここで、岡山市教育委員会が作成した
「本丸中の段」というパンフレットが配られました

それには、平成4~8年に行われた発掘調査で確認された泉水、井戸、穴蔵や敷石の通路や
表書院の間取りなどが記されていました
次の間取り図がそれで、中の段の地表にもその様子が復元されています
この図は、上が北になっていて、写真の、「御絵図」と方角が整合していませんが・・・

緑色の部分は畳敷きの間、黄色の部分は板の間、茶色の部分は土間を表しています
ちなみに、図の右の土間の部分は料理所です

右の写真の地面の復元図は、表書院の玄関や番所のあたり、
左の図でいえば、右下の部分になります


地面の復元図の先には、本段につながる不明門があります
不明門は、天守閣へあがる通路として、今ではいつも開いています

表書院の南の部分の広間は、「竹ノ間」「梅ノ間」と言われ、
必要に応じてふすまを外して
藩主と家臣との対面や藩の儀式などに使われていました
部屋に描かれた障壁画の題材から、部屋の名前が名付けられたのだそうです

泉水は、発掘により遺構が確認されています
現在は、水をたたえた状態で復元されています



藩主の執務室は、表書院北側にある「上段ノ間」で、「決裁の間」といわれていました
藩主はその部屋で南の方に向かって座り、
「南座敷上ノ間」に詰めた家臣に指示を出していたと言われています

上の写真で、人が立っているところは、「上ノ間」のさらに北の部屋にあたり
「招雲閣一ノ間」、「招雲閣二ノ間」があったところです
ここは、仕事に疲れた藩主の休憩室だったそうです


藩主は、執務のため、毎日、天守閣のある本段御殿からここまで通っていました
講師の方の説明によれば、次の絵図の
下の方、左の薄茶色の部分が、藩主の寝室だったところだそうです
右の青色で表されたところから右上につながる廊下門を通って、
中の段の「上ノ間」に下って行っていたようです


本段と中の段を結んで、藩主の通路になっていたのが廊下門です
下の写真の左側は中の段の廊下門の出口部分、右の写真は旭川の方から見た廊下門です


また、藩主は後楽園へ行くときには、
旭川の川岸に近いところにあった花畑御殿から
船で、対岸の後楽園南口の近くのお舟入りに移動していたとのことです
写真の石碑の手前あたりに、花畑御殿があったといわれています
御舟入はいま茶店がある左のあたりでした
後楽園も城内であり、近くに仕える家臣の護衛で出かけていたようです
 

元禄の「御絵図」の右の隅櫓、月見櫓と表書院の間に、
発掘で明らかになった井戸の遺構が残っています 



写真がないので残念なのですが、
廊下門の前、やや北の位置に、もう一つ井戸がありました
この井戸の水は、竹の節をくり抜いてつくった給水路で「料理所」に引かれ、
流しで使われていました
また、表書院の下を、備前焼きの土管で泉水まで導かれ、
サイフォンの原理で水がたたえられるようになっていました


岡山城の北西隅にあり、城のからめて(裏口)を守った月見櫓は、
岡山藩主、池田忠雄(在位1615-1632年)が、
中の段の拡幅を行った時に建てたものといわれ、
岡山城に現存する唯一の櫓で、国の重要文化財に指定されています
岡山場内に35棟あった櫓の中で、もっとも優美なものだったといわれています
月見を行ったという記録は無いそうですが、名前どおりの美しい櫓だと思います


泉水の北の表書院にあったトイレの手洗い場には、水琴窟が埋め込まれており
藩主が手を洗うたびに、ちりちりちりんと優雅な音が響いていたということです


公開講座に参加して、たくさんの新しい知識を得ました
知的好奇心を満足させていただいて、楽しく時間を過ごすことができました
30度近い暑さのなかでしたが参加してよかったと思っています