トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

JR根雨駅と旧出雲街道根雨宿を訪ねる

2021年03月25日 | 日記
JR伯備線の根雨駅です。鳥取県日野郡日野町根雨にあります。
根雨の町に残る旧本陣の門です。 根雨の町は、古くから、出雲の国と播磨の国を結ぶ出雲街道の宿場町として、また、様々な物資の集散地として栄えて来ました。 出雲街道は江戸時代の初期、松江藩主の参勤交代の道として、松江藩によって整備が進められ、根雨には藩主が宿泊する本陣が置かれていました。
JR伯備線は、JR山陽本線の倉敷駅と山陰本線の伯耆大山駅を結ぶ、全長
138.4kmの路線で、山陽と山陰を結ぶいわゆる陰陽連絡線の一つです。岡山駅側の倉敷駅・備中高梁駅間と、井倉駅・石蟹駅間が複線になっている以外は単線区間になっています。 
この日は、根雨駅と根雨の町並みを訪ねるため、岡山県北西部のJR新見駅から、米子駅へ向かう伯備線の列車に乗車しました。ホームに着いて驚いたのは出発を待っていたのが、ワンマン運転、単行のキハ120系気動車(しかも浜田
色)だったことです。電化区間で、特急列車も走っている幹線の伯備線で、ローカル線仕様の車両であるキハ120系気動車が待っていたからです。乗車したキハ120357号車は平成8(1996)年に新潟鉄工で製造された車両です。
車内は8割以上の乗車率でした。 
新見駅から1時間15分ぐらいで、根雨駅の2番ホームに到着しました。下車したのは、高校生を含めて7人でした。ちなみに、根雨駅の1日平均乗車人員は平成30(2018)年には436人だったそうです。
根雨駅は2面3線のホームになっています。駅舎側の1番ホームには新見行きの上り列車が発着しています。駅舎へは跨線橋で移動するようになっています。
2番ホームから見た新見駅方面です。長いホームの先に国道181号の高架が見えます。 伯備線は、大正8(1919)年、鳥取県側の伯耆大山駅・伯耆溝口駅間が、伯備北線として開業したことに始まります。岡山県側からは、大正14(1925)年2月に、倉敷駅・宍粟駅(現在の豪渓駅)間が、伯備南線として開業したのが始まりでした。

2番ホームの新見駅寄りから見たホームの全景です。2番ホームの上屋の下にベンチが見えました。 伯備線はその後、延進工事が続き、3年後の昭和3
(1928)年に、最後に残っていた備中川面駅・足立駅間が開業し、全線が開業しました。そして、伯備南線が伯備北線を編入し伯備線と改称して、現在に至っています。 根雨駅が開業したのは、大正11(1922)年7月30日、伯備北線の江尾(えび)駅から根雨駅までが開業したときでした。開業当時は終着駅でしたが、3ヶ月後の11月10日には黒崎駅までが開業し、途中駅になっています。 
根雨駅の開業当時の住所は、鳥取県日野郡根雨町根雨でしたが、昭和34(1959)年5月1日、根雨町は日野郡内の黒崎町と合併し、新たに、日野郡日野町根雨となりました。
伯備線は、昭和57(1982)年、全線が電化されたため、特急”やくも”が電車化され、現在も、岡山駅・出雲市駅間で1日15往復が運行されています。 
しかし、出雲市駅に向かう特急”やくも”は、新見駅から伯耆大山駅までの停車駅が、生山(しょうやま)駅または根雨駅のどちらか1駅だけになっています。電化区間なのにローカル線使用のキハ120系車両が運用されているのも、やむをえないことだと思いました。
ホームにあった駅名標です。根雨駅は、新見駅側の黒坂駅から7.6km、次の武庫駅まで4.7kmのところにありました。 

2番ホームの上屋です。ベンチの向こうには待合室がありました。
上屋の手前、右側の柱に建物財産標がありました。それには、「建物財産標 鉄 旅客上家1号 昭和55年11月17日」と書かれていました。建設から40年が経過しているようです。
1番ホームと駅舎です。赤い石州瓦と白壁の木造駅舎が、青い空と白い雲に映えて、とてもきれいでした。

ホームの左側、3番ホームの外側の側線に、ラッセル車が待機していました。
MC-6644号車。堀川工機製の16トンラッセル車です。今年度は、もう出番はなさそうです。
跨線橋の脇から見た米子駅方面のホームです。長いホームが続いています。
跨線橋から駅舎に向かいます。風や寒さ除けが成された、明るい日射しが差し込む跨線橋です。
上り列車が発着する1番ホームに降りました。
1番ホームから見た向かいのホームです。ベンチと待合室、跨線橋の上り口付近にもベンチが見えます。
真新しい改札口がありました。駅舎への入口は改札口の向こう側、使用済み切符の回収箱とicocaの精算機の間にあります。ごみ一つ無い清潔感あふれる駅舎でした。
駅舎内です。ベンチと自動販売機が見えます。
ホーム寄りの一角には金持(かもち)神社がお祀りしてありました。ホームから見た国道181号を4kmほど岡山県方面に向かった所にある神社だそうです。平安時代の弘仁元(810)年、出雲の神官の次男がこの地を通りかかったとき、お守りの根付の玉石が急に重くなったといい、この地に宮造りをするようにという神夢を見て宮を建てたそうです。この地域は、玉鋼(たまはがね)の産地で、原料の真砂鉄が取れる谷を多く所有し、鉄のことを金(かね)と読んでいたことから、金の採れる谷を多く持つ郷として「金持郷」と呼ばれるようになったそうです。中国山地から山陰のかけては「たたら製鉄」が盛んな所でした。
改札口と出札窓口です。根雨駅は、米子駅管理の直営駅になっています。
日中は、駅員の方が勤務されているそうです。
根雨駅は、大正11(1922)年7月30日に開業しました。開業から99年目を迎えています。真っ白な壁面がまぶしい駅舎です。出入口の右側にある日野高校と書かれたプランターには花が咲いていました。
出入口の右側の上部に建物財産標がありました。大正11年7月31日と書かれています。駅舎は、駅の開業の年に建てられたもののようです。
駅前広場の先に道路が左右に走っています。この道路に向かって「根雨 町並み散策マップ」と書かれた案内板が設置されていました。
そして、道路を渡ったその先には、日野町の行政を担う日野町役場の建物がありました。根雨小学校があったところに建てられたのでしょう。出雲街道に向かって「根雨小学校跡」の石碑が立てられていました。
「根雨の町並散策マップ」にあった案内です。右側の赤マルが案内板のあるところです。そのすぐ左の道が江戸時代の出雲街道です。この後、出雲街道を左方向に向かって歩くことにしました。

案内板のあるところから見た出雲街道の右側の風景です。出雲街道の根雨宿を出た旅人は、この先で日野川を渡り、次の二部宿(現・鳥取県西伯郡伯耆町)から、溝口宿(現・鳥取県西伯郡伯耆町)を通って、米子宿(鳥取県米子市)に向かって旅を続けていました。

出雲街道を左に進み、根雨宿の中心部をめざして歩きます。日野町図書館の前を進み、カーブした先の右側に鳥取銀行根雨支店がありました。

鳥取銀行の駐車場の先にあった案内標識です。 この道の先にある、歴史民俗資料館、本陣の門、根雨宿、日野町公舎、祇園橋などが書かれています。

街道に沿って建つお宅の入口にあった水琴窟(すいきんくつ)です。「かめの上に水を注ぐと、1~2分後、かめの中の水面に水滴が落ち、澄んだ音色が聞こえます」と、説明に書かれていました。

通りの左側のお店の前に「出雲街道根雨宿」と染め上げられた日よけののれんが掛けられていました。

平入りで長い間口と庇を持つ切妻造りの民家に、袖壁(うだつ)のある邸宅が見えました。宿場町の雰囲気を残す通りになっています。

旧街道の左側に、山陰合同銀行根雨支店の建物がありました。道路との境にあった標識には、「旧松江銀行根雨支店 県民の建物百選」と書かれています。

通りの左側の邸宅の隅に常夜灯と祠が見えました。常夜灯には「寛政六寅年」と刻まれていました。この一角は、かつて根雨宿の本陣があったところでした。

旧本陣の門が見えます。根雨宿の本陣跡です。現在では、本陣のあった時代を物語るものは、この門だけになっています。門は、昭和55(1980)年、日野町の有形文化財に指定されています。

旧本陣の向かいにあった、国の登録有形文化財の日野町公舎の建物です。たたら製鉄で財を成し、鳥取県一の生産高をあげていた近藤家の分家だそうです。この建物は、「明治初年に建てられているが、漆喰塗りの壁、虫籠窓、格子づくりなど江戸時代の町屋の構造を継承した建物で、江戸時代の根雨宿の面影を伝えている」と、「説明」には書かれていました。 近藤家の本家は、お向かいで本陣役をつとめておられたそうです。

旧本陣跡を右折して進むと、板井原川に架かる祇園橋(昭和8年竣工)を渡ります。その先に根雨神社があります。
板井原川はこの先で日野川に合流することになります。

根雨神社の鳥居です。鳥居の柱に寄進者として、「近藤善八郎」氏や「近藤清三郎」氏の名前が刻まれていました。

本陣跡に戻りました。旧街道をさらに進みます。

蓋掛けをしているところが多くて見えなかったのですが、旧街道の両側には水路が設けられており、山からの澄んだ水が流れていました。

通りの左側に残っていた水舟です。「昭和30年代に上水道が整備されるまで、山の伏流水を飲料水や生活用水として利用するため、水舟と呼ばれる水槽を設けていた。現在、残っているのは2ヶ所だけになった」と、「説明」には書かれていました。

その先も、旧街道の雰囲気を残す家並みが続きます。
旧街道をさらに進むと、板井原川と平行して進むようになります。

その先で、国道181号と国道180号が合流しています。

根雨宿から、旧出雲街道で上方に向かった旅人は、板井原宿、そして、四十曲(しじゅうまがり)峠を経て、美作国の新庄宿へと向かっていました。





新築されたJR勝間田駅舎

2021年03月16日 | 日記
令和3年2月22日から供用が開始された、JR姫新線の勝間田駅の新駅舎です。 その向こうに、使命を終えた木造の旧駅舎の屋根が見えます。
新旧二つの駅舎が並ぶJR勝間田駅を訪ねて来ました。
JR姫新線は、兵庫県のJR姫路駅から岡山県のJR津山駅を経由してJR新見駅に至る地方交通線です。実際の運用は、姫路駅・佐用駅間、佐用駅・津山駅間、津山駅・新見駅間で区間運行が行われています。 津山駅の2番ホームで出発を待っていた、佐用駅行き、ワンマン運転の単行気動車、キハ120335号車に乗車しました。キハ120系気動車は、全長16.3mのローカル線(地方交通線)用の小型気動車で、JR岡山支社には300番台の15両が配置されています。キハ120335号車は、平成8(1996)年に新潟鉄工所で製造された車両です。

姫新線は、大正12(1923)年、津山駅から新見側に向かって工事が始まり、美作追分駅までが作備線として開業したことに始まります。その後も延伸が続き、昭和11(1936)年には、姫路駅・東津山駅間が全通し姫新線と改称されました。また、津山駅・東津山駅間は、それより早く、昭和3(1928)年に因美南線として、美作加茂駅までが開業したときに開業しています。
列車は、勝間田駅への入口にある金正(かねまさ)踏切から、2面2線のホームに向かって進んで行きました。
津山駅から20分ぐらいで、勝間田駅の1番ホームに到着しました。乗車してきた気動車は、次の林野駅に向かって出発して行きました。 勝間田駅が開業したのは昭和9(1936)年、美作江見駅・東津山駅間が開業したときでした。
昭和12(1937)年に日中戦争から始まった戦争の時代には、「勝間田駅」を「間田勝駅」(「また勝つ駅」)と読んで、戦地に赴く人々は、わざわざこの駅から乗車して縁起をかついでいたと伝えられて います。
 開業からすでに85年が経過しています。
勝間田駅は、津山駅側の西勝間田駅から3.0kmのところ、次の林野駅まで3.6kmのところ、岡山県勝田郡勝央町勝間田に設置されています。 この日は、私以外に3人の方が下車されました。 ちなみに、平成30(2018)年には、勝間田駅の1日平均乗車人員は132人だったそうです。 ホームの端に構内踏切が、その先に、湯郷県道踏切が見えました。 構内踏切を渡って、2番ホームに向かいます。

構内踏切から見た津山方面です。右側に下り(佐用駅方面行き)列車が停車する1番ホームと木造の旧駅舎の上屋が見えます。上り(津山駅行き)列車が停車する2番ホームには、待合室が設置されていました。

待合室です。造り付けのベンチと駅名標があるだけのシンプルな造りになっていました。

待合室の柱に「建物資産標」がありました。「鉄停 駅 待合所1号 昭和11年12月」と記されていました。開業からしばらくして建てられたもののようです。 

向かいの1番ホームの光景です。佐用駅寄りに新しい駅舎とその前に駅名標が見えます。 新しい駅舎の右側の広場には、中鉄北部バス、美作共同バス、なぎバスの駐車場や停留所が設けられています。
 
新しい駅舎の左側にあった木造平屋建て、切妻造りの旧駅舎です。昭和10(1935)年6月に建設されました。中央部の改札口の右側に駅事務室、左側に待合室がありました。駅の上屋を支える柱には補強材が付いています。また、駅舎に接して、左側にトイレもありますが、今は、いずれも「立入禁止」になっています。
佐用駅方面行きの列車が停車する1番ホームに戻ってきました。構内踏切付近から見た津山駅方面です。旧駅舎の現在の姿を確認することにしました。新しい駅舎の前を通過して旧駅舎に向かいます。
旧駅舎前の上屋付近です。

事務所の前には、「トラベル翼」と書かれていました。 勝間田駅は、きっぷの販売だけを個人や法人に委託する「簡易委託駅」になっています。
改札口です。懐かしい鉄パイプの改札口の姿が残っていました。中央部には使用済み切符の回収箱がありました。
改札口から駅舎内を撮影しました。壁に接して造り付けのベンチが見えました。
改札口の右側のようすです。駅舎への出入口や出札窓口があります。 
「”元気な勝央” 心豊かに安心して暮らせる自然と文化の町」と書かれた掲示がありました。 開業した頃の勝間田駅は、岡山県勝田郡勝間田町勝間田にありました。その後、昭和29(1954)年に、勝間田町は周辺の植月村、古吉野村、高取村の1町3村と吉野村の一部が合併して、現在の勝田郡勝央町勝間田となりました。 
事務室内は、すでに駅機能の廃止に伴う整理が終わっているような印象でした。

かつての勝間田駅の姿を伝えてくれる、平成24(2012)年頃の写真です。勝間田地域や旅に関する情報にあふれた駅でした。
1番ホームを引き返して新しい勝間田駅舎に入ります。これまでの駅舎から20mぐらい東に建てられた、84平方メートルの新駅舎です。
通路には、新しい木製のベンチが置かれています。壁面には時刻表や運賃表などが掲示されていました。
通路の左側に、金太郎のキャラクターが描かれたベンチがありました。
 ”まさかりかついだ金太郎” のモデル坂田公(金)時は、駿河国(静岡県)の生まれ。 丹波国大江山の酒呑童子を退治するなどの手柄をたて、その武功を称えられていました。その後、九州の賊を征伐するために播磨国から美作国に入り勝間田の陣屋に滞在中、大雪と高熱のため、寛弘7(1010)年12月、この地でその生涯を終えました。地元、勝間田の平地区の人たちは、その武勇を称え、「剛勇」を意味する具利伽羅(くりから)権現と称してお祀りしました。明治6(1873)年栗柄神社と改称し、10年後の明治16(1883)年には社殿を改築して、今日までお祀りを続けて来られたそうです。

通路の左側に、駅事務室と待合室が設けられています。木製のベンチも置かれていました。左側は駅事務所です。カウンターには記念スタンプがありました。屋外には、門型フレームが並んで立つ広場がつくられていました。

駅舎内にあった新駅舎完成記念のスタンプです。 新駅舎が供用開始となった令和3(2021)年2月22日の日付が入っています。左右に書かれている「勝 勝 勝」は、駅のある田郡央町間田を表しているそうです。地名に3回も「勝」の字が並び、縁起がいい町ということで訪ねる人も増えているそうです。

駅舎からの出口付近に「きんとくんロビー」とかかれた掲示物がありました。「きんとくん」は、コンコースのベンチに描かれていたキャラクターです。坂田公(金)時の没後1000年を記念して誕生した、勝央町のマスコットキャラクターだそうです。新しい駅のロビーの名前にもなっています。

駅前広場から見た駅舎の正面です。黒色に塗られた屋根と壁面から上品で重厚な印象を受けます。左側はトイレになっています。
旧駅舎側から見た門型をしたフレームが並んでいるスペースです。青い空と明るい日射しの下、多くの地域の人々が集い、交流を深める場になっていくことでしょう。

これは新しい勝間田駅舎の前にあった、駅舎についての「説明」です。
勝間田には古くから播磨国の姫路と出雲国の松江を結ぶ街道、出雲街道が通っていました。江戸時代になってから、出雲国の松江藩や広瀬藩、美作国の勝山藩、津山藩などの参勤交代の道として、江戸時代初期に津山藩主の森家によって整備されました。江戸時代を通して、多くの人々や様々な物資が行き来するようになり、勝間田も、宿場町として、また、様々な物資の集散地として栄えていました。美作国には、勝間田のほか、土居、坪井、久世、勝山、美甘、新庄にも宿場(美作7宿)が置かれていました。
地元の勝央町がJR西日本と進めた新しい勝間田駅の建設は、「出雲街道と勝間田宿」をモチーフにして進められたそうです。門の形をした7つのフレームのそれぞれを「美作7宿」に見立てて配置したそうです。美作国の東から二つ目の宿場である勝間田を、コンコースの部分のフレームに見立てているのだそうです。久世宿から新庄宿は、屋根のない部分のフレームにあたるようです。

駅前広場から見た旧勝間田駅舎です。下見板張りの外壁が、建設された昭和10(1935)年当時の面影を伝えくれています。出入り口の三角の庇が印象的な建物です。 令和3(2021)年2月22日から供用が始まった新駅により、使命を終えたこの旧駅舎は、今後、撤去工事が行われることになっています。
85年間を越える年月、勝間田の町や人々を見守り続けてきた駅舎は、やがて来る撤去の日まで、短い余生を送ることになります。