トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

お伊勢七度 熊野は三度 ”お多賀様”へは月参り

2015年01月23日 | 日記

旧中山道高宮宿を歩いた日(「中山道2番目に大きい宿場町、高宮宿」2015年1月16日の日記)、高宮宿の中央で見つけた多賀大社一の鳥居です。その下にあった道標(寛永12=1635年建立)には「是より多賀みち 三十丁」と書かれていました。

天気がよければ、多賀大社までの「三十丁(約3.5km)は快適なハイキングになりますが、この日はあいにく雪の日でした。近江鉄道高宮駅に戻り、電車に使って多賀大社にお詣りすることにしました。

高宮駅から5分ほどで、多賀大社前駅に着きました。雪が降り続いています。この日はまだ松の内でしたので、電車も増発されていましたが、乗客はさほど多くなく、2両編成のクロスシートの座席は半分ぐらい空いていました。

近江鉄道は「開業100周年」を迎えたようです。

コミュニティーハウスを兼ねた近江鉄道多賀大社前駅です。神社風の建物です。

参道はすぐにわかりました。駅の左前に鳥居があったからです。これも一の鳥居と同じように、立派な大鳥居でした。

鳥居をくぐって進みます。ここから多賀大社まで、約500mだそうです。歩き始めてすぐ三差路。多賀大社一の鳥居からの多賀道に合流します。左折して進みます。

多賀大社への参道は「絵馬通り」と呼ばれています。多賀大社は「古事記」にも載っている古社で、祭神は伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)と伊邪那美大神(いざなみのおおかみ)です。延命長寿、縁結びの神として「おたが様」と呼ばれ親しまれている神社です。「お伊勢七度(たび) 熊野へ三度(みたび) お多賀様へは月参り」と歌われ、全国からお詣りの人がやってくる神社です。多賀神社のある犬上郡多賀町(人口約8、500人)に、毎年200万人が訪れているそうです。

絵馬通りが右カーブするところに、道標がありました。

「右 本社道  左 京道」と刻まれた、明治19(1886)年建立の道標でした。「京道」は「中山道」を示しています。さて、多賀大社が、全国から200万人という参詣者を集めるようになったのは、坊人(ぼうにん)と呼ばれた神宮寺の社僧たちの力が大きかったといわれています。諸国に出かけて多賀大社のお札を配り、曼荼羅の絵解きをしながら多賀信仰を広めて行きました。

多賀大社に近づいた頃、絵馬通りの左側に「かぎ楼」がありました。木造3階建ての、紅い弁柄で塗られた壁が印象的な建物です。かぎ楼の前にあった「案内」によれば、元禄2(1689)年創業の料理旅館で、江戸時代は「鍵屋」、明治から大正期には「かぎ屋」、昭和になってからは「かぎ楼」と屋号は変わりましたが、営業を続けてきました。まさに、「楼」を思わせる姿を今にとどめています。国の登録有形文化財に登録されています。

多賀大社鳥居前のおみやげ店の湯煙は、この地の名物「糸切餅(いときりもち)」を蒸す湯気です。中世、襲来した蒙古軍と戦ったとき勝利したお祝いに、団子に蒙古軍旗の赤青の線を描き、弓の弦(つる)で切って神前にお供えしたものが、この地に伝わってきたといわれています。糸で切ることから糸切餅と名づけられました。

参拝客は少ないと思っていましたが、糸切餅を求める多くの人の姿がありました。

多賀大社の鳥居をくぐり境内に入ります。多賀大社は江戸時代の寛永15(1638)年、本殿など多くの社殿が造営されました。そのときにも坊人たちの活躍があったようです。現在の本殿は、昭和5(1930)年に改修されたものです。

鳥居をくぐった先にあった”そり橋”です。豊臣秀吉が母の北の政所の病気平癒を祈願して多賀大社に1万石を奉納したことから、「太閤橋」とも呼ばれていますが、形からいえば「太鼓橋」です。社殿が造営された寛永15(1638)年に築造されたといわれています。そり橋は「神橋」であり例祭のときお御輿が渡ります。「危険」ということで、参詣者は通行禁止になっています。

神門です。近江鉄道の電車で来た人はさほど多くありませんでしたが、多賀大社には、たくさんの人が参詣していました。神門から拝殿、本殿が直線に並ぶ造りになっています。

拝殿です。本殿は、拝殿と回廊で囲まれたこの先にあります。雪でよくわかりませんが、神門、拝殿、本殿ともに檜皮葺でした。

拝殿の脇にあった寿命石です。源平の戦いで焼失した東大寺大仏殿の再建を進言した俊乗坊重源は、60歳を超えた養和元(1181)年、後白河法皇から再建の大勧進職に任ぜられます。すでに高齢であったため、寿命守護を祈るため、多賀大社に参詣し、満願のとき「莚」の字の虫食いのある柏の葉を授かりました。20年の延命(「莚」の字は「廿(にじゅう)」と「延」からなっています)を得た重源は、再建の大願を果たすことができたそうです。そのときのゆかりの石がこの寿命石だといわれています。この頃にはすでに延命長寿の神として全国に知られていたようですね。

多賀大社の門前にあるおみやげ店です。正面に、しゃもじが飾ってあります。多賀大社ではお守りとして、しゃもじを授けられます。「おたがしゃくし(お多賀しゃくし)」の習わしです。「お玉杓子(おたまじゃくし)」の名の由来と考えられています。

おみやげ店で買ったしゃもじです。「寿」と書かれています。延命長寿できれば嬉しいです。

多賀大社は、伊邪那岐大神と伊邪那美大神をお祀りしています。伊勢神宮内宮は天照大神(あまてらすおおみかみ)をお祀りしているため、「お伊勢参らば お多賀に参れ お伊勢お多賀のお子じゃもの」と言われています。「古事記」では、天照大神は伊邪那岐大神と伊邪那美大神のお子と書かれているからです。

延命長寿と縁結びを祈るため、年間200万人の参詣者があるという多賀神社を、初めて訪ねました。多くの人に信仰され愛されている神社でした。







中山道、二番目に大きい宿場町、高宮宿

2015年01月16日 | 日記
このところ、近江国(滋賀県)の中山道(近江路)を歩いています。これまで、柏原(かしわばら)宿(2014年7月15日の日記)、醒井(さめがい)宿(2014年10月21日の日記)、鳥居本(とりいもと)宿(「”赤玉神教丸”と”合羽”で知られた宿場町、中山道鳥居本宿」 2014年11月29日の日記)を歩いてきました。京都駅からJR琵琶湖線(東海道線)で東に向かいましたが、近江八幡駅を過ぎる頃から雪になりました。

彦根駅でJR琵琶湖線から下車し、同じ駅舎にある近江鉄道の電車に乗り換えます。近江鉄道は明治31(1898)年に彦根駅・八日市駅が開通しました。彦根駅から10分ぐらいで、高宮(たかみや)駅に着きました。

改築された近江鉄道高宮駅です。近江鉄道の彦根駅・八日市駅間が開通したときに設置されました。開通当時の名は「高宮停車場」でした。老朽化により、平成14(2002)年に改修されてからは、コミュニティセンターの機能もあわせてもつ駅になりました。この日訪ねたのは旧中山道、64番目の宿場町、高宮宿です。滋賀県彦根市高宮町、かつての犬上(いぬがみ)郡高宮町にあります。犬上郡は古代豪族犬上氏の本貫地で、初代遣唐使として(第5次遣隋使としても)知られる犬上御田鍬(みたすき)もその子孫でした。この日は、かつての高宮宿を旧中山道に沿って歩きました。

雪が降り続く中を、高宮宿の江戸側の入り口に向かって進みました。近江鉄道の踏切付近からスタートしました。天保14(1843)年、宿場内には民家が835軒あり、2,560人が居住していました。これは中山道69次の内、本庄宿(埼玉県)に次ぐ、中山道で2番目の規模の宿場町でした。

旧街道の右側にあった大きな常夜灯。見上げるほどの高さです。

常夜灯の左にあった「中山道 高宮宿」のモニュメントです。高宮宿を通る中山道は、ここからほぼまっすぐ出口まで続いています。

踏切を渡って進むと交差点。渡った右側にあった、大北地蔵こと木之本分身地蔵尊の地蔵堂です。北国街道木之本宿の浄信寺にある、眼病に御利益のある地蔵菩薩の分身で、めずらしい木彫りのお地蔵様です。

宿場内のお店の案内です。7町16間(約800m)にわたる高宮宿のお店に掲げられていました。

駅への分岐点です。左に進むと、近江鉄道高宮駅へ向かいます。

その先には旧街道の面影を残す家並みが見えました。もちろん建物はすべて建て替えられていますが、白漆喰、うだつのついた格子造りの商家です。

緩やかな左カーブが終わると、右手に鳥居と常夜灯が見えました。左側には豪壮な商家がありました。高宮宿は、江戸時代、周辺の愛知(えち)、犬上、神崎地方から産出される麻布である、高宮上布の集散地として栄えた経済力のある宿場町でした。ちなみに、高宮上布は室町時代から貴族などの贈答品として珍重されていました。

左の商家が、高宮上布を扱っていた近江商人、”布惣(ぬのそう)”の邸宅です。「案内」によれば、布惣では、「7つの蔵いっぱいに集荷された高宮上布が全部出荷され、それが年に12回繰り返されていた」ほど栄えていたようです。現在でも、5つの蔵と「高宮嶋」の看板が残っているそうです。邸宅は、国の登録有形文化財に登録されています。

布惣の邸宅は、「宿駅 座 楽庵」として、宿場の交流館になっているようです。この日は雪のため、訪ねる人もほとんどいなかったようです。

布惣の向かいに高宮神社の鳥居と常夜灯がありました。参道にもたくさんの常夜灯が並んでいました。

高宮神社の拝殿です。雪で見えにくくなっていました。

旧街道に戻り、さらに南に向かって歩きます。前方の左側にあった大きな石の鳥居です。重量感あふれる堂々たる鳥居です。中山道と多賀道の分岐点に建っていました。

提灯屋さんと酒屋さんの建物。雰囲気のある商家です。鳥居の手前にありました。

この写真のアングルは、高宮宿の観光ガイドによく使われているおなじみの光景です。

この鳥居は、多賀大社一の鳥居です。多賀大社は伊邪那岐(いざなぎ)大神と伊邪那美(いざなみ)大神を祀る、延命長寿と縁結びの神として、年間200万人の参詣者で賑わっています。「お伊勢七度(たび) 熊野へ三度(たび) お多賀様へは月参り」と歌われた神社です。一の鳥居は江戸時代前期の寛永12(1635)年の建立されました。扁額には「多賀大社」と書かれています。

これは反対の東側から撮影した多賀大社一の鳥居です。柱間8m、高さ11mあります。多賀町の花こう岩を使って建立しました。明神鳥居という形式の、神社の鳥居の典型的な形式の鳥居です。左に見える常夜灯は高さ6m。底辺は1辺3.3mの正方形で、燈明を照らす小窓まで13段の石段がつくられています。

参詣する人々はこの一の鳥居をくぐって、多賀大社に向かっていました。鳥居の柱の脇に道標が建っています。

道標には「是より 多賀みち 三十丁」と書かれています。ここから多賀大社まで、約3.5kmであることを示しています。

道標にも書かれているように、この道が多賀大社への参詣道です。一の鳥居から多賀大社まで、小さな常夜灯が1丁間隔で並んでいましたが、現在は数基が残るだけなのだそうです。

さらに、中山道を進みます。旧街道の時代を彷彿とさせる町並みが続いています。さて、貞享元(1684)年、松尾芭蕉が門人だった李由(彦根市内にあった明照寺の住職)を訪ねてこの地に来たとき、この先の中山道沿いにある円照寺に滞在しました。しかし、寺に来客があったため、住職の慈雲は近くの小林猪兵衛忠淳(小林次郎左衛門)宅に芭蕉を案内しました。小林家では、汚れた神子(着物)を着た僧形の芭蕉を、ただの僧としか思わなかったようです。

さて、翌日、円照寺の住職慈雲が訪ねてきて芭蕉だと知った小林家では、新しい着物を芭蕉に贈るとともに、着ていた紙子をもらったそうです。そして、それを壺に入れて庭園に埋め、「神子塚」と彫って大事に守ってきたそうです。一般開放はされていませんが、庭園の奥に今も保存されているそうです。このお宅は小林猪兵衛の邸宅があったところで、「神子塚」で知られています。

天保14(1843)年、高宮宿には本陣が1軒、脇本陣が2軒、旅籠が23軒あったそうです。ここは、その脇本陣の跡。神子塚の先の旧街道の右側にありました。玄関がついた、間口約14m、建坪244㎡の脇本陣でした。明治時代には郵便局になっていたそうです。

高宮宿の脇本陣は、人馬の継立てを行う問屋を兼ねていました。また、門前には、各種の命令を掲示する高札場があったそうです。

脇本陣の斜め前、旧街道の左側にあった高宮宿本陣跡です。武家風の構造で玄関や式台を構えた、間口27m、建坪396㎡の建物でしたが、現在は表門だけが残っています。

本陣跡の向かいにあった円照寺です。神子塚の話に出てきた松尾芭蕉が、貞享元年に滞在したところです。山門の奥に見える、姿の美しい「止鑾松(しらんまつ)」で知られています。しかし、現在の松は2代目だそうです。

円照寺の先の左側にもう一つの脇本陣があったようです。残念ながら、どこにあったのかよくわかりませんでした。旧街道らしい通りを歩くと、犬上川にかかる無賃橋(むちんばし)が見えました。

現在の無賃橋です。犬上川は増水すると渡れなくなっていたため、天保3(1832)年、彦根藩はこの地の富豪、藤野四郎兵衛、小林吟右衛門、馬場利左衛門らに命じて、費用を募り橋を架けるように命じました。当時、川渡しや仮橋は渡り賃を徴収していましたが、この橋はそれを取らなかったので、「無賃橋」と呼ばれるようになりました。昭和7(1932)年にコンクリート造りに替わったそうです。

無賃橋の脇にある地蔵堂、「むちん地蔵尊」です。昭和53(1977)年の改修のときに、無賃橋の橋脚から2体のお地蔵さんが発掘されました。これを、最初に架橋された天保3年に橋の安全を祈願して埋めたものと考え、お堂を建立してお祀りしたといわれています。右は地蔵尊の前にあった「むちんばし」の石碑です。

無賃橋を渡った対岸にあった「中山道 高宮宿」のモニュメントです。ここが高宮宿の出口にあたります。中山道を行く旅人は、ここから2里(約7.8km)先の愛知川(えちがわ)宿に向けて旅を続けていきました。

中山道69次の64番目高宮宿は、中山道で2番目の規模の宿場町でした。高宮上布の集散地として栄えた商業町でもありました。また、多賀大社一の鳥居から30丁のところにある、多賀大社への参詣の人たちも歩いた町でした。雪が降り続くあいにくの天気でしたが、高宮宿の魅力を体感することができました。

当初は、この先にある、伊藤忠商事(現、双日)の基礎をつくった近江商人、伊藤忠兵衛の旧宅まで歩こうと思っていましたが、雪のために挫折し、ここから近江鉄道高宮駅に戻ることにしました。

近江神宮から坂本へ

2015年01月13日 | 日記

京阪電鉄大津線(京津線と石山坂本線)の1日乗り放題切符「湖都古都・おおつ1dayきっぷ」を使って、石山坂本線を北上しています。この日は、雨が降り続く中を、近江神宮前駅から終点坂本駅の沿線を訪ねました。

近江神宮前駅で下車して、近江神宮をめざして歩きます。線路に沿って歩きます。

駅のすぐ北に、京阪電鉄錦織車庫がありました。京阪電鉄大津線の車両、23編成62両の全車両の検査等を行っているそうです。石山坂本線で乗車してきた車両には「昭和61年京阪電鉄 錦織工場製」などのプレートが貼り付けられていますが、ここで製造されたのでしょう。

車庫の中ですぐ目についたのが、引退した80形車両です。82号車と読めましたが、道路からの見えやすいところで余生を送っていました。

車庫に沿った道が行き止まりになったので、左折して広い道路に出てさらに北に向かいます。前方の山で右に進むと石山坂本線の線路と近江神宮の一の鳥居がありました。

赤く塗られた楼門をくぐります。38代天智天皇(在位626年~671年)をお祀りしています。この地は、667年、天智天皇が飛鳥から遷都した大津宮の跡にあたります。

新年のお詣りに来た多くの人とともに外拝殿に向かいます。近江神宮は昭和15(1940)年に建立されました。

外拝殿の中にあった内拝殿です。拝殿とこの奥にある本殿を回廊が取り囲む近江造(昭和造)という建築様式です。国の登録有形文化財に登録されています。

境内にあった「競技かるた祭」の案内板です。ここで、百人一首の第一首「秋の田のかりほの庵(いほ)の苫(とま)をあらみ わが衣手は露にむれつつ」の歌を詠んだ天智天皇に因む、競技かるたの名人とクイーンを決める決定戦が行われることの案内でした。決定戦は平成27年1月10日(土)に行われ、名人戦は岸田諭7段が3連覇、クイーン戦は坪田翼6段が初優勝しました。

境内にある自動車清祓所。旧大津地方裁判所の本館の車寄で、明治23(1890)年の建築。昭和46(1971)年に取り壊されることになって、ここに移築保存されることになりました。祭神の天智天皇が日本で最初に法(近江令)を制定したことからだそうです。ちなみに、大津地方裁判所は、我が国の司法権の独立を世界に宣言することになった大津事件の公判が開かれたところです。

境内にあった時計博物館です。天智天皇によって、日本で最初の時計である漏刻(ろうこく)がつくられたことにちなみ、昭和38(1963)年に設立されました。

これが復元された漏刻。水時計です。

時計博物館前には、時計業者が寄進した日時計も展示されています。

4000年前に中国で主に夜の時間を計るためにつくられた火時計です。龍の背中に等間隔に14個の銅球が吊り下げられています。

糸の下を燃え進む線香の火が糸を焼き切り、球が落下すると、下の銅鑼が鳴って時を告げていたそうです。

写真は南滋賀駅のホームです。近江神宮前駅から、”機関車トーマス”の701号車と702号車に乗車しました。。近江神宮前駅から0.6km、道路と並行した専用軌道を走ってきました。録音による車内放送で「もうすぐ湖が見えるところがあるよ。お楽しみに」と案内がありましたが、残念ながら、雨が降り続いて湖は見えませんでした

これは、南滋賀駅にあった時刻表です。近江神宮前駅まで日中8本運行されていた電車が4本の運行になりました。このあたりは市街地から離れた印象を受けました。

滋賀里駅です。南滋賀駅から0.9km。乗車されていた車掌さんの「ありがとうございます」という元気のいい声が聞こえます。

滋賀里駅から1.5km。石山坂本線の駅間最長区間を走って穴太(あのう)駅に着きました。高台を線路と並行して走る道路から撮影しました。穴太は、石垣づくりの集団として知られる穴太衆(あのうしゅう)のふるさととして知られています。

穴太駅にあったキロポストです。「12K284M」石山寺駅から、12.284kmの距離にあります。穴太衆は、古代から穴太一帯に居住し、山門の土木工事や修理にあたっていた人たちです。安土城の石垣をつくったことで広く知られるようになりました。その他、伏見城、篠山城、名古屋城、小倉城、金沢城、和歌山城、近江八幡城、伊賀上野城などの石垣工事でも高い技術を発揮しました。

松ノ馬場駅です。穴太駅から1.2km。

松ノ馬場駅から0.6km。終点坂本駅のホームです。石山坂本線14.1kmを乗り尽くしました。

改札口から出ました。近代的な坂本駅の駅舎がみえました。ここ坂本は、比叡山延暦寺の門前町として、古くから栄えた町で、国の「伝統的建造物群保存地区」に指定されています。穴太衆が築いた石垣の上に生け垣が並ぶ美しい風景が続いています。
駅を出て左に進むと日吉(ひよし)神社の鳥居が見えました。比叡山に延暦寺を建立し、比叡山の地主神である日吉神社を天台宗・延暦寺の守護神として崇敬したといわれています。3年ほど前に坂本を歩いたことがありました(2011年12月31日の日記)ので、駅からJR東海道線の乗り換え駅である京阪石山駅に向けて引き返すことにしました。


「湖都古都・おおつ1day きっぷ」を使い、石山坂本線を石山寺駅から坂本駅まで14.1km。21駅をたどってきました。600形と700形の2両編成の電車で1駅1駅下車しながら、沿線の見どころを訪問しながらの電車の旅でした。500円の1日乗り放題きっぷだったからできた旅でもありました。長い間歴史の舞台であった京都に近いため、多くの史跡を沿線にかかえる、石山坂本線の旅の楽しさを満喫しました。




湖都古都・おおつ1day きっぷで行く(2)

2015年01月08日 | 日記

京阪電鉄大津線(京津線・石山坂本線)の1日乗り放題きっぷの「湖都古都・おおつ1dayきっぷ」を使って京阪電鉄石山坂本線の沿線を歩いています。前回、膳所本町駅まで乗ってきました。

膳所城ゆかりの地を訪ねた後、再び京阪電鉄膳所本町駅に戻り、石山坂本線を坂本方面に向かって進みました。ここから浜大津駅までは大正2(1912)年3月1日に開業しました。石山坂本線で最も早く開業した区間です。

膳所本町駅を発車したと思ったら、すぐに次の錦駅に着きました。2面2線、対面式のホームです。駅間0.4km。膳所本町駅と錦町駅間は、粟津駅と瓦ヶ浜駅間と並ぶ、駅間最短距離の区間です。

錦駅から乗車してきた”機関車トーマス”が描かれた701号車と702号車のワンマン運転の電車で、京阪膳所駅に到着しました。錦駅から0.5kmです。「1day きっぷ」を駅スタッフに見せて構内から出ました。

左側がJR琵琶湖線(東海道線)の膳所駅、右側が石山坂本線の京阪膳所駅です。JRとの乗換駅になっています。近くに訪ねてみたいところがありました。

京阪膳所駅から踏み切りを渡って進みます。左に滋賀県立大津高校を見ながら進むとその先で道が二つに分かれます。

大津市立平野小学校の近くで分岐します。中央の分岐点に道標がありました。

分岐点にあった道標です。片面は読めませんでしたが、「右 義仲寺」は読めました。訪ねたいと思っていた義仲寺です。分岐点の右の道を進みます。義仲寺は源義仲(木曾義仲)の墓所があるところです。義仲は、治承4(1180)年木曽で平氏の打倒をめざして挙兵し、寿永2(1183)年倶利伽羅峠で平氏の大軍を討って、京に入りました。しかし、翌年の寿永3(4月に改元されて元暦元=1184)年、源頼朝の命で京にやってきた源範頼、義経の軍に討たれて死亡しました。

前方の交差点の手前右側にあった「八真道(やまと)」というラーメン屋さんのところで左折します。かつて東海道だった通りに入りました。写真は、振り返って撮影した江戸方面です。旧街道時代の雰囲気を残しています。

左側に義仲寺があります。さぞかし大きなお寺と期待していたのですが、意外に小さな寺でした。境内に入ります。

事務所で説明をお聞きしてから境内を歩きます。源義仲の供養塔です。

義仲の供養塔の隣にあった、俳聖、松尾芭蕉の墓です。芭蕉は元禄7(1694)年大坂で亡くなりましたが、「骸(から)は木曽塚に送るべし」の遺言によって、義仲寺に墓をつくったといわれています。

巴塚です。源義仲の死亡後、尼僧が義仲の墓所のほとりに庵を結び義仲の供養をしていました。この尼僧が源義仲の妻の巴御前でした。写真は、境内にあった巴塚、巴御前の供養塔です。巴御前は義仲が死亡した後、和田義盛の妻になり、義盛が戦死してからは尼僧になって各地を回りこの地で亡き義仲の菩提を弔っていました。その後、京から離れ、信濃国木曽谷で90歳の生涯を閉じたといわれています。

京阪膳所駅に引き返し、次の石場駅に向かいます。駅間0.8km。駅名表示には「石場駅・びわ湖ホール前」と書かれています。琵琶湖ホールは滋賀県立芸術劇場びわ湖ホールです。ここから横断歩道を渡って180mのところにあります。

石山寺行きのホームで見つけたキロポストです。坂本方面行きのホームの下にありました。「5K500M」と書かれています。石山寺駅から5.5kmの距離にあることを表しています。ここまでずっと坂本方面行きの電車に乗ってきましたので、初めて見つけることができました。

石場駅から0.5km、島ノ関駅に着きました。

島ノ関駅を過ぎると、右側に、船を連想させる丸い窓のびわ湖ホテルが見えます。0.7kmで浜大津駅に着きます。

浜大津駅です。ビルの谷間にありました。

1面2線の浜大津駅。左側が石山坂本線の近江神宮・坂本方面行きと京津線の御陵(みささぎ)方面行きのホームです。右は石山寺駅行きと京津線の終点になるホームです。浜大津駅の改札口へは階段を上がって行くことになります。

ここは、京津線の終起点です。京都市営地下鉄にも乗り入れている京津線の電車です。太秦天神川駅に向かう800形4両編成の電車がカーブしながら駅から出ていきます。ここは、大津線の撮影スポットだそうです。

おでん電車が入ってきました。毎年冬に運行されています。平成27年の運行予定が電車に書かれています。1月16日から3月15日まで、経費3,500円で、琵琶湖汽船とタイアップして「おでんde電車」&「汽船deおでん」で、予約の受付をしていました。語呂がなかなかいいですね。電車の全面におでんが描かれています。703号車と704号車です。

琵琶湖には観光船が並んでいます。大津港もすぐ前にあります。

「三井寺力餅」のお店です。”近江富士”こと三上山を七巻半する大百足を退治したお礼としてたくさんの米俵をもらった俵藤太(たわらのとうた・藤原秀郷)は、そのとき鐘もお礼にもらっていました。かれはこの鐘を三井寺に寄進しました。その後、武蔵坊弁慶がこれを奪い比叡山まで引き摺って行ったという「弁慶の引摺鐘」の伝説があります。この伝説に因み、近江米の餅米を杵でついて串ざしにした小さい餅に、独特の蜜をからめてきなこを添えた「三井寺力餅」で知られています。明治2(1869)年創業の老舗です。

浜大津駅を出る石山坂本線の車両です。

次の三井寺駅までは併用軌道になります。道路の中央に石山坂本線、その脇に道路部分が設置されています。電線が多く見にくいのですが、写真は併用軌道を浜大津駅に向かう石山寺駅行きの電車です。

三井寺駅です。浜大津駅から0.5km。ここは、三井寺の最寄り駅です。

三井寺駅の前にあった案内板です。はっきりとは見えませんが、中央左が三井寺駅。中央を上下に走る青い部分が琵琶湖疎水、琵琶湖疎水がくぐる山に三井寺があります。疎水の右の通りが三井寺の大門に続く大門通りです。三井寺の手前にあるのが皇子山陸上競技場と皇子山球場です。石山坂本線の次の別所駅は、皇子山陸上競技場の近くにあります。

琵琶湖疎水です。京都の蹴上(けあげ)までつづく人口の水路で、京都の飲料水や発電、物資輸送の水路、農業用水など多目的に利用されています。明治45(1912)年に全線が開通しました。

大門通りを通って三井寺大門前に着きました。大門は両脇に金剛力士が置いてあるため仁王門とも呼ばれています。国指定の重要文化財です。宝徳4(1452)年滋賀県石部町の常楽寺に建てられ、伏見城に移されました。その後、慶長6(1601)年徳川家康の寄進によって三井寺に移されたものです。

三井寺の金堂です。入母屋造り、檜皮葺の大建築。現在の建物は、慶長4(1599)年に建てられたものです。金堂前には堂前燈籠が建っています。大化改新で蘇我氏を滅ぼした天智天皇はその贖罪のため、自分の薬指(無名指)を切り燈籠の台座の下に納めたと伝えられています。

近江八景の一つ「三井の晩鐘」です。初代の鐘は「弁慶の引摺鐘」でしたが、現在の鐘は慶長7(1602)年に鋳造されたもので、重さは600貫(約2250kg)あります。

鐘の上の部分には煩悩に因む突起が、108個つくられていました。

三井寺駅から0.8km、別所駅に着きました。社内放送では別所駅の後に「市役所前」をつけて案内されています。

案内されていた大津市役所の建物です。坂本方面に向かって左側にありました。

別所駅の琵琶湖寄りには大津市皇子山総合運動公園陸上競技場。その北側にあった皇子山球場です。照明灯よりはるかに高い背景のマンションは、別所駅の次の皇子山駅の前にあります。

別所駅から0.5km。次の皇子山駅に着きました。皇子山駅は湖西線の高架下にあります。駅からJR湖西線の高架に沿って歩くとJR大津京駅に着きます。JRへの乗換駅の一つです。

5分ぐらいでJR大津京駅です。右手に皇子山球場の背景にあった高層マンションがありました。

JR大津京駅です。駅名の文字の上にはたくさんの鳩が停まっていました。

これは皇子山駅のホームにあった時刻表です。昼間は1時間8本の電車が運行されていました。よく見ると、坂本行きが1時間に4本、その間に近江神宮駅行きが各1本ずつ運行されています。時間を気にしないで乗ることができます。

電車を待っていたら、「鉄道むすめ巡り」のラッピング電車が入ってきました。619号車と620号車の2両編成でした。ラッシュ間の運行ではありませんでしたが、車掌さんが乗務されていました。「ありがとうございました!」の威勢のいい声を聞こえていました。

「鉄道むすめ巡り」の電車で1分ちょっと、近江神宮駅に到着しました。皇子山駅から0.6kmのところにありました。

今回は、「湖都古都・おおつ1day きっぷ」を使って、石山坂本線の膳所本町駅から近江神宮前駅までの5.3kmを移動しました。その間のすべての駅で下車しながらの電車の旅でした。この区間は、日中は近江神宮前駅止めと坂本駅行きの電車をあわせて1時間に8本運行されています。京津線を分岐する浜大津駅、「三井の晩鐘」の最寄り駅三井寺駅など沿線の見どころも多い区間でした。終点の坂本駅をめざす石山坂本線の旅はさらに続きます。