トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

下津井電鉄の車両のある町、倉敷市下津井地区

2011年06月19日 | 日記
 
岡山県の倉敷市児島地区と瀬戸内海の対岸にある香川県坂出市を結ぶ瀬戸大橋。3本ある中四連絡橋で最も早く、昭和63(1988)年に開通しました。倉敷市児島地区の出口にあたるのが下津井(しもつい)地区です。ここは、江戸時代の中期から、北前船の潮待ち港として栄えた町です。

♪しもついみなとはよー  入りようて 出ようてよ・・♪

と下津井節に歌われて、繁栄をきわめておりました。
 
町並みに残る「むかし下津井廻船問屋」の建物は、この地の商人の繁栄ぶりを今に伝えています。また、「まだかな橋」の碑には、多くの船乗りたちに、
遊郭に行くのは「まだかな」と呼びかける女性がいたことからついたと書かれています。下津井は、ほんとに賑っていたようです。

下津井港の近くで煙が上がっているので、訪ねて行きました。集めたゴミや刈った草を焼いている煙でした。その先の、覆いが破損している屋根の下に、
電車が保存されているのに気がつきました。

ここは、かつて、下津井電鉄下津井駅があったところでした。作業にあたっている方にお聞きすると、「下津井みなと電車保存会」のメンバーで、この日はちょうどその例会の日で、いつものように下津井電鉄の職員とともに駅跡の整備にあたっているところでした。

保存されている電車は、かつて、この下津井駅とJR瀬戸大橋線(当時は宇野線)茶屋町駅を結んでいた下津井電鉄の車両でした。

下津井電鉄の茶屋町・味野駅間は、大正2(1913)年11月1日に開業しました。翌年の大正3(1914)年、下津井駅まで延伸し全線が開通しました。軌道間762ミリ(30インチ)の狭軌鉄道でした。しかし、新幹線が岡山まで開通した昭和47(1972)年、茶屋町・児島駅間が廃止され、児島駅・下津井駅間のみの運行となりました。
 
屋根のないところにあるのが赤い電車のホジ3、貨車の有蓋車ホフ6、車掌車ホカフ9と無蓋車の貨車ホトフ5の5両の車両です。

その前にあったのが、車両の前後に荷物を積むデッキが着いた、ぶどう色のクハ5の車両でした。
 
屋根の下に、電車が2列並んでいました。赤と白のツートンカラーの方はクハ24、モハ103の2両編成と、モハ1001の、計3両が並んでいました。

右の赤一色の方は、2101、2201、2001の3両編成です。現在のJRのトロッコ列車に見られるような窓のない車両で、中にはベンチといった方がいいような座席が並んでいました。

「住友金属」の名が記されたエンジン部分には、「製造 昭和63年2月」とありました。昭和63年といえば、瀬戸大橋が開通した年です。瀬戸大橋を見ながら、のんびりとした旅ができるように新たに建造されたものでした。しかし、下津井電鉄は、それからしばらくして、平成3(1991)年に廃止されてしまいます。鉄道ファンにはうれしい車両でしたが、営業的には失敗だったのではないでしょうか。まだまだ新しく見える車両に「SIMOTSUI★COAST★LINE」と書かれているのを見て、3,4年の短命で終わった新車両の無念の思いを感じざるを得ませんでした。

苦難はさらに続き、7,8年前の大潮の夜に台風が接近したとき、海水に浸かって動けなくなったといいます。哀しい運命の車両だとつくづく思います。

「下津井みなと電車保存会」の方のお話では、同じ762ミリの狭軌である、三重県の三岐鉄道(元近鉄線)北勢線に、移籍する話もあるとか。燃焼しきれなかった下津井電鉄での働きを取り戻すような、活躍の場を与えてあげたいものです。

下津井電鉄が廃止された後、線路や駅舎の跡は倉敷市が買い取り、「風の道」と名付けられた、ハイキングが楽しめる道に整備されいまも活用されています。正面の橋の下が、その「風の道」です。
 
瀬戸大橋は、下津井地区の田ノ浦港の上に架かっています。その下には、伝統的な町並みが、今も残っています。

下津井港といえば「たこ料理」が有名です。港にはたこ壺も見られます。

古い町並みとたこ料理を求めて、観光バスが毎日やってきています。
しかし、賑わいはどうでしょうか?
 
下津井港を見下ろす小高い丘の上に祀られている長濱宮と祇園宮は、拝殿は共通していますが、本殿はそれぞれ独立して並んで建っています。下津井の歴史を見つめてきた神様はどのように見ているのでしょうか。



今年も咲いた泰山木の花と今年も働く祐安地区の水車

2011年06月15日 | 日記
梅雨入りしてからしばらく経ちました。
この季節、私には気になることがあります。
それは、岡山市立旭公民館の中庭に咲く泰山木の花と、
倉敷市祐安地区の田を潤す水車の姿です。

今年も、岡山市立旭公民館では、
泰山木の大きな花が咲いています。
 
図書コーナーに入れば、職員が生けた白い花が迎えてくれます。
 
アメリカ合衆国の南部、ミシシッピ川の流域では、
泰山木は20メートルを超える大木になっているといわれますが、
公民館のも、それに近い大木です。
戦前の陸軍第17師団の師団長の官舎があったところ、
その後、国家公務員共催組合の岡山宿舎「広瀬荘」を引き継いだ、
旭公民館の、広い中庭にそびえています。
 
木蓮に似た白い花は、周囲にいい香りをふりまいてくれます。

つぼみも、さすがに大きいです。
しかし、大きな割りに、この花の美しい時間は短く、
3日ほどで枯れてしまいますが、
次から次へと咲いてくれるので、結構楽しめるのです。

もう一つ、
岡山県倉敷市祐安地区の用水路にある水車も、
すでに立派に働いていました。

岡山県西部を南に流れる高梁川は、
倉敷市の水島コンビナートの工業用水や岡山県西南部の村の農業用水に
利用されています。
その水は、倉敷市街地の北部、酒津地区から取り入れられ、
用水路を通って祐安地区に入っていきます。
その2本の用水路につかるように、小さな水車が並んでいます。

4月の末に祐安地区を訪れたとき、
田植えの前のため水量はまだまだ少なく、水車は動いていませんでした。
 
水垢が板にこびりついて黒く見える、
長年働き続けてきた水車が多い中、
今年からデビューする真新しい水車が出番を待っていました。
そして、今、はじめの写真のように、
この水車も元気に働いていました。
ただ、このところ、連日降った雨の影響もあってか、
田は水がしっかり溜まっていて、
水車にとって働きがいのない状況でした。

しかし、中には、この日もしっかり働いている水車がありました。
  
写真の水車は、長年働いてきて黒光りしていました。
用水路から、左の方に向けて水を汲み上げています。
水は、さらに樋を通って田の方に流れていきます。

そして、この三角形の形をした田に、少しずつですが、入って行きました。

この田に、豊かな実りをもたらすかどうかは、
この水車の責任であるといっていいでしょう。
責任重大ですね。
 
中には、もっと大きな責任を負っている水車もありました。
この水車が汲み上げた水は、30メートルほど先まで運ばれていき、
写真の右側の水路を通って、住宅の手前の大きな田を潤していました。
こつこつ水を汲み上げている水車は、
こんなにも大きな力を持っているのですね!
ほんとにご苦労様!

これからも、夏を越える頃まで、水車は毎日働き続けるはずです。
頼もしい水車の姿を見に、これからも何回か通ってみようと思っています。




北の政所ねねゆかりの陣屋町、岡山市足守

2011年06月08日 | 日記
岡山市の西北部に、豊臣秀吉の正室北の政所、ねねにつながる
陣屋町があります。岡山市足守地区です。
陣屋町としての始まりは、ねねの実兄木下家定が、
慶長6(1601)年、賀陽郡と上房郡内に2万5000石を領して
姫路から転封して来たときでした。
 
しかし、家定の死後の慶長13(1608)年、所領を幕府に没収されてしまいます。
これは、徳川家康が
家定の長男勝俊と二男の利房の2人に遺領を継がせようとしたのに対し、
ねねが、勝俊のみに継がせようとしたのが原因でした。
木下家定の出世も、ねねが秀吉に嫁いだことと無関係ではありません。
いいにつけ悪いにつけ、
木下家への、ねねの影響力が大きかったことを再確認してしまいました。

幕府領(天領)になったとき、この地を治めたのが小堀遠州でした。
その影響か、陣屋に接してつくられた藩主の庭園近水園(おみずえん)は
遠州流の庭園として知られています。

木下利房は、大坂の陣のとき、豊臣秀頼方ではなく、
徳川方についたという功を認められ、元和元(1615)年、
再び足守藩2万5000石を与えられました。
この後、木下家は明治維新まで13代にわたってこの地に君臨しました。
足守藩の陣屋町は、4代藩主木下利當(としまさ)が着手し、
5代藩主木下利貞のとき完成したといわれています。
 
この図は延宝期の陣屋町です。
藩主の邸宅である「屋形」は、宮路山の南東麓につくられましたが、
現在では、それを囲む堀だけが、当時の遺構として残っています。
その北につくられた近水園を取り囲むように流れる足守川が
町を守る堀にあたる役割を果たしています。

近水園にある吟風閣は、特に今の季節、
緑に映えてほんとにきれいです。
 
屋形の南西に、家老の屋敷が残っています。
昭和48(1973)年、家主の杉原隆二氏の寄付を受けて、
岡山市教育委員会が保存改修を行った侍屋敷ですが、
江戸中期の武家屋敷の遺構をほぼ完全に残しているそうです。
長屋門の先にある御成門には、家紋が入っていました。
木下家には、家老は4家おりましたが、
この武家屋敷の杉原家は、4代藩主利當の二男正長を祖とする系統でした。

寄棟造り、茅葺き平家建て、唐破風の母屋の式台を上がってすぐの、
玄関の間をこえると、2畳の仏間があります。
仏間は、武家屋敷には必ず設けられている、切腹をする部屋です。
そのため柱が逆目(さかめ、柱の天地が反対)になっていると
説明にあったので、実際のようすに興味がありましたが、
外からは確認できなかったのが残念でした。
 
木下家の菩提寺は大光寺で、陣屋から600mぐらい離れたところにあります。
6代、7代、10代の藩主、13代藩主の正室、14代当主木下利玄、
6代遺構の藩主の子女など一族の墓塔30基、22基の灯籠が残っているようです。
また、位牌は本堂の南にある霊廟に残っているそうです。  

行ってみてびっくりしました!
山門に続く土塀は、一部白漆喰がはがれ落ちて土壁がむき出しになっていました。
庭にあった池の水は白濁した水溜まりのよう、
本堂には人が住んでいる形跡が見られず、草が生え放題、
霊廟に行く道をやっと門前まで行ったら、門は閉まったまま。
大光寺の裏山にある墓所に向かう道も、草と蜘蛛の巣のため、
とても、歩いていこうという気力がわいて来ませんでした。
藩主の菩提寺だというのであれば、
きちんと整備されているはずだと思い込んでいたのです。
荒れ果てているというのは大げさかもしれませんが、
世話をする人がいないのではないかと思ってしまいました。
 
足守藩出身の著名人に、緒方洪庵がいます。
適々斎塾(適塾)を開き、福沢諭吉、大鳥圭介、橋本左内、大村益次郎、
佐野常民ら、我が国の近代化を支えた人材を育てあげました。
足守藩士佐伯瀬左衛門権因(これより)の三男で
生家跡に銅像が建てられています。
8歳で天然痘にかかるなど、体があまり強くなかったため、
文政8(1825)年、大坂蔵屋敷留守居役になった父親とともに、
大坂に出ると、蘭学を学び始めます。
さらに、長崎でオランダの医師ニーマンに医学を学び、
29歳の天保9(1838)年に、適々斎塾(適塾)を開きました。
幕末の文久2(1862)年、幕府の奥医師兼西洋医学所頭取になりましたが、
翌年、54歳で亡くなりました。

ふるさとの足守藩では、
嘉永2(1849)年に、足守除痘館で「種痘」を行ったといわれています。
洪庵の位牌は、新町にある随喜山乗典寺に祀られています。
法号は華陰院殿前法眼公裁文粛大居士。

もう一人は、歌人の14代当主木下利玄です。
5歳のとき、13代藩主木下利恭の養嗣子となり、
13歳から佐々木信綱に和歌を学び始めます。
白樺派の歌人を経て「利玄調」を確立しました。
生家跡が整備されて残っていますが、
現在もまだ整備が継続されており、また、壁は囲いの中にはいっていました。
(写真は改修以前のものです。)
 
しかし、足守陣屋町の本当の魅力は町屋にあると思います。
陣屋町づくりでは、町屋は武家地の南につくられました。
町並み保存地区になっている新町には、漆喰塗りに本瓦葺き、
虫籠窓のついた民家が並んでいます。
現在、約250戸ある民家のうちの約100戸が、
江戸時代の伝統的な民家の姿をとどめているとお聞きしました。
  
保存改修が行われた藤田千年治邸は、ランドマーク的な存在です。
醤油醸造や肥料の販売で財をなした大商人の邸宅です。
明治から戦後まで、大八車に醤油を積んで足守や総社まで販売していたそうです。  
触れてはいけないということでしたが、すぐ手が届く所に、
金銭出納帳などの帳面が展示してありました。
中庭をへだてて、麹室や米倉も整備されて保存されています。
 
米倉は、いつもねずみに悩まされたようで、それを防ぐために、
壁をトタン葺きにしていたようです。
写真で、黒く見えているところがトタンでつくられていた部分です。
母屋や中庭には、かつて使われていた道具類も展示されていました。

総社に向かう街道である新町通りも、その一つ東側の通りも、
藤田千年治邸から左に折れて足守川に向かう通りも、
路地も含めて魅力いっぱいです。

足守川にかかる宮路橋には、「ほたる保護地区」のポスターがありました。
いかにもほたるが生息しているだろうなあと思わせる清流でした。

戦後、足守地区はモータリゼーションの発達とともに
少しずつ経済発展から取り残されていきました。
そのため、静かで落ち着いた町の雰囲気を、今日まで残して来ることができました。
子どもの数も減少し、小規模小学校を総合し、
小中一貫校をつくろうという動きも生まれているようです。

途中で、阪神地方からバスで来られた40人ぐらいの団体に会いました。
ガイドさんに引率され、資料を手にした歴史を学ぶグループのようでした。
足守の雰囲気にひかれて、県外からも訪問者が増えているようです。

いつまでも、古きよき時代の雰囲気を引き継いでいってほしいと思ったものでした。