岡山県の倉敷市児島地区と瀬戸内海の対岸にある香川県坂出市を結ぶ瀬戸大橋。3本ある中四連絡橋で最も早く、昭和63(1988)年に開通しました。倉敷市児島地区の出口にあたるのが下津井(しもつい)地区です。ここは、江戸時代の中期から、北前船の潮待ち港として栄えた町です。
♪しもついみなとはよー 入りようて 出ようてよ・・♪
と下津井節に歌われて、繁栄をきわめておりました。
町並みに残る「むかし下津井廻船問屋」の建物は、この地の商人の繁栄ぶりを今に伝えています。また、「まだかな橋」の碑には、多くの船乗りたちに、
遊郭に行くのは「まだかな」と呼びかける女性がいたことからついたと書かれています。下津井は、ほんとに賑っていたようです。
下津井港の近くで煙が上がっているので、訪ねて行きました。集めたゴミや刈った草を焼いている煙でした。その先の、覆いが破損している屋根の下に、
電車が保存されているのに気がつきました。
ここは、かつて、下津井電鉄下津井駅があったところでした。作業にあたっている方にお聞きすると、「下津井みなと電車保存会」のメンバーで、この日はちょうどその例会の日で、いつものように下津井電鉄の職員とともに駅跡の整備にあたっているところでした。
保存されている電車は、かつて、この下津井駅とJR瀬戸大橋線(当時は宇野線)茶屋町駅を結んでいた下津井電鉄の車両でした。
下津井電鉄の茶屋町・味野駅間は、大正2(1913)年11月1日に開業しました。翌年の大正3(1914)年、下津井駅まで延伸し全線が開通しました。軌道間762ミリ(30インチ)の狭軌鉄道でした。しかし、新幹線が岡山まで開通した昭和47(1972)年、茶屋町・児島駅間が廃止され、児島駅・下津井駅間のみの運行となりました。
屋根のないところにあるのが赤い電車のホジ3、貨車の有蓋車ホフ6、車掌車ホカフ9と無蓋車の貨車ホトフ5の5両の車両です。
その前にあったのが、車両の前後に荷物を積むデッキが着いた、ぶどう色のクハ5の車両でした。
屋根の下に、電車が2列並んでいました。赤と白のツートンカラーの方はクハ24、モハ103の2両編成と、モハ1001の、計3両が並んでいました。
右の赤一色の方は、2101、2201、2001の3両編成です。現在のJRのトロッコ列車に見られるような窓のない車両で、中にはベンチといった方がいいような座席が並んでいました。
「住友金属」の名が記されたエンジン部分には、「製造 昭和63年2月」とありました。昭和63年といえば、瀬戸大橋が開通した年です。瀬戸大橋を見ながら、のんびりとした旅ができるように新たに建造されたものでした。しかし、下津井電鉄は、それからしばらくして、平成3(1991)年に廃止されてしまいます。鉄道ファンにはうれしい車両でしたが、営業的には失敗だったのではないでしょうか。まだまだ新しく見える車両に「SIMOTSUI★COAST★LINE」と書かれているのを見て、3,4年の短命で終わった新車両の無念の思いを感じざるを得ませんでした。
苦難はさらに続き、7,8年前の大潮の夜に台風が接近したとき、海水に浸かって動けなくなったといいます。哀しい運命の車両だとつくづく思います。
「下津井みなと電車保存会」の方のお話では、同じ762ミリの狭軌である、三重県の三岐鉄道(元近鉄線)北勢線に、移籍する話もあるとか。燃焼しきれなかった下津井電鉄での働きを取り戻すような、活躍の場を与えてあげたいものです。
下津井電鉄が廃止された後、線路や駅舎の跡は倉敷市が買い取り、「風の道」と名付けられた、ハイキングが楽しめる道に整備されいまも活用されています。正面の橋の下が、その「風の道」です。
瀬戸大橋は、下津井地区の田ノ浦港の上に架かっています。その下には、伝統的な町並みが、今も残っています。
下津井港といえば「たこ料理」が有名です。港にはたこ壺も見られます。
古い町並みとたこ料理を求めて、観光バスが毎日やってきています。
しかし、賑わいはどうでしょうか?
下津井港を見下ろす小高い丘の上に祀られている長濱宮と祇園宮は、拝殿は共通していますが、本殿はそれぞれ独立して並んで建っています。下津井の歴史を見つめてきた神様はどのように見ているのでしょうか。