トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

大山山麓に残る伝統的建造物群、大山町所子地区を歩く

2017年09月30日 | 日記
中国地方最高峰の霊峰、大山(だいせん)の北麓の農村地帯に、重要伝統的建造物群保存地区に指定されている集落があります。鳥取県西伯郡大山町の所子(ところご)地区です。平成25(2013)年12月27日、伯耆(ほうき)地方における伝統的な農村の姿を伝える景観が評価され指定されました。ちなみに、鳥取県では、白壁に赤瓦葺きの商家が並ぶ、倉吉市打吹(うつぶき)玉川地区(平成10年指定)に続く指定でした。

所子の集落です。大山の山裾にある大山寺に参詣する人たちが利用した参詣道である坊領道(大山道)沿いに、江戸時代末期から明治時代初期にかけて建てられた建築物が残っています。漆喰の壁と黒板塀が続く静かで落ち着いた家並みは、かつての雰囲気を今に伝えています。

その中心にある門脇家住宅(本家です。以下、単に「門脇家」)です。広い敷地の中心にある茅葺きの主屋は、昭和49(1974)年に、国の重要文化財に指定されています。江戸時代の明和6(1769)年、この地の庄屋をつとめていた門脇家の3代本右衛門が、役宅を兼ねて建設した邸宅です。伯耆国特有の寄棟造りで、太い梁を縦横に高く組み上げた豪壮な造りで知られています。

こちらは美甘家住宅です。江戸時代末期に建てられた厨子2階建ての主屋です。屋根の上に安山岩の棟石がのせられています。美甘家住宅は、登録有形文化財に登録されています。この地の土豪で、戦国時代の元亀2(1571)年、尼子氏の残党と毛利氏の戦いのとき、毛利側の使者として尼子の残党と交渉し犠牲になった、美甘与市左衛門の子孫と伝えられるお宅です。所子の集落は、美甘家のある「カミ」(上の家屋群)と、門脇家のある「シモ」(下の家屋群)に分かれています。この日は、シモの門脇家から、カミの美甘家まで、坊領道を歩いてきました。

JR米子駅の1番ホームです。山陰本線の倉吉行き2両編成(キハ472006・キハ473012)、ワンマン運転の普通列車に乗車しました。

発車してから、30分弱。JR大山口駅に着きました。2面2線のホームでしたが、いわゆる”1線スルー”化されており、右側の1番ホームに停車しました。大正15(1926)年に新設開業されたといわれています。駅舎の改修等についてはよくわからないのですが、駅舎にあった「建物財産標」には、「昭和28年8月16日」と書かれていました。今は、近距離キップのみの自動券売機が設置された無人駅になっています。駅舎の右側に、「地蔵信仰が育んだ日本最大の大山牛馬市 日本遺産認定 大山町 伯耆町 江府町 米子市」の垂れ幕が張られていました。

「ようこそ 国立公園大山へ!」という看板を見ながら、駅前広場からまっすぐ延びる県道を歩きます。

駅から20分ぐらい歩きました。右側に大山町役場の建物が見えました。県道の左前、このあたりではめずらしい7階建てのマンションの手前に、「大山町所子」の標識がありました。左折します。

マンションの裏に大山中学校のグランドが見えました。中学校の敷地に沿って右折して進みます。左側の黄色に実った稲田の向こうに、茅葺き屋根のお宅がありました。門脇家の主屋に違いないと思って、これを目標に歩きました。

やがて、茅葺き屋根の門脇家を右側に見て進むようになりました。正面に見えるお宅の手前を右折します。

右折して、大山寺への参詣道である坊領道に入りました。いきなり、息を飲むような別世界に入りました。右側が門脇家、そして、左側が東門脇家の邸宅です。

門脇家の手前の水路に飼育されていた鯉です。所子では、水路は「ツカイガワ」と呼ばれていました。坊領道の脇を流れる清水の音が聞こえるような通りでした。

門脇家の邸宅です。門脇家は、江戸時代の延宝・天和年間(1673年~1683年)に、初代三右衛門が伯耆国汗入(あせり)郡平木村から、この地に移ってきたそうです。そして、明和6(1769)年、3代本右衛門のときから、伯耆国汗入郡の大庄屋をつとめた家柄でした。大山の北麓を流れる阿弥陀川流域の大地主として、米のほか、木綿や古着、紅花の販売にも携わり富を蓄えたといわれています。

これは、左側の水路(ツカイガワ)にあった洗い場です。水道が整備される以前は、この水路で野菜などを洗っていました。飲料水には、井戸の水が使われていたようです。

門脇家に隣接していた、南門脇家です。こちらも、広い敷地が広がっています。門脇家の3代本右衛門の次男が分家して興した家です。門脇家の南側にあったため、通称が南門脇家でした。

主屋は、安政7(1860)年頃に再建されたものだといわれています。一般公開されていませんので、門の外から撮影させていただきました。「近世末から近代にかけての屋敷構えが良好な状態で留められている」(大山町教育委員会資料)といわれています。

南門脇家の前に残っていた「駒繋ぎ石」です。物資を運んできた馬の轡(くつわ)をつないでいたところです。右奥の碑は「巡査駐在所」の跡を示していました。

南門脇家の遠景です。広い敷地にたくさんの建物が並んでいます。門脇家の財力を示しています。

坊領道に戻ります。先ほどの「洗い場」まで引き返しました。門脇家の先で、東門脇家方面を振り返って撮影しました。左側が門脇家、右側が東門脇家の邸宅です。写真の向こう側からこちらに向かって歩いてきた、かつての大山寺への参詣者は、右側の電柱のところで左折して進んでいました。

坊領道を進みます。左側が東門脇家です。入口はこの道沿いにありました。門脇家の東に位置することから、東門脇家と呼ばれています。門脇家の4代の次男が分家して興したそうです。

これが、東門脇家の正面入口です。門脇家、南門脇家と同じように、注連縄(しめなわ)が掛かっています。東門脇家は、国の登録有形文化財に登録されている建物です。ここからは見えにくいのですが、主屋は文政元(1818)年の建築です。「後に、酒造業や金融業を営んでいたため、酒蔵や長屋門内に銀行出張所の跡が残っている」(大山町教育委員会資料)そうです。一般公開しておられないので確認はできませんが・・。

これは、東門脇家の前から、門脇家方面を撮影したものです。右側に、東門脇家の板塀、板壁の建物が見えます。

東門脇家を過ぎると、坊領道は右にカーブします。そこが、江戸時代になって、門脇家周辺に形成された家屋群である「シモ」(下の集落)とそれ以前からの集落である「カミ」(上の集落)との境になっていました。前方左側にある建物は「農家民宿、珠心庵」です。その先で、坊領道は、緩やかな右カーブになります。

その先にあった集落は、「カミ」になります。「シモ」の集落が形成される以前からの集落があったところです。郵便ポストと郵便局の看板がある邸宅は、店門脇家です。「大正7(1918)年、自宅の一角に郵便局を開局した」と、大山町教育員会の資料には書かれていました。郵便局は、昭和27(1952)年に、大山口駅付近に移転したそうです。

店門脇家の斜め前にあった所子公民館。館の前に展示されているのは「力石」です。若者が力比べをした石で、米俵1俵(16貫=60kg)を基準としており、石には「16貫目」と「22貫目(約82.5kg)」と彫られているそうです。

煙草乾燥場跡です。昭和12(1937)年頃から、所子でタバコ栽培が始まり、昭和41(1966)年には10軒のタバコ農家があったそうです。現在は、廃業しておられますが、建物に、当時の乾燥場の写真が掲示してありました。

坊領道は、その先の車が駐車している手前で左折します。

坊領道は、左折した後、さらに右折して、大川寺に向かっていました。枡形のようになっていました。そこにあった「石造薬師さん」です。「柏屋」という屋号の門脇権兵衛が、寛政元(1789)年に、村人の無病息災を祈願して建立した薬師如来座像だそうです。残念ながら、柏屋門脇家がどこにあったのかよくわかりませんでした。

カーブした後、右側に、歴史を感じさせる邸宅がありました。その先の生け垣に沿って進みます。カミの集落には、塀のほかに屋敷林や生け垣が、風除け、目隠し、防火のためにつくられていました。

この邸宅が美甘家でした。門へ続く道も生け垣の間につくられていました。門の前に「パンフレット」が置かれています。美甘家は、「カミ」の集落の核になる邸宅です。いただいたパンフレットによれば、初代の弥左衛門は、慶長16(1611)年に亡くなったそうですが、17世紀の初め頃に、賀茂神社の社殿の再建を行ったそうです。また、6代九郎左衛門のときには、鳥取藩から庄屋を命ぜられた、この地域の有力者で、以来、美甘家は代々この屋敷地を守って来られたそうです。

美甘家の主屋です。江戸時代の末期から明治初頭に建てられたそうです。また、屋敷の北側や西側には土塁状の高まりが残っており、その上には屋敷林が植えられているそうです。

入口に「登録有形文化財」の登録証が掲示してありました。パンフレットを手に、中の見学をさせていただいているときにご当主さんが出てきてくださいました。「私は、美甘家の17代目です」「門脇家は、最近、代替わりして12代目になりました」。「最近は、ウチの庭を見に来られる方が増えています」とのこと。

ご当主さんの案内で、京都の石庭を連想させるような庭園を見学させていただきました。石に見えるのは、実は富士山の溶岩だそうで、ご当主さんが、ご自身でつくられた庭園だそうです。また、植木の手入れも自らなさっておられるそうです。多くの方が、全国から訪ねて来られるのも当然と思われる、見事な庭園でした。

美甘家の庭園の脇にある道を通って、賀茂神社に向かいます。賀茂神社は、創建の時期は明らかではありませんが、17世紀の初めに美甘家によって社殿が再建されたといわれています。また、江戸中期の明和5(1768)年には、21柱の神々が祀られていたようです。現在の社殿は、大正3(1914)年に再建されました。

「カミ」の集落の墓地の脇を通って、賀茂神社に着きました。賀茂神社は、北に向かって建てられていますが、その正面には、建物がなく、田畑が広がる空間になっていて、「神さんの通り道」といわれているそうです。また、二つの集落、左側の「カミ」と右側の「シモ」との境界にもなっているそうです。

所子は、鎌倉時代の貞永元(1232)年には、京都の下鴨神社(賀茂御祖神社)の社領の一つになっており、「伯耆国所子庄」と呼ばれていました。これが、「所子」という地名が文献に出てきた最初だそうです。
江戸時代から続く門脇家と、それ以前から続く美甘家を中心とする「シモ」と「カミ」の集落が残る所子は、地区の人々が一体になって、古い歴史をもつ町並みを守っていました。









山陰地方最古の駅舎、JR御来屋駅

2017年09月24日 | 日記
鳥取県には、かつて、廃止されたものも含めて、6つの鉄道が走っていました。境線、山陰本線、伯備線、倉吉線、因美(いんび)線、若桜(わかさ)線の6路線でした。その中で、最も早く開業したのが、境(現・境港)駅と、大篠津(おおしのづ)駅、後藤駅、米子駅、淀江駅を経由して、御来屋(みくりや)駅とを結ぶ山陰本線で、明治35(1902)年11月1日のことでした。その時に開業して、現在も、なお現役で使われている駅舎があります。

それが、このJR山陰本線御来屋駅です。鳥取県西伯郡大山(だいせん)町西坪にあります。実は、御来屋駅と同時に開業した大篠津駅も、当時の駅舎が残っていましたが、平成20(2008)年に、米子空港の拡張工事によって撤去され現存していません。そのため、御来屋駅が「山陰地方最古の駅舎」となっています。この日は、開業以来115年目を迎えて、今も現役駅舎として使用されている御来屋駅を訪ねてきました。

JR米子駅の改札口の前の1番ホームです。ワンマン運転の倉吉駅行きの列車が入線していました。キハ47形の2両編成(キハ471026・472006)の列車でした。

米子駅から30分余、御来屋駅に着きました。御来屋駅は、米子方面の名和駅から1.1キロメートル、次の下市駅へ5.9キロメートルのところにありました。

高校生を含む5,6人の乗客が下車すると、列車は、すぐに下市駅に向けて出発していきました。山陰本線は、その後、明治36(1903)年12月20日には上井(あげい)駅(現在の倉吉駅)まで開業しました。御来屋駅が終着駅だったのはわずかに1年ちょっとの期間だけ。かなりのスピードで山陰本線は延伸していき、明治37(1904)年には松崎駅まで、明治38(1905)年には青谷駅まで、明治40(1907)年4月28日には鳥取駅までが開業しました。跨線橋でつながった2面3線のホームが見えました。

こちらは、米子駅方面です。木造駅舎の旅客用上屋の向こうにまっすぐ線路が延びていました。2面3線のホームですが、駅舎に近い1番線に上り列車も下り列車も停車する、いわゆる”1線スルー化”工事が平成15(2003)年に行われました。1番線は、それ以来、まっすぐ米子方面に向かって延びていくことになりました。

2番・3番ホームのある島式ホームに、旅客列車のような形をした待合室がありました。見に行くことにしました。

跨線橋を上ります。冬の冷たい風や吹雪から身を守るためか、跨線橋は、1ヶ所ある窓の部分を除けば、完全なトンネルになっていました。

島式のホームに降りると、目の前に待合室がありました。かつての車掌車がそのまま置かれているような待合室です。手前はデッキがあったところのようです。

待合室の内部、片面にベンチが設置されザブトンも置かれていました。明るい日射しが差し込んでいます。

待合室の外部に、車掌車の痕跡を見つけました。塗装の下の「ヨ 4709」です。「ヨ」は車掌車を示す記号です。

2面3線のホームになっていましたが、名和駅方面には、3番線の左側に、もう1本の線路跡が残っていました。

たどってみると、線路跡は3番線の左側の柵の外に出ており、途中から線路跡は草に覆われた状態のままになっていました。車止めが草の中に残っていました。

跨線橋の窓から見た駅舎です。赤い桟瓦葺きの屋根の駅舎の前に、旅客用の上屋が接して建てられています。駅舎と旅客上屋は、平成28(2016)年11月29日に、国の登録有形文化財に登録されました。

跨線橋の階段から、駅舎に接したホームに下っていきます。1番ホームにあった旅客上屋です。開業当時のままで今も現役で使用されています。

「直売所みくりや市」の表示が見えました。駅舎は、昭和47(1972)年に、国鉄(当時)から地元の大山町に無償譲渡されたそうです。大山町では、平成14(2002)年に「直売所 みくりや市」をつくりました。

その先に、駅舎の横板張りや、木製のベンチと改札口の設備が見えました。長い歴史を感じさせてくれる風景です。

改札口から駅舎内に入ります。「ほっとする空間 山陰最古の駅舎」の看板が迎えてくれました。漆喰の白壁と柱、かつてはどの駅にもあった風景です。

駅舎の右側。多くの人々の手で磨かれた、出札口のキップの発券台、駅舎の窓枠、荷物の受渡台など、開業当時のものが残り、駅の歴史を今に伝えてくれています。

駅舎内の左側。駅舎に造り付けの椅子とベンチが並んでいます。

現在は無人駅になっており、近距離のキップを販売する自動発券機が設置されていました。明治35(1902)年11月1日の開業時から行われていた貨物の取扱いは、国鉄時代の昭和37(1962)年10月1日に廃止されました。

小荷物取扱いの窓口があったところにつくられていた「ミニ博物館」です。展示物の腕木式信号機のレンズ、釣銭入れの容器、行先表示標などがありました。その中で、ひときわ目を引くのが、「登録有形文化財」の登録証でした。

駅舎内には、たくさんの資料が展示されています。これは、その一つ「小荷物運賃表」です。「食料品運賃」や「行商品運賃」とともに「附随小荷物運賃」が表示されていました。「附随小荷物運賃」の中には、「自動自転車 1両 6銭 最低運賃200円」とか「犬 50粁迄(キロまで) 1頭ニ付 75」などの表示がありました。

鳥取県内の鉄道の開設時期の説明です。赤で書かれているのが、境駅と御来屋駅間です。開業は明治35(1902)年のことでした。この説明によれば、その後、鳥取駅までが明治40(1907)年4月25日に開業しました。続いて、伯備線の生山(しょうやま)駅までが大正12(1923)年12月28日に開業。次に開業した若桜線は、昭和5(1930)年12月1日。因美線は、昭和7(1932)年7月1日に那岐(なぎ)駅までが開業しました。そして、最後に、倉吉線が昭和33(1958)年12月20日に、山守(やまもり)駅までが開業したことがわかります。

これも駅舎内の展示物です。開通時の境(現、境港)駅と御来屋駅間の列車の時刻表と運賃表です。開通時の駅は発着駅も含めて6駅でした。境、大篠津、後藤、米子、淀江、御来屋の各駅です。午前6時15分に米子駅を出た列車は境駅に6時52分着。折り返し、7時00分に出発して御来屋駅着8時33分。折り返し、8時40分発で境駅に10時12分着。10時20分に出発して御来屋着11時57分着。その後、境駅と御来屋駅間を2往復して、最後に、御来屋駅を出るのが18時50分、米子駅着が19時32分。早朝6時15分から19時32分まで、1編成の列車が往復運転をしていたようです。また、運賃は、3等車で御来屋駅から淀江駅が10銭、米子駅までが20銭、後藤駅までが23銭、大篠津駅までが32銭、終点の境駅までが38銭でした。

その近くに、当時の物価も掲示されていました。比較されてはどうでしょう? なお、当時の山陰本線には1等車は連結されていませんでした。また、2等車は、3等車の2倍弱ぐらいの運賃に設定されていたようです。

駅舎から外へ出ました。駅舎の壁面は下見板張り(したみいたばり)になっています。

駅舎への入口です。手書きの駅名標です。ポストと公衆電話ボックスが開業当時と異なっているところです。

駅前の取付道路です。途中で、鳥取県道240号(旧奈和西坪線)と合流し、その先で国道9号と合流します。そして、その先に、日本海が見えました。

駅前から撮影したJR御来屋駅の駅舎です。駅舎の中央部から一段低くなっている、右側の屋根の下はベンチが置かれた待合いのスペースになっています。その右側の別棟の白い建物はトイレです。駐車している車は、「直売所 みくりや市」に行かれている人のものです。

「直売所 みくりや市」は、かつて、駅のスタッフが働いておられた、駅事務所の跡にありました。外からみた「みくりや市」です。

「直売所」ですから、地元の生産者がつくられた物産を販売しています。野菜を中心にした品揃えでした。せっかくお訪ねしたので、販売されていた「木ノ根饅頭」を買いました。包装してあったので、中身がわかりません。販売スタッフの方にお尋ねしますと「焼き饅頭です」とのことでした。

米子方面に引き返そうと駅舎に戻ると、出発時間よりずいぶん早く下り列車が到着していました。2番ホームに待機しています。1線スルー化の工事がなされていましたが、2番線は、下り(米子・松江方面行き)列車の専用線として使われています。キハ121-8号車が乗車を待っていました。

「山陰地方最古の駅」を訪ねてきました。
開業以来、115年を経て、今もなお、現役駅舎として使用されているJR御来屋駅。
博物館のような駅舎内には、駅舎を愛する地元の人たちの思いを感じる様々な展示物が溢れていました。また、地元の産品を販売する「みくりや市」も開かれ、多くの人が行き来する空間になっていました。
多くの人に愛される駅舎として、いつまでも利用される空間であってほしいと、心から願っています。

西国街道海田市宿跡を歩く

2017年09月17日 | 日記

JR呉線がJR山陽本線から分岐するJR海田市(かいたいち)駅です。3面5線のホームを持つ駅で、たった今、広島駅方面に向かう列車が出発して行きました。ここは、その3番ホームです。左側に見える島式ホームの4番線と5番線には呉線の電車が発着しています。

線路上の駅の改札口を出て、海田市駅の山(北)側の出口に出ました。海田市駅のある広島県安芸郡海田町は、江戸時代には西国街道(山陽道、以下「旧山陽道」と書きます)の海田市宿が置かれ、宿場町、商業町として発展してきたところでした。

駅前にあった観光案内図です。オレンジ色で描かれた旧山陽道を中心にして、それに関連する施設などが描かれています。

駅の上(北)側の水色で示されたところは、江戸時代に瀬野川が流れていたところです。瀬野川の流路を南に変えて、かつての瀬野川の跡地が商業地、住宅地になっています。この日、江戸時代の旧山陽道の海田市宿を歩いてきました。

ここは、先ほどの案内図の旧瀬野川の脇にあるグレーの道路の⑧のところにある、胡神社(左)と荒神社(右)です。左側の祠は、天保5(1834)年に勧請された胡神社。右側の祠は、明治6(1873)年、瀬野川の流れを変えたときに勧請されたと推定されている荒神社です。

さらに、北に向かい、次の東西の通りに出ます。これが、かつての旧山陽道です。写真は、道路脇にあった「安芸山陽道」の案内標識です。駅前の案内図の右側の部分、旧山陽道が山陽本線と交差する辺りから歩き始めました。

海田町畝二丁目にある大力(だいりき)第1踏切です。ここからスタートしました。

これは、踏切の少し先です。旧山陽道の東(大坂)方面です。街道は、新幹線の下をくぐって大力第1踏切に向かっていました。

旧山陽道を西(広島方面)に向かって進みます。しばらく行くと、左側に自然石でつくられた常夜灯が見えてきました。「文政8年乙酉参月」と読めました。文政8年は、江戸時代後期の1825年にあたります。右側に上っていく道は、春日神社の参道です。その上り口に、1対の常夜灯がありました。それには、「文化7庚午年」(1810年)と刻まれていました。

石垣の上に築かれた白い土塀のあるお宅が続いています。この地は、もともとは「包浦」、その後「開田」と呼ばれていたそうです。「海田」の名前が最初に文献に登場したのは、安元2(1176)年、「開田荘」という荘園としてでした。その後、海に面していたことから「海田」と呼ばれるようになったのだそうです(海田恵比須神社の案内碑より)。その後、交通の要衝にあったため、東の西条四日市、西の廿日市とともに市が開かれたことから、「海田市」と呼ばれるようになりました。こうして、海田市は、安芸郡の政治、経済の中心として発展してきました。

その先、旧山陽道沿いの民家の壁に「街道松」の案内が掲示されています。旧山陽道には並木として植えられていた街道松がありました。最後まで残ったのが「名残(なごり)の一本松」で、松くい虫の被害を受けたため、昭和61(1986)年に伐採されました。

掲示されていた「名残の一本松」の写真です。伐採される直前と言っていい昭和60(1985)年頃の姿だそうです。案内には、「掲示のあるところから25メートルぐらいのところにあった」と書かれていました。

左側にある民家の位置などから、松があった場所が推定できそうです。

その先にも、改修はなされていましたが、かつての雰囲気を感じるお宅が点在しています。江戸幕府の3代将軍、徳川家光のとき、五街道と脇往還(街道)が制定されました。旧山陽道は脇往還とされ、大坂から下関まで道幅2間半(約4.5メートル)の街道が整備されました。海田市宿では、寛永10(1633)年に行われた幕府巡検使の巡視に合わせて、画期的に整備が進んだといわれています。参勤交代の制度が始まった寛永12(1635)年からは、広島城下と西条四日市を結ぶ宿場町として、人馬15組、駕籠10挺が置かれ、人馬の継立が行われていました。

右側に、妻入りで奥行きの長い、宿場町に多い形式の民家がありました。

こちらは左側にあった、白壁の土蔵のあるお宅です。このあたりは上市地区。本陣(海田市宿では「御茶屋」と呼ばれていました)が置かれ、高札場も設けられていた宿場の中心地でした。ちなみに、海田市宿は、「東西6町27間、南北15町35間」といわれています。文化2(1814)年の「差出帳」には「家数563戸、人数2708人」と書かれているそうです

袖壁がつくられたお宅の先に、海田町役場の白い建物の一部が見えてきました。

海田町役場の向かいにあった熊野神社です。この神社にも、1対の常夜灯が残っていて、「文政8乙酉年九月」と刻まれていました。文政8年は1825年にあたります。承応3(1654)年に拝殿が再建された時の棟札が残っているそうで、それには、「庄屋猫屋次郎兵衛が願主となって再建された」ことが記されていたそうです。

その先、右側に上がっていく坂道のところに、「御茶屋跡(本陣)→」と書かれた案内がありました。参勤交代のとき、大名が宿泊する本陣があったところです。広島県には、海田市の他には、可部、吉田、八木、西条、本郷、吉舎(きさ)、甲山、尾道の8ヶ所に本陣が設置されていた(本陣跡の説明にあった「広島藩御覚書帳」から)そうです。

坂を登り切ったところに本陣(御茶屋)跡がありました。海田市宿の本陣(御茶屋)は広さ770坪で、広島県下9ヶ所の本陣の中で「4番目の広さだった」と書かれていました。ここは熊野神社の西にあたり、住宅になっている敷地のほぼ全域が、本陣跡に当たっているとお聞きしました。

旧街道に戻って進みます。右側に、海田恵比須神社がありました。延宝2(1674)年に勧請されたそうですが、享保14(1729)年、火災で焼失、その後、宝暦11(1762)年に再建されたそうです。ここにあった「海田恵比須神社由来記」(平成2年11月設立)には、海田市の歴史が詳しく説明されていました。このあたりは「中店」。江戸時代には「中市」の町が形成されていたところです。

海田恵比須神社の先の海田中店郵便局を過ぎたあたりで、「海田公民館」と書かれた看板が見えました。

海田公民館です。ここは、かつて、脇本陣があったところです。公民館にあった説明には、「安芸郡海田市国郡志御編集に付、下弾書出帳(したしらべかきだしちょう)」には「庄屋猫屋新太郎宅が、当時脇本陣と呼ばれていた」という記録が残っていると書かれていました。猫屋は広島城下町の猫屋町の出身で、海田市では「猫屋」を屋号としていました。海田市の庄屋と宿場業務の脇本陣をつとめていました。明治になってからは、ここに、安芸郡の郡役所が置かれました。先ほど通過してきた、熊野神社が、拝殿を再建した時の願主であった猫屋次郎兵衛も、この家の方だったのでしょう。

脇本陣の先にあった千葉家の邸宅です。平成3(1991)年、広島県の重要文化財に指定されました。この日は一般公開になっていました。江戸時代中期の建築様式を伝えていることで知られており、座敷棟は安永3(1774)年の建築で、寛政元(1789)年の建築略図が残っています。玄関は入母屋づくり、座敷は数寄屋風書院造り。また、庭園は、平成3年に、広島県の名勝に指定されています。邸宅は、本陣や脇本陣に準ずる施設として使用され、大名や幕府の役人の宿泊施設としても使われていました。

邸宅の内部を見学させていただきましたが、写真撮影ははばかられましたので、いただいたパンフレットの写真を撮影しました。千葉家は、江戸時代を通して「天下送り役」(幕府の書状や荷物を扱う任務)、「宿送り役」(広島藩の書状や荷物を扱う任務)、宿場町の年寄、組頭などの要職をつとめていました。写真の道具はその時に使用したものです。表面に「天下於(お)くり」、裏面に「宿送役」「海田町」、側面に「御用」と書かれていました。

千葉家の先祖は、中世前期に房総で勢力を張っていた千葉氏の一族で、下野国(栃木県)真壁に住んでいましたが、後に信州伊那に移り「神保」と号したといいます。永正年間(1504~1507年)に安芸国賀茂郡西条付近に移り、大内氏に属しました。大内氏の滅亡後には、毛利氏に属し、小早川氏の配下になっていました。そして、関ヶ原の戦いの後、毛利氏が長州に移ったとき、この地に残って住みつき、酒造業で財をなしたといわれています。

稲荷町に入りました。浄土真宗の寺院、明顕寺(みょうけんじ)です。天文10(1541)年の開基という古い歴史をもつ寺院です。幕末の第2次長州戦争で戦死した高田藩士の墓が設けられているそうです。

境内の西の端にあった鐘楼です。振り返って撮影しました。江戸時代中期の享保年間(1716~35年)、海田市の嶋屋浄祐、奥田屋善六、金屋源兵衛の寄進により、安芸国鋳物師(いもじ)の筆頭総代の名工、植木屋(金屋)源兵衛が制作した銅製梵鐘が納められています。

明顕寺の斜め向かいにあった三宅家の住宅です。江戸時代から明治時代にかけての豪農のお宅です。屋号は”新宅屋”だそうです。両替商で財をなしたお宅です。向かって左側が平入り、右側が妻入りの住宅が合体したような造りになっています。寛政元(1789)年に建設された土蔵が残っており、江戸時代の面影を今に伝えています。

旧山陽道から右に入る通りの角、黒い車のバンパーの向こう側に、一里塚跡の石碑が建っていました。道路の右側を歩いていましたので、見逃さずにすみました。

安芸ライオンズクラブが、昭和56(1981)年3月に建立した「旧山陽道海田市の一里塚跡」の石碑です。裏面には「古塚 大正10年撤去」と書かれていました。一里塚は、一里ごとに、通りの両側に直径、約6メートルの塚を設け、2本ずつ松の木が植えられたそうです。東(京・大阪方面)の次は、「鳥上の一里塚」で現在の安芸中野駅付近に、西(広島方面)の次は、「矢賀の一里塚」でイオンモール広島府中ソレイユ付近にあったそうです。

その先の山陽道も、かつての雰囲気を残す家並みが続いていました。

広かった通りが狭くなるところに、「広島市船越町」の標識がありました。ここが、安芸郡海田町の町境です。

その右側の路地です。そこには、広島市安芸区船越6丁目1番の住居表示がされていました。

江戸時代、大坂と下関を結んだ旧山陽道の海田市宿を歩いてきました。
広島藩の城下町から、東に向かって最初の宿場町、海田市宿は、広島城下へ物資を送るための中継点としての役割をもつ町でした。城下へ向かう人や物資の送迎に、忙しく、賑やかな町であったと伝えられています。






加古川線開業時の駅舎が残る駅、JR比延駅

2017年09月08日 | 日記
JR加古川線の比延(ひえ)駅です。西脇市鹿野町にあります。
比延駅の駅舎にあった建物財産標です。そこには、「鉄 本屋1号 大正13年12月」と書かれています。比延駅は、大正13(1924)年12月27日に開業しました。この年、野村駅(現在の西脇市駅)・谷川(たにかわ)駅間が開業して福知山線に接続し、現在の加古川線の全線が開業することになりました。この日は、加古川線の開業時からの駅、比延駅を訪ねました。
JR加古川駅です。現在の加古川線は、大正2(1913)年に、加古川町駅(現在の加古川駅)・国包駅(くにかねえき・現在の厄神駅)間が開業したことに始まります。この加古川町駅は、山陽鉄道の加古川駅とは異なる駅で、山陽鉄道とは接続していませんでした、山陽鉄道の加古川駅に統合されたのは、大正4(1915)年のことでした。
9時17分に加古川駅を出発する加古川線の車両です。西脇市駅行きの、クモハ102ー3553 クモハ103ー3553の2両編成、ワンマン運転の電車でした。加古川線の沿線は、「西脇、三木、北条など、古くからの都市や集落が点在し、播州米や西脇の播州織、三木の金物などの産業が盛んで、・・これら物資の輸送には加古川水系の水運が利用されていた」(「福知山線 播但線 加古川線 姫新線」朝日新聞社)が、その水運に代わる鉄道として、播州鉄道によって建設されました。
10時06分、定時に西脇市駅の駅舎に接した3番ホーム(駅舎から遠い方から1、2、3番ホームとなっています)に到着しました。ここから、右に見える谷川駅行き、1両編成、ワンマン運転の電車(クモハ125ー10)に乗り継ぎます。現在の加古川線は、当初、播州鉄道によって開業していましたが、播州鉄道の経営状態は厳しく、大正11(1922)年に経営破綻してしまいます。その後、後を継いだ播丹鉄道(ご指摘をいただき修正しました。ご指摘ありがとうございました)が、野村駅から谷川駅までを開業させたのです。
西脇市駅を10時12分に出発した電車(クモハ125ー10号車)の内部です。進行方向の左側に2人用、右側には1人用の座席が設置されています。この日は平日でしたが、10人程度の人が乗車されていました。 播州鉄道、播丹鉄道によって開業した加古川線は、太平洋戦争中の昭和18(1943)年、国に買収されて日本国有鉄道加古川線となりましたが、非電化区間のままでした。
第2比延踏切を越えると、比延駅の木造駅舎が見えてきました。谷川駅に向かって右側にホームがある、1面1線の棒状駅でした。線路の左側に架線が見えました。加古川線が電化されたのは、平成16(2004)年のことでした。山陽本線のダイヤがずたずたになった阪神淡路大震災(平成7年=1995年)のとき、迂回路線としての加古川線の重要性が認識されたからでした。当時、1日平均8,500人ともいわれる人たちが、加古川線経由で大阪方面に向かったと言われています。乗車した125形車両は、加古川線の電化完成に合わせて投入され、車両番号9-12までの4両が運行されています。また、加古川線のほか、JR西日本の小浜線や舞鶴線でも運行されており、平成14(2002)年から平成18年(2006)年にかけて18両が製造されたそうです。
駅名標です。新西脇駅から2.3km、次の日本のへそ公園駅まで1.5kmのところにありました。ちなみに、日本のへそ公園駅は東経135度、北緯35度のところにあり、日本の中央部に当たることから名づけられたということです。
西脇市駅で乗り継いだ谷川駅行きの電車は、10時18分に比延駅に着きました。電車の隣に、雑草に覆われた、かつてのホームの跡が見えました。電車とホーム跡の間は、舗装されていましたが、かつての線路跡と思われるスペースが見えます。
これは、駅舎前のホームの状況です。向こうのホームの中央に、駅員が構内踏切を歩いて対面するホームに移動するための石段が残っていました。もとは、2面2線のホームだったのでしょう。
これは谷川駅方面から見た比延駅のホームです。木造駅舎に隣接したホームに、鉄製の上屋(うわや)が、設置されていました。
上屋の柱を探していると、柱の中に、上屋の建物財産標が貼ってありました。
「旅客上屋1号 鉄 昭和41年1月」と書かれています。その下には「塗装管理標」が貼り付けてありました。昭和41(1966)年につくられたもののようです。そして、JRになってから、塗装がなされているようですね。写真には入っていないのですが、「平成8年3月18日」の日付が見えました。
ホームの谷川駅方面に残っていた枕木の垣根です。私の少年時代にはホームの後ろには必ずこの垣根がありました。駅と言えば、思い出す重要なパーツです。緑の塗装がなされているのでしょうか。
ホームから2段の階段を下り、かつて改札口があった所を通って駅舎内に入ります。駅舎には、自動改札機も、自動券売機も設置されていませんでした。ホームへは、バリアフリーの通路を通っていくこともできます。障害のある人にも、高齢者にも優しい駅になっていました。
駅舎内から改札口方面を撮影しました。左側には8人が座れるベンチ。右側には、かつて駅事務所があったのでしょう。現在は待合いのスペースだけの駅舎に変わっていました。
手前には、地元の人がつくられたらしい造花が彩りを添えているところがありました。
駅舎内にあった時刻表です。加古川線は、厄神駅までの列車は1日40本を超えていますが、厄神駅から先では半減し、さらに、西脇市駅から谷川駅に向かう列車は、1日9本しかありません。日中は3時間に1本の運行です。そのため、西脇市駅から谷川駅の間は、クモハ125ー10が1両でカバーしているようです。
駅舎から駅前に出ました。入口の右側の柱に、建物財産標がありました。駅舎の中で使われているのは写真のこの部分だけになっています。他の部分はどうような状態になっているのでしょうか?
上は冒頭で書いた、「大正13年12月」の開業時の年号が書かれていました。下側の「塗装管理表標」には、「平成8年3月18日」と記録されていました。
入口にあった駅名表示です。墨で書かれた「比延驛」の額が、今も残されています。
駅への取付道路です。広々とした道が、まっすぐ続いています。静かな住宅地の雰囲気です。両側の民家も建て直されたものが多く、今も居住されているお宅ばかりのようでした。一番先の茶色の建物は、現在は、西脇市コミュニティセンターになっています。もとは、JAの建物だったようです。
駅前の広場です。駅舎の左側には、自転車置き場。4台ほど、列車を利用されている人が駐車しておられるもののようです。右側は、庭園になっていましたが、樹木の間にはかなりの雑草もありました。待合いのスペース以外は建物の中に入ることができない構造になっています。
駅の周辺を見ようと歩き始めましたが、途中から雨が落ちてきましたので、駅に引き返すことにしました。取付道路から見た駅舎です。
駅舎で雨宿りをしていたとき、駅に高齢の女性の方が来られました。比延駅で出会った最初の方でした。「西脇市駅からの加古川方面行きの電車の出発時刻がわからない」とのことでした。幸い、「時刻表」を持っていましたので、発時間をメモしてお渡しすることができました。比延駅では、この駅以外の情報を得ることはできません。ネットを利用すれば、簡単に情報が得られるのでしょうが、せっかく、鉄道を利用しようとされた方を支援する有効な方法があればいいのですが・・。 
谷川駅からの列車が比延駅に到着しました。西脇市駅に向けて引き返すことにします。

JR加古川線の比延駅を訪ねてきました。
大正13(1924)年12月の加古川線の全通時に建てられた比延駅は、93年目を迎える今も、駅舎としての役割を果たしています。ただ、他の古い駅舎、(「明治27年開業のJR播但線の2つの駅(1)JR鶴居駅舎」2017年3月17日の日記・「明治27年開業のJR播但線の2つの駅(2)JR香呂駅」2017年3月24日の日記・「明治29年の建物財産票のある駅 JR木幡駅」2017年3月31日の日記)と同じように、多くの部分が改修されていました。時代の変化に伴って、変わっていかなければならないことは理解しているつもりですが、やはり残念でした。

商品の移動を舟運から鉄道輸送に代えるために建設された鉄道でしたが、貨物輸送は廃止されて久しく、旅客輸送も多くはありません。比延駅はそんな加古川線の象徴のような駅でした。「開業時から残る貴重な駅」として、これからも加古川線の活性化に一役買ってほしいと願っています。









瀬戸内地域で「最古の商家」木原家のある町、白市

2017年09月01日 | 日記

広島空港のある東広島市の丘陵地帯に、江戸時代前期に建てられた「瀬戸内地域で最古」といわれる町家が残っています。これが、東広島市の白市にある木原家住宅です。今回は、木原家住宅のある白市の町並みを訪ねてきました。

真夏の日射しで、漆喰の白さが目に染みます。入口にあったブザーを押して、出てこられた管理者の方に入場料150円を支払って、見学させていただきました。「説明しましょうか」とお尋ねでしたので「はい」とお答えしました。管理者の方は、木原家と白市の町について、ていねいな説明をしてくださいました。木原家は平入りの切妻造り、厨子2階建て、間口6間半、奥行5間の建物でした。江戸時代には、南側の歯科医院の部分も含む広い敷地を有していました。

内部に展示されていた「鬼瓦」です。「寛文五年五月廿七日」と篦(へら)で書かれた銘がついていました。寛文5年は1665年。江戸時代前期の建物です。 戦後の経済環境の激変によって衰え、主家(おもや)も放置されていましたが、木原家住宅は、創建以来300年という商家であるとして、昭和41(1966)年6月11日、国の重要文化財に指定されました。そして、2年後の、昭和43(1968)年に保存修理が行われ、現在の姿に復元されました。管理者の方がつくられた資料の中に「創建が江戸初期の重要文化財の町家」を古い順に並べた資料がありました。それによると、「①栗山家住宅:慶長12(1607)年奈良県五條市 ②山口家住宅:元和年間(1615~1624)堺市錦之町 ③中村家住宅:寛永9(1632)年奈良県御所市名柄 ④今西家住宅:慶安3(1650)年奈良県橿原市今井町 ⑤豊田家住宅:寛文2(1662)年奈良県橿原市今井町 ⑥旧木原家住宅:寛文5(1665)年」と書かれていました。国指定の重要文化財の町家に限れば、「瀬戸内地域で最古」というのも肯かれます。

江戸時代、木原家はここで酒造業を営んでいたほか、瀬戸内海沿岸で製塩業も営み、財をなした豪商でした。土間が奥まで続き、主家の左側は板間になっていました。厨子2階建ての2階部分は、従業員の寝室や納屋として使われていたそうです。

主家の裏です。酒造業を営んでいた頃の作業場があったところです。広い敷地の向こう側は、江戸時代から、歌舞伎を上演する劇場の「長栄座(ちょうえいざ)」があったところです。

酒造業に使われていた井戸がありました。管理者の方のお話では「すごく深いですよ」とのこと。木原家は、財をなした後、白市やその周辺の寺社への寄進を積極的に行っています。白市で町年寄をつとめた木原保満が寄進した供養塔や石灯籠が、光政寺(こうしょうじ)、西福寺(さいふくじ)、養国寺(ようこくじ)、土宮神社など、現在も白市に残る寺社の中に残されています。

主家の中にあった、木原保満の肖像画です。元禄元(1688)年に白市屋伊左衛門の長男として生まれ、4歳のときに父が死去したため、祖父母の木原七郎左衛門に育てられました。18歳のとき、木原家を継いでいた孫六が興した、大原屋(管理者の方のお話では木原家は親族の家も含めて3家あったようです)の養子となりました。享保10(1725)年には白市の町年寄となり、町の振興にも貢献した方でした。

晴れ渡った夏の1日、山陽本線のJR糸崎駅でJR大野浦駅行きの普通列車に乗り継ぎ、白市駅に着きました。

JR白市駅です。ここから白市の町まで、歩いて30分ぐらいかかりました。

駅前からは、広島空港へ向かうバスが出発していて、白市駅は広島空港への玄関口になっています。

駅から左方向(広島方面)に向かって歩き、山陽本線と並行して走る主要地方道59号(本郷忠海線)に出ます。

国道59号を、右側に食品スーパーの建物を見ながら、さらに進みます。前方に交通標識が見えてきました。「重要文化財木原家住宅」と書かれています。標識の先を右折して、広島県道351号造賀田万里(ぞうかたまり)線を進んで行きます。

県道造賀田万里線はそこから大きくS字にカーブして丘陵地帯を上っていきます。その後、広い住宅団地を左側に見ながらさらに上りました。

道路の左側に、「木原家住宅」と書かれた標識が道路の左側にありました。標識の矢印にしたがって右折します。集落に近づいて緩い左カーブを回ると、駐車場がありました。

駐車場にあった案内図です。少し見づらいのですが、駐車場(右から2本目の縦の道)からまっすぐ北に進むと、木原家住宅の前に出ます。しかし、私は、ここから、駐車場の一本右の道(東町)を北に進むことにしました。

駐車場から50mぐらい進み、Uターンして、西福寺に向かって石段を上って行きます。さて、ここ白市が発展したきっかけは、戦国時代の文亀3(1503)年、平賀弘保(ひろやす)が、防御を固めるため白山城を築いたことでした。平賀氏は、もともと出羽国平賀郡(現・秋田県横手市付近)の御家人の一族でしたが、いわゆる東国武士の西遷によってこの付近に移り、弘安(1278~88)年間に、現在のJR西高屋駅の北4kmぐらいのところにある御園宇城(みそのうじょう)を築き、長い間本拠地にしていました。白山城は、白市の東にある城山(標高314.1m)にありました。

城山の西麓にある西福寺(浄土宗)の境内に入りました。左側の建物が本堂です。もとは、安芸国賀茂郡溝口村にあった大福寺で、当時の住職、西蓮法師が、天正12(1585)年にこの地に移し、自身の名から1字取って「西福寺」と改名したそうです。

「元文5年」(1740年)の銘が刻まれた供養塔です。木原保満の寄進によるものです。

本堂の左側を通って進みます。その先にある光政寺に向かうつもりでした。

突きあたりを右折します。左側に「東町ふれあい公園」がありました。

東町ふれあい公園です。白市の町の説明板がつくられ、展望台にもなっていました。

東町ふれあい公園から見た白市の町並みです。建て替わっているお宅もありますが、赤い釉薬瓦の伝統的な民家がかなり残っています。この町のかつての繁栄のようすがしのばれます。一番高いところにあるのが、養国寺(浄土真宗)です。

東町ふれあい公園の脇にある光政寺の参道の石段を上ります。光政寺は白山城を居城とした平賀氏の菩提寺で、永正2(1505)年に建立された真言宗の寺院です。 さて16世紀、大内氏と、毛利氏と結んだ尼子(あまこ)氏の抗争の影響で、平賀氏一族も分裂、抗争を続け、大内氏の滅亡後は、毛利氏に従うことになりました。そして、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いの後は、毛利氏とともに周防・長門の国に移って行きました。城下町として発展してきた白市は、それ以後、平賀氏の旧家臣が商業を営みながら町政を担っていたといわれています。

平賀氏は去りましたが、白市の町は、養国寺や西福寺などの寺院が残ったこともあり、安芸の国東部の交通の要衝、地域経済の中心地として、繁栄が続くことになりました。江戸時代になってからは、牛馬市が開かれたり、長栄座での歌舞伎興行も行われていました。 写真の左側の石像は、木原保満が寄進した宝篋印塔です。この寺にも、木原家の足跡が残っていました。

光政寺の本堂の脇には、木原家の墓地がありました。現在の光政寺は無住の寺になっています。「安芸門徒」といわれるように、安芸の国は浄土真宗の信徒が多いところです。「真言宗の寺院では、城主が去って支援者を失うと維持するのが難しかったと思う」と町の人はいわれていました。木原家の墓地のある付近には雑草が生い茂っており、近づくのが辛い状態になっていました。


ここからは、町並みを見て歩くことにしました。木原家だけではなく、かつての繁栄の跡を残す商家がたくさん残っており、町並みの美しさもすばらしい町でした。

東町ふれあい公園の道に戻り、東町を北に向かって上ります。

I氏邸付近です。このあたりに、歌舞伎の興行も行われた長栄座があったそうです。今は、静かな住宅地になっていました。

その近くから木原家が見えました。主家から突き出して造られた、三角形の別棟の角屋(つのや)が見えています。その先で、左折(西行)します。

左折して西に進むと、右側に「白瀧山養国寺」と書かれた石製の門がありました。その先に、本堂が見えます。先ほど、東町ふれあい公園から見えていた養国寺です。元暦元(1184)年に真言宗の寺院として創建されましたが、天正年間(1573年~1591年)に改宗して、現在の浄土真宗白滝山養国寺となりました。

長い参道を歩いて、石段で鐘楼門をくぐります。本堂に着きました。ここにも、木原保満の寄進になるものが残っていました。右側に石灯籠が見えますが、左側にもあって、右側が「寛延4(1751)年=宝暦元年」に、左側が「宝暦11(1761)年に寄進したものでした。

これは、この先にある稲荷神社の玉垣です。「矢野曲馬團」(矢野サーカス)「木下曲馬團」(木下サーカス)の銘のある玉垣が寄進されていました。サーカスの興行は、養国寺の前の広場にテントを張って行われていたそうです。

通りに戻って、再度、西に向かって進みます。左側から上ってくる通りと合流します。その通りの左側、恵美須神社の隣に、白漆喰がまぶしい木原家の主家が見えました。このあたりは本町です。

さらに、西に向って栄町を歩きます。右側にあった伊原惣十郎家です。出雲出身の鋳物師の頭で、邸宅の裏(現在、竹林になっているところ)に作業場があったそうです。喚鐘の製造で財を成した家柄で、京都御所の灯籠や宮島大灯籠を鋳造し寄進したことで知られています。建物は明治時代の建築になるもので、御成門や石垣など、力強く美しい邸宅です。

地元の方から、「かつてTVで放映された時には、この鋳物の装飾が取り上げられていました」というお話をお聞きしました。

左側の伊原八郎家です。大正時代に数寄屋造で建てられ、すでに100年が経過しています。上品な印象を受ける建物です。こちらの伊原家も出雲の出身で、金融業で財を成したといわれています。

特に、この門が印象に残りました。

その先の稲荷神社の前から、来た道を振り返って見た風景です。電柱が気になりましたが、左が伊原惣十郎家、右が伊原八郎家、そして、ゆるやかに下っていく坂道、白市で最も美しい風景でした。

坂を登り切ったところにあった稲荷神社の前から、伊原惣十郎家の方向を撮影しました。稲荷神社の東の向かいにあった「栄町いなり坂公園」です。江戸時代には西条郡役所が、明治になってからは白市村役場がここに置かれていました。白市村は、その後、東高屋町、高屋町となり、現在は東広島市になっています。

稲荷神社からさらに西に向かって、坂を今度は下っていきます。白市交流会館を過ぎると、左側に、明治期に建てられたという舛井家が見えてきました。ここも御成門や格子造りで、袖壁もついている重厚な感じがする邸宅でした。

白市は、牛馬市が開かれていた町です。木原家でいただいた観光マップを見ながら、牛馬市跡をめざします。さらに西に進み、福村建設の手前を右折して北へ進みます。

お好み焼きのお店を過ぎると、石垣のあるお宅が見えました。このあたりから、牛馬市が行われていただろうと思い、すぐに引き返してしまいました。しかし、帰ってから見直すと、「牛馬市跡」の碑があると書かれていました。この先、もう少し歩いていたらと後悔しました。



スタート地点の駐車場へ戻ります。白市の町歩きの最後に、下市から本町を通って、木原家まで行くことにしました。

北に向かって右側にあった勝田家です。その先から、右に向かう小路が出ています。通り過ぎて、その小路付近を撮影しました。勝田家は、江戸時代後期から末期に建造されたお宅で、白市では木原家に次いで古い建築と考えられています。醤油の醸造を生業とされていたそうです。

勝田家の先、左側にあった重満家です。江戸末期から明治にかけて建造された建物のようです。酒造業を営んでおられたお宅です。現在は重満家になっていますが、ここも、木原家の一族のお宅だったとお聞きしました。

木原家の向かいにあったお宅です。現代の名建築といった建物です。お話によれば、木原家の番頭さんのような役割を果たしておられた方のお宅だということです。

「瀬戸内地方で最古の町家建築」といわれている木原家と、美しい白市の町を歩いてきました。JR白市駅を降りたときには、山の中にほんとうにそんな町があるのだろうかと思っていましたが、実際に訪ねてみると、余りのすばらしさに感動してしまいました。一つ一つの建物がすばらしいだけでなく、町全体の雰囲気もすばらしく、これからも、この美しい町並みを残してほしいと心の底から思いました。