中国地方最高峰の霊峰、大山(だいせん)の北麓の農村地帯に、重要伝統的建造物群保存地区に指定されている集落があります。鳥取県西伯郡大山町の所子(ところご)地区です。平成25(2013)年12月27日、伯耆(ほうき)地方における伝統的な農村の姿を伝える景観が評価され指定されました。ちなみに、鳥取県では、白壁に赤瓦葺きの商家が並ぶ、倉吉市打吹(うつぶき)玉川地区(平成10年指定)に続く指定でした。
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所子の集落です。大山の山裾にある大山寺に参詣する人たちが利用した参詣道である坊領道(大山道)沿いに、江戸時代末期から明治時代初期にかけて建てられた建築物が残っています。漆喰の壁と黒板塀が続く静かで落ち着いた家並みは、かつての雰囲気を今に伝えています。
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その中心にある門脇家住宅(本家です。以下、単に「門脇家」)です。広い敷地の中心にある茅葺きの主屋は、昭和49(1974)年に、国の重要文化財に指定されています。江戸時代の明和6(1769)年、この地の庄屋をつとめていた門脇家の3代本右衛門が、役宅を兼ねて建設した邸宅です。伯耆国特有の寄棟造りで、太い梁を縦横に高く組み上げた豪壮な造りで知られています。
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こちらは美甘家住宅です。江戸時代末期に建てられた厨子2階建ての主屋です。屋根の上に安山岩の棟石がのせられています。美甘家住宅は、登録有形文化財に登録されています。この地の土豪で、戦国時代の元亀2(1571)年、尼子氏の残党と毛利氏の戦いのとき、毛利側の使者として尼子の残党と交渉し犠牲になった、美甘与市左衛門の子孫と伝えられるお宅です。所子の集落は、美甘家のある「カミ」(上の家屋群)と、門脇家のある「シモ」(下の家屋群)に分かれています。この日は、シモの門脇家から、カミの美甘家まで、坊領道を歩いてきました。
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JR米子駅の1番ホームです。山陰本線の倉吉行き2両編成(キハ472006・キハ473012)、ワンマン運転の普通列車に乗車しました。
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発車してから、30分弱。JR大山口駅に着きました。2面2線のホームでしたが、いわゆる”1線スルー”化されており、右側の1番ホームに停車しました。大正15(1926)年に新設開業されたといわれています。駅舎の改修等についてはよくわからないのですが、駅舎にあった「建物財産標」には、「昭和28年8月16日」と書かれていました。今は、近距離キップのみの自動券売機が設置された無人駅になっています。駅舎の右側に、「地蔵信仰が育んだ日本最大の大山牛馬市 日本遺産認定 大山町 伯耆町 江府町 米子市」の垂れ幕が張られていました。
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「ようこそ 国立公園大山へ!」という看板を見ながら、駅前広場からまっすぐ延びる県道を歩きます。
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駅から20分ぐらい歩きました。右側に大山町役場の建物が見えました。県道の左前、このあたりではめずらしい7階建てのマンションの手前に、「大山町所子」の標識がありました。左折します。
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マンションの裏に大山中学校のグランドが見えました。中学校の敷地に沿って右折して進みます。左側の黄色に実った稲田の向こうに、茅葺き屋根のお宅がありました。門脇家の主屋に違いないと思って、これを目標に歩きました。
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やがて、茅葺き屋根の門脇家を右側に見て進むようになりました。正面に見えるお宅の手前を右折します。
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右折して、大山寺への参詣道である坊領道に入りました。いきなり、息を飲むような別世界に入りました。右側が門脇家、そして、左側が東門脇家の邸宅です。
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門脇家の手前の水路に飼育されていた鯉です。所子では、水路は「ツカイガワ」と呼ばれていました。坊領道の脇を流れる清水の音が聞こえるような通りでした。
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門脇家の邸宅です。門脇家は、江戸時代の延宝・天和年間(1673年~1683年)に、初代三右衛門が伯耆国汗入(あせり)郡平木村から、この地に移ってきたそうです。そして、明和6(1769)年、3代本右衛門のときから、伯耆国汗入郡の大庄屋をつとめた家柄でした。大山の北麓を流れる阿弥陀川流域の大地主として、米のほか、木綿や古着、紅花の販売にも携わり富を蓄えたといわれています。
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これは、左側の水路(ツカイガワ)にあった洗い場です。水道が整備される以前は、この水路で野菜などを洗っていました。飲料水には、井戸の水が使われていたようです。
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門脇家に隣接していた、南門脇家です。こちらも、広い敷地が広がっています。門脇家の3代本右衛門の次男が分家して興した家です。門脇家の南側にあったため、通称が南門脇家でした。
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主屋は、安政7(1860)年頃に再建されたものだといわれています。一般公開されていませんので、門の外から撮影させていただきました。「近世末から近代にかけての屋敷構えが良好な状態で留められている」(大山町教育委員会資料)といわれています。
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南門脇家の前に残っていた「駒繋ぎ石」です。物資を運んできた馬の轡(くつわ)をつないでいたところです。右奥の碑は「巡査駐在所」の跡を示していました。
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南門脇家の遠景です。広い敷地にたくさんの建物が並んでいます。門脇家の財力を示しています。
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坊領道に戻ります。先ほどの「洗い場」まで引き返しました。門脇家の先で、東門脇家方面を振り返って撮影しました。左側が門脇家、右側が東門脇家の邸宅です。写真の向こう側からこちらに向かって歩いてきた、かつての大山寺への参詣者は、右側の電柱のところで左折して進んでいました。
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坊領道を進みます。左側が東門脇家です。入口はこの道沿いにありました。門脇家の東に位置することから、東門脇家と呼ばれています。門脇家の4代の次男が分家して興したそうです。
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これが、東門脇家の正面入口です。門脇家、南門脇家と同じように、注連縄(しめなわ)が掛かっています。東門脇家は、国の登録有形文化財に登録されている建物です。ここからは見えにくいのですが、主屋は文政元(1818)年の建築です。「後に、酒造業や金融業を営んでいたため、酒蔵や長屋門内に銀行出張所の跡が残っている」(大山町教育委員会資料)そうです。一般公開しておられないので確認はできませんが・・。
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これは、東門脇家の前から、門脇家方面を撮影したものです。右側に、東門脇家の板塀、板壁の建物が見えます。
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東門脇家を過ぎると、坊領道は右にカーブします。そこが、江戸時代になって、門脇家周辺に形成された家屋群である「シモ」(下の集落)とそれ以前からの集落である「カミ」(上の集落)との境になっていました。前方左側にある建物は「農家民宿、珠心庵」です。その先で、坊領道は、緩やかな右カーブになります。
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その先にあった集落は、「カミ」になります。「シモ」の集落が形成される以前からの集落があったところです。郵便ポストと郵便局の看板がある邸宅は、店門脇家です。「大正7(1918)年、自宅の一角に郵便局を開局した」と、大山町教育員会の資料には書かれていました。郵便局は、昭和27(1952)年に、大山口駅付近に移転したそうです。
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店門脇家の斜め前にあった所子公民館。館の前に展示されているのは「力石」です。若者が力比べをした石で、米俵1俵(16貫=60kg)を基準としており、石には「16貫目」と「22貫目(約82.5kg)」と彫られているそうです。
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煙草乾燥場跡です。昭和12(1937)年頃から、所子でタバコ栽培が始まり、昭和41(1966)年には10軒のタバコ農家があったそうです。現在は、廃業しておられますが、建物に、当時の乾燥場の写真が掲示してありました。
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坊領道は、その先の車が駐車している手前で左折します。
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坊領道は、左折した後、さらに右折して、大川寺に向かっていました。枡形のようになっていました。そこにあった「石造薬師さん」です。「柏屋」という屋号の門脇権兵衛が、寛政元(1789)年に、村人の無病息災を祈願して建立した薬師如来座像だそうです。残念ながら、柏屋門脇家がどこにあったのかよくわかりませんでした。
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カーブした後、右側に、歴史を感じさせる邸宅がありました。その先の生け垣に沿って進みます。カミの集落には、塀のほかに屋敷林や生け垣が、風除け、目隠し、防火のためにつくられていました。
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この邸宅が美甘家でした。門へ続く道も生け垣の間につくられていました。門の前に「パンフレット」が置かれています。美甘家は、「カミ」の集落の核になる邸宅です。いただいたパンフレットによれば、初代の弥左衛門は、慶長16(1611)年に亡くなったそうですが、17世紀の初め頃に、賀茂神社の社殿の再建を行ったそうです。また、6代九郎左衛門のときには、鳥取藩から庄屋を命ぜられた、この地域の有力者で、以来、美甘家は代々この屋敷地を守って来られたそうです。
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美甘家の主屋です。江戸時代の末期から明治初頭に建てられたそうです。また、屋敷の北側や西側には土塁状の高まりが残っており、その上には屋敷林が植えられているそうです。
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入口に「登録有形文化財」の登録証が掲示してありました。パンフレットを手に、中の見学をさせていただいているときにご当主さんが出てきてくださいました。「私は、美甘家の17代目です」「門脇家は、最近、代替わりして12代目になりました」。「最近は、ウチの庭を見に来られる方が増えています」とのこと。
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ご当主さんの案内で、京都の石庭を連想させるような庭園を見学させていただきました。石に見えるのは、実は富士山の溶岩だそうで、ご当主さんが、ご自身でつくられた庭園だそうです。また、植木の手入れも自らなさっておられるそうです。多くの方が、全国から訪ねて来られるのも当然と思われる、見事な庭園でした。
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美甘家の庭園の脇にある道を通って、賀茂神社に向かいます。賀茂神社は、創建の時期は明らかではありませんが、17世紀の初めに美甘家によって社殿が再建されたといわれています。また、江戸中期の明和5(1768)年には、21柱の神々が祀られていたようです。現在の社殿は、大正3(1914)年に再建されました。
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「カミ」の集落の墓地の脇を通って、賀茂神社に着きました。賀茂神社は、北に向かって建てられていますが、その正面には、建物がなく、田畑が広がる空間になっていて、「神さんの通り道」といわれているそうです。また、二つの集落、左側の「カミ」と右側の「シモ」との境界にもなっているそうです。
所子は、鎌倉時代の貞永元(1232)年には、京都の下鴨神社(賀茂御祖神社)の社領の一つになっており、「伯耆国所子庄」と呼ばれていました。これが、「所子」という地名が文献に出てきた最初だそうです。
江戸時代から続く門脇家と、それ以前から続く美甘家を中心とする「シモ」と「カミ」の集落が残る所子は、地区の人々が一体になって、古い歴史をもつ町並みを守っていました。
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所子の集落です。大山の山裾にある大山寺に参詣する人たちが利用した参詣道である坊領道(大山道)沿いに、江戸時代末期から明治時代初期にかけて建てられた建築物が残っています。漆喰の壁と黒板塀が続く静かで落ち着いた家並みは、かつての雰囲気を今に伝えています。
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その中心にある門脇家住宅(本家です。以下、単に「門脇家」)です。広い敷地の中心にある茅葺きの主屋は、昭和49(1974)年に、国の重要文化財に指定されています。江戸時代の明和6(1769)年、この地の庄屋をつとめていた門脇家の3代本右衛門が、役宅を兼ねて建設した邸宅です。伯耆国特有の寄棟造りで、太い梁を縦横に高く組み上げた豪壮な造りで知られています。
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こちらは美甘家住宅です。江戸時代末期に建てられた厨子2階建ての主屋です。屋根の上に安山岩の棟石がのせられています。美甘家住宅は、登録有形文化財に登録されています。この地の土豪で、戦国時代の元亀2(1571)年、尼子氏の残党と毛利氏の戦いのとき、毛利側の使者として尼子の残党と交渉し犠牲になった、美甘与市左衛門の子孫と伝えられるお宅です。所子の集落は、美甘家のある「カミ」(上の家屋群)と、門脇家のある「シモ」(下の家屋群)に分かれています。この日は、シモの門脇家から、カミの美甘家まで、坊領道を歩いてきました。
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JR米子駅の1番ホームです。山陰本線の倉吉行き2両編成(キハ472006・キハ473012)、ワンマン運転の普通列車に乗車しました。
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発車してから、30分弱。JR大山口駅に着きました。2面2線のホームでしたが、いわゆる”1線スルー”化されており、右側の1番ホームに停車しました。大正15(1926)年に新設開業されたといわれています。駅舎の改修等についてはよくわからないのですが、駅舎にあった「建物財産標」には、「昭和28年8月16日」と書かれていました。今は、近距離キップのみの自動券売機が設置された無人駅になっています。駅舎の右側に、「地蔵信仰が育んだ日本最大の大山牛馬市 日本遺産認定 大山町 伯耆町 江府町 米子市」の垂れ幕が張られていました。
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「ようこそ 国立公園大山へ!」という看板を見ながら、駅前広場からまっすぐ延びる県道を歩きます。
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駅から20分ぐらい歩きました。右側に大山町役場の建物が見えました。県道の左前、このあたりではめずらしい7階建てのマンションの手前に、「大山町所子」の標識がありました。左折します。
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マンションの裏に大山中学校のグランドが見えました。中学校の敷地に沿って右折して進みます。左側の黄色に実った稲田の向こうに、茅葺き屋根のお宅がありました。門脇家の主屋に違いないと思って、これを目標に歩きました。
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やがて、茅葺き屋根の門脇家を右側に見て進むようになりました。正面に見えるお宅の手前を右折します。
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右折して、大山寺への参詣道である坊領道に入りました。いきなり、息を飲むような別世界に入りました。右側が門脇家、そして、左側が東門脇家の邸宅です。
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門脇家の手前の水路に飼育されていた鯉です。所子では、水路は「ツカイガワ」と呼ばれていました。坊領道の脇を流れる清水の音が聞こえるような通りでした。
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門脇家の邸宅です。門脇家は、江戸時代の延宝・天和年間(1673年~1683年)に、初代三右衛門が伯耆国汗入(あせり)郡平木村から、この地に移ってきたそうです。そして、明和6(1769)年、3代本右衛門のときから、伯耆国汗入郡の大庄屋をつとめた家柄でした。大山の北麓を流れる阿弥陀川流域の大地主として、米のほか、木綿や古着、紅花の販売にも携わり富を蓄えたといわれています。
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これは、左側の水路(ツカイガワ)にあった洗い場です。水道が整備される以前は、この水路で野菜などを洗っていました。飲料水には、井戸の水が使われていたようです。
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門脇家に隣接していた、南門脇家です。こちらも、広い敷地が広がっています。門脇家の3代本右衛門の次男が分家して興した家です。門脇家の南側にあったため、通称が南門脇家でした。
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主屋は、安政7(1860)年頃に再建されたものだといわれています。一般公開されていませんので、門の外から撮影させていただきました。「近世末から近代にかけての屋敷構えが良好な状態で留められている」(大山町教育委員会資料)といわれています。
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南門脇家の前に残っていた「駒繋ぎ石」です。物資を運んできた馬の轡(くつわ)をつないでいたところです。右奥の碑は「巡査駐在所」の跡を示していました。
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南門脇家の遠景です。広い敷地にたくさんの建物が並んでいます。門脇家の財力を示しています。
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坊領道に戻ります。先ほどの「洗い場」まで引き返しました。門脇家の先で、東門脇家方面を振り返って撮影しました。左側が門脇家、右側が東門脇家の邸宅です。写真の向こう側からこちらに向かって歩いてきた、かつての大山寺への参詣者は、右側の電柱のところで左折して進んでいました。
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坊領道を進みます。左側が東門脇家です。入口はこの道沿いにありました。門脇家の東に位置することから、東門脇家と呼ばれています。門脇家の4代の次男が分家して興したそうです。
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これが、東門脇家の正面入口です。門脇家、南門脇家と同じように、注連縄(しめなわ)が掛かっています。東門脇家は、国の登録有形文化財に登録されている建物です。ここからは見えにくいのですが、主屋は文政元(1818)年の建築です。「後に、酒造業や金融業を営んでいたため、酒蔵や長屋門内に銀行出張所の跡が残っている」(大山町教育委員会資料)そうです。一般公開しておられないので確認はできませんが・・。
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これは、東門脇家の前から、門脇家方面を撮影したものです。右側に、東門脇家の板塀、板壁の建物が見えます。
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東門脇家を過ぎると、坊領道は右にカーブします。そこが、江戸時代になって、門脇家周辺に形成された家屋群である「シモ」(下の集落)とそれ以前からの集落である「カミ」(上の集落)との境になっていました。前方左側にある建物は「農家民宿、珠心庵」です。その先で、坊領道は、緩やかな右カーブになります。
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その先にあった集落は、「カミ」になります。「シモ」の集落が形成される以前からの集落があったところです。郵便ポストと郵便局の看板がある邸宅は、店門脇家です。「大正7(1918)年、自宅の一角に郵便局を開局した」と、大山町教育員会の資料には書かれていました。郵便局は、昭和27(1952)年に、大山口駅付近に移転したそうです。
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店門脇家の斜め前にあった所子公民館。館の前に展示されているのは「力石」です。若者が力比べをした石で、米俵1俵(16貫=60kg)を基準としており、石には「16貫目」と「22貫目(約82.5kg)」と彫られているそうです。
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煙草乾燥場跡です。昭和12(1937)年頃から、所子でタバコ栽培が始まり、昭和41(1966)年には10軒のタバコ農家があったそうです。現在は、廃業しておられますが、建物に、当時の乾燥場の写真が掲示してありました。
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坊領道は、その先の車が駐車している手前で左折します。
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坊領道は、左折した後、さらに右折して、大川寺に向かっていました。枡形のようになっていました。そこにあった「石造薬師さん」です。「柏屋」という屋号の門脇権兵衛が、寛政元(1789)年に、村人の無病息災を祈願して建立した薬師如来座像だそうです。残念ながら、柏屋門脇家がどこにあったのかよくわかりませんでした。
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カーブした後、右側に、歴史を感じさせる邸宅がありました。その先の生け垣に沿って進みます。カミの集落には、塀のほかに屋敷林や生け垣が、風除け、目隠し、防火のためにつくられていました。
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この邸宅が美甘家でした。門へ続く道も生け垣の間につくられていました。門の前に「パンフレット」が置かれています。美甘家は、「カミ」の集落の核になる邸宅です。いただいたパンフレットによれば、初代の弥左衛門は、慶長16(1611)年に亡くなったそうですが、17世紀の初め頃に、賀茂神社の社殿の再建を行ったそうです。また、6代九郎左衛門のときには、鳥取藩から庄屋を命ぜられた、この地域の有力者で、以来、美甘家は代々この屋敷地を守って来られたそうです。
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美甘家の主屋です。江戸時代の末期から明治初頭に建てられたそうです。また、屋敷の北側や西側には土塁状の高まりが残っており、その上には屋敷林が植えられているそうです。
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入口に「登録有形文化財」の登録証が掲示してありました。パンフレットを手に、中の見学をさせていただいているときにご当主さんが出てきてくださいました。「私は、美甘家の17代目です」「門脇家は、最近、代替わりして12代目になりました」。「最近は、ウチの庭を見に来られる方が増えています」とのこと。
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ご当主さんの案内で、京都の石庭を連想させるような庭園を見学させていただきました。石に見えるのは、実は富士山の溶岩だそうで、ご当主さんが、ご自身でつくられた庭園だそうです。また、植木の手入れも自らなさっておられるそうです。多くの方が、全国から訪ねて来られるのも当然と思われる、見事な庭園でした。
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美甘家の庭園の脇にある道を通って、賀茂神社に向かいます。賀茂神社は、創建の時期は明らかではありませんが、17世紀の初めに美甘家によって社殿が再建されたといわれています。また、江戸中期の明和5(1768)年には、21柱の神々が祀られていたようです。現在の社殿は、大正3(1914)年に再建されました。
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「カミ」の集落の墓地の脇を通って、賀茂神社に着きました。賀茂神社は、北に向かって建てられていますが、その正面には、建物がなく、田畑が広がる空間になっていて、「神さんの通り道」といわれているそうです。また、二つの集落、左側の「カミ」と右側の「シモ」との境界にもなっているそうです。
所子は、鎌倉時代の貞永元(1232)年には、京都の下鴨神社(賀茂御祖神社)の社領の一つになっており、「伯耆国所子庄」と呼ばれていました。これが、「所子」という地名が文献に出てきた最初だそうです。
江戸時代から続く門脇家と、それ以前から続く美甘家を中心とする「シモ」と「カミ」の集落が残る所子は、地区の人々が一体になって、古い歴史をもつ町並みを守っていました。