青春18きっぷを買いました。買ったからにはしっかり使いたい。岡山駅から姫路へ、そして湖西線経由の新快速で、大津市の坂本に行ってきました。JR岡山駅からJR比叡山坂本駅まで、3時間36分かかりました。比叡山延暦寺とその守護神日吉神社(ひよしじんじゃ)の門前町で知られています。ただ、暮れも押し迫った時期でしたので、閉館の施設が多く、ほとんど見学することができませんでした。 残念!
JR比叡山坂本駅からスタートしました。目的は二つ。一つは、苔むした石垣に生け垣が続く坂本の町を歩くこと。もう一つは、美しい水城で知られた坂本城跡を訪ねることでした。
山側に向かって、日吉(ひよし)神社参道のゆるやかな坂道を登っていきます。ほどなく、「坂本6丁目」の信号手前の右側に、「公人(くにん)屋敷」の旧岡本邸が見えて来ます。「公人」て、何? 江戸時代に、延暦寺の僧であっても妻帯と名字帯刀を許された人たちのこと。岡本家は、公人を代々務めた家だったそうです。織田信長の没後、中世の山法師やその子孫が、延暦寺から延暦寺領内の治安の維持や年貢の徴収などの役割を与えられました。その人たちが「公人」だったようです。
さらに進むと、左側に京阪電鉄の坂本駅。ちょうど電車が着いたときでした。
さらに進むと、坂本4丁目。
趣のある伝統的な町並みが続くところです。鳥居の手前に「日吉そば」のお店。
その2軒ほど先にある「鶴喜そば」。「名物生蕎麦」、「東宮殿下御買上之栄」、「賜宮内省御用命 名物 元祖鶴㐂そば」の看板が正面にありました。そして、文化庁の「登録有形文化財」に指定された建物。歴史と伝統を誇るお店です。
しばらくその道を歩きます。
白い漆喰の蔵や重厚な民家が並んでいます。屋根についた「煙出し」が、目につきました。いい雰囲気です。
再び、参道に戻って進みます。
苔むした石垣の上に生け垣のある、坂本らしい風景が見えるようになりました。最初に見えたのが、金蔵院。その名のとおり、ここは、里坊(さとぼう)が並んでいるところです。比叡山延暦寺の「山坊」に対する「里坊」。厳しい修行に明け暮れた比叡山の僧で、高齢で隠居した人が住むところです。外から、庭が見えるところもあります。隠居した後、きれいな庭園を眺めながら、おだやかに余生を送ったのでしょう。
参道の右側、里坊の前の道です。この道に沿って、唐風の門をもつ寿量院や、門松が飾られた律院などの里坊が並んでいます。青い空を映して流れる小川の水もきれいです。
公開されている旧竹林院庭園。明治になって、里坊から民間に払い下げられ、個人の別邸になったそうです。広大な「池泉回遊式庭園」だといわれますが、もちろん、ここも閉館で見学することはできませんでした。
芙蓉園本館。もと里坊の白毫院。 食事処です。石垣がとてもきれいでした。
坂本は「石積みのある門前町」です。重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。
この石積みは、坂本町の穴太(あのう)の一帯に古代から居住し、山門の土木工事や営繕の用を担ってきた「穴太衆(あのうしゅう)」の技術によるものです。自然の石を、加工しないままで使用して石面を構成し(野面積み)、コーナーの整備された美しさと堅固さに特色があります。安土城の石垣をつくったことで広く知られるようになりました。その後、伏見城、篠山城、名古屋城、小倉城、金沢城、和歌山城、近江八幡城、伊賀上野城、熊本城、彦根城、松阪城などの石垣工事でもその高い技術を発揮しました。
最も美しい石垣と言われているのが、滋賀院門跡のそれだそうです。説明によれば、滋賀院門跡は、織田信長が焼き討ちにした比叡山を再興した慈眼大師、南光坊天海大僧正が、後陽成上皇から法勝寺を下賜され、元和元(1615)年、この地に移築したものといわれています。明暦元(1655)年、後水尾天皇から滋賀院の号を賜り、江戸末期まで天台座主が代々居住したそうです。なお、慈眼大師の廟である「慈眼堂」は、滋賀院門跡のとなりに営まれています。
穴太衆の里を訪ねて見ることにしました。
京阪電鉄の電車で「穴太」駅に向かいました。ちょうど、「HO-KAGO TEA TIME TRAIN」の電車で、車両の内外は、たくさんの絵で飾られていました。
穴太駅は山の中腹にあって、町は下ったところの街道に沿って並んでいました。穴太衆の技術を引き継ぐ企業(粟田建設?)があるとお聞きしましたが、よくわかりませんでした。
穴太から、もう一つの目的地をめざしました。下坂本の町を抜けて、琵琶湖方面に向けて歩きます。
国道160号線に沿った「七本柳」近くの公園に、坂本城址公園がありました。「平成7年造」と記された、「坂本城址」の碑が立っていました。
元亀元(1570)年、比叡山を焼き討ちにした織田信長は、同2年に、琵琶湖の南西部を押さえるため、明智光秀に坂本城を築かせました。冒頭でふれたように、宣教師ルイス・フロイスが「安土城に次ぐ美しい城」と書いているように、大天守と小天守をもつ豪華絢爛の水城でした。しかし、明智光秀による本能寺の変とその後の山崎の合戦が終わった後、秀吉の家臣堀秀政に攻められた明智秀満(光秀の家臣)は、城に火を放って討ち死にしました。
公園内には、明智光秀の業績を記した碑がありました。それには、坂本城での、熱心な内政への貢献や、その後、彼が城下町づくりを担った、亀岡市や、福知山市の城下町の説明が書かれていました。
城址公園の南の一角に桟橋がありました。これは、日吉大社の神輿の船渡御の際の桟橋でした。ここにも、日吉神社ゆかりの地がありました。
大津市坂本町は、比叡山延暦寺とその守護神である日吉神社の門前町として、今も生きているのだと感じました。
坂本城址の最寄り駅は、湖西線のJR唐崎駅。普通電車で京都へ。京都駅で遅い昼食をすませ、そこから新快速に乗り継いで姫路に向かいました。
JR比叡山坂本駅からスタートしました。目的は二つ。一つは、苔むした石垣に生け垣が続く坂本の町を歩くこと。もう一つは、美しい水城で知られた坂本城跡を訪ねることでした。
山側に向かって、日吉(ひよし)神社参道のゆるやかな坂道を登っていきます。ほどなく、「坂本6丁目」の信号手前の右側に、「公人(くにん)屋敷」の旧岡本邸が見えて来ます。「公人」て、何? 江戸時代に、延暦寺の僧であっても妻帯と名字帯刀を許された人たちのこと。岡本家は、公人を代々務めた家だったそうです。織田信長の没後、中世の山法師やその子孫が、延暦寺から延暦寺領内の治安の維持や年貢の徴収などの役割を与えられました。その人たちが「公人」だったようです。
さらに進むと、左側に京阪電鉄の坂本駅。ちょうど電車が着いたときでした。
さらに進むと、坂本4丁目。
趣のある伝統的な町並みが続くところです。鳥居の手前に「日吉そば」のお店。
その2軒ほど先にある「鶴喜そば」。「名物生蕎麦」、「東宮殿下御買上之栄」、「賜宮内省御用命 名物 元祖鶴㐂そば」の看板が正面にありました。そして、文化庁の「登録有形文化財」に指定された建物。歴史と伝統を誇るお店です。
しばらくその道を歩きます。
白い漆喰の蔵や重厚な民家が並んでいます。屋根についた「煙出し」が、目につきました。いい雰囲気です。
再び、参道に戻って進みます。
苔むした石垣の上に生け垣のある、坂本らしい風景が見えるようになりました。最初に見えたのが、金蔵院。その名のとおり、ここは、里坊(さとぼう)が並んでいるところです。比叡山延暦寺の「山坊」に対する「里坊」。厳しい修行に明け暮れた比叡山の僧で、高齢で隠居した人が住むところです。外から、庭が見えるところもあります。隠居した後、きれいな庭園を眺めながら、おだやかに余生を送ったのでしょう。
参道の右側、里坊の前の道です。この道に沿って、唐風の門をもつ寿量院や、門松が飾られた律院などの里坊が並んでいます。青い空を映して流れる小川の水もきれいです。
公開されている旧竹林院庭園。明治になって、里坊から民間に払い下げられ、個人の別邸になったそうです。広大な「池泉回遊式庭園」だといわれますが、もちろん、ここも閉館で見学することはできませんでした。
芙蓉園本館。もと里坊の白毫院。 食事処です。石垣がとてもきれいでした。
坂本は「石積みのある門前町」です。重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。
この石積みは、坂本町の穴太(あのう)の一帯に古代から居住し、山門の土木工事や営繕の用を担ってきた「穴太衆(あのうしゅう)」の技術によるものです。自然の石を、加工しないままで使用して石面を構成し(野面積み)、コーナーの整備された美しさと堅固さに特色があります。安土城の石垣をつくったことで広く知られるようになりました。その後、伏見城、篠山城、名古屋城、小倉城、金沢城、和歌山城、近江八幡城、伊賀上野城、熊本城、彦根城、松阪城などの石垣工事でもその高い技術を発揮しました。
最も美しい石垣と言われているのが、滋賀院門跡のそれだそうです。説明によれば、滋賀院門跡は、織田信長が焼き討ちにした比叡山を再興した慈眼大師、南光坊天海大僧正が、後陽成上皇から法勝寺を下賜され、元和元(1615)年、この地に移築したものといわれています。明暦元(1655)年、後水尾天皇から滋賀院の号を賜り、江戸末期まで天台座主が代々居住したそうです。なお、慈眼大師の廟である「慈眼堂」は、滋賀院門跡のとなりに営まれています。
穴太衆の里を訪ねて見ることにしました。
京阪電鉄の電車で「穴太」駅に向かいました。ちょうど、「HO-KAGO TEA TIME TRAIN」の電車で、車両の内外は、たくさんの絵で飾られていました。
穴太駅は山の中腹にあって、町は下ったところの街道に沿って並んでいました。穴太衆の技術を引き継ぐ企業(粟田建設?)があるとお聞きしましたが、よくわかりませんでした。
穴太から、もう一つの目的地をめざしました。下坂本の町を抜けて、琵琶湖方面に向けて歩きます。
国道160号線に沿った「七本柳」近くの公園に、坂本城址公園がありました。「平成7年造」と記された、「坂本城址」の碑が立っていました。
元亀元(1570)年、比叡山を焼き討ちにした織田信長は、同2年に、琵琶湖の南西部を押さえるため、明智光秀に坂本城を築かせました。冒頭でふれたように、宣教師ルイス・フロイスが「安土城に次ぐ美しい城」と書いているように、大天守と小天守をもつ豪華絢爛の水城でした。しかし、明智光秀による本能寺の変とその後の山崎の合戦が終わった後、秀吉の家臣堀秀政に攻められた明智秀満(光秀の家臣)は、城に火を放って討ち死にしました。
公園内には、明智光秀の業績を記した碑がありました。それには、坂本城での、熱心な内政への貢献や、その後、彼が城下町づくりを担った、亀岡市や、福知山市の城下町の説明が書かれていました。
城址公園の南の一角に桟橋がありました。これは、日吉大社の神輿の船渡御の際の桟橋でした。ここにも、日吉神社ゆかりの地がありました。
大津市坂本町は、比叡山延暦寺とその守護神である日吉神社の門前町として、今も生きているのだと感じました。
坂本城址の最寄り駅は、湖西線のJR唐崎駅。普通電車で京都へ。京都駅で遅い昼食をすませ、そこから新快速に乗り継いで姫路に向かいました。