トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

石垣がささえる門前町、坂本

2011年12月31日 | 日記
青春18きっぷを買いました。買ったからにはしっかり使いたい。岡山駅から姫路へ、そして湖西線経由の新快速で、大津市の坂本に行ってきました。JR岡山駅からJR比叡山坂本駅まで、3時間36分かかりました。比叡山延暦寺とその守護神日吉神社(ひよしじんじゃ)の門前町で知られています。ただ、暮れも押し迫った時期でしたので、閉館の施設が多く、ほとんど見学することができませんでした。  残念!

JR比叡山坂本駅からスタートしました。目的は二つ。一つは、苔むした石垣に生け垣が続く坂本の町を歩くこと。もう一つは、美しい水城で知られた坂本城跡を訪ねることでした。

山側に向かって、日吉(ひよし)神社参道のゆるやかな坂道を登っていきます。ほどなく、「坂本6丁目」の信号手前の右側に、「公人(くにん)屋敷」の旧岡本邸が見えて来ます。「公人」て、何? 江戸時代に、延暦寺の僧であっても妻帯と名字帯刀を許された人たちのこと。岡本家は、公人を代々務めた家だったそうです。織田信長の没後、中世の山法師やその子孫が、延暦寺から延暦寺領内の治安の維持や年貢の徴収などの役割を与えられました。その人たちが「公人」だったようです。

さらに進むと、左側に京阪電鉄の坂本駅。ちょうど電車が着いたときでした。

さらに進むと、坂本4丁目。

趣のある伝統的な町並みが続くところです。鳥居の手前に「日吉そば」のお店。

その2軒ほど先にある「鶴喜そば」。「名物生蕎麦」、「東宮殿下御買上之栄」、「賜宮内省御用命 名物 元祖鶴㐂そば」の看板が正面にありました。そして、文化庁の「登録有形文化財」に指定された建物。歴史と伝統を誇るお店です。

しばらくその道を歩きます。

白い漆喰の蔵や重厚な民家が並んでいます。屋根についた「煙出し」が、目につきました。いい雰囲気です。

再び、参道に戻って進みます。

苔むした石垣の上に生け垣のある、坂本らしい風景が見えるようになりました。最初に見えたのが、金蔵院。その名のとおり、ここは、里坊(さとぼう)が並んでいるところです。比叡山延暦寺の「山坊」に対する「里坊」。厳しい修行に明け暮れた比叡山の僧で、高齢で隠居した人が住むところです。外から、庭が見えるところもあります。隠居した後、きれいな庭園を眺めながら、おだやかに余生を送ったのでしょう。

参道の右側、里坊の前の道です。この道に沿って、唐風の門をもつ寿量院や、門松が飾られた律院などの里坊が並んでいます。青い空を映して流れる小川の水もきれいです。
 
公開されている旧竹林院庭園。明治になって、里坊から民間に払い下げられ、個人の別邸になったそうです。広大な「池泉回遊式庭園」だといわれますが、もちろん、ここも閉館で見学することはできませんでした。

芙蓉園本館。もと里坊の白毫院。  食事処です。石垣がとてもきれいでした。

坂本は「石積みのある門前町」です。重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。

この石積みは、坂本町の穴太(あのう)の一帯に古代から居住し、山門の土木工事や営繕の用を担ってきた「穴太衆(あのうしゅう)」の技術によるものです。自然の石を、加工しないままで使用して石面を構成し(野面積み)、コーナーの整備された美しさと堅固さに特色があります。安土城の石垣をつくったことで広く知られるようになりました。その後、伏見城、篠山城、名古屋城、小倉城、金沢城、和歌山城、近江八幡城、伊賀上野城、熊本城、彦根城、松阪城などの石垣工事でもその高い技術を発揮しました。
 
最も美しい石垣と言われているのが、滋賀院門跡のそれだそうです。説明によれば、滋賀院門跡は、織田信長が焼き討ちにした比叡山を再興した慈眼大師、南光坊天海大僧正が、後陽成上皇から法勝寺を下賜され、元和元(1615)年、この地に移築したものといわれています。明暦元(1655)年、後水尾天皇から滋賀院の号を賜り、江戸末期まで天台座主が代々居住したそうです。なお、慈眼大師の廟である「慈眼堂」は、滋賀院門跡のとなりに営まれています。
 

穴太衆の里を訪ねて見ることにしました。

京阪電鉄の電車で「穴太」駅に向かいました。ちょうど、「HO-KAGO TEA TIME TRAIN」の電車で、車両の内外は、たくさんの絵で飾られていました。

穴太駅は山の中腹にあって、町は下ったところの街道に沿って並んでいました。穴太衆の技術を引き継ぐ企業(粟田建設?)があるとお聞きしましたが、よくわかりませんでした。

穴太から、もう一つの目的地をめざしました。下坂本の町を抜けて、琵琶湖方面に向けて歩きます。
  
国道160号線に沿った「七本柳」近くの公園に、坂本城址公園がありました。「平成7年造」と記された、「坂本城址」の碑が立っていました。

元亀元(1570)年、比叡山を焼き討ちにした織田信長は、同2年に、琵琶湖の南西部を押さえるため、明智光秀に坂本城を築かせました。冒頭でふれたように、宣教師ルイス・フロイスが「安土城に次ぐ美しい城」と書いているように、大天守と小天守をもつ豪華絢爛の水城でした。しかし、明智光秀による本能寺の変とその後の山崎の合戦が終わった後、秀吉の家臣堀秀政に攻められた明智秀満(光秀の家臣)は、城に火を放って討ち死にしました。

公園内には、明智光秀の業績を記した碑がありました。それには、坂本城での、熱心な内政への貢献や、その後、彼が城下町づくりを担った、亀岡市や、福知山市の城下町の説明が書かれていました。

城址公園の南の一角に桟橋がありました。これは、日吉大社の神輿の船渡御の際の桟橋でした。ここにも、日吉神社ゆかりの地がありました。

大津市坂本町は、比叡山延暦寺とその守護神である日吉神社の門前町として、今も生きているのだと感じました。

坂本城址の最寄り駅は、湖西線のJR唐崎駅。普通電車で京都へ。京都駅で遅い昼食をすませ、そこから新快速に乗り継いで姫路に向かいました。







塩旦那の豪邸が残る町、竹原

2011年12月22日 | 日記
高校生の頃に読んだ「エデンの海」。
話しの筋もすっかり忘れてしまっていましたが、
ヒロインの清水巴の名前と、竹原という町の名前、
そして、瀬戸内海のきらきら光る海のイメージだけは、
ずっと心に残っていました。
戦後、新聞小説で一世を風靡した石坂洋次郎の、
戦前の作品である「若い人」と、似通った印象がありました。

広島県のJR三原駅から、JR山陽本線から別れて、
海岸沿いにJR広島駅を結ぶJR呉線の電車に乗りました。
JR三原駅から35分程度で、JR竹原駅に着きます。

電車の中で、気がつきました。
「エデンの海」の舞台は、自分では竹原だと思い込んでいましたが、
実際にはその手前の「忠海」だったのではないかと。
車窓から見た瀬戸内海が、イメージにぴったりだったのです。

JR竹原駅前の観光案内所でスタッフに確認すると、
やはり、「エデンの海」の舞台は忠海でした。

ちなみに作者は、若杉慧。
晩年に、平林たい子文学賞を受賞した、小説や随筆で活躍された方でした。
「エデンの海」は、昭和21(1946)年の作品でした。

竹原は、江戸時代の町並みが残る町。
「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されています。
町並み保存センターの前の掲示板には、
「竹原の町並みの特質は、
江戸時代中期の都市構造をそのまま残していること、
竹原の歴史・文化を伝える建造物がよく残っていること。」
「平入り、妻入りが入り混じり、土蔵のなまこ壁、
様々な意匠の格子など変化に富んでいる」と、
書かれていました。

この重厚な民家群は、どのようにして成立したのでしょうか。

これは、地蔵堂の広場に立てられた、
江戸時代前期、竹原代官として赴任した、
安芸藩士、鈴木重仍(しげより)の顕彰碑です。
かれは、赤穂藩から塩づくりの技術を導入して、広い竹原干潟を開き、
入浜式塩田を築き、竹原発展の基礎づくりをした方でした。
寛文4(1644)年に死去しましたが、
「塩浜の守護」として、人々に信仰されるようになった方です。

つくられた塩は広島、大坂、北国へと運ばれ、
「竹原」が塩の代名詞になるほど、町は繁栄しました。
浜主である「浜旦那」は、塩造りで蓄えた冨をもって、
文化活動に力を入れました。
今日、竹原に残る重厚な商家群は、多くが、
この「浜旦那」たちの邸宅でした。
  
町につくられた様々な案内にしたがって、
駅から、タケハラ・ショッピング・パークを抜けて、
本川(ほんかわ)を渡り、鳥羽町から保存地区に入ります。

最初は、旧笠井邸。
浜主の笠井清八の住居で、明治5(1872)年の建築。
間口7軒の邸宅は、左の4間の平入りと右の3間の妻入りがつながっています。
この前から本町通り、石畳の道です。
いよいよ、重伝建地区です。

地蔵堂です。路地を少し入ったところにあります。
この先にある胡子神社とともに、江戸時代の町づくりの境界神です。
 
ニッカウヰスキーの創業者竹鶴政孝の生家、
竹鶴酒造(小笹屋酒資料館)です。
工場の中には「創業享保18年、小笹屋事竹鶴友三」と書かれていました。
黒漆喰にうだつもついています。
格子の上に、酒米「雄町米」の稲穂がかかっていました。

竹原市指定重要文化財の松阪邸。
唐破風の大きな屋根が、その曲線にしたがってゆるやかに流れています。
菱格子(ひしごうし)の塗り込み窓に連子格子(れんじごうし)。
重厚さの中に華麗さがただよう見事な建築です。
 
醤油醸造場の堀川商店。
竹原の建築物を特徴づける棒瓦(ぼうがわら)葺き、
修理されたばかりの新しいものでした。

堀川商店の前の路地を右に入ると西方寺です。
京都の清水寺の舞台を模して、
宝暦8(1758)年、小早川隆景が建立した普明閣。
竹原市のどこからでも見える、竹原市のシンボルです。

ここから見える竹原の町は、ほんとにきれいです。

次は、昭和5(1930)年建造の洋風建築。

現在は、竹原の製塩業の歴史を中心に展示した歴史民俗資料館です。


その手前の大小路を左に入ると、春風館と復古館。
(写真は振り返って撮りましたので、左側になります)
国指定の重要文化財。

竹原市の人々の精神的支柱である頼山陽。
源平以来の武家社会の興亡を著した「日本外史」全22巻が、
幕末の志士に大きな影響を与えた、江戸時代後期の儒学者。
その祖父惟清(これすが)は、本通りで紺屋を営んでいました。
旧宅が本町通りに残っています。

その三人の子、春水、春風、杏坪のうち、
春風が竹原で医者を開業していました。
その邸宅が、この春風館と復古館でした。
重厚な、武家屋敷風の数寄屋風建築です。
今はこれといって活用はされていないそうです。

また、頼山陽は春水の子でしたので、春風は、
山陽の叔父にあたります。

これは、復古館前にあった案内の置物。
通りの見どころには、この像が立っていました。

本通りの突き当たり右にあった照蓮寺。
ここまでに、長生寺、西方寺がありましたが、
いずれも立派なお寺でした。
浜旦那の冨がうかがえました。


塩の運搬に使われたという本川の東に並ぶ江戸時代の町並み。
その迫力に圧倒された一日でした。

訪ねた日は水曜日で、休館日のところが多くて
少し残念でした。





クリスマスデコレーション 岡山市

2011年12月15日 | 日記
12月、あざやかなイルミネーションが街を彩る時期になりました。
最初にお目見えしたのは、岡山駅地下の一番街でした。
 
クリスマスツリーにポインセチア、定番です。
ここは、岡山電気軌道の路面電車から地下改札駅に向かうメインルート。
 
ポインセチアで囲まれた中にあるミラーボール。
色が七色に変わります。

  
これは、岡山駅前東口のイルミネーション、「ももたろうファンタジー2011」。
昨年と基本的には変わっていないようです。
ビルの照明もやはりクリスマスツリーです。
 
協賛している岡山優良企業の名が並ぶコーナー。
青い色がきれいです。
 
錦町にある両備HDの本社にある、ロンドンの2階建てバスも照明がなされていました。
少し塗装がはげているのではないかと、平素思っていましたが、
こうして見るとなかなか見栄えがします。
ドライバーはサンタクロースでした。プレゼントを運んでいるのでしょう。

さらに、東に進むと西川緑道公園。
 
西川にかかったイルミネーションです。
静止画にするとぼうとした印象ですが、かなりきれいでした。

西川アイプラザのグランド脇の階段です。なかなか幻想的な風景です。

次は、NTTクレドの広場。

ここも、メインはクリスマスツリーでした。

表町の商店街です。江戸時代から続く伝統ある商店街。
旧上之町商店街の光景です。
  
旧中之町から下之町方面に向かって歩きます。
  
ここには、表町おかみさん会が企画した、願いをつるしたクリスマスツリーが並んでいました。
通りかかった人が参加できるアイデアでした。

さらに進んで、西大寺町の角を右折して新西大寺町商店街へ。
ここも、基本的には表町と同じ装飾です。

お花屋さんの前の飾り付け。
電飾もいいけど、こういう手づくり感あふれるものもいいなあと思うのは、
私がアナログ世代だからでしょうね!

意外に人通りの少ないのが気になりました。




土蔵が映える佐用川沿いの宿場町、平福

2011年12月11日 | 日記

佐用川の水面に映える土蔵の壁が、子どもの顔のようで、ずっと気になっていました。また、何年か前、水害で大きな被害を受けていて、復興の状況も気になっていました。鳥取藩主の参勤交代にも使われた因幡街道の最大の宿場町、平福です。現在の兵庫県佐用郡佐用町平福です。

JR山陽本線の上郡駅から智頭急行の普通列車に乗って出かけました。岡山から、この線を走って鳥取に向かう特急「スーパーいなば」には、以前出張で乗ったことがありましたが、普通列車に乗るのは初めてでした。11カ所のトンネルをこえて、約30分で、平福駅に着きました。眼下に平福の町が一望できました。

あの土蔵も、ほんの100mぐらいのところにありました。道の駅「ひらふく」の隣の山裾に、陣屋門も見えました。災害からは復興しているように感じました。

さて、平福はもともと城下町として整備されました。慶長6(1601)年、駅の裏にある標高373mの利神(りかん)山の山頂に、池田出羽守由之が、利神城を築城したのに始まります。

山頂につくられた3層の天守閣の跡を、今も、町から見ることができます。(石垣の崩落が激しく登山禁止になっていましたが・・。)町立郷土館の2階に模型が展示されていました。「雲突城」と呼ばれ、由之の叔父で後見役だった池田輝正が、幕府の反応を恐れて、破棄することを命じたと言われています。由之は、慶長14(1614)年、備前国の下津井城に移り、このとき、天守閣などが取り壊されたようです。

郷土館にあった利神城の模型です。

余談になりますが、由之は、その後、伯耆の国に移封されていた、幼少の池田光政の補佐役を務めました。由之の嫡子、由成は岡山藩主となった池田光政の家老となり、天城(現在の岡山県倉敷市藤戸町天城)に陣屋を構えました。ちなみに、由成の子、熊子は赤穂浪士の大石内蔵助良雄の母だった人です。寛永8(1631)年、時の藩主、池田輝興が赤穂に転封し、廃藩、廃城となりました。それからは、松平康朗の旗本領となり、因幡街道の宿場町、商業町として、発展していくことになりました。

因幡街道で運ばれてきた荷物は、平福で船に積み替えられ、佐用川から千種川を経由して、赤穂藩の坂越(さごし)に送られていました。

さて、それにしても、智頭急行の平福駅舎は立派な木造の建物でした。

「近畿の駅百選」に選ばれています。駅舎は屋根だけで囲いはありませんでした。

駅前からまっすぐに伸びる道を進み、佐用川にかかる京橋を渡ると、すぐ目の前を、東西に走っている旧因幡街道に着きます。

その右の向かい側に、平福宿の本陣跡。町内にある素盞鳴神社の御旅所になっているそうで、中のお堂に、神輿が保管されていました。

道の駅の手前につくられた道標に従って、因幡街道を右折して、岡山県方面に進みます。

1.2kmの間に、宿屋14軒(天保年間)、酒屋12軒(寛文年間)があったと言われ、繁栄していた宿場町の雰囲気が伝わってきます。

蔦がからまっている民家がありました。黒漆喰の壁に、装飾が着いたうだつのある見事な民家でしたが、住む人がいないのでしょう、蔦がからまったまま放置されているようでした。

しばらく進むと、旧田住邸に着きます。代々大庄屋をつとめ、18世紀には、旗本松平氏の代官を務めていました。元禄時代に築かれた「池泉鑑賞式庭園」が残っています。拝見していると、奥様から声をかけられお茶をごちそうになりながら、ご主人からまちづくりのお話をお聞きしました。

さらに進むと、江戸時代の初期創業といわれる「たつ乃醤油」本店。このあたりにも古い民家が残っていました。その先で、旧街道は左にカーブして宿場から離れていきます。

もと、牢屋敷があったところにつくられた郷土館の前を通って、国道373号線に出ます。

山側に正覚寺。町を歩きながら、この町のお寺は数も多く立派だと感じていましたが、ここも立派なお寺でした。

その先が、道の駅「ひらふく」。観光客は、ここで昼食です。地元の産品を販売する「平成福の市」やおみやげ店も営業していました。

代官所跡の陣屋門。松平氏の旗本領になってから、代官が支配していましたが、この門は、元治元(1864)年、代官、佐々木平八郎が建築したものだそうです。

もう一度、因幡街道にもどり、今度は南の佐用方面に向かって歩きます。

京橋の下流にかかる天神橋からの川端風景がきれいです。慶長から元和年間(1596~1623)年にかけて形成されたと言われています。佐用川沿いに川端の道が続き、民家から降りる出口がつくられています。

土蔵の石垣の中で黒く見えているところが出口で、「川戸」と呼ばれる木戸がついています。川端の景観を彩る石垣は、昭和49年河川改修工事のときに消滅の危機を迎えました。しかし、保存を求める住民の方々の景観保存運動によって、75mが保存されることになったそうです。

再び、因幡街道に戻ります。

ちょうど、川端の土蔵の表側に当たるのが、これらの民家です。

手前の白漆喰の民家が瓜生原(うりゅうはら)二郎氏邸。玄関に、兵庫県指定の「景観形成重要建造物」の標識がかかっていました。その奥の土色をした建物が、瓜生原恒男氏邸。瓜生原家は、江戸時代の享保年間(1716~1735)、美作の国津山(現岡山県津山市)の瓜生原から移り住み、「吹屋」の屋号で、鋳物業を営んでいたそうです。

瓜生原恒男氏邸の玄関に、この家でつくられた鍋や釜、喚鐘(かんしょう)が展示されていました。

町立郷土館の建物は、この民家の特徴を行かして建てられていました。


宿場町の外れ、金倉橋のたもとに六地蔵があります。ここは、江戸時代、藩の刑場があったところで、供養のために、元禄期(1688~1703)につくられたそうです。

また、宮本武蔵の決闘の場でもあります。彼の著書、「五輪書」には、「吾若年のむかしより兵法の道に心をかけ13歳にして初めて勝負す、その相手、新当流の有馬喜兵衛に打ち勝ち・・・」と書かれています。この勝負は、ここで、慶長元(1596)年に行われました。

武蔵の母が死亡したあと、父無二斉は、よし子を後妻に迎えたので、かれは、この義母によって育てられました。7歳の時に父も亡くなり、義母は平福に帰り、田住政久の後妻になったそうです。武蔵は後を追って平福に来て、正連庵の道林坊に預けられました。そして、その弟、長九郎に武芸を学んでいたのでした。

ここから、因幡街道は平福の宿場を離れ佐用に向かっていました。

土蔵の川端風景が魅力の町でしたが、それだけでなく、岡山藩にゆかりのある城下町であり、宿場町でした。また、大原町ゆかりの宮本武蔵にも強くかかわる町でした。        

これほど、岡山とのかかわりの強い町だったことは、行って初めて知りました。街道は人や物をつないでいるということを、再確認した旅でした。


大混雑のトロッコ列車、嵯峨野鉄道

2011年12月03日 | 日記
紅葉の京都は、毎年大混雑です。
特に、道路の渋滞は尋常ではありません。
わかってはいたのですが、
嵯峨野鉄道のトロッコ列車に乗るという誘惑には勝てませんでした。
乗ってきました。嵯峨野観光鉄道のトロッコ列車に。

まずは、JR山陰線の嵯峨嵐山駅に着きました。

平成元(1989)年、JR山陰線の複線電化が完成し、
JR嵯峨駅とJR馬堀駅間は、
かつてのJR山陰線とは別の路線になりました。
保津峡に沿って走る風光明媚な旧路線は、廃線になってしまったのです。

しかし、2年後の平成3(1991)年に、旧路線は復活します。
JR西日本の子会社、嵯峨野観光鉄道のトロッコ列車の路線として・・・。
そして、現在のJR嵯峨嵐山駅の隣に、
トロッコ嵯峨駅がつくられました。

嵯峨野観光鉄道のホームページには、
開業当時の様子が、次のように書かれています。

「廃線は、レールはサビつき、草は生い茂り、路肩は崩れ、枕木は腐食し、
とても列車を走らせる状態ではなかった。
「とりあえず3年」「それでだめなら撤退」、
9名の社員が保線作業を行い、沿線に桜を植え、トロッコ列車をつくり出した。」

社員の努力が、復活の原動力だったのです!
トロッコ列車は全席指定席ですが、この日は、すべて売り切れているようで、
改札口に近い時刻表には、「立席」という表示がされていました。

15時07分発のトロッコ亀岡駅行きに乗るため、待合室から、
改札を通ってホームに出ました。
 
乗車する予定の3号車が停車するあたりに行きましたが、
狭いホームには多くの乗客が並んで待っておられました。

15時01分、JR亀岡駅からの列車が、いっぱいの乗客とともに、
ホームに入ってきました。
ホームを行き来して、いい写真を撮りたいと思っていたのですが、
隣の人の腰ぐらいから撮るのがやっとでした。
移動なんて、とてもできません。
乗客が降りてから、先頭のディーゼル機関車の方にやっと移動ができました。

DE101104号機。 黒と赤に塗り分けられています。
機関車にくっついて「嵯峨野」、前方に20周年記念のヘッドマーク。
出発まで6分しかない。
しかも、乗客がいっぱいでのんびりできません。

DEの次の5号車は、SK300-1のトロッコ車両、「ザ・リッチ」。
トロッコ列車の車両は、トキ25000形無蓋貨車の改造車ですが、
「ザ・リッチ」は、覆いがまったく着いていないつくりです、
天候によっては乗客を乗せられないため、
乗車券は前売りがなく、すべて当日売りになっています。
出発時間が迫ってきましたが、
列車の中を移動することは不可能です。

4号車、SK100-1の脇を過ぎて、3号車、SK100-11車両へ。
 
もうほとんどの乗客が乗っていました。
2号車は、SK100-2、亀岡方面行きの先頭車はSK200-1。
SK200-1には、機関車を遠隔制御する運転台が先頭に着いています。
しかし、時間がなくて、行くことはできません。

トロッコ列車が出発しました。
時速25kmのゆっくりとしたスピードです。
木の座席はクッションがないため、いつもがたがたと揺れています。
特に制動がかかったときは、前と後ろの両側からおされているような振動。
がたがたという音も大きいです。
さすがに、もと貨車だっただけあります。
1kmで、トロッコ嵐山駅です。
 
3号車はトンネルの中で停車しました。
乗車するお客がさらに増え、立ち席の人もいっぱいです。
列車の中は白熱灯のような形をした灯りが3つだけなので薄暗い。

「ぼちぼち、出発します。」
車掌さんの案内放送に、乗客はどっと涌きます。
左側に保津峡を見ながら走っていきます。
「角倉了以の開いた保津峡です。」
「わあ、きれい」と言う声が出始めたところで、そのまま停車しました。
「運転士さんのご好意で列車が停車しました。」と車掌さん。
後ろから、保津峡をさかのぼってくるモーターボートが見えました。
「保津川を水上マーケットが移動中です。生活用品を乗せて運んでいます。」
 
青い保津川の流れに白い岩と紅葉、息を飲む美しさです。
「左側のみなさん。保津川下りの船が見えます。」
「右側のみなさん。しばらくの辛抱です、この先は右に見えますから。」
保津川下りの船がかなりのスピードで下って来ました。
3人船頭です。4~15人のこともあるそうです。
「亀岡から嵐山までを、2~3時間かけて下ります。3900円です。」
「深ーい、深ーいところは水深10mです。」

「あれは、現在の山陰線の鉄橋です。」

3kmでトロッコ保津峡駅に着きます。

「ここから鬼が乗車します」
「お降りの方がいらっしゃらないようですので、すぐ出発します。」
また、保津峡に並んで走ります。
「右側のお席のお客様、いよいよ保津峡が見えますよ。」
「左側のお席のお客様。保津峡は終わりです。」
車掌さんの放送へのお客さんの反応がすごいです。

やがて、きれいな紅葉が並んで見えてきます。
夕方にはライトアップされるそうです。
 
後ろを振り向いたとき、4号車との境におられました。
この方が、車掌さん! トロッコ列車の名物です。

突然、前方の2号車から、鬼が入ってきました。
子どもや女性を見つけると近寄っていって声をかけています。

15時30分、終点のトロッコ亀岡駅に到着しました。
トロッコ保津峡駅から3.7km。

ホームは、またもや、いっぱいの人です。
1号車と2号車の写真を撮るのはあきらめました。
人に押されるようにして、駅の外に動いていくしかありませんでした。

やっと、駅の外に出たら、もうトロッコ列車の出発時間になっていました。
一日フルに働いている固定編成のトロッコ列車は、
この日7回目の、トロッコ嵯峨駅に向けての出発でした。
最後尾のSK200ー1に、機関車を遠隔制御する運転台が見えました。

トロッコ嵯峨駅からトロッコ亀岡駅までの7.3kmを23分かかって移動しました。
車掌さんの楽しい案内放送を聞きながら、保津峡の渓谷美、
植樹された樹木の紅葉を眺めながらの楽しい時間でした。
乗車券は600円でしたが、高いとは思いませんでした。
1000円でも乗りたいと思っている人は多いのではないでしょうか。

開通時は、「やがては全国のローカル線と同じようになっていくだろう」と、
関係者でさえ思っていた、嵯峨野観光鉄道のトロッコ列車。
今や年間100万人の観光客を集める人気路線になっています。

時間に余裕がなくて、すべてを見たわけではありませんが、
列車の魅力に加えて、附属の施設も楽しめました。

トロッコ嵯峨駅にある記念館前に設置されている、
SLの車軸でつくったオブジェやSL。 

建屋の中にも展示されていたSL。

オリエント急行のエンブレム。

広いスペースを使ったジオラマ。

運転席からの操作で動きます。運転している感覚が味わえます。
子どもがいっぱいでした。

待合室にある記念品売り場。

たくさんの人が集っていました。

開業時は、「とりあえず3年」という自信のないままスタートした、
嵯峨野鉄道でしたが、社員の創意工夫によって、
たくさんの人が集まる魅力的な空間を作り出していました。
トロッコ列車の魅力との相乗効果でしょう。

お客さんがほとんどいないローカル列車感覚で、
トロッコ列車にのんびり乗れる日は来るのでしょうか?