生まれて初めて、青春18切符を使って旅をしました。
その最後の5回目に、丹波篠山を訪ねました。桜の花が美しい4月4日でした。
谷川駅での福知山線車両
加古川線で谷川駅へ向かい、福知山線を乗り継いで篠山口駅に着いたとき、家を出てから5時間20分が経っていました。
バスに乗り換えて篠山へ。二階町で降りました。春爛漫の日曜日、観光客で、通りはいっぱいでした すぐに、食事に向かいました。
篠山は、ボタン鍋の街、このビルはイノシシの胴体部分にありました。食事に行っても、やはり、いのししが迎えてくれました
観光案内所で借りたレンタサイクルで篠山城へ
大正期の洋風建築、「大正ロマン館」も観光案内所
青い空と白亜の市庁舎を背景に満開の桜が・・・・。
ここ篠山城は、慶長14(1609)年、徳川家康が築城しました。姫路城主池田輝正を築城の奉行とする天下普請で、縄張りには、築城の名手といわれた藤堂高虎があたりました。
あまりに堅固なため天守閣の建設が許されなかった篠山城、豪壮な大書院が復元されています。
多くの市民が桜の下でくつろいでいます。城跡は市民の憩いの場です。
お城の西側はお徒士町の武家屋敷通り、茅葺き、土塀の屋敷が、江戸末期の雰囲気を伝えています。
武家屋敷を歩いているとき、部活動から帰る中学生の一団と出会いました。中の一人が「じゃあ」と言って、武家屋敷の中に入って行きました。ここは、観光資源ではあっても、まぎれもなく現在も生活の場なのです。中学生は、周囲の武家屋敷にとけ込んでいました。
西の外堀の近くにも、茅葺き、からすおどしの屋根と長屋門がついた武家屋敷が残っています。壕の方向から見た姿は、どっしりとして大変すばらしいものです。
篠山城下町は、武家地だけでなく、商人町も往事の姿を残しています。うなぎの寝床のような妻入り家屋で、虫籠窓に千本格子、うだつのついた商家群が残っています。文化庁から「重要伝統的建造物群保存地区」の指定を受け町並みの保存に努めています。
丹波杜氏のふるさととしても知られる篠山は、その歴史と文化を守り育てていこうとする、志の高い人々が住む街でした。
その最後の5回目に、丹波篠山を訪ねました。桜の花が美しい4月4日でした。
谷川駅での福知山線車両
加古川線で谷川駅へ向かい、福知山線を乗り継いで篠山口駅に着いたとき、家を出てから5時間20分が経っていました。
バスに乗り換えて篠山へ。二階町で降りました。春爛漫の日曜日、観光客で、通りはいっぱいでした すぐに、食事に向かいました。
篠山は、ボタン鍋の街、このビルはイノシシの胴体部分にありました。食事に行っても、やはり、いのししが迎えてくれました
観光案内所で借りたレンタサイクルで篠山城へ
大正期の洋風建築、「大正ロマン館」も観光案内所
青い空と白亜の市庁舎を背景に満開の桜が・・・・。
ここ篠山城は、慶長14(1609)年、徳川家康が築城しました。姫路城主池田輝正を築城の奉行とする天下普請で、縄張りには、築城の名手といわれた藤堂高虎があたりました。
あまりに堅固なため天守閣の建設が許されなかった篠山城、豪壮な大書院が復元されています。
多くの市民が桜の下でくつろいでいます。城跡は市民の憩いの場です。
お城の西側はお徒士町の武家屋敷通り、茅葺き、土塀の屋敷が、江戸末期の雰囲気を伝えています。
武家屋敷を歩いているとき、部活動から帰る中学生の一団と出会いました。中の一人が「じゃあ」と言って、武家屋敷の中に入って行きました。ここは、観光資源ではあっても、まぎれもなく現在も生活の場なのです。中学生は、周囲の武家屋敷にとけ込んでいました。
西の外堀の近くにも、茅葺き、からすおどしの屋根と長屋門がついた武家屋敷が残っています。壕の方向から見た姿は、どっしりとして大変すばらしいものです。
篠山城下町は、武家地だけでなく、商人町も往事の姿を残しています。うなぎの寝床のような妻入り家屋で、虫籠窓に千本格子、うだつのついた商家群が残っています。文化庁から「重要伝統的建造物群保存地区」の指定を受け町並みの保存に努めています。
丹波杜氏のふるさととしても知られる篠山は、その歴史と文化を守り育てていこうとする、志の高い人々が住む街でした。