トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

JR西麻植駅と江川の湧水

2022年01月05日 | 日記
JR徳島線の西麻植(にしおえ)駅です。徳島県吉野川市鴨島町西麻植にあります。この日は、まだ下車したことのない西麻植駅を訪ねるため、徳島線の東側の起点駅、JR佐古(さこ)駅に向かいました。

徳島線は、徳島県内を東西に走る全長67.5kmの鉄道路線で、佐古駅でJR高徳線と、西の起点である佃(つくだ)駅でJR土讃線とつながっています。
実際の徳島線の運行は、佐古駅の一つ先の徳島駅と、佃駅の一つ先の阿波池田駅が起点になっています。また、阿波池田行きの列車のほか、途中駅の穴吹駅行きや阿波川島駅行きの区間運転の列車も運行されています。
佐古駅の1番ホームに徳島線の列車が到着しました。始発駅のJR徳島駅からやってきた、JR穴吹駅行きの区間運転の列車です。1500形の車両と1200形の車両の2両編成でした。
佐古駅のホームの端からの西麻植駅側の光景です。左側が徳島線の阿波池田方面に向かう線路、右側が高徳線の高松方面に向かう線路です。佐古駅では、徳島線の列車は上り(徳島駅行き)、下り(阿波池田方面行き)ともに、左側の1番ホームを使用しています。 佐古駅を出た徳島線の列車は、写真の左側の線路を通り、”四国三郎”の名のある一級河川”吉野川”の南側を、終点の阿波池田駅方面に向かって進んで行きます。
佐古駅から30分程度で、1面1線の西麻植駅のホームに到着しました。駅舎が左前方に見えました。 徳島線は、明治32(1899)年2月16日に、徳島鉄道によって、徳島駅~鴨島駅間が開業したことに始まります。西麻植駅が開業したのは、その年の10月5日のことでした。その後も延伸を続け、大正3(1914)年には、川田駅から阿波池田駅間までが開業し、現在の徳島線の区間の全線が開業しました。しかし、このとき、現在の西の起点である佃駅は、まだ誕生していませんでした。
列車は、すぐに次のJR阿波川島駅に向かって出発して行きました。2両目の1200形車両の運転席部分が見えます。
さて、佃駅ですが、昭和4(1929)年、佃信号場として、現在の地に開設されました。駅に昇格したのは、昭和25(1950)年。 土讃線の列車だけが停車する土讃線の駅としての開業でした。現在のように徳島線の列車も停車するようになったのは、昭和37(1962)年のことでした。当時は徳島本線と呼ばれていましたが、このとき、徳島本線の終点が佃駅に変更されました。
  
この間、徳島鉄道として誕生した徳島線は、明治40(1907)年に国有化され、大正2(1912)年には「徳島本線」と改称されました。 そして、国鉄分割民営化後の昭和63(1988)年に「徳島線」と改称され、平成12(2000)年からは「よしの川ブルーライン」の愛称が使われるようになりました。 西麻植駅までの徳島線は、開業からすでに120年以上が経過しています。

ホームから見た佐古駅方面です。静かな田園地帯でひときわ目立つ白い建物は、吉野川医療センターです。

列車が出発した後のホームのようすです。ホームとの境界の柵には、枕木が使用されています。JR四国の駅ではよく見かける光景です。

駅舎の手前、枕木の柵の前に立つ駅名標です。西麻植駅は佐古駅側の一つ前の鴨島駅から1.9km、次の阿波川島駅まで1.9kmのところにあり、鴨島駅と阿波川島駅の中間地点に設けられているようです。
駅舎前に来ました。駅舎から延びたホームの上屋が印象的です。
ホームの上屋の柱にはレール材が使用されていました。
駅舎前からさらに阿波池田駅方面に向かいます。ホームの先に、西麻植第2踏切がありました。徳島駅から 、「20k917m」のところにあります。
西麻植第2踏切から引き返します。駅舎との間に公園風に整備された広場がありました。「人間として生きるには、人を人として大切に」と書かれた、西麻植地区人権教育推進協議会の方がつくられた看板が設置されています。
駅舎まで引き返して来ました。無人駅の駅舎内に入ります。西麻植駅は、荷物の取り扱いが廃止された、昭和47(1972)年から無人駅になっています

ホーム側からの入り口から見た右側の駅事務所前のようすです。設置されているベンチには「徳島すぎ 徳島県木材協同組合連合会」の刻印がありました。
左側です。大きな窓の下に、ベンチが並んでいました。
ホーム側です。出入口の脇に時刻表がありました。
駅舎から出ました。出入口の上に駅名標が、入り口の右側に自動販売機が設置されています。
駅舎に向かって左側、公園風の広場に接して鳥料理のお店がありました。この日は休業されていたようでした。 駅前におられた地元の方に西麻植の見どころをお尋ねしますと、「『江川の湧水』に行ったら・・。案内板があるから迷わずに行けるよ」とのこと。 そして、お尋ねしたすべての方が、「吉野川医療センターの所には、以前、遊園地があったんだよ」と付け加えてくださいました。
「江川の湧水」を訪ねることにしました。地元の方に教えていただいたように、駅舎の前の道路を左に進み、右折して進みます。写真は右折したところから駅舎を撮影したものです。この道を後ろ方向に進みます。
右折して進むと住宅地に入ります。すぐ左側に、「700m   名水百選 冬温かく夏冷たい水が湧いている 江川湧水源」と書かれた案内板がありました。江川の湧水は、夏は摂氏10度の冷たい水が湧き、冬は摂氏20度の温かい水が湧く、水温の異常現象で知られています。昭和29(1954)年に、徳島県の天然記念物に指定されていましたが、それに加えて、昭和60(1985)年には、当時の環境庁(現・環境省)から「全国名水百選」に選定されています。
案内板の脇を左折して進みます。
やがて、左側の線路との間にある枕木の柵の向こう側に、吉野川医療センターの建物が見えるようになりました。地元の方がおっしゃっていた「吉野川遊園地」は吉野川医療センターの場所にありました。戦前は「江川遊園地」と呼ばれ、江川湧水からの水を取り込んだ美しい景観を楽しむ施設だったそうです。

その先の江川第3踏切を吉野川医療センターに向かって渡ります。渡りきったところに、「300m 江川湧水源」の案内がありました。そこを、左に向かって進みます。 太平洋戦争中に荒廃した「江川遊園地」は、戦後の昭和23(1948)年に復興しました。その後、昭和44(1969)年の四国博覧会のときに、「吉野川遊園地」となりました。四国最大の観覧車(ピッグドリーム)やジェットコースター、ゴーカート、おとぎ列車、メリーゴーラウンドなどの施設・設備や、「ちびっこ急流滑り」やフィッシングパーク(釣り堀)も整備されていたということです。
多くの人を楽しませていた吉野川遊園地でしたが、平成23(2011)年8月31日に、閉園となってしまいました。
吉野川医療センターの前で、左折して進みます。その先で、変形の交差点(四叉路)がありました。正面に「100m 江川湧水源」の案内がありました。めざす「江川の湧水」はもうすぐです。右折して進みます。
その先に、吉野川の堤防が見えました。右側のフェンスの先を、右に向かいます。

「全国名水百選」に選定されている江川湧水源の「説明」です。 江川湧水はどんな経緯で生まれたのか。 「説明」によれば、
(1)大正5(1916)年から大正7(1918)年にかけて、吉野川の分流だった江川の上流に堤防が造られ、江川は吉野川の本流と切り離されることになり、結果として吉野川の右岸の湧水になったという説
(2)水温の異常現象は、昭和30(1955)年の地下水の調査によって、江川の水は隣の川島町の城山付近で、吉野川と分離して地下水となり、夏、温かく、冬、冷たい水が、地下の砂利層を暖めたり冷やしたりしながら、半年かかって江川の湧水源付近に到達することによるものとする説
二つの説が紹介されていました。 しかし、「説明」の最後には、「いまでも定説はありません」と結んでありました。

鳥居状の構造物の下をくぐってから、左側に進みます。
少し高い所から見えた「江川の湧水」です。

江川湧水源からの湧き水は、江川となって、吉野川医療センターの前を東に向かって流れます。

その後、江川は、吉野川市(旧鴨島町)の鴨島公園や名西郡石井町を過ぎた辺りで、吉野川に合流することになります。

JR徳島線の西麻植駅と周辺の見どころを訪ねてきました。
かつては、吉野川遊園地で多くの人々に親しまれ、現在は、夏冷たく、冬温かい不思議な水が湧くことで「全国名水百選」に選定された「江川の湧き水」でも知られる魅力的な町でした。


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