トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

JR早島駅を訪ねる

2021年01月31日 | 日記
昭和31(1956)年に建設された鉄骨造りの早島駅です。
岡山市と倉敷市の間に位置する岡山県都窪郡早島町にあるJR宇野線の駅ですが、令和2(2020)年4月11日から無人駅になりました。 JR西日本岡山支社管内では、他に、山陽本線の鴨方駅と西阿知駅が、同じ日に無人駅になっています。
駅舎内に入りました。駅舎の左側に自動券売機と運賃表、閉鎖された窓口が見えます。開設されていた「みどりの窓口」は無人駅となる前日に閉鎖されたそうです。早島駅は、明治43(1910)年6月12日、宇野線の岡山駅と終着駅の宇野駅間が開通したときに開業しました。早島町内にあった「説明」によれば、開業当時は「貨客混合の列車で、岡山駅と宇野駅を1時間半ぐらいで結んでいた」そうで、当時の運賃は「1等 87銭 2等 51銭 3等 29銭だった」そうです。

右側のスペースは、待合室になっています。木製の細長いベンチの表面には、早島町の伝統産業である、い草で織られた上敷が使用されています。

待合室の一角には、地元の人が生けられたと思われる生花が飾ってありました。

早島駅の1日平均の乗車人員は、平成30(2018)年には1,238人だったそうです。 改札口からホームに出ます。 宇野線が開業した日、宇野港と対岸の高松駅を結ぶ宇高連絡船も運航を開始し、玉藻丸と児嶋丸が就航しました。それ以後、宇野線は、四国への玄関口へ向かう路線として、多くの人々に利用されて来ました。宇野線も早島駅も、開業からすでに110年が経過しています。

駅舎側の1番ホームから見た改札口です。駅名標が見えます。早島駅は岡山駅側の備中箕島(びっちゅうみしま)駅から1.4km、宇野駅側の久々原(くぐはら)駅から1.7kmのところに設けられています。宇野線は、現在、久々原駅と早島駅間1.7kmだけが複線区間になっています。

早島駅は相対式2面2線のホームになっています。改札口の正面の2番ホームにあった待合室です。駅名標とベンチが見えました。右側の「2」のマークの下には、建物資産標がありました。「建物資産標 鉄 停骨 待合所 1号 平成27年12月」と記されていました。

ホームのようすを見てみることにしました。駅舎寄りの1番ホームを宇野駅側に向かって歩きます。1番ホームは、岡山方面に向かう列車が停車することになっています。長いホームの先に六の割踏切が見えました。 
ホームに隣接して変電設備がありました。宇野線が電化されたのは、開業から50年後の昭和35(1960)年10月1日のことでした。
快速マリンライナーが2番ホームに到着しました。岡山駅から、瀬戸大橋を経由して香川県の高松駅との間を1時間程度で結んでいます。この先、宇野線の途中駅である茶屋町駅(所属は宇野線)を起点とする本四備讃線(茶屋町駅~宇多津駅)、予讃線(坂出駅~高松駅)を通って高松駅に到る列車です。実際の運用は、宇多津駅を経由しないで、瀬戸大橋から短絡線(通過線)で、直接、坂出駅に乗り入れています。

マリンライナーが出発して行きました。 瀬戸大橋(本州四国連絡橋)の構想が具現化したのは、昭和30(1955)年5月11日、濃霧の中を出港した宇高連絡船の紫雲丸が、同じ宇高航路の大型貨車運航船、第3宇高丸と衝突して沈没、修学旅行の小・中学生を含む168人が死亡した事故がきっかけでした。多くの犠牲者を出した悲惨な事故から30年余が経過した、昭和63(1988)年、瀬戸大橋を渡る本四備讃線が開通しました。
JR西日本は、平成28(2016)年3月26日から、駅の案内放送等で、マリンライナーが走る岡山駅から高松駅間を「瀬戸大橋線」と、宇野線の茶屋町駅から宇野駅間を「宇野みなと線」と、愛称で呼ぶようになりました。
1番ホームを引き返します。駅舎に隣接しているトイレ付近から見た岡山駅側です。駅舎前のホームを覆う上屋と、茶屋町・児島・高松・宇野駅方面に向かう列車が停車する2番ホームとを結ぶ跨線橋が見えました。
跨線橋より岡山駅側の1番ホームから見た2番ホームです。駅名標の向こうに「上敷ござの早島」と書かれた角柱の看板が見えます。側面には、「花ござの早島」と書かれています。駅舎内にあったベンチの上敷を思い出しました。

跨線橋に上がりました。跨線橋の上から見た駅前広場と早島の家並みです。

駅前の岡山駅寄りには白壁の観光センターと早島駅への取付道路(県道185号 早島停車場線)が見えます。取付道路は、国道2号(旧2号バイパス)の無津交差点と早島駅を結ぶ4車線の道路で、平成11(1999)年に改修されました。

4車線の取付道路と早島町の中心部のようすです。


跨線橋から見た宇野駅方面です。ホームと駅舎、待合室と駅名標があるだけのシンプルな駅の姿が見えます。
跨線橋から見た2番ホームの裏側(南東方向)の光景です。はるか向こうに円錐形をした常山(つねやま 標高307m)が見えます。常山は、その姿から「児島富士」とも呼ばれています。
戦国時代、早島から東に接する箕島(みしま)、妹尾(せのお)地域の南側には、”吉備の穴海”が広がっていました。この地を支配していた戦国大名、宇喜多秀家は、南に広がる干潟の干拓を思いつき汐止めのための堤防、"宇喜多堤(うきたつつみ)"を築きました。この宇喜多堤の築造から昭和30年代まで、南に広がる”吉備の穴海”を干拓する工事が進んで行きました。今では、広い干拓地が常山の麓から左側のあたりまで広がっています。

早島駅は早島町の前潟地区にあります。「前潟」の地名は、「前にある干潟を干拓してできたところ」ということから名づけられたといわれています。
前潟地区の干拓は、江戸時代前期の寛文7(1667)年に始まりましたが、宇喜多堤の度重なる決壊や干拓のための資金の不足など、大変な苦労を重ねて、延宝7(1679)年に完成しました。町内の前潟地区にある神社には、前潟干拓250周年を記念して、大正7(1918)年に建てられた「開墾記念碑」がありました。この写真は、神社にあった前潟干拓の「説明」の中に載せられていたものですが、「説明」には「早島戸川家の第13代当主、戸川安宅(やすいえ)氏も訪れている」と書かれていました。前列のシルクハットの男性が、早島(旗本領3400石)の領主、戸川家の”お殿様”だった戸川安宅氏だそうです。

1番ホームに普通列車が到着しました。早島駅を出た宇野方面に向かう列車は、この後、かつての海岸線に沿って走り、常山の左側の山麓を宇野駅に向かって進んでいくことになります。

駅舎から外へ出ました。駅舎前には「早島駅前広場」が整備されています。
公園内には、早島町の歴史や文化など町のようすを伝える「いま むかし」という「説明」がいくつかつくられていました。その中の一つに、「早島町の人々は干拓で生まれた新たな土地に、い草を植え、”早島表”と呼ばれる畳表を織り、”い草と畳表のまち 早島” の名声を得るまでになりました。”早島表”は近くを流れる汐入川を下り、児島湾から瀬戸内海を経て大坂や江戸に運ばれ、全国の人々に親しまれていました」と書かれていました。

早島の町並みを歩くことにしました。白壁の早島町観光センターの脇から、4車線の駅への取付道路を進み松尾坂交差点に着きました。この先、道路は松尾坂への登り坂になります。左右の通りは県道倉敷妹尾線(県道152号)で、”吉備の穴海”の干拓のために築かれた長さ50町(約5.5km)ともいわれる”宇喜多堤”があったところにつくられた道路だといわれています。 

交差点の左側にあった「説明」には、この先にある松尾坂から「町筋に入る道路は、坂の途中から南に下り、横町を通り駅筋に出ていた」と書かれています。 その道をたどって早島駅に戻ることにしました。交差点を直進し、松尾坂に向かって歩きます。「通学路」の標識の向こう側の電柱に、「金毘羅往来」と書かれた白地に横長の案内標識が掲げられています。

「金毘羅往来」の標識があるところで左折して進み、さらにその先の三差路を左折して進みます。

左折すると正面に灯籠がありました。灯籠の正面に「金毘羅大権現」と「市場村講中」、右側面に「吉備津宮」、左側面に「氏神両社」、裏面に「文化十四年丁丑 夏五月建立」。また、右側にある道標には、正面に「右 ゆかさん こんひら 道」、右側面に「左 きひつ宮 をかやま 道」と刻まれていました。

灯籠と道標の間にあった「説明」には、「海の神として信仰を集めている金毘羅宮への参詣が、全国的に流行したのは江戸時代後期の文化・文政時代(1804年~1829年)頃からで、由伽山との両参りで多くの参詣者を集めた。早島も金比羅宮への参詣道(金比羅往来)が経由していたところで、町内には宿や道標、灯籠がつくられ旅人の便宜を図ってきた」と、書かれていました。 灯籠には、遙拝所の機能もあったようで、二つの氏神(吉備津宮・金毘羅宮)の神社の名前が刻まれたところに向かって礼拝するようになっていたようです。
灯籠と道標の前を右折して進むと、右前に洋風の住宅が見えました。早島町指定文化財(平成6年11月15日指定)の清澄邸です。町内で唯一の明治の洋風建築だそうです。「明治の雰囲気を今に伝える貴重な建物」と「説明」には書かれていました。

清澄邸の角で左折して、早島駅に戻ることにしました。県道倉敷妹尾線を渡ります。写真は先ほど右側から左側に渡った松尾坂交差点方面です。
県道を渡ってしばらく歩くと、通りの先に早島駅が見えるようになりました。この道は「駅筋」と呼ばれています。「この通りには、い草や畳表の問屋や、旅館、食べ物屋が軒を連ね、大いに賑わっていた」と、「説明」には書かれていました。多くの建物が建て替えられていましたが、往事の雰囲気を残すお宅も残っていました。 
駅筋は、早島駅の正面につながっていました。

早島駅を訪ねるためにやって来た早島町でしたが、町内には歴史や文化に関する丁寧な説明が設置されており、早島の町についても十分理解することができました。楽しい旅になりました。





JR阿波川島駅と川島城

2021年01月09日 | 日記
JR徳島線の阿波川島駅です。木造駅舎ですが、改装されており、白壁が印象的なモダンな駅舎に生まれ変わっています。
この日は、阿波川島駅を訪ねるため、JR阿波池田駅に向かいました。

ホームには、徳島駅行きの1500形気動車の1501号車が出発を待っていました。1500形気動車はJR四国によって、旧国鉄気動車の更新のために製作された車両で、排気ガス中のチッ素酸化物を従来車両より60%削減した、環境に優しいクリーン車両として知られています。ワンマン運転の2両編成でしたが、後側の車両(1505号車)は「回送扱い」になっていました。どちらの車両も平成18(2006)年に新潟トランシス(旧新潟鐵工所)で製造されました。
徳島線は、JR土讃線の佃駅(三好市)からJR高徳線の佐古駅(徳島市)に到る全長67.5kmの地方交通線です。実際の運用は、JR土讃線の阿波池田駅とJR高徳線の徳島駅間で行われています。 阿波池田駅から、”四国三郎”の愛称をもつ吉野川の南岸を走ってきた列車は、阿波池田駅から1時間程度で、阿波川島駅の駅舎寄りの1番ホームに到着しました。


下車したのは私を入れて2名。列車はすぐに、次の西麻植(にしおえ)駅に向かって出発して行きました。列車が出発した後の向かいのホームには、長い待合室とベンチが見えました。
到着したホームの徳島方面の端まで来ました。徳島線は全区間単線、非電化の鉄道です。阿波川島駅を出ると、右にカーブしながら進んで行くようです。
JR徳島線は明治32(1899)年2月16日、徳島鉄道によって徳島駅~鴨島駅間が開通したことに始まります。
1番ホームから見た阿波池田方面です。白壁の駅舎の手前に駅名標、駅舎の先に、跨線橋が見えます。
明治40(1907)年、当時開業していた徳島駅~船戸駅間が国有化され、明治42(1909)年には、線名が「徳島線」と改称されました。さらに、大正2(1913)年には「徳島本線」と改称され、その後、大正3(1914)年3月、川田駅~阿波池田駅間が開通し、現在の徳島線の全線が開通することになりました。

駅名標です。阿波川島駅は、吉野川市川島町にあります。一つ前の学(がく)駅から3.5km、次の西麻植駅まで1.9kmのところにあります。
徳島本線は、その後、昭和62(1988)年、国鉄の分割民営化を経て四国旅客鉄道(JR四国)に継承され、翌年の昭和63(1989)年には、線名をもとの「徳島線」に再度改称されました。

阿波川島駅は2面3線のホームになっています。2番、3番のりばへは、跨線橋で移動することになります。跨線橋の手前の駅舎部分にはトイレがありましたが、黄褐色のドアには「使用を停止している」旨の張り紙がありました。
駅舎側の1番ホームを、阿波池田方面に向かって歩きます。
跨線橋の上から見た阿波池田駅方面です。 右側に1番線、中央が2番線、左側が3番線です。
阿波川島駅は、明治32(1899)年8月19日、徳島鉄道が鴨島駅と川島駅間で延伸開業させたときに開業しました。その後、大正3(1914)年3月25日に、「神後駅」と改称されましたが、翌年の大正4(1915)年7月1日、現在の「阿波川島駅」に改称されています。 すでに、開業から120余年の歳月が流れています。
跨線橋の上から見た川島町の光景です。駅舎の向こうの小高い丘の上に天守閣が見えました。

島式ホームに降りました。駅名標の先に待合室が見えます。ベンチが設置されているだけのシンプルなつくりになっていました。
中央に掲示されていた案内板です。国鉄時代を思い出させるような手書き風の案内板です。「穴吹 あわ池田 方面」と書かれています。
跨線橋に貼り付けてあったプレートには、「阿波川島駅こ線橋 国鉄四国総局 設計  着手 昭和59年12月18日  竣工 昭和60年3月27日」と記されていました。
跨線橋から見えた駅舎です。木造駅舎ですが、改装されていて、徳島側に駅舎への入口が見えます。
駅舎内です。 阿波川島駅は、かつては午前中のみ駅員が配置されていたそうですが、平成22(2010)年10月1日からは無人駅になっているそうです。
ホーム側から引き戸を開けて入ると、左側にカウンターと出札口がありました。右側には木製のベンチが置かれています。
ホームへの入口の手前には、自動券売機と時刻表がありました。運賃表は自動券売機の上の部分に標示してありました。
駅前広場からの駅舎です。
駅舎の右側には駐車場、その先に跨線橋が見えます。
駅舎の左側の広場には、吉野川市川島町の観光案内の説明板が設置されていました。川島町はもと麻植(おえ)郡川島町でしたが、平成16(2004)年、同じ麻植郡内の鴨島町、山川町、美郷村が合併して吉野川市となりました。当時、徳島県内で5番目の市だったそうです。市庁舎は鴨島町に置かれています。
駅舎前のようすです。 
跨線橋から見えた天守閣を見に行くことにしました。駅前から真っすぐ進みます。
東西の通りに出ました。ここで右折して進みます。旧街道の雰囲気を感じる通りです。
やがて、正面に天守閣が見えるようになりました。標高37.42mの吉野川に突き出た山塊に建てられています。 現在の鉄筋5階建ての天守閣が建てられたのは、昭和56(1981)年。 勤労者福祉施設として開館しました。

その先に、川島神社の鳥居と、幟が見えました。鳥居を越えると、ゆるやかな登り坂になりました。 現在、川島城の天守閣がある所は、戦国時代から江戸時代にかけて、川島城があったところです。しかし、かつての川島城の姿を伝える史料がなかったため、天守閣の入口の掲示物には、現在の城は「架空の城である」と書かれていました。
左側に川島神社が鎮座しています。
川島城にかかわる歴史を少し・・・、
南北朝時代の建武元(1334 )年、阿波国を支配下に収めたのは細川氏でした。時代は移り、戦国時代の天文22(1553)年、細川氏は家臣の三好長慶に滅ばされます。永禄5(1562)3月、三好長慶と弟の義賢は泉州久米田(岸和田市)へ兵を進めましたが、討ち死にしてしまいました。

川島神社の右側に、川島城の模擬天守閣がありました。どっしりとした存在感のある建物です。正面の階段を上って行きます。
JR阿波川島駅から南へ1.1km、四国山地の中腹(標高120m)に上桜(うえざくら)城跡がありますが、ここは、戦国時代に勝瑞城主、三好家の侍大将、篠原長房の居城でした。しかし、讒言に遭い、三好長治(三好義賢の長子)に攻められ、篠原長房は戦死し、上桜城は落城しました。

この年、三好氏の家臣である川島兵衛進(ひょうえのしん)が、元亀3(1572)年、上桜城址の北、標高50mの丘陵上に、本丸、二の丸、三の丸を擁する川島城を築きました。しかし、重臣を失った阿波国は、天正7(1579)年に、岩倉の合戦で、土佐の長宗我部元親に制圧され、川島兵衛進は阿波国の諸将一族と共に戦死しました。

その後、阿波国に入った蜂須賀家政は、天正13(1585)年阿波国の要衝の9ヶ所に、城塁の構築を命じ、手勢300人を配置して守らせました。川島城は、その”阿波9城”の一つとなり、川島城の城番には家老職の林図書亮能勝(後の道感)が配置されました。しかし、江戸時代の寛永15(1638)年、一国一城令の発布により廃城となってしまいました。

最近行われた耐震診断の結果、川島城は、3階と4階部分が耐震基準を満たしていないことが明らかになりました。そのため、平成31(2019)年4月1日から閉館の措置が採られています。
天守閣の隣にはテニスコートが整備されていました。この日は利用されている方はおられませんでしたが、多くの働く人たちに利用されて来たことでしょう。
テニスコートの北側には、吉野川がゆったりと流れています。川島城は、吉野川に突き出した山塊に築かれていたことがわかります。

JR阿波川島駅を訪ねる旅は、模擬天守の川島城の歴史を訪ねる旅にもなりました。 早い再開を待ちたいと思います。

JR美作江見駅と出雲街道

2021年01月01日 | 日記
JR姫新線は、兵庫県のJR姫路駅から岡山県のJR津山駅を経由してJR新見駅を結ぶ鉄道路線(地方交通線)です。姫路駅から新見駅まで直通する列車はなく、姫路駅~佐用(さよ)駅・上月駅間、佐用駅(兵庫県)~津山駅間、津山駅~新見駅間での区間運転が行われています。                                                                        
レトロな雰囲気が漂う駅舎です。JR姫新線の美作江見駅です。昭和10(1935)年6月に建設されたといわれています。 この日は、美作江見駅を訪ねるため、津山駅から佐用駅に向かう姫新線の気動車に乗車しました。

JR津山駅から乗車したワンマン運転のキハ120系単行気動車は、30分ちょっとでJR美作江見駅の駅舎側2番線に到着しました。キハ120系車両は、岡山気動車区に15両が在籍しており、津山線、姫新線、因美線、伯備線で運用されています。写真のキハ120ー334号車は、平成7(1995)年に新潟鉄工所(2003年から新潟トランシス社)で製造された車両です。

下車したのは私一人だけでした。下車すると気動車は、次の美作土居(みまさかどい)駅に向かって出発して行きました。 

美作江見駅は相対式2面2線のホームになっています。向かい側の1番ホームに待合室が設けられています。駅名標とベンチがあるだけのシンプルなつくりになっていました。

2番ホームを佐用駅に向かって進みホームの端に来ました。ホームに沿って集合住宅が建っていますが、その前にあるホームから出ていく通路に出ました。

通路は、ホームの端で1番ホームに行く構内踏切に続いていました。1番ホームは、津山方面に向かう大部分の列車が停車するようになっています。構内踏切から見える収穫の終わった田が途切れた先に、吉野川が右方面に向かって流れています。
1番ホームの佐用駅側のホームの端から見た美作江見駅の構内です。右側の2番ホームの先に駅舎が見えました。前回訪ねた同じ新姫線の林野駅もそうでしたが、この駅も長いホームを持っています。
1番ホームを津山方面に向かって進みます。集合住宅の向かい側に駅名標が設置されていました。美作江見駅は、一つ津山駅寄りの猶原(ならはら)駅から3.4km、次の美作土居駅へ5.4kmのところ、美作市川北にあります。1番ホームの向かいに側にも駅名標が設置されていました。 1番ホームの先に上屋が見えます。

ホームの上屋の内部です。 美作江見駅は、昭和9(1934)年11月、姫津(ひめつ)西線の東津山駅・美作江見駅間が開業したときに、終着駅として開業しました。そして、昭和11(1936)年4月、美作江見駅と姫津東線の佐用駅間が開業し、姫津東線が姫津西線を編入して姫津線と改称されました。さらに、同年11月に、姫路駅・新見駅間の路線名が姫新線と改称されました。
待合いスペースから見た2番ホームです。正面に駅舎の改札口とベンチが見えました。

1番ホームの上屋付近からの津山駅方面です。右側の2番ホームに駅名標が見えます。その向かいの1番ホームにもほぼ同じ位置に駅名標が設置されています。駅名標も駅舎もホームの上屋も、2つのホームのほぼ同じ位置に設置されていました。
津山駅側のホームの端のようすです。1番線から側線が分岐し、その先で2番線と合流して、津山方面に線路が延びています。
側線は佐用駅方面に向かって延びています。
美作江見駅のある旧英田郡江見町は、昭和28(1953)年、土居町、福山村、粟井村、吉野村と合併して英田郡作東町となり、平成17(2005)年、作東町が周辺の5町村と合併して、美作市となりました。江見の地域は、米や野菜、タバコなどの生産や、酪農、養豚、林業なども盛んで、吉野川流域の物資の集散地として栄えていたところでした。
側線の車止めです。 側線は、多くの物資が貨物列車に積み込まれ輸送されていた頃の面影を、今に伝えています。

ホームの佐用方面の端まで戻りました。佐用駅行きの列車は、美作江見駅の東側で大きく左にカーブしながら荒堀踏切(姫路駅から62k739m)を通過して行くことになります。 2番ホームから駅舎に向かいます。

駅名標が吊り下げられている改札口から駅舎内に入ります。
改札口の左側にはベンチが置かれ、待合いのスペースになっています。ベンチ脇には、ドアが開いたままになっていましたが、水洗トイレが設置されていました。
改札口の脇には時刻表がありました。津山駅・上月駅間2往復、津山駅・佐用駅間7往復、他に、津山駅から来て美作江見駅で折り返す列車が2往復ありました。この日は、下車してから誰ともお会いしていませんでしたが、平成30(2018)年の1日平均乗車人員は53人だったようです。

改札口に向かって左側には出札窓口がありました。美作江見駅は、切符の販売だけを個人または法人に委託する簡易委託駅になっています。

駅前広場に出ました。開業の翌年、昭和10(1935)年6月に完成した木造の切妻造りの駅舎です。下見板張りの外壁が、この駅の長い歴史を伝えてくれています。
駅舎の右側にはトイレ、駅舎の左側に小庭園が設けられていました。

駅名標が出入口の上の屋根に掲げられていました。
駅前広場の一角に、記念碑が立っています。「姫新線全通四十五周年記念」(昭和56年12月造園)の記念碑です。 姫新線に寄せる地元の人たちの思いが伝わって来ました。
駅への取付道路の起点になっているのが、姫新線と平行して走る国道179号です。左方向が津山方面に、右方向が佐用方面になっています。国道179号は、”出雲街道”と呼ばれています。
かつての出雲街道は、播磨国の姫路から出雲国の松江に到る街道でした。江戸時代には、松江、広瀬、勝山、津山の各藩主の参勤交代の道でもありました。歴代の松江藩主は溝口宿、新庄宿、津山宿、佐用宿で宿泊しながら姫路に向かったといわれていますが、その他、土居、勝間田、坪井、久世、勝山、美甘、新庄にも宿場が置かれていました。

国道179号に出ました。津山方面の光景です。
出雲街道は人の移動だけでなく、物の移動にも使われました。山陰で盛んであったたたら製鉄でつくられた鉄製品や、砂鉄、朝鮮人参、港で陸揚げされた水産物に宍道湖のうなぎも、出雲街道で運ばれました。全長53里(212km)の街道でした。

ここから、江見の町に残る旧出雲街道の道筋を歩いて見ることにしました。
駅への取付道路から国道179号を右折して、佐用方面に向かって進みます。右側の通りの「ヤマザキパン」の看板の向こう側に道路標識の裏側が見えます。
左側には、コーヒーショップの3段の看板があります。看板の少し先を左折して進みます。
右側に「今在家駅前作業場」という看板を掲げた施設を見ながら進みます。「この作業場にはこの道が出雲街道の道筋であった」という張り紙が掲示されていた時期もあったようですが、この日は見ることができませんでした。

墓地の手前に六地蔵が祀られていました。旧街道をさらに進んで行きます。
その先の旧街道の光景です。出雲街道を旅する人たちは次の勝間田宿をめざして、この道を歩いていたことでしょう。
ここで引き返して、江見の町の中心部に向かって歩くことにしました。

写真の右側に国道へ出ようとする白い車があるところから国道179号を渡りました。津山方面を撮影した写真です。先ほど、標識の裏側が見えると書いた看板がありました。表側は、美作江見駅への道が示された標識になっています。この標識の手前で国道179号から分かれます。
国道から旧街道に入りました。写真は振り返って国道179号側を撮影しました。
国道から、旧街道の雰囲気を残す通りを進みました。この写真も振り返って、国道179号に向かって撮影しました。この先で国道から下ってくる道と合流します。
国道から下ると、荒畑踏切の次にある江見踏切で、姫新線を渡ることになります。美作江見駅から佐用駅方面の2つ目の踏切になります。「江見踏切 62K645M」と書かれています。姫路駅からの距離のようです。
江見踏切の先で旧街道は、東西に流れる吉野川を大還橋(たいかんはし)で渡ります。
大還橋から見た左(上流)側に、大還橋と並ぶようにもう一つ橋が架かっていました。現代の出雲街道である国道179号に架かる「大還橋」です。幅50mぐらいの間隔で新旧二つの大還橋が並んでいました。
吉野川を渡った対岸の旧街道をさらに南に進みます。旧街道らしい家並みが続くようになりました。

袖壁(うだつ)のある邸宅の前に交差点がありました。

交差点の右側です。正面に赤い屋根の作東中学校が見えます。旧街道を右折して進みます。

作東中学校の手前左側に作東公民館がありました。花壇の中にかつて出雲街道にあった道標が移設されていました。 左側面には「右 備前岡山 左 姫路」、正面には「右 ・・・ 左 因州」、右側面には「左 津山 雲州」と記されていました。「・・・」の部分は読むことができませんでした。

旧街道に戻ります。再び南に進むと、東西の通りに合流しました。左折すると、すぐに、再度、南方向に向かう通りがありました。枡形になっていました。

再度、南に向かって歩きます。集落が途切れる手前にお店があったので、お店の前から撮影しました。
お店の先は変形の交差点になっていました。旧出雲街道は、ここから正面にあるやや道幅の狭い、登り坂の道になり、次の土居宿に向かっていくことになります。

JR美作江見駅と町に残る出雲街道の道筋を歩いてきました。駅でも旧街道でも、誰とも出会うことがありませんでした。地元の人のお話をお聞きすることができなかったのが心残りでした。