トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

しまなみ海道を歩きました!

2013年09月21日 | 日記
しまなみ海道は、瀬戸内海をまたいで四国にわたる本州四国連絡道路の尾道・今治ルート。正式には、西瀬戸自動車道と呼ばれています。瀬戸中央自動車道(児島・坂出ルート・昭和63(1987)年4月10日開通)、神戸淡路鳴門自動車道(平成10(1998)年4月5日開通)に続いて、3ルートの最後、平成11(1999)年5月1日に開通しました。風光明媚な芸予諸島を島伝いに結ぶ自動車道ですが、自転車歩行者専用道路が併設されているのが大きな特色です。

今回は、岡山市に本社を置くバス会社、両備ホールディングスの企画でした。リュックサックならぬ”リュックサークル”の歩く旅です。約100名の方とともに、生口(いくち)島のサンセットビーチから多々羅大橋で大三島へ向かい、さらに大三島橋をわたって伯方(はかた)島の”はかたS&Cパーク”までの14.2kmを歩きました。この案内図は、案内図の中の「現在地」であるサンセットビーチに掲示されていたものです。

サンセットビーチの浜辺です。ここがスタート地点でした。

ストレッチをすませて、出発です。ここで思いがけない方が私の姿を見つけてくださいました。かつて勤務していた岡山県玉野市でお世話になった先輩でした。思いがけない出会いのため、ずいぶん楽しい旅になりました。

10時40分、手作りの出発ゲートから歩き始めました。玉野時代の思い出話や懐かしい人の近況をお聞きしているうちに25分が経過しました。

白い建物はトイレです。ここで、国道から離れます。その後は、前方の山の中腹にあるガードレールの道を歩くことになります。

”リュックサークル”の案内マークにしたがって、レモンの果樹園の中にある山道を、多々羅大橋に向かって登っていきます。コースの要所に張られていた案内マークには、みんなずいぶん助けられました。

植えられていたレモンです。明治時代に始まった、ここ瀬戸田町のレモン栽培は、昭和38(1963)年には日本一の産地になり、現在では「皮まで食べられるエコレモン」として全国に知られるようになっています。

山の中腹から見た多々羅大橋。対岸の大三島が霞みでよく見えません。

多々羅大橋の入り口にあった遮断機です。風雨が強い日は、この遮断機が降りてきて、進入禁止になるそうです。

最後に階段を上って多々羅大橋に上がります。「生口島南」のインターチェンジから2kmのところでした。

しまなみ海道の自転車歩行者専用道路に上がりました。多々羅大橋の手前にあったのが自転車の料金所です。多々羅大橋をわたる料金は100円でした。係員の方はおらず、利用者が料金箱に払い込むシステムになっています。しまなみ海道の9本の橋と尾道大橋(広島県道路公社の管理橋)を含めて、合計 510円かかるそうです。歩行者はもちろん無料です。

そのまま、自転車歩行者専用道路を歩きます。多々羅大橋の上で、すぐサイクリングの方とすれ違いました。この日は土曜日でしたので、この後も、たくさんの方とすれ違うことになりました。

多々羅大橋に2カ所あった「多々羅鳴き龍」。ガードレールにおいてある拍子木を打つと鉄塔に反響して、龍の鳴き声のように聞こえるとか、私は龍の鳴き声を聞いたことがなかったので定かではありませんが、確かに反響は大きいかったようです。

楽しそうに反響を楽しんでおられた女性の参加者です。

橋の上で、広島県から愛媛県に入りました。このあたりの島々から架橋運動が湧き起こったのは、昭和20(1945)年、この日のゴール地点のある伯方島の木浦港を出た第十東予丸の沈没事故(死者397名)でした。そして、12年後に、スタート地点があった生口島の瀬戸田港を出港してすぐに起きた第五北川丸沈没(死者113名)事故の後からは、架橋は島民の悲願ともいうべきものになっていきました。

県境から15分後に左折しました。道の駅”多々羅しまなみ公園”に向かうためです。

これは、多々羅大橋の上から見た道の駅です。遠くに霞んでいます。ずいぶん高いところにあるのですね、多々羅大橋は。

多々羅大橋に上った時と同じように、坂道をぐるぐる回りながら下っていきます。

道路上にあった自転車道のマークです。

道路脇に展示されていた海上自衛隊のヘリコプター。

要所に立っておられた”リュックサークル”のスタッフです。

11時55分、道の駅に着きました。スタートから1時間15分かかりました。ここで、いただいていたお弁当を食べました。

道の駅の近くにあった案内板です。この後は、大三島を南に下り大三島橋を渡って伯方島にむかいます。

12時20分頃出発しました。

道の駅を出て、すぐ、左側にあった甘崎城跡です。海中の島に建てられていました。説明によれば、「天智天皇10(671)年、唐の軍隊が侵攻してくるのに備えて築城された、日本最古の水軍城」とのことでした。663年、白村江の戦いで、唐と新羅の連合軍に敗れた大和朝廷は、日本への侵攻に備え、瀬戸内海から近畿地方にかけての各地に山城を築城しました。甘崎城もそのときに築城されたもののようです。

多々羅大橋の上から見えた甘崎城跡です。霞んでいて幻想的な雰囲気を感じました。

その先の堤防に描かれていた、地元の中学生の壁画です。

ここからのコースは、国道の歩道部分をひたすら歩きました。単調なコースで、先輩も私も無口になりました。道路からの照り返しに汗をたっぷりかきながら、ひたすら歩きました。国道を歩くこと50分、駐在所の前で国道を渡り、大三島橋に向かう坂道へと入っていきます。前を行く参加者も皆さんお元気でした。

サイクリングロードのマークを見ながら坂道を登っていきます。下っているように見えるのは、振り返って撮影したからです。

入り口にあった自転車の料金所です。追い抜いていったサイクリングの方が、走りながらコインをぽーんと投げ込んで行きました。大三島橋の利用料金は50円でした。

駐在所の前から、さらに20分。大三島橋が見えました。さらに5分ほどがんばって、橋に近づいたところで足を止めて休憩しました。一緒に歩いた先輩は、まだまだお元気でした。

大三島橋をのぞむ鼻栗展望台に向かう道から分かれて大三島橋に入りました。

対岸の伯方島の海岸線です。まだもやがかかっているような状態でしたが、遠くに海と島が見える風景には癒されます。元気も出ました。

伯方島に入りました。大三島橋を渡りきると、ぐるっと回る道を通って山を下って行きます。めざすは、ゴールの”伯方S&Cパーク”です。

途中くぐった大三島橋の下で休憩し、シャツも着替えました。日陰になっていて、ここだけは涼しかったです。

さらに下り坂になっている道を歩きます。休憩してから5分ほどで、しまなみ造船の工場の脇に到達。建造中の船舶を見ながら進みました。このあたりは、伯方町伊方です。

巨大なクレーンに「しまなみ造船」の名前がありました。

造船所の工場に沿ってカーブします。工場の建物の真ん中あたりで左折して、さらに歩きます。何かゴールに近づいてきたという予感がします。

前方にあった伯方大橋を見ながら進んでいきます。ゴールが見えてきました。

ここは、伯方S&Cパーク(「スポーツアンドカルチャーパーク」)です。体育館と文化センターがある広々とした一画でした。 伯方ビーチにありました。

ゴールです。14時40分でした。ここまで、出発してからちょうど4時間かかりました。参加者のなかには、バスガイドさんのもつテープを切ってゴールする方もおられました。写真は、記念撮影中のご夫婦です。

ゴール脇にあった道の駅。”マリンオアシスはかた”です。目の前の駐車場には、帰りに乗車するバスが待っていました。

生口島のサンセットビーチから大三島を経て伯方島のS&Cパークまで、14,2kmを4時間かかって歩く旅でした。私にとっては、以前、旧井笠鉄道本線線路跡の笠岡・井原間の18km(2011年10月25日の日記)を歩いた時に次ぐ長さでした。しかし、暑さとしんどさは、断然今回のコースの方が上でした。そのため、達成感も少しありました。 先輩と一緒に歩いた旅は、疲れましたが、一方でなかなか楽しいものでした。 後日、先輩から、そのときの写真も届きました。皆さんに、感謝です!


廃線になった鉄道を復活させた町、可部の町並みを歩く

2013年09月13日 | 日記

標高339mの高松山。この高松山の麓、広島市を流れる太田川とその支流の根の谷川にはさまれた地に発展した安芸の国山県郡可部。この高松山に築城した熊谷直時が、承久3(1221)年9月に入部してから、その市場集落として発展しました。江戸時代になって、寛永15(1638)年に広島に入封した浅野氏の時代に、可部の町が成立しました。出雲や石見の国と結ぶ街道が、ここから広島に向かっていました。広島藩では、物資の流通上欠かせない町として、広島、尾道、宮島の三町に町奉行所が置かれていました。可部は、実質的に町場としての機能を持っていた町でした。私は、この日、可部の町を旧街道に沿って、北に向かって歩くことにしていました。

JR広島市から山陽本線の横川駅でJR可部線に入って35分。JR可部駅に着きます。現在は広島市と合併して、広島市安佐北区可部になっています。JR可部線は、明治44(1911)年横川駅と可部駅間が開通しました。そして、その後、昭和44(1969)年三段峡駅まで延伸しました。

可部駅に着いたホームの先に線路の終端部分がありました。行きどまりです。可部駅は、現在の可部線の終着駅になっているのです。平成15(2003)年、可部駅から三段峡駅の間が廃止されたからです。

可部駅の西側は、バスターミナルになっています。その手前に線路が見えます。

可部線の列車は、ホームの向かって右側の線路に入って停車しますが、向かって左側の線路はさらに延びています。

バスセンターの裏を通って近くまで行くと、線路の終端部分が見えました。ここで、線路は中断していました。が、その数メートル先には、再び線路が敷かれて残っていました。

さらに進むと、通路と交差します。通路部分にはコンクリートが敷かれていて線路より道路が優先されています。

その先の道路との交差部分もコンクリートが敷かれ、道路の手前はパイプで遮断されています。
最初の道路との交差点にあった掲示です。「可部駅ー河戸駅間の電化延伸時には撤去します」という安佐北区役所からの案内が掲示されています。可部線は、可部駅から先は廃線になってしまいましたが、これから電化されて復活するというのです。そのときには、この道路が廃止になり撤去されるということなのです。

先ほどのパイプの先の方向です。雑草の中を線路は続いています。

平成25(2013)年2月、広島市とJR西日本の間で、旧河戸駅付近までの1.6kmの電化延伸が合意されました。駅舎や線路などは広島市が整備して所有、運行と保線管理は、JR西日本が担当することになっています。延伸開業は、平成27(2015)年の春になるそうです。廃止路線が復活した例はこれまでなく、全国初の快挙ということになります。

もう一度、バスセンターの方から可部駅に戻ります。改札口の中にあった「かべ」の姿を見ながら、可部駅の東側に出ます。

そこから50メートルぐらいで、可部の旧街道に出ました。旧街道を右に向かって歩き、広島方面からの町の入り口に向かいました。

この写真は、広島方面から北に向かって可部の町に入る入り口です。「法務局可部出張所」のあるあたりから、可部の町方面を撮影したものです。旧街道は、左の国道54号線から分かれ右の踏切を渡って進んでいました。

ちょっと、話がそれますが、旧街道の入り口にあった自動販売機です。右側の白い自販機がなかなかおもしろかったのです。

売っているものは、軍手、リストバンド、使い捨てマスクなどです。価格帯は100円~200円ぐらいでした。このような自販機を、私は初めて見ました。

国道54号線に比べて静かな旧街道を、北に向かって歩き始めます。

旧街道は、この先でゆるやかに右折します。街道の真ん中に見えるホテルの看板。この先を左に進むと可部駅です。先ほどは、駅からこの道を町の入り口まで歩きました。ここまで帰ってきたことになります。通りの右側を流れる根の谷川の土手から入ってくる車が多く、このあたりから賑やかな通りになっています。

その先の右側にあった「明神社」。神社の鳥居には「大明神社」の扁額が掲げられていました。このあたりから宿場町、可部の中心部になります。可部宿は、江戸時代には、宿場町としてまた在郷の市場町として繁栄しましたが、文政初(1818)年には、街道をはさんだ東西50間、南北8町16間の範囲に、243軒の家並みが続き、932人が居住していました。

根の谷川に向かう道が分岐していたところに「菱正宗」の本社がありました。現在の可部二丁目です。可部は、出雲からの鉄を使った鋳物の町として知られていました。正徳5(1715)年、鋳物屋からの失火で多くの民家が焼失しました。また、元文4(1739)年と享保5(1745)年の2回、それぞれ焼失民家129軒、268軒という火災に遭いました。現在の民家は、この後再建された防火を考えた商家建築になっています。瓦葺きの屋根、漆喰塗りの土蔵づくり、袖壁にはうだつがついていて、2階の窓は鉄格子戸になっています。また、うだつには左官職人が工夫した鏝絵(こてえ)が描かれています。

その先の右側に、時代を経たお宅がありました。うだつの漆喰ははがれ雨樋は屋根で支えられていました。現在は「てづくりスペースなかがわ」です。残念ながら、町並みには説明や案内がないため、建物の歴史や経緯など詳しいことがわかりません。

お隣には、「中川醤油醸造所 電話2449番」と書かれた大看板が掛かっていました。醤油の醸造所です。

その先が、菱正宗の醸造所です。赤い釉薬瓦が美しい建物でした。

さらにその先が、増井醤油醸造場。手入れがなされた新しい民家です。

その先の左にあった桐原山品窮寺(ほんぐうじ)を過ぎると、左に道路が分岐しています。江戸時代の小路が拡幅されたものでしょう。

その角にあった福美人安国商店です。こちらは醸造所ではなく販売店のようでした。

商店の前に、石の道標が立っていました。「右へ 三次ヲ経テ 出雲へ通ス」、「左へ 飯室ヲ経テ 加計ヘ通ス」。裏面には「大正15年11月」と刻まれていました。これからもわかるように、可部は出雲街道、石見街道の分岐点であり、出雲、石見、芸備地方から人足や馬車で運ばれてきた荷物が、可部で船に積み替えられて広島に送っていた積み替えの町でした。道標に刻まれた案内をみると、置かれていた場所はここではなかったのではないかとも感じました。案内がないので、確かなことはわかりませんが・・。

雲の模様の鏝絵が残る、入江呉服店の駐車場の隣の建物を過ぎると、正面に胡子堂がありました。銅板葺きの屋根、大きな祠です。旧街道はここで左折します。

胡子堂の手前にあった石製の台座。「株式会社 可部貯蓄銀行」と彫られています。日露戦争後に建立され、警鐘台として使われていたようです。「火事、空襲、招集、何かあるとカンカン鐘を鳴らしていた。伝えたい内容によってたたき方が違っていた」(平成25年9月9日付け毎日新聞)ということです。鐘は戦後の金属不足のため失われたそうです。

胡子堂のところで旧街道は左に曲がり、街道によく見られる枡形に入ります。近くにあった消防機庫には、「折目」の名がありました。この枡形は「おりめ」と呼ばれています。

折目にあった木谷自転車店の建物。間口7~8間ありそうな大きな建物でした。毎日新聞に書かれていた記事は、ここのご主人さんが語られたもののようです。

旧街道は、100mぐらいで再度民家にぶつかり、右に折れて進んでいました。

その角にあった民家です。かつての可部の商家はこんな建物だったろうと思わせるお宅でした。格子に覆われた、外見は地味な建物だったのが、可部の商家だったようです。

可部三丁目に入ります。折目を右折して50mほど進んだところに、「可笑屋」(かわらや)の建物がありました。150年前の古民家を3期に分けて修復、補修して、平成18(2006)年にオープンしたものです。

通り過ぎてから振り返って見た可笑屋です。モダンな建物に改修されていました。

可笑屋の隣の三木邸。可笑屋と、この先にある永井邸とともに「ひろしま街づくりデザイン賞」を受賞しています。このあたりから、かつての商家の面影を残すお宅が残っていました。

その先にあった崩壊寸前の商家の建物です。崩壊を想定して、旧街道との間に仕切りが作られていました。「古美術商」の看板が見えました。住む人もおられなくなっていたのでしょう。

佐伯商店の建物です。整備がされていて、鏝絵の梅?の花がくっきりと浮かび上がっていました。

通り過ぎてから振り返ると、旧街道沿いの民家らしい奥行きのある建物が見えました。

お好み焼きのタケモトさん。その先に「ひろしま街づくりデザイン賞」を受賞した永井邸がありました。かつての面影を残すお宅に改修されています。

交差点になっているかつての小路の先に、エディオンの看板を掲げたお宅がありました。

その先が、旭鳳酒造の醸造場です。可部二丁目で見た「菱正宗」に続く酒造場です。かつては、町内に4軒あった造り酒屋も、現在は2軒(もう一軒は菱正宗)になってしまったそうです。創業は慶応元(1865)年。今も、その当時の建物が残っています。「可部を流れる伏流水は上質な軟水」だそうで、地下27mから汲み上げた水で醸造を続けています。毎日新聞の記事にはこう書かれていました。

友貞神社です。このあたりが、可部宿の北への出口にあたるところです。旧街道と平行してここまで下ってきた根の谷川も、ここからは旧街道から離れ、町の右(東)側を南に向かって流れていきます。

根の谷川の対岸にそびえている高松山。冒頭に書いたように、熊谷直時がこの山に築城したことから、可部の街が形成されました。ここから見ると、標高以上に高い山という印象を受けます。はやり、武将が目をつけるだけのことはあります。

宿場の外れから見た北方向の光景です。かつての旅人は、ここから出雲方面に向けて旅立って行きました。

廃線になっていた可部線が一部復活する! 
前代未聞の快挙によって、NHKや毎日新聞で、可部の町が最近相次いで紹介されました。私も機会があれば訪ねてみたいと、ずっと思っていました。 かつて読んだ、1980年代に出版された地誌の本に掲載されていた可部には、「宿場町可部を代表する建築物として、町の北端近くあった入江邸がある」と書かれていました。「18世紀後半の建物で、可部にはめずらしい妻入りで、入母屋屋根の正面に庇を設けた外観を持っていました。内部は屋根裏を吹き抜けにした構造だった」そうです。残っていればいいなと思っていましたが、予想通り、すでになくなっていました。可部は、魅力的な建物がたくさん残る町でした。JR可部線が電化して復活する2年後には、また訪ねてみようと思いました。








リニア中央新幹線に夢をかける町、旧中山道中津川宿を歩く

2013年09月04日 | 日記
中山道の33番目の宿場贄川宿から43番目の宿場馬籠宿の間は木曽路と呼ばれています。「すべて山の中」の道でした。木曽路を過ぎるとおだやかな平地の道になります。中山道を京都に向かう旅人は、険しい山道を越えて一息ついたのではないでしょうか。中山道の38番目の上松宿と39番目の須原宿を歩いた後、45番目の宿場である中津川宿を歩きました。

JR中央本線の中津川駅に着きました。情報をいただくために、中津川観光センターに向かいました。

駅に隣接している中津川市観光センターでいただいた資料です。「島崎藤村 初恋の道 わらじ旅」と書かれたパンフレットでした。やはり「馬籠がメインか!」と思いましたが、中をみて驚きました。

中津川宿沿いの見どころが、手書きの民家の絵で表現されていました。よくわかる資料でした。

パンフレットを手に、さっそく、宿場の入り口に向かいました。駅前通りをまっすぐ進み、2ブロック先を左折、旧中山道を江戸の方向に向かって歩きました。15分ぐらいで、高札場が復元されている茶屋坂に着きました。中山道がこのルートになったのは、寛文3(1663)年。それ以前は「東側に回るゆるやかな下り坂が続いていた道」だったそうです。

高札場は、多くが宿場の入り口付近につくられ、法令や掟などが板に大書きされて掲示されていました。高札場は、各宿場間の里程を測るポイントになるもので、領主の許可なく移転ができなかったそうです。復元された高札場には、正徳元(1711)年に公布された高札の内容が掲げられていました。ちなみに、墨が薄くなっても、許可なく上書きすること(墨入れ)はできなかったようです。確かに、勝手に書き替えられるとまずいですよね。

高札場にあった説明には、「高札場は、40m隔てた通路の左側にあり、高札は道路に面して掛けられていた」と書かれていました。一方、いただいたパンフには「高札場より、10m程上った北側に街道に面して立てられていた」と書かれています。40mなら坂の上の道。10mなら写真の右側にある石段にところになります。どちらなのでしょう? ただ、現在、中山道を歩く人は、10m先を上って、新しくできた道路に向かい、道路を横断陸橋で渡り、岐阜県立中津高等学校の前を歩き、江戸寄り一つ前の落合宿方面に向かって歩いていきます。

旧中山道の案内です。この矢印は、落合宿方面から横断陸橋を渡った後、高札場に向かって行く道に書かれていた案内です。左下に、復元された高札場がありました。

中津川宿を歩きます。中津川宿は、天保14(1843)年には、家数228間、人口923人。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋29軒(「中山道宿村大概帳」)が置かれていました。高札場が復元されていた茶屋坂を下り淀川町に入ります。

淀川町にあった黒漆喰の立派な蔵です。肥料を商っておられるお宅です。

肥料の看板です。なつかしいですね。もちろん、江戸時代にはこの看板はなかったはずですが。

広い道路の交差点になります。右に向かうと中津川駅方面。この写真は駅方面を撮影しました。

交差点をまっすぐ越えると、現在の東新町です。入り口にあった「すや」。「栗きんとん」で知られる中津川では知らない人がいないといわれるぐらいの有名店です。元禄(1688~1704)年間創業。創業者は武士だった人で、酢の醸造をしていた「酢屋」でした。7代目が菓子を売り出し、8代目が「栗きんとん」を名物にしたそうです。

「すや」の向かい。愛知銀行の駐車場の角に「前田青邨生誕地」の碑がありました。明治・大正・昭和の時代を通して日本画壇の中枢で活躍しました。特に、法隆寺金堂の壁画の再現や高松塚古墳の壁画の模写で全国的に知られています。

旧中山道新町の現在の通りです。新町は、江戸時代、商家が並んでいたところです。現在は緑豊かな美しい通りで、商店や金融機関の支店が並んでいるところです。

このビルは、大正時代末期に、町営質屋が置かれていたところだそうです。街道の左側に残っていました。

その先の左側にあった「間(はざま)家大正蔵」です。間家は白木(外皮を取った材木)や白木製品、塩の販売で財を成し、尾張藩の御用商人もつとめた「東濃一の豪商」でした。屋敷は隣の中津郵便局も含めた敷地1000坪近くあったといわれています。「大正蔵」は大正3(1914)年3月建造で、従来の土蔵造りと明治以降のコンクリート造りが混在したつくりで、岐阜県有数の建物といわれています。敷地内に、中津高等女学校(現県立中津高等学校)の創立者、間杢右衛門の胸像がありました。

旧街道の右側に、休憩所風の施設がありました。中津川宿往来庭です。もとは観光案内所的な建物だったのでしょうか? 冠木門を入ると、正面に蔵屋敷風の建物があります。トイレです。

入ると両側に、町屋風の建物がありました。中にはベンチもあり休憩のためのスペースのようでした。

しかし、外からみると、両側の建物の奥行きはなく、ほとんど壁だけと言っていいつくりでした。

往来庭を過ぎると、すぐ四ツ目川橋を渡ります。下を流れる川は四ツ目川。過去にたびたび氾濫し、現在の川筋が四つ目ということで、この名がつきました。かつての街道は、現在の水面近くの高さだったようです。また、橋は長さ5間6尺(約11m)、幅9尺(約3m)だったようです。現在の高さになったのは、昭和7(1937)年、水害から2年後に行われた護岸工事のときだったそうです。

四ツ目川橋を渡ると、本町になります。四ツ目川沿いに常夜灯がありました。もと、本町にあったもので、嘉永元(1848)年に建てられたものです。本町は宿場の中心地で、本陣、脇本陣、問屋(人馬の継立てを行う役所)など主要な施設が置かれていました。

本町を進むと、左側に「脇本陣跡」の碑が建っています。その続きの「中津川市中山道歴史資料館」があるNTTビルのあたりが、中津川宿脇本陣があったところです。脇本陣は、森家が代々つとめていました。

「歴史資料館」は、この日休館日でした。森家の先祖は、安土・桃山時代に活躍した森長可の一族で、貞享元(1684)年頃、中津川に移り住んだといわれています。そして、享保3(1803)年頃から、中津川宿の脇本陣と問屋をつとめるようになりました。天保14(1843)年、「中山道宿村大概帳」がつくられた頃には、森孫右衛門がつとめていました。

歴史資料館を過ぎるとすぐ左折。資料館の裏手に回ります。

駐車場の脇に「中津川宿脇本陣跡」と書かれた建物があります。こちらは開館していたので入館しました。

脇本陣の御上段の間が復元されていました。中は資料館になっていました。明治5(1973)年10月1日、森家の中に郵便のための施設がつくられ、森孫右衛門が初代中津川郵便取扱所長をつとめました。また、明治13(1981)年、明治天皇もここに立ち寄っています。

脇本陣の向かい、旧街道の右側に本陣跡がありました。市岡長右衛門が問屋も兼ねてつとめていました。本陣の入り口に、五軒続きの長屋があり、その中央部の1軒分が本陣の門になり、右手の1軒分が問屋になっていました。その奥に、建坪283坪の本陣がありました。文久元(1861)年10月29日、江戸幕府の14代将軍徳川家茂に嫁ぐ皇女和宮が、この本陣に宿泊しました。

本陣跡の斜め向かい、脇本陣と道路をはさんだ隣に、中津川村の庄屋をつとめていた肥田九郎兵衛の屋敷跡がありました。現在も、かつての面影を残す建物が残っています。うだつもある建物の構造体は江戸中期にさかのぼるといわれています。屋号は”田丸屋”、当主は代々九郎兵衛を名乗っていました。江戸時代の後期からは旅籠を営んており、明治26(1893)年には恵那山に登ったウエストンも宿泊しています。明治30(1893~)年代には、曽我家が建物を手に入れ、中津川の最初の医院になったということです。

先に進みます。本町には、本陣、脇本陣に代表される旅籠など中山道関連の店が多かったといわれていますが、多くが兼業で農業や商業を営んでいたそうです。今も旧街道の脇に水路が残り、清らかな水が流れています。

さらに進みます。枡形に入ります。突き当たりを左折して進みます。横町です。

横町には、かつての大商人の邸宅が残っています。中津川宿観光のハイライトです。

右側にあったのが御菓子処 川上屋。創業元治元(1864)年の老舗です。

川上屋の入り口に道標が建っていました。「右 木曽路  左 奈ごや  凡 23里」と刻まれています。もともとここにあったものではなく、どこからか運んで来たものといわれています。

十八屋(間家)です。「尾州藩美濃国恵那郡中津川宿」の看板が掛かっています。江戸時代中期の建物です。文久元(1861)年、皇女和宮が将軍家茂との婚儀で江戸に下るとき、ここに京都方の供が宿泊しました。また、元治元(1864)年11月、水戸天狗党が通過したとき、和田峠の戦いで負傷した武士を、平田学の門人であった主人の間武右衛門がかくまったといわれています。やがてこの武士は死亡しますが、その遺品が残っているそうです。

十八屋の先が白木屋(横井家)です。天保13(1842)年の建築です。江戸時代の中津川の商家の面影を残す建物です。ここには、外からは見えない中二階の部屋があり梯子で登り下りしていたそうです。現在は、観光客の休憩所として使われています。

十八屋の向かいにあった天満屋(吉井家)です。格子や低い軒先と瓦のない屋根など、かつての中津川宿の家並みを今に伝えています。大田蜀山人も「屋根の上には大きな石をあげて屋根板をおさえる。壁の土も凍って落ちるのだろうか、板で囲っている」(「壬戊紀行」」)と書いているように、寒さが厳しいので、瓦を使わず石で屋根を押さえて、壁も凍って落ちてしまうので板で囲っていたということです。吉井家は馬籠(まごめ)の出身で天満屋という小間物を扱う商家でした。

天満屋(吉井家)の先が中川家(杉本屋)です。中津川村や子野村の庄屋をつとめていた中川萬兵衛の屋敷の一部です。屋敷は、かつて、この先一帯に広がっている大邸宅でした。明治になって、原作吉氏が購入し呉服商を営んでいたそうです。大正年間には薪炭、荒物商となりました。昭和30年代の初めまで江戸時代の面影を残す帳場が残っており、ここを舞台に映画「青い山脈」のロケも行われたそうです。

中川家の隣の民家です。うだつがつくられています。

その先で行き止まりになります。正面は、清酒”恵那山”の蔵元間酒造です。旧街道は、ここを右折します。

中津川宿下町に入ります。創業が文化(1804~1817)年間といわれる間酒造の建物が続いています。「全国清酒観評会」で金賞をたびたび受賞している蔵元です。

さらに、次の大井宿方面に向かって進みます。建物はすべて建て替えられており、このあたりには、旧街道の面影をたどることのできる建物はまったく残っていませんでした。

その先に、中津川に架かる中津川橋があります。ここが、中津川宿の出口にあたります。

中津川橋を越えると駒場町です。ここから、名古屋方面の次の宿場である大井宿まで2里半だったそうです。

中津川宿を歩いているとき何回も目にしたポスターです。かつて、商業町、そして中山道の宿場町として栄えた中津川は、今度はリニア中央新幹線の走る町として発展していくのでしょう。すでに、2014年度工事に着工、中津川市の西に岐阜県の駅ができることが決まっています。中津川の人々がリニア新幹線に夢をかけるのも当然です。私も、世紀のリニア新幹線に夢をかける中津川の人々とともに、夢をはぐくんでいこうと思いました。